西暦(和暦) |
主要な出来事 |
関連人物・勢力 |
備考・典拠 |
1151-54年頃(仁平年間) |
藤原家成の孫・資高が羽床郷を領し、羽床氏を称する。 |
藤原家成、羽床資高 |
讃岐藤家の嫡流として始まる 1 。 |
1177-81年頃(治承年間) |
羽床資高(またはその子・重高)が羽床城を築城する。 |
羽床資高、羽床重高 |
讃岐における羽床氏の拠点となる 3 。 |
1221年(承久3年) |
承久の乱。羽床氏は後鳥羽上皇方につき敗北、没落する。 |
後鳥羽上皇 |
一方、幕府方についた同族の香西氏が台頭し、地位が逆転する 3 。 |
1574年(天正2年) |
羽床資載、舅として香西佳清に与し、三好長治勢と戦う。 |
香西佳清、三好長治 |
この時点では協力関係にあった 1 。 |
1578年(天正6年) |
香西佳清が資載の娘を離縁。両氏の関係が破綻し、内紛に発展。 |
香西佳清 |
この内紛で、資載の長男・資治が戦死する 8 。 |
1579年(天正7年)4月28日 |
長宗我部軍の先鋒と高篠郷で交戦し、これを撃破する。 |
長宗我部元親 |
『南海通紀』巻14「土州元親出陣讃州羽床記」に記載 10 。 |
1579年(天正7年)4月29日 |
長宗我部元親の本隊と交戦し、敗北。羽床城に籠城する。 |
長宗我部元親 |
元親自らが出陣するほどの重要拠点と見なされていた 10 。 |
1579年(天正7年)4月30日 |
香川信景の仲介により、長宗我部元親に降伏。 |
香川信景、長宗我部元親 |
次男・資吉を人質に出し、所領は安堵される 2 。 |
1582年(天正10年)7月20日 |
長宗我部軍の一員として、讃岐・西長尾に参集。那珂郡・鵜足郡へ進攻。 |
長宗我部元親、香川親和 |
長宗我部氏の讃岐平定戦に加わる 10 。 |
1582年(天正10年) |
十河城攻めの陣中にて病死。 |
十河存保 |
武勇を評価されていた資載の死は、元親にとって痛手であったと推察される 3 。 |
1585年(天正13年) |
豊臣秀吉の四国征伐。長宗我部氏が降伏し、讃岐は仙石秀久の所領となる。 |
豊臣秀吉、仙石秀久 |
羽床資吉は仙石秀久の配下となる 6 。 |
1586年(天正14年) |
戸次川の戦い。羽床資吉が島津軍との戦闘で討死。 |
仙石秀久、島津家久 |
長宗我部信親、十河存保らと共に戦死。これにより羽床氏の嫡流は断絶する 1 。 |
戦国時代の日本列島において、讃岐国(現在の香川県)は、長らく細川氏の守護体制下で比較的安定した秩序を保っていた。しかし、その均衡は畿内における三好氏の台頭、そして土佐国(高知県)から四国統一の野望を掲げる長宗我部元親の侵攻によって、激しい動乱の時代へと突き落とされる。本報告書が光を当てる羽床資載(はゆか すけとし)は、まさにこの激動期の讃岐に生きた国人領主である。
羽床資載の名は、讃岐の豪族、羽床城主として、長宗我部元親の猛攻に屈し、次男を人質として降伏した人物として、断片的に知られている 2 。また、その最期が、元親に従って十河存保の籠る十河城を攻略する陣中での病死であったことも伝えられる 3 。しかし、これらの事実は彼の生涯の断片に過ぎない。彼の行動の背後には、讃岐という地域社会の複雑な人間関係、とりわけ同族でありながら宿敵ともいえる香西氏との根深い確執が存在した。さらに、強大な外部勢力に直面した一国人領主として、一族の存続と武将としての矜持の間で下した苦渋の決断があった。
本報告書は、現存する史料や記録を丹念に読み解き、羽床資載という一人の武将の生涯を、讃岐という地域、そして戦国という時代の大きなうねりの中に位置づけることで、その実像を立体的に描き出すことを目的とする。彼の生涯は、単なる地方豪族の興亡史に留まらない。それは、伝統的な秩序が崩壊し、新たな権力構造が形成されていく過渡期において、国人領主たちが直面した普遍的な課題、すなわち「いかにして自家の存続を図り、時代の波に立ち向かうか」という問いに対する、一つの痛切な答えなのである。
羽床資載の行動原理を理解するためには、まず彼が背負っていた「羽床氏」という家の歴史的背景を深く掘り下げる必要がある。彼の生涯は、失われた栄光の記憶と、現実の勢力図との乖離という、一族が長年にわたり抱え続けた葛藤と無縁ではなかった。
羽床氏は、平安時代後期にその源流を持つ、讃岐でも屈指の名門武士団であった。その祖は、保安元年(1120年)に讃岐国司として赴任した藤原北家魚名流の公卿、藤原家成に遡る 2 。家成の孫にあたる資高が、仁平年間(1151年~1153年)に讃岐国阿野郡羽床郷(現在の香川県綾歌郡綾川町)の荘官となり、その地名を姓として「羽床」を名乗ったのが始まりとされる 1 。
この一族は「讃岐藤家」と総称され、羽床氏を嫡流として、資高の子らから新居氏、大野氏、豊田氏、柞田氏など、数多くの庶家が分出していった 2 。阿野郡を中心に勢力を広げた讃岐藤家は、鎌倉時代から室町時代を通じて讃岐の有力国人として、地域の歴史に大きな足跡を残す存在であった 12 。
しかし、羽床氏の輝かしい歴史は、承久3年(1221年)に勃発した承久の乱によって大きな転機を迎える。この全国規模の内乱において、羽床氏は後鳥羽上皇方に与して戦った。結果は幕府軍の圧勝に終わり、上皇方についた羽床氏は敗者としてその地位を大きく失墜させることになった 3 。
この時、羽床氏の運命と対照的な道を歩んだのが、同族の香西氏であった。香西氏の祖・資村は、羽床資高の四男・新居資光の子にあたる人物で、血筋としては羽床氏の分家筋に過ぎなかった 7 。しかし、彼は承久の乱で鎌倉幕府方について戦功を挙げた。その功により、香川・阿野両郡の郡司に任じられ、勝賀山に勝賀城を築いて新たな拠点を構えたのである 3 。
この出来事は、讃岐藤家内部の勢力図を根底から覆す「地位の逆転」をもたらした。本来嫡流であったはずの羽床氏が没落し、庶流であった香西氏が讃岐藤家の新たな盟主として台頭したのである。この三百数十年前に生じた歴史の屈折は、両家の間に消しがたい遺恨と対抗意識の火種を残した。羽床一族にとって、「失われた嫡流としてのプライド」は、代々の当主が背負う重い十字架となった。戦国時代に生きた羽床資載の行動を突き動かした根源的な動機の一つが、この歴史的背景に深く根ざしていることは想像に難くない。彼が後に見せる香西氏への激しい敵意は、単なる個人的な感情の発露ではなく、一族の積年の思いを代弁するものであった可能性が極めて高いのである。
承久の乱以降、香西氏の後塵を拝する形となった羽床氏であったが、完全に勢力を失ったわけではなかった。戦国時代においても、彼らは祖先が築いた羽床城を拠点として、中讃地域に一定の勢力を保持し続けていた。
羽床城は、現在の香川県綾歌郡綾川町に位置し、綾川南岸の標高約82メートル、比高約21メートルの独立した丘陵に築かれた平山城である 1 。城の中心部は、土塁で堅固に囲まれた本丸と二の丸から成り、その周囲には帯曲輪や水の手曲輪などが配置されていた 1 。小規模ながらも切岸は高く、空堀や土橋を組み合わせた防御機構を備えており、実戦的な城郭であったことがうかがえる 5 。
資載の時代、羽床氏は阿野郡、那珂郡、鵜足郡南部にまたがる地域に影響力を及ぼしていた。その配下には、羽床上城(同町羽床上)の今滝五郎左衛門や、後藤城(同町)の後藤国資といった「羽床七人衆」とも称される武将たちがいたとされ、地域の軍事連合において中核的な役割を担っていた 14 。この勢力基盤こそが、後に長宗我部元親という強大な外敵と対峙する際の力の源泉となったのである。
戦国末期、讃岐国人衆が直面した最大の脅威は、土佐の長宗我部元親であった。しかし、その脅威が現実のものとなる直前、羽床資載はそれ以上に根深く、そして悲劇的な内なる敵との戦いに身を投じていた。それは、同族でありながら宿敵でもある香西氏との破滅的な内紛であった。
興味深いことに、羽床資載と香西氏の関係は、当初から敵対的だったわけではない。むしろ、一時は緊密な協力関係にあった。当時の香西氏当主・香西佳清は、幼少で家督を継いでおり、資載は彼の舅として、また「陣代」として後見役を務めていた 2 。天正2年(1574年)には、佳清が阿波の三好長治と対立した際、資載は香西氏に与して共に戦っている 1 。
この協力関係は、表面的には讃岐藤家の一族としての結束を示しているように見える。しかし、その内実を鑑みれば、嫡流であるはずの羽床氏の当主が、勢力で勝る分家の当主の後見人という立場に甘んじなければならない、屈辱的な状況であったと解釈することも可能である。この歪な関係性は、些細なきっかけで容易に崩壊する脆さを内包していた。
そのきっかけは、天正6年(1578年)頃に訪れた。香西佳清が、一方的に資載の娘を離縁したのである 1 。この離縁の直接的な理由は定かではないが、背景には佳清が元亀元年(1570年)の野田城・福島城の戦いで病により失明していたこと 7 、そして「盲目の大将」を憂いた一族による内紛が香西家中で発生していたこと 7 など、複雑な事情が絡んでいたと推察される。しかし、理由が何であれ、この一方的な離縁は、資載にとって到底容認できるものではなかった。それは単なる家門の恥辱に留まらず、羽床氏が香西氏から受けた長年の屈辱の象徴であり、彼の内に秘められていた敵意を爆発させる引き金となったのである。
離縁を機に、資載は即座に反香西氏へと転じ、両家の間には武力衝突が発生した。この戦いは「香西内輪破れ」と呼ばれ 15 、讃岐の国人社会を大きく揺るがした。しかし、この戦いは資載に軍事的な勝利よりも、生涯癒えることのない深い傷をもたらす。戦いの最中、資載の長男であり、家督を継ぐはずであった羽床資治が討死するという、最大の悲劇に見舞われたのである 8 。
軍記物である『南海通紀』には、この時の資載の心情をうかがわせる記述がある。「嗣子忠兵衛尉(資治のこと)瀧宮にて鉄砲に中り死たるを憤て、香西家幕下の城主ともを悉く回文をなして我が党となす」 16 。後継者を失った資載の怒りと悲しみは、彼を弔い合戦へと駆り立てた。彼は香西方の城主であった滝宮氏や新名氏らを味方に引き入れようと画策し、報復として香西方の柾木城を攻め落としている 8 。
しかし、この勝利も虚しいものであった。嫡男の死という代償はあまりにも大きく、何よりもこの同族間の争いは、讃岐国人衆の結束を著しく弱体化させた 17 。そして、この内紛がもたらした戦略的な空白は、讃岐の地を虎視眈々と狙う外部の勢力にとって、またとない好機を提供することになる。資載が同族との争いに明け暮れていた天正6年(1578年)から翌年にかけて、土佐の長宗我部元親は着々と讃岐侵攻の準備を進めていた。資載の個人的な悲劇と復讐心は、結果として讃岐全体の戦略的脆弱性を生み出し、長宗我部氏という未曾有の脅威を呼び込む決定的な要因となってしまったのである。
羽床氏と香西氏の内紛によって讃岐国人衆の足並みが乱れる中、土佐の長宗我部元親はその好機を逃さなかった。土佐を統一し、阿波への影響力を強めていた元親にとって、次なる目標は讃岐の平定であった。天正7年(1579年)、ついにその猛威が中讃地域に襲いかかった。
天正7年(1579年)春、元親は西讃の諸城を次々と攻略し 18 、同年4月、満を持して1万2千ともいわれる大軍を中讃地域へと侵攻させた 15 。この圧倒的な軍事力に対し、中讃の国人衆は抵抗の意志を固める。その中心的な役割を担ったのが、羽床資載であった。
彼は、長尾高勝(西長尾城主)らと共に、那珂郡・鵜足郡・阿野郡南部の国人衆を糾合し、反長宗我部連合軍を形成した 15 。この連合軍には、資載の配下である造田宗俊(造田城主)や今滝五郎左衛門(羽床上城主)らも名を連ねていた 15 。しかし、彼らが動員できた兵力は、一説によればわずか750騎に過ぎず 19 、長宗我部軍との間には絶望的な兵力差が存在した。この戦いは、中讃の国人領主たちにとって、地域の独立を賭けた最後の組織的抵抗であり、羽床城はその攻防の最前線となった。
『南海通紀』巻十四「土州元親出陣讃州羽床記」は、この羽床城を巡る攻防戦の様子を詳細に伝えている 10 。その記述によれば、戦いは極めて激しいものであった。
天正7年4月28日、長宗我部軍の先鋒、石川氏、金子氏、新居氏らの伊予勢が、高篠郷(現在の香川県綾歌郡綾川町)に攻め寄せた。これを迎え撃った羽床資載は、寡兵ながらも奮戦し、見事に敵先鋒を打ち破るという勝利を収めている 10 。この一戦は、資載の武将としての優れた能力と、羽床軍の士気の高さを示すものであった。
しかし、この勝利も束の間であった。翌4月29日、先鋒敗北の報を受けた長宗我部元親は、自ら本隊を率いて出陣。高篠郷で再び両軍は激突した。元親本隊の猛攻の前に、さすがの羽床軍も支えきれず、資載は敗北を喫した 10 。彼は残存兵力をまとめて羽床城へと退き、籠城戦へと移行した。
ここから、羽床城の真価が問われることになる。長宗我部軍は、勢いに乗じて羽床城に八度にわたって猛攻を加えたと伝えられるが、資載と城兵はこれをことごとく撃退し、遂に城を落とすことを許さなかった 8 。この粘り強い抵抗は、敵将である元親をも感嘆させ、彼は資載の武勇を高く賞賛したという 8 。この攻防戦は、単なる一城の戦いではなかった。それは、元親にとって中讃攻略の成否を占う試金石であり、羽床城が陥落すれば、他の国人衆も雪崩を打って降伏することが目に見えていた。資載の奮戦は、まさに中讃における反長宗我部連合の「最後の砦」を守る戦いであったのである。
羽床城での激しい抵抗は、羽床資載の武名を高めたが、同時に戦況を好転させるものではなかった。圧倒的な兵力で城を包囲する長宗我部軍に対し、援軍の望みも薄い籠城戦を続けることには限界があった。資載は、武将としての矜持と、一族郎党、そして領民の未来を秤にかけ、極めて現実的な決断を下すことになる。
羽床城を力攻めで落とすことの困難さと、それに伴う自軍の損害を悟った長宗我部元親は、戦術を転換する。武力による殲滅ではなく、交渉による懐柔へと舵を切ったのである。彼は使者として、西讃の有力国人であり、既に長宗我部氏に臣従していた天霧城主・香川信景を羽床城へ派遣した 2 。
この人選は、元親の巧みな戦略眼を示すものであった。同じ讃岐の国人領主であり、資載とも面識があったであろう信景を仲介役に立てることで、資載の面子を保ち、降伏への心理的な障壁を低減させる狙いがあった。信景が伝えた元親からの降伏勧告の条件は、「城兵および領民の生命の安全を保証する」というものであった 8 。これは、抵抗を続ければ皆殺しもあり得るという脅しと、降伏すれば寛大な処置をとるという懐柔を巧みに組み合わせたものであった。
香川信景による説得と、これ以上の抵抗は無益であるという現実を前に、羽床資載はついに降伏を決断する。文献によれば、天正7年4月30日、彼は城を開き、長宗我部氏の軍門に降った 2 。この時、彼は降伏の証として、次男の羽床資吉を人質として差し出している 2 。長男・資治を同族との争いで失っていた資載にとって、残る男子を人質に出すことは、断腸の思いであったに違いない。
しかし、この降伏は単なる敗北ではなかった。資載の決断は、彼の武勇と羽床城の堅固さを元親に認めさせた上での「交渉による臣従」という側面が強い。その証左に、彼の所領は安堵され、羽床氏は引き続き旧領の支配を認められた 8 。これは、彼が単なる被征服者ではなく、長宗我部氏が今後讃岐を統治していく上で、有用な「協力者」として遇されたことを意味する。元親は、資載の武将としての能力を高く評価し、敵として滅ぼすよりも味方として活用する道を選んだのである 8 。
資載の降伏は、中讃における軍事バランスを不可逆的に崩壊させた。彼の決断は、この地域の趨勢を決定づける「ドミノの最初の一枚」となった。資載に続いて、長尾氏、滝宮氏、新名氏といった国人衆が相次いで元親に降伏し、中讃地域は完全に長宗我部氏の支配下に組み込まれていった 2 。資載は、武力で抵抗の限界を示した上で、自らの価値を交渉材料とし、一族と領民の被害を最小限に抑え、新たな支配体制の中で生き残るという、極めて現実的かつ戦略的な選択を行ったのである。彼は戦いには敗れたが、全てを失ったわけではなかった。
長宗我部氏への臣従は、羽床資載の武将としてのキャリアの終わりを意味するものではなかった。むしろ、彼は新たな主君の下で、その武勇を讃岐平定の総仕上げのために振るうことになる。しかし、その新たな戦いは、彼にとって最後の出陣となった。
降伏後、資載は長宗我部軍の有力な一員として、その軍事行動に参加する。天正10年(1582年)7月20日、長宗我部元親は讃岐平定の最終段階として、讃岐国西長尾に大軍を集結させた。この時、元親の次男で香川信景の養子となっていた香川親和を総大将とする1万2千の軍勢の中に、羽床資載もその名を連ねていた 10 。
同日、香川親和や羽床資載らが率いる長宗我部軍は、西長尾を発し、那珂郡・鵜足郡へと攻め入った 10 。これらの地域は、かつての羽床氏の勢力圏そのものであった。自らが治めていた地を、新たな主君の軍勢の将として進軍する資載の胸中には、万感の思いが去来したことであろう。これは、戦国の世の非情さと、国人領主が置かれた皮肉な立場を象徴する出来事であった。
この一連の軍事行動の最終目標は、当時、讃岐における反長宗我部勢力の最後の拠点となっていた十河城の攻略であった。十河城には、織田信長の後援を受け、阿波の中富川の戦いで元親に敗れて逃れてきた三好氏の残党・十河存保が籠城していた 21 。讃岐を完全に掌握するためには、十河城の攻略が不可欠であった。
長宗我部軍は十河城を包囲し、激しい攻防戦が繰り広げられた。資載もこの包囲軍の一翼を担い、奮戦したものと思われる。しかし、この十河城攻めの陣中において、資載は突如病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった 3 。天正10年(1582年)のことである。
その死は、あまりにも突然であった。武勇に優れ、讃岐の地理や国人衆の事情にも精通していた資載を、元親は讃岐攻略における重要な戦力と見なしていたはずである 8 。その期待の将が、志半ばで病に斃れたことは、元親にとって大きな計算違いであり、痛手であったと推察される。そして、この予期せぬ当主の死は、ようやく新たな支配者の下で安泰を得たかに見えた羽床氏の未来に、再び暗い影を落とすことになったのである。
父・資載の死は、羽床氏の運命を新たな局面へと導いた。家督は、長年人質として土佐にあった次男・資吉が継承したが、彼を待ち受けていたのは、父の時代とは全く異なる、より巨大で抗いがたい時代の奔流であった。
父・資載の急死に伴い、長宗我部氏への人質となっていた次男の羽床資吉が羽床城に戻り、家督を継承した 1 。彼がどのような思いで父の跡を継いだのか、史料は語らない。しかし、長年の人質生活を終え、ようやく故郷の領主となった彼の前途は、決して平坦なものではなかった。
天正13年(1585年)、中央の覇者となった豊臣秀吉が、弟の羽柴秀長を総大将とする大軍を四国へ派遣する(四国征伐)。長宗我部元親は抵抗するも、圧倒的な物量の前に降伏を余儀なくされた。これにより、讃岐は秀吉の家臣である仙石秀久の所領となり、羽床資吉は新たな領主・仙石氏の配下として組み込まれることになった 6 。主君が長宗我部氏から仙石氏へと変わったことは、羽床氏のような国人領主が、もはや自らの意志で運命を切り開くことができない存在へと変質したことを示していた。
資吉の運命を決定づけたのは、天正14年(1586年)に起きた戸次川の戦いであった。豊臣秀吉は、九州で勢力を拡大する島津氏を討伐するため、仙石秀久を軍監とする四国勢を先遣隊として豊後国(大分県)へ渡海させた。この軍勢には、長宗我部元親とその後継者・信親の親子、旧主・十河存保、そして羽床資吉も加わっていた 3 。
しかし、軍監である仙石秀久は、功を焦るあまり無謀な作戦を強行。豊後・戸次川において、島津家久の巧みな戦術の前に豊臣軍は壊滅的な大敗を喫した。この戦いで、長宗我部氏の将来を嘱望されていた信親、そして宿敵であったはずの十河存保といった四国の名だたる将星たちが次々と討死した。そして、この中に羽床資吉も含まれていた 1 。
この悲劇は、戦国時代の終焉と、それに伴う国人領主の存在意義の変質を象徴している。父・資載が戦ったのは、あくまで讃岐という「郷土」の存亡を賭けた戦いであった。敵は隣国の長宗我部氏であり、戦場も自らの領地周辺であった。それに対し、息子・資吉が命を落としたのは、故郷から遠く離れた九州・豊後の地であった。彼は羽床領の領主としてではなく、豊臣政権という中央集権体制下の「四国軍団」の一員として、天下統一戦争の駒として動員されたのである。彼の運命は、もはや羽床氏自身の戦略や判断ではなく、中央から派遣された指揮官の能力に完全に委ねられていた。この「戦いの意味」と「指揮系統」の劇的な変化に、時代の大きな転換が凝縮されている。
長男・資治は同族との内紛で命を落とし、次男・資吉は九州の地で戦死した。資載の二人の息子の死により、平安時代後期から四百数十年続いた讃岐藤家の嫡流・羽床氏の血筋は、ここに完全に途絶えた 2 。一族の終焉と共に、その拠点であった羽床城も廃城となり、歴史の表舞台から静かに姿を消したのである 1 。羽床氏の滅亡は、単なる一家の不運ではない。それは、旧来の国人領主たちが、近世的な中央集権体制という新しい時代に適応できずに淘汰されていく、歴史の必然的なプロセスの一つの典型例として、我々の記憶に刻まれている。
羽床資載の生涯は、戦国乱世の激動に翻弄されながらも、自らの矜持を貫き通そうとした一人の国人領主の軌跡として、鮮烈な印象を遺している。彼は、讃岐藤家の嫡流という、失われた栄光の記憶を背負い、そのプライドを傷つけた同族・香西氏との間に破滅的な内紛を引き起こした。この争いは、嫡男・資治を失うという個人的悲劇に留まらず、結果として長宗我部元親という強大な外部勢力の介入を招き、讃岐全体の運命を大きく左右する要因となった。
しかし、資載は単なる悲劇の主人公ではない。元親の圧倒的な軍勢に対しては、中讃の国人衆を率いて敢然と立ち向かい、その優れた武勇と羽床城の堅固さをもって、敵将・元親をも感嘆させるほどの粘り強い抵抗を見せた。彼の降伏は、力尽きての無条件降伏ではなく、自らの武将としての価値を交渉材料に、一族と領民の存続を確保するという、極めて現実的かつ戦略的な選択であった。所領を安堵され、長宗我部軍の有力な一翼として遇された事実は、彼が敗者でありながらも、その能力を高く評価されていたことを物語っている。
だが、彼の奮闘も、時代の大きなうねりの前には抗しきれなかった。十河城攻めの陣中での病没は、彼の武将としてのキャリアをあまりにも突然に断ち切り、羽床氏の未来にも暗い影を落とした。そして、その死後、家督を継いだ息子・資吉は、父の時代とは全く異なる、豊臣政権による天下統一という新たな奔流に飲み込まれる。故郷から遠く離れた九州・戸次川の地での彼の戦死は、羽床氏の嫡流を断絶させると同時に、地方の独立性が失われ、国人領主が中央権力の駒として消費されていく時代の到来を象徴していた。
羽床資載の生涯は、戦国乱世の只中で、地域の独立と一族の誇りを守ろうとした国人領主の気概と、巨大な歴史の転換点の前には抗しきれなかった悲哀の両面を、我々に強く示している。彼の名は、四国の片隅で繰り広げられた激しい生存競争の記憶と共に、戦国という時代の複雑さと非情さを伝える、一つの確かな痕跡として歴史に刻まれているのである。