戦国時代の九州南部、薩摩・大隅・日向の三国は、島津氏による統一事業を軸に、激しい興亡の歴史が繰り広げられた。その渦中にあって、島津氏の前に最大の障壁として立ちはだかった一人の武将がいる。大隅国の戦国大名、肝付良兼(きもつき よしかね)である。彼の名は、島津氏の輝かしい戦歴の影に隠れがちであるが、その生涯は、父・兼続から受け継いだ反骨の精神と、巧みな外交・軍事戦略によって、島津氏の三州統一を十数年にわたり遅滞させた、短くも鮮烈なものであった。
本報告書は、肝付良兼という人物の生涯を丹念に追うことを通じて、戦国期大隅半島における勢力争いの実像を深く掘り下げることを目的とする。彼の出自と一族が築いた勢力基盤、父の代に決定づけた島津氏との対立、そして良兼自身が主導した反島津連合の形成から、その早すぎる死がもたらした一族の急激な衰退までを、史料に基づき多角的に分析する。良兼を単なる島津氏への抵抗者としてではなく、大隅の独立をかけて戦った有能な戦国大名として再評価し、その存在が南九州の歴史に与えた重大な影響を明らかにする。
まず、本報告の理解を助けるため、肝付良兼の人物概要を以下に示す。
【表1:肝付良兼 人物概要】
項目 |
詳細 |
氏名 |
肝付 良兼(きもつき よしかね) |
生没年 |
天文4年(1535年)~元亀2年7月30日(1571年8月20日) 1 |
時代 |
戦国時代 |
父母 |
父:肝付兼続、母:御南(島津忠良の長女) 1 |
正室 |
高城(伊東義祐の長女) 1 |
子 |
満壽丸(夭折)、娘(伊地知重政室)、娘(肝付兼亮室) 1 |
本拠地 |
大隅国 高山城(現・鹿児島県肝付町) 5 |
官位 |
左馬頭、河内守 1 |
主な同盟相手 |
伊東氏、伊地知氏、禰寝氏 1 |
主な敵対相手 |
島津氏 8 |
肝付良兼の行動を理解するためには、まず彼が率いた肝付氏の歴史的背景と、その勢力基盤を把握する必要がある。肝付氏は、島津氏よりも古くから大隅国に根を張る土着の豪族であり、その強固な支配体制と経済力が、長期にわたる島津氏への抵抗を可能にした。
肝付氏の起源は、平安時代中期の安和元年(968年)、薩摩掾に任じられて下向した伴兼行に遡る 8 。その子孫は、大隅国最大の荘園であった島津荘の弁済使(荘官)として勢力を扶植し、長元9年(1036年)頃には肝付の地名を姓として名乗るようになった 8 。これは、鎌倉時代に源頼朝から地頭職を与えられて下向した島津氏よりも200年以上早い土着であり、肝付氏が自らを大隅の正統な支配者と自負する根拠となっていた。
南北朝の動乱期には、肝付氏は一貫して南朝方として行動し、北朝方についた島津氏と激しく対立した 8 。この時代に形成された敵対関係の記憶は、戦国期に至るまで両氏の間に根深く残り、領土問題をきっかけとして再び顕在化することになる。
肝付氏の支配の象徴であり、軍事的な中核であったのが、本拠地の高山城である。
高山城は、南九州特有のシラス台地の先端を巧みに利用して築かれた、広大な群郭式山城であった 6 。城域は南北550メートル、東西130メートルにも及び、本丸、二の丸、三の丸といった複数の曲輪が、深く鋭い空堀によって巧みに区画されていた 5 。天然の急崖と人工の防御施設が一体となったこの城は、まさに難攻不落の要塞であり、島津忠昌による攻撃(永正三年、1506年)をはじめ、幾度となく島津軍の猛攻を退けている 14 。約400年にわたり肝付氏18代の居城として機能した高山城は 14 、一族の権威と軍事力を支える揺るぎない基盤であった。
肝付氏は、単に軍事力に秀でていただけではなく、高度な領国経営システムを構築していた。鹿屋氏のような一族を家臣団の中核に据えつつ 18 、周辺の在地領主を「衆」として組織化し、独自の知行安堵状を発給するなど、自立した大名としての統治体制を確立していた 18 。
特に注目すべきは、肝付氏が独自の検地(土例)を実施していた点である。島津氏に提出された検地関連の史料には、肝付氏が作成した「差出し原案」が存在し、そこでは反当たりの石盛量や百姓の作得(取り分)などが詳細に規定されている 19 。これは、肝付氏が石高制に基づいた体系的な徴税システムと、領国を正確に把握する行政能力を有していたことを示す動かぬ証拠である。
肝付氏の勢力拡大と長期にわたる島津氏への抵抗を財政的に支えたのが、国際貿易港・志布志津(しぶしつ)の支配であった。良兼の父・兼続が永禄5年(1562年)に豊州島津氏から志布志城を奪取し、良兼がそこに入城したことは 20 、一族の運命を左右する戦略的成功であった。
志布志は古くから日向国島津荘の外港として栄え、戦国時代には中国(明)や東南アジア、琉球との交易拠点として大きな富を生み出していた 21 。志布志城跡からの出土品には、中国の青磁や白磁、朝鮮やタイの陶磁器、そして明の永楽通宝などが含まれており、その国際交易港としての繁栄ぶりを物語っている 22 。
この志布志津からの莫大な貿易収入こそが、肝付氏が島津氏という強大な敵に対し、互角の戦いを長期間にわたって継続できた最大の要因であったと考えられる。軍事力だけでなく、豊かな経済力に裏打ちされた肝付氏の存在は、島津氏にとって極めて厄介なものであった。
肝付良兼が家督を継承する以前、父である第16代当主・肝付兼続の時代に、島津氏との関係は決定的に破綻し、全面戦争へと突入した。この時代の動向が、良兼の生涯を方向づけることになる。
【表2:肝付・島津・伊東 関係年表(永禄年間中心)】
年代(西暦) |
肝付氏の動向 |
島津氏の動向 |
伊東氏の動向 |
永禄元年 (1558) |
兼続、伊東氏と連携し、志布志を攻撃 3 。 |
島津忠親と交戦。 |
肝付氏と同盟し、島津方と争う 3 。 |
永禄4年 (1561) |
兼続・良兼、島津方の廻城を攻略。竹原山の戦いで島津忠将を討ち取る 24 。 |
貴久、弟・忠将を失い、肝付氏と全面対決へ。四男・家久が初陣 7 。 |
飫肥を巡り島津豊州家と交戦を再開 4 。 |
永禄5年 (1562) |
良兼、志布志城に入城。肝付氏の領国が最大となる 20 。 |
豊州島津氏が志布志城を失う。 |
飫肥の完全領有に成功するも、すぐに奪還される 4 。 |
永禄9年 (1566) |
兼続、島津軍の反攻で高山城が落城し、直後に死去(自害説あり) 1 。 |
貴久、反攻に転じ高山城を攻略。 |
飫肥城への攻撃を受け、養子縁組が白紙に 26 。 |
兼続の治世初期、肝付氏と島津氏は複雑な婚姻関係で結ばれていた。兼続は島津本宗家の実力者であった島津忠良の長女・御南(おなみ)を正室に迎え、さらに自身の妹(花室清忻)を忠良の子・島津貴久に嫁がせていた 3 。この二重の姻戚関係は、島津一族内部の抗争が続く中、両家の安定を図るための戦略的な選択であった。
しかし、大隅半島における領土拡大を目指す両者の利害は、やがて衝突を避けられないものとなる。後世の創作として有名な「鶴の吸い物事件」(宴席で出された鶴の吸い物をめぐり、肝付氏の家紋を侮辱されたと家臣の薬丸兼将が激怒したという逸話)は史実ではないが 27 、両家の家臣団レベルで根深い対立感情が存在したことを示唆している。現実の決裂点となったのは、永禄4年(1561年)の廻城(めぐりじょう)攻略であった 3 。
永禄4年、兼続と良兼は、島津氏に従属していた廻氏の当主が病で失明したという弱点に乗じ、その居城である廻城を電撃的に攻略した 24 。これは、それまでの防衛的な姿勢から、島津氏の勢力圏へ積極的に切り込む攻勢への転換を示す、極めて大胆な軍事行動であった。
この暴挙に対し、島津貴久は激怒。自ら出陣するとともに、嫡男・義久、四男・家久(この戦いが初陣となった)、そして実弟で猛将として知られた島津忠将(ただまさ)を投入し、まさに島津一族の総力を挙げた陣容で廻城奪還に乗り出した 7 。
両軍は廻城近郊の竹原山で激突する。この戦いで肝付軍は巧みな伏兵戦術を駆使した。島津軍の主力を引きつけると、別動隊が手薄になった島津忠将の本陣を急襲。激戦の末、忠将を討ち取るという大金星を挙げた 24 。島津宗家の一門、それも貴久の弟を討ち取ったという事実は、肝付氏の武威を薩摩・大隅・日向の三国に轟かせると同時に、島津氏に深刻な衝撃と動揺を与えた。この戦いには良兼も父・兼続とともに参陣しており、若き日にして島津氏に対する輝かしい勝利を経験したのである 24 。
廻城の戦いでの勝利の勢いを駆り、兼続は翌永禄5年(1562年)、長年の係争地であった志布志を豊州島津氏から奪取し、良兼を入城させた 20 。これにより、肝付氏の領国は高山、吾平から志布志、大崎にまで及び、その石高は十数万石に達したと推定される 5 。大隅半島のほぼ全域を支配下に収め、一族の歴史上、最大の版図を現出したのである。
兼続は天文22年(1553年)に形式上は良兼に家督を譲り隠居していたが、その後も実権は握り続けていた 2 。しかし、新たに獲得した志布志城を自らの隠居城とし 3 、良兼が本拠地である高山城で政務を執るという体制は、父から子への実質的な権力移譲が着実に進行していたことを示している。良兼は、父が築き上げたこの最大版図と、島津氏との全面対決という重い遺産を、まさに引き継ごうとしていた。
父・兼続の死は、肝付氏にとって大きな打撃であったが、それは同時に良兼の時代の幕開けを意味した。彼は父の遺志を継ぐだけでなく、より積極的に島津氏への対抗策を打ち出し、南九州の勢力図を塗り替えようと試みた。
永禄9年(1566年)、島津貴久の本格的な反攻により高山城は一時的に陥落し、その直後に父・兼続は死去した 1 。この危機的状況の中で、良兼は名実ともに肝付家の全権を掌握する。父の死という逆境にも屈せず、彼は家中の動揺を収めると、2年後の永禄11年(1568年)には本格的な反攻作戦を開始した 1 。これは、良兼が単なる跡継ぎではなく、自らの明確な意志を持って対島津強硬路線を推進する、主体的な指導者であったことを示している。
良兼の戦略の根幹は、軍事力のみに頼るのではなく、巧みな外交によって島津氏を包囲することにあった。
良兼は、日向国で島津氏と覇を競っていた伊東義祐の長女・高城(たかじょう)を正室として迎えた 1 。これは父の代からの伊東氏との連携を、血縁によってさらに強固なものにするための決定的な一手であった。これにより、肝付氏と伊東氏は、大隅・日向の両方面から島津氏を挟撃する態勢を整えた。
さらに良兼は、大隅半島内の有力国人である垂水の伊地知重興、根占(ねじめ)の禰寝重長らと連携し、反島津を旗印とする一大連合体を形成した 7 。この「大隅三国同盟」において、良兼は軍事力、経済力、そして伊東氏との強固なパイプを背景に、盟主として中心的な役割を担っていた。彼の存在は、利害が必ずしも一致しない国人衆を一つに束ねる「要石(キーストーン)」であった。
永禄11年(1568年)、良兼は再構築した包囲網を早速行動に移す。伊東氏と共同で、島津氏の日向における重要拠点・飫肥城を攻撃し、島津軍を撃退することに成功した 1 。この勝利は、良兼が主導する反島津連合が実戦で有効に機能することを証明し、島津氏に大きな脅威を与えた。
そして元亀2年(1571年)、良兼の軍事指導者としての資質が最も発揮される最後の戦いが訪れる。同盟者である伊地知重興が島津軍の攻撃を受けた際、良兼は即座に救援の兵を率いて出陣し、見事に島津軍を撃退した 1 。これは、同盟の盟主としての責任を果たす迅速な行動であり、連合の結束を維持しようとする彼の強い意志の表れであった。
しかし、この勝利の栄光は長くは続かなかった。伊地知氏救援の戦いの直後、良兼は陣中にて病に倒れ、急死する 1 。享年37。あまりにも早すぎる、壮年の死であった。
良兼の死は、単に一人の有能な武将がこの世を去ったという事実以上の、破壊的な影響を南九州にもたらした。彼という要石を失ったことで、精緻に組み上げられた反島津連合という構造物は、一挙に崩壊の危機に瀕することになる。良兼の死は、肝付氏にとっての悲劇であると同時に、島津氏にとっては三州統一事業における最大の障害が自壊した、まさに天佑とも言うべき出来事であった。彼の死が、その後の南九州の勢力図を不可逆的に塗り替える、歴史の決定的な転換点となったのである。
肝付良兼の突然の死は、彼が築き上げた反島津連合の崩壊を招き、肝付氏そのものを滅亡の淵へと追いやった。外部からの圧力に加え、内部からの崩壊がその運命を決定づけた。
良兼には嫡男・満壽丸がいたが、夭折していた 1 。そのため、家督は良兼の弟である兼亮(かねすけ)が、良兼の娘を娶って娘婿という形で継承するという、変則的なものとなった 1 。この不安定な継承形態は、家中の権力基盤が盤石でなかったことを示唆している。
兼亮は、父・兼続や兄・良兼の遺志を継ぎ、島津氏への抵抗路線を継続しようとした 8 。しかし、この方針は家中を二分する深刻な対立を引き起こす。天正元年(1573年)、ついに親島津派によるクーデターが勃発し、兼亮は当主の座を追放されるに至った 8 。
この内紛を主導したのは、驚くべきことに兼亮の義母であり、良兼の実母である御南であった 8 。彼女は島津忠良の娘、すなわち島津貴久の姉であり、その出自から親島津の立場にあった。御南は、もはや勝ち目のない戦いを続けて一族を滅亡させるよりも、強大な実家である島津氏に臣従することで家名を存続させるべきだと判断したのである。彼女は薬丸兼将ら親島津派の家臣と結託し、反島津を掲げる兼亮を追放するという、苦渋の、しかし冷徹な決断を下した。
この出来事は、戦国時代の婚姻同盟が持つ「諸刃の剣」としての側面を浮き彫りにする。対外的には伊東氏との同盟を強化した良兼の婚姻(妻は高城)であったが、対内的には、肝付家の中に「島津派(母・御南)」と「伊東派(妻・高城)」という二つの派閥を生み出す時限爆弾を内包していた。良兼という強力な指導者がいる間はその対立が抑えられていたが、彼の死と共に爆発したのである。外交の切り札が、結果的に一族を内側から崩壊させる要因となった皮肉な結末であった。
肝付氏の内部崩壊は、ドミノ倒しのように反島津連合の瓦解を招いた。中核を失った連合に未来はないと見た禰寝重長は、いち早く島津氏と単独で和睦を結び 32 、続いて伊地知重興も降伏した 33 。良兼が心血を注いで築き上げた包囲網は、完全に消滅した。
御南らによって新たに当主に据えられた肝付兼護は、天正2年(1574年)、ついに島津氏に正式に臣従した 8 。これにより、平安時代から大隅に君臨した戦国大名・肝付氏は、事実上滅亡した。
当初は本拠地である高山領の安堵は認められたものの、それも長くは続かなかった。天正8年(1580年)、肝付氏は高山領を没収され、薩摩国日置郡阿多(あた)への移封を命じられる 6 。これにより、400年以上にわたる大隅半島での支配に終止符が打たれ、完全に島津氏の家臣団の一員として組み込まれることとなったのである。
肝付良兼の生涯は、わずか37年という短いものであった。しかし、その治世は戦国期南九州の勢力図に強烈なインパクトを与え、島津氏の三州統一という巨大な歴史の潮流に最後まで抗った、大隅の独立精神の象徴として評価されるべきである。
良兼は、単に父の路線を継承しただけの武将ではない。父・兼続が築いた最大版図と志布志津という経済基盤を巧みに活用し、伊東氏との婚姻同盟を軸とした外交戦略で反島津連合を再構築した、有能な戦国大名であった。彼の軍事的成功は、島津氏の南九州平定を遅らせた最大の要因であり、もし彼が長命であったなら、あるいは確固たる後継者に恵まれていたならば、その後の九州の歴史は大きく異なる様相を呈していた可能性すらある。彼の早すぎる死は、島津氏にとっては最大の幸運であり、大隅の諸豪族にとっては致命的な打撃であった。
大名としての肝付氏は滅びたが、その家名は島津家臣として存続した 8 。そして、彼ら一族の記憶は、今なお故地である肝付町に息づいている。良兼を含む肝付氏歴代当主が眠る菩提寺・盛光寺跡には、数多くの墓石が立ち並ぶ 1 。これらの石塔群は、明治時代の大規模な土砂崩れによって多くが埋没していたが、近年の発掘調査によって100基以上が発見・整備され、往時の姿を取り戻しつつある 39 。この静かな墓所は、かつて大隅に君臨し、強大な島津氏に屈することなく戦い続けた一族の誇りと、その中心にいた風雲児・肝付良兼の激動の生涯を、数百年の時を超えて現代に伝えている。