花房正幸
花房正幸は宇喜多氏重臣。弓の名手で、細川幽斎から古今伝授を受けた文武両道の将。主家を支え、その忠義は子孫に継承された。

備前の麒麟児、花房正幸 ―武と文、忠義に生きた生涯の徹底的考察―
序論:戦国乱世における理想の武人像
戦国時代という激動の時代は、数多の武将を歴史の表舞台に登場させた。その多くは武勇や知略によって名を馳せたが、武人としての力量に加え、深い文化的教養を兼ね備え、さらに主家への揺るぎない忠義を貫いた人物となると、その数は限られる。本報告書が主題とする花房正幸(はなぶさ まさよし)は、まさにその稀有な武将の一人である。備前国の戦国大名・宇喜多氏の重臣として、主君・直家の創業期を支えた彼は、後世に「智勇兼備の名将」と称された 1 。
彼の人物像を特徴づける二つの側面は、武芸における卓越した技量と、文化における深い造詣である。一つは「弓の名手」としての武勇伝であり、これは単なる戦闘技術の高さに留まらず、武家の棟梁としての権威と秩序維持能力を象徴するものであった 2 。もう一つは、当代随一の文化人であった細川幽斎(藤孝)から和歌の秘伝「古今伝授」を受けたという事実である 1 。これは、武家社会において極めて高い政治的・社会的価値を持つ文化的権威の証明に他ならなかった 4 。
しかし、花房正幸その人の生涯を直接的に詳述する一次史料は、必ずしも豊富とは言えない。彼の事績は、軍記物語や後世の編纂物の中に断片的に記されることが多い。一方で、その嫡男である花房正成(まさなり)については、比較的詳細な記録が残されている 5 。この史料状況を踏まえ、本報告書では、正幸個人の記録を丹念に追うだけでなく、息子・正成の行動や決断、そして彼が貫いた忠義のあり方を鏡として、父・正幸の晩年の思想や花房家の家風を逆照射する分析手法を積極的に用いる。
本報告書は、花房氏の出自の謎から、宇喜多家中での活躍、武人・文化人としての側面、そして宇喜多家の動乱期における花房父子の動向と、その後の徳川の世への適応までを多角的に検証する。これにより、単なる一地方武将の伝記を超え、花房正幸という人物の全体像を、戦国から江戸初期へと至る時代の大きな文脈の中に立体的に再構築することを目的とする。
第一章:花房氏の出自と正幸の登場
花房正幸の生涯を理解する上で、まず彼が属した花房一族の出自と、彼が歴史の舞台に登場するまでの経緯を明らかにせねばならない。その出自には、江戸時代の公式見解と、それに疑義を呈する見解とが存在し、戦国期に実力で台頭した武家の典型的な姿を映し出している。
第一節:揺れる出自 ―清和源氏か、備前の土豪か
江戸時代に徳川幕府の大身旗本として存続した花房家が公式に呈上し、『寛政重修諸家譜』に記載された系譜によれば、その祖は常陸国久慈郡花房郷(現在の茨城県)を領した清和源氏足利氏の一門、上野義弁の子・花房職通であるとされる 1 。これは、花房氏が由緒正しい名門の出であることを示すものであり、江戸幕府の権威のもとで公認された系譜であった。
しかし、この公式見解に対しては、後世の研究において強い疑義が呈されている。その根拠として、花房氏が常陸国に居住したという確たる史料的形跡が見当たらないこと、そして『尊卑分脈』のような信頼性の高い中世の系図資料に、上野義弁の子として「職通」なる人物や「花房」という苗字が確認できないことが挙げられる 9 。これらの点から、清和源氏を祖とする系譜は、江戸時代に旗本としての家格を権威づけるために創出された「仮冒(かぼう)」、すなわち偽りの出自を称したものである可能性が高いと指摘されている 7 。
この出自に関する矛盾は、単に真偽を問う問題に留まらない。むしろ、下剋上が常であった戦国時代に実力でのし上がった武家が、安定した支配体制を築く過程で、自らの権威を補強するために名門の系譜を借用・創出するという、当時の社会に広く見られた現象の一例として捉えるべきである。花房氏の歴史的な実像は、備前国や美作国を拠点とした在地領主、すなわち土豪の一族であったか 10 、あるいは備前の守護赤松氏の被官であった浦上氏に仕える武士であった可能性が高いと考えられる 7 。
第二節:宇喜多直家への仕官と創業期の活躍
花房正幸が歴史の表舞台に明確に姿を現すのは、天文年間(1532年~1555年)のことである。彼は播磨国から備前国へ移り、当時、主君であった浦上宗景のもとで頭角を現しつつあった宇喜多直家に仕えた 1 。直家は、主家や舅、縁者さえも謀略を用いて次々と滅ぼし、一代で備前・美作に覇を唱えた人物であり、後世「戦国三大梟雄」の一人に数えられるほどの策謀家であった 11 。
そのような直家が、正幸を重臣として抜擢した事実は、正幸が単に武勇に秀でていただけではなく、直家の複雑な戦略を深く理解し、忠実に実行できるだけの知略と判断力を兼ね備えていたことを示唆している。事実、直家は敵対者には冷酷非情であったが、一度味方に取り込んだ譜代の家臣は手にかけることなく大切にしたと伝えられており 14 、正幸は、岡利勝、長船貞親、戸川秀安といった面々と共に、直家の「国盗り」を支える中核的な家臣団の一翼を担う存在となった 15 。
その功績により、正幸は宇喜多氏の勢力拡大に大きく貢献し、備前国邑久郡の虫明城主に任じられ、1万8,000石という大禄を領するに至った 1 。これは、宇喜多家中において彼が軍事的にも政治的にも極めて重要な地位を占めていたことの証左である。出自の不確かさを乗り越え、実力一つで梟雄・直家の信頼を勝ち取り、その創業を支えたことこそ、花房正幸の武将としての原点であった。
第二章:智勇兼備の将 ―武人としての花房正幸
花房正幸の評価として最も広く知られているのが「智勇兼備の名将」という言葉である 1 。彼の武人としての側面は、居城とした虫明城の戦略的重要性と、彼の武勇を象徴する「弓の名手」としての伝説に集約される。これらは、単なる個人の武技に留まらず、彼の統治者としての能力と権威を裏付けるものであった。
第一節:虫明城主としての統治
正幸が城主を務めた虫明城は、現在の岡山県瀬戸内市邑久町虫明に位置し、瀬戸内海に面した虫明湾の北側、標高127メートルの城山に築かれた山城であった 17 。この地域は、古代より海上交通の要衝であり、また製塩業が盛んな経済的に豊かな土地であった 19 。瀬戸内海は、西国と畿内を結ぶ大動脈であると同時に、海賊の活動拠点でもあり、この地を抑えることは軍事的にも経済的にも極めて重要であった。
虫明城は、もともと在地領主の虫明氏が居城としていたが、天正年間(1573年~1592年)に宇喜多直家によって攻め滅ぼされ、その戦功により重臣である正幸に与えられたと伝えられる 18 。これは、直家の領土拡大の過程における典型的な論功行賞であり、正幸がこの戦略的要地を任されるに足る信頼と実力を有していたことを示している。城の遺構を見ると、大規模な石垣や堀切といった人工的な防御施設は少なく、ゴツゴツとした岩山の天然の要害を巧みに利用した城であったことがわかる 18 。この事実は、城主である正幸が、城の物理的な堅固さ以上に、自身の武威と統率力をもってこの地を支配し、海運の監視や地域の経済活動を掌握していたことを示唆している。
第二節:「弓の名手」の伝説と現実
花房正幸の武勇を最も鮮やかに伝えるのが、弓の名手としての数々の逸話である。特に有名なのが、播磨灘を船で航行中に海賊に襲われた際のエピソードである。多勢に無勢で矢も尽きかけて絶体絶命の窮地に陥る中、正幸は冷静に機を窺い、最後の一矢で敵の頭領を見事に射抜いて撃退したと伝えられている 1 。この逸話は、おそらく『備前軍記』などの軍記物語を通じて広く流布し、彼の勇名を不動のものとした。
この物語は、単なる武勇伝としてのみ解釈すべきではない。まず、瀬戸内海に面した虫明の城主が海賊と遭遇するという設定は地理的に極めて自然であり、物語に強いリアリティを与えている。そして、極限状況下での冷静な判断力と卓越した弓の技術を描くことで、「智勇兼備」という彼の評価を具体的に補強している。さらに、領内の秩序を乱す海賊という無法者を、領主自らが討伐する姿は、領民に対して彼の支配の正当性と権威を示す、一種のプロパガンダとしても機能したと考えられる。
戦国時代において、弓術は極めて重要な意味を持っていた。鉄砲が伝来し普及した後も、その静粛性、連射性、悪天候下での信頼性から、依然として戦場の主要な武器の一つであり続けた 22 。特に、正幸が活躍した時代は、日置流の登場によって歩兵戦闘における実戦的な弓術(武射)が飛躍的に発展した時期と重なる 2 。彼の弓の技は、戦場における高い戦闘能力の直接的な証明であった。
同時に、弓術は単なる戦闘技術(武射)に留まらず、武家の棟梁の権威を象徴する儀礼的な側面(文射)をも併せ持っていた 2 。年の初めに邪気を払うために行われる的始(まとはじめ)などの儀式や、「弓取り」という言葉が有力な武将や大名を指す尊称として用いられたように 24 、弓に秀でているという評判は、武人としての名声と社会的地位を著しく高める効果があった。正幸の「武」は、領地を安定させ経済的繁栄を保障するための「統治」の手段そのものであり、彼の武人としての名声は、その支配を盤石にするための無形の力となっていたのである。
第三章:文雅の道 ―文化人としての花房正幸
花房正幸の人物像を特異なものにしているのは、第二章で詳述した武人としての側面に加え、当代一流の文化人としての顔を併せ持っていた点である。その象徴が、和歌の最高権威である「古今伝授」を、その第一人者である細川幽斎から受けたという事実である。これは、一地方武将の個人的な趣味の域を遥かに超え、戦国武家社会における文化の政治的価値を雄弁に物語るものである。
第一節:細川幽斎と「古今伝授」
正幸に古今伝授を授けた細川幽斎(藤孝)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、武将、大名、そして歌人として類稀な生涯を送った人物である 26 。足利義輝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という時の天下人に仕え、武将として数々の戦功を挙げる一方、和歌や連歌、茶道、剣術、さらには囲碁や料理に至るまで諸芸に精通した、まさに「知勇兼備」を体現する当代随一の文化人であった 27 。
幽斎が継承した「古今伝授」とは、『古今和歌集』の難解な語句の解釈や歌にまつわる故実などを、師から弟子へと秘伝として伝えるものであった 29 。これは単なる学問や文芸の知識ではなく、歌道の正統な継承者であることの証明であり、文化的世界における最高の権威と見なされていた。その権威のほどは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦である田辺城の戦いにおいて、籠城する幽斎が戦死することで古今伝授の血脈が断絶することを恐れた後陽成天皇が、勅命を発して両軍に講和を命じ、幽斎の命を救ったという逸話からも窺い知ることができる 27 。
このような文化的権威は、乱世を生きる武将たちにとって、極めて重要な「政治的資本」であった。武力による支配だけでなく、朝廷の権威に連なる伝統的な文化の教養を身につけることは、家臣団や一門の結束を固め、他大名との交渉を有利に進め、ひいては自らの家の格を高めるための不可欠な要素だったのである 4 。
第二節:一介の武将が受けた秘伝の謎
複数の資料が、花房正幸がこの細川幽斎から古今伝授を受けたと一致して伝えている 1 。これは驚くべき事実である。なぜなら、幽斎の門人には、八条宮智仁親王のような皇族や、烏丸光広といった公家、あるいは島津義久のような大名クラスの人物が名を連ねており 32 、備前の一家臣に過ぎない正幸が、いかにしてこの高貴な文化人のサークルに加わることができたのか、その具体的な経緯は謎に包まれているからである。
提示された資料群の中には、正幸と幽斎の接点を直接的に示す一次史料は見当たらない。しかし、いくつかの可能性を考察することはできる。宇喜多氏が織田信長の勢力下に入り、中央政界との接触が生まれた時期に、主君・直家やその子・秀家の名代として上洛した際に知遇を得た可能性。あるいは、当時、武将たちの間を繋ぐ役割を果たしていた茶人や連歌師といった文化人のネットワークを介して紹介された可能性も考えられる。
この謎を解く鍵は、古今伝授を正幸個人の文化的欲求の充足としてのみ捉えるのではなく、彼が仕えた宇喜多家の戦略という視点から見ることにある。宇喜多直家は、一代で成り上がった新興大名であり、伝統的な権威や家格という点では、他の名門大名に及ばないという弱みを抱えていた。この弱点を補い、宇喜多家全体の文化的格付けを向上させるために、家臣の中でも特に教養の深い正幸に「文化的投資」として古今伝授を受けさせたのではないか。そう考えれば、この異例の師弟関係は、宇喜多家の高度な政治戦略の一環として理解することができる。正幸の古今伝授は、彼個人の栄誉であると同時に、主家である宇喜多家の権力基盤を文化面から強化するという、重要な使命を帯びたものであった可能性が極めて高い。
こうして正幸は、戦場で頼りになる「武」の将であると同時に、中央の最高文化人と交流し、和歌の秘奥を授かるほどの「文」の教養人でもあった。この「文武両道」の完成は、彼が宇喜多家臣団の中で、そしておそらくは周辺諸大名の間でも、一目置かれる特別な存在であったことを強く示唆している。彼の存在は、宇喜多家の対外的な「顔」としての役割も担っていたに違いない。
第四章:隠棲、そして花房家のその後
花房正幸が築き上げた武と文の名声は、彼の晩年から嫡男・正成の時代にかけて、花房家が戦国乱世の終焉という最大の激動期を乗り越えるための礎となった。主家である宇喜多家の内紛と改易、そして徳川の世の到来という荒波の中、花房父子の軌跡は、忠義と家の存続という武士の根源的な価値観を浮き彫りにする。
第一節:嫡子・正成への家督相続と正幸の晩年
花房正幸の嫡男・正成は、弘治元年(1555年)に生まれ、幼少期から父と同じく宇喜多直家に仕えた 5 。天正10年(1582年)、織田信長の中国攻めに際して起きた備中高松城の戦いにおいて、正成は宇喜多軍の将として参陣し、大きな功績を挙げたとされる 5 。この戦いの後、羽柴秀吉からその軍功を賞され、正成は父から家督を継承し、備中高松城主として3万1,000石を与えられた 5 。この時点で正幸は家督を譲り、隠居の身になったと考えられる。
正幸は晩年、息子・正成の領地である備中高松に隠棲した 1 。そして慶長10年(1605年)6月22日、高松城にて82歳の天寿を全うした 1 。彼の死は、関ヶ原の戦い(1600年)によって主家・宇喜多家が改易され、息子・正成が徳川家康に仕えて旗本となる(1602年)という一連の激動をすべて見届けた後のことであった。
第二節:激震「宇喜多騒動」と花房正成の苦渋の決断
正幸が隠居して間もない慶長4年(1599年)、宇喜多家は存亡の危機に瀕する内紛、いわゆる「宇喜多騒動」に見舞われる 36 。その原因は複合的であった。豊臣秀吉の死後、若き当主・宇喜多秀家が重用した中村次郎兵衛といった新参の側近たちと、父・直家の代から仕える花房正成や戸川達安ら譜代の重臣たちとの間で深刻な対立が生じた 36 。また、秀家の奢侈な生活や、家臣団内部におけるキリスト教徒と熱心な日蓮宗徒との宗教的対立も、亀裂を深める要因となった 37 。さらに、この混乱の背後には、豊臣政権内の有力大名を弱体化させ、天下統一の好機を窺う徳川家康の巧みな調略があったとする見方も有力である 38 。
この未曾有の危機に際し、花房正成は、戸川達安、岡貞綱、そして秀家の従兄弟である坂崎直盛(宇喜多詮家)らと共に、騒動の中心人物の一人となった。彼らは秀家の統治に強く反発し、ついに主君のもとを出奔するという、極めて重大な決断を下した 16 。これは、宇喜多家の創業以来、一貫して忠誠を尽くしてきた花房家にとって、苦渋に満ちた選択であったに違いない。
この騒動は、徳川家康や大谷吉継らの仲介によって一旦は収束に向かうが、その結果として正成をはじめとする多くの有能な譜代重臣が宇喜多家を永久に去ることになった。これにより、宇喜多家の軍事力と政治的結束力は、関ヶ原の戦いを目前にして著しく削がれ、その後の滅亡の遠因となったのである 36 。
第三節:徳川の旗本へ ―新時代への適応と旧主への忠義
宇喜多家を出奔した正成は、関ヶ原の戦いでは東軍に与したと見られるが、旧主・宇喜多家が西軍の主力として敗れ改易されると、それに連座する形で一時浪人の身となった 34 。しかし慶長7年(1602年)、正成は徳川家康自らに召し出され、備中国猿掛(現在の岡山県矢掛町)において5,000石の知行を与えられ、江戸幕府の直臣である旗本(寄合席)に取り立てられた 5 。これは、家康が宇喜多家の旧臣の中でも特に実力と名声のある人物を取り込むことで、西日本の安定化を図った深謀遠慮の一環であった。こうして花房氏は、戦国大名の家臣から近世の幕府直臣へと、その立場を劇的に転換させ、新たな時代を生き抜く道を見出した。
注目すべきは、その後の正成の行動である。幕府の旗本という安定した地位を得ながらも、彼は八丈島に流罪となった旧主・宇喜多秀家とその一族に対し、生涯にわたって経済的な援助を送り続けたのである 5 。この援助は、秀家の正室・豪姫の実家である加賀前田家と共に、幕府の公認のもとで続けられた 37 。そして元和9年(1623年)に69歳で亡くなる際、正成は「花房の家名が続く限り、宇喜多の一族を援助し続けるように」と遺言したと伝えられている 5 。
この一連の行動は、一見すると矛盾しているように映るかもしれない。主君のやり方に異を唱えて家を出た人物が、なぜ滅びた主家を支え続けるのか。しかし、ここには戦国武士の高度な倫理観が示されている。正成の忠誠は、秀家という「個人」の判断に対しては諫言も辞さず、時には離反という手段さえ取るが、宇喜多「家」そのものへの恩義と忠義は決して忘れない、というものであった。この「家」を重んじる精神こそ、まさしく宇喜多家の創業を命がけで支えた父・正幸から受け継いだ、花房家の核となる価値観であった。隠居の身であった正幸が、息子のこの苦渋の決断と、その後の忠義を貫く生き様を、どのような思いで見守っていたかは史料にない。だが、父が築いた「武」と「文」における名声が、息子が新時代を生き抜く上での無形の資産となったことは間違いないだろう。
結論:時代を体現し、次代へ繋いだ武士の鑑
本報告書を通じて多角的に検証してきた花房正幸の生涯は、彼が単なる弓の名手、あるいは一人の風流な文人という評価に留まらない、より複合的で深い人物像を我々に提示する。彼は、実力主義が支配する戦国の気風の中で頭角を現し、主家・宇喜多氏の創業を支える揺るぎない忠誠心を示し、卓越した武勇によって領地の安定を確保し、そして中央の高度な文化を戦略的に取り入れることで家の格を高めるという、戦国後期における理想的な武将像を体現した人物であった。
正幸が築いた「武」と「文」の強固な基盤は、息子・正成の代に、主家の内紛と天下分け目の戦いという最大の危機を乗り越え、徳川旗本として家名を存続させる原動力となった。宇喜多家を出奔しながらも、流罪となった旧主・秀家への援助を終生続けた正成の生き様は、主君個人への忠誠と、主家そのものへの恩義とを区別する、成熟した武士の倫理観を示している。この精神は、宇喜多家の創業を支えた父・正幸から受け継がれた、花房家の根幹をなすものであった。花房父子の軌跡は、戦国大名の家臣団が、いかにして近世の幕藩体制へと適応していったかを示す、極めて貴重なケーススタディと言える。
正幸の武勇伝や文化人としての逸話は、彼自身の能力の証明であると同時に、彼が仕えた宇喜多家の権威を高めるための戦略的要素を色濃く含んでいた。彼の生涯は、個人の生き様が、常に「家」の存続と繁栄という、より大きな目的と分かち難く結びついていた戦国武士の姿を、鮮やかに映し出している。
最後に特筆すべきは、花房正幸の直系子孫が、昭和の時代に、正成の代から明治初期に至るまでの貴重な家伝の史料群を岡山市教育委員会に寄贈したという事実である 45 。この文化的貢献により、我々は今日、一族の生きた軌跡を詳細に辿ることが可能となった。正幸・正成父子が貫いた「忠義」の精神は、滅びた旧主への援助という形で示されたのみならず、自家の歴史を後世に伝えようとした子孫たちの営みの中に、今なお脈々と息づいているのである。
付録
【表1】花房正幸・正成父子関連年表
西暦(和暦) |
花房正幸の年齢 |
花房正成の年齢 |
花房家の動向 |
宇喜多家の動向 |
日本の主要な出来事 |
1524年(大永4年) |
0歳 |
- |
花房正幸、誕生 35 。 |
|
|
1532-55年(天文年間) |
8-31歳 |
- |
正幸、播磨より備前へ移り、宇喜多直家に仕える 1 。 |
宇喜多直家、浦上宗景の家臣として台頭。 |
|
1555年(弘治元年) |
31歳 |
0歳 |
花房正成、誕生 5 。 |
|
|
1569年(永禄12年) |
45歳 |
14歳 |
正成、父・正幸と共に浦上宗景を攻める 5 。 |
直家、主君・浦上宗景に謀反。 |
|
1573年頃 |
49歳 |
18歳 |
正幸、虫明城主となる(推定)。 |
直家、岡山城(石山城)に入り、本拠とする 12 。 |
|
1578年(天正6年) |
54歳 |
23歳 |
正成、小西行長と共に羽柴秀吉のもとへ赴き、織田氏と和議を結ぶ 5 。 |
宇喜多氏、毛利氏から離反し、織田氏に臣従。 |
|
1581年(天正9年) |
57歳 |
26歳 |
正幸・正成父子、鳥取城の戦いに出陣 5 。 |
宇喜多直家、死去(異説あり) 12 。 |
|
1582年(天正10年) |
58歳 |
27歳 |
正成、備中高松城の戦いで功を挙げ、家督を継ぐ。備中高松城主3万1千石となる 5 。正幸は隠居。 |
宇喜多秀家、家督を継承。備中高松城の戦いに参陣。 |
本能寺の変。山崎の戦い。清洲会議。 |
1588年(天正16年) |
64歳 |
33歳 |
正成、従五位下・志摩守に叙任される 5 。 |
秀家、聚楽第行幸に供奉。 |
刀狩令。 |
1592-98年(文禄・慶長の役) |
68-74歳 |
37-43歳 |
正成、宇喜多軍の主将として朝鮮に出兵 5 。 |
秀家、総大将格として朝鮮に出兵。 |
文禄の役、慶長の役。 |
1599年(慶長4年) |
75歳 |
44歳 |
正成、宇喜多騒動により戸川達安らと共に出奔 34 。 |
宇喜多家中にて内紛(宇喜多騒動)が勃発。 |
前田利家、死去。石田三成襲撃事件。 |
1600年(慶長5年) |
76歳 |
45歳 |
正成、関ヶ原の戦後、連座し浪人となる 34 。 |
秀家、西軍の主力として関ヶ原で敗北。改易される。 |
関ヶ原の戦い。 |
1602年(慶長7年) |
78歳 |
47歳 |
正成、徳川家康に召し出され、備中猿掛5千石の旗本となる 5 。 |
|
徳川家康、諸大名に起請文を提出させる。 |
1605年(慶長10年) |
82歳 |
50歳 |
6月22日、正幸、備中高松城にて死去 1 。 |
|
徳川秀忠、二代将軍に就任。 |
1606年(慶長11年) |
- |
51歳 |
正成、旧主・秀家への援助を開始(推定)。 |
秀家、八丈島へ流罪となる 41 。 |
|
1614-15年(慶長19-20年) |
- |
59-60歳 |
正成、大坂の陣に徳川方として参陣 5 。 |
|
大坂冬の陣・夏の陣。豊臣氏滅亡。 |
1623年(元和9年) |
- |
69歳 |
2月8日、正成、死去。宇喜多家への援助を遺言する 5 。 |
|
徳川家光、三代将軍に就任。 |
1655年(明暦元年) |
- |
- |
花房家、旗本として存続。旧主への援助を続ける。 |
11月20日、宇喜多秀家、八丈島にて死去。享年84 41 。 |
|
引用文献
- 花房正幸 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%88%BF%E6%AD%A3%E5%B9%B8
- 弓術 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E8%A1%93
- 花房正幸 (はなぶさ まさゆき) | げむおた街道をゆく https://ameblo.jp/tetu522/entry-12032013348.html
- 【橋本麻里のつれづれ日本美術】「古今伝授の太刀」の物語(前編) なぜ武士が和歌を追求したのか | 紡ぐプロジェクト https://tsumugu.yomiuri.co.jp/feature/%E3%80%90%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E9%BA%BB%E9%87%8C%E3%80%91%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BC%9D%E6%8E%88%E3%81%AE%E5%A4%AA%E5%88%80%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E%E5%89%8D%E7%B7%A8/
- 花房正成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%88%BF%E6%AD%A3%E6%88%90
- 花房氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%88%BF%E6%B0%8F
- 武家家伝_花房氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hanahusa.html
- 51.寛政重修諸家譜 - 歴史と物語 - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/51.html
- 花房氏の系譜 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hanabusa.htm
- 歴史背景|室町酒造株式会社 - 地酒蔵元会 https://www.kuramotokai.com/kikou/55/history
- 宇喜多直家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
- 宇喜多直家・宇喜多秀家をはじめとする 「戦国 宇喜多家」を主人公とした大河ドラマ実現に向 - 岡山市 https://www.city.okayama.jp/shisei/cmsfiles/contents/0000058/58389/05sankou.pdf
- 《宇喜多の大河-宇喜多直家・秀家-》求む、WEB署名! 宇喜多家大河ドラマプロジェクトに注目!【PR】 - Webタウン情報おかやま https://tjokayama.jp/life/ukita202503/
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