花房正成(はなぶさ まさなり)は、弘治元年(1555年)に生まれ、元和9年(1623年)に没した、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将です 1 。彼の生涯は、備前国の大名・宇喜多氏の宿老として家中の中枢を担い、後に主家を離れて徳川幕府の旗本へと転身するという、激動の時代を象徴する軌跡を辿りました 1 。
利用者が既に把握されている「宇喜多家の家臣で、高松城水攻めを進言し、後に内乱で出奔して徳川家康に仕えた」という情報は、彼の生涯の重要な転換点を的確に捉えています。しかし、その情報の背後には、より深く、複雑な人間像が隠されています。彼の人生を貫く大きなテーマは二つあると考えられます。第一に、主家である宇喜多氏への忠誠と離反、そして旧主への生涯にわたる支援という、一見矛盾した行動に見える「複雑な忠誠心」。第二に、同時代に活躍した同族の豪傑・花房職秀(もとひで)との事績の混同です。
花房正成の生涯は、中世的な「家」への絶対的奉公から、武将が自らの「理」と「情」に基づき主君を選択する近世的な価値観へと移行する、時代の大きな転換期における武士のリアルな生き様を映し出しています。彼は単なる変節者ではなく、自らの家名を存続させるという現実的な判断と、旧主への恩義を忘れないという情義を両立させようとした、思慮深い人物でした。
本報告書は、これらの点を踏まえ、花房正成という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げ、彼の実像を明らかにすることを目的とします。
西暦 (和暦) |
正成の年齢 |
主要な出来事(花房正成関連) |
関連する歴史上の出来事 |
1555年 (弘治元年) |
1歳 |
宇喜多氏家臣・花房正幸の子として生まれる 1 。 |
第2次川中島の戦い |
1569年 (永禄12年) |
15歳 |
父と共に宇喜多直家の浦上宗景への謀反に参加(初陣) 1 。 |
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1578年 (天正6年) |
24歳 |
小西行長らと羽柴秀吉のもとへ赴き、織田氏との和議交渉に関わる 1 。 |
上月城の戦い |
1581年 (天正9年) |
27歳 |
父と共に鳥取城の戦いに従軍 1 。 |
宇喜多直家、死去。宇喜多秀家が家督継承。 |
1582年 (天正10年) |
28歳 |
宇喜多氏の名代として備中高松城の戦いに出陣。水攻めを進言したとされる 1 。戦後、高松城主となり3万1千石を領す 1 。 |
本能寺の変。山崎の戦い。 |
1585年 (天正13年) |
31歳 |
宇喜多秀家に従い、四国攻めに出陣 1 。 |
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1586年 (天正14年) |
32歳 |
九州征伐に出陣 1 。 |
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1588年 (天正16年) |
34歳 |
聚楽第行幸の際、従五位下・志摩守に叙任される 1 。 |
刀狩令 |
1590年 (天正18年) |
36歳 |
小田原征伐に出陣 1 。 |
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1592年 (文禄元年) |
38歳 |
文禄の役に出陣 1 。 |
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1597年 (慶長2年) |
43歳 |
慶長の役に出陣 1 。 |
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1599年 (慶長4年) |
45歳 |
宇喜多騒動。戸川達安らと共に出奔し、高野山に閑居 1 。 |
前田利家、死去。石田三成襲撃事件。 |
1600年 (慶長5年) |
46歳 |
関ヶ原の戦い。東軍に属して戦う。戦後、宇喜多氏改易に伴い浪人となる 1 。 |
関ヶ原の戦い |
1602年 (慶長7年) |
48歳 |
徳川家康に召し出され、備中猿掛に5,000石を与えられ旗本となる 1 。 |
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1603年 (慶長8年) |
49歳 |
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徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。 |
1606年 (慶長11年) |
52歳 |
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宇喜多秀家、八丈島へ流罪となる。 |
1614年 (慶長19年) |
60歳 |
大坂冬の陣に池田忠継軍として出陣 1 。旧主・秀家親子から支援への礼状を受け取る 4 。 |
大坂冬の陣 |
1615年 (慶長20年) |
61歳 |
大坂夏の陣に安藤重信・井伊直孝軍として出陣 1 。 |
大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。 |
1616年 (元和2年) |
62歳 |
秀家が大名復帰を固辞したと聞き、衝撃で寝込む 1 。 |
徳川家康、死去。 |
1619年 (元和5年) |
65歳 |
福島正則改易の際、上使の一人を務める 1 。 |
福島正則、改易。 |
1623年 (元和9年) |
69歳 |
2月8日、死去。享年69 1 。 |
徳川家光、三代将軍となる。 |
花房正成の生涯を理解するためには、まず彼が属した花房一族の成り立ちを知る必要があります。
江戸幕府が編纂した公式系譜『寛政重修諸家譜』などによれば、花房氏は清和源氏の名門・足利氏の一族とされています。具体的には、足利氏の一門である上野義弁の子・職通が常陸国久慈郡花房郷(現在の茨城県)に住み、花房姓を名乗ったのが始まりと記されています 5 。しかし、この由緒ある系譜には疑問が呈されています。歴史研究家の間では、これは後世に家の権威を高めるための「仮冒」、すなわち創作である可能性が高いと指摘されているのです 6 。その根拠として、信頼性の高い中世の系図『尊卑分脈』に義弁の子として「職通」の名が見られないことや、花房一族が実際に常陸国に居住した形跡が確認できないことが挙げられます 6 。
花房氏が歴史の表舞台に確かな足跡を残し始めるのは、戦国時代、備前国・美作国(現在の岡山県一帯)においてです 6 。彼らは、はじめ浦上氏の家臣でしたが、やがて宇喜多直家の配下に入り、その実力でのし上がっていきました。この事実は、花房氏が血筋の権威よりも、戦乱の世を生き抜く実力によって地位を築いた一族であったことを示唆します。彼らが後に足利氏の系譜を称したのは、実力で手に入れた地位を、伝統的な権威によって正当化し、安定させるための戦略的な行為であったと考えられます。これは、下剋上が常であった戦国時代において、多くの新興武士団が用いた手法であり、花房氏もその例に漏れなかったのです。
この実力主義の一族を代表する人物が、正成の父である花房正幸(まさよし)でした 8 。正幸は宇喜多直家の創業期を支えた重臣であり、智勇兼備の名将として知られています。備前国の虫明城主として1万8,000石という広大な所領を治めました 8 。彼は武勇に優れるだけでなく、海賊に襲われた際に船上から弓で頭領を射抜いて撃退したという逸話が伝わるほどの弓の名手でした 8 。さらに、当代随一の文化人であった細川幽斎から和歌の奥義である「古今伝授」を受けたほどの教養人でもあり、武辺一辺倒ではない、深みのある人物であったことが窺えます 8 。正成は、このような智勇と教養を兼ね備えた父の背中を見て育ったのです。
花房正成は弘治元年(1555年)、父・正幸の子として生を受けました 1 。彼は幼少の頃から、父と共に備前の梟雄・宇喜多直家に仕え、その薫陶を受けながら成長します。
正成が歴史の舞台に初めてその名を記すのは、永禄12年(1569年)、15歳の時でした。この年、主君の宇喜多直家が、さらにその主君であった浦上宗景に対して謀反を起こします。正成は父と共にこの戦いに参加し、初陣を飾りました 1 。この経験は、彼が若くして宇喜多家の運命を左右する重要な戦いに関与し、主家の利益のためには主君に弓を引くことも厭わない戦国の非情な現実を目の当たりにしたことを意味します。
彼の能力は武勇だけに留まりませんでした。天正6年(1578年)、24歳の正成は、当時まだ織田信長の家臣の一人に過ぎなかった羽柴秀吉が中国地方攻略の先鋒として播磨国に進駐してくると、小西行長と共に秀吉のもとへ派遣され、宇喜多家と織田家との和議を結ぶ交渉役を務めました 1 。この事実は、彼が若くして外交の表舞台に立つほどの知見と交渉力を備え、主君・直家から厚い信頼を寄せられていたことを物語っています。
天正9年(1581年)、直家が病没し、幼い宇喜多秀家が跡を継ぎますが、宇喜多氏は既に織田信長の中国方面軍に組み込まれていました。正成は父・正幸と共に、秀吉が指揮する鳥取城攻めに従軍します 1 。この戦いは、凄惨な兵糧攻めとして知られ、正成はここでも戦国の過酷さを体験したことでしょう。父から受け継いだ武才と、自ら培った知略を武器に、花房正成は宇喜多家中において着実にその存在感を高めていったのです。
天正10年(1582年)、羽柴秀吉による毛利氏攻略のクライマックスとも言える備中高松城の戦いが勃発します。この時、宇喜多家の当主・秀家はまだ11歳と若年であったため、花房正成は宇喜多軍の名代、すなわち事実上の指揮官の一人としてこの歴史的な戦いに臨みました 1 。
この戦いで最も有名なのが、城の周囲に長大な堤防を築き、足守川の水を引き込んで城を水没させた「高松城水攻め」です。この奇想天外な作戦を秀吉に進言した人物については諸説ありますが、その最有力候補の一人として挙げられているのが、花房正成その人です。複数の記録が、彼が進言者であったと伝えています 1 。一方で、秀吉の天才軍師として名高い黒田官兵衛(孝高)の献策であるとする説も根強く存在します 12 。
両説の真偽を断定することは困難ですが、一つの可能性として、両者が関与した合作であったと考えることもできます。すなわち、宇喜多軍の代表として現地の地理や城の特性に詳しかった正成が、沼沢地に囲まれた高松城の立地を逆手に取る「水攻め」という基本案を提示し、それを聞いた官兵衛が、短期間で巨大な堤防を築き上げるという壮大なスケールの作戦として具体化・完成させた、という見方です。いずれにせよ、正成がこの作戦の立案または実行において重要な役割を果たしたことは間違いありません。
この戦いは、城主・清水宗治の壮絶な切腹と、その直後に起こった「本能寺の変」によって劇的な終結を迎えます。戦後、秀吉は正成の軍功を高く評価し、彼に備中高松の地を含む3万1,000石という破格の知行を与え、高松城主としました 1 。これは宇喜多家臣団の中でも突出した待遇であり、正成の地位を不動のものとしました。城主となった正成は、毛利氏の反攻に備えて高松城の大規模な拡張工事を行っており 1 、優れた領主としての統治能力も兼ね備えていたことが窺えます。
宇喜多直家の死後、豊臣秀吉の後見を得て成長した宇喜多秀家の下で、花房正成は家老としてその権勢をさらに高めていきます。彼は、秀家に従って豊臣政権が推し進める天下統一事業の主要な合戦に、宇喜多軍の中核として参加しました。
天正13年(1585年)の四国攻め、天正14年(1586年)の九州征伐、そして天正18年(1590年)の小田原征伐と、正成は各地を転戦し、武功を重ねます 1 。これらの戦役への参加は、彼が宇喜多家のみならず、豊臣政権全体においても重要な役割を担う武将であったことを示しています。
その地位は、公的な官位としても認められました。天正16年(1588年)、秀吉が後陽成天皇を自らの邸宅である聚楽第に招いた「聚楽第行幸」の際、正成は従五位下・志摩守に叙任されます 1 。これは、彼が単なる一地方大名の家臣ではなく、豊臣政権の公認する「武将」として、その身分を保証されたことを意味します。
さらに、文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも、正成は宇喜多軍を率いて海を渡りました 1 。しかし、この栄光の時代は長くは続きませんでした。この朝鮮出兵の頃から、58万石という大大名に成長した宇喜多家の内部に、不協和音が生じ始めていたのです。
慶長4年(1599年)、関ヶ原の戦いの前年、宇喜多家を根底から揺るがす大事件が勃発します。世に言う「宇喜多騒動」です。このお家騒動において、花房正成は主家を離反するという重大な決断を下しました。
この騒動の原因については、従来、明石掃部らキリシタンの家臣と、戸川達安や花房正成ら日蓮宗の家臣との宗教対立が原因とされてきました。しかし、近年の研究では、この説は史料的根拠が薄いと指摘されています 3 。対立の真の原因は、より政治的・経済的な権力闘争にあったと考えられます。若き当主・秀家は、父・直家時代からの旧来の支配体制を刷新し、検地の実施などを通じて領国支配を中央集権化しようと試みました。この改革を推進したのが、秀家が新たに登用した中村次郎兵衛や、執政の長船綱直といった新興の側近たちでした 1 。
この動きは、父祖代々の知行地という既得権益を持つ譜代の重臣たちの激しい反発を招きました。花房正成は、同じく宇喜多家の宿老であった戸川達安らと共に、この反秀家派の中心人物となります 1 。彼らは中村次郎兵衛の排除を試みるなどしましたが、計画は失敗。最終的に正成らは宇喜多家からの出奔という実力行使に至ります 3 。
この内紛の調停には、徳川家康、大谷吉継、榊原康政といった、後に関ヶ原の戦いで東西両軍の中心となる大物たちが深く関与しました 1 。特に家康は、この騒動を豊臣恩顧の有力大名である宇喜多家を弱体化させる好機と捉えていた節があります。最終的に、家康の裁定によって騒動は一応の決着を見ますが、正成は宇喜多家へは戻らず、大名・増田長盛に預けられる形で高野山に閑居することになりました 1 。
この宇喜多騒動は、単なる一大大名家のお家騒動に留まりません。これは、豊臣秀吉の死後、水面下で進んでいた家康による天下獲りの戦略の一環であり、関ヶ原へと向かう勢力図を形成する上での重要な布石であったと見ることができます。正成の離反は、彼の意図とは別に、結果として家康の戦略に利する形となったのです。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。宇喜多騒動で主家を離れていた花房正成は、同じく出奔組であった戸川達安らと共に東軍、すなわち徳川家康方に味方して参戦しました 15 。彼の旧主・宇喜多秀家は西軍の主力部隊を率いていたため、かつての主君と家臣が戦場で敵味方に分かれて対峙するという、戦国乱世の非情さを象徴する状況が生まれました。
西軍の敗北により、宇喜多家は58万石の所領を没収され、大名家として改易されます。これに連座する形で、正成も一時的に浪人の身となりました 1 。しかし、彼は己の保身に走ることはありませんでした。この浪人期、正成は旧主・秀家の助命と、可能であれば宇喜多家の再興を願って奔走します。敗戦後、薩摩の島津忠恒に匿われていた秀家の身柄を案じ、また秀家の正室・豪姫の兄である加賀の大名・前田利長に協力を依頼するなど、旧恩に報いようと尽力したのです 1 。特に、前田利長は正成の器量を見込んで家臣として召し抱えようとしましたが、正成は「秀家の安否が定まるまでは」と、この破格の申し出を固辞したと伝えられています。この逸話は、彼の情義の深さを如実に物語っています 1 。
慶長7年(1602年)、その忠義と能力を高く評価した徳川家康は、正成を召し出します。そして、備中国猿掛(現在の岡山県小田郡矢掛町周辺)において5,000石の知行を与え、徳川家直参の旗本として取り立てました 1 。この知行地は、かつて備中高松城の戦いの際に毛利輝元が本陣を構えた猿掛城の西山麓に位置し、山陽道を押さえる戦略的要衝でした 2 。家康が彼を旗本としてだけでなく、西国監視の役割も期待していたことが窺えます。こうして花房正成は、宇喜多家の宿老から徳川幕府の旗本へと、その生涯の第二幕を歩み始めたのです。
徳川家の旗本となった花房正成は、新たな主君の下でもその能力を発揮し、江戸幕府の基盤固めに貢献しました。
慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂の陣では、もはや老境に差し掛かっていたにもかかわらず、徳川方として出陣します。冬の陣では備前岡山藩主・池田忠継の軍に、夏の陣では幕府の重臣である安藤重信、後に井伊直孝の軍に属して戦いました 1 。かつて自らが仕えた豊臣家にとどめを刺すこの戦いに参加した彼の胸中には、万感の思いがあったことでしょう。
戦後、世が安定すると、正成は幕府の重臣として重要な役目も担うようになります。元和5年(1619年)、安芸広島藩49万石の大名であった福島正則が、幕府の許可なく居城を修築したことを咎められ、改易されるという事件が起こります。この際、正成は上使の一人として、牧野忠成らと共に正則の屋敷へ赴き、改易の命令を伝えるという大役を務めました 1 。このような重要な任務を任されたことは、彼が徳川幕府から厚い信頼を得ていたことの証左です。
宇喜多家の宿老として培った経験と知見は、新たな時代においても高く評価され、彼は旗本・花房家の初代当主として、その礎を確固たるものにしました。そして元和9年(1623年)2月8日、徳川家光が三代将軍に就任し、幕藩体制が盤石のものとなったのを見届けるかのように、69年の波乱に満ちた生涯に幕を下ろしました 1 。
花房正成の人物像を語る上で最も特徴的なのは、徳川旗本となった後も、旧主・宇喜多秀家への義理を生涯にわたって貫き通した点です。彼の行動は、主家を離反した「不忠者」という単純な評価を許さない、複雑で深い情義に根差していました。
関ヶ原の戦いの後、八丈島へ流罪となった秀家に対し、正成は徳川家康の許可を得た上で、経済的な支援を続けました。加賀の前田家などと連携し、遠い流刑地の旧主とその家族へ、定期的に助成米を送り届けていたのです 1 。
この支援に対する秀家からの感謝の念は、今に残る書状から窺い知ることができます。岡山市に現存する「花房家歴史資料」の中には、慶長19年(1614年)6月付で、秀家とその二人の息子、秀高・秀継が連名で正成に宛てた礼状が含まれています 4 。この書状は、正成の変わらぬ心遣いに対する秀家親子の深い感謝の念を伝えており、二人の間に主従関係を超えた固い絆が存在したことを示しています。
正成の宇喜多家への思いは、単なる同情や感傷ではありませんでした。元和2年(1616年)、前田家が秀家に対し10万石の領地を与えて大名家への復帰を働きかけたものの、秀家自身がこれを固辞し、八丈島に留まることを選んだという報せが届きます。これを聞いた正成は、宇喜家再興の道が完全に絶たれたことに大きな衝撃を受け、しばらくの間寝込んでしまったと伝えられています 1 。
そして、元和9年(1623年)に迎えた臨終の際、正成は「花房の家名が続く限り、八丈島の宇喜多氏を援助し続けよ」と遺言したといいます 1 。この遺言は、彼の行動原理が、中世的な「主家と運命を共にする忠義」から、近世的な「自らの家を存続させる責任」と「旧主への個人的な恩義に報いる情義」を両立させるという、新しい武士の倫理観に基づいていたことを示唆しています。彼は、滅びゆく宇喜多家への情を尽くしながら、新たな天下人である徳川の世で花房家を存続させるという、二つの異なる責務を見事に果たそうとしたのです。これは、戦国から江戸への移行期に生きた武将の、現実的で複雑な忠誠の形と言えるでしょう。
花房正成の生涯を調査する上で、避けて通れないのが、同時代に活躍した同族の武将、**花房職秀(はなぶさ もとひで、後 に職之(もとゆき)と改名)**との混同です。両者は宇喜多氏に仕え、後に出奔して徳川旗本になるという類似した経歴を辿ったため、後世の記録や逸話において、しばしば両者の事績が混同、あるいは一人の人物として語られてきました。しかし、二人の人物像は対照的であり、これを明確に区別することが、正成の実像を理解する上で不可欠です。
花房職秀は、天文18年(1549年)生まれ、元和3年(1617年)没の武将です 17 。彼には、その剛直で豪傑な性格を示す数々の有名な逸話が残されています。
このように、職秀は数々の逸話に彩られた「剛」のイメージを持つ武将です。関ヶ原の戦いの後は8,220石の旗本となり、備中高松に自らの菩提寺として妙玄寺を建立しました 17 。
一方で、本報告書で詳述してきた花房正成は、家中の中枢で実務を担い、外交交渉や主家の運営に深く関与した、いわば「柔」や「知」のイメージが強い宿老タイプの武将です。彼の逸話は、高松城水攻めの進言や旧主への支援といった、思慮深さや情義に関わるものが中心です。
この二人の人物像の混同は、単なる歴史上の間違いに留まりません。これは、後世の人々が「宇喜多家を出て徳川に仕えた忠義の旗本・花房氏」という存在を語り継ぐ中で、キャラクターの異なる二人の逸話が融合し、一つの「花房氏」というブランドイメージが複合的に形成されていった結果と見ることができます。この混同を解きほぐす作業は、歴史上の人物像が、個人の記録と一族全体の評判の相互作用の中で、いかにして形成され、変容していくかという、歴史叙述のプロセスそのものを考察することに繋がるのです。
以下の比較表は、両者の違いを明確にするための一助となるでしょう。
比較項目 |
花房 正成 (はなぶさ まさなり) |
花房 職秀 (はなぶさ もとひで / もとゆき) |
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生没年 |
弘治元年(1555) – 元和9年(1623) 1 |
天文18年(1549) – 元和3年(1617) 17 |
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通称 |
又七郎、宗悦 9 |
助兵衛、道恵 17 |
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官位 |
従五位下・志摩守 1 |
若狭守 9 |
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父 |
花房 正幸 (まさよし) 1 |
花房 職勝 (もとかつ) 17 |
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主な城 |
備中高松城、備中猿掛陣屋 1 |
美作荒神山城、備中高松城 17 |
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宇喜多騒動後 |
増田長盛預かり、高野山に閑居 1 |
佐竹義宣預かり 17 |
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関ヶ原後知行 |
備中猿掛 5,000石 2 |
備中高松 8,220石 17 |
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著名な逸話 |
・高松城水攻めを進言 1 |
・旧主秀家への生涯にわたる支援 4 |
・碁盤で相手を殴殺 18 |
・秀吉の前で下馬せず逆に加増 19 |
菩提寺 |
(特定情報なし) ※一族の墓所は妙玄寺にある 22 |
高松山妙玄寺 (自ら建立) 20 |
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旧主秀家への支援 |
徳川家の許可を得て米を送る。秀家からの礼状が現存 1 。 |
毎年20俵の米を送ったとされる 23 。 |
花房正成の生涯は、忠と理、情と利という、武士が常に直面する二律背反の狭間で、苦悩し、決断を重ねた軌跡でした。彼が下した一連の決断は、戦国乱世から江戸という新たな秩序へと移行する時代の武士の生き様を、鮮やかに象徴しています。
宇喜多家を出奔し、関ヶ原では旧主と敵対しながらも、徳川旗本として花房家の家名を存続させた彼の選択は、結果として一族の繁栄に繋がりました。彼の子孫は江戸時代を通じて幕臣として続き、中には関東郡代という要職を輩出する者も現れています 5 。
しかし、彼の真価は、単に家を存続させたという点に留まりません。彼の最大の功績は、その情義の深さと、それを後世に伝える確かな物証を残したことにあるでしょう。彼の子孫が岡山市に寄贈した200点以上に及ぶ「花房家歴史資料」は、その最たるものです 25 。この一級史料群には、本報告書でも分析した、流罪の旧主・宇喜多秀家からの感謝の書状や、新たな主君・徳川家康から与えられた知行安堵の朱印状などが含まれています 2 。これらの資料は、正成の生涯を具体的に裏付け、彼の複雑な忠誠の形を現代に生き生きと伝えています。
結論として、花房正成は、同族の花房職秀のような派手な武勇伝や剛直な逸話に彩られた人物ではありませんでした。しかし彼は、激動の時代を冷静な目で判断し、主家への恩義と自らの家の存続という二つの責務を、生涯をかけて両立させようと努めた、思慮深く、そして何よりも情義に厚い、稀有な武将であったと言えます。彼の生き様は、戦国という時代の終焉と、新たな武士の倫理観の萌芽を私たちに示してくれるのです。