年代(和暦・西暦) |
花輪親行の動向 |
関連勢力の動向(南部氏・安東氏など) |
主要な典拠・出来事 |
鎌倉時代 |
― |
関東御家人・安保氏が地頭として鹿角郡に入部。その次男家が花輪氏の祖となる 1 。 |
鹿角四頭(安保・成田・奈良・秋元)の成立。 |
永禄7年 (1564) |
― |
南部氏、鹿角郡代を設置。安東愛季、長牛城を攻撃するも南部高信が撃退 3 。 |
南部氏による鹿角支配強化の動き。 |
永禄8年 (1565) |
秋田の安東愛季と結び、反南部氏の立場を明確にする 5 。 |
安東愛季、鹿角郡への本格侵攻を開始 5 。 |
安東・南部間の鹿角を巡る対立が激化。 |
永禄9年 (1566) |
安東勢の一翼として、南部氏の拠点・長牛城を包囲攻撃 6 。 |
安東愛季、大軍を率いて再度鹿角に侵攻。長牛城を巡り激戦が続く 3 。 |
長牛城攻防戦。 |
永禄10年 (1567) |
― |
長牛城が落城。城主・長牛友義は三戸へ逃れる。鹿角郡は一時的に安東氏の支配下に入る 7 。 |
「血染めの川」の伝承が生まれるほどの激戦 3 。 |
永禄11年 (1568) |
南部氏の大規模な反撃により敗北。鹿角郡から退去する 5 。 |
南部晴政・信直親子が鹿角へ大挙出兵。安東勢を撃退し、鹿角郡を奪還 5 。 |
南部氏、鹿角の支配権を再確立。 |
元亀元年 (1570) 以降 |
南部氏内部の対立(晴政・信直父子の相剋)に乗じ、南部晴政に帰順・仕官する 5 。 |
南部晴政と養嗣子・信直の対立が深刻化。家中が二派に分裂 9 。 |
『奥南落穂集』に記載。敵対勢力の内部対立を利用した生存戦略。 |
天正10年 (1582) |
南部晴政の死後、信直が実権を掌握したため、再び花輪の地を追われる 11 。 |
南部晴政が病死。家督を継いだ晴継も急死し、信直が南部宗家を継承。 |
親行の後ろ盾が消滅。 |
天正18年 (1590) 以前 |
九戸政実に仕え、円子(岩手県)にて200石を領する 11 。 |
南部信直と、南部氏庶流の最大勢力である九戸政実との対立が頂点に達する。 |
反・信直勢力への合流。 |
天正19年 (1591) |
九戸政実の乱に九戸方として参加。 |
九戸政実が豊臣政権と南部信直に対し反乱。豊臣秀吉の派遣した鎮圧軍により九戸城は落城 11 。 |
九戸政実の敗死と共に、花輪一族も離散。親行の消息は不明となる。 |
戦国時代の日本列島において、中央の畿内から遠く離れた出羽・陸奥の両国、すなわち奥羽地方もまた、群雄が割拠し、絶え間ない興亡が繰り広げられる動乱の地であった。その中でも、現在の秋田県北東部に位置する鹿角(かづの)郡は、北の雄・三戸南部氏(本拠地:陸奥国三戸城)と、西の雄・檜山安東氏(本拠地:出羽国檜山城)という二大勢力が直接的に勢力圏を接する、地政学的に極めて重要な係争地であった 4 。
南部氏にとって鹿角は東進政策の足掛かりであり、安東氏にとっては東方への防衛線、そして蝦夷地との交易路にも関わる要衝であった 12 。このため、両勢力はこの地の領有を巡って永禄年間(1558年~1570年)を中心に激しい軍事衝突を繰り返した。鹿角は、二大勢力の野心がぶつかり合う、常に緊張をはらんだ最前線だったのである。
しかし、この地は単なる草刈り場ではなかった。鹿角には、古くからこの地を治めてきた土着の豪族たちが存在した。彼らは「鹿角四頭(かづのしとう)」と総称される安保(あぼ)氏、成田氏、奈良氏、秋元氏といった在地領主たちであり、決して二大勢力の単なる駒ではなかった 1 。彼らは自らの所領と一族の存続を第一に考え、時には南部氏に属し、時には安東氏と結ぶなど、複雑な情勢の中で巧みに立ち回り、自らの独立を保とうと苦心していた。
本稿で詳述する花輪親行(はなわ ちかゆき)は、この鹿角四頭の一つ、安保氏の系譜を引く花輪氏の当主である。彼の生涯は、まさにこの奥羽の狭間で、自らの家門と誇りを守るために戦い、策略を巡らせ、そして時代の大きな奔流に飲み込まれていった一人の土豪の生き様を、鮮烈に映し出している。
花輪親行の行動原理を理解する上で、彼が率いた花輪一族の出自と、その歴史的背景を無視することはできない。花輪氏は、戦国時代にわかに台頭した新興勢力ではなく、鎌倉時代にまで遡る由緒正しい家柄であった。
諸記録によれば、花輪氏は「鹿角四頭」の中でも特に有力であった安保氏の分家である 1 。この安保氏のルーツはさらに古く、関東武士の中でも名高い「武蔵七党(むさししちとう)」の一つ、丹党(たんとう)に連なる一族とされる 14 。すなわち、彼らは源平の争乱期から活躍した坂東武士の血を引く、誉れ高き武門の末裔だったのである。
安保氏は鎌倉幕府の成立後、御家人として鹿角郡の地頭職を与えられ、関東からこの地に移り住んだ 2 。その嫡流は、長男が大里氏、次男が花輪氏、三男が柴内氏を名乗り、それぞれ鹿角郡内に根を張った。この三家は特に「安保三人衆」とも称され、一族として強い結束を保ち、地域に大きな影響力を持っていた 2 。花輪親行は、この安保氏次男家、すなわち「花輪次郎」の系譜を継ぐ直系の当主であった。
この事実は、花輪親行の人物像を考察する上で極めて重要である。彼は単なる一地方の土豪ではなく、幕府から公的に所領を安堵された地頭の家柄であり、関東武士団という輝かしい出自を持つ一族の長としての強い自負心を持っていたと考えられる。南部氏が勢力を拡大し、鹿角の在地領主たちを単なる家臣として組み込もうとする中央集権的な動きは、花輪氏のような旧来の在地領主にとっては、自らの独立性と誇りを脅かす重大な挑戦と受け止められたであろう。親行が後に示す南部氏への激しい抵抗の根底には、こうした一族の歴史と誇りを守らんとする強い意志があったと推察される。
花輪親行の名を戦国の歴史に刻んだ最初の、そして最も象徴的な出来事が、南部氏の拠点である長牛(なごし)城への攻撃である。これは単なる小競り合いではなく、彼の政治的立場と覚悟を天下に示した、後戻りのできない決断であった。
永禄8年(1565年)頃、出羽の雄・安東愛季が鹿角郡への本格的な侵攻を開始すると、花輪親行はこれに呼応した。彼は「安保三人衆」の同族らと共に安東氏と誼を通じ、明確に反南部氏の旗幟を掲げたのである 2 。この同盟は、南部氏の圧迫に苦しむ鹿角の在地領主たちが、外部勢力と手を結ぶことで自らの活路を見出そうとした戦略的な選択であった。
親行が主導した軍事行動の最大の目標が、長牛城であった。この城は、比内(秋田県側)から鹿角盆地へ入る交通の要衝に位置し、南部氏にとっては対安東氏の最前線基地、安東氏にとっては鹿角攻略の最大の障害となる戦略拠点であった 3 。この重要な城を守っていたのは、南部氏の忠実な家臣、長牛友義(ともよし)であった 15 。
永禄9年(1566年)から翌10年にかけて、親行率いる反乱軍は安東勢と共に幾度となく長牛城に猛攻を仕掛けた。その戦いの激しさは凄まじく、後世の『鹿角由来集』には、城から西に流れる小沢が「敵味方死人手負の血ながれ」「水赤くすわうのごとく」なったため、人々がこの川を「すわう河(蘇芳川)」と呼んだという、生々しい伝承が記されている 3 。この「血染めの川」の逸話は、この戦いが双方にとって文字通り死力を尽くした総力戦であったことを物語っている。
激しい攻防の末、ついに長牛城は陥落。城主・長牛友義は辛うじて城を脱出し、南部氏の本拠地である三戸へと敗走した 7 。花輪親行は、南部氏の牙城を打ち破るという大きな戦果を挙げ、鹿角における反南部勢力の中心人物としての地位を確立した。この長牛城攻防戦は、彼の武将としての力量を示すと同時に、南部氏との全面対決へと突き進む決意の表れだったのである。
長牛城を陥落させ、一時は鹿角における反南部勢力の旗頭となった花輪親行であったが、その栄光は長くは続かなかった。彼の運命は、二大勢力の力関係の変化によって、再び大きく揺れ動くこととなる。
永禄11年(1568年)、度重なる安東氏の侵攻に業を煮やした南部氏は、当主・南部晴政と、その養嗣子であり後に家督を継ぐ南部信直が自ら軍を率い、鹿角郡の奪還に向けて大規模な反撃作戦を開始した 5 。この圧倒的な兵力の前に安東勢は敗退を余儀なくされ、鹿角から撤退。後ろ盾を失った花輪親行ら在地領主たちもまた、南部軍の前に敗れ、先祖伝来の地である花輪を追われ、郡外への逃亡を余儀なくされた 5 。
所領を失い、一介の亡命武将となった親行は、ここで常人では考えつかない、極めて大胆かつ巧妙な政治的選択を行う。彼は、自らを打ち破った宿敵である南部氏に帰順したのである。しかし、これは単なる無条件降伏ではなかった。その帰順の相手が、彼の非凡な戦略眼を物語っている。
当時の南部家は、一枚岩ではなかった。当主の晴政には実子・晴継が誕生したことで、それまで養嗣子として家督を継ぐはずだった信直(石川高信の子で晴政の娘婿)の立場が微妙になっていた 9 。晴政は信直を次第に疎んじ、ついには暗殺を企てるなど、両者の対立は抜き差しならない状況に陥っていたのである 16 。南部家は、晴政派と信直派に二分される深刻な内紛を抱えていた。
この状況を親行は見逃さなかった。『奥南落穂集』という史料によれば、親行が仕えたのは、彼を鹿角から駆逐した信直ではなく、その信直と対立する当主・ 南部晴政 であったと記されている 5 。
これは、敗者が生き残るための絶妙な一手であった。
第一に、自分を直接打ち破った信直の陣営に降っても、冷遇されるか、最悪の場合は処断される可能性が高い。
第二に、その信直と対立する晴政にとって、親行のような鹿角の事情に精通した歴戦の武将は、信直派を牽制し、自らの勢力を強化するための格好の駒となり得る。
親行は、自らの武将としての価値を売り込み、敵の内部対立という最大の弱点を突くことで、単なる降人ではなく、晴政派の客将という新たな地位を確保したのである。彼は、軍事的敗北を、敵の懐深くに入り込むという政治的機会へと転換させた。この一事をもってしても、花輪親行が単なる猪武者ではなく、戦国の世を生き抜くためのしたたかな知略を併せ持った人物であったことが窺える。
南部晴政に仕えることで一時的に安息の地を得た花輪親行であったが、その立場は晴政個人の存在に依存する、極めて不安定なものであった。天正10年(1582年)、後ろ盾であった晴政が病死し、紆余曲折の末に宿敵・南部信直が南部宗家の家督を完全に掌握すると、親行の運命は再び暗転する 11 。
信直の治世において、かつて晴政派に属し、信直に敵対した親行に居場所はなかった。彼は再び花輪の地を追われることとなる。しかし、親行の反骨の精神は尽きていなかった。彼は、南部信直に対する最大の対抗勢力の下へと身を寄せる。それが、南部一族の中でも最強最大の分家であり、信直の家督継承に公然と異を唱えていた九戸(くのへ)城主、九戸政実であった 11 。
親行は九戸政実に仕え、その所領である円子(現在の岩手県内)において200石の知行を与えられた 11 。これは、彼の生涯にわたる反信直という政治的立場の一貫性を示すものであった。彼にとっての敵は常に南部信直であり、九戸政実の反乱は、失われた旧領を回復し、宿敵を打倒するための最後の、そして最大の好機と映ったに違いない。
天正19年(1591年)、ついに九戸政実は、豊臣秀吉から南部氏惣領としての地位を公認された信直に対し、反旗を翻した。「九戸政実の乱」の勃発である。これは、南部氏の家督を巡る長年の内部抗争の最終決戦であった。花輪親行もまた、九戸方の一員としてこの戦いに身を投じた。
しかし、時代はもはや一地方の豪族の争いに味方しなかった。天下統一を成し遂げた豊臣政権は、この反乱を天下への挑戦とみなし、蒲生氏郷を総大将とする数万の大軍を鎮圧に派遣した。九戸方の奮戦も空しく、九戸城は落城。政実は斬首され、反乱は鎮圧された。
この九戸氏の滅亡と共に、それに与した花輪一族もまた、歴史の表舞台から姿を消す 11 。『鹿角市史』によれば、花輪氏は離散したとされ、花輪親行がこの乱で討死したのか、あるいは再び流浪の身となったのか、その後の消息を伝える確かな記録はない。彼の最後の賭けは、時代の巨大なうねりの前に、脆くも崩れ去ったのである。
花輪親行の生涯を辿ると、そこに浮かび上がるのは、戦国時代という激動の時代に翻弄されながらも、最後まで自らの誇りと独立をかけて戦い抜いた一人の土豪の姿である。
彼の人生は、戦国後期の地方豪族(国衆)が直面した典型的な苦境を体現している。すなわち、強大な戦国大名の勢力拡大の波に洗われ、その領土併合の圧力の中で、服属か、抵抗か、あるいは滅亡かという過酷な選択を常に迫られる立場にあった。
しかし、親行は決して無力な犠牲者ではなかった。彼は、武蔵七党の末裔という誇り高き出自を背負い、安東氏と結んで南部氏に果敢に挑んだ。その戦いぶりは「血染めの川」の伝説を生むほどに激しいものであった。また、軍事的に敗北した後には、敵の内部対立を巧みに利用して生き残りを図るという、優れた政治的嗅覚と戦略眼をも見せた。彼の行動は、常に自らの家門の存続と再興という、明確な目的意識に貫かれていた。
彼の最後の選択、すなわち九戸政実の乱への参加は、一見すれば無謀な賭けであったかもしれない。だがそれは、彼の生涯を貫く反・南部信直という政治的信条に殉じた、必然の帰結でもあった。彼の敵は、地域における中央集権化を進める南部信直であり、その背後には、日本の統一を推し進める豊臣政権という、もはや抗うことのできない巨大な力が存在した。
花輪親行は、歴史の勝者にはなれなかった。彼の名は、天下人の華々しい物語の中に記されることはない。しかし、彼の波乱に満ちた生涯は、戦国という時代が、単一の価値観で動いていたわけではなく、各地に根差した無数の在地領主たちが、それぞれの誇りと利害をかけて必死に生き抜こうとした、複雑で多層的な社会であったことを我々に教えてくれる。花輪親行は、まさにそうした歴史の狭間に生きた、無名ながらも強烈な光を放つ、一人の武将の肖像なのである。