最終更新日 2025-07-20

芳賀高照

芳賀高照の生涯――戦国期下野国における権力闘争と悲劇の傀儡

序章:下野国の動乱を映す鏡として――芳賀高照という悲劇

戦国時代の日本列島は、各地で旧来の権威が失墜し、新たな権力者が台頭する下剋上の嵐が吹き荒れていた。その中でも、関東地方の一角を占める下野国(現在の栃木県)は、中央の宇都宮氏を軸に、その支配を巡って周辺の諸勢力が複雑に絡み合い、絶えず流動的な情勢にあった。本報告書で詳述する芳賀高照(はが たかてる)は、まさにこの混沌とした時代の渦中に生まれ、翻弄され、そして散っていった一人の武将である。

彼の生涯は、主家である宇都宮氏と、その筆頭重臣として絶大な権勢を誇った自らの一族・芳賀氏との長年にわたる確執、そして同じく宇都宮家の重臣でありながら下剋上を成し遂げた壬生氏、さらには隣国にあって常に宇都宮氏と覇を競った那須氏といった、様々な勢力の思惑が交錯する舞台の上で演じられた悲劇であった。父の仇討ちという個人的な動機から始まった彼の行動は、やがてはより大きな権力者たちの野心に利用され、ついには自らの意思とは無関係に歴史の奔流に飲み込まれていく。

本報告書は、芳賀高照の短い生涯を丹念に追跡し、彼をめぐる人物や事件を多角的に分析することを通じて、戦国期下野国における権力構造の深層と、その中で生きた人間の宿命を解明することを目的とする。彼の人生は、一個人の物語に留まらず、この時代の権力闘争の力学そのものを映し出す鏡と言えよう。

報告を進めるにあたり、まず主要な登場人物の関係性を以下の表に整理し、読者の理解の一助としたい。類似した名前の人物が多数登場するため、彼らの立場と関係性を事前に把握することは、この複雑な歴史を理解する上で不可欠である。

表1:主要登場人物相関図

人物名

所属・役割

芳賀高照との関係

主要な行動

芳賀高照

本報告書の主人公

-

父の仇討ちを期し、那須氏と結び宇都宮城主となるが、傀儡にされる。

芳賀高経

宇都宮家重臣

主君・宇都宮尚綱と対立し、誅殺される。

宇都宮尚綱

下野宇都宮氏当主

主君

芳賀高経を誅殺。五月女坂の合戦で那須軍に討たれる。

壬生綱房

宇都宮家重臣

操縦者

尚綱の死後、宇都宮城を占拠。高照を傀儡の城主として利用する。

那須高資

下野那須氏当主

義兄弟(妹婿)、支援者

高照を支援し、尚綱を討つ。後に芳賀高定の謀略で暗殺される。

芳賀高定

宇都宮家重臣

敵対者、一族のライバル

尚綱の子・広綱に忠誠を誓い、高照とその支援者・那須高資を謀殺する。

宇都宮広綱

宇都宮尚綱の嫡男

主君の嫡男

幼少期に父を失い、芳賀高定に保護され、後に宇都宮城主に返り咲く。

第一章:名門・芳賀氏の栄光と葛藤

芳賀高照の悲劇的な運命を理解するためには、まず彼が背負っていた一族の歴史、すなわち下野国随一の名門家臣であった芳賀氏の栄光と、主家・宇都宮氏との間に横たわる根深い葛藤について知る必要がある。高照の行動は、彼の父、さらには祖父の代から続く権力闘争の延長線上にあった。

1.1. 紀清両党――宇都宮家を支えた二大武士団

芳賀氏は、天武天皇の子である舎人親王を祖とするとされる清原氏の後裔を称する一族である 1 。伝承によれば、平安時代中期、清原高重が花山院の勅勘を蒙り下野国芳賀郡に配流されたことに始まるとされる 3 。その後、子孫は同地に土着し、芳賀氏を名乗るようになった。

鎌倉時代初期、芳賀高親が宇都宮朝綱に従って源頼朝の奥州征伐に参加し、武功を挙げたことで、芳賀氏は宇都宮氏の家臣団の中核としての地位を確立する 4 。この時、同じく宇都宮氏配下で紀氏を本姓とする益子氏も目覚ましい活躍を見せた。芳賀氏率いる武士団は本姓にちなみ「清党」、益子氏率いる武士団は「紀党」と呼ばれ、この二大勢力は「紀清両党」として並び称された 3 。彼らは宇都宮氏の軍事力を支える両翼として、その後の歴史を通じて絶大な影響力を持ち続けた 1 。南北朝時代の武将・楠木正成が「宇都宮氏は坂東一の弓矢とりで、その両翼たる芳賀氏、益子氏ら紀清両党は戦場において命を捨てることを厭わない」と評したという逸話は、彼らの武名がいかに轟いていたかを物語っている 1

1.2. 芳賀氏の権勢と主家との対立の萌芽

宇都宮氏の家臣団筆頭として、芳賀氏は室町時代から戦国時代にかけて、その権勢をますます強大化させていった。時には主君の権威すら凌駕するほどの力を持ち、宇都宮家の家政を事実上掌握することも少なくなかった 3 。当主が発給すべき文書を芳賀氏の当主が代わって発給し、主君がそれを追認するといった事態すら見られた 3

このような家臣の専横は、主君との間に深刻な緊張関係を生み出す。その対立が初めて爆発したのが、永正9年(1512年)に発生した「宇都宮錯乱」である 11 。当時の宇都宮氏当主・宇都宮成綱は、失墜した当主の権威を回復しようと試みる英主であった 10 。彼は、家中の実権を握り、古河公方を巡る対立で自分とは異なる方針を取るなど、専横を極めた芳賀高勝(芳賀高照の伯父)を謀殺した 11 。これをきっかけに芳賀一族は大規模な反乱を起こすが、成綱は壬生綱重(壬生綱房の父)らの活躍もあって約2年かけてこれを鎮圧 10 。芳賀氏を自らの支配体制に組み込むことに成功した。

しかし、この事件は芳賀一族の心に、主家に対する拭い去れない遺恨を残した。芳賀高照の父である芳賀高経は、この宇都宮錯乱において兄・高勝と共に成綱に抵抗し、敗れた当事者の一人であった 12 。彼の胸中には、この時から主家への復讐の念が宿っていたとしても不思議ではない。

1.3. 父・芳賀高経の野心と挫折:主君・宇都宮尚綱との対立構造

宇都宮錯乱後も、芳賀高経の野心は衰えなかった。彼は宇都宮成綱の子・忠綱の代になると、同じく宇都宮家中で勢力を伸ばしていた壬生綱房らと結び、忠綱の叔父にあたる宇都宮興綱を擁立して忠綱を追放。興綱に家督を継がせた 15 。さらにその後、今度はその興綱をも壬生綱房と共に隠居に追い込み、自害させている 17 。これらの行動は、高経が宇都宮家の家督相続に深く介入し、自らの意のままになる当主を立てることで家中の実権を掌握しようとする、強い意志の表れであった。

興綱の子・宇都宮尚綱(初名は俊綱)が家督を継ぐと、高経の権勢は頂点に達した。天文3年(1534年)の文書では、主君である尚綱が発給する安堵状に対し、高経がその前日に副状を発給するという、主従の序列を完全に無視した事例が確認されている 20 。これはかつての宇都宮錯乱の原因となった状況の再現であり、尚綱が高経に対して強い警戒心と敵意を抱くのは当然のことであった。

両者の対立が決定的となった背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。一つは、同じく野心家であった壬生綱房との権力闘争である。綱房は高経と協力して興綱を排除したが、その裏では尚綱に接近し、高経が謀反を企んでいるといった噂を流すなどして、両者の対立を煽っていた節がある 13 。綱房にとって、宇都宮家中で自らと並ぶ実力者である高経は排除すべき競争相手であり、主君・尚綱の手によって葬り去らせることが最も効率的な策略であった。

また、周辺勢力である小山氏との和平交渉を巡る路線対立も、対立の一因として指摘されている 22 。高経が進めていた和平交渉が、結果的に小山・結城氏の宇都宮領侵攻によって破綻したことで、尚綱は高経への不信感を募らせたという。

芳賀高照の悲劇は、彼が生まれる以前から、父・高経の代にその根源が形成されていたと言える。高経の死は、単なる一個人の誅殺ではなく、宇都宮錯乱以来数十年にわたって続いてきた、主家の権力回復を目指す動きと、それを許さない筆頭重臣・芳賀氏との構造的対立の最終的な帰結であった。高照は、父個人の無念だけでなく、芳賀氏という一族が抱える「失われた権勢」という歴史的な負債を、その誕生と共に背負うことになったのである。

第二章:流転の始まり――父の死と那須への亡命

父・芳賀高経と主君・宇都宮尚綱との対立は、ついに破局を迎える。この父の死が、芳賀高照の運命を大きく狂わせ、故郷を追われる流転の人生の幕開けとなった。それは単なる逃避行ではなく、復讐と家名再興を期した、次なる戦いへの序章でもあった。

2.1. 芳賀高経の誅殺と芳賀氏の分裂

天文10年(1541年)、宇都宮尚綱との対立がもはや修復不可能な段階に達した芳賀高経は、皆川氏と手を結び、ついに反乱の兵を挙げた 22 。彼は宇都宮城の南方にある児山城に籠城して尚綱の軍勢に抵抗するが、衆寡敵せず、敗北。捕らえられて誅殺された 3 。これにより、長年にわたり宇都宮家中で権勢を振るった芳賀高経は、その生涯を閉じた。

高経の死によって空席となった芳賀氏の家督に対し、宇都宮尚綱は巧みな一手を打つ。彼は高経の嫡男である高照を後継者とせず、芳賀氏と並ぶ紀清両党の一翼、紀党の棟梁である益子勝宗の三男・益子宗之(ましこ むねゆき)を抜擢し、芳賀氏の名跡を継がせたのである 3 。宗之は名を芳賀高定(はが たかさだ)と改め、真岡城主として新たな芳賀氏当主となった。

この人事は、尚綱による「芳賀氏弱体化政策」の集大成であった。宿敵であった高経の血統を家督から排除する一方で、同じ清党の武士団からの反発を避けるため、芳賀という名跡自体は存続させる。さらに、後継者としてライバル関係にあった益子氏から忠実な人物を送り込むことで、芳賀氏を完全に自らの統制下に置こうとしたのである。この策は、宇都宮家中の安定化を目指した高度な政治的判断であったが、同時に新たな火種を生むことになった。本来ならば家督を継ぐはずであった嫡男・高照の存在を完全に無視したこの措置は、彼の胸に復讐の炎を燃え上がらせ、外部勢力と結びつくことを必然づける結果となった。芳賀氏はここに、正統な後継者を自認する高照と、主君によって新たに立てられた高定という、二つの対立する流れに分裂したのである。

2.2. 故郷を追われた高照:妹婿・那須高資を頼る

父を殺され、家督まで奪われた高照にとって、もはや下野国に安住の地はなかった。彼は再起を図るため、まず奥州の白河結城氏のもとへ、次いで下野国東部に勢力を持つ那須氏を頼って落ち延びた 6

高照が最終的に那須氏を頼ったのには、明確な理由があった。彼の妹が、那須氏の当主である那須高資(なす たかすけ)の室となっていたのである 6 。この姻戚関係は、亡命者である高照にとって、まさに生命線であった。

一方、那須高資にとっても、高照の亡命は渡りに船であった。那須氏は長年、宇都宮氏と領土を巡って争いを続けており 24 、常に宇都宮領への侵攻の機会を窺っていた。そこに、宇都宮氏の筆頭家臣であった芳賀氏の正統な嫡男が転がり込んできたのである。高照は宇都宮家の内情に精通しており、何よりも彼の存在は、那須氏が宇都宮氏を攻撃するための「大義名分」となった 25 。すなわち、「宇都宮尚綱に不当に父を殺され、家を追われた芳賀高照を助け、正義を取り戻す」という旗印を掲げることが可能になったのである。

こうして、高照の亡命は単なる逃亡ではなく、復讐を望む高照と、領土的野心を持つ那須高資の利害が完全に一致したことによる「戦略的亡命」となった。高照は那須氏の庇護下で雌伏の時を過ごし、父の仇である宇都宮尚綱に一矢報いる機会を待ち続けた。その機会は、8年後に訪れることになる。

第三章:運命の転回点――喜連川五月女坂の合戦(天文18年/1549年)

天文18年(1549年)9月、下野国喜連川の五月女坂(そうとめざか)で起こった合戦は、芳賀高照の人生における最大の転換点となった。この戦いで彼は父の仇を討つという年来の悲願を達成するが、それは同時に、彼の運命が自らの手を離れ、他者の野心によって操られる傀儡となることの始まりでもあった。

3.1. 合戦の勃発:那須氏の挙兵と高照の役割

那須氏のもとに身を寄せて8年、ついに好機が訪れた。天文18年9月、那須高資は芳賀高照を旗頭に掲げ、宇都宮領への侵攻を開始した 23 。これに対し、時の古河公方・足利晴氏の命を受けた宇都宮尚綱は、2000から2500騎ともいわれる大軍を率いてこれを迎え撃つべく出陣した 27

この合戦において、芳賀高照が果たした役割は極めて重要であった。彼は、那須軍に宇都宮侵攻の「大義名分」を与えたのである 25 。これにより、那須高資の軍事行動は単なる領土的野心による侵略ではなく、「主君に虐げられた忠臣の子を救うための義戦」という体裁を整えることができた。また、宇都宮家の元重臣の嫡男として、宇都宮軍の編成や武将の配置といった内部情報を那須側に提供した可能性も指摘されているが、その具体的な内容を記した史料は確認されていない 20 。いずれにせよ、彼の存在そのものが、那須軍の士気を高め、宇都宮家臣団に動揺を与える上で大きな効果を持っていたことは間違いない。

3.2. 寡兵が大軍を破る:那須軍の奇襲と宇都宮尚綱の最期

両軍は、下野国塩谷郡の喜連川に流れる荒川を挟み、五月女坂(現在の栃木県さくら市)で激突した 25 。那須軍の兵力は300から500騎程度とされ、兵力では宇都宮軍が圧倒的に優勢であった 27 。戦いは当初、数の上で勝る宇都宮軍の優勢で進み、那須軍は後退を余儀なくされた。

しかし、これは那須高資の周到な策略であった。彼は五月女坂の地形を巧みに利用し、あらかじめ伏兵を潜ませていたのである。宇都宮軍が追撃のために坂に差し掛かったところを狙い、高資は伏兵に一斉攻撃を命じた 25 。不意を突かれた宇都宮軍は、狭い坂道で身動きが取れず大混乱に陥り、戦況は一瞬にして逆転した。

この混乱を収拾しようと、総大将である宇都宮尚綱自らが馬を駆って前線に出た。しかし、これが彼の命運を尽きさせた。那須方の武将・伊王野資宗の家臣である鮎ヶ瀬弥五郎(実光)が放った一本の矢が、尚綱の体を正確に射抜いたのである 24 。総大将のまさかの戦死により、宇都宮軍の指揮系統は完全に崩壊。兵は蜘蛛の子を散らすように敗走し、合戦は那須軍の劇的な勝利に終わった 25 。芳賀高照にとって、父・高経を誅殺した宿敵・宇都宮尚綱が目の前で討ち取られたこの瞬間は、まさに生涯の頂点であっただろう。

3.3. 権力の空白と壬生綱房の下剋上

総大将・宇都宮尚綱の戦死という衝撃的な報せは、宇都宮家に致命的な権力の空白を生み出した。そして、この千載一遇の好機を逃さなかったのが、宇都宮城で留守を預かっていた宿老・壬生綱房であった 25

綱房は、かねてより抱いていた下剋上の野心を実行に移す。彼は主君の死の混乱に乗じて宇都宮城を完全に掌握し、事実上の乗っ取りを果たしたのである 21 。この綱房の行動は、単なる火事場泥棒的なものではなく、那須氏との内通を通じて 3 、尚綱の敗北を予期、あるいは画策していた可能性すら示唆される、周到に準備された計画であった。五月女坂の戦いは、綱房にとって、自らの野望を実現するための絶好の舞台装置だったのである。

この下剋上により、宇都宮氏の正統な後継者であった尚綱の嫡男・伊勢寿丸(後の宇都宮広綱、当時わずか5歳)は、もはや居城に留まることはできなかった。彼は、宇都宮家への忠誠を貫くもう一人の重臣、芳賀高定に腕を抱かれて城を脱出。高定の居城である真岡城へと落ち延び、再起を誓うこととなる 23 。下野国の中心地である宇都宮は、こうして一時的に宇都宮氏の手を離れ、新たな支配者を迎えることになった。

第四章:傀儡の城主――宇都宮城における栄華と孤立

喜連川五月女坂の合戦で父の仇を討った芳賀高照は、勝利者の一員として、長年離れていた宇都宮城への帰還を果たした。しかし、彼を待ち受けていたのは、栄光の城主としての座ではなく、より大きな権力者に操られる傀儡としての無力な日々であった。彼の人生におけるこの時期は、外見上の栄華とは裏腹に、最も無力で孤立した期間であったと言える。

4.1. 壬生綱房の深謀:高照を宇都宮城主とした政治的意図

五月女坂の合戦後、宇都宮城を掌握した壬生綱房は、戦勝者である那須高資と和議を結び、芳賀高照を新たな宇都宮城主として正式に迎え入れた 20 。一見すると、これは高照の家名再興が成し遂げられたかのように見える。

しかし、これは老獪な綱房が仕掛けた巧妙な政治的策略であった。綱房自身が宇都宮城主として君臨すれば、それは完全な主家乗っ取りであり、旧宇都宮家臣団からの激しい反発を招くことは必至であった。そこで彼は、宇都宮氏に次ぐ名門であり、清党武士団の正統な血を引く芳賀高照を「お飾り」の城主として立てることで、自らの支配を正当化しようとしたのである 20 。高照は、綱房が旧宇都宮領を支配するための「シンボル」であり、家臣団を従わせるための「大義名分」として、巧みに利用されたに過ぎなかった 20

4.2. 盤石に見えた支配体制と、その内実

父の仇を討ち、宇都宮城主となった高照は、一時は「してやったり」という達成感に満たされていたかもしれない 20 。芳賀氏は宇都宮一族に準じる家格であり、家督継承権を持つという理屈も、形式上は成り立った 20

だが、その内実は全く異なっていた。城内の実権は完全に壬生綱房が掌握しており、高照は名目だけの城主、すなわち傀儡であった 20 。綱房は、自らの嫡男・綱雄を本拠地の壬生城に、弟の徳雪斎を鹿沼城に配置するなど、壬生一族による支配体制を着々と固めていった 21 。高照は、宇都宮城という名の鳥籠に閉じ込められ、実権者である綱房の意のままに動くしかない存在だったのである。

このような状況に、高照自身も強い不満と不安を感じていたと推測される。史料には、高照と綱房との間に不和があったことを示唆する記述が見られる 20 。しかし、城内では完全に無力な彼に、綱房の支配に抗う術はなかった。

4.3. 支援者・那須高資の死と高照の孤立化

城内で孤立する高照にとって、唯一頼みとなる存在が、城外にいる強力な支援者、すなわち義理の兄弟である那須高資であった。高資の軍事力が、綱房に対する牽制となり、高照の傀儡としての地位をかろうじて支えていた。

しかし、その最後の頼みの綱も、宇都宮家の再興に執念を燃やす芳賀高定によって断ち切られる。天文20年(1551年)、高定は那須家中の内紛、すなわち高資とその弟・資胤(すけたね)との間の対立に目をつけた 3 。彼は資胤を支持する那須家の重臣・千本資俊(ちもと すけとし)を巧みに唆し、高資を謀殺させることに成功する 3 。千本城に招かれた高資は、宴席で不意を突かれ、暗殺されたのである。

この那須高資の暗殺は、高定にとって主君・尚綱の仇討ちであると同時に、宇都宮城にいる高照の最も強力な後ろ盾を排除するという、極めて戦略的な一手であった 3 。高定は、壬生・那須連合軍が守る宇都宮城を直接攻撃するのではなく、その連合の要である高資を謀略によって排除するという見事な間接的アプローチで、敵の戦力を大幅に削いだのである。

最大の支援者を失った高照は、壬生綱房の支配下で完全に孤立無援の状態に陥った。彼の権威は、綱房が彼を必要とする限りにおいてのみ存在する借り物であったが、その鳥籠の最後の窓さえも、この事件によって固く閉ざされてしまったのである。彼の運命は、もはや完全に他者の手によって決定づけられることとなった。

第五章:謀略の終焉――芳賀高定の刃(弘治元年/1555年)

宇都宮城で孤立を深める芳賀高照に対し、城外では宇都宮家再興の炎が静かに、しかし力強く燃え上がっていた。その中心にいたのが、もう一人の芳賀氏、芳賀高定であった。彼の周到な謀略は、ついに高照自身の命脈を絶つべく、最後の刃を向けることになる。

5.1. 忠臣・芳賀高定の台頭と宇都宮家再興への執念

芳賀高定は、主君・宇都宮尚綱の死後、その遺児である伊勢寿丸(後の広綱)を自らの居城・真岡城に保護し、忠臣として幼い主君を支え続けていた 30 。彼は益子氏の出身でありながら芳賀氏を継いだという経緯を持つが、その行動は一貫して宇都宮家への忠誠に貫かれていた。

那須高資の謀殺に成功し、高照の外部からの支援を断ち切った高定は、次なる標的を、壬生綱房の傀儡となり宇都宮家を簒奪している張本人、芳賀高照その人に定めた。宇都宮家再興のためには、この偽りの当主を排除することが不可欠であった。

5.2. 真岡への誘い:父・高経の法要を名目とした謀略

弘治元年(1555年)、芳賀高定は驚くべき行動に出る。彼は、敵対する高照の父であり、かつて自らがその跡を継ぐことになった芳賀高経の法要を執り行うという名目で、高照を真岡城へと招いたのである 20

これは、常識的に考えればあまりにも危険な誘いであった。しかし、高照はこの誘いに応じてしまう。その背景には、宇都宮城における彼の絶望的な状況があった。壬生綱房の完全な傀儡となり、その綱房との関係も悪化の一途をたどっていた高照にとって、このまま宇都宮城にいても未来はなかった 20

高定による「父の法要」という口実は、高照の心理的な弱点を突いた、極めて巧妙な策であった。高照の行動原理は、その根源において常に「父」にあった。父の仇討ちのために立ち上がり、父がかつて拠点とした宇都宮家に戻った。その父の法要を、敵であるはずの、しかし同じ芳賀一族である高定が執り行うという異常な状況は、高照に「あるいは和解の道があるのではないか」「同じ芳賀一族としての情に訴えることができるのではないか」という、一縷の望みを抱かせた可能性がある。綱房の支配から脱却したいという強い動機が、この危険な賭けに彼を向かわせたのである。

5.3. 高照の最期とその諸説

真岡城に赴いた高照が、二度と生きて宇都宮城の土を踏むことはなかった。彼は芳賀高定の謀略にかかり、その地で命を落としたのである 6

その最期については、いくつかの説が伝えられている。『下野国誌』などの記録によれば、真岡城で高定と対面した高照は、高定からこれまでの宇都宮家に対する裏切り行為や所業の非を厳しく説かれた。すると高照は自らの過ちを悟って涙を流し、訓戒を受け入れながら自刃したとされている 20 。また、高定に詰め寄られ、自刃に追い込まれたという説もある。真相がどちらであったにせよ、彼が芳賀高定の謀略によって非業の死を遂げたことは、歴史的な事実として確実視されている。

こうして、父の死から14年、復讐と家名再興を夢見て流転の人生を送った芳賀高照は、その生涯を閉じた。彼の亡骸は、後に弟の高継によって宇都宮市内の清巌寺に葬られたとされ、現在も同寺にはその墓と伝わる石塔が残っている 6

高照の死は、単に一個人の死に留まらなかった。それは、壬生綱房による宇都宮支配の正当性を根底から覆す、決定的な一撃となった。傀儡を失った綱房の権威は失墜し、宇都宮家復帰への道筋が、この瞬間、確固たるものとなったのである。

終章:歴史の奔流に消えた生涯――芳賀高照の歴史的意義

芳賀高照の生涯は、名門の嫡男として生まれながらも、ついに自らの意志で時代を動かすことなく、他者の野心と権力闘争の渦に翻弄され続けた、まさに悲劇そのものであった。彼の人生を総括し、その死が下野国の歴史に何をもたらしたのかを考察することで、彼の歴史における位置づけを明らかにしたい。

高照の生涯の総括

高照の行動は、一貫して「父・高経の仇討ち」と「芳賀宗家の再興」という動機に根差していた。しかし、その純粋な動機は、彼を取り巻くより大きな権力者たち――那須高資の領土的野心や、壬生綱房の下剋上の野望――に巧みに利用された。彼は喜連川五月女坂の合戦で父の仇を討つという目的を達成したが、その瞬間から、彼は復讐者から支配者の傀儡へとその役割を変えられてしまった。彼の生涯は、戦国という時代において、個人の意志や力が、より大きな権力構造や時代のうねりの前ではいかに無力であるかを示す、痛切な一例と言える。

高照の死がもたらした影響

芳賀高照は自ら歴史を創造することはなかったが、皮肉にも彼の死は、下野国の歴史を大きく動かす引き金となった。

第一に、 壬生氏の支配体制の崩壊 である。壬生綱房による宇都宮支配の唯一の正当性は、「芳賀氏の血を引く高照を当主として擁立している」という点にあった 20 。高照が死んだことで、綱房は単なる簒奪者となり、旧宇都宮家臣団をまとめる大義名分を完全に失った。事実、高照の死から間もなく、弘治元年(1555年)の同月、綱房自身も宇都宮城で急死している 21 。これは病死とも、芳賀高定による謀殺とも言われるが、いずれにせよ、傀儡を失った支配者の権威失墜を象徴する出来事であった。綱房の跡を継いだ嫡男・綱雄も、もはや勢いを維持できず、弘治3年(1557年)には芳賀高定と宇都宮広綱に宇都宮城を奪還され、本拠地の鹿沼へと退いた 33 。これにより、壬生氏による下野中央部支配は、わずか8年で終焉を迎えた。

第二に、 宇都宮氏の再興 である。高照と綱房という二大障害が消滅したことで、芳賀高定は宇都宮家再興の総仕上げに取り掛かることができた。彼は常陸の佐竹氏や相模の後北条氏といった周辺大名の支援を取り付けるなど、卓越した外交手腕を発揮し 20 、ついに主君・宇都宮広綱の宇都宮城帰還という大願を成し遂げた。高照の死は、まさに滅亡の淵にあった宇都宮氏が、その危機から脱し、戦国大名として再興を果たすための、最後の関門だったのである。

歴史における芳賀高照の位置づけ

以上のことから、芳賀高照は戦国期下野国の歴史において、重要な「触媒」として機能した人物と評価できる。彼は自らが主体的に何かを成し遂げたわけではない。しかし、彼の存在が喜連川五月女坂の戦いを引き起こし、宇都宮尚綱の死と壬生綱房の下剋上を招いた。そして、彼の死が壬生氏の支配を終わらせ、宇都宮氏の再興を決定づけた。彼は歴史の主役ではなかったが、彼の存在と死がなければ、下野国の歴史は大きく異なる様相を呈していたであろう。

宇都宮市大通りに現存する清巌寺には、芳賀高照の墓と伝えられる宝篋印塔が、弟であり、後に芳賀氏の家督を継いだ芳賀高継の墓と並んで静かに佇んでいる 38 。激動の時代に翻弄され、一時は敵味方に分かれて争いながらも、同じ芳賀一族として生きた兄弟の複雑な運命を、二つの石塔は後世に語り継いでいる。芳賀高照の生涯は、華々しい英雄たちの物語の影に埋もれた、無数の人々の悲劇の一つとして、戦国という時代の多層的な現実を我々に伝えているのである。

引用文献

  1. 芳賀高名 はがたかな - 坂東武士図鑑 https://www.bando-bushi.com/post/haga-takana
  2. 武家家伝_芳賀氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/haga_k.html
  3. 芳賀高定Haga Takasada | 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/kanto/haga-takasada
  4. 芳賀氏(はがうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%8A%B3%E8%B3%80%E6%B0%8F-1194903
  5. 飛山城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kantou/tobiyama.j/tobiyama.j.html
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