戦国時代の日本列島は、各地で旧来の権威が失墜し、実力を持つ者が新たな支配者として台頭する「下剋上」の嵐が吹き荒れた時代であった。畿内に隣接する丹波国もその例外ではなく、中央の政治動乱の波を直接受け、在地国人たちの興亡が激しく繰り返された。本報告書が主題とする荻野秋清(おぎの あききよ)は、この丹波国の旧き名族・荻野氏の当主として、時代の大きな転換点に翻弄され、そして実の甥とも、あるいは婿の父ともされる赤井直正(あかい なおまさ)によってその命を奪われた悲劇の人物として、歴史に名を留めている 1 。
一般的に荻野秋清は、後に「丹波の赤鬼」と恐れられる猛将・赤井直正の台頭を際立たせるための、いわば引き立て役として語られることが多い。その人物像は、「配下を見殺しにして信望を失い、謀殺された頼りない城主」という一面的な評価に留まりがちである。しかし、彼の生涯を丹念に追うことで、戦国中期における一地方国人の苦悩と、旧勢力が新興勢力に取って代わられる時代の必然性を、より深く理解することができる。
本報告書は、この「謀殺された悲劇の城主」という評価を超え、荻野秋清という一人の武将の統治者としての一面、彼を取り巻いていた複雑な人間関係、そして彼の死が持つ歴史的な意味を、現存する史料や研究成果に基づき、多角的に再検証することを目的とする。秋清の死は、単なる一族の内紛に終わるものではない。それは戦国期丹波の勢力図を根底から塗り替え、やがて天下統一を目指す織田信長、そしてその先兵である明智光秀による丹波平定へと繋がる、極めて重要な歴史的転換点であった。本報告書は、秋清の生涯を徹底的に掘り下げることを通じて、戦国という時代のダイナミズムと、そこに生きた武将たちの実像に迫るものである。
荻野秋清という人物を理解するためには、まず彼が背負っていた「荻野氏」という家の歴史的背景と、彼が生きた時代の丹波国が置かれていた複雑な政治的状況を把握する必要がある。本章では、その二つの側面から、秋清が登場する以前の丹波国の姿を明らかにする。
荻野氏は、鎌倉時代末期から丹波国氷上郡に根を張る有力な御家人であったことが確認されている 3 。その勢力は南北朝時代に一層拡大し、一族の荻野朝忠は丹波国の守護代に任じられるなど、地域における名門としての地位を確立していた 1 。彼らが本拠とした黒井城のある春日部荘は、当初は赤松氏の所領であったが、荻野氏がその代官を務めるうちに、主家の衰退に乗じて実質的な支配権を掌握していったと考えられている 1 。荻野秋清は、このような由緒ある家柄の当主として、丹波国に君臨していたのである。
一方で、秋清を討ち取った赤井氏との関係は複雑である。後世に編纂された『寛政重修諸家譜』などの系図によれば、赤井氏と荻野氏は、同じく丹波の芦田氏から分かれた同族であるとされている 8 。しかし、この同族説は同時代の史料では裏付けが取れず、事実とは異なるとの見方が有力である 1 。むしろ、もともと別個の勢力であった赤井氏が、武力で台頭した後に、自らの支配の正当性を権威づけるため、丹波の名族である荻野氏や芦田氏の系譜に自らを繋げた可能性が指摘されている 9 。新興勢力が旧名族の権威を利用し、吸収していくのは戦国時代によく見られる戦略であり、赤井直正が荻野氏の養子に入り、生涯「荻野」姓を名乗り続けたことも、その一環と解釈できる 10 。この名目上の親族関係と、実態としての新旧勢力の力関係の不均衡が、後の両者の間に潜む緊張の源泉となり、やがて悲劇の伏線となっていくのである。
丹波国は地理的に京の都に隣接していたため、中央政界の動乱から逃れることはできなかった。室町幕府の権威が揺らぎ始めると、管領・細川京兆家の家督争い(両細川の乱)や、それに続く三好氏の台頭といった畿内の政争は、常に丹波国に直接的な影響を及ぼした 12 。
荻野秋清が生きた天文年間(1532-1555)の丹波は、まさに権力の空白地帯であり、複数の勢力が覇を競う不安定な情勢にあった。具体的には、口丹波(現在の京都府中部・南部)を拠点とする守護代の内藤氏、多紀郡(現在の兵庫県丹波篠山市周辺)に勢力を張る波多野氏、そして氷上郡(現在の兵庫県丹波市)を中心とする荻野氏や赤井氏といった在地国人たちが、それぞれ畿内の大勢力と結びつきながら、互いに牽制しあう三つ巴の構図を呈していた 12 。このような状況下では、一国人の動向が即座に地域全体のパワーバランスを変動させかねず、荻野秋清は常に緊張を強いられる中で、一族の舵取りを担わなければならなかったのである。彼の統治や決断は、単に丹波国内の事情だけでなく、常に畿内中央の政争という外部からの圧力というマクロな視点なくしては正しく評価することはできない。
荻野氏の本拠であった黒井城は、丹波における最重要拠点の一つであった。標高356メートルの猪ノ口山に築かれたこの城は、三方に伸びる尾根筋に巧みに曲輪群を配置した、全山要塞型の典型的な戦国山城である 16 。その堅固さは、後に赤井直正が城主となった際、明智光秀率いる織田軍の猛攻を長期にわたって食い止めたことからも証明されている 6 。地元では、その美しい姿から「保月城(ほげつじょう)」という異名でも呼ばれていた 19 。
さらに、黒井城は軍事拠点としてだけでなく、経済・交通の要衝としての価値も極めて高かった。城の麓には、丹後と京を結ぶ丹後街道(旧福知山街道)や京街道が東西に走り、人や物資の往来を管理する上で絶好の立地にあった 20 。この城を支配することは、丹波奥三郡(氷上・天田・何鹿)に広大な影響力を行使し、さらには隣国の但馬や丹後への進出を窺う上でも不可欠な戦略的拠点であった。荻野秋清がこの城の主であったことは、彼が丹波国において決して小さな存在ではなかったことを示している。
謀殺される悲劇の人物として知られる荻野秋清だが、彼はどのような統治者だったのだろうか。断片的な史料から浮かび上がるのは、戦国乱世の非情な論理に適応しきれなかった、旧世代の領主の姿である。本章では、彼の人物像を「信仰心」「家臣団との関係」「赤井直正との血縁」という三つの側面から深く掘り下げる。
史料によれば、荻野秋清は仏教への信仰が非常に篤い人物であった。天文13年(1544年)には、領内の御油荘にある円通寺に田地を寄進した記録が明確に残っている 1 。これは、領主として寺社勢力を保護する一般的な統治行為の一環ではあるが、後世の記録では、この行為が彼の失脚の一因として語られることになる。
すなわち、戦乱が絶えない時代において、軍事力の維持と拡大こそが領主の最優先課題であったにもかかわらず、秋清は寺社への寄進に資産を費やした。これが結果的に荻野氏の経済基盤を脆弱化させ、家臣団の間に不満を蓄積させる原因になったというのである 10 。絶えず合戦の危機に晒されている家臣たちにとって、主君の篤すぎる信仰心は、現実的な軍事・経済政策を疎かにする「頼りない」行為と映った可能性は否定できない。平時であれば名君の証とされたかもしれない宗教的行為が、戦国時代という特殊な環境下では、統治者としての評価を損なう致命的な要因となり得たのである。
秋清の統治者としての資質に決定的な疑念を抱かせたのが、いわゆる「秋山修理太夫見殺し事件」である。秋清の家臣で、支城である高尾城(別名:長谷城)の城主であった秋山修理太夫が、丹波の有力国人である波多野晴通の攻撃を受けた際、主君であるはずの秋清は援軍を送らず、結果的に秋山氏を見殺しにしてしまったと伝えられている 10 。
この事件が秋清の信望を完全に失墜させたことは想像に難くない 22 。主君が自らの命を懸けて仕える家臣を守らないという行為は、封建的な主従関係の根幹を揺るがす最大の裏切りである。秋清がなぜ援軍を送らなかったのか、その理由は定かではない。波多野氏との全面対決を恐れたためか、あるいは単に軍事的な判断を誤ったためか。いずれにせよ、この一件によって家臣団は秋清に愛想を尽かし、彼を見限り、より頼りになる新たな指導者を求めるようになった。この家臣団の離反こそが、赤井直正によるクーデターが、ほとんど抵抗なく成功する土壌を形成したのである。秋清の行動は、彼が戦国乱世の非情な論理に適応できなかった「旧世代の領主」であったことを、何よりも雄弁に物語っている。
荻野秋清と、彼を殺害した赤井直正との関係は、一般的に「叔父と甥」として知られている 2 。これは、直正の母が秋清の妻と姉妹であった、あるいは直正の父・赤井時家の妻が秋清の姉妹であったなど、いくつかの説があるが、いずれにせよ近しい親族であったことは確かである 1 。
しかし、この関係にはもう一つの説が存在する。赤井氏側の家譜である『赤井系図』には、秋清は直正の「外舅(がいきゅう)」、すなわち妻の父であったと記されているのである 1 。もしこの記述が事実であれば、直正は秋清の娘を娶っていたことになり、両者の関係は単なる叔父・甥以上に緊密な「義理の親子」であったことになる。この場合、直正の行為は単なる下剋上ではなく、岳父を殺してその地位と権力を奪うという、より深刻で背信的な行為となる。
この血縁関係の曖昧さは、単なる記録の混乱とは言い切れない。戦国武将が自らの立場を正当化し、有利にするために、人間関係や系図を意図的に解釈、あるいは操作していた可能性を示唆しているからである。例えば、赤井氏側が自らの系図に「外舅」と記した背景には、婚姻によって一度は荻野氏の後継者候補として正当に認められていたことを示し、後の城の乗っ取りを単なる簒奪ではなく「継承」に近い形であったと見せかける意図があったのかもしれない。以下の表は、この複雑な関係性に関する諸説をまとめたものである。
表1:荻野秋清と赤井直正の関係性に関する諸説
説 |
続柄 |
典拠史料 |
考察 |
叔父説 |
秋清が直正の叔父(母方の叔父または父方の義理の兄弟) |
伝承、各種軍記物 2 |
最も一般的に流布している説。親族間の権力闘争という構図を分かりやすく示す。 |
外舅説 |
秋清が直正の舅(妻の父) |
『赤井系図』 1 |
より緊密な関係性を示唆する。もし事実なら、直正の行為は単なる下剋上ではなく、岳父を殺してその地位を奪うという、より深刻な裏切り行為となる。系図の信憑性には議論があるが、赤井氏側が自らの行為を正当化するため、あるいは関係性の複雑さを示すために記録した可能性がある。 |
本報告書の中核をなすのが、天文23年(1554年)に起きた荻野秋清の謀殺事件である。この事件は、丹波国の勢力図を一変させただけでなく、戦国時代における「下剋上」の典型例として、時代の本質を象徴している。本章では、事件の引き金から動機、そして具体的な経緯までを詳細に分析する。
利用者から提供された情報には「(秋清が)内藤国貞を撃破」とあるが、これは史実とは異なる。丹波守護代であった内藤国貞は、天文22年(1553年)9月、畿内の覇者であった三好長慶に与し、反三好勢力の波多野氏らと戦った際に戦死している 9 。この戦いに荻野秋清が主力として関与し、国貞を討ち取ったという直接的な記録は見当たらない。
しかし、この内藤国貞の死こそが、秋清の運命を暗転させる間接的な引き金となった。国貞の死によって丹波の権力構造に一時的な空白が生まれ、政治的な流動性が高まったのである。この機に乗じて、三好長慶が傀儡として擁立していた管領・細川氏綱は、丹波国の国人たちに対し、国貞の後継者として送り込まれた松永久秀の弟・松永長頼(後の内藤宗勝)に忠節を尽くすよう求める通達を発した 1 。
これにより、丹波の国人たちは、畿内の新興覇者である三好・松永方につくか、あるいは伝統的な勢力である反三好方と連携を続けるかという、重大な政治的決断を迫られることになった。この踏み絵ともいえる状況が、荻野氏内部の路線対立を顕在化させ、赤井直正に付け入る隙を与えることになったのである。
表2:丹波国をめぐる主要年表(天文22年~23年)
年月 |
出来事 |
関連史料 |
影響 |
天文22年(1553) 9月 |
丹波守護代・内藤国貞が、三好・波多野勢との戦闘で戦死。 |
9 |
丹波における旧来の権力構造に空白が生まれる。 |
天文22年(1553) 9月以降 |
細川氏綱(三好長慶の傀儡)が、丹波国人に対し、国貞の後継者・松永長頼への忠節を求める通達を出す。 |
1 |
丹波国人たちは、畿内の覇者である三好・松永方につくか、反三好勢力と連携するかの踏み絵を迫られる。 |
天文23年(1554) 1月2日 |
荻野秋清が、甥(または婿)の赤井直正によって謀殺される。 |
1 |
黒井城は直正の手に落ち、赤井氏が丹波奥三郡における最有力勢力へと躍進する。 |
秋清謀殺の動機は、単一の理由に帰結させることはできず、複数の要因が複雑に絡み合った結果と見るべきである。
第一に、最も直接的な動機は、赤井直正自身の野心である。当時、直正は赤井氏の次男という立場であったが、その武勇と才覚を見込まれ、黒井城の支城である朝日城を拠点とする地侍集団「荻野十八人衆」の盟主として迎えられていた 9 。彼はすでに荻野氏の内部に強固な支持基盤を築き上げており、本城である黒井城を奪取し、丹波一円に覇を唱えようとする野心を抱いていたことは疑いようがない 3 。
第二に、荻野氏家臣団の同調と協力があった。前章で述べた通り、秋清は家臣の秋山修理太夫を見殺しにするなど、そのリーダーシップに深刻な疑問符がついていた 22 。主君への不信と不満が渦巻く中、家臣たちはより強力で頼りになるリーダーとして直正に期待を寄せ、彼のクーデターを黙認、あるいは積極的に支援した可能性が極めて高い 3 。謀殺の際に家臣たちが抵抗した様子が見られないことが、その何よりの証拠である。
そして第三に、直正が掲げた「大義名分」の存在である。『赤井系図』には、直正が秋清を討った理由として「外舅荻野某謀叛を企てるにより」と記されている 1 。この「謀叛」こそが、直正の行動を正当化する鍵であった。この「謀叛」とは、秋清が前述の細川氏綱の通達に応じ、三好・松永方へ味方しようとした政治的動向を指すと考えられる。当時、丹波の多くの国人にとっては、外部勢力である三好氏の支配下に入ることは望ましい選択ではなかった。直正は、秋清のこの動きを「丹波全体の利益に反する裏切り行為」と断じ、それを討伐するという公的な「大義名分」を掲げることで、私的な野心による主君殺しを、地域の秩序を守るための正義の戦いへと巧みにすり替えたのである。
事件が起きたのは、天文23年(1554年)1月2日のことであった 1 。場所は、戦時の拠点である山城・黒井城ではなく、黒井城の北約2キロに位置する平時の居館(下屋敷)であった留堀(とんぼり)城(現在の丹波市市島町酒梨)とされている 11 。
状況は、年始の挨拶や祝賀の宴席であったと伝わる 2 。直正は、誰もが油断し、無防備になるこの機会を周到に狙った。そして、宴席において自ら刃を振るったか、あるいは配下の者たちに命じて、叔父(または岳父)である秋清を刺殺した。この計画性の高さは、事件が偶発的なものではなく、綿密に練り上げられたクーデターであったことを明確に物語っている。秋清は、自らが信頼し、一族に迎え入れた若き才能によって、その生涯の幕を閉じることとなった。
荻野秋清の死と、それに伴う赤井直正の黒井城乗っ取りは、守護代や旧名族といった旧来の権威が、実力を持つ家臣や新興勢力によって打倒される、戦国時代の「下剋上」という現象を象徴する典型的な事例である 27 。
この動きは丹波国に限ったことではない。同時期、若狭国の守護であった武田氏は家臣の離反や周辺勢力の侵攻によって領国を失い 29 、越前国の名門守護・斯波氏もまた、守護代であった朝倉氏や織田氏に実権を奪われ、没落の一途をたどっていた 31 。これらの事例に共通するのは、室町時代を通じて維持されてきた「家格」や「血筋」といった伝統的権威が力を失い、純粋な「武力」や「経済力」、「統率力」といった実力が支配者を決定する時代へと移行したという、社会構造の根本的な変化である。荻野秋清の悲劇は、彼個人の資質の問題だけに帰するべきではなく、日本全国で同時多発的に進行していた、この巨大な歴史のうねりの中に位置づけて理解する必要がある。
荻野秋清の死は、一人の武将の生涯の終わりであると同時に、丹波国の新たな時代の始まりを告げる号砲であった。彼の死後、丹波の勢力図は劇的に変化し、その影響は後の歴史にまで及ぶことになる。本章では、秋清の死がもたらした具体的な変化と、その歴史的意義を考察する。
荻野秋清を謀殺し、黒井城を手中に収めた赤井直正は、この事件を機に「悪右衛門」を名乗るようになった 10 。現代の感覚では「悪」という字は否定的な意味合いを持つが、中世における「悪」は、既存の権威や秩序に屈しない並外れた強さや勇猛さを示す一種の尊称であった 2 。一説には、平安時代後期の伝説的な猛将・源義平(鎌倉悪源太)になぞらえたともいわれる 33 。この改名は、旧領主を討ち果たした自らの行為を隠すどころか、むしろそれを逆手にとり、旧来の秩序を破壊する新しい時代の実力者としての登場を、丹波内外に鮮烈に宣言する、巧みなブランド戦略であった。
「悪右衛門」を名乗った直正の勢いは、とどまるところを知らなかった。兄である赤井家の当主・家清が戦死すると、その子・忠家の後見人として赤井・荻野両氏の軍事力を完全に掌握 26 。そして永禄8年(1565年)には、かつて秋清が恭順しようとした相手である内藤宗勝(松永長頼)を合戦の末に討ち取り、丹波奥三郡(氷上・天田・何鹿)を完全に支配下に置いた 12 。こうして直正は、秋清の死からわずか10年余りで、一介の国人から丹波国に覇を唱える戦国大名へと飛躍を遂げ、「丹波の赤鬼」としてその名を近隣諸国に轟かせることになる。
直正は、秋清を殺害した後、その現場となった留堀城の近くに清安寺という寺院を建立し、秋清の菩提を丁重に弔ったと伝えられている 1 。主君であり、近親者でもあった人物を謀殺した張本人が、その犠牲者のために寺を建てるという行為は、一見すると矛盾に満ちている。
しかし、これは単なる罪滅ぼしや感傷的な行為ではない。戦国時代の支配者の思考を理解する上で、極めて示唆に富んだ、高度に政治的な統治行為であったと解釈できる。その意図は、複合的なものであったと考えられる。第一に、当時の価値観では、非業の死を遂げた者の怨霊は祟りをなし、災厄をもたらすと固く信じられていた。その魂を鎮めることは、新たな領主にとって自らの支配地と一族の安寧を守るための重要な務めであった。第二に、秋清に恩義を感じる旧家臣や地域住民に対し、自らが情け深い支配者であることをアピールし、人心を収攬するための政治的パフォーマンスとしての側面もあった。そして第三に、故人の菩遺を弔うという宗教的儀式は、正当な後継者のみが行うことができるものであり、この行為を通じて、自らの支配の正当性を内外に示す狙いがあった。直正は、秋清の「死」という事実そのものを、寺を建てるという行為によって自らが管理・支配する対象へと変え、新たな支配体制の礎として巧みに組み込んだのである。
荻野秋清の死をもって、鎌倉時代以来丹波に勢力を誇った名族・荻野氏は、独立した政治勢力として事実上、歴史の表舞台から姿を消した。その所領と家臣団は、赤井(荻野)直正の権力基盤へと完全に吸収された。直正は生涯「荻野」姓を名乗り続けたが 20 、それは荻野氏の旧領と家臣団を継承したことの証であり、彼の死後は、その子息たちは再び「赤井」姓を名乗ることになる 35 。
歴史的に、荻野秋清は長らく「丹波の赤鬼」赤井直正の武勇伝の序章を飾る、下剋上によって消え去った「弱き旧領主」としてのみ評価されてきた。しかし、近年の研究の進展により、彼が置かれていた時代の制約や、彼の一つ一つの行動が持つ政治的背景が再検討されつつある。彼の悲劇は、単に個人の資質の問題だけでなく、戦国という時代の構造的な変化の中で、旧来の価値観を持つ領主が生き残ることの困難さを象徴する事例として、改めて光が当てられている。
戦国時代の丹波国に生きた武将・荻野秋清は、旧き名族としての伝統と権威を背負いながらも、実力主義が全てを支配する乱世の激しい権力闘争の波に適応できず、歴史の闇に消えていった人物であった。彼の統治に見られる篤い信仰心や、家臣への対応に見られる甘さは、平時であれば美徳とされたかもしれないが、戦国時代が求める冷徹で合理的なリーダー像との間には、埋めがたい乖離があった。
しかし、彼の死は単なる個人的な悲劇に留まるものではない。それは、丹波国における旧勢力の時代の完全な終わりと、「丹波の赤鬼」赤井直正という新たな戦国大名の時代の幕開けを告げる、象徴的な事件であった。この丹波の勢力図の転換があったからこそ、やがて畿内統一を目指す織田信長と、その先兵である明智光秀の前に、一筋縄ではいかない強大な地域勢力が立ちはだかることになった。荻野秋清の死は、日本の歴史の大きなうねりへと繋がる、重要な一滴だったのである。
彼の生涯と死を深く理解することは、戦国という時代の本質、すなわち旧来の権威と新たな実力との間に繰り広げられた絶え間ない相克、そしてその中で生き、散っていった無数の武将たちの苦悩と決断を理解する上で、我々に極めて重要な示唆を与えてくれる。荻野秋清は、勝者である赤井直正の影に隠れた敗者ではあるが、彼の存在なくして、その後の丹波の歴史、ひいては日本の戦国史を正しく語ることはできないのである。