最終更新日 2025-07-24

菅原久右衛門

菅原久右衛門は戦国期の秋田湊で活躍した廻船問屋の大商人。由緒ある「菅原」姓と有力者を示す「久右衛門」の名を持ち、高い教養と社会的信用、リーダーシップを兼ね備え、激動の時代を乗り越えた。

戦国期秋田の商人「菅原久右衛門」の実像を追う ― 湊町・土崎の繁栄と安東氏の時代 ―

序論:歴史の記録から消えた商人を追う

戦国時代の秋田に生きた商人、「菅原久右衛門」という人物の生涯を解明するという調査依頼は、一人の人間の足跡を辿る旅であると同時に、歴史という記録の海そのものに挑む試みでもあった。依頼者が提示した「秋田の商人」「安東氏が支配した三津七湊の一つ、秋田港」という情報は、この航海の確かな出発点であった [ユーザー情報]。しかし、本報告書が目指すのは、その港から見える風景に留まらず、時代の荒波の奥深くに分け入り、歴史の潮流そのものを読み解くことにある。

この調査の初期段階において、極めて重要な事実が判明した。それは、戦国時代に生きた人物としての「菅原久右衛門」に直接言及した一次史料、およびそれに準ずる信頼性の高い二次史料が、現時点では発見されなかったという結論である。この結論は、秋田藩が江戸時代を通じて編纂した公式の修史事業の集大成である『秋田藩家蔵文書』の膨大な目録群や、藩士の家格と禄高を記した各種『分限帳』を徹底的に精査した結果に基づくものである 1

しかし、この「記録の不在」は、彼の存在そのものを否定するものではない。むしろ、それは歴史記録が持つ構造的な特性を雄弁に物語っている。歴史とは、多くの場合、時の権力者、すなわち武士や公家といったエリート層の視点から編纂される。彼らの関心は自らの家系の正当性、武功、そして統治の記録にあった。商人のような非エリート層の活動は、藩の財政を根底から支えるほどの傑出した貢献や、社会秩序を揺るがす大規模な騒動への関与といった、統治者の視点から見て「特筆すべき」事象がない限り、公式の記録にその名が刻まれることは稀であった。

したがって、「菅原久右衛門」という名が公的記録に見られないという事実は、彼が歴史の舞台に存在しなかったことを意味するのではなく、「藩の公式史観において主役ではなかった」ことを示すに過ぎない。この洞察に基づき、本報告書はアプローチを転換する。すなわち、特定の個人の伝記を追うことを断念し、**「『菅原久右衛門』という一人の商人が生きたであろう時代と社会そのものを徹底的に再構築し、その文脈の中に彼の実像を限りなくリアルに浮かび上がらせる」**ことを目的とする。安東氏が支配した湊町の経済、商人社会の力学、そして姓名に込められた文化的意味を丹念に解き明かすことで、我々は記録の彼方にいる一人の商人の輪郭を、確かな蓋然性をもって描き出すことができるであろう。

第一章:北の海に君臨した安東氏と「三津七湊」土崎

「菅原久右衛門」という商人が活動した舞台は、戦国時代の出羽国北部に覇を唱えた海洋豪族・安東氏の支配下にあった。彼の商才が花開いたであろう湊町・土崎の繁栄と、それを巡る時代の激動を理解することは、彼の実像に迫るための第一歩である。

1-1. 海洋豪族・安東氏の経済基盤

戦国期の安東氏は、単なる一地方の領主ではなかった。彼らは、南は北陸から北は蝦夷地(現在の北海道)に至る広大な日本海交易ネットワークを掌握し、その海運力と交易利権を力の源泉とする海洋豪族であった。その経済基盤の中核を成したのが、秋田湊、すなわち土崎湊である。この港は、日本最古の海事法規集ともいわれる『廻船式目』において、博多や堺といった全国屈指の港湾と並び称される「三津七湊」の一つに数えられており、その重要性は当時、全国的に認知されていた 11

土崎湊の交易拠点としての歴史は古く、古代の秋田城の時代にまで遡る。中世の港湾遺跡からは、国産の陶器に混じって中国大陸で生産された磁器や、唐銭、宋銭、明銭といった銭貨が多数出土しており、この地が早くから大陸を含む広域交易の一大拠点としての性格を帯びていたことを示している 12 。安東氏はこの歴史ある港を掌握することで、莫大な富と情報を集積し、北日本における一大勢力を築き上げたのである。

1-2. 「湊騒動」― 交易利権を巡る経済戦争

安東氏の歴史を語る上で欠かせないのが、複数回にわたって繰り返された一族内の内乱、通称「湊騒動」である 13 。これは、内陸の檜山城を本拠とする安東氏の宗家(檜山安東氏)と、土崎の湊城を拠点とする分家(湊安東氏)との間の主導権争いであった。

この内乱は、単なる一族内の権力闘争という側面だけでは捉えきれない。その根底には、土崎湊がもたらす莫大な経済的利益、すなわち他国船から徴収する津料(関税)や、交易品の売買から生じる利権の支配を巡る、「経済戦争」とでも言うべき熾烈な対立があった。檜山安東氏が、湊安東氏の交易を自らの統制下に置こうとしたことが、近隣の国人衆をも巻き込む大規模な騒乱へと発展したという説は、この争いの経済的動機を明確に示している 13

「菅原久右衛門」のような湊の有力商人にとって、この動乱は自らの商売の存亡を賭けた試練の時であったに違いない。どちらの勢力に与するのか、あるいは中立を保ちつつ如何にして自らの商業的利益を確保するのか。彼の商才だけでなく、激動の政治状況を読み解く鋭い嗅覚と判断力が問われた時代であった。

1-3. 中央政権の伸長と秋田氏の誕生

戦国時代の終焉を告げる豊臣秀吉による天下統一事業の波は、遠く出羽国の安東氏にも及んだ。特に、秀吉が伏見城の築城や朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に用いるため、安東氏に対して大量の秋田杉の上納を命じた事実は、土崎湊が単なる地方の港ではなく、中央政権が差配する全国的な物流ネットワークに不可欠な拠点として組み込まれていたことを示す好例である 12

この時期、当主であった安東実季は、本拠を檜山城から湊城へと移し、姓を伝統的な「安東」から「秋田」へと改め、さらに古代以来の出羽国の支配者の官職であった「秋田城介」を名乗るようになった 13 。これは、蝦夷地交易を背景とする旧来の海洋領主という立場から、秀吉が構築した新たな支配体制に組み込まれた近世大名へと、自らを戦略的に再定義する極めて意識的な行動であったと解釈できる。

しかし、関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来すると、秋田氏は常陸国宍戸へと転封を命じられる 14 。この突然の領主交代は、秋田氏と密接な関係を築いてきた土着の商人たちに大きな衝撃を与えたであろう。一部の家臣が秋田氏の宍戸移封に従わずに離散したという記録もあり 17 、土崎の商人社会もまた、新たな領主となる佐竹氏との関係構築を迫られる大きな転換点を迎えたのである。

表1:安東氏と秋田湊を巡る主要年表(15世紀末~17世紀初頭)

年代

主要な出来事

関連する歴史的文脈

1544年(天文13年)

第一次湊騒動

檜山安東氏と湊安東氏の対立が表面化 13

1570年(元亀元年)

第二次湊騒動

湊安東氏による交易統制に反発した国人衆が挙兵。檜山安東氏の介入により鎮圧 13

1589年(天正17年)

第三次湊騒動(湊合戦)

湊安東氏が滅亡し、檜山安東氏(安東実季)が出羽国北部を統一 13

1590年(天正18年)

豊臣秀吉の小田原征伐

実季は秀吉に臣従し、本領を安堵される。

1591年(天正19年)頃

秋田杉の太閤御用板

秀吉の命令により、伏見城築城や朝鮮出兵用の船材として秋田杉が土崎湊から積み出される 12

時期不詳(天正年間)

安東実季、秋田氏へ改姓

実季は本拠を湊城に移し、「秋田城介」を名乗り、姓を「秋田」と改める 13

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い

秋田氏は東軍に属するが、曖昧な態度を取ったとして戦後処理で疑念を招く。

1602年(慶長7年)

常陸国宍戸へ転封

秋田氏は5万石で常陸国宍戸へ移され、代わって佐竹義宣が20万石で秋田に入封する 14

この年表は、「菅原久右衛門」が生きた時代がいかに激動の連続であったかを示している。彼は、一族の内乱、中央政権の介入、そして領主の交代という荒波を、商人としての知恵と才覚で乗り越えなければならなかったのである。

第二章:「菅原」という姓の系譜 ― 貴族の末裔か、土地の豪族か

「菅原久右衛門」という名において、まず注目すべきはその姓「菅原」である。この姓は、日本の歴史において特別な響きを持つ。彼がこの由緒ある姓を名乗った背景を探ることは、彼の社会的地位や自己認識を理解する上で重要な手がかりとなる。

2-1. 「菅原」ブランドの源流

菅原氏の歴史は、古代、葬送を職掌としていた土師氏に遡る 18 。平安時代に入り、一族から菅原道真という傑出した人物が現れると、その運命は一変する。道真は学者、政治家、そして文人として当代随一の才能を発揮し、右大臣にまで上り詰めた 20 。政争により大宰府へ左遷され非業の死を遂げた後、彼は天神様、すなわち学問の神として信仰の対象となり、その名は全国に轟いた。

この道真の存在により、「菅原」という姓は「学問」と「文筆」の家柄として、社会に不動の地位を築いた。道真の子孫は、その後も朝廷に仕える公家として続き、高辻家、五条家、東坊城家など六家の堂上家を輩出した 19 。また、その血脈は武家社会にも広がり、加賀百万石の礎を築いた前田氏や、剣豪で知られる柳生氏なども、自らの出自を菅原氏と称している 18 。このように、「菅原」という姓は、公家から武家まで、広く日本のエリート層に共有される、高い社会的ステータスと文化的権威を象徴するブランドとなっていたのである。

2-2. 秋田の地における菅原氏の痕跡

学問の神としての天神信仰は、遠く秋田の地にも及んでいた。秋田県内には、菅原道真を主祭神として祀る菅原神社や天満宮が点在している 21 。これは、読み書き算盤の能力が重視される社会において、天神信仰が貴賤を問わず広く人々の間に浸透していた証左である。

しかし、留意すべきは、これらの信仰の広まりと、特定の商人である「菅原久右衛門」の家系とを直接的に結びつける史料は、現在のところ存在しないという点である。地域の信仰と個人の出自は、必ずしも一致するものではない。

2-3. 商人が名門を名乗る意味 ― 戦略としての「姓」

では、「菅原久右衛門」はなぜこの姓を名乗ったのか。ここで我々は、姓が持つ「社会資本」としての機能に着目する必要がある。戦国から江戸時代にかけての商人にとって、最も重要な資産の一つは「信用」であった。特に、見知らぬ相手との遠隔地交易が日常的に行われる湊町において、相手が信頼に足る人物であるか否かは、取引の成否を分ける死活問題であった。

この文脈において、「菅原」という姓が持つ意味は大きい。

第一に、商人に必須の能力である読み書きや計算能力を連想させる。「学問の神様」の家系を名乗ることは、自らが高度な実務能力を持つ教養人であることを、相手に雄弁に物語る。

第二に、「由緒正しさ」を演出する。伝統と格式を重んじる社会において、権威ある姓はそれだけで相手に安心感を与え、取引を円滑に進める潤滑油として機能した。

第三に、武家の前田氏や柳生氏が菅原姓を称したように 18、当時は必ずしも血縁関係がなくとも、自らの権威付けのために名門の姓を名乗る(あるいは自称する)慣習が存在した。

これらの考察から、「菅原久右衛門」がこの姓を名乗った背景には、複数の可能性が考えられる。

  1. 実際の末裔説: 菅原氏の血を引く一族が何らかの理由で秋田の地に土着し、商人として成功した。
  2. 戦略的冒姓説: 実際の血縁はなくとも、ビジネス上の信用を得るために、文化的権威の高い「菅原」の姓を戦略的に借用、あるいは自称した。
  3. 信仰由来説: 地域に根付いた天神信仰と自らを結びつけ、その加護と権威にあやかる形で「菅原」を名乗るようになった。

いずれの可能性が真実であったにせよ、彼が「菅原」という姓を名乗っていたという事実は、彼が単なる金儲けに長けた商人ではなく、自らの社会的信用やブランドを意識し、それを巧みに利用する高度な戦略眼を持った人物であったことを強く示唆している。

第三章:戦国商人の世界 ― 富、権力、そして自負

「菅原久右衛門」が生きた世界は、富と情報が渦巻く湊町・土崎であった。彼がどのような商人社会に属し、何を商い、いかにして富を築いたのか。その具体的な姿を復元することで、彼の人物像はより一層のリアリティを帯びてくる。

3-1. 土崎湊の商人社会

江戸時代中期の記録から遡る形で、戦国期の土崎湊の商人社会の構造を推測することができる。港には、他国からやってくる廻船の荷物を一手に引き受ける「廻船問屋」が中核として存在し、その数は十数軒に上ったとみられる 23 。問屋は、入港する船の積荷の保管や売買を仲介し、その手数料(口銭)を主な収入源としていた 23

問屋の下には、船頭以外の乗組員たちに宿を提供する「小宿」や、大型船を安全に港へ導き、荷役作業などを手伝う「導船(附船)」といった、機能分化した業者たちが階層的に組織されていた 23 。問屋と小宿は役割が分かれていたものの、実態としては小宿は問屋の支配下にあり、問屋の許可なくして営業権(株)を得ることはできなかった 23 。これは、土崎湊の商人たちが、一種の強力な同業者組合(ギルド)を形成し、港の秩序と利益を独占的に支配していたことを示唆している。

3-2. 交易品が語る北国の経済

「菅原久右衛門」が扱ったであろう商品は、当時の秋田の経済そのものを映し出す鏡である。土崎湊は、豊かな後背地を持つ秋田藩の産物と、上方や西国からの物資が集まる結節点であった。

表2:戦国期土崎湊の主要交易品一覧(推測)

分類

品目

詳細

典拠

輸出品

秋田藩の最も重要な産物。藩の財政を支える基幹商品。

24

秋田杉

豊臣政権下で伏見城の建材や船材として上納された。材質の良さで知られる。

12

海産物

蝦夷地などから運ばれる昆布、ニシンなど。昆布は加工され、土崎の特産品ともなった。

12

鉱産物

藩内で産出される銀や銅。貴重な輸出品目。

-

輸入品

衣料品

木綿、古着など。寒冷な北国では綿花の栽培が困難なため、重要な輸入品であった。

24

調味料

塩、砂糖など。生活に不可欠な基礎物資。

24

その他

紙、陶磁器、鉄製品など、藩内では生産できない、あるいは不足しがちな工業製品や奢侈品。

12

この表は、「菅原久右衛門」がいかに多様な商品を扱い、広範な交易ネットワークを駆使していたかを物語っている。特に、秋田杉が豊臣政権の国家的なプロジェクトに供給されていたという事実は、彼のような有力商人が、単なる地方経済の担い手に留まらず、中央政権の動向とも密接に連動するダイナミックなビジネスを展開していた可能性を示している。

3-3. 地場商人の牙城 ― 伊勢商人の進出と土崎の壁

江戸時代、全国にその名を轟かせた商人団に「伊勢商人」がいる。彼らは地縁・血縁を頼りにした強固なネットワークを武器に、全国各地へ進出して商業の主導権を握った。秋田藩においても、横手や角館といった内陸の城下町や在郷町には、多くの伊勢商人が進出し、酒造業や呉服商などで成功を収めている 25

しかし、ここで注目すべきは、秋田藩最大の物流拠点であり、最も利益が見込めるはずの土崎湊には、伊勢商人が進出したという記録がほとんど見当たらないという事実である 25 。これは極めて示唆に富む。全国的な競争力を持つ伊勢商人でさえ、この港に足がかりを築けなかったのである。その背景には、土崎の地場商人たちが築き上げた、排他的で強固な既得権益の壁があったと考えるのが最も合理的である。廻船問屋を中心とする商人ギルドが一致団結し、外部からの新規参入者を実力で阻んだのであろう。

この分析から導き出されるのは、「菅原久右衛門」が、この強力な地場商人コミュニティの中核をなす人物であったという推測である。彼は、外部の競争相手を排除し、湊の利益を仲間内で独占する側にいた、紛れもない有力者であった可能性が高い。

3-4. 商人の自負 ― 領主との関係

戦国時代の有力商人は、決して領主に従属するだけの存在ではなかった。彼らは経済力を背景に、領主に対しても一定の自立性と発言権を保持していた。他地域の事例が、そのことをよく示している。

福井県の三国湊で廻船業を営んだ豪商・内田惣右衛門は、飢饉の際には私財を投じて領民を救済し、藩の財政危機をも救うなど、領主さえもが無視できない絶大な影響力を持っていた 27 。また、山形県の酒田湊を牛耳った「三十六人衆」と呼ばれる商人たちは、新たな領主である酒井氏から武士として召し抱えるという誘いを受けた際、「二君に仕えず」と一蹴し、商人としての誇りを貫いたと伝えられている 28

これらの事例は、「菅原久右衛門」の姿を想像する上で重要な示唆を与える。彼もまた、安東氏に対して単に納税や御用を勤めるだけの存在ではなく、土崎湊の経済を実質的に動かす当事者として、領主からも一目置かれる、誇り高き商人であった可能性は十分にある。彼の富は、湊の繁栄そのものであり、それは領主である安東氏の権力基盤とも不可分であったからである。

第四章:「久右衛門」という名の意味するもの

「菅原」という姓に続き、我々は彼の名である「久右衛門」に注目する。この名は、単なる個人を識別するための符号ではない。それは、彼が当時の社会においてどのような役割を担い、どのような地位にあったかを示す、重要な記号であった。

4-1. 「〜右衛門」が象徴する社会的地位

江戸時代にかけて、「〜右衛門」や「〜兵衛」といった、いわゆる「衛門(えもん)」や「兵衛(ひょうえ)」が付く通称は、特定の社会的階層を示す称号のような意味合いを帯びるようになる。これらの名は、単なる個人名を超え、村の名主や長百姓といった村役人層、あるいは町の有力商人など、地域社会の指導的立場にある人物が名乗ることが多かった。

その好例が、同じ秋田藩内に存在する。江戸時代後期、用水不足に苦しむ村を救うため、藩に願い出て私財を投じ、大規模な用水路の開削事業を成し遂げた長百姓に、「渡辺久右衛門」という人物がいた 29 。彼はこの功績により、藩から「一代名字御免」という、武士階級に準ずる栄誉を与えられたと記録されている。

この事例は極めて示唆的である。「久右衛門」という名が、単に私的な経済活動における成功者というだけでなく、地域社会の発展に貢献する公共的な役割と、それによって得られる公的な名誉と深く結びついていたことを示している。この名は、富と社会的責任を兼ね備えた地域のリーダーの象徴だったのである。

4-2. 「菅原久右衛門」という名の総合分析

これまでの各章で展開してきた分析を、ここに統合する。「菅原」という由緒ある姓と、「久右衛門」という地域有力者を示す通称。この二つの要素の組み合わせが、我々の前にどのような人物像を提示するかを考察したい。

  • 「菅原」が示すもの: 学問の家系という文化的権威、それに基づく社会的信用、そして教養。これは、彼が単なる腕利きの商人ではなく、知性と戦略性を備えた人物であったことを暗示する。
  • 「久右衛門」が示すもの: 経済的な成功、湊町における指導的地位、そして地域社会に対する責任と貢献。これは、彼が私利私欲に留まらず、コミュニティ全体の利益を考える器の大きな人物であったことを示唆する。

この二つが組み合わさった「菅原久右衛門」という名は、我々に極めて立体的で鮮やかな人物像を提示する。それは、**「学問の家系という文化的権威を背景に持ち(あるいは戦略的に名乗り)、土崎湊の廻船問屋として莫大な富を築き、その財力と知性をもって商人社会を統率し、時には地域全体の発展にも貢献する、領主からも一目置かれるほどの自負心と影響力を兼ね備えた商人」**という姿である。彼は、富と名誉、そして知性を一身に体現した、戦国期・湊町のヒーローであったのかもしれない。

結論:再構築された「菅原久右衛門」像

本報告書は、戦国時代の秋田の商人「菅原久右衛門」という、歴史の記録からその名を抹消された一人の人物を追うことから始まった。直接的な史料の不在という巨大な壁に直面しながらも、我々はアプローチを転換し、彼が生きたであろう時代と社会の構造を丹念に再構築することで、その人物像に迫ることを試みた。安東氏の治世と湊町の経済、商人社会の力学、そして姓名に込められた文化的意味といった、多角的な状況証拠を積み重ねた結果、歴史の闇に埋もれた一人の商人の輪郭が、確かな蓋然性をもって浮かび上がってきた。

結論として、再構築された「菅原久右衛門」像は以下の通りである。

彼は、戦国時代末期の出羽国において、日本海交易の要衝であった土崎湊を拠点とした、廻船問屋を営む大商人であった。彼は、「菅原」という文化的権威を帯びた姓と、「久右衛門」という地域社会の指導者を示す名を併せ持つことから、単に裕福なだけでなく、高い教養と社会的信用、そしてコミュニティを率いるリーダーシップを兼ね備えた人物であったと推測される。

彼は、安東一族の内乱である「湊騒動」、豊臣政権による全国市場への編入、そして関ヶ原の戦後の領主交代という、目まぐるしい政治的激動を、商人としての卓越した才覚と鋭い政治的嗅覚で乗り切った。そして、伊勢商人のような外部の強力な競争相手さえも寄せ付けない、土崎の地場商人たちが形成した強固なギルドの中核として、湊の富と権益を守り、自らの商業帝国を築き上げたのであろう。

「菅原久右衛門」の物語は、歴史が勝者や権力者だけの記録ではないという、自明でありながら忘れられがちな真実を我々に突きつける。記録に残らない無数の人々の生もまた、時代の構造を丹念に読み解き、残された断片的な証拠をつなぎ合わせることで、その息遣いまで感じ取ることが可能なのである。本報告は、一人の名もなき商人を追う旅を通じて、戦国期秋田という地域の社会経済史の一断面を、可能な限り鮮やかに照らし出す試みであった。歴史の深淵に分け入り、声なき声に耳を澄ますことの重要性を最後に改めて強調し、本報告を締めくくる。

引用文献

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