戦国時代の常陸国(現在の茨城県)は、北に版図拡大を目指す佐竹氏、南に関東の覇者たる後北条氏、そして西には旧来の権威である古河公方の影響が複雑に絡み合う、権力の緩衝地帯であった。この地で鎌倉時代以来の名門として存続したのが小田氏である。その第15代にして最後の当主となった小田氏治は、その生涯において本拠である小田城を幾度となく敵に奪われ、その敗戦の多さから「戦国最弱の武将」と揶揄されることがある 1 。しかし、その一方で、失った城を驚異的な執念で何度も奪還したことから「常陸の不死鳥」とも称される、戦国史の中でも極めて特異な評価を受ける人物である 1 。
この「不死鳥」が、敗北の灰の中から幾度も蘇ることを可能にした翼こそ、本報告書の主題である菅谷政貞に他ならない。小田氏の譜代の重臣として、政貞の智勇と忠誠なくして氏治の度重なる復活はあり得なかったであろう。本稿は、軍記物や各市史に断片的に残された史料をつなぎ合わせ、一人の忠臣の実像に迫ることで、小田氏の歴史、ひいては常陸戦国史の深層を解明することを目的とする。その生涯は、現代においてもゲームの登場人物 6 やオリジナルTシャツのデザイン 9 として描かれるなど、時代を超えて一部で関心を集め続けている。
常陸国における菅谷氏の台頭は、政貞の父・勝貞の代にその礎が築かれた。一族の出自は必ずしも明確ではないが、その勢力基盤は軍事拠点として、また経済的要衝として極めて重要な土浦城にあった。
菅谷氏は、その出自について赤松氏、紀氏、あるいは菅原道真の後裔を称したと伝えられているが、いずれも確たる証拠に乏しく、戦国期の武家が自らの権威を高めるために系譜を飾ることは常套手段であったことから、常陸の在地領主として成長した一族と見るのが妥当であろう 10 。
一族の飛躍の契機は、政貞の父・菅谷勝貞(生年不詳 - 1575年)の活躍にある。勝貞は小田氏中興の祖と称される第14代当主・小田政治に仕え、智勇兼備の武将として知られた 11 。勝貞の最大の功績は、永正13年(1516年)に若泉五郎左衛門が守る土浦城を攻め取り、小田氏の勢力下に組み入れたことである 11 。この土浦城は、勝貞、政貞、そして政貞の子・範政と三代にわたって菅谷氏が城主を務める拠点となった 12 。
土浦城の戦略的価値は計り知れない。霞ヶ浦に面したこの城は、水陸交通の要衝であり、小田氏の支配領域における南の防衛線であると同時に、経済活動の中心地でもあった。特に勝貞は、利根川・小貝川水系の水運に大きな影響力を持ち、永正16年(1519年)には古河公方・足利高基の要請に応じて、対立する小弓公方・足利義明を討伐するために船団を率いて自らも従軍するなど、単なる城代に留まらない地域権力者としての一面を有していた 14 。この事実は、菅谷氏の力が単なる武勇だけでなく、水運という経済基盤に支えられていたことを示唆している。小田氏の権力構造は、代々の本拠地であり象徴的な存在である小田城と、菅谷氏が掌握する軍事的・経済的な実質的拠点である土浦城という、二元的な性格を持っていたと考えられる。氏治が敗れるたびに土浦の菅谷氏を頼ったのは、このためである。
父・勝貞が築いた盤石な基盤の上に、菅谷政貞は歴史の表舞台に登場する。彼の生涯は、良くも悪くも主君・小田氏治と不可分のものであった。
菅谷政貞は永正15年(1518年)、勝貞の子として生まれた 10 。官途は左衛門大夫、摂津守を称し、後に出家して全久と号している 10 。
政貞が仕えた小田氏15代当主・氏治は、天文17年(1548年)に父・政治の死を受けて家督を相続した 3 。氏治は奇しくも、天下布武を掲げることになる織田信長と同年の生まれであったが 2 、その治世は当初から多難を極めた。偉大な父の死は家中の動揺を招き、若年の氏治の指導力は未知数であったからである 13 。
政貞の青年期の具体的な活動を記す史料は乏しい。しかし、『水海道市史』に収録された記録によれば、天文15年(1546年)の河越夜戦に際し、北条氏康が古河公方・足利晴氏との和睦を申し入れた際の使者として、「小田政治の陣代菅谷政貞」の名が見える 18 。これが事実であれば、政貞は父・勝貞の存命中から小田家の外交という重要な局面を任されるほどの信頼を得ていたことになる。ただし、この時期の他の記録では父・勝貞の活躍が目立つため、後世の記録において父子の功績が混同された可能性も否定できず、慎重な解釈が求められる。いずれにせよ、菅谷父子が小田家にとって不可欠な存在であったことは疑いようがない。
小田氏治の治世は、本拠・小田城の失陥と奪還の繰り返しに象徴される。その常軌を逸した戦いの歴史において、菅谷政貞は常に奪還作戦の主役であり、「不死鳥」を支える強靭な翼として機能した。
氏治の戦歴は、一見すると敗戦の連続である 2 。しかし、その敗戦は常に小田城の奪還劇へと繋がっていた 1 。例えば、弘治3年(1557年)に佐竹義昭に小田城を奪われた際、これを速やかに奪い返したのは菅谷政貞の軍勢であった 3 。この「失陥と回復」という特異なパターンは、氏治の治世を通じて幾度となく繰り返されることになる。
政貞が展開した奪還作戦の特色は、単なる軍事行動に留まらなかった点にある。記録によれば、政貞の軍が土浦城から小田城へ向けて出撃すると、その道中で小田領の民衆が自発的に蜂起し、占領軍に抵抗したという 19 。これは、氏治が領民から深く慕われていたことの証左であり 2 、同時に政貞がその民意を的確に捉え、自軍の軍事力と融合させる触媒の役割を果たしていたことを示している。つまり、氏治の「弱さ」と政貞の「強さ」は、表裏一体の共生関係にあったと言える。氏治は敗北しても「正統な主君」としての求心力を失わず、領民の支持を維持する役割を担った。一方、政貞はその民意を背景に、具体的な軍事行動によって失地を回復する役割を担った。この巧みな分業体制こそが、「不死鳥」と称される小田氏の粘り強さの源泉であった。
表1:小田城攻防戦 年表(主なもの)
年代 |
対戦相手 |
結果 |
菅谷政貞の動向・特記事項 |
典拠 |
弘治2年(1556年) |
結城政勝 |
落城 |
主君・氏治と共に土浦城へ撤退。その後、氏治は年内に小田城を奪還。 |
3 |
弘治3年(1557年) |
佐竹義昭・多賀谷政経 |
落城 |
主君・氏治と共に土浦城へ撤退。政貞が小田城を奪還。 |
3 |
永禄7年(1564年) |
上杉謙信・佐竹義昭 |
落城 |
氏治は土浦城へ撤退。その後、翌年に小田城を奪還。 |
3 |
永禄9年(1566年) |
佐竹義重 |
落城 |
氏治は上杉謙信に降伏し、小田城復帰を認められる。 |
22 |
永禄12年(1569年) |
佐竹義重 |
落城 |
氏治は撃退に成功するも、同年の手這坂の戦いで大敗し、小田城を最終的に喪失。 |
1 |
天正元年(1573年) |
太田資正・真壁氏幹 |
奪還後、再落城 |
氏治が大雪に乗じて奇襲し一時奪還するも、4月に再び奪われる。 |
24 |
菅谷政貞の武名は、小田城奪還戦のみならず、対外的にも広く知れ渡っていた。特に、寡兵で大軍を破った平塚原の戦いは、彼の戦術家としての側面を如実に物語っている。
元亀元年(1570年)、小田城を佐竹氏に奪われ藤沢城に退いていた氏治のもとに、下総の結城晴朝が約6,000の兵を率いて侵攻してきた。対する小田軍はわずか2,000。兵力で圧倒的に不利な状況であったが、政貞はこの局面で大胆な策に出る。結城軍の本陣が手薄であることを見抜くと、夜襲部隊を編成。小雨に紛れて敵本陣である安楽寺に忍び寄り、火を放って奇襲をかけた。この作戦は完璧に成功し、結城軍を壊滅させるという会心の勝利を収めた 23 。
対佐竹戦線においても、政貞の奮闘は目覚ましい。永禄12年(1569年)には佐竹義重の本隊に大損害を与えて撃退している 1 。また、年不詳ながら、『大宮町史』が引用する史料には、政貞が佐竹方の将・宇留野義元を風雨の中の夜襲で打ち破り、古河公方から感状を授与されたという逸話も記録されている 25 。
しかし、輝かしい戦歴にも終わりが訪れる。永禄12年(1569年)11月、氏治は旧領回復を目指し、佐竹方の太田資正が籠る片野城を攻撃する。これに対し、資正と息子の梶原政景、そして「鬼真壁」の異名を持つ真壁久幹らの連合軍が迎撃。筑波山麓の手這坂で両軍は激突した。この手這坂の戦いで小田軍は決定的な大敗を喫し、一門の岡見治資らが討死 22 。氏治はまたしても政貞を頼って土浦城へと敗走した 26 。この敗戦は小田氏にとって致命的であり、小田城は完全に佐竹氏の手に落ち、氏治がその地に返り咲くことは二度となかった 23 。
菅谷政貞は、戦場での武勇ばかりが注目されがちだが、土浦城主として領国を安定させ、また篤い信仰心を持っていた文化的側面も看過できない。
政貞の具体的な内政手腕を示す直接的な史料は極めて少ない。しかし、彼が父の代から三代にわたって土浦城を拠点として維持し、そこから何度も大軍を動員できたという事実は、安定した領国経営、すなわち民政や経済政策が機能していたことを間接的に証明している 7 。小説やゲームなどでは、政貞が築城術に長けていたとする描写も見られるが 28 、これは彼の軍事的能力や土浦城の堅固さから着想を得た創作的解釈と考えるべきだろう。
一方で、彼の信仰心を示す記録は比較的明確に残されている。政貞は後年、入道して「全久」と号した 10 。そして、天文元年(1532年)、土浦に曹洞宗の寺院である宝珠山神龍寺を創建したと伝えられている 29 。この関係を裏付けるのが、『神龍寺并色川文書』に収録されている「辰年十一月九日付」の菅谷全久(政貞)による寄進状である。この文書には、政貞が神龍寺に対し、高津・真鍋・青宿郷(いずれも現在の土浦市内)の年貢を寄進する旨が記されており、彼の篤い信仰心と、領主としての寺社保護政策の一端を具体的に窺い知ることができる 30 。
菅谷政貞の生涯を語る上で避けて通れないのが、小田家のもう一方の重臣であった信太範宗の謀殺事件である。この事件は、政貞の「忠臣」というイメージに、「謀略家」という影を落とす。
複数の軍記物や記録によれば、小田氏の重臣であった信太範宗(または重成)が、主君・氏治の命を受けた菅谷氏によって謀殺されたとされる 21 。しかし、その詳細は史料によって大きく錯綜している。事件が起きたとされる時期は天文23年(1554年)、永禄12年(1569年)、天正元年(1573年)など諸説あり、実行者も父の勝貞か子の政貞か、殺害場所も土浦城、手野城、木田余城など、記録が一致しない 32 。
この錯綜の背景には、当時の小田家中の複雑な権力構造があったと考えられる。小田氏の家臣団は、土浦を拠点とする菅谷氏と、同じく有力な国人であった信太氏が二大勢力として並び立っていた 13 。氏治の父・政治の死後、弱体化した小田家において、両者の間に主導権争いが生じたことは想像に難くない。伝承によれば、信太範宗が氏治に離反を疑われた、あるいは手這坂の戦いの敗戦後に氏治が土浦城へ入ることに批判的であったため、氏治の猜疑心と菅谷氏の権力掌握の意図が結びつき、謀殺に至ったとされている 32 。
いずれの説が真実であったにせよ、この事件が菅谷氏にとって家中の対抗勢力を排除し、その地位を盤石なものとする結果をもたらしたことは間違いない。この行動は、表向きには「主君への反逆者を討つ」という忠誠の表れとして正当化される。しかし、その結果として家中のライバルが排除され、菅谷氏の権力が絶対的なものになったことを考えれば、彼の「忠誠」が、自家の勢力拡大という現実的な利益追求と完全に一致した、戦国武将のリアリズムの現れであったと解釈できる。政貞の忠義は、純粋な感情論だけでなく、極めて政治的な側面を併せ持っていたのである。
手這坂での決定的な敗北は、小田氏と菅谷政貞の運命を大きく変えた。本拠地を失い、流浪の末に下した決断は、宿敵への臣従であった。
手這坂の戦いで小田城を永久に失った後も、氏治と政貞は土浦城や木田余城を拠点に、後北条氏の支援を受けながら佐竹氏への抵抗を続けた 22 。しかし、天正6年(1578年)にはその木田余城も佐竹勢の攻撃により落城 4 。度重なる敗戦で勢力は削がれ、ついに天正11年(1583年)、氏治は佐竹氏に臣従することを余儀なくされた 10 。政貞も主君の決定に従い、長年の宿敵であった佐竹氏の麾下に入った。
しかし、その臣従は心からのものではなかった可能性が高い。佐竹氏に従属した後、北条軍が土浦に侵攻してきた際には、政貞・範政父子は抵抗することなく城を開け渡したという記録が残っている 12 。これは、佐竹への服属が形式的なものであり、水面下では北条氏と通じ、小田氏の独立回復の機会を窺っていたことを強く示唆している。
時代の趨勢は、もはや彼らに味方しなかった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして小田原征伐を開始。秀吉が大名間の私闘を禁じた「惣無事令」を発していたにもかかわらず、氏治はこれを無視して佐竹領となっていた小田城の奪還を試みた。この行動が秀吉の怒りを買い、小田氏の所領は完全に没収され、大名としての小田家は滅亡した 22 。主家の落日を見届けた菅谷政貞は、その2年後の文禄元年(1592年)、75歳で波乱の生涯を閉じた 10 。その亡骸は、自らが創建した土浦市の神龍寺に葬られたと伝えられている 29 。
主家は滅び、父も世を去った。しかし、菅谷政貞が生涯をかけて貫いた「忠義」は、無形の遺産として残り、次代の菅谷家を救うことになる。
小田氏の改易後、政貞の子である菅谷範政(1558-1612)は、一時浪々の身となり、常陸国真壁郡に隠棲していた 15 。しかし、政貞・範政父子が滅びゆく主君・小田氏治に最後まで尽くした忠節の物語は、やがて豊臣政権下で東国大名の取次役という重職にあった浅野長政の耳に入ることになる 15 。
長政は、この菅谷氏の忠義に感銘を受け、関東に入部した徳川家康に範政を推挙した 15 。新たな天下人を目指す家康にとって、旧主への忠節を貫く武士は、新しい秩序を支える人材として高く評価された。文禄5年(1596年)、家康は範政を召し出し、旗本として召し抱えることを決断した 15 。
戦国乱世において、主家を支えるための実利的な行動であった「忠義」は、統一政権の時代になると、家名を保つための象徴的な「社会資本」へとその価値を変えた。菅谷範政が取り立てられたのは、彼個人の武勇や知略以上に、父・政貞が生涯をかけて築き上げた「忠臣」という評判であった。
範政は当初、上総国に1,000石を与えられたが、後には5,000石余にまで加増され、かつての小田氏の旧領である常陸国筑波郡手子生城を居城として与えられた 15 。その子孫は江戸時代を通じて旗本として家名を保ち、後には遠江国西島(現在の静岡県磐田市)などに陣屋を構え、明治維新に至るまで存続した 15 。菅谷家の存続は、時代の価値観の転換を乗りこなし、父の遺した無形の資産を最大限に活用した結果であった。
菅谷政貞は、単に「戦国最弱」と評される特異な主君・小田氏治を支え続けた愚直な忠臣という一面的な評価に収まる人物ではない。彼は、主君が持つ領民からのカリスマ性という無形の力を的確に見抜き、それを自らの卓越した軍事・政治力と組み合わせることで、絶望的な状況を幾度となく覆した、極めて有能な政治家であり軍略家であった。
その生涯は、「忠義」と「謀略」、「武勇」と「信仰」といった、一見すると矛盾する要素を内包している。信太範宗謀殺事件に見られる非情な決断は、主家と自家を存続させるためには手段を選ばない、戦国武将としての冷徹なリアリズムの現れであり、彼の人物像に複雑な深みを与えている。
最終的に、彼が生涯をかけて貫いた「忠義」は、主家滅亡後、その「忠臣」という評判が新たな時代の支配者によって価値あるものとして再評価され、息子・範政の代で徳川旗本として家名を存続させるという形で結実した。これは、戦国から近世へと移行する時代の大きな価値観の転換期において、一個人の生き様が如何に次代に影響を与えうるかを示す好例と言える。
菅谷政貞の生涯を丹念に追うことは、常陸国という一地方の興亡史を解き明かすに留まらない。それは、戦国乱世における主従関係の多様なあり方、在地領主の熾烈な生存戦略、そして「忠義」という徳目の持つ多面性を理解する上で、今日我々に極めて重要な示唆を与えてくれるのである。