戦国乱世の終焉から徳川幕府による泰平の世の確立へ。この日本史における一大転換期を、一人の武将の生涯を通じて鮮やかに描き出すことができる。その人物こそ、常陸国の戦国武将、菅谷範政(すげのや のりまさ)である。
範政の名は、戦国時代の綺羅星のごとき英雄たちの中に埋もれがちである。しかし、彼の生涯は、単なる一地方武将の物語に留まらない。それは、滅びゆく主家への「忠義」という旧時代の価値観を貫いた武士が、新たな時代の覇者・徳川家康にいかにして見出され、旗本として家名を後世に伝えるに至ったかという、奇跡的な軌跡を描いている。
本報告書は、菅谷範政という人物を多角的に分析し、その生涯を徹底的に追跡するものである。彼の出自、主家・小田氏との関係、そして徳川家旗本としての後半生を、信頼性の高い史料に基づき詳細に記述する。範政の人生を深く掘り下げることは、戦国武士の生き様、徳川幕府の巧みな支配体制構築、そして「忠義」という価値観そのものの歴史的変遷を解き明かす鍵となる。彼の物語は、激動の時代を生き抜いた武士の矜持と、それを評価し利用した新時代の権力者の冷徹な慧眼とが交錯する、人間ドラマの縮図なのである。
菅谷範政の生涯を理解する上で、彼が属した菅谷一族の歴史的背景と、その主家である小田氏が置かれた状況を把握することは不可欠である。菅谷氏は常陸国において確固たる基盤を築き、その忠義の土壌を育んでいた。
菅谷氏の出自は、江戸幕府が編纂した公式系譜集『寛政重修諸家譜』によれば、紀氏(きし)あるいは菅原道真の後裔を称していたと伝わる 1 。戦国武将が自らの権威を高めるために名門の血筋を引いていると主張することは珍しくないが、これは彼らが自らをいかに由緒ある家柄として位置づけようとしていたかを示すものである。
菅谷氏が歴史の表舞台で確固たる地位を築くのは、範政の祖父・菅谷勝貞(かつさだ)の代からである。勝貞は智勇兼備の将とされ、永正13年(1516年)、小田氏の部将として土浦城を攻略し、その城主となった 3 。これにより、菅谷氏は単に主家に従うだけの存在ではなく、土浦城という独立した拠点を持ち、小田家中で重きをなす有力な一族としての地位を確立したのである 5 。
その子であり、範政の父である菅谷政貞(まささだ)もまた、父譲りの忠節を貫いた。政貞は主君・小田氏治(おだ うじはる)が宿敵・佐竹氏に本拠の小田城を追われるたびに、自らの居城である土浦城に氏治を迎え入れ、再起のための拠点を提供し続けた 1 。その忠誠心は高く評価され、政貞は「小田四天王」の一人に数えられるほどであった 8 。
菅谷一族の勢力は土浦城に留まらず、霞ヶ浦周辺の宍倉城や戸崎城といった複数の城郭を支配下に置いていたことが史料からうかがえる 2 。これは、彼らが単なる城代ではなく、独自の支配領域を持つ半ば独立した地域権力として、常陸国南部に大きな影響力を持っていたことを示唆している。この自立性こそが、後に主家が窮地に陥った際に、それを支え続けるだけの経済的・軍事的余力となり、彼らの「忠義」を実質的なものたらしめる基盤となったのである。
菅谷氏が仕えた主家・小田氏は、鎌倉幕府の創設に功のあった有力御家人・八田知家(はった ともいえ)を祖とする、関東でも屈指の名門であった 10 。室町時代には、その家格の高さから鎌倉府によって「関東八屋形(かんとうはちやかた)」の一つに列せられ、関東の支配体制の一翼を担う存在であった。
しかし、範政が仕えた15代当主・小田氏治の時代には、北の佐竹氏、南の後北条氏という二大勢力の狭間で、その存亡を賭けた厳しい戦いを強いられていた。氏治は、その生涯において幾度となく居城の小田城を敵に奪われたことから、後世「戦国最弱」と揶揄されることもある 12 。だが、その一方で、家臣や領民の支援を得て何度も城を奪還したその不屈の闘志から、「常陸の不死鳥」とも称された 12 。氏治の敗戦の多さは、彼個人の資質もさることながら、強大な敵に囲まれた地政学的な劣勢に起因する部分が大きかった。
このような絶え間ない存亡の危機の中で、菅谷氏は小田氏にとって最後の砦であり続けた。主家が本拠を失っても、菅谷氏は土浦城を堅守し、氏治を保護することができた。これは、菅谷氏が独自の戦力と支配基盤を有していたからに他ならない。彼らの忠義は、単なる精神的な主従関係に留まらず、主家を物理的に支える「力」によって裏打ちされていた。この「力ある忠臣」という存在こそが、戦国の世において稀有な価値を持ち、後の範政の運命を大きく左右することになるのである。
父・政貞、祖父・勝貞から受け継がれた忠義の精神は、菅谷範政の代においても揺らぐことはなかった。彼は、落日を迎えつつあった主家・小田氏を最後まで支え続け、その名は忠臣として記憶されることになる。
小田氏治の治世は、まさに落城と奪還の繰り返しであった。氏治が上杉謙信や佐竹義重との戦いに敗れ、本拠の小田城を追われると、父・政貞と範政は主君を土浦城に迎え入れ、再起の機会をうかがった 4 。第一次・第二次の山王堂合戦や手這坂合戦など、氏治が敗走を重ねる中でも、菅谷父子の忠誠は揺るがなかった 4 。
範政自身も、単に父の庇護下にあったわけではない。彼は一個の武将として、確かな武功を立てている。その代表的な例が、天正6年(1578年)の木田余城(きだまりじょう)の戦いである。この城は佐竹方の猛将・梶原政景によって攻め落とされたが、氏治の命を受けた範政は果敢に反撃し、見事これを奪回した 8 。この戦功は、範政が父祖から受け継いだ武勇を証明するものであり、小田家中の士気を大いに高めたことであろう。
菅谷氏の奮闘は、範政一人に留まらなかった。一族郎党が結束し、まさに総力を挙げて主家を支えた 8 。この菅谷一門の強固な団結力こそが、何度も窮地に陥った「不死鳥」小田氏治が、その都度、大空へ羽ばたくための翼となったのである。
しかし、時代の大きな潮流には抗えなかった。天正11年(1583年)、度重なる敗戦の末、ついに主君・氏治は長年の宿敵であった佐竹氏に臣従することを余儀なくされる。これに伴い、範政ら菅谷一族も主家に従い、事実上、その拠点であった土浦城を失うこととなった 1 。
そして天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、小田氏の運命は決定的な終焉を迎える。氏治は秀吉の麾下(きか)に参陣せず、旧領回復の戦いを続けていたことが咎められ、北条氏と通じたと見なされた結果、所領を完全に没収されたのである 13 。これにより、鎌倉時代以来の名門・小田氏は、戦国大名としての歴史に幕を閉じた。
主家を失った範政は、すべての地位を剥奪され、浪々の身となった。彼は常陸国真壁郡高津村に身を寄せ、静かに隠棲したと伝わる 15 。かつては常陸にその名を轟かせた菅谷一族の栄光は、主家の没落と共に、一旦は歴史の闇に消えたかのように見えた。
この主家の滅亡と範政の浪人生活は、彼にとって最大の危機であったに違いない。しかし、皮肉なことに、この出来事が彼の「忠義」という無形の資産価値を飛躍的に高める結果となる。裏切りや寝返りが常態であった戦国の世において、「勝ち目のない滅びゆく主君に最後まで付き従った」という範政の経歴は、新たな時代の支配者たちの目に、金銭では決して買えない稀有な「信頼性の証明」として映ったのである。彼の雌伏の期間は、その忠義の価値が天下に認められるまでの、いわば熟成の期間であったと解釈することも可能であろう。
主家を失い、雌伏の時を過ごしていた菅谷範政に、転機が訪れる。その忠節は、新たな天下の支配者たちの知るところとなり、彼の人生は再び大きく動き出すこととなる。
この転機において重要な役割を果たしたのが、豊臣政権の五奉行の一人、浅野長政であった 16 。長政は、豊臣秀吉の義理の相婿(妻同士が姉妹)という近しい関係にあり、その卓越した行政手腕から、太閤検地の実施や金銀山の管理など、政権の中枢を担っていた 16 。特に、天正18年(1590年)の小田原征伐後には、関東・奥羽地方の戦後処理(「奥州仕置」)や、東国大名との交渉窓口である「取次役」として、この地域の情勢に深く関与していた 16 。
一方、小田原征伐の結果、徳川家康は豊臣秀吉の命により、本領であった三河・遠江・駿河などを召し上げられ、北条氏の旧領である関東250万石へ移封された 18 。これは、家康を豊臣政権の中枢から遠ざけようとする秀吉の深謀遠慮であったが、家康はこの広大な新領国を安定的に統治するため、旧来の家臣団を巧みに配置するとともに、旧北条家臣や在地領主の中から、土地の事情に精通した「地方巧者(じかたこうしゃ)」と呼ばれる人材を積極的に登用する方針を採った 20 。新たな支配体制を早期に確立するためには、武力だけでなく、在地の人々から信頼される人物の協力が不可欠であったからである。
このような状況下で、二つの流れが交差する。文禄元年(1592年)頃、関東の情勢に明るい浅野長政が、家康に対して菅谷範政の小田氏への忠節と武勇を語り、彼を推挙したのである 3 。滅びゆく主君に最後まで忠義を尽くした範政の存在は、家臣の「信頼性」と「忠誠心」を何よりも重視する家康にとって、まさに求めていた人材であった。家康はこの推挙を受け入れ、側近である大久保忠隣や本多正信に命じ、範政を召し出すことを決断した 15 。
文禄5年(1596年)、家康の呼び出しに応じた範政は、正式に徳川家の家臣団に加わった 3 。そして、旗本として上総国平川(現在の千葉県内)において1,000石の知行を与えられた 3 。これは、一度は全てを失った浪人からの再起としては破格の待遇であり、家康がいかに範政の忠義を高く評価し、その将来に期待を寄せていたかを物語っている。
この仕官により、菅谷範政は戦国大名・小田氏の家臣から、新たな天下人である徳川将軍家の直臣、すなわち旗本へとその立場を劇的に転換させた。これは、主家の滅亡という最大の試練を乗り越え、一族の存続と新たな繁栄への道を切り拓いた、彼の人生における決定的な瞬間であった。
範政の登用劇は、単なる個人的な縁故によるものではない。それは、豊臣政権から徳川政権へと移行する時代の過渡期における、高度な政治的判断の産物であった。東国担当の「取次」であった浅野長政は、範政の「忠臣」というブランド価値を見出し、新領主である家康に推薦した。そして家康は、そのブランドを自らの関東支配を盤石にするための「実利」として活用したのである。範政の人生は、戦国時代に培われた「忠義」という武士の価値観が、近世の新たな支配秩序の中に、いかに巧みに読み替えられ、組み込まれていったかを示す象徴的な事例と言えよう。
徳川家康に見出され、旗本として新たな道を歩み始めた菅谷範政。彼の後半生は、徳川幕府の確立と共に安定したものとなり、その忠義は子孫へと受け継がれていった。しかし、時代の変化は、菅谷家のあり方にも大きな影響を及ぼしていく。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に就任し江戸幕府を開くと、範政の待遇はさらに向上した。彼は常陸国筑波郡および真壁郡内において5,000石へと大幅に加増され、大身旗本の列に加わった 3 。5,000石という石高は、旗本の中でも上級に位置し、幕府内での高い格式を意味するものであった 22 。
特筆すべきは、その知行地がかつての主家・小田氏の旧領であり、範政自身も若き日に戦った経験のある手子生(てごまる)城であったことである 21 。範政はこの城を居城(陣屋)とし、地名を「手子丸」から「手子生」に改めたとも伝えられている 24 。旧領への凱旋は、主家の滅亡と浪々の苦労を乗り越えた範政にとって、万感胸に迫るものがあったに違いない 3 。彼は手子生城主として、地域の鹿島神社の祭神を定めるなど、領主としての務めも果たしている 25 。
大身旗本としての範政は、幕府の公務にも従事した。『寛政重修諸家譜』などの記述によれば、「京都五条御番」といった役職を勤めた記録があり、これは将軍の直臣として、京都の治安維持という重要な任務を担っていたことを示している 13 。
こうして泰平の世で武士としての本分を全うした範政は、慶長17年(1612年)にその生涯を閉じた 14 。遺体は、自らが開基となったと伝わる、現在の茨城県つくば市にある雄山寺に葬られた 2 。
範政の死後も、菅谷家は子の範貞(のりさだ)、孫の範重(のりしげ)へと続き、旗本としての家禄を維持した 15 。範重は江戸城の警備役を勤めた記録も残っている 26 。
しかし、範政の死から約80年後、五代目の範平(のりひら)の代に、菅谷家は大きな転換点を迎える。元禄11年(1698年)、五代将軍・徳川綱吉の治世下で行われた幕府の一大政策「元禄地方直し」である 3 。これは、幕府財政の再建と中央集権体制の強化を目的とし、旗本の知行地を大幅に再編するものであった 27 。この政策により、菅谷家は先祖代々の地である常陸国の知行地を収公され、代わりに遠江国山名郡・豊田郡内に4,500石の知行地を与えられ、移封されることとなった 15 。
移封後の菅谷氏は、遠江国西島村(現在の静岡県磐田市)および諸井村(現在の静岡県袋井市)に陣屋を構え、以後、幕末に至るまで同地を支配した 3 。
この遠江への移封は、菅谷家にとって単なる領地の変更以上の意味を持っていた。それは、江戸幕府の支配体制が盤石な安定期に入り、旗本のあり方を「在地性の強い小領主」から、幕府の命令一つで動く「官僚」へと変質させる、体系的な政策の一環であった。範政が旧領を与えられたのが、徳川家の支配がまだ盤石でなかった「創業期」の論理であるとすれば、その子孫が先祖伝来の地から切り離されたのは、体制が確立した「守成期」の論理であった。この移封によって、菅谷氏と常陸国との歴史的な結びつきは断ち切られ、彼らのアイデンティティは「常陸の旧小田家臣」から、完全に「徳川幕府の旗本」へと移行した。範政の生涯が始まった戦国時代の価値観は、この時点で完全に過去のものとなったのである。
菅谷範政の生涯は、戦国乱世から江戸泰平の世への移行期を生きた一人の武将の、数奇な運命の物語である。彼の人生の扉は、滅びゆく主家への「忠義」という、旧来の武士的価値観を貫き通したことによって開かれた。そして、その忠義は、新たな支配者である徳川家康によって、新時代に求められる「信頼性」という近世的な価値観に読み替えられ、高く評価された。これにより、範政は主家滅亡の悲劇を乗り越え、旗本として家名を存続させるという、稀有な成功を収めたのである。
範政の登用から、その子孫が遠江へ移封されるまでの約100年間の軌跡は、徳川幕府の統治体制が洗練されていく過程そのものを映し出している。幕府は創業期において、範政のような在地に影響力を持つ人物の忠誠心を利用して支配を固め、やがて守成期に入ると、「地方直し」のような政策を通じて、旗本を土地との結びつきが薄い、より従順な官僚群へと再編成していった。
菅谷範政の物語は、単なる「忠臣」の美談に留まらない。それは、一個人の生き様が、いかに時代の大きなうねりと連動し、政治的な力学の中で意味づけられていくかを示す、歴史のダイナミズムを内包している。彼は、戦国と江戸という二つの時代を繋ぐ架け橋であり、その生涯は、武士の価値観と生き方がいかに変容していったかを我々に教えてくれる、誠に興味深い歴史的証人なのである。
本報告書で詳述した菅谷一族の変遷を概観するため、以下に略年表を付す。これにより、一族の地位、石高、そして居城の変遷が、時代の流れと共にどのように変化したかを視覚的に把握することができる。
代 |
氏名 |
生没年 |
主な役職・居城 |
石高 |
備考 |
祖父 |
菅谷 勝貞(かつさだ) |
生年不詳 - 1575年 |
小田氏家臣、土浦城主 |
- |
智勇兼備の将と伝わる。土浦城を攻略し菅谷氏の拠点とする 4 。 |
父 |
菅谷 政貞(まささだ) |
1518年 - 1592年 |
小田氏家臣、土浦城主。摂津守。 |
- |
主君・氏治を幾度も土浦城に迎え入れ、小田城奪還を支援。小田四天王の一人 1 。 |
本人 |
菅谷 範政(のりまさ) |
1558年 - 1612年 |
小田氏家臣 → 徳川家旗本。左衛門大夫。 |
1,000石 → 5,000石 |
主家滅亡後、浅野長政の推挙で徳川家に仕える。当初上総国、後常陸国手子生城主 3 。 |
子 |
菅谷 範貞(のりさだ) |
不詳 |
徳川家旗本 |
5,000石 |
範政の跡を継ぐ 15 。 |
孫 |
菅谷 範重(のりしげ) |
不詳 |
徳川家旗本 |
5,000石 |
『徳川実紀』に浅草口の橋勤番として名が見える 26 。川口宗恒の妻は範重の娘 31 。 |
曾孫 |
菅谷 政照(まさてる) |
不詳 |
徳川家旗本 |
5,000石 |
石川総長の娘を妻とする 32 。 |
玄孫 |
菅谷 範平(のりひら) |
不詳 |
徳川家旗本 |
4,500石 |
元禄11年(1698年)、元禄地方直しにより常陸国から遠江国へ移封 3 。 |