最終更新日 2025-07-28

菊亭晴季

菊亭晴季は名門公家。信長・秀吉に仕え武家伝奏として活躍するも、秀次事件で流罪。家康の助けで赦免され、晩年は朝幕間の橋渡し役。
「菊亭晴季」の画像

乱世を渡る公卿、菊亭晴季—その生涯と政治的影響力の軌跡

菊亭晴季 略年表

西暦

和暦

晴季の年齢

官位・役職の変遷

個人的・家族の出来事

関連する政治的事件

主要な武家権力者

1539年

天文8年

0歳

左大臣・菊亭公彦の子として誕生。初名は実維 1

足利義晴

1545年

天文14年

7歳

元服し、晴季と改名 1

足利義輝

1548年

天文17年

10歳

従三位に叙され、公卿となる 1

足利義輝

1557年

弘治3年

19歳

権大納言、右大将 3

足利義輝

1568年

永禄11年

30歳

誠仁親王の元服に際し、別当に就任 4

織田信長が足利義昭を奉じて上洛。

織田信長

1575年

天正3年

37歳

嫡男・季持が誕生 3

長篠の戦い。

織田信長

1578年

天正6年

40歳

父・公彦が死去 5

織田信長

1579年

天正7年

41歳

内大臣に昇進 1

織田信長

1582年

天正10年

44歳

本能寺の変。信長死去。

(移行期)

1585年

天正13年

47歳

右大臣に昇進。従一位 1

娘の一の台が豊臣秀次に嫁ぐ。

関白相論。豊臣秀吉が関白に就任。

豊臣秀吉

1588年

天正16年

50歳

武家伝奏として活動。

後陽成天皇の聚楽第行幸。

豊臣秀吉

1595年

文禄4年

57歳

右大臣を辞任。官位剥奪。

娘・一の台が処刑。嫡男・季持が死去。越後へ流罪となる 5

豊臣秀次事件。

豊臣秀吉

1596年

慶長元年

58歳

徳川家康の奏請もあり赦免され、帰京 2

豊臣秀吉

1598年

慶長3年

60歳

右大臣に還任 1

豊臣秀吉死去。

徳川家康

1600年

慶長5年

62歳

関ヶ原の戦い。

徳川家康

1603年

慶長8年

65歳

右大臣を辞任 1

徳川家康が征夷大将軍に就任。江戸幕府開府。

徳川家康

1615年

元和元年

77歳

家康が二条城で「公家諸法度」を公布する場に同席 5

徳川家康

1617年

元和3年

79歳

3月28日、薨去 1

徳川秀忠

序論:戦国期における公家の存在意義と菊亭晴季

戦国乱世とは、武力が全てを支配する時代であったと一般的に認識されている。しかし、その実像はより複雑である。実質的な統治権を各地の戦国大名が掌握する一方で、政権の正統性を担保する上で不可欠な象徴的権威、すなわち官位叙任権や元号制定権といった伝統的権威は、依然として京都の朝廷が保持し続けていた。この武家の「実力」と朝廷の「権威」が分離し、相互に依存し合うという特異な権力構造こそが、戦国時代から安土桃山時代にかけての政治力学を理解する鍵となる。

この独特の時代状況の中で、朝廷と勃興する武家権力との間を巧みに渡り歩き、自らの政治的価値を最大化することで歴史の表舞台に躍り出た公卿がいた。その人物こそ、本報告書が主題とする菊亭晴季(きくてい はるすえ)である。彼の生涯は、単に旧来の伝統としきたりを守る受動的な存在としての公家像を覆す。むしろ、激動の時代に積極的に適応し、時には歴史の潮流を自ら作り出す触媒として機能した、極めて能動的な「政治家」としての公家の姿を鮮やかに映し出している。本報告書は、菊亭晴季の生涯の軌跡を徹底的に追跡し、彼が時代の転換期において果たした役割とその歴史的意義を多角的に分析するものである。

第一章:名門・菊亭家の出自と晴季の青年期

菊亭晴季の政治的活動の基盤を理解するためには、まず彼が生まれ持った環境、すなわち菊亭家の家格と文化的な背景を把握することが不可欠である。

菊亭家(今出川家)の系譜と家格

菊亭家は、藤原氏の主流である藤原北家閑院流(かんいんりゅう)の系譜に連なる名門公家である 7 。その家格は「清華家(せいがけ)」とされ、公家社会の頂点に立つ五摂家(ごせっけ)に次ぐ極めて高い地位を誇った 9 。清華家は、太政大臣をはじめとする大臣職や近衛大将に任じられる資格を持つ家柄であり、晴季が朝廷内で若くして重きをなすことができたのは、この卓越した出自によるところが大きい。

菊亭家は「今出川家(いまでがわけ)」という別名でも知られる。江戸時代中期の有職故実書『故実拾要』によれば、当主の官位が大臣以上に昇ると「今出川」、大納言以下の場合は「菊亭」と称する慣習があったと記録されている 7 。本報告書では、一般的に知られる「菊亭晴季」の呼称で統一するが、同時代の史料において彼が「今出川晴季」として登場するのは、この慣習に基づくものである。

家職としての琵琶

菊亭家は、政治的な家柄であると同時に、宮廷文化の重要な担い手でもあった。特に、代々琵琶の演奏を家職(かぎょう)とし、その道の名手として知られていた 10 。この文化的側面は、武家との交流において極めて重要な意味を持った。実利だけでなく、教養や伝統的権威を求める武将たちにとって、晴季は単なる公卿ではなく、雅な宮廷文化への窓口となる魅力的な存在であった。現在、京都大学には菊亭家旧蔵の貴重な典籍群が「菊亭文庫」として収蔵されており 12 、同家が守り伝えた文化の深さを物語っている。また、菊亭家が所蔵していたと伝わる琵琶「神女」の図も残されている 13

晴季の誕生と青年期

菊亭晴季は、天文8年(1539年)に左大臣であった菊亭公彦(きんひこ)の子として生を受けた 1 。幼名を実維(さねこれ)といったが、天文14年(1545年)に7歳で元服した際に「晴季」と改名した 1

彼の昇進は異例の速さであった。天文17年(1548年)、わずか10歳(数え年)で従三位に叙せられ、公卿の仲間入りを果たす 1 。これは、彼の卓越した家格と、将来を嘱望される才能の証左であった。青年期にはすでに、中央の政治情勢に鋭い嗅覚を持っていたことが窺える。永禄年間(1558年-1570年)には甲斐国に下向し、当時天下統一の有力候補と目されていた武田信玄と歌会を催したという記録が残っている 3 。この行動は、彼が伝統的な宮廷社会に安住することなく、早くから武家権力との関係構築に意欲的であったことを示している。

晴季の行動原理は、この「清華家」という高い家格がもたらす政治的影響力と、琵琶に代表される「文化的権威」という二つの資本に根差している。彼は生まれながらにして政治の中枢にアクセスできる特権と、武家を惹きつける文化的教養を併せ持っていた。このユニークな立ち位置こそが、後の彼の政治活動の強力な武器となったのである。

第二章:織田信長政権下での活動

菊亭晴季が政治家として本格的に頭角を現すのは、織田信長が天下布武を掲げて上洛し、朝廷との関係を再構築し始めた時期と重なる。この時代における晴季の動向は、来るべき豊臣政権下での大飛躍に向けた、重要な助走期間と位置づけることができる。

信長と朝廷の関係における晴季

信長は、旧来の権威を否定する革新的なイメージが強いが、実際には自らの政権の正統性を確立するため、朝廷の権威を巧みに利用した。この信長の対朝廷政策において、晴季は重要な役割を担うことになる。

その象徴的な例が、永禄11年(1568年)に行われた誠仁親王(さねひとしんのう)の元服式である。この儀式は、財政難にあえぐ朝廷に代わって信長が費用を全面的に負担して実現したものであり、信長の威勢を内外に示す重要な政治的イベントであった。この時、晴季は親王家の家政を統括する「別当(べっとう)」という要職に任じられている 4 。これは、信長が主導する朝廷儀式において、晴季が中心的な役割を担うに足る人物として、信長と朝廷の双方から高い信頼を得ていたことを明確に示している。この経験を通じて、晴季は武家の意向を汲み取り、それを朝廷の伝統的な枠組みとすり合わせるという、高度な政治調整能力を実践的に学んでいったと考えられる。

本能寺の変までの動向

その後も晴季は、信長政権と密接な関係を維持し続けた。信長が二条に築いた壮麗な新邸が完成した際には、他の公家たちと共にそれを見物した記録があり 5 、また信長への勅使に同道するなど 14 、信長政権の重要な場面にしばしば顔を見せている。

彼が信長政権末期に至るまで中枢に近い位置にいたことを示す決定的な証拠が、公家・山科言経(やましな ときつね)の日記『言経卿記』に残されている。それによると、天正10年(1582年)6月1日、すなわち本能寺の変の前日、信長が本能寺で催した茶会に晴季が出席していたことが記されているのである 15 。この事実は、彼が信長の私的な催しに招かれるほど信頼され、政権中枢のサークルの一員と見なされていたことを強く示唆している。

この信長時代に培われた「新興の武家権力との交渉術」と「朝廷内での政治力」という二つのスキルセットは、信長の突然の死によって生じた政治的空白期において、晴季が次の天下人である豊臣秀吉との関係を構築する上で、決定的に重要な資産となった。信長との関係は、晴季が歴史の表舞台で主役級の役割を演じるための、不可欠な序章だったのである。

第三章:豊臣秀吉との共生と権勢の頂点

織田信長の死後、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の時代は、菊亭晴季にとって生涯の絶頂期であった。彼は、伝統的な公家の権威を、勃興する武家の実力と結びつけることで、新たな価値と自身の政治的地位を創出することに成功する。

第一節:関白相論と秀吉の関白就任への道

天正13年(1585年)、朝廷内で重大な問題が発生した。時の関白・二条昭実(にじょう あきざね)に対し、同じ五摂家の近衛信輔(このえ のぶすけ)がその地位を争い、激しく対立したのである 16 。この「関白相論(かんぱくそうろん)」と呼ばれる政争により、朝廷の政務は停滞し、深刻な政治的空白が生まれた。

この膠着状態を打開する策を秀吉から相談された晴季は、歴史を動かす大胆な献策を行う。当時、足利将軍家の血を引かない秀吉にとって征夷大将軍への道は事実上閉ざされていた。その状況を見抜いた晴季は、秀吉に対し次のように進言したと伝えられる。

「関白は人臣の最高の爵位であり、武家の棟梁たる将軍よりも遥かに貴いものです。公(きみ)こそ関白に任ぜられるべきです」3。

これは、前例を打ち破る画期的な提案であった。秀吉の自尊心を巧みにくすぐりつつ、朝廷の権威も保つという絶妙な着地点を示すものであり、将軍職を望めない秀吉にとっては唯一無二の最良の選択肢であった。

しかし、最大の障壁は秀吉の出自にあった。摂関家の血を引かない者が関白になることは、前代未聞であった。この難問を解決するため、晴季は再びその政治的手腕を発揮する。彼は前関白であった近衛前久(さきひさ)に働きかけ、秀吉を前久の「猶子(ゆうし)」、すなわち形式上の養子とする策をまとめ上げた 18 。これにより、秀吉は藤原氏の一員という体裁を整え、関白就任への道を切り開いた。この一連の工作は、旧来の秩序の機能不全を逆手に取り、外部の強大な力を導入することで新たな秩序を形成しようとした、晴季の類まれなる政治感覚の現れであった 16

第二節:豊臣政権における武家伝奏としての役割

秀吉の関白就任という空前の大功により、晴季は豊臣政権内で絶大な信頼を得る。彼は朝廷と武家政権とを公式に結ぶ窓口である「武家伝奏(ぶけてんそう)」に抜擢され、朝廷政策における最高の実力者の一人となった 21

彼の役割は、秀吉の権威を宮廷の伝統儀式によって荘厳に演出し、その正統性を天下に知らしめることであった。天正16年(1588年)に秀吉が造営した政庁兼邸宅である聚楽第(じゅらくだい)へ後陽成天皇の行幸を仰いだ際、晴季は朝廷側の責任者としてこの壮大な国家儀礼を取り仕切った 21 。彼は、秀吉の絶対的な権力を、伝統と格式に裏打ちされた朝廷の権威で装飾し、豊臣政権の盤石さを天下に示す上で、不可欠なプロデューサーとなったのである 22

第三節:豊臣秀次との関係と政略結婚

晴季は、この成功を一過性のものとせず、永続的な権力基盤を築くための次なる一手に出る。彼は自らの娘、一の台(いちのだい)を、秀吉の後継者として関白職を譲られた甥の豊臣秀次に嫁がせたのである 1

この政略結婚は、晴季の戦略の頂点であった。これにより、彼は単なる政権のアドバイザーから、関白の岳父(がくふ)という「政権内部の親族」へとその立場を変えた。豊臣家と強固な姻戚関係を構築したことで、朝廷内における彼の権勢は他の公卿の追随を許さない、比類なきものとなった 21 。これは、武家と公家が一体化することで双方の権力を最大化しようとした、晴季の政治戦略の完成形であった。彼は、受動的な伝統の守護者ではなく、自ら積極的に政治秩序の再編に関与する、極めて能動的な政治家として、その権勢をほしいままにしたのである。

第四章:秀次事件—栄華からの転落と流罪

菊亭晴季の権勢の頂点は、しかし、長くは続かなかった。彼がその権力基盤の要としていた豊臣家との一体化戦略は、諸刃の剣であった。権力の中枢に近づけば近づくほど、その内部抗争に巻き込まれるリスクは増大する。そのリスクが最悪の形で現実化したのが、文禄4年(1595年)の豊臣秀次事件である。

秀次失脚の背景

文禄2年(1593年)に秀吉の嫡男・豊臣秀頼が誕生すると、後継者と目されていた関白・秀次の立場は急速に微妙なものとなる。秀吉と秀次の間に生じた亀裂は次第に深まり、やがて秀次には謀反の嫌疑がかけられるに至った。

事件の勃発と悲劇

文禄4年(1595年)7月、秀次は高野山へ追放され、自害に追い込まれた 1 。悲劇はそれで終わらなかった。同年8月、秀次の正室であった晴季の娘・一の台は、秀次の他の妻妾や子女たち30数名と共に京都の三条河原へ引き出され、次々と斬首されるという凄惨な運命を辿った 21 。享年34。彼女の辞世の句は、この悲劇の理不尽さを静かに物語っている。

つまゆへに くもらぬ空に 雨ふりて 白川くさの 露ときえけり

(夫の罪によって、曇りなき身でありながら、まるで白川の草葉に置く露が消えるように、私もこの世を去っていく)24

晴季の連座と流罪

関白の岳父という、かつては栄華の源泉であった立場は、一転して「謀反人の縁戚」という拭い去れない汚名となった。晴季もこの事件に連座し、全ての官位を剥奪された上で、越後の国へ配流という最も重い処分を受けた 3 。権勢の絶頂から奈落の底へ突き落とされる、あまりにも劇的な転落であった。

彼が連座した直接的な理由については、秀次の死後、娘の一の台が謀反の証拠となりうる書状を焼却したことが発覚し、これを秀吉が証拠隠滅と見なしたため、とする説も存在する 6 。秀吉にとって、豊臣政権の内部に深く食い込みすぎた晴季の権力を削ぎ、その影響力を排除する好機と捉えた側面もあったであろう 21

さらに不幸は重なった。この悲劇の最中、晴季の嫡男であり、将来を期待されていた権中納言・菊亭季持(すえもち)が、22歳という若さで急逝してしまう 3 。晴季は、政治的影響力の源泉であった娘と、家の後継者である息子を同時に失い、公私にわたって破滅的な打撃を受けたのである。秀次事件は、晴季の政治戦略の根幹が、天下人の気まぐれや政権の都合によっていかに容易に崩壊するかという、戦国時代の非情さを残酷なまでに証明する出来事となった。

第五章:徳川家康との関係と晩年

秀次事件によって全てを失ったかに見えた菊亭晴季であったが、その政治生命はまだ尽きていなかった。彼の晩年は、その卓越した政治的生存能力と、時代の流れを冷静に見極める現実主義を証明する期間となった。

赦免と家康の関与

越後での流人生活は、長くは続かなかった。翌慶長元年(1596年)、晴季は突如として赦免され、京都へ戻ることを許される 2

この赦免の背景には、当時五大老筆頭として豊臣政権内で急速に影響力を増していた徳川家康の、朝廷への強い働きかけがあったとされている 3 。家康は、秀吉亡き後の政局を見据え、朝廷との間に強力なパイプ役を担える経験豊富な人物を必要としていた。秀吉によって冷遇され、自分(家康)の力で復権させた晴季は、家康にとって恩を売ることができ、自らの影響下に置きやすい、まさに理想的な人材であった。

秀吉死後の復権

慶長3年(1598年)8月、太閤秀吉が死去すると、朝廷の政務は混乱をきたした。この時点で大臣の位にあったのは内大臣の徳川家康ただ一人という異常事態であり、朝儀の運営に支障が生じていた。この状況を打開するため、家康は晴季を強力に推挙する。その結果、同年12月、晴季は右大臣の地位に還任するという、奇跡的な復活を遂げた 1 。これは、晴季が政治的立場を完全に豊臣方から徳川方へと移したことを示す、象徴的な出来事であった 21

徳川政権下での役割と晩年

右大臣に復帰した晴季は、豊臣家から徳川家へと天下の趨勢が移りゆくのを冷静に見届け、家康との良好な関係を維持した 3 。慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開くと、晴季はそれを待っていたかのように右大臣の職を辞した 1 。以降、表立った官職には就かなかったが、朝廷の長老として重きをなした。

彼の最後の、そして象徴的な役割は、元和元年(1615年)に訪れる。大坂の陣で豊臣家が滅亡した後、家康が二条城において、公家の行動を統制する基本法「公家諸法度」を二代将軍・秀忠に申し渡す場に、晴季は朝廷の重鎮として同席している 5 。これは、かつて自らが築き上げた豊臣家と朝廷の関係が完全に解体され、徳川による新たな公武関係の秩序が構築される歴史的瞬間に、その秩序を承認する側として立ち会ったことを意味する。それは、彼の驚異的な政治的生命力と、究極の現実主義者としての生き様を象徴する最後の場面であった。

その2年後の元和3年(1617年)3月28日、菊亭晴季は79歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた 1

結論:菊亭晴季の人物像と歴史的評価

菊亭晴季の生涯を俯瞰するとき、彼が単なる「公家」という伝統的な枠組みでは到底捉えきれない、戦国乱世が生んだ特異な「政治家」であったことが明らかになる。

人物像の総括

晴季は、名門清華家の当主として伝統を重んじる公家でありながら、旧来の価値観や前例に囚われることなく、時代の変化を鋭敏に読み解き、自ら行動を起こす革新的な人物であった。彼は、自らが生まれ持った高い家格と、琵琶に代表される文化的教養を戦略的な武器として駆使した。これらを用いて、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三代の天下人と巧みに渡り合い、朝廷の権威と自らの政治的地位を同時に高めることに成功したのである。

歴史的評価

彼の歴史的評価は、二つの側面から考察することができる。

肯定的な評価としては、彼が豊臣秀吉の関白就任を演出し、武家政権に新たな統治の正統性を与えた点が挙げられる。これは、結果として戦乱の終結と天下統一の安定化に間接的に貢献したと見ることができる。また、彼の生き様は、武家が絶対的な実権を握る時代における、公家の新たな生存モデルを提示したとも言える。

一方で、否定的な評価も可能である。彼の行動は、常に自己の権勢欲に基づいており、時代の権力者に積極的にすり寄る権力志向の強い人物であったとの批判も根強い 22 。秀次事件における悲劇的な失脚は、権力の中枢に深く関与しすぎるという、彼のハイリスクな政治手法がもたらした必然的な結果と見ることもできる。

最終的な位置づけ

最終的に、菊亭晴季は、中世的な公家社会の価値観と、近世的な武家支配の現実が交錯する時代の移行期を、類いまれな政治感覚で生き抜いた人物として位置づけられる。彼は、失墜しつつあった朝廷の伝統的権威を、時代の支配者であった武家権力と結びつけることで、いわば「再発明」した。その過程で、彼は近世における新たな公武関係の基礎を築く上で、極めて重要な役割を果たしたのである。

和歌にもその名を残し 26 、文化人としての側面も持ち合わせた彼の栄光と悲劇に満ちた生涯は、中世から近世へと移行する日本の、社会と権力構造のダイナミックな変動を映し出す、まさに時代の鏡であったと言えるだろう。

引用文献

  1. 菊亭晴季- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E6%99%B4%E5%AD%A3
  2. 菊亭晴季- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E6%99%B4%E5%AD%A3
  3. 今出川晴季伝 https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/record/2073/files/I0704.pdf
  4. 誠仁親王 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
  5. 歴史の目的をめぐって 今出川晴季 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-02-imadegawa-harusue.html
  6. 今出川晴季 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E6%99%B4%E5%AD%A3
  7. 菊亭家- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6
  8. 菊亭家- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6
  9. 信長の庶子 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n0921ed/180/
  10. 菊亭家とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6
  11. 堂上楽家(琵琶) - 雅楽研究所「研楽庵」 http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-19.html?sp
  12. 【図書館機構】京都大学貴重資料デジタルアーカイブ: 琵琶の演奏を家業として朝廷に仕え https://www.kulib.kyoto-u.ac.jp/bulletin/1388326
  13. 菊与兵衛/写《菊亭家蔵琵琶銘神女[図及拓影]》 | アートプラットフォームジャパン(APJ) https://artplatform.go.jp/ja/collections/W178215
  14. 歴史の目的をめぐって 勧修寺晴豊 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-06-kazyuji-haretoyo.html
  15. 言経卿記 http://www.eva.hi-ho.ne.jp/t-kuramoti/rekisi_tokitune.html
  16. 関白相論 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96
  17. 近衛信尹 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9
  18. 豊臣秀吉はどうやって関白になったのか? その驚くべき手口とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2820
  19. 秀吉の関白就任とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AE%E9%96%A2%E7%99%BD%E5%B0%B1%E4%BB%BB
  20. 常に祭りの真ん中にいた、関白秀吉 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3121?p=1
  21. 秀次と殺された女(ひと) - 幻冬舎ルネッサンス運営 読むCafe http://www.yomucafe.gentosha-book.com/contribution-58/
  22. 近衛信尹と牡丹花 - ねぶた由来記 https://www.nebutayuraiki.com/history_12.html
  23. 晩年の豊臣秀吉の狂気がよくわかる…一度は跡継ぎと認めた甥の秀次とその家族に対する酷すぎる仕打ち 秀次の妻子約30名を一列に並べ、その首を次々とはねる (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/83415?page=2
  24. 一の台(豊臣秀次室)の辞世 戦国百人一首53|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/nbea823ed7b2f
  25. 一の台 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%81%AE%E5%8F%B0
  26. 【2025年最新】Yahoo!オークション -公卿 和歌(美術品)の中古品・新品・未使用品一覧 https://auctions.yahoo.co.jp/search/search/%E5%85%AC%E5%8D%BF%20%E5%92%8C%E6%AD%8C/20056/