天正七年(1579年)に生を受け、寛永十二年(1635年)にその生涯を閉じた葛西俊信 1 。彼は、戦国の動乱が終焉を迎え、徳川による泰平の世が盤石となりつつあった時代に、武勇そのものよりも「馬術」という卓越した文化的技能をもって主君伊達政宗に仕え、その名を歴史に留めた稀有な武士である。
彼の名は、仙台藩の家臣録やいくつかの逸話の中に散見されるものの、その生涯の全貌は、長らく断片的な情報の影に隠されてきた。本報告書は、これらの史料を丹念に繋ぎ合わせ、彼の出自、伊達家臣としての役割、そして天下一と謳われた馬術の真価を解き明かすことを通じて、一人の武士の実像を立体的に再構築することを目的とする。名門の血を継ぐ者として、また泰平の世における武士の新たな価値を体現した人物として、葛西俊信の生涯を詳細に追っていく。
葛西俊信の生涯を理解する上で、彼が背負った「葛西氏」という名の重みを知ることは不可欠である。彼は単なる伊達家の一家臣ではなく、かつて奥州に君臨した名門の正統な血を引く後継者の一人であった。その出自こそが、彼の人生を大きく規定する礎となったのである。
葛西氏は、桓武平氏豊島氏の流れを汲み、その祖である葛西三郎清重が、文治五年(1189年)の源頼朝による奥州藤原氏征伐において大功を立てたことに始まる 2 。清重はその功績により、磐井、胆沢、江刺、気仙、牡鹿といった奥州の広大な所領を賜り、「奥州惣奉行」に任じられた 2 。以来、葛西氏は鎌倉、室町、戦国時代を通じて、現在の宮城県北部から岩手県南部に至る地域に一大勢力を築き、石巻の日和山城や登米の寺池城を拠点とする戦国大名として奥州に君臨した 3 。
しかし、その四百年にわたる栄華も、天下統一を目指す豊臣秀吉の前に終わりを告げる。天正十八年(1590年)、時の当主であった第十七代・葛西晴信は、秀吉による小田原征伐に参陣しなかったことを咎められ、奥州仕置によって所領をすべて没収され改易となった 3 。これにより、奥州に威勢を誇った葛西宗家は滅亡の憂き目に遭う。この歴史的背景こそが、その血を引く葛西俊信の人生の出発点となるのである。
葛西宗家は滅びたものの、その血脈は断絶しなかった。俊信の家系は、この滅亡した本家と極めて近い関係にあった。
俊信の祖父は、葛西氏最後の当主・晴信の弟とされる葛西右衛門尉胤重である 7 。胤重は宗家の滅亡後、伊達政宗に仕え、葛西氏の血脈を繋ぐ重要な役割を果たした。その胤重の子が、俊信の父である葛西式部重俊(号は流斎)であった 9 。重俊は天正十九年(1591年)、父の後を継いで政宗に召し出され、宮城郡内に百貫文の高禄を与えられるなど、伊達家中において重用された 10 。
この系譜により、葛西俊信は、滅亡した奥州の名族・葛西氏宗家当主の甥の孫、すなわち直系の血を引く貴種であったことがわかる。彼が単なる一武将ではなく、由緒ある血統の後継者であったという事実は、後の伊達家における彼の特別な地位を理解する上で極めて重要である。
葛西氏が奥州仕置によって没落し、その旧領で大規模な一揆(葛西大崎一揆)が勃発した後、この地を新たに支配することになった伊達政宗にとって、領内の安定化は急務であった 11 。旧領主の権威を巧みに利用することは、人心掌握のための有効な手段となる。政宗が葛西氏の正統な血を引く重俊・俊信親子を召し抱え、厚遇した背景には、旧葛西領の領民や家臣に対し、自らが葛西氏の正当な後継者を保護する存在であることを示し、支配の正当性を補強する深慮があったと考えられる。俊信の伊達家におけるキャリアは、個人の能力が発揮される以前に、この「滅びた名門・葛西氏の血脈」という、政治的かつ象徴的な価値を帯びていたのである。
代数・関係 |
人物名 |
備考 |
葛西氏第十五代 |
葛西晴胤 |
葛西氏宗家当主。 |
┣ 葛西氏第十七代 |
葛西晴信 |
晴胤の子。小田原不参により改易。葛西宗家最後の当主 3 。 |
┗ 俊信の祖父 |
葛西胤重 |
晴信の弟。伊達家に仕え、葛西氏の名跡を継ぐ 7 。 |
俊信の父 |
葛西重俊 |
胤重の子。式部。伊達政宗に仕える 9 。 |
┣ 俊信の兄 |
葛西重信 |
重俊の長男。左馬助。伊達秀宗に従い伊予宇和島へ。宇和島葛西家の祖となる 5 。 |
┗ 当主 |
葛西俊信 |
重俊の次男。紀伊。兄に代わり仙台葛西家の家督を継ぐ 10 。 |
俊信の養子 |
葛西重常 |
重信の子(俊信の甥)。俊信の養嗣子となり、飯野川葛西家を継承 10 。 |
名門の血を引く俊信は、兄が新たな地へ赴いたことにより、予期せずして仙台藩における葛西家の当主となった。彼は伊達家臣として、その出自にふさわしい地位と所領を与えられ、泰平の世の武士としての道を歩むことになる。
慶長七年(1602年)三月、父である葛西重俊が没した 10 。本来であれば家督は長男である左馬介重信が継ぐはずであったが、彼の人生は伊達家の大きな政略の内にあった。慶長十九年(1614年)、主君・伊達政宗は、大坂の陣での功により徳川家康から伊予国宇和島に十万石を与えられ、これを庶長子である伊達秀宗に継がせた 5 。この時、政宗は自らの家臣団から選りすぐりの五十七騎を秀宗に付け、新たな藩の礎とさせたが、重信はその重臣の一人として抜擢されたのである 10 。
兄・重信が秀宗の老臣として伊予宇和島へ赴き、宇和島葛西家の祖となったため、仙台に残った次男の俊信が、父の跡を継いで仙台葛西家の家督を相続することとなった 10 。これは俊信の人生における大きな転機であり、仙台藩士としての道がここに確定した瞬間であった。この兄弟の分仕は、単なる家の事情ではなく、本藩(仙台)と支藩(宇和島)の双方に有力家臣の一族を配置することで、伊達家全体の結束を固め、支藩の安定統治を図るという政宗の深謀遠慮に基づく戦略的人事であったと見ることができる。
家督を継いだ当初、俊信は宮城郡蒲生村および柴田郡沼辺村において六十貫文の知行を与えられた 10 。その後、寛永四年(1627年)には、かつての葛西氏旧領内である桃生郡相野谷村に知行一千石を与えられ、この地を治める領主となった 4 。さらに後年、采地四十貫文が加増され、最終的に合計百貫文を知行し、桃生郡飯野川(現在の石巻市相野谷)に屋敷を構えた 10 。この俊信に始まる家系は、その所領の名から「飯野川葛西氏」、あるいは宗家滅亡後の家として「後葛西氏」とも呼ばれる 4 。
特筆すべきは、俊信の家が仙台藩独自の家格制度において「準一家」という高い地位に列せられたことである 10 。仙台藩の家格は、上から一門、一家、準一家、一族と続き、その下に宿老、着座などが置かれる厳格な序列であった 17 。「準一家」とは、政宗の代に伊達氏へ服属した、他の戦国大名の分家や有力家臣といった名門の家々に与えられた特別な家格である 17 。この事実は、葛西家が単なる家臣としてではなく、かつて奥州に覇を唱えた旧大名家として、伊達家中において非常に高い敬意をもって遇されていたことを明確に示している。
葛西俊信の名を不朽のものとしたのは、その出自や知行以上に、彼が身につけていた類稀なる「馬術」であった。戦場での武功ではなく、平和な時代における文化的技能によって、彼は主君の威光を高め、ついには宮中でその名を轟かせるに至る。
俊信は通称を久三郎、のちに紀伊と称した 1 。特に「葛西紀伊」の名は、馬術の達人としての彼の代名詞であった。岩沼の武士・舟山氏の家に伝わる記録には、舟山家の先祖が「馬術を達人葛西紀伊に学び、弱冠十七八歳で名声を四隣に轟かせた」と記されており、俊信が藩内で師範として弟子を育成していたことが窺える 20 。
戦乱が終息し、武芸が実戦の技術から心身を鍛錬する「道」へとその性格を変えつつあった江戸時代初期において、特定の武芸に秀でた者は、藩の威信を高める文化人としての側面を強く持つようになった 21 。葛西紀伊の名声は、まさにこうした時代の要請に応えるものであり、彼の技は伊達家の誇りでもあった。
俊信の馬術が最も華々しい舞台で披露されたのは、元和年間(1615年-1624年)のことである。複数の史料が一致して、彼が「元和年間に御所にて」馬術の妙技を披露したと記録している 1 。
この時期は、大坂の陣が終結し、徳川幕府の体制が盤石となった頃であり、時の天皇は後水尾天皇、将軍は二代・徳川秀忠であった。主君である伊達政宗は、後水尾天皇の即位式典や、秀忠の娘・和子の入内、あるいは三代将軍家光の上洛などに際して、頻繁に京都や江戸に滞在していた 23 。俊信の披露が、天皇の御前で行われたのか、あるいは将軍の上覧であったのか、その具体的な場所(京都御所か二条城か江戸城か)までは特定できない。しかし、いずれにせよ当代最高権力者の眼前であったことは疑いなく、これは単なる芸の披露ではなかった。
主君・政宗が、自らの家臣の卓越した技能を朝廷や幕府といった中央の舞台で披露させることは、仙台伊達家の文化的レベルの高さと、それに裏打ちされた権威を天下に示すという、高度な政治的・文化的な意味合いを持つパフォーマンスであった。武力による示威行動が許されない泰平の世において、俊信の馬術は、伊達家の力を「ソフトパワー」として示すための、極めて重要な外交カードの役割を果たしたのである。
この御前で披露された俊信の馬術は、「関貫通(せきかんつう)」という名の「秘術」であったと伝えられている 1 。その具体的な内容を記した一次資料は現存しない。これは、当時の武芸の奥義が、公開された教本ではなく、流派内部の秘伝書や口伝によって、ごく一部の者にのみ伝えられる閉鎖的な性格を持っていたためであろう 27 。
しかし、その名称から内容を推察することは可能である。「関」は関所や障害物、「貫通」は文字通り突き抜けることを意味する。このことから、馬を駆って何らかの障害物を飛び越える、あるいは狭い場所を突き抜けるといった、極めて高度な離れ業であったと推測される。例えば、現代に伝わる京都・藤森神社の駈馬神事に見られるような、馬上で逆立ちをしたり、鞍の下を潜り抜けたりする曲芸的な馬術 29 や、当時日本にも伝わっていた朝鮮曲馬のようなアクロバティックな技の一種であった可能性が考えられる 31 。
俊信がどの馬術流派に属していたかは定かではないが、当時の日本馬術は、礼法を重んじる小笠原流と、より実践的な馬術を専門とする大坪流が二大流派として知られていた 27 。特に大坪流は多くの門人を抱え、その中には曲芸的な要素を含む高等技術も伝わっていた 27 。俊信の「関貫通」も、こうした伝統的な和式馬術の奥義に連なる、観る者を圧倒する華麗かつ高難度の妙技であったに違いない。
馬術の名手として名を馳せた俊信であったが、同時に彼は、滅亡した葛西氏の血脈を未来へ繋ぐという、もう一つの重要な役割を担っていた。彼は仙台における「後葛西氏」の祖となり、その家名は彼の死後も続いていくことになる。
葛西俊信には実子がいなかった。そのため彼は、伊予国宇和島藩に仕えていた兄・重信の子、すなわち自身の甥にあたる重常を養嗣子として迎え、家督を継がせた 10 。この養子縁組により、仙台葛西家の血脈は絶えることなく未来へと繋がれたのである。
家督を継いだ葛西重常は、父祖の地である桃生郡飯野川の領主として、善政を敷いたと伝えられている。彼は領民の生活を第一に考え、屋敷を移転して城下町の整備を行い、館には「心の池」を掘るなど、町の発展に尽力した 4 。俊信が再興し、重常が盤石なものとしたこの家系は、飯野川葛西氏として後世に知られることとなる。
寛永十二年(1635年)二月二十二日、葛西俊信はその生涯を閉じた。享年五十七であった 1 。その法名は、墓碑には「源光寺殿前紀州本譽無量覚山禅定門」、過去帳には「無量院殿本譽源光居士」と記されている 10 。
俊信の死後、養子である重常は、その菩提を弔うため、領地である飯野川(現在の宮城県石巻市相野谷)に貞松山源光寺を建立した 4 。この寺には、現在も葛西家歴代の位牌を祀る御霊屋が残されており、俊信が築いた家の歴史を今に伝えている 4 。
俊信と重常が築いた飯野川葛西家は、その後も代々続き、仙台藩準一家の家格を持つ重臣として藩内で重きをなした。しかし、その栄光は永くは続かなかった。
安永二年(1773年)、俊信から数えて六代目の当主であった葛西清興(清胤)が、藩内の大規模な政争、いわゆる「安永疑獄」の中心人物と見なされ、家は改易、所領はすべて没収されるという最も厳しい処分を受けたのである 14 。俊信が再興してから約140年後、その家は一度断絶の危機に瀕した。
後に清興は赦免され、その長男・清常の代に蔵米五十俵をもって御家の再興は許されたものの、かつての勢威を取り戻すことはなかった 33 。俊信が築いた栄光と、その子孫を襲った悲劇は、個人の能力や家の由緒だけでは安泰ではいられない江戸時代の武家社会の厳しさ、そして一度の失敗が家の存亡に直結する藩内政治の非情さを象徴している。
葛西俊信が仙台藩で家を継いだ一方、その兄である葛西左馬助重信は、伊達家の支藩である伊予国宇和島藩で新たな歴史を刻んでいた。二つに分かれた葛西家の歩みは、江戸時代における武家の多様な存続形態を映し出している。
重信は、宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗に従い伊予へ下り、二百石を与えられて宇和島藩士となった 5 。彼は藩祖に付き従った譜代の臣として、その子孫も代々藩の要職を務めた。例えば、藩主の子女の守役を務めたり、あるいは西洋式砲術の導入に関わるなど、藩政において重要な役割を担った記録が残っている 5 。
宇和島葛西家は、明治維新に至るまで十一代にわたって安定して家名を存続させたとされる 5 。その歴史を詳細に伝える「宇和島藩士葛西家文書」は、現在、愛媛県歴史文化博物館に収蔵されており、知行宛行状や武術の免状など、一族の歩みを物語る貴重な資料が含まれている 35 。
仙台の俊信の家が、藩政の中枢に関わったがゆえに政争に巻き込まれ、一度改易の憂き目に遭ったのとは対照的である。この二つの家の異なる運命は、本藩と支藩という立場の違い、そしてそれぞれの藩が置かれた政治状況の違いを反映していると言えよう。同じ血を引く一族が、異なる環境下で異なる存続戦略をとり、それぞれの歴史を歩んでいったことは、戦国から江戸へと移行する激動の時代を生きた武家の、したたかな生存のあり方を示す好例である。
葛西俊信の生涯を総括すると、彼は滅亡した名門・葛西氏の血を引くという高貴な出自と、天下一と称された馬術の技という二つの大きな柱によって、その人生を切り拓いた人物であったと言える。
彼の最大の功績は、戦場での武功ではなく、元和年間に御所にて披露した「関貫通」の妙技という、極めて文化的なパフォーマンスであった。武力による序列が絶対であった戦国の世が終わり、治世と権威の構築が重要となった江戸初期において、彼の存在は武士に求められる価値観の変化を象徴している。すなわち、文化的技能によって主君と藩の名声を高めるという、新しい時代の武士の理想像の一つを体現したのである。
また、彼は自ら実子を残すことはなかったが、伊予に渡った兄の子・重常を養子に迎えることで、仙台における葛西家の血脈を未来へと繋いだ。兄・重信との分仕により、葛西氏の家名は仙台と宇和島という二つの地で存続することになった。この意味において、葛西俊信は、滅びゆく戦国の名門の血を、泰平の江戸の世に確かに「繋いだ」人物として、その歴史的役割を高く評価されるべきである。彼は、動乱の時代の終焉と、新たな秩序の始まりの狭間に生きた、特異にして重要な武士であった。
西暦(和暦) |
俊信の年齢 |
葛西俊信の動向 |
関連事項(伊達家・幕府・朝廷) |
1579年(天正7年) |
1歳 |
葛西重俊の次男として誕生 1 。 |
伊達政宗、田村清顕の娘・愛姫と結婚。 |
1590年(天正18年) |
12歳 |
|
豊臣秀吉の奥州仕置により、葛西宗家が改易される 3 。 |
1591年(天正19年) |
13歳 |
父・重俊が伊達政宗に仕官する 10 。 |
伊達政宗、岩出山へ移封。葛西大崎一揆が勃発。 |
1602年(慶長7年) |
24歳 |
父・重俊が死去。兄・重信が伊予宇和島へ赴くため、家督を相続。宮城郡・柴田郡に六十貫文を賜る 10 。 |
|
1614年(慶長19年) |
36歳 |
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大坂冬の陣。伊達秀宗が伊予宇和島十万石の藩主となる 16 。 |
1615年-1624年(元和年間) |
37-46歳 |
御所にて馬術の秘術「関貫通」を披露する 1 。 |
1615年(元和元年)大坂夏の陣。1616年(元和2年)徳川家康死去。1620年(元和6年)徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇に入内。 |
1627年(寛永4年) |
49歳 |
桃生郡相野谷に知行一千石を与えられる 4 。 |
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1635年(寛永12年) |
57歳 |
2月22日、死去。享年57 1 。 |
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1636年(寛永13年) |
― |
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伊達政宗、江戸で死去。 |
(参考)1682年(天和2年) |
― |
養子・重常が死去。飯野川に菩提寺・源光寺を建立した 10 。 |
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(参考)1773年(安永2年) |
― |
六代後の子孫・葛西清興が安永疑獄により改易される 14 。 |
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