葛西政信は、戦国時代の奥州葛西氏当主。系譜は錯綜し、甥毒殺説も。伊達氏の浸透と内部対立に苦闘し、永正合戦や明応の合戦を経験。葛西氏の衰退を決定づけた悲劇的な武将。
日本の戦国時代、奥州の地に広大な領土を誇った名門・葛西氏。その歴史の中でも、葛西政信(かさい まさのぶ)という人物は、一際不可解な謎と混乱の中にその姿を留めている。一般に彼は、葛西家第13代当主とされ、若くして世を去った甥の尚信(なおのぶ)から家督を継いだとされる。しかしその継承の裏には、「尚信を毒殺して家督を簒奪した」という不穏な風聞が付きまとい、彼の治世が家中に深刻な争乱を招いたと語られてきた 1 。
この「家督簒奪者」という評価は、果たして葛西政信という人物の全体像を正確に捉えているのであろうか。本報告書は、この問いを起点とする。政信に関する史料、特にその出自や事績を伝える系図は複数存在するものの、その内容は相互に矛盾し、極度の錯綜を見せている 2 。生没年はおろか、その名前や親子関係すら一意に定めることが困難な状況が、これまで政信の実像を厚い霧の向こうに隠してきた。
本報告書は、この史料的困難性を乗り越えるべく、断片的な記録を丹念に繋ぎ合わせ、矛盾する伝承を比較検討する。そして、葛西政信という一個人の物語に留まらず、彼が生きた時代の政治的・社会的力学の中に彼を位置づけることを目指す。具体的には、政信の登場以前から葛西氏が抱えていた構造的な内部対立、そして隣国・伊達氏の台頭と浸透戦略という外部からの圧力が、いかに彼の行動を規定し、その運命を左右したかを明らかにする。
本報告は、まず政信が登場する時代の背景として、葛西氏内部の分裂と伊達氏の脅威を概観する。次いで、錯綜する史料を解きほぐしながら、政信の出自と家督継承の謎に迫る。さらに、彼の治世を貫く宿命の対決であった葛西宗清との抗争、そして領内を揺るがした数々の争乱の実態を分析する。最後に、政信の時代の終焉が、その後の葛西氏の黄昏、そして最終的な滅亡へとどのようにつながっていったのかを考察し、この謎多き武将の歴史的評価を試みるものである。
葛西政信の生涯を理解するためには、まず彼が歴史の表舞台に登場した15世紀後半から16世紀初頭にかけての奥州、とりわけ葛西氏が置かれていた極めて脆弱な状況を把握する必要がある。鎌倉以来の名門という権威の裏で、葛西氏は深刻な内部対立と、隣接する巨大勢力・伊達氏からの強大な圧力という、二つの構造的問題を抱えていた。これら内外の要因は相互に絡み合い、政信の行動を規定する大きな足枷となったのである。
葛西氏は、鎌倉幕府の初代御家人・葛西清重が奥州合戦の功により広大な所領を拝領して以来、奥州に深く根を張った名門であった 3 。その勢力は陸奥国北部に広がり、戦国時代においても奥州探題を世襲した大崎氏と並ぶ大勢力として、地域に重きをなしていた。
しかし、その長大な歴史とは裏腹に、戦国期における葛西氏の統治体制は決して盤石ではなかった。その象徴的な事象の一つが、本拠地の変遷である。葛西氏は、当初の拠点であった石巻(現在の宮城県石巻市)から、内陸の登米郡寺池(現在の宮城県登米市)へと本拠を移したとされるが、その正確な時期については鎌倉時代説や南北朝時代説など諸説があり、判然としない 5 。これは、一族内における権力基盤が単一ではなく、その中心が揺れ動いていた可能性を示唆しており、葛西氏が抱える構造的な脆弱性の一端を物語っている。
葛西氏の歴史を複雑にし、その国力を内側から蝕んだ最大の要因は、一族が二つの系統に分裂し、長きにわたって対立していた事実である。一方は、内陸の寺池に本拠を置き、葛西宗家(本家)の正統を継ぐとされた「寺池系」。もう一方は、沿岸部の要港・石巻を拠点とする分家筋の「石巻系」である 6 。
この二系統の並立は、南北朝時代の頃には既に形成されていたと見られ、葛西氏の領国は事実上、二つの権力中心を持つ不安定な状態にあった 8 。この対立は、単なる一族内の勢力争いに留まらなかった。家臣団をも二分し、領内全域を巻き込む争乱を頻発させる直接的な原因となったのである 7 。特に、戦国時代に入るとその対立は先鋭化し、葛西氏の統治能力を著しく低下させていった。寺池の宗家が発する命令が、石巻系の勢力圏では必ずしも遵守されず、時には公然と反旗を翻されることさえあった。
葛西氏が内部に深刻な亀裂を抱える一方で、その南に隣接する伊達氏は着実に勢力を拡大し、奥州の覇権をうかがう巨大勢力へと成長していた。伊達氏は、直接的な武力侵攻と並行して、より巧妙な戦略を駆使した。それが、近隣の大名家へ一族の男子を養子として送り込み、内部からその勢力を切り崩し、あるいは乗っ取るという「養子政策」である。
葛西氏もまた、この伊達氏の戦略の主要な標的であった。伊達氏第11代当主・伊達成宗の子である宗清(むねきよ)が葛西氏に養子として送り込まれたのを皮切りに 9 、後には伊達氏第14代当主・稙宗の子である晴清(はるきよ、幼名・牛猿丸)も養嗣子として迎え入れられている 10 。
これらの養子縁組は、葛西氏と伊達氏が単なる敵対関係にあったのではなく、時には同盟を結び、時には従属するという、極めて複雑でアンバランスな力関係の中にあったことを示している 10 。しかし、その実態は、葛西氏が伊達氏の圧力に抗しきれず、その影響力を内部に受け入れざるを得なかったという従属的な側面が強かった。
葛西氏が長年抱えてきた寺池系と石巻系の内部対立は、この伊達氏の浸透戦略にとって、まさに絶好の機会を提供した。伊達氏は、葛西氏の分家筋である石巻系に自らの一族・宗清を養子として送り込むことで、この内部亀裂を巧みに利用したのである 3 。これにより、石巻系は強大な伊達氏の威光を背景に、本家である寺池系への対抗姿勢を強めることが可能となった。結果として、葛西氏の内紛は、単なる一族内の主導権争いという次元を超え、事実上、葛西氏の独立を維持しようとする寺池派と、伊達氏と結託してその地位向上を図る石巻派との代理戦争の様相を呈するに至った。葛西政信の物語は、この絶望的とも言える構造の中で幕を開けるのである。
葛西氏を取り巻く内外の危機的状況を背景に、歴史の表舞台に登場する葛西政信。しかし、彼が一体何者で、いかにして葛西家の当主となったのか、その経緯は錯綜する史料の中に埋もれ、多くの謎に包まれている。本章では、これらの謎を解きほぐし、彼の家督継承の裏に隠された政治的背景と、彼にかけられた「簒奪者」という疑惑の真相に迫る。
葛西政信を巡る混乱の根源の一つに、彼の名前の問題がある。複数の史料を突き合わせると、後に「政信」と名乗る人物が、当初は「満重(みつしげ)」と名乗っていた可能性が浮かび上がる。例えば、ある記録では『文明元年(1469年)、葛西氏は十三代満重(後の政信)の時代』と明確に記されており、満重と政信が同一人物であることを示唆している 4 。また、別の史料においても、石巻日和山城主であった葛西満重が、伊達家から宗清を養子に迎えた後、急遽、寺池の宗家を相続することになったとある 3 。
この「満重=政信」説に立つと、一見不可解に見える歴史の断片が、一つの線として結びついてくる。後の最大のライバルとなる伊達家出身の葛西宗清を、他ならぬ満重(=政信)自身が養子として迎えていた 3 という事実は、この説を前提とすることで初めて理解可能となる。つまり、彼がまだ石巻城主・満重であった時代、何らかの理由で伊達家との関係強化を図るべく宗清を養子としたが、その後、予期せぬ形で寺池の宗家を継ぐことになり、かつて自らが迎え入れた養子と宿命的な対決を繰り広げることになった、という複雑な経緯が推測されるのである。
政信の出自と家督継承の順序は、現存する系図によって記述が大きく異なり、研究者を悩ませてきた。この混乱ぶりを具体的に示すため、主要な史料における葛西氏の系譜を比較すると、以下のようになる。
史料・伝承 |
11代当主 |
12代当主 |
13代当主(政信)の位置づけ |
葛西宗清の位置づけ |
典拠 |
『高野山五大院葛西系図』など |
朝信(とものぶ) |
尚信(なおのぶ、朝信の子) |
政信 (朝信の弟、尚信の叔父) |
記述錯綜 |
1 |
『平守寛葛西系譜』など |
満重(みつしげ、後の政信) |
(満重が13代を継承) |
政信 (満重が改名) |
満重(政信)の養子 |
4 |
仙台系図 |
(錯綜) |
(錯綜) |
宗清・貞清父子の代に南北朝期とされ、時代が合わない |
貞清の父を清信とし、宗清と同一人物の可能性を示唆 |
6 |
この表が示すように、政信を11代当主・朝信の弟で、甥の12代・尚信の跡を継いだ13代当主とする系図 1 が存在する一方で、彼自身が満重として家督を継ぎ、後に政信と改名したとする説 4 も有力である。さらに他の系図では、時代考証そのものが困難な記述も見られる 6 。このように、単一の「正しい歴史」は存在せず、複数の「語られた歴史」の中から、より蓋然性の高い像を再構築していく作業が不可欠となる。
数ある説の中でも、比較的広く知られているのが、『高野山五大院葛西系図』などに見られる、政信が兄・朝信の子である甥の尚信の早世後に家督を継いだ、という継承の物語である 1 。この尚信という人物は、室町幕府第9代将軍・足利義尚から偏諱(名前の一字を賜ること)を受けており、そのことから彼が葛西家の正統な後継者と内外から認められていたことは疑いようがない 1 。
正統な後継者であったはずの若き当主が早世し、その叔父である政信が家督を継承した。この状況が、「政信が尚信を毒殺して家督を奪った」という風聞を生む土壌となったことは想像に難くない。この毒殺説の真偽を直接的に証明する一次史料は現存しない。しかし、この風聞が生まれた背景を、当時の葛西氏が置かれた政治状況から考察することは可能である。
その鍵となるのが、第一章で述べた「伊達氏の脅威」と「石巻派の台頭」である。当時、伊達家の威光を背負う葛西宗清が石巻を拠点に勢力を拡大し、虎視眈眈と葛西宗家の地位を狙っていた 7 。このような国家的危機に際して、正統な当主である尚信がもし若年、あるいは幼少であったとすれば、強力なリーダーシップを発揮して家臣団を統率し、伊達氏との困難な外交交渉や軍事的対決を乗り切ることは極めて困難であったと推測される。
このままでは、家中の主導権を石巻派(伊達派)に握られるか、最悪の場合、伊達氏の直接介入を招いて葛西家そのものが乗っ取られかねない。こうした強い危機感が、寺池を本拠とする宗家派の重臣たちの間に共有されたとしても不思議ではない。この危機的状況を打開するため、一族の中でも経験豊富な実力者であった叔父の政信(満重)を当主に擁立し、強引な手段を用いてでも権力を集中させ、内外の敵に対抗しようとする動きが起こった可能性が考えられる。
この観点に立てば、政信の家督継承は、単なる個人的な野心による簒奪ではなく、伊達氏の侵食という外部からの脅威に対抗するため、葛西宗家派が決行した一種の「防衛的クーデター」であったと解釈することができる。そして、「毒殺」というおどろおどろしい風聞は、この非正規な権力移行を正当化しようとする政信派と、彼を失脚させて宗清を擁立しようとする反政信派(石巻派など)双方の、激しいプロパガンダ合戦の中で生まれ、領内に流布していった可能性が高いのである。
葛西政信の治世は、終始一貫して一人の男との対決に彩られていた。その男こそ、伊達家から送り込まれた養子、葛西宗清である。この二人の対立は、単なる家督を巡る個人的な確執ではなかった。それは、葛西氏の独立を死守しようとする寺池の宗家と、伊達氏の勢力を背景に領内の覇権を握ろうとする石巻の分家との、一族の存亡を賭けた代理戦争であった。政信の生涯は、この宿命の対決を抜きにしては語れない。
葛西宗清は、伊達氏第11代当主・伊達成宗の次男として生まれた、正真正銘の伊達一族であった 9 。彼が葛西氏の歴史に登場するのは、前章で述べたように、当時石巻城主であった葛西満重(後の政信)の養子として迎え入れられたことによる 3 。この養子縁組の正確な経緯は不明ながら、葛西氏が伊達氏の圧力を受けて受け入れざるを得なかったか、あるいは一時的に伊達氏との協調路線を選択した結果であったと考えられる。
しかし、宗清は単なる人質や名目上の養子ではなかった。彼は石巻を拠点とする葛西氏分家の旗頭となり、現地の諸将に擁立され、やがて葛西家全体の太守(当主)の座を狙う野心的な存在へと変貌していく 7 。彼の背後には、奥州随一の実力を誇る伊達家の威光と、潜在的な軍事支援があった。このため、宗清は寺池の宗家を率いる政信にとって、領内にあって最も厄介で危険な政敵となったのである。
政信と宗清の対立は、葛西氏の家臣団を二分する深刻な内部抗争へと発展した。政信が率いる寺池派が葛西氏古来の権威と正統性を主張する一方、宗清が率いる石巻派は伊達氏との連携という実利を掲げて勢力を結集した 1 。両者は領内の覇権を巡って激しく争い、葛西氏の国力は、外部の敵と戦う前に、この内部抗争によって著しく消耗させられていくことになった。
この対立構造は、政信の立場を極めて困難なものにした。彼は、自らの家督継承に「簒奪」という疑惑が付きまとうという弱点を抱えていた。それゆえに、彼は自らの権力の正当性を証明し、家臣団を結束させるためにも、反・伊達、反・宗清の旗幟をより鮮明に掲げざるを得なかった。彼の強硬な姿勢は、個人的な感情以上に、自らの政治的立場を守るための必然的な選択であったと言える。一方で宗清は、伊達家出身という出自そのものが、彼の最大の強みであると同時に、葛西氏の独立を重んじる勢力にとっては排除すべき「異分子」と見なされる弱みでもあった。この対立は、「血統(葛西本家)の正統性」と「実力(伊達家の支援)」という、二つの異なる論理の激突であった。
政信と宗清の対立が、実際の武力衝突として火を噴いたのが「永正合戦」である。永正8年(1511年)、宗清は石巻から軍勢を率いて桃生郡(ものうぐん)に侵攻し、現地の有力者であった山内首藤氏を攻め、これを破った 7 。
この合戦は、宗清がもはや石巻という一拠点に留まる存在ではなく、実力をもって葛西領内での影響力を積極的に拡大しようとする、その野心を明確に示した象徴的な出来事であった。さらに注目すべきは、合戦後、宗清が一時的に宗家の本拠地である寺池に移っているという記録である 7 。この行動の意図は、合戦の戦後処理のためであったとも解釈されるが、石巻派の諸将に後押しされた宗清の権勢が、一時的とはいえ宗家を脅かすレベルにまで達していたことを強く示唆している。
最終的に、宗清が葛西氏全体の当主の座を奪うことはなかった。政信の跡を継いだのが、政信の子とされる晴重であったことを考えると、宗清は政信との長期にわたる権力闘争には敗れたものと見られる 9 。しかし、永正合戦をはじめとする彼の一連の軍事行動と政治的策動は、葛西氏の内部に修復困難な亀裂を生み、その統制をさらに困難にしたことは間違いない。政信の治世は、この内なる敵との終わりなき闘争に、その多くの力が費やされたのである。
葛西政信の治世は、宗清との対立のみならず、領内外で頻発する争乱への対応に追われる、まさに内憂外患の日々であった。特に、西に隣接する宿敵・大崎氏の内紛が葛西領内にまで波及した「明応の合戦」は、当時の葛西氏がいかに脆弱な統治基盤の上に成り立っていたかを如実に物語っている。政信の治世とは、巨大勢力の狭間で、絶え間ない危機に対応し続ける苦闘の連続であった。
明応年間(1492年-1501年)、葛西氏の西隣に位置し、奥州探題の家柄を誇る大崎氏の内部で家督を巡る争いが発生した。この火種は国境を越え、葛西領内へと飛び火し、大規模な争乱へと発展した。これが「明応の合戦」と呼ばれる内乱である 7 。
この争乱における葛西家中の動きは、当主の統制力が著しく低下していた実態を浮き彫りにしている。葛西氏の家臣団は、この大崎氏の内紛を巡って二つに分裂した。一方には、大崎氏の一方の派閥から支援を依頼され、これに応じようとした薄衣(うすぎぬ)氏や江刺(えさし)氏といった有力家臣たち。もう一方には、当主である葛西政信と、彼を支える柏山(かしわやま)氏や大原(おおはら)氏といった重臣たちである。両者は葛西領内を舞台に対立・抗争し、一族が相争うという最悪の事態を招いた 7 。
これは、葛西氏の当主である政信の意思決定が、全ての家臣に及んでいなかったことの動かぬ証拠である。有力な家臣が、当主の意向を無視して独自の外交判断を下し、隣国の内戦に介入して軍事行動を起こすという状況は、葛西氏の領国経営が破綻寸前であったことを物語っている。
さらに屈辱的であったのは、この内乱の収拾のされ方であった。自力で争乱を鎮めることができなかった葛西氏は、最終的に伊達氏の当主・伊達成宗の仲介を受け入れて、ようやく和睦にこぎつけた 7 。これは、葛西氏が内部の問題を自力で解決する能力を失い、最大の脅威であるはずの伊達氏の介入を、甘んじて受け入れざるを得なかったという事実を示している。政信にとって、これほどの屈辱はなかったであろう。
政信の治世は、宗清との対立や明応の合戦といった大きな争乱だけでなく、大崎氏との断続的な国境紛争など、常に戦乱の危険に晒されていた 1 。このような状況下で、政信がいかにして広大な領国を維持しようとしたのか、その具体的な領国経営の手腕を伝える史料は乏しい。
しかし、見方を変えれば、これほどまでに深刻な内憂外患に直面しながらも、政信が一定期間にわたって当主の座を維持し、葛西氏の滅亡を食い止めたこと自体が、彼が単なる暗愚な君主ではなかったことを逆説的に証明している。彼の治世は、理想的な領国経営を目指すというよりは、次から次へと発生する危機に対応するための、場当たり的で過酷なものであったに違いない。
葛西政信の治世は、戦国時代における「中間勢力」の悲劇を体現していると言える。南に強大な伊達氏、西に宿敵の大崎氏という二つの勢力に挟まれ、さらに内部には宗清に代表される分家や、薄衣氏・江刺氏のような当主の統制から半ば独立した有力家臣を抱えるという、まさに八方塞がりの状況にあった。彼が取り得た選択肢は極めて限られており、彼の行動の多くは、この地政学的な宿命によって決定づけられていたのである。彼の治世に見られる混乱は、彼の個人的な資質の問題以上に、このどうすることもできない時代の構造が生み出したものであった。
内憂外患に明け暮れた葛西政信の時代も、やがて終わりを迎える。しかし、彼が遺したものは、統一された強固な葛西家ではなかった。彼の治世に深刻化した内部の亀裂と国力の消耗は、もはや回復不可能なレベルに達しており、葛西氏の緩やかだが確実な衰退を決定づけた。政信の闘いは、結果として一族を滅亡へと向かわせる黄昏の時代の序曲となったのである。
葛西政信の正確な没年は、他の事績同様に諸説があり確定していない。しかし、複数の史料が永正3年(1506年)に彼が卒去したと記しており、これが最も有力な説とされている 1 。
政信の跡を継いだのは、彼の三男とされる葛西晴重(はるしげ、稙信とも)であったと伝わる 9 。しかし、当主が交代しても、葛西氏が置かれた苦しい状況に変化はなかった。それどころか、伊達氏への従属はさらに深化していく。晴重の代にも、伊達氏第14代当主・伊達稙宗の子である晴清(牛猿丸)が養子として送り込まれ、家督継承問題に伊達氏が公然と介入する事態となった 10 。これは、政信がその生涯をかけて抵抗しようとした伊達氏の浸透が、彼の死後、もはや抗うことのできない既定路線となっていたことを示している。政信の闘いは、結果的に無に帰したのである。
葛西政信の時代に決定的に深刻化した内部対立と、それに伴う国力の著しい消耗は、その後も回復することなく、葛西氏の衰退を決定的なものにした。寺池派と石巻派の対立に象徴される家中の分裂は、その後の当主たちの代になっても根深く尾を引き、領国全体の意思統一を著しく困難にした。
この構造的な脆弱性は、伊達政宗が奥州の覇権を確立していく時代になると、葛西氏にとって致命的な弱点となる。家臣団の中には、もはや自家の当主よりも、強大な隣国・伊達政宗に期待を寄せる者さえ現れる始末であった 15 。このような内部状況では、政宗の巧みな外交戦略や軍事的圧力に対抗できるはずもなかった。
最終的に、葛西氏の終焉は、豊臣秀吉による天下統一の過程で訪れる。天正18年(1590年)の奥州仕置において、葛西氏は小田原征伐に参陣しなかったことを咎められ、その広大な領地を没収され、大名としての地位を失った 16 。この時、当主であった葛西晴信は、有効な抵抗も、秀吉との有利な交渉もほとんど行えなかった。その背景には、政信の時代から連綿と続く長年の内紛によって、領国全体を一つにまとめ上げ、一丸となって国難に当たるという、国家として最も基本的な力が完全に失われていたことがある。
葛西政信の生涯は、葛西氏の独立を維持するための絶望的な闘争であった。しかし、皮肉なことに、その闘争(家督を巡る強引な手法や、宗清との対立、家臣団の分裂を招いたこと)自体が、葛西氏の内部結束を破壊し、国力を疲弊させ、結果として滅亡を早める最大の要因となってしまった。彼は、一族を滅亡から救おうとして、結果的に滅亡への坂道を転がり落とす引き金を引いてしまった人物と評価せざるを得ないだろう。
本報告書を通じて、戦国時代の奥州に生きた武将・葛西政信の生涯を多角的に検証してきた。その結果、彼を単に「甥を毒殺し家督を簒奪した悪逆非道な人物」として片付けることは、歴史の複雑な実態を見誤るものであることが明らかになった。
葛西政信は、鎌倉以来の名門という権威が揺らぎ、一族が「寺池」と「石巻」に分裂するという深刻な内部危機と、南からは伊達氏、西からは大崎氏という強大な外部圧力に晒される、まさに存亡の岐路に立たされた人物であった。彼が家督を継承した経緯には、確かに非正規で強引な側面があった可能性が高い。しかしそれは、個人的な野心の発露というよりも、伊達氏の浸透に抗し、分裂した一族を力ずくでまとめ上げようとした「防衛的クーデター」という側面を色濃く持っていたと解釈できる。
彼の治世は、伊達家の威光を背負う葛西宗清との宿命的な対立や、家臣団の分裂が露呈した明応の合戦など、絶え間ない闘争と混乱の連続であった。彼は、自らの権力の正当性に常に疑問符を付けられながらも、内外の敵と戦い続け、葛西氏の独立を維持しようと苦闘した。その意味で、彼は極めて複雑で悲劇的な人物であったと言える。
しかし、その意図とは裏腹に、彼の闘争は葛西氏の内部に修復不可能なほどの深い溝を刻み、その国力を著しく消耗させた。彼が遺したものは、統一された強力な国家体制ではなく、内部崩壊の危機を常に孕んだ脆弱な領国であった。この弱体化した葛西氏が、伊達政宗の台頭と豊臣政権による天下統一という、より大きな歴史のうねりに飲み込まれていったのは、ある意味で必然であった。
葛西政信の生涯は、戦国時代という激動期において、旧来の権威を持つ伝統的な地域勢力が、いかにして新たな実力主義の波(伊達氏の台頭)と、中央集権化の波(豊臣政権)の中で淘汰されていったかを示す、一つの典型的な事例である。彼の物語は、個人の野心や善悪といった単純な二元論では到底語ることのできない、時代の構造的な力学に翻弄された人間の苦闘の記録として、我々に多くの歴史的示唆を与えてくれる。葛西政信という謎多き武将を通して、我々は奥州戦国史の深淵の一端を垣間見ることができるのである。