蒔田広定は豊臣近習から大名へ。関ヶ原で改易も、岳父らの尽力で浅尾藩主として復帰。大坂の陣で徳川方として活躍し、蒔田家は幕末に再立藩。
蒔田広定(まいた ひろさだ)は、織豊時代から江戸時代初期という、日本の歴史上最も劇的な転換期を生きた武将である。彼の生涯は、栄光と没落、そして奇跡的な再起という、まさに波乱万丈の物語に彩られている。豊臣秀吉の近習として栄達し、一万石の大名にまで上り詰めた広定は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与したことで、その地位と所領のすべてを失う 1 。しかし、人の縁という細い糸に導かれ、彼は敗軍の将として異例の赦免を受け、再び大名の座に返り咲くという稀有な運命を辿った。
広定の人生は、豊臣政権の崩壊と徳川幕府の確立という時代の巨大なうねりを、一個人の視点から鮮烈に映し出す鏡である。彼の選択と運命は、当時の武士たちが直面した忠誠と生存の狭間での苦悩と葛藤を象徴している。さらに、広定が礎を築いた蒔田家は、彼の死後も数奇な運命を辿る。二代で大名の座を失い旗本となるが、二百数十年後の幕末に再び大名へと復帰するという、他に類例の少ない歴史を刻んだ 1 。この一族の軌跡は、個人の物語に留まらず、江戸時代を通じての武家社会の構造的変動を体現する貴重な事例と言える。本報告書は、この蒔田広定という一人の武将の生涯を徹底的に追うとともに、彼が遺した蒔田家の歴史的意義に至るまで、多角的な視点からその全体像を解明するものである。
年代(西暦) |
元号 |
出来事 |
1571年 |
元亀2年 |
尾張国にて、蒔田広光の次男として誕生 1 。 |
1590年 |
天正18年 |
小田原征伐。北条氏政・氏照兄弟自刃の検使役を務める 3 。 |
1591年 |
天正19年 |
豊臣秀吉より河内国にて104石の知行を与えられる 3 。 |
1592年 |
文禄元年 |
文禄の役。肥前名護屋城に駐屯し、東二の丸を守備する 3 。 |
1595年 |
文禄4年 |
父・広光の死去に伴い家督を相続。伊勢国雲出に1万16石を領する大名となる 1 。 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い。西軍に属し、伊勢安濃津城攻撃に参加。戦後、改易され高野山へ蟄居 1 。 |
1602年 |
慶長7年 |
剣術の師である柳生宗厳(石舟斎)より新陰流の印可状を受ける 3 。 |
1603-1605年頃 |
慶長8-10年頃 |
赦免され、備中国浅尾にて1万石を与えられ、浅尾藩初代藩主として大名に復帰 1 。 |
1614-1615年 |
慶長19-20年 |
大坂冬の陣・夏の陣に徳川方として従軍 3 。 |
1616年頃 |
元和2年頃 |
二代将軍・徳川秀忠の御伽衆となる 3 。 |
1636年 |
寛永13年 |
66歳で死去 1 。 |
蒔田広定の家系を語る上で、まず明確にすべきは、同名の別系統の武家との区別である。江戸幕府が編纂した公式系譜『寛政重修諸家譜』によれば、広定が属する蒔田氏は、藤原南家を祖とし、維兼(これかね)を遠祖とする家系であるとされている 2 。これは、広定の家が藤原氏の流れを汲むと自認し、幕府にもそのように届け出ていたことを示している。
一方で、日本の武家史にはもう一つの著名な「蒔田氏」が存在する。それは清和源氏足利氏の支流であり、室町幕府においても将軍家の一門として高い家格を誇った吉良氏の分家である 7 。この吉良氏の一派は、武蔵国久良岐郡蒔田(現在の神奈川県横浜市南区蒔田)を所領としたことから「蒔田」を名乗った 8 。この源姓蒔田氏は、江戸時代には幕府の儀式典礼を司る名誉職である「高家」に列せられ、広定の家系が外様大名から交代寄合という実質的な領主として存続したのとは、明確に異なる道を歩んだ 7 。
この二つの蒔田家の並存は、単なる偶然ではない。徳川家康が名門である吉良の家名を名乗ることを宗家の一人のみに限定し、分家には別の姓を名乗らせたという記録が残っており 7 、これは幕府が各家の由来や性格に応じて巧みに身分秩序の中に組み込んでいった統治技術の現れであった。したがって、広定の生涯を理解するためには、彼が藤原姓を称する豊臣恩顧の実力派の家系に属し、源姓の名門である高家蒔田家とは出自も家格も異なる存在であったことを、まず念頭に置く必要がある。
蒔田広定の父は、蒔田広光(ひろみつ)という 3 。尾張国中島郡の出身で、はじめは織田信長に、本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えた武将であった 11 。広光は秀吉のもとで着実に功績を重ね、当初1万石を領していたが、天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸における働きなどが評価され、後には4万石にまで加増されるほどの有力大名へと成長した 4 。
広定は、天下人・秀吉の政権中枢で活躍する父の背中を見て育った。その環境は、彼が幼い頃から秀吉への奉公を当然のこととして受け入れ、豊臣家への強い忠誠心を育む土壌となったと考えられる。
蒔田広定は、元亀2年(1571年)、蒔田広光の次男として尾張国織津で生を受けた 1 。母は木下備中守の娘と伝わる 3 。兄には、後に主水正(もんどのしょう)を名乗る政勝(まさかつ)がいた 4 。
次男であった広定だが、早くから父と同じく豊臣秀吉に仕え、その才能と忠勤ぶりを認められた。彼は秀吉の身辺に仕える「小姓頭」の一人に抜擢される 3 。小姓は主君の秘書役から警護までこなす極めて重要な側近であり、この抜擢は父・広光の功績もさることながら、広定自身の資質が高く評価されていたことの証左である。秀吉との個人的な結びつきを深めながら、広定は青年期を過ごした。
蒔田広定の青年期は、豊臣秀吉の側近としての華々しい経歴に彩られている。その信任の厚さを示す最初の大きな出来事が、天正18年(1590年)の小田原征伐であった。この戦役の終結時、降伏した北条氏政・氏照兄弟が自害する際、広定は秀吉の小姓という身分でありながら、その検使役という重責を任された。この役目は、豊臣方の石川貞清や、敵方であった徳川家の重臣・榊原康政らと共に務めており、政権の重要な歴史的瞬間に立ち会うことを許されていた 3 。これは、彼が単なる奉公人ではなく、秀吉の信頼する「身内」として扱われていたことを物語る。
その翌年の天正19年(1591年)には、秀吉から「鼻紙料」という名目で、河内国大県郡大平寺村に104石の知行を与えられた 3 。「鼻紙料」とは、主君が側近に与える私的な小遣いのような意味合いを持つ恩賞であり、広定と秀吉との個人的な結びつきの強さを象徴するものである。
さらに、文禄元年(1592年)から始まった文禄の役(朝鮮出兵)では、広定は秀吉本陣の旗本後備衆の一つとして兵200を率いた。彼は直接朝鮮半島へ渡海することはなかったが、出兵の拠点である肥前名護屋城に駐屯し、本営の東二の丸を守備するという重要な役割を担った 3 。
秀吉の側近として着実に実績を積んだ広定に、大きな転機が訪れる。文禄3年(1594年)、彼は伏見城の建設工事(普請)に参加 3 。そして翌文禄4年(1595年)、父・広光が63歳で死去したことに伴い、家督を相続した 4 。
広定は、父が築いた河内・伊勢・備中に散在する所領、合計1万16石を継承し、ここに晴れて大名の仲間入りを果たした 1 。彼は本拠地を伊勢国雲出(現在の三重県津市雲出)に定め、雲出藩の初代藩主となったのである 5 。秀吉の小姓頭から一万石の大名へ。これは、豊臣政権下で順調に出世街道を駆け上がった、彼の人生の頂点であった。
広定に対する秀吉の信頼は、その最期まで揺るがなかった。慶長3年(1598年)、秀吉が死の床に伏した際、側近たちに遺品が分与された。この時、広定は名刀「道永」を拝領している 3 。これは、秀吉子飼いの武将の中でも、特に信頼された者のみに与えられる最高の栄誉であり、広定が秀吉にとってかけがえのない存在であったことを示している。
しかし、絶対的な権力者であった秀吉の死は、豊臣政権の安定を根底から揺るがした。五大老筆頭の徳川家康が急速にその影響力を拡大させ、政権内部では石田三成ら奉行衆との対立が先鋭化していく。広定のような、秀吉個人への強い恩義と忠誠心を持つ「豊臣恩顧」の大名たちは、家康に従うのか、それとも豊臣家への忠誠を貫くのか、という極めて困難な選択を迫られる時代の渦中へと投げ込まれていった。彼の行動原理を理解する上で、彼が単なる「豊臣恩顧の大名」である以上に、太閤秀吉個人の「近習」であったというアイデンティティを強く持っていた点を重視する必要がある。
慶長5年(1600年)、天下の形勢は大きく動く。五大老筆頭の徳川家康が、会津の上杉景勝討伐を名目に大軍を率いて東国へ向かうと、その隙を突いて石田三成らが大坂で挙兵し、東西両軍による対立が決定的なものとなった。この国家を二分する動乱に際し、蒔田広定は迷わず西軍に与することを決断した。彼のこの選択は、政治的な利害計算よりも、亡き主君・豊臣秀吉への恩義と、その遺児である秀頼への忠誠心に根差すものであったと考えられる。
広定の本拠地である伊勢国雲出は、西軍の拠点である大坂と、東軍の主力が進軍してくる東海道とを結ぶ、戦略上の要衝であった 14 。彼はまず大坂本町筋橋の警固などを務めた後、毛利秀元を総大将とする伊勢方面軍に合流し、天下分け目の戦いに身を投じることになった 3 。
西軍の伊勢方面における主目標は、東軍に与した富田信高(五万石)が守る安濃津城(現在の津城)の攻略であった。毛利秀元、吉川広家、長束正家らを主力とする西軍3万の大軍が、安濃津城に殺到した 16 。蒔田広定は、同じく西軍に属した伊勢の小大名である山崎定勝や松浦秀任らと共に、この安濃津城攻撃部隊の一翼を担った 15 。
対する東軍の城兵はわずか1,700名。圧倒的な兵力差にもかかわらず、富田信高と、援軍として駆け付けた分部光嘉らは凄まじい抵抗を見せ、戦いは激戦となった 17 。しかし、衆寡敵せず、安濃津城は数日間の激しい攻防の末に開城し、西軍の手に落ちた。広定は、この局地戦において勝利者の一員となったのである。戦後、彼は占領した安濃津城に駐屯し、その守備を担った 3 。
この安濃津城の戦いは、西軍にとっては勝利であったが、富田らの奮戦によって西軍主力の進軍を数日間遅滞させる結果をもたらした。この時間的猶予は、東軍が美濃国の岐阜城を攻略するなど、本戦を有利に進めるための重要な布石となり、歴史の皮肉な一側面を形成した 19 。
安濃津城での勝利の報も束の間、同年9月15日、美濃国関ヶ原で行われた本戦において、西軍はわずか一日で壊滅的な敗北を喫した。小早川秀秋らの裏切りもあり、西軍は総崩れとなった。
安濃津城に駐屯していた広定のもとに届いたのは、主力の敗北という絶望的な知らせであった。自らが参加した戦いでは勝利したにもかかわらず、全体の戦局の敗北によって、彼の運命は暗転する。全ての望みを絶たれた広定は、所領を捨てて高野山へと逃れ、剃髪して蟄居した 1 。豊臣大名・蒔田広定の栄光は、関ヶ原の敗戦と共に完全に潰え、彼の所領は没収(改易)されたのである 3 。彼の改易は、個人の武功や責任というよりは、西軍という巨大な組織の戦略的失敗に巻き込まれた結果であった。
高野山で蟄居し、将来への望みを絶たれたかのように見えた蒔田広定に、二つの方面から救いの手が差し伸べられた。彼の運命を劇的に好転させたのは、強力な「人の縁」であった。
第一の救い手は、彼の岳父(正室の父)である大島光義であった 3 。光義は、関ヶ原の戦いに当時93歳という驚くべき高齢で東軍として参陣した歴戦の勇将である 21 。弓の名手として知られ、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の三代に仕えた功臣であり、特に家康からの信頼は極めて厚かった 23 。その光義が、西軍に与した娘婿・広定の罪を赦すよう、家康に直接嘆願したことは想像に難くない 20 。生涯で53度の合戦に参加し、41通の感状を受けたという老将の願いを、天下人となった家康も無碍にはできなかったであろう 22 。
第二の救い手は、豊臣恩顧の大名でありながら、石田三成との対立から東軍の先鋒として関ヶ原で大功を挙げた浅野幸長とその父・長政であった 1 。浅野家は秀吉の正室・高台院(北政所)の縁戚であり、旧豊臣家臣団の中で絶大な影響力を持っていた。幸長は戦後、紀伊和歌山に37万石余を与えられる大大名となっており 25 、その彼が広定の赦免を願い出たことは、家康にとっても無視できない重みを持っていた。
これらの有力者たちによる懸命な働きかけは、ついに家康の決断を動かした。家康は広定の罪を赦し、所領を安堵して大名としての地位を回復させることを認めた。これは、関ヶ原で西軍の主力として戦った武将に対する処遇としては極めて異例のことであった。
この決定に基づき、慶長8年(1603年)から10年(1605年)頃にかけて、広定は新たな所領を与えられた 1 。場所はかつての伊勢国雲出ではなく、備中国賀陽郡浅尾(現在の岡山県総社市)を新たな本拠地とする1万石であった 6 。この所領は、備中国の賀陽郡・窪屋郡・浅口郡のほか、河内国大県郡、山城国久世郡、摂津国豊島郡・八部郡など、七郡にまたがる分散した知行地で構成されていた 3 。
こうして、一度は全てを失った蒔田広定は、備中浅尾藩の初代藩主として、奇跡の復活を遂げたのである。この復活劇は、広定個人の幸運であると同時に、徳川家康の巧みな戦後統治術の一端を示すものであった。家康は、大島光義や浅野幸長といった功臣の「顔を立てる」ことで彼らの忠誠心を確固たるものにし、また旧豊臣家臣団の有力者に恩を売ることで、新体制への不満を和らげ、巧みに分断統治を進めた。広定は、この高度な政治的力学の交差点に立つことで、九死に一生を得たのであった。
大名として復活を遂げた蒔田広定にとって、徳川の臣としての忠誠を証明する最大の試練が訪れる。慶長19年(1614年)の冬の陣、そして翌20年(1615年)の夏の陣である。かつて自らが忠誠を誓った豊臣家が、今や徳川幕府にとっての最後の敵として大坂城に籠城していた。広定は、今度は徳川方の一員として、この大坂の陣に従軍した 3 。
旧主家である豊臣家を敵として大坂城を攻めるという行為は、広定にとって測り知れないほどの心の葛藤を伴ったことであろう。それは、徳川の世で生きることを選択した全ての豊臣恩顧の大名が通らなければならない、いわば「踏み絵」であった。大坂城が落城し、豊臣家が滅亡した後、広定は二代将軍・徳川秀忠の凱旋に付き従い、江戸へと向かった 3 。これにより、彼は名実ともに関ヶ原の過去と決別し、徳川の臣として新たな道を歩むこととなった。
大坂の陣での忠勤が認められ、広定は徳川幕府内での地位を確かなものにしていく。元和2年(1616年)頃、彼は徳川秀忠の「御伽衆(おとぎしゅう)」の一人に任じられた 3 。御伽衆とは、将軍の側近くに仕え、話し相手や相談役を務める役職である。これは、単なる儀礼的な地位ではなく、将軍の私的な空間に出入りし、直接その意向に触れることができる重要な立場であった。
広定がこの役に選ばれたのは、彼の波乱万丈の経歴そのものに価値が見出されたからかもしれない。秀吉の側近として豊臣政権の内情を知り、関ヶ原では西軍として戦い、改易の苦難を味わい、そして復活を遂げた彼の体験談は、平和な時代に生まれた秀忠にとって、父・家康が戦い抜いた時代の壮絶さを知るための「生きた歴史書」としての役割を果たしたであろう。彼の「敗者としての経験」は、新時代の支配者にとって逆説的に価値あるものへと転化したのである。
その後も、元和9年(1623年)と寛永3年(1626年)の二度にわたり、秀忠・家光父子の上洛に供奉するなど 3 、将軍家の重要な儀式に参加し、幕府への忠誠を生涯にわたって示し続けた。
広定は、武人としての側面だけでなく、文化的な素養も持ち合わせていた。特に剣術に深く通じており、新陰流の開祖として名高い柳生宗厳(石舟斎)に直接師事していたことが知られている。
特筆すべきは、慶長7年(1602年)に、宗厳から直々に新陰流の印可状を与えられていることである 3 。この時期は、関ヶ原の敗戦後、まだ赦免されるかどうかも定かではない、まさに人生のどん底にあった頃である。そのような逆境の中にあっても、武人としての自己研鑽を怠らなかった彼の精神性の強さ、そして文化への深い関心をこの事実は示している。
広定の家庭生活については、正室として大島光義の娘を迎え、後に石川勝政の娘を継室として迎えたことが記録されている 3 。子には、跡を継いだ長男・定正(さだまさ)をはじめ、長広(ながひろ)、次広(つぐひろ)、正之(まさゆき)らがいた 3 。
徳川の臣として平穏な晩年を送った広定は、寛永13年(1636年)、66歳でその生涯に幕を閉じた 1 。彼の墓所は、江戸時代を通じて蒔田家の菩提寺となった東京都豊島区駒込の勝林寺にあり、今も静かにその波乱の生涯を伝えている 28 。
蒔田広定が築いた備中浅尾藩と蒔田家は、彼の死後、再び大きな運命のうねりに飲み込まれていく。その歴史は、大名から旗本へ、そして幕末に再び大名へという、他に類を見ないU字型の軌跡を描いた。
代 |
当主 |
主要な出来事 |
石高 |
家格 |
初代 |
広定 |
豊臣大名→関ヶ原で改易→備中浅尾で大名復帰 |
10,016石 |
外様大名 |
2代 |
定正 |
広定の遺言により弟・長広に3,000石を分知 |
7,016石 (後8,310石余) 1 |
交代寄合(旗本) |
3代 |
定行 |
7,700石余を知行 1 |
7,700石余 |
交代寄合(旗本) |
... |
... |
(中略) |
... |
... |
11代 |
広孝 |
江戸市中警備の功により高直し |
10,000石 |
譜代大名(定府) |
寛永13年(1636年)、広定が亡くなると、家督は長男の蒔田定正が継いだ。しかし定正は、父・広定の遺言に従い、次男の長広に3,000石を分与(分知)した 20 。この結果、蒔田本家の所領石高は1万石を割り込み、7,016石(後に再計算され8,310石余)となった 1 。
江戸幕府の制度では、大名の資格は原則として石高1万石以上と定められていたため、この分知によって蒔田家は大名の地位を失うことになった。彼らは「交代寄合(こうたいよりあい)」という特殊な家格の旗本として、幕藩体制の中に組み込まれた 2 。交代寄合とは、石高は1万石未満でありながら、大名と同様に参勤交代の義務を負い、若年寄ではなく老中の直接支配下に置かれるなど、大名に準じる格式を認められた家々である 29 。広定が築いた大名家は、わずか一代でその歴史に幕を下ろし、旗本として新たな道を歩むことになったのである。
その後、約230年にわたり交代寄合として存続した蒔田家に、幕末の動乱期に再び劇的な転機が訪れる。11代当主・蒔田広孝(ひろたか)の時代であった。
文久3年(1863年)、尊王攘夷運動が激化し、江戸市中の治安が悪化する中、広孝は幕府から江戸市中警備の任に就くことを命じられた。この任務における功績が認められ、幕府は広孝に対し「高直し」(所領の生産力を再評価し、公式な石高を引き上げること)を実施した。これにより、蒔田家の石高は再び1万石に達し、ここに浅尾藩が再立藩。蒔田家は、実に二百数十年ぶりに大名の座へと返り咲いたのである 1 。
この時、旗本からの昇格であったため、その家格は初代広定の「外様大名」ではなく、徳川家譜代の臣として扱われる「譜代大名」(江戸常駐の定府大名)となった 6 。
大名に復帰した広孝の忠勤は、彼とその藩を幕末の激しい政争の渦中へと引きずり込んだ。元治元年(1864年)、広孝は京都の治安維持を担う「京都見廻役」に任命される 32 。同年7月、失地回復を目指す長州藩が京都に攻め上った「禁門の変(蛤御門の変)」が発生すると、広孝率いる浅尾藩兵は会津藩などと共に御所の警備にあたり、長州勢と直接交戦してこれを撃退する功績を挙げた 20 。
しかし、この幕府への忠誠が、後に悲劇的な報復を招く。慶応2年(1866年)4月、長州藩第二奇兵隊の幹部であった立石孫一郎らが率いる脱走兵約100名が、幕府の支配拠点である倉敷代官所を襲撃・放火した。そして、その足で禁門の変の報復として、浅尾藩に矛先を向けたのである。これが「倉敷浅尾騒動」である 20 。
脱走兵たちは深夜に浅尾陣屋を奇襲し、次々と建物を焼き払った。藩主・広孝は京都にあって不在であり、陣屋は大混乱に陥った。藩士たちは大砲で応戦するも、勢いを止めることはできず、陣屋からの退却を余儀なくされた 20 。この襲撃により、再立藩からわずか3年にして、浅尾藩の拠点であった陣屋は事実上壊滅状態となった 36 。初代・広定が豊臣への忠誠によって家を失いかけたように、その子孫である広孝は、徳川への忠誠によってその本拠地を焼き払われるという、皮肉な運命を辿ったのである。
蒔田広定の生涯は、豊臣秀吉への「情義」に始まり、関ヶ原での「決断」、改易という苦難を耐え抜いた「忍耐」、そして奇跡的な復活を支えた「人の縁」という言葉で総括することができる。彼は、時代の激流に翻弄されながらも、武人としての矜持と、他者との関係性を武器に生き抜いた。その人生は、単なる敗軍の将という言葉では片付けられない、深みと複雑さに満ちている。
広定が築いた礎の上に、蒔田家は江戸時代を通じて他に類を見ない特異な歴史を歩んだ。大名から旗本へ、そして再び大名へという家格の変遷は、徳川幕府の成立から崩壊に至るまでの社会構造の変化と、武家の生存戦略を映し出す貴重なケーススタディと言える。広定が下した決断と、彼が結んだ人の縁が、結果的に二百数十年の時を超えて幕末まで家名を存続させる遠因となったことは、歴史の深遠さを示している。
彼の物語は、歴史が単なる年表上の出来事の連続ではなく、構造的な力と個人の選択、そして予測不可能な偶然が織りなす、重層的でダイナミックなものであることを我々に教えてくれる。蒔田広定とその一族の軌跡は、今なお私たちに多くの示唆を与えてくれる、まさに歴史の探求に値する物語である。