蒲生茂清は大隅の国人領主。島津貴久に反旗を翻したが鎮圧。義弘負傷は息子範清の戦いと混同。反乱は大隅合戦の導火線となり、蒲生氏は滅亡したが分家は存続。
大隅国(現在の鹿児島県東部)に四百数十年の長きにわたり君臨した一族、蒲生氏。その歴史の中でも、戦国時代に当主を務めた蒲生茂清は、薩摩・大隅・日向の三国統一を目指す島津氏に果敢に挑んだ猛将として、一部で語られることがあります。利用者から提示された「島津貴久を窮地に陥らせ、島津義弘に重傷を負わせた」という人物像は、まさにその典型と言えるでしょう 1 。
しかし、史料を丹念に紐解くと、この勇猛なイメージは、彼の息子である蒲生範清の事績と混同された結果、形成されたものである可能性が極めて高いことが明らかになります。蒲生茂清という人物の実像は、伝説の影に隠れ、正確に理解されているとは言い難いのが現状です。
本報告書は、この蒲生茂清をめぐる史実と伝承の錯綜を解き明かすことを出発点とします。一次史料を含む各種文献を精査し、茂清個人の生涯のみならず、彼の一族である大隅蒲生氏が歩んだ平安時代末期から戦国時代の終焉に至るまでの四世紀半にわたる興亡の軌跡を、包括的かつ詳細に描き出すことを目的とします。
報告書は四部構成を採ります。第一部では、蒲生氏の起源から戦国前期までの通史を概観し、彼らが如何にして大隅の地に根を張り、島津氏との複雑な関係を築いていったのかを明らかにします。続く第二部では、本報告書の中心人物である蒲生茂清の時代に焦点を当て、その出自から島津氏への反乱、そしてその死までを詳述します。第三部では、息子の範清が主導した、蒲生氏の命運を賭した大規模な戦い「大隅合戦」の全容と、その結果もたらされた一族の落日を追います。そして第四部では、本領を失った後、蒲生一族が辿った多様な運命を描き、その歴史的意義を考察します。
この構成を通じて、蒲生茂清という一点から、大隅蒲生氏四百年の興亡史を立体的に浮かび上がらせ、南九州戦国史における彼らの真の姿に迫ります。
なお、本報告書で扱う「大隅蒲生氏」は、近江国を本拠とし、後に会津92万石の大名となる蒲生氏郷を輩出した「近江蒲生氏」とは、その出自も歴史も全く異なる別個の氏族です 2 。両者はしばしば混同されますが、この点をあらかじめ明確にしておきます。
大隅蒲生氏の歴史は、平安時代末期の保安4年(1123年)にまで遡ります。その出自は、摂関家である藤原北家教通流と称され、中央の権威に連なる系譜を誇ります 5 。
一族の直接の祖とされるのは、豊前国(現在の大分県北部)の宇佐神宮において留守職という要職にあった藤原教清です 7 。その子である蒲生氏初代・舜清は、教清と宇佐大宮司の娘との間に生まれました 7 。この出自が示すように、蒲生氏は中央の貴族の血統と、全国的な影響力を持つ宇佐神宮の宗教的権威という、二重の権威を背景に持っていました。
保安4年、舜清は宇佐神宮の神領管理の役人として大隅国へ下向します 7 。当初は垂水(現在の垂水市)に入りましたが、ほどなくして大隅国一宮である正八幡宮(現在の鹿児島神宮)の荘園であった蒲生院(現在の姶良市蒲生町)および吉田院の惣領職に転じました 7 。そしてこの地に、竜が爪を立てて伏しているような姿から「竜ヶ城」とも呼ばれる蒲生城を築いて本拠とし、地名にちなんで「蒲生氏」を名乗るようになったのです 6 。
蒲生氏の土着戦略は、単なる武力によるものではなく、極めて周到なものでした。舜清は、自らの出自である宇佐神宮から八幡神を勧請し、領内に蒲生八幡神社(当初の名称は正八幡若宮)を創建します 8 。これは、自らの権威の源泉を現地に根付かせ、領民の精神的な支柱となることを意図したものでした。さらに、現地の最高宗教権威であった大隅正八幡宮の執印(最高責任者)である行賢の娘を妻に迎えることで 8 、在地勢力との間に強固な姻戚関係を築きました。
このように、蒲生氏の成立は、中央の権威(藤原氏)、全国的な宗教ネットワーク(宇佐神宮)、そして現地の宗教的中心(大隅正八幡宮)という三つの権威を巧みに結びつけ、婚姻政策によって在地社会に深く浸透するという、高度に戦略的なものでした。この強固な基盤こそが、蒲生氏がその後400年以上にわたって大隅の一角に勢力を保ち続けることを可能にした根源であったと言えるでしょう。
鎌倉時代に入ると、蒲生氏は幕府の御家人となり、その地位を公的に認められます 6 。続く南北朝の動乱期(14世紀)においては、南九州で北朝方の主軸として戦う守護・島津氏に従い、その軍事行動に加わった記録が残されています 6 。
室町時代、特に15世紀前半になると、蒲生氏は島津氏との関係を一層深化させます。島津宗家(奥州家)の第7代当主・元久、および第8代当主・久豊の時代には、蒲生氏第12代当主・清寛が国老(家老)という最高の地位に任じられました 6 。これは、蒲生氏が単なる一国人領主ではなく、守護大名である島津氏の領国経営に不可欠なパートナーとして、深く政権中枢に関与していたことを示しています。島津一族の内紛である「伊集院頼久の乱」の際には、清寛は主君・久豊を支えて乱の鎮圧に大きく貢献するなど、その忠誠と実力は高く評価されていました 6 。
しかし、島津家の権力闘争が激化するにつれ、蒲生氏もその激流に翻弄されることになります。第15代当主・蒲生宣清の時代、長禄3年(1459年)、島津家の内紛の余波を受け、突如として先祖伝来の本領である蒲生院を没収され、薩摩国喜入(現在の鹿児島市喜入町)への国替えという屈辱的な処分を受けました 11 。国老を輩出するほどの重臣でありながら、主家の都合一つで根拠地を奪われかねないという、国人領主の不安定な立場を象徴する出来事でした。
それでも蒲生氏は屈しませんでした。宣清は移封先で雌伏の時を過ごし、主君・島津忠昌に仕えて弓術の腕前などで武功を重ね、信頼を回復していきます。そして明応4年(1495年)、ついに忠昌から旧領・蒲生を与えられ、37年ぶりにして悲願の本領回復を成し遂げたのです 6 。
この一連の歴史は、蒲生氏と島津氏の関係が、単純な主従関係ではなく、互いを必要とする「パートナーシップ」と、常に対立の危険をはらむ「ライバル関係」の間を揺れ動く、緊張感に満ちたものであったことを物語っています。この数世代にわたる協調と対立の記憶こそが、後に蒲生茂清・範清父子が「反島津」という険しい道を選択する、重要な歴史的背景を形成していくのです。
蒲生茂清の時代を理解するためには、まず彼と、その前後の当主である父・充清、息子・範清の事績を明確に区別する必要があります。以下の表は、彼らの治世と主要な出来事を整理したものです。
当主(代) |
続柄 |
在位期間(西暦) |
主要な出来事(島津氏との関係) |
南九州の情勢 |
蒲生充清(16代) |
宣清の子 |
~1529年 |
男子なく、種子島氏から茂清を婿養子に迎える。 |
島津宗家と分家の内紛が継続中。 |
蒲生茂清(17代) |
充清の婿養子 |
1529年~1550年 |
天文18年(1549年) 、肝付氏らと連合し島津方の吉田城を攻撃するも敗北し降伏。 |
島津貴久が宗家の家督を掌握し、領内統一を進める時期。 |
蒲生範清(18代) |
茂清の子 |
1550年~1557年 |
天文23年(1554年) 、祁答院氏らと再び反乱。「大隅合戦」が勃発。岩剣城、松坂城などで激戦の末、**弘治3年(1557年)**に降伏し没落。 |
島津貴久が大隅平定を本格化。島津三兄弟が初陣を飾る。 |
この表が示す通り、島津氏に対する大規模かつ長期的な戦争を主導したのは息子の範清であり、茂清の反乱は短期間で終結しています。
戦国時代の蒲生氏にとって大きな転機となったのが、第17代当主・蒲生茂清の登場です。第16代当主・蒲生充清には男子がおらず、家名の断絶を避けるため、養子を迎えることになりました 11 。白羽の矢が立ったのは、充清の姉が嫁いでいた種子島氏12代当主・種子島忠時の子でした。彼は充清の娘を娶って婿養子となり、享禄2年(1529年)に蒲生氏の家督を継承しました。これが蒲生茂清です 11 。
茂清が家督を継いだ当時、薩摩・大隅地方は、島津宗家と分家である薩州家などの間で激しい内紛が続いており、地域の国人領主たちは生き残りをかけて離合集散を繰り返す、混沌とした状況下にありました 11 。
茂清の出自である種子島氏は、単なる大隅の一国人ではありませんでした。鉄砲伝来の地として知られ、独自の海上ネットワークと高い技術力を有する、独立性の強い海洋勢力でした。伝統的な大隅の国人社会の枠組みとは異なる背景を持つ茂清が当主となったことは、蒲生氏の外交方針に新たな可能性と、同時に波乱の種をもたらしたと考えられます。旧来の島津氏との従属的な関係に縛られない、より水平的な国人連合を志向する彼の政治的選択は、この出自に影響された可能性が十分に考えられます。
やがて島津家の内紛は、分家出身ながら卓越した器量を持つ島津貴久が宗家の家督を継承することで、次第に収束へと向かいます。貴久が薩摩・大隅の再統一へと乗り出す中、これに危機感を抱いたのが、大隅の有力国人である肝付兼演でした 6 。
天文18年(1549年)、肝付兼演を盟主として、蒲生茂清、そして渋谷一族と呼ばれる祁答院氏、入来院氏、東郷氏らが結集し、反島津連合が形成されます 6 。彼らは、島津方の重要拠点である大隅国吉田城(現在の鹿児島市吉田町)に攻撃を仕掛けました。しかし、島津貴久が迅速に派遣した援軍の前に、連合軍は激戦の末に敗北を喫し、撤退を余儀なくされました 6 。
この敗北は、連合の結束を揺るがしました。島津軍が反撃に転じ、肝付兼演の居城である加治木城に迫ると、兼演は降伏を決断します。蒲生茂清もまた、兼演と共に島津貴久のもとへ出頭し、反逆に及んだことを謝罪しました 11 。こうして、茂清が主導した島津氏への抵抗は、わずか1年足らずで水泡に帰したのです。
吉田城攻撃の失敗から1年後の天文19年(1550年)、蒲生茂清は46歳でその生涯を閉じました 6 。史料に死因の具体的な記述はありませんが、合戦による死ではなく、病死であったと推測されています。
一部の伝承に見られる「敗北し、身を隠した」 1 という話は、史実とは異なります。史料上、茂清は一度島津氏に降伏した後、蒲生の地で死去し、家督は息子の範清によって問題なく継承されています 6 。この伝説は、後に蒲生城を追われ、祁答院氏のもとへ逃亡した息子・範清の悲劇的な末路 6 と混同され、後世に創出されたものと考えられます。
蒲生茂清の歴史的役割を評価するならば、彼は伝説的な猛将ではありませんでした。島津貴久を直接的に窮地に陥れるほどの戦果を挙げることはできず、その反乱は短期間で鎮圧されました。しかし、彼の起こした反乱は、貴久の台頭によって一時的に沈静化していた大隅の国人たちの反島津感情を再び呼び覚ます、重要な契機となりました。茂清の行動は、息子・範清の代に勃発し、南九州の勢力図を大きく塗り替えることになる大規模戦争「大隅合戦」の、直接的な導火線となったのです。彼の真の評価は、来るべき決戦の「地ならし」をした、転換点の当主として位置づけられるべきでしょう。
父・茂清の死後、蒲生氏の家督を継いだ第18代当主・蒲生範清。彼の時代に、一族の命運を賭した最後の戦いが繰り広げられます。この3年以上にわたる一連の戦いは「大隅合戦」と呼ばれ、蒲生氏の滅亡と、島津氏の飛躍を決定づけました 8 。
父の死から4年間、範清は表面上、島津氏に従っていました。しかし、水面下では着々と再起の機会をうかがっていました。天文23年(1554年)、範清は父の盟友であった祁答院良重や、菱刈隆秋らと再び手を結び、島津氏に対して公然と反旗を翻します 6 。
今回の標的は、かつて父と共に戦ったものの、その後島津方に与していた肝付兼盛(兼演の子)でした。範清らの連合軍は、肝付氏の居城である加治木城を包囲しました 6 。この動きは、大隅の平定を目指す島津貴久にとって看過できるものではありませんでした。貴久は直ちに加治木城の救援を決断し、自ら大軍を率いて出陣。ここに、大隅合戦の火蓋が切って落とされたのです 14 。
年月(西暦) |
戦闘名 |
場所 |
主要参戦者(蒲生方 vs 島津方) |
結果・影響 |
天文23年 (1554) 8-9月 |
加治木城包囲戦 |
加治木 |
蒲生範清, 祁答院良重 vs 肝付兼盛 |
島津貴久の出陣を誘発。大隅合戦が開始される。 |
天文23年 (1554) 9-10月 |
岩剣城の戦い |
平松・岩剣城 |
西俣盛家, 祁答院重経 vs 島津貴久, 義久, 義弘, 歳久 |
蒲生・祁答院連合軍が野戦で大敗、岩剣城が落城。島津三兄弟の初陣。戦局の主導権が島津方に移る。 |
弘治2年 (1556) 3月, 10月 |
松坂城の戦い |
蒲生・松坂城 |
中原加賀 vs 島津義弘, 梅北国兼 |
二度にわたる激戦の末、島津方が攻略。蒲生城への補給路が脅かされる。 |
弘治3年 (1557) 4月 |
蒲生城包囲戦 |
蒲生城 |
蒲生範清 vs 島津貴久, 義久, 義弘ら |
菱刈氏の援軍が敗北し、蒲生城は完全に孤立。範清は降伏を決意する。 |
加治木城の救援要請を受けた島津貴久は、老練な戦略家でした。彼は包囲軍に直接向かうのではなく、その背後にある蒲生氏の重要拠点・岩剣城(いわつるぎじょう)を電撃的に攻撃するという奇策に出ます 14 。これは、加治木を攻めている蒲生・祁答院連合軍を救援のために引きずり出し、彼らが不得手とする平野部での野戦に持ち込み、一挙に撃破しようという狙いでした。
岩剣城は、その名の通り、三方を断崖絶壁に囲まれた天然の要害であり、容易に攻め落とせる城ではありませんでした 14 。城将・西俣盛家が巧みに防戦する一方、貴久の思惑通り、加治木の包囲を解いた蒲生・祁答院連合軍が救援に駆けつけます。両軍は岩剣城北部の平松(現在の姶良市平松)で激突しました。この戦いは島津軍の圧勝に終わり、蒲生・祁答院連合軍は祁答院良重の嫡男・重経や城将の西俣盛家といった有力武将を多数失うという、壊滅的な打撃を受けました 6 。
この岩剣城の戦いは、後に島津家の三州統一を成し遂げる貴久の息子たち、義久、義弘、歳久が揃って初陣を飾った記念すべき戦いとしても知られています 14 。特に当時20歳の次男・義弘(当時は忠平)の活躍は目覚ましく、敵将を討ち取る武功を挙げました。しかしその一方で、敵の矢を5本も受ける重傷を負ったとも伝えられています 22 。利用者の方がご存知であった「島津義弘に重傷を負わせた」という逸話は、特定の個人によるものではなく、この岩剣城をめぐる激しい戦いの中で、蒲生方の兵が放った矢によるものと考えるのが最も妥当でしょう。
援軍が壊滅し、完全に孤立した岩剣城は、天文23年(1554年)10月3日頃、城兵が夜陰に紛れて脱出し、ついに落城しました 14 。この勝利により、大隅合戦の主導権は完全に島津氏の手に渡ったのです。
岩剣城という重要拠点を失っても、蒲生範清の抵抗の意志は衰えませんでした。彼は先祖代々の本拠地である蒲生城に籠城し、徹底抗戦の構えを見せます。蒲生城は周囲約8kmにも及ぶ広大な城郭を持つ、南九州屈指の堅城でした 10 。
島津貴久は力攻めの損害を避け、時間をかけて周囲の支城を一つずつ攻略し、蒲生城を兵糧攻めによって孤立させる作戦を選択しました 11 。弘治2年(1556年)、蒲生城の重要な支城である松坂城をめぐり、二度にわたる激しい攻防戦が繰り広げられます。この戦いでも島津義弘が軍を率い、自ら先陣を切って城門を大剣で打ち破るなどの猛攻の末、ついに松坂城を攻略しました 11 。
松坂城の陥落により、祁答院方面からの補給路は遮断され、蒲生城はさらに追い詰められます 11 。そして弘治3年(1557年)4月、最後の頼みであった菱刈氏の援軍が島津軍に撃破されると、蒲生城は完全に孤立無援の状態に陥りました 11 。
城内の兵糧は尽き、援軍の望みも絶たれ、万策尽きた蒲生範清は、ついに降伏を決意します。島津氏に使者を送り、城の明け渡しを申し出ました 11 。
弘治3年(1557年)4月20日、範清は城門の鍵を島津方に渡すと、初代・舜清以来、430年余りにわたって一族が守り続けてきた居城に自ら火を放ちました 6 。そして、最後まで抵抗を共にした盟友・祁答院良重を頼り、その本拠地である祁答院へと落ち延びていったのです 6 。
この蒲生城の落城をもって、平安時代末期から戦国時代まで、大隅国に一大勢力を築いた在地領主・蒲生氏の歴史は、事実上の終焉を迎えました。蒲生の地は島津氏の直轄領となり、地頭として家臣の比志島美濃守が置かれ、戦後の統治にあたりました 6 。
大隅合戦は、単に蒲生氏という一国人が滅んだ戦いではありませんでした。この戦いを通じて、島津貴久は巧みな戦略で領国を平定する手腕を示し、その息子である義久、義弘、歳久は、過酷な実戦を経験することで次代を担う優れた武将へと成長しました。蒲生氏の激しい抵抗は、皮肉にも島津氏の軍事力と一族の結束力を鍛え上げる絶好の試金石となり、後の三州統一、そして九州制覇へと向かう島津家の黄金時代の礎を築くことになったのです。
蒲生城の落城は、大名としての蒲生氏の終焉を意味しましたが、一族の血脈が完全に途絶えたわけではありませんでした。彼らはその後、それぞれ異なる道を歩むことになります。
蒲生城を脱出した蒲生範清は、盟友・祁答院良重の庇護を受けました 11 。良重の取り成しもあり、範清は島津氏から一命を助けられ、後に薩摩国薩摩郡隈之城(現在の薩摩川内市隈之城町)の青木門という、ごくわずかな知行地を与えられて、静かに余生を送ったと伝えられています 6 。
しかし、蒲生氏再興の夢は、その息子・為清の代に悲劇的な結末を迎えます。天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐で島津氏が窮地に陥った際、為清はこの混乱に乗じて密かに独立を画策しました。しかし、この計画は事前に露見し、島津義久の厳命によって自害させられてしまいます 3 。これは、一度は赦した相手であっても、再び反逆の芽を摘むことには一切の容赦をしないという、戦国大名・島津氏の厳しい統治姿勢を示すものでした。
この時、為清には二人の幼い息子がいましたが、家臣らの手引きによって京の都へ逃れることに成功します。彼らは無事に成長した後、それぞれ加賀前田氏と信濃永井氏に仕官し、大隅蒲生氏の血脈を他国で後世に伝えたとされています 3 。
一方で、蒲生氏のすべての系統が、茂清・範清父子と運命を共にしたわけではありませんでした。茂清が種子島氏から養子に入る際、彼の義父である蒲生充清には、茂清の義弟にあたる清親という実子がいました。この蒲生清親の系統は、茂清・範清の反乱とは一線を画し、一貫して島津氏に仕え続けていたのです 3 。
蒲生宗家が本領を失った後、島津貴久の命により、この分家である清親の子・清綱が蒲生氏の家督を継ぐことが公式に認められました 3 。これにより、大名としての地位は失ったものの、「蒲生」という家名は島津家の家臣団の一員として存続することになったのです。
この島津氏による戦後処理は、極めて巧みなものでした。反逆を主導した宗家には、最終的に自害という厳しい処断を下す一方で、従順であった分家を存続させることで家名自体は残すという、硬軟織り交ぜた対応をとっています。これは、他の国人衆に対する「反逆すれば滅びるが、従順であれば家は残る」という見せしめと懐柔を同時に行う、高度な政治的判断でした。蒲生一族が辿ったその後の多様な運命は、単なる征服者ではない、領国統治者としての島津氏の統治術の巧みさを物語る、一つの証左と言えるでしょう。
本報告書を通じて明らかになった蒲生茂清の実像は、利用者の方が当初持っていた「島津義弘に重傷を負わせた猛将」という伝承とは大きく異なります。その逸話は、息子の範清の時代に起きた「岩剣城の戦い」での出来事が、父子の間で混同された結果生まれたものと結論づけられます。
蒲生茂清の真の歴史的役割は、長らく島津氏の有力家臣という立場にあった蒲生氏を、再び独立志向の強い反抗勢力へと舵を切らせた「転換点の当主」として評価されるべきです。彼の決断と行動は、それ自体が大きな戦果を挙げるには至りませんでしたが、大隅国人たちの反島津感情を再燃させ、結果的に蒲生氏の滅亡と島津氏の飛躍という、南九州の歴史を大きく動かす「大隅合戦」へと繋がる道筋をつけたのです。
平安時代末期から戦国時代まで、430年以上にわたり大隅の一角に確固たる勢力を保ち続けた大隅蒲生氏。彼らは、島津氏が戦国大名として三州統一を成し遂げる過程において、最後の、そして最大の国内抵抗勢力の一つでした。蒲生氏の存在と、その激しい抵抗は、島津氏の領国経営や軍事編成、そして次代を担う人材の育成に多大な影響を与えました。彼らの滅亡は、島津氏が内なる敵を完全に克服し、その目を九州全土へと向ける、新たな時代の幕開けを告げる象徴的な出来事だったのです。
したがって、大隅蒲生氏の歴史は、単なる敗者の物語としてではなく、勝者である島津氏の歴史をより深く、より多角的に理解するための不可欠な鏡として、今なお重要な価値を持ち続けていると言えるでしょう。