薬師寺元一は摂津守護代。主君細川政元の奇行と後継者問題に翻弄され、永正元年に反乱を起こす。淀城に籠城するも鎮圧され、28歳で自害。彼の反乱は、細川政権の矛盾と戦国乱世の幕開けを象徴する事件であった。
本報告書は、歴史学、文献学、社会史の専門家からなるチームが、現存する一次史料および近年の研究成果を精査し、戦国時代の武将「薬師寺元一」の生涯を多角的かつ深く掘り下げるものです。ご依頼者様が提示された限定的な情報から一歩踏み込み、その人物像、行動の動機、そして歴史的意義を包括的に解明することを目的とします。執筆にあたっては、歴史研究者としての厳密な視点を維持し、客観的な事実と学術的考察を明確に区別して記述を進めます。
本報告書は、室町時代末期、管領・細川政元が絶大な権勢を誇った政権の末期に彗星の如く現れ、そして瞬く間に散っていった武将、薬師寺元一(やくしじ もとかず)の生涯を徹底的に解明するものである。彼の反乱は、通説で語られるような単なる一個人の野心による下剋上未遂事件ではない。それは、のちに「永正の錯乱」として知られる十数年に及ぶ長期内乱の序曲であり、当時の畿内における政治的・社会的矛盾が凝縮された、時代の転換点を象徴する事件であった。
従来、薬師寺元一の反乱は「細川澄元を擁立するための反乱」という単純な図式で語られてきた 1 。しかし、この見方は後世の軍記物語に依拠する部分が大きく、同時代の一次史料を精査すると、より複雑で多層的な動機と背景が浮かび上がってくる。彼の生涯を追うことは、室町幕府の権威が完全に失墜し、守護大名による統治体制が内部から崩壊していく過程、そして新たな権力秩序が模索される戦国時代の本格的な到来を理解する上で、不可欠な作業である。本稿では、元一の出自からその死、そして彼の一族がたどった数奇な運命までを網羅的に検証し、乱世に翻弄された一人の武将の実像に迫る。
薬師寺元一という人物を理解するためには、まず彼が属した薬師寺氏の来歴と、細川京兆家におけるその地位を把握する必要がある。
薬師寺氏は、その出自を辿ると下野国(現在の栃木県)の有力武士団である小山氏の支族に連なるとされる 3 。鎌倉時代に幕府の御家人として西国へ下向し、摂津国(現在の大阪府北部および兵庫県南東部)に強固な地盤を築いた 3 。室町時代に入ると、足利一門の中でも特に権勢を誇った管領家、細川京兆家(宗家)の被官(家臣)として頭角を現す 4 。
応仁の乱(1467年~1477年)を経て細川家の支配体制が再編される中、薬師寺氏はその地位を不動のものとする。文明年間(1469年~1487年)以降、摂津国の守護代職を世襲する家柄となり、細川家の分国統治において中核的な役割を担うようになった 3 。一族の本拠は、摂津国上郡の守護所が置かれた芥川城(現在の大阪府高槻市)であったと伝えられている 4 。
元一の時代に先立ち、その地位を確立したのが、元一の養父(血縁上は伯父)にあたる薬師寺元長(もとなが)である。元長は応仁の乱において細川京兆家当主・細川勝元に従って各地を転戦し、特に丹波国の西軍勢力との戦いで軍功を挙げた 5 。その功績により摂津守護代に任じられ、勝元の死後はその後継者である細川政元に仕え、重鎮として摂津の統治を盤石なものにした 5 。
薬師寺元一は、文明9年(1477年)に生を受けた 6 。長い間、彼は前述の薬師寺元長の実子と見なされてきたが、近年の研究では、元長の弟である薬師寺長盛(ながもり)の長男として生まれ、実子のいなかった伯父・元長の養子になったとする説が有力視されている 1 。
彼は若くして主君・細川政元から偏諱(名前の一字を授かること)を受け、「元一」と名乗った 6 。通称は与一(よいち)、あるいは九郎左衛門(くろうざえもん)と称した 6 。特に「一」という文字へのこだわりは、彼の自己認識を読み解く上で重要な鍵となる。
文亀元年(1501年)12月17日、養父・元長が死去すると、元一はその後を継いで薬師寺家の家督を相続し、摂津守護代の地位に就いた 5 。しかし、彼の権力基盤は、当初から完全に安定したものではなかった。
近年の研究によって、元一の守護代就任は単独でのものではなく、実弟の薬師寺長忠(ながただ)との分割統治であった可能性が強く指摘されている 6 。具体的には、兄である元一が「与一」や「九郎左衛門」を名乗り、備後守の官途を得て摂津「上郡」の守護代となったのに対し、弟の長忠は「与次」(次男を意味する通称)や「三郎左衛門」を名乗り、安芸守の官途を得て、実父・長盛が担っていた摂津「下郡」の守護代職を継承したというものである 6 。
この分割統治体制は、全く新しいものではなく、養父・元長が存命中に、実弟である長盛(元一の実父)に権限の一部を分け与え、長盛が「奥郡守護代」と称されていた前例を踏襲したものであったと考えられる 5 。これは、薬師寺一族内の権力バランスを維持するための措置であったと同時に、兄弟間の潜在的な対立の火種を内包するものであった。
通称が示すように、家の正統な後継者は長男である「与一」元一であったが、守護代としての実権は兄弟で分かち合われていた。この不完全な形での権力継承は、元一の立場を微妙なものにした。彼は常に弟の存在を意識し、主君・政元の意向や中央政界の動向に対して、より敏感にならざるを得ない状況に置かれていた。この不安定な権力基盤こそが、後の彼の大胆かつ破滅的な行動へと繋がる遠因の一つとなった可能性は否定できない。
薬師寺元一の生涯を語る上で、彼の主君であった細川政元の存在は決定的に重要である。政元の特異な個性と、彼が抱えた深刻な後継者問題が、元一の運命を大きく左右した。
細川政元は、室町幕府の管領として当代随一の権力者であった父・勝元の地盤を継ぎ、その権勢をさらに拡大させた人物である。明応2年(1493年)、彼はクーデターを起こして時の将軍・足利義材(よしき、後の義稙)を追放し、自らが選んだ足利義澄(よしずみ)を新たな将軍として擁立した(明応の政変) 10 。これにより幕府の実権を完全に掌握した政元は、将軍をも凌ぐ権力者として「半将軍」とまで称された 10 。
しかし、その絶大な権力の裏で、政元は常人には理解しがたい奇行を繰り返す人物としても知られていた。彼は修験道に深く傾倒し、天狗になるための術を会得しようと山に籠もって修行に没頭したという逸話が数多く残されている 13 。また、修験道の戒律を厳格に守り、生涯にわたって女性を近づけることなく独身を貫いたことも、彼の特異性を際立たせている 13 。
政元のこうした行動は、単なる個人的な趣味や狂気の発露として片付けることはできない。彼の修験道への傾倒は、高度な政治的計算に基づいていた側面がある。政元は、全国にネットワークを持つ山伏たちを、いわば諜報員として活用していた 13 。彼らを通じて各地の情報をいち早く収集し、敵対勢力の動向を探るなど、修験道を自らの権力維持のための情報網として巧みに利用していたのである。
この事実は、政元という人物の二面性を如実に示している。公の場では奇矯な振る舞いを見せながら、その裏では極めて合理的かつ冷徹な政治判断を下す。この予測不可能性は、彼に仕える家臣たちにとって、畏怖の対象であると同時に、底知れぬ恐怖の源泉でもあった。いつ、いかなる理由で主君の不興を買うか分からないという constant な不安は、家臣団の間に根深い不信感を醸成し、その結束を徐々に蝕んでいった。薬師寺元一の反乱もまた、こうした主君に対する抜き差しならない不信と恐怖が、その根底にあったと考えるべきであろう。
生涯独身を貫いた政元には、当然ながら実子がいなかった。これは、細川京兆家という巨大な権力体にとって、最大のアキレス腱であった 12 。この後継者問題が、やがて家中に深刻な亀裂を生み、元一をはじめとする多くの家臣を巻き込む政争の渦へと発展していく。
政元はこの問題に対処するため、二人の養子を迎えた。
一人目は、公家の名門である関白・九条家から迎えた聡明丸(そうめいまる)、後の細川澄之(すみゆき)である 1。澄之の養子縁組は比較的早くから行われたが、細川家の血を引かないという出自の弱さから、一門や譜代家臣からの支持は薄かった 18。
二人目は、細川一門の分家で阿波国(現在の徳島県)の守護であった細川成之(しげゆき)の孫にあたる六郎(ろくろう)、後の 細川澄元 (すみもと)である 1 。澄元は細川一門の血を引くという正統性を持っていたが、その背後には阿波で実力を蓄えていた三好之長(みよし ゆきなが)をはじめとする有力な勢力が控えていた。畿内を基盤とする薬師寺氏のような譜代家臣(内衆)にとって、彼らの台頭は自らの権益を脅かすものとして、強い警戒心をもって受け止められた 18 。
この出自も背景も異なる二人の養子の存在は、必然的に細川家臣団を「澄之派」と「澄元派」に二分させる結果を招いた。政元の存命中はかろうじて抑えられていたこの対立は、水面下で静かに進行し、やがて政権そのものを根底から揺るがす巨大な時限爆弾となっていったのである 11 。
細川政権が内包する矛盾は、永正元年(1504年)、薬師寺元一の反乱という形でついに噴出する。この事件は、後に続く大乱の幕開けを告げるものであった。
乱の兆候は、その数ヶ月前から現れていた。永正元年閏3月、主君・細川政元は突如として、薬師寺元一を摂津守護代の職から解任しようと試みた 6 。この不可解な人事の理由は定かではないが、元一と政元の間に深刻な亀裂が生じていたことを示唆している。この時、元一を救ったのは意外な人物であった。時の将軍・足利義澄が自らこの人事に介入し、政元に解任を中止するよう命じたのである 6 。
元一は将軍に対して馬や太刀などを献上して謝意を表しているが 6 、この一件は彼の置かれた危うい立場を浮き彫りにした。主君に疎まれ、その地位を将軍の権威によってかろうじて保っているに過ぎない。この屈辱と危機感が、元一を謀反へと駆り立てた直接的な引き金になったことは想像に難くない。
同時期には、政元のもう一人の側近であった赤沢朝経(あかざわ ともつね、法名:沢蔵軒)も謀反の疑いをかけられて政元に追討されるなど 19 、政権内部では粛清の嵐が吹き荒れていた。これは、政元政権が末期的な様相を呈し、深刻な権力闘争が進行していたことを示している。
永正元年9月4日、ついにその日は来た。自らの謀反の計画が政元方に露見したことを察知した薬師寺元一は、先手を打って山城国南部の要衝・淀城(淀藤岡城)に籠城し、公然と反旗を翻した 19 。
この挙兵は、単独のものではなかった。元一の弟である寺町又三郎、そして一度は政元に追われた赤沢朝経もこれに同調した 6 。さらに、京都西郊を拠点とする国人衆(西岡衆)の多くも元一に呼応して蜂起し、京都の政情は一気に緊迫する 19 。当時の公家の日記には「天下既ニ大乱ニ及ブベシ」(天下はまさに大乱に陥るだろう)と記されるほど、都は騒然とした状況に陥った 1 。
これに対し、細川政元は直ちに討伐軍を編成し、淀城へ派遣した。その軍勢の中には、皮肉にも元一の実弟である摂津下郡守護代・薬師寺長忠、そして後に政元暗殺の実行犯となる香西元長(こうざい もとなが)といった、細川家の重臣たちが含まれていた 8 。兄弟が敵味方に分かれて戦うという悲劇は、この時代の常であった。
戦闘は淀城をめぐる攻防戦だけでなく、元一に同調した西岡衆が立て籠もる神足城(こうたりじょう)などでも繰り広げられた 19 。しかし、多勢に無勢は明らかであった。9月19日、幕府・細川方の総攻撃によって淀城は陥落。元一は城から脱出し、再起を図ろうとしたが、追撃してきた香西元長によって捕縛され、囚人として京都へ護送された 7 。
そして落城の翌日、9月20日(一説には21日)、薬師寺元一は政元の命令により、自害を余儀なくされた 2 。享年28 6 、あるいは29 21 。摂津守護代家の若き当主の野望は、わずか半月あまりで潰え去ったのである。
この乱の複雑な背景を理解するため、関連する出来事を時系列で以下に整理する。
年月日 |
出来事(中央・畿内) |
関連勢力の動向 |
主要関連人物 |
典拠史料 |
文亀3年(1503) |
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5月20日 |
政元の隠居・後継者問題について、阿波で慈雲院と協議。 |
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薬師寺元一、上野政益、波々伯部盛郷、慈雲院(細川成之) |
『後法興院記』、『実隆公記』 19 |
永正元年(1504) |
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3月4日 |
政元、謀反の疑いで沢蔵軒を追討。沢蔵軒は大和へ逃亡。 |
大和国人・箸尾氏は沢蔵軒を受け入れる。 |
細川政元、薬師寺元一・長忠兄弟、沢蔵軒(赤沢朝経) |
『後法興院記』、『実隆公記』 19 |
閏3月18日 |
政元、元一の摂津守護代職解任を試みる。 |
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細川政元、薬師寺元一、足利義澄 |
『後法興院記』 6 |
閏3月19日 |
将軍・義澄の介入により解任は中止。元一は将軍に謝礼。 |
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薬師寺元一、足利義澄 |
『後法興院記』 19 |
6月27日 |
元一の仲介により、沢蔵軒が政元から赦免される。 |
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薬師寺元一、沢蔵軒、細川政元 |
『後法興院記』 19 |
8月24日 |
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周防の大内義興に対し、前将軍・義尹からの書状への礼状を送付。 |
慈雲院、六郎(細川澄元)、大内義興、足利義尹 |
『後法興院記』 19 |
9月4日 |
薬師寺元一、淀城で挙兵。 沢蔵軒も同調。京で大混乱。 |
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薬師寺元一、沢蔵軒、寺町又三郎 |
『後法興院記』、『実隆公記』 19 |
9月6日-10日 |
西岡衆が神足城で蜂起するも、幕府軍に鎮圧される。 |
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寺町又三郎(戦死)、安富元治(戦死) |
『後法興院記』 19 |
9月19日 |
淀城落城。 元一は香西元長に捕縛される。 |
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薬師寺元一、香西元長、薬師寺長忠 |
『後法興院記』、『実隆公記』 19 |
9月21日 |
薬師寺元一、京都で切腹。 |
前将軍方の畠山尚慶、慈雲院の出兵の噂が流れる。 |
薬師寺元一 |
『後法興院記』、『実隆公記』 19 |
9月25日 |
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阿波の三好之長が淡路へ、紀伊の畠山尚慶が河内へ侵攻開始。 |
三好之長、畠山尚慶 |
『後法興院記』 19 |
12月10日 |
政元、養子の聡明丸を元服させ「澄之」とし、幕府に出仕させる。 |
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細川政元、細川澄之 |
『後法興院記』 19 |
12月27日 |
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政元の仲介により、対立していた畠山尚慶と畠山義英が和睦。 |
畠山尚慶、畠山義英、細川政元 |
『後法興院記』 19 |
永正2年(1505) |
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5月 |
政元、讃岐(阿波細川家方)へ出兵。 |
阿波の三好之長が淡路へ侵攻し、守護館を焼く。 |
細川政元、三好之長 |
『後法興院記』 19 |
永正3年(1506) |
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4月21日 |
細川六郎(澄元)が家督相続のため、三好之長らと上洛。 |
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細川澄元、三好之長、薬師寺長忠 |
『後法興院記』 1 |
薬師寺元一は、なぜ破滅的な結末が予見される謀反に踏み切ったのか。その動機をめぐっては、複数の説が存在する。
最も広く知られている説は、元一が細川政元のもう一人の養子である阿波の細川澄元を擁立し、主君・政元を廃そうとした、というものである 1 。この説の根拠とされるのは、主に以下の点である。
これらの状況証拠から、元一は澄元派の先鋒としてクーデターを企てたと解釈されてきた。しかし、この通説には看過できない大きな問題点が存在する。それは、当時の公家や僧侶が記した日記である『後法興院記』や『実隆公記』といった、信頼性の高い同時代の一次史料の中に、元一が澄元を奉じていたことを示す直接的な記述が一切見当たらないという事実である 1 。澄元擁立説は、あくまで後世に編纂された軍記物語の記述や、断片的な状況証拠から組み立てられた推測に大きく依存しているのである 1 。
この通説の弱点を克服するものとして、近年有力視されているのが、元一の乱をより大きな政治的文脈の中に位置づける解釈である。すなわち、彼の挙兵は単なる細川家内部の権力闘争ではなく、明応の政変で政元によって追放され、周防国(現在の山口県)の大内義興のもとに身を寄せていた前将軍・足利義尹(よしただ、後の義稙)を再び将軍位に復帰させ、政元・義澄政権そのものを打倒しようとする、全国規模の壮大なクーデター計画の一部であった、とする説である 1 。
この説を裏付ける傍証は、複数存在する。
第一に、乱の直前である永正元年8月、澄元の実父である慈雲院(細川成之)が、前将軍・義尹を保護する大内義興と書状を交わし、連携を示唆していることである 19。これは、阿波細川家が反政元・義尹派と水面下で繋がっていたことを示す強力な証拠となる。
第二に、元一の挙兵とほぼ時を同じくして、義尹派の重鎮である畠山尚順が紀伊から河内へと軍事侵攻を開始していることである 19。これは、元一の挙兵を合図として、あらかじめ計画されていた軍事行動であったと解釈するのが自然である。
これらの事実を総合すると、元一の乱の真の姿が浮かび上がってくる。彼の役割は、まず畿内の中心で反乱を起こして政元政権を混乱させ、その隙に大内・畠山連合軍が義尹を奉じて上洛を果たす、という二段構えの計画において、その第一段階を担う「実行部隊長」であったと考えられる。この計画において「澄元擁立」は、政元に代わる新たな細川京兆家の当主として、クーデター後の権力基盤を固めるための手段であり、それ自体が最終目的ではなかった。
しかし、この壮大な計画は事前に政元方に露見してしまう。これにより、元一は諸勢力との連携が完全に整う前に、単独で決起せざるを得ない状況に追い込まれた。その結果が、わずか半月での鎮圧という、あまりにも早い結末であった。元一の乱は、細川家の内紛という枠組みを超え、「現将軍・義澄&細川政元」体制と、「前将軍・義尹&大内義興・畠山尚順」連合という、明応の政変以来続く全国的な対立構造の中で発生した、画期的な事件として捉え直すべきなのである。
薬師寺元一は、どのような人物だったのか。彼の短い生涯の中に残されたいくつかのエピソードは、その複雑な内面を垣間見せる。
元一の人物像を考える上で興味深いのは、数字の「一」に対する並々ならぬこだわりである。彼の通称は「与 一 」、名は「元 一 」 6 。そして、自らが建立し、奇しくも最期の地となった京都の寺院を「
一 元院(または一元寺)」と名付けている 10 。
さらに、切腹に際しては「我は一文字好みにて、名も与一、名乗りも元一、この寺も一元院と名付けたり。されば腹をも一文字に切るべし」と述べ、その言葉通りに腹を横一文字に掻き切って果てたと伝えられている 10 。
この「一」への執着は、彼が単なる武辺者ではなく、強い自意識と独自の美学を持った、教養豊かな人物であったことを示唆している 21 。それは、自らの存在を乱世に刻みつけようとする、若きエリートの矜持の表れだったのかもしれない。
元一の人物像を最も雄弁に物語るのが、死に際に残したとされる辞世の句である。
地獄には よき我主(わかしゅ)の あるやとて 今日おもひたつ 旅衣かな
1
この歌は、「我が主」と「若衆」という、二つの意味に解釈できる掛詞になっているのが最大の特徴である 1 。
伝承によれば、元一は家臣にこの辞世を政元に伝える際、「『若衆』と聞こえるように発音せよ」と指示したという 6 。このことから、彼が込めた真意が後者であったことは明らかである。
この辞世の句の真意を理解するためには、当時の武家社会における衆道(男色)文化を考慮に入れる必要がある。細川政元は生涯女性を近づけず、衆道を嗜んだことが知られており、薬師寺元一もその寵愛を受けた相手の一人であった可能性が複数の資料で指摘されている 6 。
戦国期の衆道は、単なる性的な関係に留まらず、主君と近臣の間の精神的な結びつきを強め、絶対的な忠誠を誓う儀式として、極めて政治的な意味合いを持っていた 23 。元一の若くしての出世も、この政元との特別な関係に基づいていたと仮定すれば、多くの点が説明可能となる 10 。
この観点から見ると、乱の直前に政元が元一を解任しようとした事件は、単なる人事異動ではない。それは、公私にわたる固い絆で結ばれていたはずの主従関係の完全な破綻であり、元一にとっては個人的な裏切りであると同時に、政治的な死刑宣告に等しいものであった。彼の挙兵は、この耐え難い裏切りに対する、絶望的な反撃であったと解釈できる。
そして、辞世の句は、その悲劇の集大成となる。それは単なる皮肉を超え、自らの死を以て、主君・政元の非道と信義の無さを告発する、最後の政治的パフォーマンスであった。元一は、衆道という「忠誠」の文化そのものを逆手にとり、主君への最も辛辣な呪いの言葉として歴史に刻みつけようとしたのである。この一句は、中世的な主従の絆がいかに脆く、一度崩壊した時にいかに破壊的な結果をもたらすかを示す、戦国期主従関係の一つの典型例と言えるだろう。
元一が自害したとされるのは、彼自身が建立した「京都舟橋の一元院」であった 21 。この「舟橋」という地名は、現在の京都市上京区、堀川今出川周辺に現存しており、古くは室町幕府の執事・高師直の邸宅があったと伝えられる場所である 27 。元一がこの地に自らの寺院を建立していたという事実は、彼の京都における活動拠点や人脈を考える上で興味深い。しかし、残念ながらこの一元院の正確な所在地は現在では特定されておらず、その詳細は謎に包まれている 21 。
薬師寺元一の死は、一つの事件の終わりであると同時に、より大きな混乱の始まりであった。彼の死は、彼の一族、そして細川京兆家そのものの運命を、さらに複雑な渦の中へと巻き込んでいく。
謀反人となった元一には、万徳丸(まんとくまる、後の 薬師寺国長 )と岩千代丸(いわちよまる、後の 薬師寺国盛 )という二人の幼い息子がいた 6 。通常であれば父に連座して処刑されるところであったが、彼らは助命された。これは、彼らがまだ幼少であったことに加え、彼らの母が赤松氏の一族である摂津有馬氏の出身であり、細川家が赤松家との関係に配慮した措置であったと見られている 6 。
この二人の遺児は、後に細川政元の養子の一人である細川高国(たかくに)に仕えることになる。そして、歴史の皮肉はここで繰り返される。元一の死からわずか3年後の永正4年(1507年)、主君・政元が暗殺されるという大事件が起きる。この混乱の中、元一の長男・国長は高国方として、叔父であり父の仇でもある薬師寺長忠を摂津の茨木城に攻め、見事討ち取るという功績を挙げたのである 31 。
父の反乱、その父を討った叔父、そしてその叔父を討った息子。この凄惨な血の連鎖は、下剋上が常態化し、昨日までの味方が今日の敵となる、戦国時代の非情な人間関係と権力闘争を象徴している。
兄・元一の反乱を鎮圧した薬師寺長忠は、その功績により、兄が持っていた摂津上郡の守護代職も手に入れ、摂津一国の守護代として大きな権力を握った 8 。しかし、彼の栄華は長くは続かなかった。
元一の乱の背後にいた前将軍・義尹派の脅威を改めて認識した細川政元は、彼らと繋がる阿波細川家を懐柔する政策に転換した。その結果、元一が擁立しようとしたとされる細川澄元が正式な養子として京都に迎えられ、政元の後継者として重用され始めたのである 1 。
この政元の政策転換は、元一の乱の鎮圧に功のあった長忠ら畿内の譜代家臣にとっては、まさに梯子を外されるに等しい行為であった。澄元が台頭すれば、その配下である三好氏が畿内に進出し、自らの権益が侵されることは火を見るより明らかだったからである 18 。
将来に絶望した長忠は、同じく強い危機感を抱いていた香西元長らと共に、もう一人の養子である細川澄之を擁立する派閥へと急速に傾いていく 18 。そして永正4年(1507年)6月23日、澄之派の家臣たちはついに実力行使に出る。薬師寺長忠と香西元長らは、刺客を放ち、主君・細川政元を浴場で暗殺するに至った 18 。
ここに、薬師寺元一の乱が招いた、もう一つの皮肉な因果関係が浮かび上がる。元一の反乱という事件が、政権の安定を図ろうとする政元の政策を大きく揺さぶり、その結果として、元一の乱を鎮圧したはずの家臣たちの反発を招き、政元自身の暗殺という、より大きな悲劇の引き金を引いたのである。元一の行動は、結果的に弟の手による主君殺しという、誰も予測し得なかった結末へと繋がっていったのだ。
薬師寺元一の生涯は、わずか28年という短いものであったが、その行動は戦国前期の畿内政治に決定的な影響を与え、大きな波紋を広げた。
彼は、単なる目先の野心に駆られた裏切り者や、時流を読み違えた愚かな謀反人として片付けられるべき人物ではない。彼の反乱は、以下の二つの巨大な歴史的潮流が交差する一点で発生した、いわば必然の事件であった。
元一の挙兵は短期間で鎮圧され、計画そのものは失敗に終わった。しかし、それは細川政権の磐石と思われた支配体制がいかに脆弱なものであったかを白日の下に晒し、家臣団の亀裂を決定的なものにした。その結果は、3年後の主君・政元暗殺、そして「永正の錯乱」と呼ばれる、畿内を十数年にわたって荒廃させる大内乱へと直結していく。彼の行動は、意図せずして、自らが仕えた巨大権力の崩壊を加速させる触媒となったのである。
死に際に残した辞世の句に込められた、主君への痛烈な皮肉と呪詛は、彼の個人的な心情の吐露であると同時に、中世的な主従の絆が名実ともに崩壊し、実力と裏切りが全てを支配する新たな時代、すなわち戦国時代の本格的な到来を告げる象徴的な言葉として、今なお我々に強烈な印象を与え続けている。薬師寺元一は、まさに時代の大きな転換点に咲き、そして時代そのものに踏み潰されるようにして散っていった、悲劇の徒花であったと言えよう。