藤堂高虎は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、その生涯は一言で評するのが難しい多面性に満ちている。主君を七度も変えたことから「風見鶏」と揶揄される一方で、当代随一の築城技術を持ち、数々の合戦で武功を挙げ、最終的には徳川家康から絶大な信頼を得て伊勢津藩32万石の大名にまで上り詰めた 1 。この両極端とも言える評価は、高虎個人の資質だけでなく、彼が生きた時代そのものの流動性と価値観の変容を映し出している。旧来の主君への絶対的忠誠という観念が揺らぎ、個人の実力や時勢を読む能力が重視された過渡期にあって、高虎の生き方は一つの典型であったと言えるだろう。
高虎の特筆すべき才能の一つは、その卓越した築城術である 1 。彼の築城は単なる技術に留まらず、戦国の攻防戦が城郭をめぐる展開が中心であった時代において、極めて重要な戦略的価値を持っていた。堅固な城は領国支配の拠点であり、権力の象徴でもあったため 3 、高虎の技術は彼を求める為政者にとって不可欠なものであった。この技術力こそが、彼が多くの主君に求められ、最終的に徳川幕府の基盤固めに貢献するに至った大きな要因である。
本報告書は、藤堂高虎の生涯、業績、そして人物像について、現存する史料や研究成果を基に多角的に検証し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。特に、彼の行動原理の根底にあったとされる合理性や先見性、そしてそれが彼の処世術や後世の評価にどのように結びついているのかを深く考察する。
藤堂高虎は、弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)に、土地の土豪であった藤堂虎高の次男として生を受けた 4 。幼名は与吉と伝えられている 2 。
藤堂氏の出自に関しては、従来、在地性の強い土豪層と見なされてきた。しかし、近年の研究では、高虎の祖先にあたる藤堂景盛が公家の広橋兼宣に仕えた「公家侍」であり、京都にも拠点を有する有力な領主であった可能性が示唆されている 6 。この説が正しければ、高虎が後年見せる洗練された政治感覚や文化的素養の一端は、こうした家系的背景に求めることができるかもしれない。それは単なる地方武士の枠を超えた視野の広さや、中央の権力構造に対する理解の深さにつながった可能性がある。
幼少期の高虎は、人並み外れた体躯と剛胆な性格の持ち主であったと記録されている 6 。3歳で餅を五、六個平らげ、怪我をしても痛いと言ったことがなかったという逸話や、13歳の時には既に兄の高則よりも背が高く筋骨逞しく、父や兄と共に賊を討ち取った武勇伝も残されている 6 。これらのエピソードは、後の彼の武将としての片鱗をうかがわせる。
高虎の武士としてのキャリアは、元亀元年(1570年)、15歳の時に近江の戦国大名・浅井長政に仕官したことから始まる 4 。同年の姉川の戦いでは、父・虎高と共に磯野員昌隊に属して初陣を飾り、織田・徳川連合軍を相手に武功を挙げた 2 。この戦いで徳川方の武将・酒井忠高を討ち取ったとも言われている 2 。
しかし、その2年後の元亀3年(1572年)、勲功を巡る同僚との争論の末、相手を斬り捨てて出奔するという事件を起こす 2 。この一件は、若き高虎の血気盛んな気性と、自らの能力や功績に対する強い自負心、そして不当な評価や扱いを甘受しない激しい気質を示している。戦国という実力主義の時代において、このような行動は必ずしも異例ではなかったが、彼のその後の頻繁な主君替えの伏線とも言える出来事であった。
浅井氏が天正元年(1573年)に織田信長によって滅ぼされると、高虎は浅井旧臣の阿閉貞征、次いで磯野員昌に仕えるが、いずれも長続きしなかった 2 。その後、信長の甥である織田信澄(津田信澄とも)の家臣となるが、ここでも高虎の才能は十分に評価されなかった。信澄は高虎が戦功を上げても十分な報償を与えず、両者の気質も合わなかったとされ、関係は悪化の一途を辿った 6 。結局、高虎は信澄のもとを去り、再び浪人となる。この時期の困窮ぶりは、三河吉田宿で餅を無銭飲食し、店主に許されたという逸話(後に高虎はこの恩に報いたとされる)からも窺い知ることができる 11 。この浪人時代の苦難は、彼の現実主義的な思考や、安定した地位と正当な評価を求める強い動機を形成したと考えられる。
高虎の初期のキャリアは、戦国時代の武士の流動性と実力主義を色濃く反映している。主君を頻繁に変えることは、現代的な価値観では忠誠心に欠けると見なされがちだが、当時は自らの能力を高く評価し、活躍の場を与えてくれる主君を求める行動は、ある程度許容されていた。特に高虎のような有能な武士にとっては、不遇をかこつよりも、より良い条件を求めて渡り歩くことは、自身の価値を高めるための一つの手段であった。彼の初期の主君遍歴は、後の豊臣秀長や徳川家康といった、彼の才能を真に理解し活用する人物との出会いへの布石となる。
表1:藤堂高虎 主君遍歴と主要な関与事項
主君 |
期間 |
主要な関与事項 |
石高・領地 |
典拠 |
浅井長政 |
1570年~1573年 |
姉川の戦い(初陣、酒井忠高を討取)、宇佐山城攻め |
|
2 |
阿閉貞征 |
1573年~ |
|
|
2 |
磯野員昌 |
~1576年頃 |
|
80石 |
2 |
津田信澄 |
1576年頃 |
戦功を上げるも加増なし |
80石のまま |
10 |
豊臣秀長 |
1576年~1591年 |
三木合戦(「槍の高虎」)、賤ヶ岳の戦い、紀州征伐(和歌山城普請奉行)、四国攻め、九州攻め |
300石 → 最終的に紀伊粉河2万石 |
13 |
豊臣秀保 |
1591年~1595年 |
秀保の後見役、文禄の役に従軍 |
|
5 |
豊臣秀吉 |
1595年~1598年 |
伊予板島(宇和島)7万石の領主、慶長の役(順天城築城、水軍指揮) |
7万石 → 8万石(伊予大洲加増) |
7 |
徳川家康 |
1598年~1616年 |
関ヶ原の戦い(調略、大谷吉継隊と戦闘)、大坂の陣、江戸城等天下普請、津藩初代藩主 |
伊予今治20万石 → 伊勢津22万石余 → 最終的に32万石余 |
7 |
徳川秀忠 |
1616年~1630年 |
家康死後も幕府に重用される |
|
10 |
徳川家光 |
|
(秀忠の治世中に死去) |
|
6 |
天正4年(1576年)、織田信澄のもとを去り浪人同然であった藤堂高虎は、豊臣秀吉の弟である羽柴(豊臣)秀長に300石という破格の待遇で召し抱えられた 4 。この出会いは、高虎の生涯における最初の、そして最大の転機であったと言える。秀長は高虎の内に秘められた非凡な才能を見抜き、出自や過去の経歴に捉われることなく彼を重用した 2 。秀長の知遇を得たことで、高虎の多方面にわたる能力は一気に開花することになる。
秀長配下として、高虎は数々の重要な戦役に参加し、武功を重ねていく。播磨の三木合戦では、支城である鷹尾山城攻めで敵将・加古六郎右衛門を討ち取り、「槍の高虎」の異名を取るほどの勇猛さを示した 2 。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家方の佐久間盛政軍の急襲により危機に陥った味方(一説には中川清秀隊)を、わずか500の手勢で救援し、敵将・佐久間盛政を銃撃して撃退するという目覚ましい活躍を見せ、秀吉からも絶賛された 2 。
その後も、紀州征伐では戦功により紀伊国粉河に5,000石を与えられ、秀長の居城となる和歌山城の普請奉行の一人に任じられた 15 。この和歌山城の築城は、高虎が本格的に近世城郭の設計・建設に携わった最初の事例とされ、彼の築城家としてのキャリアの原点となった。続く四国攻め、九州攻めでも戦功を重ね、その所領は最終的に2万石にまで加増された 13 。
秀長の存在は、高虎にとって単なる主君以上の意味を持っていた。秀長は高虎に軍事的な活躍の場を与えるだけでなく、その才能を多方面に伸ばす機会を提供した。当時、秀長の周囲には千利休をはじめとする当代一流の文化人が集っており、高虎も彼らとの交流を通じて茶湯などの文化的な素養を身につけ、政治的な視野を広げたと考えられる 6 。この時期に培われた人脈や見識は、後の彼の築城術や藩政運営における独自の思想形成に大きな影響を与えた。秀長は、高虎の武勇だけでなく、彼の内に秘めた知略や統率力、そして築城における天賦の才を見抜き、それを育む環境を提供したのである。
天正19年(1591年)、高虎にとって最大の恩人であり、理解者であった豊臣秀長が病没する 2 。高虎の落胆は深く、秀長の養子である秀保の後見役として仕えたが、文禄4年(1595年)にその秀保も若くして病死してしまう 2 。相次ぐ主家の不幸に、高虎は武士としてのキャリアに絶望し、高野山に登って出家し、俗世を離れようとした 2 。この行動は、彼が単なる計算高い策士ではなく、深い情義や忠誠心を持ち合わせていたことを示唆している。特に秀長への思慕の念は強く、終生その菩提を弔ったと伝えられる 7 。
しかし、高虎の才能を惜しんだ豊臣秀吉は、自ら高虎を説得し、還俗させた 2 。秀吉の強い要請を受け、高虎は再び豊臣家の直臣として仕えることとなり、伊予国板島(後の宇和島)7万石の領主に取り立てられた 7 。一度は武士をやめようとした人物が、天下人自らの説得によって復帰し、さらに大名に取り立てられるというのは異例のことであり、当時の高虎がいかに重要な人物と見なされていたかを物語っている。
豊臣秀吉の命による朝鮮出兵、すなわち文禄・慶長の役(1592年~1598年)において、高虎は水軍を率いて参陣し、国際的な舞台でもその能力を発揮する 13 。
特に慶長の役(1597年~1598年)では、朝鮮半島の南岸に築かれた日本側の拠点の一つである順天倭城(スンチョンウェソン、現在の韓国順天市)の築城を指揮した 15 。高虎はこの城をわずか2ヶ月という短期間で完成させ、その堅固な守りによって明・朝鮮連合軍による陸海からの度重なる攻撃を撃退した 6 。この順天倭城の攻防戦は、高虎の築城技術の高さと実戦における有効性を国際的に証明するものであり、彼の名声を一層高めることになった。この経験は、後の徳川家康による江戸城をはじめとする大規模な築城プロジェクトにおいて、高虎が中心的な役割を担う伏線となったと言えるだろう。
また、この朝鮮出兵の際、高虎の軍は朝鮮の儒学者である姜沆(カン・ハン)を捕虜とした 18 。姜沆は日本に連行された後、藤原惺窩ら日本の知識人と交流し、朝鮮の朱子学を伝える上で重要な役割を果たした。彼がもたらした学問は、後の日本の儒学、特に江戸時代の学問や思想に少なからぬ影響を与えたとされ、一説には東京大学の源流の一つにもつながると言われている 18 。これは、高虎の軍事行動が期せずして文化的な交流や伝播をもたらした興味深い事例である。
文禄・慶長の役でのこれらの軍功により、高虎は伊予大洲に1万石を加増され、合計8万石の大名となった 15 。豊臣政権下での高虎は、秀長という最大の理解者との出会いから始まり、その死という試練を乗り越え、秀吉の下でさらなる飛躍を遂げた。特に朝鮮出兵における築城と防衛の成功は、彼の名を不動のものとした。
慶長3年(1598年)、天下人豊臣秀吉がその波乱に満ちた生涯を終えると、日本の政治情勢は再び流動化し始める 2 。高虎は、秀吉の死の直前から、あるいは死後速やかに、次の天下の覇者と目される徳川家康に接近し、誼を通じ始めた 2 。これは、単なる日和見主義的な行動というよりは、冷静に天下の趨勢を見極め、自らの将来と藤堂家の安泰を賭けた戦略的な判断であったと言える。
高虎と家康の最初の接点は、それより以前の天正14年(1586年)、家康が秀吉の招きに応じて上洛した際に遡る。この時、秀吉の命により、高虎は家康が京都に滞在するための邸宅の造営奉行を務めた 5 。高虎は、警備上の観点から当初の設計図を独断で変更し、より防衛に適した構造に改修した。この配慮に富んだ仕事ぶりに家康は深く感銘を受け、労いの言葉と共に名刀・備前長光を贈ったと伝えられている 21 。この出来事が、両者の間に個人的な信頼関係を築くきっかけとなった可能性は高い。秀吉の死後、この早期に築かれた信頼関係が、高虎の家康への接近を円滑に進める上で有利に働いたと考えられる。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、高虎は迷うことなく東軍(徳川方)に馳せ参じ、その勝利に大きく貢献した 2 。彼の役割は、単なる一武将としての戦闘参加に留まらず、多岐にわたるものであった。
まず戦闘においては、東軍の最前線に布陣し、石田三成率いる西軍の主力部隊の一つである大谷吉継隊と激戦を繰り広げた 2 。この戦いは関ヶ原の戦いの中でも特に熾烈を極めた戦線の一つであり、高虎自身も負傷し、多くの家臣を失った。
しかし、高虎の真価が発揮されたのは、戦闘そのもの以上に、西軍諸将に対する調略工作(寝返り工作)であった 7 。高虎は戦前から西軍内部の不協和音や動揺を見抜き、巧みな交渉術を駆使して、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった武将たちを東軍に寝返らせることに成功した 23 。これらの寝返りは、戦局の帰趨に決定的な影響を与えた。特に、戦況を大きく左右した小早川秀秋の東軍への寝返りに関しても、高虎が秀秋の陣に鉄砲を撃ちかけることで決断を促したという逸話は有名である 2 。これは、戦国時代の合戦が、単なる兵力の衝突だけでなく、情報戦、心理戦、そして外交交渉が複雑に絡み合う総合的な戦いであったことを示しており、高虎がそうした多面的な戦いの術に長けていたことを物語っている。
関ヶ原における高虎の戦功と忠誠心は、徳川家康から絶大な評価と信頼を勝ち取ることになった。戦後、高虎は伊予今治に20万石(宇和島8万石の安堵と12万石の加増)という破格の恩賞を与えられ、大大名の一角を占めるに至った 2 。
特筆すべきは、高虎が外様大名でありながら、家康の側近として譜代大名並みの厚遇を受け、幕政にも深く関与するようになったことである 2 。これは、家康が血縁や旧来の家臣団だけでなく、能力と忠誠心さえあれば出自を問わず人材を登用する実力主義的な側面を持っていたことを示すと同時に、高虎がいかに家康の信頼に足る人物であったかを物語っている。家康は高虎の類稀な築城技術だけでなく、その政治的洞察力や実行力を高く評価し、江戸幕府の基盤固めに不可欠な人物と見なしていた。
その信頼の深さを象徴するのが、家康臨終の際の逸話である。元和2年(1616年)に家康が死去する際、高虎は外様大名としては異例にも枕元に侍ることを許された。その席で家康は、「天下に再び兵乱が起こるようなことがあれば、高虎を将軍家の先陣とせよ」と遺言したと伝えられている 7 。これは、家康が高虎の軍事的才能と忠誠心を最後まで高く評価し、徳川家の将来を託すに足る人物と考えていたことの証左である。この絶対的な信頼関係こそが、高虎が徳川政権下でその地位を不動のものとし、多大な影響力を行使できた最大の要因であった。
藤堂高虎の名を戦国史に不滅のものとしている最大の要因は、その比類なき築城術にある。彼は加藤清正、黒田如水(官兵衛)と並び「築城三名人」の一人と称されるが 6 、その技術と哲学には独自のものがあった。
高虎の築城術は、実戦経験に裏打ちされた合理性と、時代の変化を見据えた先進性を特徴とする。
高虎がその生涯で関与した城は20以上にのぼると言われるが 2 、ここでは特に彼の築城術の特徴が顕著に表れている主要な城郭を挙げる。
これらの事例は、高虎の築城術が特定の地域や状況に限定されず、多様な条件下でその効果を発揮したことを示している。
徳川家康が幕府を開くと、全国の主要な城郭を整備・強化するため、諸大名に費用と労役を負担させて行う「天下普請」が大規模に展開された。高虎は、その卓越した築城技術と家康からの厚い信頼を背景に、これらの国家プロジェクトにおいて指導的な役割を果たした 18 。
高虎が考案または改良した層塔型天守や直線的な高石垣、規格化された工法は、多くの大名が分担して工事を行う天下普請において、作業の効率化、工期の短縮、そして品質の均一化に大きく貢献した 10 。彼の合理的で実用的な築城論は、徳川時代の城郭建築における一つの標準となり、その後の日本の城のあり方に大きな影響を与えたと言える 2 。これは、高虎の技術が個々の城の堅固さを超えて、国家規模でのインフラ整備と権力誇示の手段として活用されたことを意味する。
藤堂高虎は、しばしば加藤清正や黒田官兵衛(如水)と比較される。
これに対し、藤堂高虎の独自性は以下の点に見出せる。
高虎の築城術は、時代の要請に応え、機能性、効率性、そして将来性を見据えた、極めてプラグマティックなものであったと言える。
表2:藤堂高虎が設計・築城に関与した主要城郭一覧
城名 |
所在地 |
関与年 |
高虎の役割 |
特筆すべき特徴・革新技術 |
典拠 |
和歌山城 |
紀伊国 (和歌山県) |
1585年~ |
普請奉行 |
本格的な近世城郭の初期作 |
16 |
宇和島城 |
伊予国 (愛媛県) |
1595年~ |
領主として築城 |
いびつな五角形の縄張り |
7 |
順天倭城 |
朝鮮 (韓国) |
1597年 |
築城指揮 |
短期間での堅城構築、実戦での防御成功 |
15 |
今治城 |
伊予国 (愛媛県) |
1602年~1610年 |
領主として築城 |
海水を引き入れた三重堀、層塔型天守、高石垣 |
7 |
膳所城 |
近江国 (滋賀県) |
1601年 |
築城 (天下普請) |
琵琶湖畔の水城 |
18 |
江戸城 |
武蔵国 (東京都) |
1606年~ |
縄張り担当 (天下普請) |
天守閣設計、二の丸・三の丸増築 |
2 |
駿府城 |
駿河国 (静岡県) |
1607年~ |
築城 (天下普請) |
家康の隠居城改修 |
18 |
篠山城 |
丹波国 (兵庫県) |
1609年 |
築城 (天下普請) |
対大坂の拠点 |
5 |
丹波亀山城 |
丹波国 (京都府) |
1610年 |
築城 (天下普請) |
層塔型天守 |
15 |
伊賀上野城 |
伊賀国 (三重県) |
1608年~1611年 |
領主として修築 |
日本有数の高石垣 (約30m) |
15 |
津城 |
伊勢国 (三重県) |
1608年~1611年 |
領主として修築 |
平時の居城、城下町整備 |
7 |
大坂城 (徳川期) |
摂津国 (大阪府) |
1620年~ |
縄張り (再築総責任者) |
豊臣氏滅亡後の再建 |
18 |
関ヶ原の戦いを経て徳川家康が実質的な天下人となった後も、豊臣家の存在は依然として大きな政治的懸案であった。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣は、この豊臣家を最終的に滅亡させ、徳川幕府による支配体制を磐石なものとするための総仕上げであった。藤堂高虎は、これらの戦いにおいても徳川方として中心的な役割を担った 7 。
大坂冬の陣に先立ち、高虎は家康の戦略構想に基づき、大坂城を包囲するための戦略的拠点の整備に尽力した。自らの居城である伊勢安濃津城(津城)や伊賀上野城の大規模な改修に加え、丹波篠山城や丹波亀山城の修築にも携わった 21 。これらの城郭は、大坂方に対する兵站基地及び出撃拠点としての機能を強化され、徳川方の軍事行動を支える上で重要な役割を果たした。この周到な準備は、高虎の戦略家としての一面と、家康の意図を的確に汲み取り実行する能力の高さを示している。
大坂夏の陣では、藤堂軍は徳川方の先鋒の一つとして、豊臣方の勇将・長宗我部盛親の軍勢と八尾・若江の地で激突した 13 。この八尾・若江の戦いは、大坂夏の陣の中でも屈指の激戦となり、高虎の生涯においても最も過酷な戦闘の一つであったと言われる。藤堂軍は長宗我部軍の猛攻を受け、高虎の甥である藤堂高刑や、重臣の桑名吉成、藤堂氏勝らが討死するなど、甚大な損害を被った 18 。しかし、この多大な犠牲を払いながらも、藤堂軍は奮戦し、最終的には大坂方の敗北を決定づける一翼を担った。この戦いでの高虎の指揮と藤堂軍の勇戦は、彼が徳川家に対して抱いていた強い忠誠心と、一度信じた主君には身命を賭して尽くすという彼の武士としての覚悟を示すものであった。
高虎は、慶長13年(1608年)に伊賀国を所領として以降、その地に古くから存在した伊賀忍者を組織し、情報収集や諜報活動に活用した 21 。伊賀忍者の卓越した技術は、戦国時代を通じて広く知られており、高虎はこの地域の特殊な人的資源を自らの軍事力・政治力に組み込むことに成功した。
特に大坂の陣においては、伊賀忍者を駆使して大坂城内外の情勢や豊臣方の動向を詳細に把握し、それらの情報を逐一家康のもとに送り続けた 21 。一説には、かつて徳川家康に仕えた服部半蔵正成の血縁者とされる保田采女(やすだうねめ)を召し出し、「藤堂」の姓と家老の地位を与えて伊賀忍者の統率を任せたとも言われる 21 。これらの諜報活動によって得られた情報は、徳川方の作戦立案や戦略決定において非常に重要な役割を果たし、戦いの有利な展開に貢献した。高虎の伊賀忍者の活用は、彼の単なる武将としてだけでなく、情報戦にも長けた知将としての一面を浮き彫りにしている。
大坂の陣での戦功により、高虎の所領はさらに加増され、最終的に伊勢・伊賀を中心に32万石余の大々名となった 7 。慶長13年(1608年)に伊予今治から伊賀一国及び伊勢国中部に転封されて以来、高虎は津城を本城、伊賀上野城を支城として津藩の初代藩主となり、その藩政の基礎を築いた 7 。
高虎の藩政の基本理念は、「百姓・町人が安心して暮らせる領地づくり」にあったとされ 7 、戦乱で疲弊した領国の復興と民生の安定に力を注いだ。具体的には、災害対策、新田開発、そして灌漑用水の整備といったインフラストラクチャーの充実に努めた。特に、家臣の西嶋八兵衛に命じて行わせた雲出川からの大規模な用水路(雲出用水)の建設は、広大な水田を潤し、農業生産の向上に大きく貢献した 7 。
また、津の城下町の整備においては、伊勢神宮への参宮街道を意図的に町中に引き込み、多くの参詣者や旅人で賑わうようにすることで、宿場町としての経済的繁栄を図った 7 。これは、閉鎖的な城郭都市ではなく、開かれた商業都市を目指すという、当時としては先進的な都市計画であった。
さらに、高虎は文化的・教育的な施策にも意欲的であった。中国の歴史書である司馬光の『資治通鑑』を日本で初めて藩費で刊行させたり 7 、天然痘予防のための種痘を全国に先駆けて領内で実施したりするなど 7 、その先進性は特筆に値する。これらの政策は、高虎が単なる武人ではなく、領民の生活向上や文化振興にも目を向けた為政者であったことを示している。戦国時代が終焉を迎え、新たな泰平の世が訪れようとする中で、高虎は武力による支配から、民政を重視した統治へとその役割を巧みに移行させていった。彼の藩政は、津藩のその後の安定と発展の礎となった。
藤堂高虎の人物像は、その生涯における主君の頻繁な変更という事実から、毀誉褒貶相半ばする。彼は「風見鶏」「変節漢」と揶揄される一方で、その卓越した能力と先見性によって激動の時代を生き抜き、最終的に徳川家康という当代随一の権力者から絶対的な信頼を得た人物でもある。
高虎が生涯で仕えた主君は、浅井長政に始まり、豊臣秀長、豊臣秀吉、そして徳川家康など、実に七人(あるいはそれ以上)に及ぶとされている 1 。この事実は、後世の武士道観、特に「二君に仕えず」という儒教的倫理観が強調される時代になると、忠誠心に欠ける行動として否定的に捉えられることが多かった 3 。
しかし、高虎の主君変更の背景を詳細に見ると、その多くは主家の滅亡や、自身の能力が正当に評価されないといった、やむを得ない事情や合理的な判断に基づいていた場合がほとんどであった 15 。彼が主君を裏切ったり、謀反を起こしたりといった形で離反したわけではない 37 。むしろ、彼の持つ戦術家として、また築城家としての卓越した能力が高く評価され、次々と有力な主君から請われた結果であるとも言える 1 。
戦国乱世という極めて流動的な社会においては、旧来の固定的な主従関係よりも、個人の実力や才能が重視される傾向が強かった。そのような時代にあって、自らの能力を最大限に活かせる場所を求め、より良い条件や将来性のある主君を選ぶことは、武士にとって一つの現実的な処世術であった 3 。高虎の生き方は、まさにそのような過渡期の武士の姿を体現しており、彼の行動は、旧時代の価値観が崩壊し、新たな秩序が形成される過程におけるプラグマティズムの表れと解釈することも可能である。
高虎が後世に残したとされる遺訓「高山公御遺訓」(「高虎聞書」あるいは「遺訓二百カ条」とも呼ばれる)には、彼の長年の経験に裏打ちされた実践的な教えが数多く含まれており、その統率論、人間観、そして死生観を垣間見ることができる 38 。
これらの遺訓は、高虎が単なる武勇や策略に長けた人物であっただけでなく、深い人間洞察力と、経験に裏打ちされた実践的な知恵を持つ指導者であったことを示している 40 。彼の言葉は、厳しい戦国時代を生き抜いた者ならではのリアリズムと、普遍的な人間理解に貫かれている。
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という言葉は、しばしば藤堂高虎自身の発言として引用されることがある 1 。この言葉は、高虎の生き様を象徴するものとして、彼の現実主義的な側面や、旧来の忠誠観に捉われない姿勢を強調する際に用いられる。
しかし、この言葉が高虎自身の直接の発言であるという確実な一次史料による裏付けは乏しいとされている 43 。江戸時代中期の武士道論書である『葉隠』には、「浪人などして取り乱すは沙汰の限りなり。勝茂公御代の衆は、『七度浪人せねば誠の奉公人にてなし。七転び八起き。』と、口付けに申し候由」 43 という記述があり、この「七度浪人」という表現が、高虎の実際の経歴と結びつけられ、後世に「七度主君を変える」という形で流布した可能性が指摘されている。
この言説の真偽はともかくとして、高虎が実際に多くの主君に仕え、その中で自己の能力を高め、最終的に大きな成功を収めたことは事実である。この言葉が彼に結びつけて語られる背景には、戦国末期から江戸初期にかけての武士の価値観の流動性がある。絶対的な忠誠よりも、個人の実力や時勢を見極める能力が重視され、より良い主君を求めて移動することが必ずしも否定的には捉えられなかった時代の空気を反映していると言えるだろう 1 。高虎の生涯は、そのような時代の武士の一つの生き方を象徴するものとして、この言葉と共に語り継がれてきたのである。
数々の戦乱を乗り越え、徳川幕府の重鎮として確固たる地位を築いた藤堂高虎であったが、晩年は病との闘いであった。元和9年(1623年)頃から眼病を患い始め、その症状は徐々に進行し、寛永7年(1630年)にはついに失明に至ったと伝えられている 6 。
しかし、失明という大きな困難に見舞われながらも、幕府における高虎の影響力や、将軍家からの信頼が揺らぐことはなかった。二代将軍徳川秀忠は、眼の不自由な高虎に配慮し、彼が登城する際に利用する江戸城内の廊下を歩きやすいように改修させたという逸話も残っている 2 。これは、高虎が徳川家に対して果たしてきた多大な功績と、彼の人格に対する深い敬意の表れであり、単なる主従関係を超えた個人的な絆が存在したことを示唆している。
寛永7年(1630年)10月5日、藤堂高虎は江戸の藤堂藩邸において、75歳の生涯を閉じた 2 。その死後、遺骸を清めた者の見聞として、高虎の身体にはおびただしい数の傷跡があり、特に指には戦場で受けたと思われる欠損が見られたと伝えられている 2 。これらの無数の傷は、彼が単に戦略や築城に長けた知将であっただけでなく、生涯を通じて幾度も自ら最前線に立ち、命を賭して戦い抜いた勇猛な武人であったことの何よりの証左である。その身体に刻まれた傷跡は、戦国という過酷な時代を生き抜いた彼の激しい生涯を雄弁に物語っている。
藤堂高虎の死後、彼が築き上げた伊勢津藩32万石余の広大な所領と家督は、嫡男の高次によって継承された。以後、藤堂家は一度も転封されることなく、廃藩置県に至るまで約250年間にわたり、津藩主として伊賀・伊勢の地を治め続けた 7 。これは、高虎が単に一代の英雄であっただけでなく、持続可能な藩経営の基礎を確立し、安定した家臣団組織を構築したことを示している。
江戸時代を通じて、藤堂家は外様大名でありながらも、徳川幕府と良好な関係を維持し、幕政にも一定の影響力を持ち続けた。藩の財政運営においては、時代と共に知行制度にも変化が見られ、家臣への直接的な土地支配(知行地)から、藩が徴収した年貢を俸禄として支給する蔵入地の割合が増加していく傾向にあった 45 。
また、津藩の支藩として伊勢国久居に久居藩が成立し 44 、伊賀国名張には高虎の養子である藤堂高吉を初代とする名張藤堂家(藤堂宮内家)が置かれた 45 。名張藤堂家は1万5千石を知行し、独自の陣屋を構えて地域支配にあたり、11代当主高節の代で明治維新を迎えている 47 。これらの分家の存在は、藤堂家の勢力基盤の拡大と安定に寄与した。
津藩は幕末の動乱期にも存続し、明治維新を迎える。維新後、藤堂家は華族に列せられ、明治10年(1877年)には、高虎の祖先が公家侍であったという説に基づき、朝廷に願い出て中原姓に復姓することが許されている 46 。藤堂高虎が一代で築き上げた大名家は、幾多の時代の変遷を乗り越え、近代に至るまでその家名を保ち続けたのである。これは、戦国武将としての成功の、一つの重要な指標と言えるだろう。
藤堂高虎の生涯は、戦国乱世という極度の変動期を生き抜き、新たな時代である江戸幕藩体制の確立に大きく貢献した、類稀な武将の軌跡であった。彼の歴史的意義は、その多才な能力と、時代を読み解く鋭敏な現実感覚、そして一度信じた主君には誠心誠意尽くすという、独自の忠誠観にあったと言える。
高虎は、主君を次々と変えたことで「風見鶏」と評されることもあるが、その行動の根底には、自らの能力を最大限に発揮できる場を求めるプラグマティズムと、天下の趨勢を見極める先見の明があった。彼は、旧来の固定的な主従観念に縛られることなく、自らの価値を正当に評価し、活躍の機会を与えてくれる主君を選び、その下で比類なき功績を上げた。特に徳川家康に対しては、その天下統一事業と幕府の安定化に心血を注ぎ、絶対的な信頼を勝ち得た 10 。これは、状況に応じて忠誠の対象を選びつつも、一度仕えると決めた主君には徹底的に尽くすという、彼なりの「忠義」のあり方を示している。
築城家としての高虎は、日本の城郭史に革新をもたらした。高石垣、広大な水堀、そして層塔型天守といった彼の築城術は、単に堅固であるだけでなく、合理的で機能性に優れ、さらには敵の戦意を削ぐ心理的効果まで計算されたものであった。江戸城をはじめとする天下普請での彼の活躍は、徳川幕府の権威を視覚的に示し、全国の城郭建築に大きな影響を与え、その後の標準を形作った。
また、津藩初代藩主としては、領民の安寧を第一に考えた藩政を行い、産業振興やインフラ整備に力を注ぎ、津藩の長期的な安定の基礎を築いた 7 。これは、彼が単なる武人や技術者ではなく、優れた為政者としての資質も備えていたことを示している。
藤堂高虎の生き方は、変化の激しい現代社会を生きる我々にとっても多くの示唆を与えてくれる。専門性を磨き上げることの重要性、状況の変化に柔軟に対応し、新たな環境で自らの価値を発揮しようと努力する姿勢、そして彼の遺訓に見られるような、人間洞察に基づいたリーダーシップ論や人間関係論は、現代の組織運営や個人のキャリア形成においても十分に通用する普遍的な知恵を含んでいる。
総じて、藤堂高虎は、戦国から江戸への移行期という日本の歴史における一大転換点において、軍事、築城、政治、そして藩政という多岐にわたる分野で卓越した能力を発揮し、新時代の「システムビルダー」として極めて重要な役割を果たした人物であった。彼の生涯を「風見鶏」という一面的な評価で片付けるのではなく、その多面的な能力と、時代を切り拓いた現実主義者としての側面を正当に評価することこそ、彼の歴史的意義を真に理解する道であろう。