本報告書の目的は、上野国(現在の群馬県)の戦国武将、藤生善久(ふじう よしひさ、通称:紀伊守、1547-1590)の生涯を、現存する史料と伝承を駆使して多角的に再構築し、その歴史的実像に迫ることにある。由良氏の重臣、そして渡瀬繁詮の家老として、戦国末期の東国を駆け抜けた彼の生涯は、地方有力国衆を支えた家臣団の一員として典型的な側面を持つ一方で、際立った個性を放っている 1 。
彼は後世、「知勇と文武に優れた武将」と評される 1 。この評価は、単なる美辞麗句ではない。彼の生涯を丹念に追うと、その評価を裏付ける具体的な事績が浮かび上がってくる。本報告書では、この評価が如何なる事実に基づいているのかを解明するため、彼の「武」の側面、すなわち軍事指揮官としての功績と、「文」の側面、すなわち才学、教養、そして信仰心を両輪として、その生涯を詳細に追跡・分析する。さらに、彼の死をめぐる史実と民話の間に存在する乖離にも着目し、一人の武将が地域の記憶の中でどのように語り継がれていったのか、その歴史的記憶の形成過程についても考察を加えたい。藤生善久という一人の武将の生涯を通して、戦国乱世の終焉期を生きた地方武士の実像を立体的に描き出すこと、それが本報告書の目指すところである。
藤生善久の武将としてのキャリアは、東上野の有力国衆である由良氏の家臣として始まった。彼は単なる一兵卒ではなく、由良氏の勢力拡大と支配体制の確立において、中核的な役割を担う戦略家であった。その武功は、由良氏の歴史そのものと深く連動している。
藤生善久は、天文16年(1547年)に生を受けた 1 。彼の姓である「藤生」氏の出自に関する直接的な史料は乏しく、その詳細なルーツを特定することは困難である。しかし、その活動拠点や後述する寺院建立の地が上野国山田郡(現在の群馬県桐生市周辺)であることから、同地域に根差した在地武士の一族であったと推察される 3 。
彼が仕えた由良氏は、新田氏の庶流である横瀬氏が、新田荘由良郷の地名をもって改姓した一族である 5 。戦国期には金山城(現在の太田市)を本拠とし、上杉、武田、北条といった大勢力の狭間で巧みな外交と武威をもって独立を保とうとした。善久は、この由良氏の当主である由良成繁・国繁父子に仕え、家中の重臣で構成される「老寄衆」の一員に名を連ねていた 1 。老寄衆は、主家の意思決定に深く関与する最高幹部会であり、善久が若くして軍事・政治両面で高い信頼を得ていたことを示唆している。
善久の名が歴史の表舞台で明確に確認される最初の大きな功績は、桐生氏との戦いである。天正元年(1573年)3月12日、由良氏は長年の宿敵であった桐生氏の拠点、柄杓山城(桐生城)への総攻撃を敢行した。この戦いにおいて、藤生善久は由良軍の指揮官の一人として采配を振るい、桐生氏を破って城を陥落させる上で中心的な役割を果たした 2 。
この戦勝は、由良氏にとって東上州における勢力圏を飛躍的に拡大させる画期的な出来事であった。そして、この軍功を高く評価された善久は、占領した桐生城の城代に任じられた 1 。城代とは、城主の代理として城の防衛と周辺地域の統治を任される重要な役職である。これにより、善久は由良氏の領国拡大の最前線を担うこととなり、彼の軍事指揮官としての能力が主家から絶大な信頼を置かれていたことの何よりの証左となった。
桐生城の確保に成功した由良氏であったが、その周辺には依然として独立性の高い在地勢力が割拠しており、支配は盤石ではなかった。こうした状況を打開するため、天正7年(1579年)、主君・由良国繁は善久に新たな軍事行動を命じた。その標的は、上州東部に勢力を持つ松島入道古柏および阿久沢道伴といった在地領主たちであった 1 。
善久は主命を奉じ、これらの勢力を巧みな戦術で攻撃し、ことごとく降伏させることに成功した。この一連の戦いは、由良氏が単なる一国衆から、東上州に覇を唱える地域権力へと脱皮していく過程で極めて重要な意味を持つ。桐生城という「点」の支配を、周辺地域を含む「面」の支配へと転換させたのが、この善久の働きであった。彼の武功は、由良氏の支配領域の安定化に不可欠なものであり、攻撃的な領土拡大だけでなく、占領地の平定という地道ながら重要な任務においても優れた手腕を発揮したことを示している。
藤生善久の武将としての真価が最も試されたのは、天正12年(1584年)の金山城籠城戦であろう。この年、由良国繁と弟の長尾顕長は、関東の覇者である後北条氏の謀略によって小田原城に呼び出され、事実上の人質として拘束されるという由良氏史上最大の危機に陥った 6 。
主君兄弟の不在という好機を捉え、北条氏邦率いる大軍が由良氏の本拠・金山城に侵攻した。城内は当主を欠き、動揺が走る。この絶体絶命の状況下で、城の守りを指揮したのが、国繁の母であり、当時71歳と高齢であった妙印尼輝子と、重臣筆頭である藤生善久であった 1 。
老母と家臣団が一体となり、数に勝る北条軍の猛攻を幾度となく撃退した。この籠城戦は、最終的に和睦という形で終結するものの、主君不在の城を守り抜いたという事実は、由良氏の結束力の強さを示すとともに、善久の忠誠心と卓越した防衛指揮能力、そして危機管理能力を如実に物語っている。女丈夫として名高い妙印尼輝子と並び、この国家的な危機を乗り越えた善久の名声は、家中に揺るぎないものとなったに違いない。
これら一連の軍功は、藤生善久が単に勇猛な武将であっただけでなく、主家の戦略目標を深く理解し、それを着実に実行する能力に長けた指揮官であったことを示している。桐生城の奪取が東方への勢力拡大の橋頭堡を築くための「攻撃」であったとすれば、松島・阿久沢氏の制圧はその支配を盤石にするための「平定」であり、金山城の防衛はそれまでの成果を水泡に帰させないための「防御」であった。攻撃、平定、防御という軍事行動のあらゆる局面において、彼が由良氏の戦略の中核を担っていたことは明らかであり、その「武」は、確固たる戦略的思考に裏打ちされていたのである。
藤生善久を「文武に優れた武将」と評価せしめる所以は、その軍功のみにあるのではない。彼は武人としての務めを果たす一方で、深い教養と信仰心を持ち、それを具体的な形で後世に残した。彼の「文」の側面は、武士としての理想を追求し、自らの存在価値を永続的な形で確立しようとする、意識的な営為であったと見ることができる。
天正10年(1582年)11月、善久はその「才学」を最も象徴する事績を残す。主君・由良国繁に対し、「藤生紀伊守言上之事」と題する十二ヶ条からなる教えを上申したのである 1 。
この文書の具体的な内容は現存しておらず、その詳細を知ることはできない。しかし、その表題と、由良国繁に「文武の道を説いている」という記録から、武士としての心構え、統治のあり方、家臣の掌握術、あるいは日々の修養といった、為政者たる主君が守るべき規範を体系的にまとめたものであったと推察される 1 。戦国時代には、北条早雲の『早雲寺殿廿一箇条』や武田信玄の『甲州法度之次第』など、大名家が定めた家法(家訓)が数多く存在するが、家臣が主君に対して規範を「言上(ごんじょう)」、すなわち申し上げたという形式は極めて異例である 8 。これは、善久が単なる家臣ではなく、主君の師範役たりうるほどの高い見識と教養を持つ人物として認められていたこと、そして何よりも両者の間に極めて深い信頼関係が構築されていたことを示している。
この言上が行われた天正10年(1582年)は、織田信長が本能寺に倒れ、日本の政治情勢が再び流動化した年である。このような不確実性の高い時代にあって、善久が主君に武士としての確固たる理念を説いたことは、単なる武力や権謀術数だけでなく、秩序と道徳に基づいた統治こそが乱世を生き抜く要であるという、彼の信念の表れであったと考えられる。
善久の「文」の側面を物語るもう一つの大きな功績が、寺院の建立である。天正11年(1583年)、彼は自らが城代を務める桐生領内の広沢(現在の桐生市広沢町)の地に、曹洞宗の寺院である広沢大雄院を建立した 11 。その際、開山(初代住職)として上州沼田の名刹・舒林寺から、高僧である日栄春朔和尚を招聘している 13 。
戦国武将による寺院の建立は、単に個人的な信仰心の発露に留まるものではない。それは、戦死した敵味方の将兵を慰霊し、一族の武運長久と安寧を祈願すると同時に、自らの権威と文化的素養を地域社会に誇示するための、重要な政治的・文化的行為であった 16 。特に、曹洞宗のような有力宗派の寺院を建立することは、地域の精神的な中心を形成し、領民の教化と統制にも繋がる。大雄院の寺伝や現存する古文書は、善久の人物像を補強する貴重な史料群であり、彼が桐生地域に及ぼした影響力の大きさを物語っている 13 。
思想としての『言上之事』と、信仰の物理的な拠点としての大雄院。この二つの事績は、互いに連関していると見るべきであろう。前者が彼の内面的な理念の表明であるとすれば、後者はその理念を形あるものとして永続させ、自らの功績と信仰心を可視化する行為である。これらを通じて、善久は自らを単なる「武辺者」ではなく、地域の秩序と文化を担う「文武兼備の将」として位置づけ、後世に残る永続的な遺産(レガシー)を意識的に構築しようとした。それは、戦国武士としての自己実現の一つの完成形であり、彼の高い自己認識と深い思慮を示すものに他ならない。
藤生善久のキャリアにおいて、由良氏の老寄衆と並行して、渡瀬繁詮の家老および道原城代を務めたことは、彼の立場を理解する上で極めて重要である。この複雑な主従関係は、戦国末期の地方豪族が生き残りをかけて繰り広げた、高度な政治戦略の一端を垣間見せる。
善久が新たに仕えた渡瀬繁詮は、由良成繁の三男であり、由良国繁、長尾顕長の弟にあたる 19 。兄たちが上野国に留まり、後北条氏の勢力下で家名を保ったのとは対照的に、繁詮は早くから中央政界に活路を見出した。天正12年(1584年)に兄たちが北条方に降伏した際、それに与せず上洛し、豊臣秀吉の甥である秀次の家臣となったと考えられている 20 。これは、戦国末期に地方豪族が生き残りを図るため、中央の覇者と直接的なパイプを築こうとした典型的な行動パターンである。
繁詮は豊臣政権下で順調に出世を遂げ、天正18年(1590年)の小田原征伐後には、その功績を認められて遠江国横須賀城主3万5千石の大名に取り立てられた 20 。しかし、その栄華は長くは続かなかった。文禄4年(1595年)、豊臣秀次が謀反の疑いをかけられて失脚した「秀次事件」に連座し、改易の上、自害に追い込まれたのである 20 。彼の所領と家臣団は、繁詮の正室の弟であった有馬豊氏に引き継がれた 20 。
藤生善久は、この渡瀬繁詮の家臣として、上野国にある道原城の城代を務めた 1 。この道原城の所在地については、一部情報に錯綜が見られるが、複数の信頼性の高い史料や地誌を照合すると、上野国太田市市場町道原に位置していたことが確実である 1 。沼田方面とする説は誤りである。
道原城は、渡良瀬川とその支流である矢場川に挟まれた河岸段丘上に築かれた平城で、二つの河川を天然の堀とする要害の地であった 25 。この城はもともと、由良氏の同族である足利長尾氏の当主・長尾顕長(由良国繁の弟で長尾家に養子入り)によって築かれたものである 25 。顕長が足利長尾氏の本拠である館林城に移った後、その弟である渡瀬繁詮が城主となり、藤生善久を城代として配置した。この城は、由良・長尾兄弟の勢力圏の東端、すなわち下野国の佐野氏などと境を接する国境地帯を守るための、極めて重要な戦略拠点であった。
善久の立場は、極めて複雑であった。彼は由良氏宗家の「老寄衆」という最高幹部の地位にありながら、分家当主である渡瀬繁詮の「家老」も兼務していたのである 1 。これは単なる兼任ではない。当時、由良国繁・長尾顕長兄弟は後北条氏の傘下にあり、一方で渡瀬繁詮は豊臣氏の直臣であった。つまり善久は、実質的に敵対関係にありうる二大勢力にそれぞれ属する兄弟に、同時に仕えるという綱渡りのような立場に置かれていた。
この一見矛盾した関係は、個人的な忠誠の問題としてではなく、由良一門全体が戦国乱世の最終局面を生き抜くために仕掛けた、高度なリスク分散戦略の現れと解釈することができる。すなわち、後北条氏と豊臣氏という二大勢力のどちらが最終的な勝者となっても、一門の誰かが勝者側に与していることで、家名そのものが断絶する最悪の事態を回避するための「保険」であった。
そして、この複雑な政治的ネットワークの結節点に置かれ、戦略を現場で実行するキーパーソンこそが、藤生善久であった。彼の忠誠は、特定の個人に対してのみ向けられたものではなく、由良・長尾・渡瀬を含む「由良一門」という血族共同体全体の存続に向けられていたのである。彼が両陣営から深く信頼される「文武兼備」の将であったからこそ、この重要な役割を担うことができたのであろう。
人物名 |
藤生善久との関係 |
所属勢力(天正18年時点) |
備考 |
藤生善久 |
- |
後北条氏(由良氏家臣として) |
本報告書の主題。由良氏老寄衆、渡瀬氏家老を兼任。 |
由良国繁 |
主君(由良氏当主) |
後北条氏 |
妙印尼輝子の長男。小田原籠城に参加 5 。 |
長尾顕長 |
主君の弟 |
後北条氏 |
由良国繁の弟で足利長尾氏へ養子。小田原籠城に参加 7 。 |
渡瀬繁詮 |
主君(道原城主) |
豊臣氏 |
由良国繁の弟。豊臣秀次に仕え大名となる 20 。 |
妙印尼輝子 |
主君の母 |
豊臣氏 |
由良国繁らの母。小田原征伐では豊臣方に参陣 1 。 |
後北条氏直 |
主家の主筋 |
- |
関東の覇者。小田原征伐で豊臣秀吉に敗れる 29 。 |
豊臣秀吉 |
新たな主君の主君 |
- |
天下人。小田原征伐を主導 1 。 |
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐は、戦国乱世の終わりを告げる画期的な出来事であった。この歴史の大きな転換点において、藤生善久は自らの主家と運命を共にし、その生涯を閉じることとなる。彼の死をめぐっては、確かな史実と共に、地域の人々の想いが込められた悲劇的な民話が語り継がれており、歴史的記憶の多層性を我々に示している。
天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉が20万を超える大軍を率いて関東に侵攻すると、後北条氏に属する諸将は選択を迫られた。由良国繁・長尾顕長兄弟は、それまでの経緯から後北条方として戦う道を選び、小田原城に籠城した 6 。
藤生善久もまた、主家である由良氏の決定に従い、小田原籠城に参戦したと記録されている 1 。これは、彼の複雑な立場にあっても、最終的な帰属意識は由良氏本家にあったことを示している。一方で、弟の渡瀬繁詮は豊臣軍の一員としてこの戦いに加わっていた。そして、母である妙印尼輝子は、孫の由良貞繁を連れて松井田城の前田利家・上杉景勝の陣に馳せ参じ、豊臣方への忠誠を示した 1 。この老母の機敏な行動が、戦後、小田原城に籠もった国繁・顕長兄弟の罪を赦し、由良家が常陸国牛久に5千石余の所領を与えられて家名を存続させるという、起死回生の結果に繋がったのである 1 。
史実上の死
複数の信頼性の高い史料によれば、藤生善久は小田原城が三ヶ月にわたる籠城の末に開城した直後、天正18年(1590年)8月7日に死去した 1。戒名は「高巌全玖」という 1。死因については明確な記録はないものの、籠城中の劣悪な衛生環境や食糧不足による病、あるいは長期間の緊張と疲労が原因であった可能性が極めて高い。戦国時代の籠城戦において、戦闘による死者よりも病死者の方が多かった例は枚挙に暇がない。
桐生に伝わる民話
一方で、彼が城代を務めた群馬県桐生市には、その死をめぐる全く異なる物語が民話として伝わっている。それは、善久(民話では藤生紀伊守として登場)が正月に親友の家で酒宴を楽しんだ帰り道、自宅の門前に着いたところ、門松の陰に潜んでいた刺客に矢で射られて暗殺された、という悲劇的な物語である 1。
民話の分析
この民話は、善久の没年月日が夏(8月7日)であるという史実と、季節が冬(正月)であるという点で明確に矛盾しており、歴史的事実とは考え難い 2。しかし、この物語を単なる作り話として退けるべきではない。むしろ、この物語がなぜ生まれ、語り継がれたのかを考えることこそが重要である。病死という、ある意味で「平凡な」死では、地域の人々が敬愛した英雄の最期として物足りなかったのかもしれない。裏切りによる非業の死という劇的な筋書きは、人々の同情を誘い、記憶に深く刻み込まれる。この民話は、善久が地域社会にとっていかに重要な存在であり、その死が惜しまれる悲劇として記憶されたかを物語る、貴重な口承文芸なのである。
この暗殺の民話には、さらに興味深い続きがある。善久の死を深く悲しんだその子孫は、暗殺の凶器が隠されていた門松を不吉なものとし、以来、正月に門松を立てることを禁じる家訓を代々守り続けている、という伝承である 1 。
この伝承は、歴史上の人物の記憶が、単なる物語に留まらず、「家訓」という具体的な生活習慣として共同体の中に定着し、世代を超えて継承されていく過程を示す好例である。史実の真偽を超えて、この家訓の存在そのものが、地域社会における藤生善久という人物の記憶の重さを物語っている。
善久の死をめぐる史実と民話の乖離は、歴史上の人物が死後に「地域の英雄」へと昇華していくプロセスそのものを描き出している。民話は、客観的な事実を記録するのではなく、共同体の価値観や感情を反映した「もう一つの歴史」を創造する。善久の場合、その死に「悲劇性」と「教訓」を与えるため、「裏切りによる暗殺」という物語が創作された。そして、門松という日常的なアイテムを物語の小道具として用いることで、物語はより身近で記憶に残りやすいものとなった。さらに、この物語が「門松を立てない」というタブー(家訓)と結びつくことで、単なる昔話ではなく、毎年繰り返される実践を伴う「生きた記憶」として地域に根付いたのである。これは、歴史が学術的な記録としてだけでなく、人々の生活文化の中でいかに豊かに、そして力強く継承されていくかを示す、感動的な事例と言えよう。
藤生善久の生涯を多角的に検証した結果、彼は単なる一地方武将という枠に収まらない、複合的かつ魅力的な人物像として浮かび上がってくる。彼の歴史的評価は、以下の三つの側面から総括することができる。
第一に、彼は戦国末期の東国という激動の舞台において、卓越した軍事能力(武)と、深い教養および信仰心(文)を兼ね備えた、理想的な「文武両道」の武将であった。桐生城攻略や金山城防衛といった数々の武功は彼の「勇」を証明し、一方で主君への諫言書である『藤生紀伊守言上之事』や、信仰の拠点としての大雄院建立は、彼の「知」と「徳」を明確に示している。彼は単なる戦闘の専門家ではなく、主家の戦略を支え、地域の文化を担う、総合的な能力を備えたマネジメント層であったと言える。
第二に、彼は「忠誠」と「生存戦略」の体現者であった。由良氏本家と、その分家でありながら政治的立場を異にする渡瀬氏という、二人の主君に仕えた彼の経歴は、一見すると矛盾に満ちている。しかし、これは戦国武士が置かれた複雑な状況と、一門全体の存続をかけた高度なリスク分散戦略を象徴している。彼の生涯を追うことは、戦国時代を大名の視点からだけでなく、彼らを支えた有能な家臣団がいかにして主家と自らの生き残りを図ったかという、よりミクロでリアルな視点から理解することに繋がる。
第三に、彼の存在は、歴史における「名脇役」の重要性を我々に教えてくれる。藤生善久は、歴史の表舞台で天下を争う織田信長や豊臣秀吉のような英雄ではない。しかし、彼のような忠誠心と実務能力に優れ、主家の存続という困難な課題に生涯を捧げた「名脇役」たちの存在なくして、地方の政治・社会秩序は成り立たなかった。彼の生涯を詳細に研究することは、戦国という時代の解像度を格段に高め、大名たちの華々しい活躍の裏にあった、無数の人々の知恵と努力、そして苦悩を照らし出す上で、極めて重要な意義を持つのである。史実としての生涯と、民話として語り継がれる記憶の両面から、藤生善久は上野国の歴史に確かな足跡を刻んだ、記憶されるべき知将であったと結論付けられる。