最終更新日 2025-07-11

藤田信吉

流転の将、藤田信吉 ― 時代の狭間で選択を続けた武将の実像

序論:乱世を駆け抜けた異色の武将、藤田信吉

戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代は、数多の武将たちの栄枯盛衰の物語に彩られている。その中でも、藤田信吉(ふじた のぶよし)という武将の生涯は、時代の転換期における個人の選択、野心、そして悲劇を象徴する、極めて示唆に富んだ軌跡を描いている。

信吉は、関東の小豪族の出身でありながら、その武才と時流を読む鋭敏な感覚を武器に、北条、武田、上杉、そして徳川という当代きっての強大な勢力の間を渡り歩いた。上杉家臣時代には佐渡平定などの赫々たる武功を挙げて重用され、ついには一万五千石の大名にまで上り詰めた 1 。しかし、その栄光は長くは続かず、大坂の陣の後に突如として改易され、失意のうちに生涯を終えるという劇的な結末を迎える 3

彼の人生は、出自を巡る謎、主家を次々と変えた「裏切り」とも映る行動、そして天下分け目の関ヶ原合戦の引き金を引いたとされる重大な役割など、多くの謎と論争に満ちている。本報告書は、藤田信吉を単なる日和見主義者や裏切り者として断じるのではなく、彼の行動の背後にある動機、時代の制約、そして個人的な葛藤を深く掘り下げることを目的とする。彼の生涯を徹底的に追跡し、矛盾する史料を比較検討することで、信吉が乱世という巨大な奔流の中で、いかにして自らの道を切り拓き、そしてなぜ最終的に時代の波に呑み込まれていったのか、その実像に迫るものである。彼は、単純な忠臣でもなければ、卑劣な反逆者でもない。自らの能力を頼りに、時代の狭間で生き残りをかけて選択を続けた、一人の現実主義的な武将であった。

表1:藤田信吉 略年表

西暦(和暦)

年齢(数え)

所属勢力

主な出来事・役職

1559年(永禄2年)

1歳

(北条氏)

武蔵国にて誕生(諸説あり) 5

1580年(天正8年)

22歳

北条氏 → 武田氏

真田昌幸の調略に応じ、沼田城を開城。武田勝頼に仕える 3

1582年(天正10年)

24歳

武田氏 → 上杉氏

武田家滅亡後、上杉景勝に仕える 1

1586年(天正14年)

28歳

上杉氏

佐渡国を平定する武功を挙げる 3

1590年(天正18年)

32歳

上杉氏

小田原征伐に従軍。上杉軍の先鋒として鉢形城を攻める 3

1598年(慶長3年)

40歳

上杉氏

上杉家の会津移封に伴い、大森城主一万五千石となる 1

1600年(慶長5年)

42歳

上杉氏 → 徳川氏

上杉家を出奔し、徳川家康に「上杉景勝に謀反の疑いあり」と直訴 9

1600年(慶長5年)

42歳

徳川氏

関ヶ原合戦後、下野国西方に一万五千石を与えられ、大名となる 2

1615年(元和元年)

57歳

徳川氏

大坂夏の陣後、軍監としての失態などを理由に改易される 4

1616年(元和2年)

58歳

信濃国奈良井宿の長泉寺にて死去。自刃説が有力 3

第一章:出自の謎と一族の相克 ― 藤田信吉の原点

藤田信吉の生涯を理解する上で、その出発点である出自の問題は避けて通れない。彼の出自は複数の史料で矛盾した記述が見られ、この曖昧さこそが、後の彼の行動原理や、地位と正統性を渇望する姿勢を理解する鍵となる。

武蔵藤田氏の系譜と諸説

藤田氏は、伝統的に武蔵七党の一つである猪俣党の流れを汲む一族とされる 12 。その祖先は榛沢郡藤田郷(現在の埼玉県深谷市付近)に拠点を構え、関東の在地武士として歴史を刻んできた。しかし、これとは別に、より権威ある系譜を主張する説が存在する。それは、藤田氏が鎌倉時代の御家人・畠山重忠の末裔、すなわち桓武平氏の流れを汲む「平姓藤田氏」であるという説である 12 。戦国時代において、有力な氏族の出自を持つことは、単なる名誉に留まらず、他の武将との交渉や家臣団の統制において極めて重要な政治的資産であった。信吉自身がこの「平姓」をどの程度意識し、利用したかは定かではないが、彼の家系が単純な在地豪族に留まらない、複雑な背景を持っていたことを示唆している。

父・藤田康邦を巡る矛盾

多くの史料は、信吉の父を藤田康邦(やすくに、重利とも)としている 5 。康邦は、当初山内上杉氏に仕えていたが、河越城の戦いを経て後北条氏の勢力が関東に伸張すると、これに降伏。その際、北条氏康の四男・氏邦を養子に迎え、自らの娘である大福御前を娶らせて家督を譲った 15 。康邦自身は用土城(現在の埼玉県寄居町)に移り、用土氏を称したとされる。

しかし、ここに深刻な矛盾が生じる。複数の記録によれば、信吉の生年は永禄2年(1559年)または永禄3年(1560年)とされる一方 1 、父とされる康邦の没年は天文24年(1555年)と記されており、これでは計算が合わない 4 。江戸時代の編纂物である『管窺武鑑』は、康邦の没年を永禄3年(1560年)、信吉の生年を永禄元年(1558年)とするが、それでもなお不自然さが残り、後世の編纂史料が持つ信憑性の問題を露呈している 11

この時間的な矛盾から、信吉は康邦の直接の子ではなく、孫または甥ではないかという説や 4 、康邦の一族である用土業国の子ではないかという説も提唱されている 11 。この出自の混乱は、単なる記録の不備とは考えにくい。むしろ、藤田氏の家督が北条氏邦に乗っ取られた後、分家筋であった信吉が自らの正統性を主張するために、最後の当主であった康邦の直系であると称した可能性が考えられる。不安定な出自を持つ彼にとって、権威ある系譜を自ら「創出」することは、乱世を生き抜くための戦略的な選択であったのかもしれない。

一族内の確執 ― 兄の死と北条氏への遺恨

藤田氏の家督を継いだ北条氏邦と、康邦の実子たちとの間には、深刻な亀裂が走っていた。康邦には信吉の他に、用土重連という兄がいた 11 。彼ら兄弟にとって、養子である氏邦は、本来自分たちが継ぐべき家を奪った存在であった。この緊張関係は、やがて悲劇的な結末を迎える。氏邦が、自らの地位を脅かす存在と見なした義兄・重連を毒殺した、というのである 12

この事件は、信吉の心に北条氏、とりわけ氏邦に対する消しがたい遺恨を植え付けたと考えられる。さらに、彼らの姉(または妹)である大福御前は、その氏邦の妻であった 8 。彼女は、夫と実の兄弟との間で板挟みになるという、極めて過酷な運命を背負わされた。この一族内の相克と兄の非業の死という原体験は、信吉のその後の人生に大きな影響を与えた。それは、単なる政治的な対立ではなく、深い個人的なトラウマとして、彼の野心と行動を根底から突き動かす、強力な動機となったのである。不安定な出自と、権力によって奪われた家族の命。この二重の喪失感が、彼を自己の能力のみを頼りに、より高い地位と確固たる安全を求める終わりのない闘争へと駆り立てていったと言えよう。

第二章:流転の始まり ― 北条、そして武田家臣時代

一族内に深刻な亀裂を抱えながらも、信吉は当初、新たな主家となった後北条氏の家臣としてキャリアを開始する。しかし、その雌伏の期間は長くは続かなかった。彼の人生最初の大きな転機は、北条氏を裏切り、武田氏へと奔るという大胆な決断であった。これは、彼の生涯にわたる流転の始まりを告げる出来事となる。

沼田城代としての雌伏

北条氏に仕えた信吉は、上野国(現在の群馬県)の沼田城に城将として配置された 3 。沼田城は、越後の上杉氏と関東の北条氏、そして甲信の武田氏の勢力がぶつかり合う、戦略上の最重要拠点の一つであった。このような要衝を任されたことは、若き日の信吉が、北条家中においてもある程度の能力を認められていたことを示唆している。しかし、彼の胸中には、兄・重連を謀殺した義兄・氏邦が率いる北条氏への複雑な感情が渦巻いていたはずである。

真田昌幸の調略と沼田開城(天正8年/1580年)

天正7年(1579年)、武田勝頼は、智謀の将として名高い真田昌幸に沼田城の攻略を命じた 7 。昌幸は、力攻めによる多大な犠牲を避け、彼が得意とする「調略」を用いた。その標的となったのが、城将の一人であった藤田信吉である。昌幸は、信吉が北条氏に対して抱いているであろう不満や遺恨を巧みに突き、武田方への内応を促した 7

この調略は功を奏した。天正8年(1580年)5月、信吉は昌幸の誘いに応じ、戦うことなく沼田城の門を開いた 3 。この行動は、単なる臆病や保身からの裏切りと見るべきではない。むしろ、兄の仇である北条氏のもとで将来の展望を見出せず、閉塞した状況にあった信吉にとって、これは千載一遇の好機であった。当時、依然として強大な勢力を誇っていた武田氏に与することは、危険を伴う賭けではあったが、成功すれば自らの地位を飛躍的に向上させることができる、計算されたリスクテイクであった。

武田勝頼からの厚遇

信吉の寝返りは、武田勝頼から高く評価された。勝頼は、戦略的要衝である沼田城を無血で手に入れた功績を認め、信吉を破格の待遇で迎えた。信吉は、正式に「藤田」の姓を名乗ることを許され、「能登守」という官位、そして沼田周辺に五千七百貫文という広大な所領を与えられた 1 。これは、彼が単なる降将としてではなく、有能な武将として武田家中に迎え入れられたことを意味する。

さらに、沼田城を攻略した真田昌幸は、信吉を本丸の城代という、城の中枢を担う極めて重要な役職に任命した 7 。これは、調略の当事者である昌幸が、信吉の能力と忠誠を信頼した証左である。北条家中で燻っていた信吉は、この沼田開城という一つの決断によって、自らの価値を証明し、新たなキャリアの道を切り拓いた。これは、彼が自らの能力を政治的な資産として活用し、不利な境遇を乗り越えようとする、生涯にわたる行動パターンの第一歩であった。

第三章:越後の龍への臣従 ― 上杉家での武功

武田氏への臣従によって新たな道を歩み始めた信吉であったが、その安住の地も長くは続かなかった。天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の侵攻により、あれほど強大を誇った武田氏があっけなく滅亡。再び主を失った信吉は、次なる活路を求め、越後の上杉景勝のもとへと奔る。この選択が、彼の武将としての才能を最も開花させる輝かしい時代の幕開けとなった。

武田家滅亡と上杉景勝への帰属(天正10年/1582年)

武田家の崩壊という激震の中、信吉は迅速に行動した。彼は、織田信長の勢力が及んでくる関東・信濃地域において、唯一対抗しうる大勢力であった上杉景勝を新たな主君として選んだ 1 。これは、時流を的確に読んだ現実的な判断であった。景勝もまた、武田家の旧臣たちを積極的に受け入れており、信吉のような実戦経験豊富な武将は歓迎された。こうして信吉は、上杉家の家臣として、そのキャリアの新たな一章を開始する。

上杉家臣としての赫々たる武功

上杉家に仕えた信吉は、その武才を遺憾なく発揮し、瞬く間に頭角を現した。彼は、景勝の家督相続に不満を抱いて反乱を起こした重臣・新発田重家の討伐戦において、重要な役割を果たし、その鎮圧に貢献した 3

そして、彼の名を上杉家中に轟かせた最大の功績が、天正14年(1586年)に行われた佐渡平定である。当時、佐渡国は本間氏が支配していたが、信吉は上杉軍の総大将として島に渡り、河原田城、雑田城といった本間氏の主要な拠点を次々と攻略。最終的に羽茂城を包囲して本間氏を降伏させ、佐渡一国を完全に平定した 3 。この方面軍司令官としての一大方面作戦の成功は、彼の卓越した指揮能力と戦術眼を証明するものであった。

彼は、外様でありながら、その確かな戦功によって上杉家中で確固たる地位を築き上げていった。それは、出自や家格ではなく、純粋な実力によって評価されるという、戦国乱世ならではの meritocracy の体現であった。

小田原征伐と鉢形城攻め ― 姉弟の悲劇(天正18年/1590年)

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げである小田原征伐が開始されると、信吉は上杉軍の先鋒として従軍した 3 。しかし、運命は彼に過酷な試練を与える。彼が率いる部隊が攻撃目標としたのは、奇しくも、かつて自らが仕え、そして兄の仇でもある北条氏邦が守る鉢形城であった。そしてその城には、氏邦の妻として、信吉の実の姉である大福御前がいた 8

寄せ手の総大将が実の弟であると知った大福御前は、城兵たちの命を救うため、信吉を介して開城交渉を行ったという逸話が残されている 8 。この交渉の結果、鉢形城は無駄な血を流すことなく開城し、多くの将兵の命が救われたと伝えられる。この逸話の真偽はともかくとして、天下統一という巨大な歴史の流れの中で、引き裂かれた姉弟が敵味方として対峙するという悲劇は、戦国の世の非情さを物語って余りある。

この上杉家臣時代は、信吉の生涯における頂点であった。彼は、戦場での働きによって自らの価値を証明し、新参者でありながら大身の武将へと成り上がった。しかし、皮肉なことに、この輝かしい成功こそが、後の彼と上杉家の旧来の権力構造との間に、修復不可能な亀裂を生む遠因となるのである。慶長3年(1598年)に上杉家が会津へ移封された際、信吉は大森城一万五千石という破格の知行を与えられた 1 。これにより、彼は上杉家中でも屈指の実力者となったが、その存在は、上杉家の権力を一手に掌握しようとしていた筆頭家老・直江兼続にとって、自らの権威を脅かす潜在的な競争相手として映ったとしても不思議ではなかった。

第四章:決裂 ― 上杉家出奔と関ヶ原への道

上杉家臣として輝かしい武功を重ね、大身の武将となった藤田信吉。しかし、豊臣秀吉の死後、天下の情勢が徳川家康を中心に動き始めると、彼の運命は再び大きく揺らぎ始める。上杉家筆頭家老・直江兼続との対立、そして家康への接近。彼の人生で最も物議を醸すこの一連の行動は、やがて天下分け目の関ヶ原合戦の直接的な引き金となっていく。

会津移封と直江兼続との対立

慶長3年(1598年)、上杉家は秀吉の命により、越後から会津百二十万石へと移封された。この広大な新領国を統治するため、筆頭家老である直江兼続は、強力な中央集権体制の構築を推し進めた 9 。この過程で、兼続の権力は絶大なものとなり、彼の政治路線に合わない者たちは、次第に家中での影響力を失っていった。

信吉もその一人であった。彼は、輝かしい戦功にもかかわらず、会津では津川(現在の福島県阿賀町)という辺境の地に配置されたとされ、これを左遷と受け取った可能性がある 9 。さらに深刻だったのは、政治路線の対立である。兼続が家康に対して強硬な姿勢を貫いたのに対し、信吉は徳川との協調を模索する穏健派であったと見られている 21 。また、兼続の集権化政策は、信吉と友好的な関係にあった在地国人たちの権益を奪うものであり、信吉は上杉家中で急速に孤立を深めていった 9

この対立は、単なる個人的な確執ではなかった。それは、秀吉亡き後の天下において、上杉家が如何に生き残るべきかという、二つの異なる統治哲学の衝突であった。兼続が目指したのは、徳川の圧力に屈しない、強固で独立した上杉王国であった。そのためには、家中の絶対的な忠誠と異論の排除が不可欠であった。一方、信吉は、家康の圧倒的な力を現実として受け入れ、より柔軟な対応を模索する現実主義者であった。この両者の路線は、もはや相容れるものではなかった。

出奔と家康への直訴(慶長5年/1600年)

慶長5年(1600年)正月、信吉は上杉家の使者として、家康への年賀の挨拶のために上洛した。この際、彼は家康に密かに接触し、徳川への奉公を誓ったとされ、その証として刀や銀子を受け取った 6 。しかし、この密約は会津に戻るとすぐに露見し、信吉は謀反の疑いをかけられ、討伐されそうになるほどの窮地に陥った 6

身の危険を感じた信吉は、同年3月、妻子や家臣を連れて会津から脱出 9 。そして、江戸に赴き徳川秀忠と面会、さらに家康のもとへ駆け込むと、「景勝に謀反の兆しあり」と直訴した。彼はその証拠として、上杉家が神指城の築城や街道整備といった大規模な軍事準備を進め、浪人を多数召し抱えていることなどを具体的に挙げた 6

関ヶ原の引き金として

信吉のこの直訴は、家康にとってまさに渡りに船であった。家康は、上杉家の危険性を天下に訴え、諸大名を動員して会津を討伐するための、この上ない大義名分(casus belli)を手に入れたのである 6 。この信吉の出奔と直訴の事実は、当時書かれたとされる直江兼続の有名な書状「直江状」の写しにも記されており、信憑性の高い史料である『覚上公御書集』にも同様の経緯が記録されていることから、歴史的事実と見て間違いない 20

信吉の行動は、彼個人の自己保存の本能から発したものであり、天下を二分する大戦乱を引き起こす意図まではなかったかもしれない。しかし、結果として、彼の行動は家康という巨大な政治権力に利用され、歴史を大きく動かす歯車の一つとなった。一人の有力武将の個人的な危機が、天下の動乱へと直結したのである。一部の記録には、信吉が徳川・上杉間の全面衝突を回避すべく調停を試みたが失敗し、絶望して剃髪し、一時京都の大徳寺に隠棲したとも伝えられており 3 、もし事実であれば、自らが引き起こした事態の大きさに愕然とした彼の苦悩が窺える。

第五章:大名への道と突然の終焉 ― 徳川家臣時代

上杉家を出奔し、徳川家康に天下取りの大義名分を与えるという重大な役割を果たした藤田信吉。関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わると、彼はその功績を認められ、ついに念願であった大名の地位を手に入れる。しかし、その栄光の座は、彼の波乱に満ちた人生の終着点とはならなかった。新時代の到来は、彼のような戦国武将に、新たな、そして最後の試練を突きつける。

下野西方藩一万五千石の藩主へ

関ヶ原合戦後、家康は論功行賞において、信吉の功を高く評価した。彼は、下野国西方(現在の栃木県栃木市西方町)に一万五千石の所領を与えられ、西方藩の初代藩主となった 1 。これは、出自の曖昧さから出発し、幾多の主君のもとを渡り歩いてきた彼にとって、生涯の目標であった「一国一城の主」の座に就いた瞬間であった。

さらに家康は、信吉に「重信」(しげのぶ)という新たな名を与えた。その際、「藤田家の嫡流は代々『重』の字を用いてきたのだから、そなたもこれを名乗るがよい」と述べたと伝えられている 11 。これは、家康が信吉を藤田氏の正統な後継者として公に認めたことを意味し、彼の長年の渇望であった正統性を、天下人自らが保証したに等しい、最大の栄誉であった。大名となった信吉は、慶長7年(1602年)に佐竹氏が常陸水戸から秋田へ転封された際、水戸城の受け取り役を務めるなど、徳川家の家臣としての務めを果たした 23

大坂の陣での失態と改易(元和元年/1615年)

泰平の世が訪れるかに見えたが、豊臣家の存在は徳川幕府にとって依然として脅威であった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣に、信吉も徳川方の大名として従軍した。しかし、翌元和元年(1615年)の夏の陣において、彼は榊原康勝の軍に付けられた軍監(軍の監督役)としての任を果たしていたが、この戦いの後、突如として全ての所領と大名の地位を剥奪される「改易」の処分を受けた 3

改易の表向きの理由は、軍監としての指揮上の失態や、戦功への不満からくる失言など、複数の理由が挙げられているが、いずれも曖昧である 4 。一万五千石の大名を改易する理由としては、あまりに些細であり、これらは口実に過ぎなかった可能性が高い。真の理由は、徳川の「天下泰平」という新たな時代の価値観の中にあったと考えられる。戦乱の世においては、信吉のような野心と実力を兼ね備えた武将は非常に有用な存在であった。しかし、ひとたび平和な統治体制が確立されると、彼のような存在は、むしろ体制を不安定にしかねない危険因子と見なされるようになった。彼の度重なる主君替えの経歴や、自己主張の強い性格が、従順な官僚的家臣を理想とする新しい幕藩体制の中では、もはや時代遅れの危険な資質と判断されたのである。大坂城の落城と共に、信吉のような戦国武将の役割は終わりを告げた。彼の改易は、それを象徴する政治的な決定であった。

信濃奈良井での最期(元和2年/1616年)

全ての地位と名誉を奪われ、再び流浪の身となった信吉は、信濃国の中山道奈良井宿(現在の長野県塩尻市)へと向かった。そして元和2年(1616年)7月14日、宿場町にある長泉寺にて、58年の波乱の生涯を閉じた 3

大坂の陣で負った傷が悪化したことによる病死説もあるが、近年では、改易の屈辱に耐えかねての自刃説が有力視されている 3 。長泉寺は、信吉がかつて伽藍を再興した縁の深い寺であった 25 。彼の墓は今もこの寺にあり 11 、旧領であった下野西方の実相寺にも、遺髪などが納められたと伝わる墓所が残されている 10

彼の最期は、生涯をかけて追い求めた地位と安定が、一夜にして崩れ去った男の絶望を物語っている。出自の不安から始まり、自らの武才だけを頼りに大名の座まで上り詰めた彼の人生は、まさに戦国乱世の成功物語であった。しかし、その成功を支えた資質そのものが、新しい時代によって否定されるという皮肉な結末を迎えた。彼の死は、自らがその成立に貢献した平和な時代の到来によって、己の存在意義を奪われた戦国武将の悲劇的な終焉であった。

結論:藤田信吉という武将の再評価

藤田信吉の生涯を詳細に追跡すると、彼が単に「裏切り者」や「日和見主義者」といった単純なレッテルで語られるべき人物ではないことが明らかになる。彼の人生は、戦国時代から江戸時代初期へと移行する、日本史上最もダイナミックな時代の矛盾と可能性、そして悲劇を一身に体現した、稀有な事例である。

第一に、信吉は卓越した現実主義者であり、プラグマティックな生存者であった。彼の度重なる主君替えは、無節操な裏切りではなく、不安定な出自と兄の死という原体験から来る、確固たる地位と安全への渇望に根差した、計算された戦略的判断であった。彼は、刻一刻と変化する政治情勢を冷静に分析し、自らの武将としての価値を最大化できる勢力へと身を投じることで、乱世の荒波を乗り越えようとした。

第二に、信吉は矛盾に満ちた人物であった。彼は佐渡平定に見られるように、優れた野戦指揮官であったが 19 、直江兼続との対立が示すように、政治的な駆け引きにおいては老獪さに欠けていた。彼は安定した地位を求め続けたが、その行動はしばしば沼田開城や上杉家出奔のように、大きな不安定要因を生み出した 7 。そして何より、彼は徳川家康の天下取りに決定的な貢献をしながら、その徳川幕府によって最終的に切り捨てられるという、最大の皮肉を経験した 4

最終的に、藤田信吉の生涯は、一個人の物語を超えて、一つの時代の終わりを象徴している。彼は、実力さえあれば出自をも乗り越えられる戦国の世の可能性を体現した人物であった。しかし、彼を大名にまで押し上げたその野心、武功、そして自己主張の強さといった資質は、平和と秩序を絶対的な価値とする江戸幕藩体制においては、もはや美徳ではなく、排除されるべき危険な要素でしかなかった。

藤田信吉の物語は、ある時代で成功を収めるために必要とされた能力が、次の時代では自身の破滅の原因となりうるという、歴史の非情な真実を我々に突きつける。彼は、自らがその成立に貢献した新しい時代の論理によって、その存在そのものを否定された悲劇の武将として、記憶されるべきであろう。

引用文献

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  4. 藤田信吉 (ふじた のぶよし) | げむおた街道をゆく https://ameblo.jp/tetu522/entry-12035771443.html
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