蘆田康勝は徳川家康に重用された依田信蕃の子。大名となるも同僚殺害で改易。しかし家康の温情で再仕官し、福井藩重臣として家名を再興。その生涯は栄光と転落、そして不屈の再起の物語。
本報告書は、戦国の終焉と江戸の黎明という時代の転換点を生きた一人の武将、蘆田康勝(あしだ やすかつ)、またの名を依田康勝(よだ やすかつ)の生涯を、その出自から子孫に至るまで徹底的に調査し、その人物像と歴史的役割を多角的に分析するものである。父・依田信蕃が築いた輝かしい功績を背景に若くして大名となるも、一つの刃傷事件によって全てを失い、しかしそこから見事に家名を再興させたその軌跡は、徳川幕府初期における武家の存亡のダイナミズムを象徴する、極めて興味深い事例といえる。
康勝の人生は、父から受け継いだ「栄光」、自らの激情が招いた「転落」、そして主君の温情と自らの執念による「再起」という、劇的な三幕構成の物語として捉えることができる。彼の生涯を貫くこの主題を解き明かすことは、個人の資質のみならず、家の威光、主君との関係、そして時代の潮流がいかに一人の武士の運命を左右したかを理解する上で、重要な示唆を与えてくれる。以下に、彼の波乱に満ちた生涯を俯瞰するための年表を掲げ、本報告の導入としたい。
Table 1: 蘆田康勝 主要年表
西暦 |
和暦 |
年齢 |
主な出来事 |
典拠 |
1574 |
天正2年 |
1歳 |
依田信蕃の次男として誕生。 |
1 |
1582 |
天正10年 |
9歳 |
武田氏滅亡後、兄・康国と共に徳川氏の人質となる。 |
1 |
1583 |
天正11年 |
10歳 |
父・信蕃が岩尾城攻めで戦死。兄・康国が家督を継ぐ。 |
2 |
1586 |
天正14年 |
13歳 |
徳川家康の前で元服。「康」の偏諱と松平姓を名乗ることを許される。 |
1 |
1590 |
天正18年 |
17歳 |
小田原征伐に従軍。兄・康国が上野石倉城攻めで戦死。家督を相続し、上野藤岡3万石の城主となる。 |
1 |
1600 |
慶長5年 |
27歳 |
1月23日、大坂の旅宿にて同僚・小栗三助を殺害。改易され高野山へ蟄居。 |
1 |
(同年) |
(同年) |
27歳 |
結城秀康の預かりとなり、家臣となる。母方の姓をとり加藤康寛(宗月)と改名。 |
1 |
1601 |
慶長6年 |
28歳 |
秀康の越前入封に従い、北ノ庄城受け取りの先遣隊を務める。越前大野郡木本にて5,000石を領す。兄の菩提を弔うため康国寺を建立。 |
1 |
1614-15 |
慶長19-20年 |
41-42歳 |
大坂の陣では、一揆の多発地帯である大野郡の防衛を担い、大野城代として留守を守る。 |
1 |
1623 |
元和9年 |
50歳 |
死去(没年には異説あり)。 |
1 |
1643 |
寛永20年 |
- |
康勝(康真)が幕府の命により編纂した家伝『芦田記』(依田記)が成立。 |
1 |
蘆田康勝の生涯を理解する上で、彼の父と兄の存在は決定的に重要である。父・依田信蕃が徳川家康から得た絶大な信頼という「遺産」が、康勝の人生の出発点であり、最大の保証であった。そして、その遺産を一身に受け継いだ兄・康国の早すぎる死が、康勝を歴史の表舞台へと押し出す直接の契機となった。
康勝の父、依田信蕃は、信濃の国人領主・蘆田信守の子として生まれ、武田信玄・勝頼に仕えた武将である 2 。彼の武将としての器量は、敵方であった徳川家康をも深く感嘆させるものであった。
武田家臣時代、信蕃は信濃先方衆として駿河侵攻や三方ヶ原の戦いなどに参陣した 2 。その名声を不動のものとしたのが、天正3年(1575年)の長篠の戦い後の遠江二俣城防衛戦である。武田軍本隊が大敗し、徳川軍が反攻に転じる中、信蕃は父・信守の病死後、城将となって籠城を指揮した。わずかな兵力で半年にもわたり徳川軍の猛攻を凌ぎきったその手腕は、攻めあぐねた徳川方を感嘆させた 2 。最終的に主君・勝頼の命により開城する際、信蕃は「雨の日に蓑笠をつけて城を去るのは敗残兵のようでみすぼらしい」として好天の日を望み、三日後に堂々と退去した。明け渡された城内は隅々まで清掃され整然としており、これを見た家康の重臣・大久保忠世の報告に家康自身も深く感心したと伝えられている 2 。
天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍による武田征伐で主家が滅亡すると、信蕃の人生は大きな転機を迎える。家康は彼の才能を高く評価し、家臣に迎えようとした。しかし信蕃は「主君・武田勝頼様の安否が判明しないうちは、お仕えすることはできません」と一度は固辞し、旧領の信濃春日城へ戻った 6 。この忠義に厚い姿勢は、かえって家康の彼に対する評価を高める結果となった。
その後の本能寺の変によって生じた「天正壬午の乱」では、信蕃は家康の期待に応えて大功を立てる。甲斐・信濃の支配を巡って徳川、北条、上杉が争う中、信蕃は逸早く家康に味方し、信濃佐久郡を拠点にゲリラ戦を展開。甲斐へ進軍する北条軍の補給路を脅かし、さらには北条方についていた真田昌幸を調略によって徳川方に寝返らせるという決定的な役割を果たした 6 。これにより、徳川軍は戦局を有利に進め、北条氏との和睦を有利な条件で成立させることができたのである 11 。
信蕃は天正11年(1583年)、信濃の北条方残党との岩尾城攻めの最中に銃撃を受け、36歳の若さで戦死する 2 。家康に仕えた期間はわずか1年にも満たなかったが、家康が彼の死を深く悼み、その功績に報いようとしたことは、その後の遺児たちへの破格の待遇に明確に表れている。康勝の人生は、この父が命と引き換えに築き上げた「家康からの信用の遺産」の上に成り立っていたのである 2 。
父・信蕃の功績という最大の遺産を、最初に相続したのが長男の康国であった。彼の存在と悲劇的な死が、弟である康勝の運命を大きく動かすことになる。
父の死後、家康は信蕃への評価を康国への厚遇という形で示した。天正11年(1583年)、当時まだ14歳であった康国(幼名:竹福丸)は家康直々の手で元服を許され、家康の「康」の字を与えられて「康国」と名乗った。さらに、徳川一門にのみ許される「松平」の姓を名乗ることを許され、「松平源十郎康国」となったのである 3 。後見人には徳川家の重臣である大久保忠世が付けられ、父が平定した小諸城を中心に6万石という、当時の家康家臣団の中でも最大級の所領を与えられた 2 。これは、武田旧臣という外様の家に対する待遇としてはまさに異例中の異例であり、家康がいかに信蕃の功績を高く評価していたかを物語っている。
若き当主となった康国は、天正13年(1585年)の第一次上田合戦で初陣を飾り、徳川方が戦術的には敗北したものの、その奮戦に対して家康から感状を受けている 3 。その後は佐久地方の安定統治に努めていたことが書状などから確認できるが、その将来を嘱望された生涯はあまりにも早く終わりを迎える。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に従軍した康国は、上野国における後北条氏の拠点・石倉城を攻撃中に討死した 1 。享年わずか21であった。この兄の突然の死により、次男であった康勝が予期せずして家督を継ぐことになったのである。
なお、康国の死に関しては、「城兵の降伏受け入れの際に生じた手違いによって城将に殺害され、その場にいた弟の康勝が城将を斬った」という異説も伝わっている 13 。この説の真偽は定かではないが、もし事実であれば、兄の非業の死を目の当たりにした体験は、康勝の心に深い傷とトラウマを残した可能性がある。後に彼が起こす刃傷事件の背景を考える上で、無視できない要素といえるだろう。父と兄という二人の偉大な存在を相次いで失い、その重責を一身に背負うことになった康勝の心理的重圧は、計り知れないものがあったと推察される。
兄・康国の夭折により、蘆田康勝は17歳という若さで依田(松平)家の当主となり、徳川家の大名として歩み始める。しかし、その順風満帆に見えたキャリアは、一つの事件によってわずか10年で終焉を迎える。
兄の死後、家康は信蕃との約束を違えず、その家督と遺領を次男の康勝に継がせた。天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康が関東に移封されると、康勝は兄の遺領6万石から分割された武蔵国および上野国にまたがる3万石を与えられ、上野藤岡城主となった 1 。この藤岡城は康勝によって新たに築かれた城であり、一族の故地である信濃芦田にちなんで「芦田城」とも呼ばれたという 15 。
康勝は兄と同様に「松平」の姓を名乗ることを許されており、徳川家中で特別な地位にあった 1 。さらに、当時の天下人である豊臣秀吉からも豊臣姓を与えられたという記録があり 4 、これは彼が単なる徳川家の一大名としてだけでなく、中央政権からも認知された有力な若手武将であったことを示している。約10年間にわたる藤岡城主時代の具体的な治績に関する史料は乏しいが、この間、大きな問題なく領地を統治していたことから、彼が一定の統治能力を備えていたことは間違いないだろう 16 。
輝かしい未来が約束されているかに見えた康勝の人生は、慶長5年(1600年)1月23日、天下の情勢が関ヶ原の戦いへと向かう緊迫した時期に、大坂で起こした一つの事件によって暗転する。
事件の概要は、大坂の旅宿において、同僚の小栗三助(おぐり さんすけ)と囲碁をしていた際に口論となり、激高した康勝が三助を斬殺したというものである 1 。この「同僚殺害」という行為は、当時の武家社会においても極めて重い罪であり、康勝は即座に3万石の所領を没収(改易)され、高野山の蓮華定院へ蟄居を命じられた 1 。
この事件を深く理解するためには、殺害された相手と、その動機について考察する必要がある。まず、被害者である「小栗三助」は、単なる同僚ではなかった。小栗氏は、徳川家康が三河時代から重用した譜代の名門であり、代々奉行職などを務めるエリート家臣団の一員であった 18 。つまり、康勝が斬った相手は徳川家中の「旧来のエリート」だったのである。これに対し、依田氏は武田旧臣であり、徳川家中にあっては「新参者」に分類される。その新参の家が、父の功績一つで松平姓を名乗り、譜代大名並みの大領を得ていることに対し、古くからの家臣団の中に嫉妬や反発がなかったとは考えにくい。この刃傷事件は、単なる個人の諍いという側面だけでなく、徳川家臣団内部に潜在していた新旧勢力の軋轢が表面化したものと捉えることができる。
次に、事件の動機については、二つの説が伝えられている。一つは、囲碁に負けた小栗が康勝を執拗に罵ったためというもの 1 。もう一つは、より具体的で、康勝が戦死した兄・康国の未亡人(大久保忠隣の娘)を妻に迎えたことを小栗に揶揄され、激高したというものである 1 。後者の説は、この事件をより根深い問題と結びつける。兄の死と、その未亡人を娶ることで家を継いだという事実は、康勝にとって家の名誉と兄の尊厳に関わる極めて繊細な問題であった。それを他者から、しかも譜代の名門である小栗家の者に嘲られたことは、康勝にとって耐え難い侮辱であったに違いない。この動機は、彼の行為が単なる短気による衝動的なものではなく、「家の名誉」を守るという武士の価値観に根差したものであった可能性を示唆しており、彼の人物像をより複雑にしている。
いずれにせよ、天下分け目の戦いを目前にした大坂で譜代の家臣を殺害した罪は重く、依田家は改易という最も厳しい処分を受けた。父・信蕃が築き、兄・康国が受け継いだ栄光は、康勝の代で、囲碁盤上の諍いをきっかけに脆くも崩れ去ったのである。
3万石の大名の地位から一転、所領を没収され高野山に蟄居する身となった蘆田康勝であったが、彼の人生はここで終わらなかった。父・信蕃が残した「信用の遺産」と、彼自身の武将としての能力が、絶望の淵から彼を救い出すことになる。
刃傷事件を起こした大名は、通常であれば切腹を命じられてもおかしくない状況であった 21 。しかし康勝は死罪を免れ、徳川家康の次男であり、勇猛で知られた結城秀康(後の松平秀康)の預かりの身となった 1 。これは、家康がかつての忠臣・依田信蕃の功績に報いるため、その息子に与えた最大限の温情措置であったと考えられる。同時に、家康とは独立した家臣団の形成を目指し、出自を問わず有能な人材を積極的に登用していた秀康が、康勝の武人としての器量を見抜き、家臣として迎え入れたいと望んだ結果でもあった。
こうして再起の機会を得た康勝は、世間を憚り、過去の罪を清算する意思を示すため、大きな決断を下す。父祖伝来の「依田」姓を捨て、母方の姓であった「加藤」を名乗り、名を「康寛(やすひろ)」、号を「宗月(そうげつ)」と改めたのである 1 。これは、過去の自分と決別し、新たな主君のもとで第二の人生を歩むという、彼の強い決意の表れであった。
新天地・越前において、加藤康寛(宗月)と名を変えた康勝は、再びその能力を発揮し、新主君・秀康の信頼を勝ち取っていく。
慶長6年(1601年)、秀康が関ヶ原の戦いの功により越前一国68万石に封じられると、康勝は秀康譜代の重臣である本多富正と共に、国府である北ノ庄城(後の福井城)受け取りの先遣隊という重責を担った 1 。これは、秀康が彼を単なる預かり人ではなく、信頼できる家臣として遇していたことの明確な証拠である。その後、康勝は美濃との国境に位置する軍事上の要衝、越前国大野郡木本(このもと)に5,000石の知行を与えられた 1 。3万石の大名から見れば大幅な減知ではあったが、浪人の身から一転して再び領主の地位を得たことは、彼の再起が順調に進んだことを示している。
同年、康勝は私財を投じて、故郷である信州春日城の麓に、非業の死を遂げた兄・康国の菩提を弔うため、康国寺を建立した 1 。これは、兄に対する深い贖罪の念と、自らが一度は汚した一族の歴史を大切に思う彼の心情を物語る行動である。
慶長11年(1606年)に主君・秀康が病没した際には、幕府は康勝を含む複数の福井藩重臣を名指しして、殉死を固く禁じた 1 。これは、彼がこの時点で既に福井藩の中枢を担う重臣の一人として、幕府からも認識されていたことを裏付けている。
慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂の陣では、福井藩の主力が大坂へ出陣する中、康勝は「大野郡は一向一揆が多発する地域である」という理由から、大野城代として領国の留守を任された 1 。これは、彼の軍事指揮官としての能力が高く評価され、国境の要衝の防衛という重要な任務を安心して任せられる存在であったことを示している。
晩年の康勝は、あるいはその遺志を継いだ子孫は、一族の歴史を後世に伝えるという極めて重要な事業に取り組んだ。それが、幕府の命によって編纂された家伝『芦田記』(または『依田記』)である 1 。
この書物は、祖父・蘆田信守、父・信蕃、兄・康国、そして編者である康勝自身(書中では康真と名乗る)に至るまでの、依田・蘆田一族の歴史を綴ったものである 1 。その成立は寛永20年(1643年)とされており、康勝の没後であるが、彼が生前にまとめた草稿が元になったと考えられている。
『芦田記』は単なる歴史の記録ではない。そこには、編者である康勝の強い意図が込められている。刃傷事件によって大名家としての家名を断絶させてしまった康勝が、父・信蕃の武田家への忠義と、それ以上に徳川家康への比類なき忠節と功績を強調することで、自らの過ちを覆い、一族の名誉を回復しようとしたのである。そして、福井藩士として存続する自家の「物語」を公式化し、その正当性を後世に伝えようとする、家の存続戦略の一環であったと解釈できる。それゆえに、記述には編者の主観が色濃く反映されている可能性は否定できない。しかし、当事者自らが綴った記録として、依田氏一族の動向、特に天正壬午の乱における活躍や、康勝自身の心境を窺い知る上で、他に代えがたい第一級の史料的価値を持つものである。
一度は全てを失った蘆田康勝であったが、その不屈の精神と政治的手腕によって成し遂げた再起は、彼一代で終わるものではなかった。彼が越前の地で築いた礎は、子孫の代で確固たるものとなり、福井藩の重臣として幕末まで続く家の繁栄へと繋がっていく。
康勝は元和9年(1623年)に50歳でその生涯を閉じたとされるが(没年には異説あり) 1 、彼の子孫は福井藩の中でその地位を確立していった。
康勝の家系は「芦田信濃家」と称され、福井藩内で家老職を輩出する家柄である「高知席」十七家の一角を占める名門として遇された 1 。これは、康勝が結城秀康に仕えて以来、代々藩主への忠勤に励み、その功績が認められた結果である。彼が最初に与えられた木本5,000石の知行は、その後の子孫の繁栄の確かな基盤となった。福井城の南、足羽川に面した一等地に広大な屋敷を構えていたことが当時の絵図から確認でき、その屋敷は福井城の南側を防備する出丸としての役割も担っていたとされ、芦田信濃家が藩内でいかに重要な軍事的・政治的地位を占めていたかが窺える 25 。
また、注目すべきは、越前に移った後、子孫は「依田」ではなく、一族のルーツである「蘆田(芦田)」姓を名乗るようになったことである 1 。これは、信濃の国人領主としての誇りを回復し、刃傷事件で汚された依田の名ではなく、より古い家名を用いることで、新たな土地で家の歴史を再構築しようとする意識の表れであったのかもしれない。一方で、康勝自身は生涯「依田」姓で通したという説もあり 1 、改名と復姓の経緯は複雑な様相を呈している。
蘆田康勝という人物を評価する際、その多面性を考慮する必要がある。彼は、囲碁の口論から同僚を殺害してしまう激しい気性の持ち主であったことは事実である。しかし同時に、改易という武士にとって最大の屈辱から自力で這い上がり、新天地で主君の信頼を勝ち取り、藩の重臣として確固たる地位を築き、子孫に家名を繋いだ粘り強さと優れた政治的手腕を併せ持っていた。父や兄の死、そして自らの過ちという数々の逆境を乗り越えたその生涯は、執念の人物としての評価を可能にする。
彼の生涯を追う上で、史料上の混乱も見られる。康勝は、康貞、康真、幸正など複数の別名で記録されている 1 。これは当時の武将には珍しくないが、特に「貞」と「真」は草書体(くずし字)では判別がつきにくく、誤読や誤記から生じた混乱の可能性が指摘されている 1 。彼自身が編纂に関わった『芦田記』では「康真」を名乗っており 1 、これが彼自身が公式な記録として後世に残そうとした名前であった可能性が高い。
最後に、彼の墓所については、明確な記録が見当たらない。兄・康国の墓所は、彼自身が建立した信濃の康国寺に現存する 3 。康勝の子孫は福井藩士として続いたため、彼自身の菩提寺も越前国内にあったと考えるのが自然である。一族の故地である信濃の光徳寺は、依田系芦田家の菩提寺ではあるが、康勝の改易後に庇護者を失って荒廃し、後年になって再建されたという経緯があり、康勝自身の直接の墓所とは考えにくい 26 。
蘆田康勝の生涯は、父・信蕃から受け継いだ「栄光」と、自らの過ちによる「転落」、そして不屈の精神による「再起」という、まさに劇的な三幕構成の物語であった。彼の人生は、戦国乱世の終焉と徳川幕府による新たな秩序形成という、激動の時代を象徴している。
第一に、彼の生涯は、武士社会における「家の威光」と「主君の恩情」の重要性を如実に示している。父・信蕃が徳川家康との間に築いた絶大な信頼関係がなければ、康勝が若くして3万石の大名になることも、同僚殺害という大罪を犯した後に死罪を免れ、再起の機会を与えられることもあり得なかった。彼の人生は、父の遺産に大きく依存していたのである。
第二に、彼の物語は、個人の資質と運命の交錯を描き出している。激しい気性は彼を転落させたが、その一方で、逆境に屈しない粘り強さと武将としての能力は、彼を再び表舞台へと引き上げた。徳川家康の温情と、新たな主君・結城秀康の慧眼という幸運に助けられながらも、最終的に家の存続を勝ち取ったのは、彼自身の執念であった。
依田から松平、そして加藤へと名を変え、その子孫が芦田として繁栄したその軌跡は、康勝の波乱に満ちた生涯そのものを象徴している。彼は、戦国から江戸へと移行する過渡期において、武士がいかにして「家の存続」という至上命題と向き合い、栄光と挫折、忠義と激情の間で揺れ動きながら自らの道を切り拓いていったかを示す、示唆に富んだ好個の一例である。その数奇な運命は、歴史の大きなうねりの中で生きた一人の人間の、力強くも人間臭いドラマとして、後世の我々に多くのことを語りかけてくれる。