蜂須賀正利
蜂須賀正利は徳島藩祖・正勝の父。尾張の国人領主で、織田信秀に追われ流浪するも、川並衆との繋がりを維持。その人的ネットワークが、息子の蜂須賀家飛躍の礎となった。
蜂須賀正利 ― 徳島藩祖の父、尾張国人領主の実像
序章:歴史の影に立つ男、蜂須賀正利
豊臣秀吉の股肱の臣として、また阿波徳島藩25万石の家祖として、蜂須賀正勝(小六)の名は戦国史において絶大な知名度を誇る 1 。墨俣一夜城の伝説から、秀吉の天下統一事業を支えた数々の武功、そして阿波一国を与えられようとした際に「友として側に仕えたい」と固辞した逸話に至るまで、その生涯は多くの物語で彩られてきた 2 。
しかし、その輝かしい功績の陰には、常に一人の人物の存在があった。それが彼の父、蜂須賀正利である。歴史の表舞台に立つ正勝の影に隠れ、その人物像は断片的な史料の中にしか見出すことができない。彼は尾張の片田舎を領した一介の国人領主であり、その生涯は息子のそれとは対照的に、成功よりもむしろ苦難と流転の連続であった。
だが、この蜂須賀正利という人物を抜きにして、蜂須賀家の飛躍を語ることはできない。なぜ蜂須賀正勝は、一介の土豪から秀吉の天下取りに不可欠なパートナーとなり得たのか。その背景には、父・正利が激動の時代を生き抜き、次代へと遺した有形無形の資産があった。本報告書は、点在する史料の断片を丹念につなぎ合わせ、錯綜する伝承を批判的に検証することで、徳島藩蜂須賀家の礎を築いた国人領主・蜂須賀正利の生涯と、彼が生きた時代の真実に迫ることを目的とする。
第一部:蜂須賀氏の源流と尾張の風土
第一章:出自をめぐる伝承と現実
1-1. 清和源氏斯波氏支流説の形成
江戸時代に入り、大名家の家格が固定化される中で、各家は自らの出自を権威づける系譜を整備した。徳島藩主となった蜂須賀家も例外ではない。新井白石が編纂した『藩翰譜』や、江戸幕府による公式系譜集である『寛政重修諸家譜』などによれば、蜂須賀氏は清和源氏足利氏の支流であり、室町幕府の三管領家の一つに数えられた名門、尾張守護・斯波氏の末裔を称している 4 。
この系譜によれば、蜂須賀氏は斯波義重が尾張守護として入国した際に従い、尾張国海東郡蜂須賀村(現在の愛知県あま市)に土着し、代々その地を領したとされる 4 。これは、近世大名となった蜂須賀家が、かつての領国の支配者であった名門・斯波氏に自らを接続することで、その出自に箔をつけ、支配の正当性を補強しようとした意図の表れと考えられる。
1-2. 斯波氏支流説の信憑性検証
しかし、この斯波氏支流説に対しては、多くの歴史家が疑問を呈しており、蜂須賀氏の出自に関する確証はいまだ得られていないのが現状である 5 。大名家が権威付けのために系譜を創作・潤色することは珍しいことではなく、蜂須賀家のケースもその一つと見なされている。
この説を補強する具体的な伝承として、『蜂須賀家記』には興味深い記述が見られる。それによれば、正利の母(すなわち正利の父・正成の妻)である恵林禅尼は、もともと斯波家に仕える女性(名を片野)であったが、懐妊した状態で正成に嫁ぎ、正利を生んだ。このため、正利は斯波氏の血を引いているのだ、というものである 8 。この物語は、系譜を正当化するための物語装置として、後世に付加された可能性が極めて高い。それは、蜂須賀家が自らの出自をいかにして権威あるものに見せようと腐心したかの証左とも言えるだろう。
1-3. 国人領主としての蜂須賀氏
こうした権威的な系譜とは別に、より現実的な蜂須賀氏の姿は、尾張国海東郡蜂須賀村に根を張った在地領主、すなわち国人あるいは土豪であった 4 。彼らは鎌倉時代からこの地に住んでいたとも伝わり、戦国期には蜂須賀城と呼ばれる居館を構えていた 9 。
正利の祖父・正永や父・正成の代までは、名目上は尾張守護である斯波氏に仕えていたとされる 4 。しかし、応仁の乱以降、斯波氏の権威は失墜し、尾張国内では守護代の織田氏が実権を掌握し、さらにその織田氏内部でも激しい権力闘争が繰り広げられる状況であった 12 。このような権力の空白地帯にあって、蜂須賀氏は次第に自立性を強め、独自の勢力を形成していったと推察される。彼らのアイデンティティは、公式に標榜された「高貴な血筋」という建前と、在地に根差した「実力者」という現実の二重構造によって成り立っていたのである。
第二章:木曽川と「川並衆」
2-1. 尾張・美濃国境地帯の地理的特性
蜂須賀氏の本拠地であった蜂須賀村が位置する尾張国北西部は、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が形成した広大な濃尾平野の扇状地末端にあたる。この地域は、古来より木曽川の複数の派川が網の目のように流れる、交通の要衝であった 13 。同時に、ひとたび大雨が降れば洪水が頻発する治水の難所でもあった。
この地理的条件は、この地域に生きる人々の性格を大きく規定した。彼らは水運を巧みに利用して経済活動を行う一方で、水害から身を守るための高度な土木技術や共同体を育んだ。そして、このような環境の中から、河川交通を掌握し、地域社会に強い影響力を持つ在地勢力が台頭することになる。蜂須賀氏もまた、そうした勢力の一つであった。
2-2. 「川並衆」の実態と蜂須賀氏
江戸時代に成立した軍記物『武功夜話』には、「川並衆(かわなみしゅう)」と呼ばれる集団が登場する。これは、木曽川流域に住む水運業者、地侍、野武士などを束ねた一種の同盟的組織として描かれている 15 。彼らは平時には船を使った運輸業に従事し、戦時には団結して軍事力として機能した。蜂須賀氏はその頭領格であり、この「川並衆」こそが、一族の軍事力と経済力の源泉であったとされている 16 。
このネットワークを通じて、蜂須賀氏は同じく尾張出身で後に秀吉の重臣となる前野長康や生駒親正といった国人たちとも連携を深めていた可能性が指摘されている 15 。彼らは単なる小領主ではなく、国境地帯の広域ネットワークを動員できる、侮れない実力者集団だったのである。
ただし、「川並衆」という呼称自体は、史料的価値に議論のある『武功夜話』に特有のものであり、同時代の他の一次史料には見られない 15 。そのため、その組織の実在性や規模については慎重な検討が必要である。しかし、呼称はどうであれ、木曽川流域の国人たちが、水運の利権や地域の防衛のために何らかの協力関係、すなわち「川筋のネットワーク」を形成していたことは十分に考えられる。蜂須賀正利が率いたのは、まさにこのような土着の現実的な力であった。そしてこの力こそが、後に息子・正勝が墨俣一夜城の築城という難事業を成し遂げる際の、人的・技術的資源となったのである。
第二部:蜂須賀正利の生涯
第一章:国人領主としての正利
1-1. 生没と名乗り
蜂須賀正利の生年は詳らかではないが、その死は天文22年2月25日(西暦1553年4月7日)と記録されており、これは確度が高い 4 。彼は、蜂須賀正成の次男として生を受けた 4 。
通称として「小六(小六郎)」、「蔵人(くろうど)」、「彦右衛門(ひこえもん)」などが伝わっている 4 。特に「小六」は、息子・正勝の通称としてあまりに有名であるため、父子の間で混同が生じている可能性がある。しかし、複数の資料で正利の通称としても記されていることから、もともとは正利が用いていたか、あるいは蜂須賀家で代々受け継がれた通称であった可能性も考えられる。後世、息子の輝かしい名声が、父のそれを覆い隠す形で記憶されていった結果かもしれない。
また、蜂須賀氏はその時々の政治的情勢に応じて姓を巧みに変えている。『蜂須賀家記』によれば、当初は「濱氏」を名乗り、後に美濃の斎藤氏に従属した際に主君の名を借りて「斎藤氏」を称した。そして、本拠地である蜂須賀村の領主として定着してから、地名を家名として「蜂須賀氏」を名乗るようになったという 4 。これは、自らの立場を有利にするための、戦国武将らしい現実的な処世術の一端を示している。
1-2. 所領「百貫~二百貫」の価値
正利の所領規模については、史料によって記述に差異が見られる。『藩翰譜』では「蜂須賀100貫の地を知行」とある一方、『蜂須賀家記』では「蜂須賀村に200貫の知行を得て」と記されている 4 。
当時の東国で用いられた知行高の表示法である「貫高制」は、土地の収穫量を米の量(石高)ではなく、銭の量(貫文)で評価するものである 20 。貫高と石高の換算率は地域や時代によって変動するが、おおむね1貫文が米2石から3石に相当したとされる 22 。この換算率を当てはめると、正利の所領200貫文は、およそ400石から600石程度の規模に相当したと推定できる。
これは、10人から20人程度の家臣(被官)を率いて合戦に臨むことができる規模であり、決して大名ではないものの、地域社会において無視できない影響力を持つ「国人領主」としての実態を具体的に示している 25 。彼らは平時には農業経営に携わり、いざ合戦となれば自ら武装し、配下の者たちを引き連れて参陣する、兵農未分離の時代の典型的な武士であった。
第二章:激動の渦中で
2-1. 主家の変転 ― 斯波氏から斎藤氏へ
正利が生きた16世紀前半の尾張は、まさに下剋上の嵐が吹き荒れる激動の時代であった。長らく尾張を支配してきた守護・斯波氏は完全に権威を失い、その下で実力を蓄えた守護代の織田氏が台頭していた。しかし、その織田氏も岩倉織田氏(伊勢守家)と清洲織田氏(大和守家)に分裂して抗争を繰り広げ、国内は混乱の極みにあった 12 。
このような状況下で、蜂須賀氏のような国人領主は、生き残りのために常に情勢を見極め、有利な主君を選択する必要に迫られた。蜂須賀氏が本拠を構える尾張北西部は、美濃国と国境を接している。美濃では、「マムシ」の異名をとる斎藤道三が下剋上によって国主の座を奪い、強大な権勢を誇っていた。蜂須賀正利は、衰退する斯波氏や内紛を続ける尾張の織田氏ではなく、隣国で勢威を振るう斎藤道三に従属する道を選んだ 5 。これは、自らの所領と一族の安全を確保するための、極めて現実的な政治判断であったと言える。
2-2. 織田信秀との対立と流転
しかし、尾張国内では清洲三奉行の一人にすぎなかった織田信秀(信長の父)が急速に台頭し、尾張統一へと乗り出す。信秀の勢力拡大は、必然的に美濃の斎藤道三との間で激しい覇権争いを引き起こした。尾張と美濃の国境地帯に位置する蜂須賀氏は、この二大勢力の衝突の最前線に立たされることになった。
史料によれば、正利は一時期、織田信秀に従ったことがあるという 7 。しかし、何らかの理由で信秀と不和になり、対立。その結果、天文年間(1532年~1555年)に、先祖代々の本拠地である蜂須賀城を信秀によって追われるという事態に陥った 7 。
故郷を失った正利は、当時まだ幼かった息子・正勝を連れて、妻の実家があったとされる尾張国丹羽郡宮後村の宮後城(現在の愛知県江南市)へと落ち延びた 7 。そして、そこで再び斎藤道三の庇護を求めたのである。この一連の出来事は、戦国中期の国人領主が、より強大な戦国大名の勢力争いの間でいかに翻弄され、淘汰されていったかを示す典型的な事例である。正利の生涯は、まさに下剋上の時代の「生き残りのための綱渡り」そのものであり、彼の選択と失敗は、個人の資質の問題以上に、尾張という地域の地政学的な力学によって規定されていたのである。
第三章:死とその後
本拠地を追われ、流寓の身となった蜂須賀正利は、天文22年(1553年)にその生涯を閉じた。戒名は「秀月正定禅門」という 4 。彼の死は、織田信秀に敗れ、蜂須賀の地を追われた直後か、あるいは宮後村に移り住んで間もない頃の出来事であった。
その亡骸がどこに葬られたか明確ではないが、位牌は紀州の高野山光明院に納められたと伝わる 4 。高野山は多くの戦国武将が菩提寺を置いた聖地であり、蜂須賀家もまた、後に大名として繁栄する中で、一族の霊をこの地に祀ったのであろう。また、故郷である蜂須賀村に現存する一族の菩提寺・蓮華寺には、現在、息子・正勝や孫・家政と共にその墓碑が建てられ、祀られている 8 。故郷を追われた悲運の当主は、後世、英雄となった子孫と共に、その地に名を留めることとなったのである。
第三部:正利をめぐる人間模様
第一章:正室・側室をめぐる謎
蜂須賀正利の家族構成、特に息子・正勝の生母が誰であったかについては、史料によって記述が異なり、謎に包まれている。この問題は単なる系図上の詮索に留まらず、蜂須賀家が後に飛躍するに至った人的ネットワークの源流を探る上で、重要な意味を持つ。
1-1. 史料間の相違
徳島藩の公式記録である『蜂須賀家記』や、それに類する系図では、正利の正室として高岸氏の娘(法名:高岸宗養禅定尼)、継室として大橋定広の娘が記されている 4 。しかし、最も重要な人物であるはずの嫡男・正勝の生母については、「某氏」と記されるのみで、その出自は明確にされていない 3 。これは、大名となった蜂須賀家にとって、正勝の母方の出自が、公式に喧伝するには何らかの不都合があったか、あるいはもはや重要性を失っていたことを示唆している。
一方で、史料的価値について議論はあるものの、戦国期の尾張地域の情勢を詳細に伝える軍記物『前野文書(武功夜話)』には、異なる記述が見られる。そこでは、正利が落ち延びた宮後城の城主・安井弥兵衛重幸の娘、通称「安井御前」が正利に嫁ぎ、正勝を生んだと明確に記されているのである 4 。
1-2. 「安井御前」の実在性
「安井御前」という名は、主に『武功夜話』に依拠するものであり、藩の公式記録には一切登場しない 4 。この一点をもって、その存在を架空のものとする見方も可能である。
しかし、複数の史料や伝承が、正利親子が織田信秀に追われた際に宮後城の安井氏を頼ったことを示唆している点は見逃せない 8 。窮地に陥った武将が身を寄せる先として、姻戚関係にある家を選ぶのは自然なことであり、蜂須賀家と安井家の間に何らかの強い繋がり、おそらくは婚姻関係があった可能性は非常に高い。
さらに、この安井家との繋がりは、後の歴史に大きな影響を与える。安井御前の兄弟(安井重継)の子が、後に豊臣政権の五奉行の一人となる浅野長政であるとされ、正勝と長政は従兄弟の関係にあたるという 3 。この人的ネットワークこそ、蜂須賀家が尾張・美濃の国人領主層の中で確固たる地位を築き、後に秀吉に重用される大きな要因となった可能性がある。公式記録が曖昧にする「安井家」との繋がりこそ、蜂須賀家飛躍の秘密を解き明かす鍵かもしれないのである。
1-3. 錯綜する情報の整理と考察
蜂須賀正利の妻をめぐる情報は、このように史料間で錯綜している。以下に、主要な史料の記述を整理し、比較検討する。
史料名 |
記述されている妻の出自 |
正利との関係 |
正勝の生母か否か |
史料の性格と信憑性評価 |
『蜂須賀家記』 |
高岸氏の娘 |
正室 |
不明(×の可能性) |
徳島藩の公式記録。家格を整えるための改変を含む可能性あり。 |
|
大橋定広の娘 |
継室 |
不明(×の可能性) |
同上。『大橋家譜』では正勝の母とする 4 。 |
|
某氏(上記以外の女性) |
不明 |
〇 |
藩の記録が敢えて出自を伏せた可能性を示唆する。 |
『前野文書(武功夜話)』 |
安井弥兵衛重幸の娘 |
不明(最初の妻か) |
〇 |
江戸期の軍記物語。信憑性に議論があるが、在地情報に富む。 |
この表から浮かび上がるのは、藩の公式な「顔」としての系譜と、在地に伝わる「実態」としての伝承の間の乖離である。「安井御前」が実在したかどうかの最終的な確定は困難である。しかし、蜂須賀家が宮後村の安井家と深い関係にあったという事実は、正利の代に築かれた最も重要な無形の資産であった。正利が織田信秀に敗れて本拠を失った後、一族が離散せずに再起の基盤を維持できたのは、この婚姻関係によるネットワークがあったからに他ならない。
第二章:子孫たち
2-1. 嫡男・蜂須賀正勝
正利の嫡男・正勝は、大永6年(1526年)、蜂須賀村の蜂須賀城で誕生した 8 。幼名を鶴松といった 8 。父・正利と共に故郷を追われ、宮後村で多感な時期を過ごした。父の死後、蜂須賀家の家督を継ぎ、苦難の中から身を起こし、やがて歴史の表舞台へと駆け上がっていくことになる。
2-2. その他の子女
史料には、正勝の他にも複数の兄弟姉妹がいたことが記録されている。弟として、又十郎、正信、正元らの名が見える 3 。また、娘の墨は織田喜七郎に嫁ぎ、別の娘は梶浦雅範に嫁いだという 3 。
これらの子女の存在は、蜂須賀家が単独で孤立していたのではなく、兄弟の分家や婚姻関係を通じて、周辺の国人領主たちと重層的なネットワークを形成していたことを示している。特に、弟の正元は兄・正勝と共に秀吉に仕え、伊勢長島一向一揆との戦いで討死したと伝わる 30 。こうした一族の結束が、蜂須賀家の力を支える重要な基盤となっていたのである。
第四部:歴史的遺産 ― 蜂須賀家飛躍の礎として
第一章:父から子へ ― 無形の遺産
蜂須賀正利が息子・正勝に遺した最大の資産は、目に見える領地や財産ではなかった。彼は本拠地を失い、失意のうちに生涯を終えた。しかし、彼が築き、そして苦難の中でも維持し続けた「人的ネットワーク」と「在地における信用」という無形の遺産こそが、蜂須賀家を近世大名へと押し上げる原動力となった。
1-1. 秀吉との繋がり
後の天下人・豊臣秀吉と蜂須賀家の最初の接点についても、正利の時代に遡る可能性がある。『武功夜話』などの記録によれば、秀吉の父・木下弥右衛門は、蜂須賀正利の配下であったという説が存在する 2 。この説の真偽を確定することは困難であるが、全くの創作とも言い切れない。秀吉がまだ無名の若者であった頃、立身出世の足がかりを求めて、同郷の尾張で実力者として知られていた蜂須賀氏を頼ったとしても不思議はない。たとえ直接の主従関係がなかったとしても、同じ尾張の国人社会に生きた者として、何らかの地縁や人的な繋がりが存在した可能性は高い。
1-2. 墨俣一夜城と川並衆ネットワーク
息子・正勝の名を天下に知らしめた最初の大きな功績は、永禄9年(1566年)の墨俣一夜城の築城である 2 。織田信長の重臣たちがことごとく失敗したこの難事業を、当時まだ信長の家臣団の中では新参者であった木下藤吉郎(秀吉)が見事に成功させた。この成功の裏には、正勝率いる在地勢力の全面的な協力があった。
この逸話は、蜂須賀家の真の力の源泉が何であったかを雄弁に物語っている。湿地帯での築城という困難な任務を短期間で成し遂げるには、現地の地理を熟知し、高度な土木技術を持ち、さらに多くの労働力を動員できるネットワークが不可欠であった。それこそが、父・正利の代から蜂須賀家が掌握してきた「川並衆」の力だったのである 18 。正利が築き、維持してきた在地勢力との強固な繋がりという無形の資産が、息子の代で歴史を動かす大きな成果として結実した瞬間であった。正勝は父の遺産を最大限に活用し、秀吉という新たな時代の潮流に乗ることで、父が成し得なかった飛躍を遂げたのである。
第二章:一国人領主から近世大名へ
蜂須賀正利が没した天文22年(1553年)から、孫の蜂須賀家政が豊臣秀吉から阿波一国を与えられ、徳島藩祖となる天正13年(1585年)まで、わずか32年。この短期間に、蜂須賀家は一介の国人領主から25万石を領する近世大名へと、劇的な階層上昇を遂げた 1 。
この飛躍の主役が、秀吉の与力として数々の戦功を挙げた正勝であったことは間違いない 3 。彼は姉川の戦い、天王寺合戦、中国攻め、山崎の戦いなど、秀吉の主要な合戦のほとんどに参加し、武勇と知略の両面で主君を支え続けた 8 。
しかし、この目覚ましいサクセスストーリーは、正勝個人の才覚のみによって成し遂げられたものではない。その全ての前提として、父・正利の存在があった。正利は、戦国の過渡期にあって旧勢力と新興勢力の狭間で翻弄され、結果として本拠地を失うという苦杯をなめた。しかし彼は、その苦境の中にあっても、一族と家臣団、そして在地社会とのネットワークという、国人領主としての最も重要な基盤を解体させることなく、次代へと引き継いだ。この土台があったからこそ、正勝は新たな時代の覇者・秀吉の下でその能力を存分に発揮し、一族を大名の高みへと導くことができたのである。
結論:蜂須賀正利の再評価
蜂須賀正利は、その名を歴史に深く刻んだ息子・正勝や孫・家政の経歴の、単なる序章としてのみ語られがちである。しかし、本報告書で詳述してきた通り、彼自身の生涯もまた、戦国時代中期の国人領主が直面した苦悩と選択、そして時代の変化を体現する、極めて興味深い研究対象である。
彼は、旧来の権威であった守護・斯波氏が崩壊し、新たな実力者である織田氏と斎藤氏が国境地帯で激しく覇を争うという、まさに時代の転換点に生きた。その中で一族の存続を賭して奔走し、主君を変え、敵対勢力と戦い、そして敗れた。その生涯は、下剋上の波に飲まれていった無数の地方領主の一つの典型例と言えるかもしれない。
しかし、彼は単なる敗者ではなかった。本拠地を失うという最大の危機に瀕しながらも、彼は国人領主としての核である「人と人との繋がり」—すなわち、一族家臣団の結束と、在地社会における信用ネットワーク—を失わなかった。そして、この無形の資産を次代の正勝へと確かに引き継いだ。この遺産こそが、蜂須賀家が後に豊臣政権下で大名へと飛躍するための、決定的な礎となったのである。
したがって、蜂須賀正利は、単に「徳島藩祖の父」という血縁上の存在として記憶されるべきではない。彼は、旧時代の在地領主から新時代の近世大名へと至る、蜂須賀家の劇的な社会階層の転換を準備した「過渡期の人物」として、歴史上、正当に再評価されるべきである。彼の苦難に満ちた生涯は、一つの家の勃興が、著名な英雄一人の力だけでなく、その陰で時代と格闘し、次代への橋を架けた無数の人々の営みの上に成り立っているという、歴史の深遠な真実を我々に教えてくれる。
引用文献
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- 秀吉の右腕であり夜盗の親玉?蜂須賀正勝「戦国武将名鑑」 - Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57734
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- 戦国大名の経済事情 | 戦国の戦陣と領地統治 - 吾妻の歴史を語る https://denno2488.com/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%88%A6%E9%99%A3%E3%81%A8%E9%A0%98%E5%9C%B0%E7%B5%B1%E6%B2%BB/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%90%8D%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E4%BA%8B%E6%83%85/
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- 蜂須賀城の見所と写真・200人城主の評価(愛知県あま市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/664/
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- 蜂須賀小六 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/hachisuka.html
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- 徳島藩家臣のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/han/han_tokusima.html