本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて、北の雄藩・松前藩の基盤確立に不可欠な役割を果たした人物、蠣崎吉広(かきざき よしひろ、生年不詳〜正保2年(1645年))の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。彼の生涯は、藩主を支える一門衆、すなわち「藩屏(はんぺい)」がいかにして藩の安定と発展に寄与したかを示す好例であり、松前藩の草創期を理解する上で極めて重要な視座を提供するものである。
歴史を紐解く上で、まず人物の特定が不可欠となる。蠣崎・松前家には同名の人物が複数存在し、特に「義広(よしひろ)」や「慶広(よしひろ)」という名は混同を招きやすい 1 。例えば、吉広の祖父も蠣崎義広(1479-1545)であり 4 、父・季広の読みも「すえひろ」であるが、時に「よしひろ」と誤読される可能性も否定できない。本報告書が対象とするのは、蝦夷地を統一し、後の松前藩の礎を築いた蠣崎季広(すえひろ、1507-1595)の九男であり、初代松前藩主・松前慶広(よしひろ、1548-1616)の実弟にあたる、正保2年(1645年)に没した蠣崎吉広である 2 。この点を明確に定義し、歴史的文脈の正確な再構築を目指す。
この名前の混同は、単なる偶然や記録の誤謬ではない。それは、当時の武家社会における命名慣習、すなわち父や主君から諱の一字を拝領する慣わしを色濃く反映している。同時に、松前藩のような辺境に位置する大名の初期史料が、しばしば断片的であり、後世に編纂された『新羅之記録』のような記録に大きく依存せざるを得ないという史料的制約を象徴している 5 。特に藩主以外の人物、とりわけ家臣団に関する記録は乏しく、その生涯を再構築するには、散在する断片的な情報を丹念に繋ぎ合わせ、その背後にある政治的・社会的文脈を深く読み解く分析が不可欠となる。本報告書は、こうした歴史研究の困難性を認識しつつ、蠣崎吉広という一人の武将の生涯を多角的に照射することで、松前藩成立期のダイナミズムを明らかにしようとする試みである。
蠣崎吉広の生涯を理解するためには、彼が生まれた蠣崎氏が、いかにして蝦夷地(現在の北海道)に根を張り、勢力を拡大していったのか、そして彼が置かれた複雑な家族関係と時代のうねりを把握する必要がある。
蠣崎氏の出自については諸説あるが、松前藩の公式な記録では、若狭国守護であった武田氏の一族、武田信広を祖とするとされている 9 。信広は15世紀半ばに蝦夷地へ渡り、当時、和人(本州から渡来した日本人)とアイヌ民族との間で緊張が高まる中、その武才を発揮した。
決定的な転機となったのが、康正3年(1457年)に発生したアイヌ民族による大規模な蜂起、いわゆる「コシャマインの戦い」である 9 。この戦いで和人の館が次々と陥落する中、信広は劣勢を覆し、首長コシャマイン父子を討ち取るという大功を立てた。この功績により、信広は蝦夷地にいた和人領主たちの間で指導的地位を確立し、蠣崎氏を継承することで、その後の勢力拡大の礎を築いた。
当初、蠣崎氏は津軽海峡を挟んで勢力を有していた安東氏の代官という立場にあった 15 。安東氏は「蝦夷管領」として蝦夷地に対する影響力を保持しており、蠣崎氏はその支配下で現地を統治する存在であった 17 。しかし、蠣崎氏は巧みな外交と経済政策によって徐々に実力を蓄え、安東氏からの自立性を高めていく。この流れは、吉広の兄・慶広の代に豊臣・徳川という中央政権と直接結びつくことで、名実ともに独立大名として認められるという形で結実するが、その下地は信広以来、代々の当主によって着実に築かれていたのである 19 。
蠣崎吉広の父は、蠣崎氏5代当主の季広(すえひろ、1507-1595)である。季広は、父・義広(よしひろ、1479-1545)の時代まで続いていたアイヌとの武力闘争路線を大きく転換させた人物として知られる 7 。彼は、天文18年(1549年)頃、東西のアイヌの有力な首長と和睦を結び、交易を基盤とした安定的な関係を構築することに成功した 1 。この和睦の際に定められたとされる「夷狄之商舶往還之法度(いてきのしょうはくおうかんのはっと)」は、蠣崎氏がアイヌとの交易を独占管理する体制の原型となり、後の松前藩の特異な経済構造を方向づける重要な一歩であった 1 。季広は、武力ではなく経済と外交によって蝦夷地における支配権を盤石なものとし、蠣崎氏の繁栄の基礎を築いたのである 21 。
一方で、季広の家庭環境は極めて複雑であった。彼は非常に多くの子女に恵まれ、記録によれば息子だけでも13人、娘も多数いたことが確認されている 2 。この中で、本報告書の主題である吉広は「九男」という立場であった 2 。
この「九男」という生まれは、彼の生涯を規定する決定的な要因であった。戦国時代から江戸初期にかけての武家社会では、家督は長男が継ぐのが原則であり、次男以下、特に序列の低い男子の将来は極めて限定されていた。彼らの進む道は、主に他家への養子、仏門への出家、あるいは宗家を支える有力家臣として分家を立てるかのいずれかであった。家督相続の可能性が事実上皆無である吉広にとって、自らの才覚と努力で道を切り拓くことはもちろん、一族の存続と繁栄という大局の中で、自らに与えられた役割を全うすることが求められた。この生まれながらの制約こそが、彼が後に兄・慶広の「仮養子」となり、生涯を藩主の補佐役として捧げるというキャリアパスを、ある意味で必然的なものとしたのである。彼の人生は、個人の野心や栄達よりも、蠣崎家という一族全体の安泰に奉仕する「藩屏」としての役割を、生まれた時から運命づけられていたと言っても過言ではない。
以下の表は、蠣崎季広の膨大な子女の一部をまとめたものである。これにより、吉広が置かれた家族内での位置づけをより明確に理解することができる。
続柄 |
氏名 |
生没年 |
備考 |
出典 |
長女 |
(名不詳) |
不明 |
南条広継 正室 |
2 |
長男 |
蠣崎舜広 |
1539-1561 |
永禄4年(1561年)に毒殺されたとされる。 |
7 |
次男 |
明石元広 |
1540-1562 |
明石季衡の養子。兄に続き永禄5年(1562年)に毒殺されたとされる。 |
7 |
三男 |
松前慶広 |
1548-1616 |
蠣崎氏5代当主、松前藩初代藩主。 |
3 |
四男 |
蠣崎随良 |
不明 |
法源寺住持。 |
7 |
五男 |
蠣崎正広 |
1557-1586 |
正広系蠣崎家の初代。 |
7 |
六男 |
蠣崎長広 |
不明 |
長広系蠣崎家の初代。 |
7 |
七男 |
蠣崎定広 |
不明 |
通称は但馬守。 |
7 |
八男 |
蠣崎包広 |
不明 |
早世。 |
2 |
九男 |
蠣崎吉広 |
?-1645 |
本報告書の主題。吉広系蠣崎家の初代。 |
2 |
十男 |
蠣崎仲広 |
1561-1581 |
|
7 |
十一男 |
蠣崎守広 |
1564-1635 |
守広系蠣崎家の初代。 |
2 |
十二男 |
蠣崎員広 |
不明 |
員広系蠣崎家の初代。 |
2 |
十三男 |
蠣崎貞広 |
不明 |
兄・正広の養子となる。 |
7 |
女子 |
(複数名) |
不明 |
下国師季、喜庭季信、小平季遠、安東茂季、村上忠儀など、周辺の有力豪族や家臣に嫁ぐ。 |
2 |
注:子女の数や順序には諸説あり、上記は代表的な記録に基づく。
吉広の兄である慶広(よしひろ、当初は蠣崎姓)が家督を継いだ経緯は、平穏なものではなかった。永禄4年(1561年)に長兄の舜広、翌年には次兄で明石家の養子となっていた元広が、相次いで不審な死を遂げた 24 。『新羅之記録』などによれば、これは姉(南条広継室)による毒殺であったとされ、この家督を巡る内紛の結果、三男であった慶広が後継者の地位に就くこととなった 24 。このような血腥い事件を経て成立した慶広の政権は、当初からその基盤が脆弱であり、家中の引き締めと権威の確立が急務であった。この不安定な状況が、後に弟である吉広の役割を極めて重要なものとする背景となる。
慶広は、父・季広が築いた交易基盤と外交路線をさらに発展させ、激動する中央政局を巧みに利用した。天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原征伐を終え、奥州仕置を行うと、慶広は主家である安東実季に帯同して上洛し、前田利家らの斡旋を得て秀吉に謁見する機会を得た 26 。これにより所領を安堵されると共に、従五位下・民部大輔に叙任され、名実ともに安東氏から独立した大名としての地位を公認されたのである 24 。
秀吉の死後は、速やかに徳川家康に接近し、慶長4年(1599年)には蝦夷地の地図や家譜を献上して臣従の意を示した 24 。この時、家康の許しを得て、姓を「蠣崎」から「松前」へと改めた 24 。そして慶長9年(1604年)、家康からアイヌ交易の独占権を認める黒印状を拝領し、ここに米の収穫高(石高)ではなく、交易権を知行の根幹とする特異な大名、松前藩が正式に成立した 3 。吉広は、この兄が成し遂げた一連の偉業を、最も近い親族として見届け、そして支えることになるのである。
蠣崎吉広の生涯において、最も特異かつ重要な経歴が、兄である松前慶広の「仮養子」となったことである。これは単なる家族内の形式的な手続きではなく、成立間もない松前藩の存亡を賭けた、高度な政治的意味合いを持つ戦略であった。
史料によれば、吉広は兄・慶広の「仮養子」になったと明確に記されている 2 。この「仮養子」という制度が具体的に何を意味したのかを理解するためには、当時の武家の後継者制度を考慮する必要がある。江戸時代の武家社会では、当主が跡継ぎのないまま病などで死の淵に立った際に、家の断絶を防ぐために急遽養子を迎える「末期養子(まつごようし)」が、条件付きで認められていた 31 。また、当主が若くして亡くなり、その子が幼い場合には、当主の弟などが一時的に家督を継ぎ、甥を自らの養子として後継者とする「順養子(じゅんようし)」という慣行も存在した 32 。これは、幼君を立てることによる家中の混乱や、外部からの干渉を防ぐための知恵であった。
吉広が慶広の仮養子となった背景には、まさにこうした危機管理の思想があったと考えられる。第一章で述べた通り、慶広は兄二人を暗殺という異常事態の末に家督を継いだ。彼自身がいつ政敵の刃に倒れてもおかしくないという緊張感が、常に藩内に漂っていたはずである。このような脆弱な権力基盤の中、万が一慶広に不慮の事態が起きた場合、藩は後継者不在という最大の危機に直面する。
この危機を回避するための策こそが、吉広の「仮養子」縁組であった。この措置には、二重の政治的意図が込められていた。第一に、万が一慶広が暗殺されても、即座に成人した後継者(吉広)が家督を継承できるという体制を内外に示すことで、家臣団の動揺を抑え、外部勢力(例えば、依然として影響力を保持していた旧主家の安東氏など)の介入を防ぐという抑止力としての機能である。第二に、慶広に嫡男が誕生し、無事に成長して家督を継げるようになるまでの「中継ぎ」として、血縁が最も近く、信頼のおける実弟を後継者として指名することで、権力基盤を一時的に、しかし確実に盤石にするという目的である。
このように、吉広の仮養子縁組は、単なる家族内の取り決めではなく、成立間もない松前藩の存続を賭けた、極めて戦略的な危機管理策であった。それは、兄たちの死という悲劇を乗り越え、北の辺境で独立を維持しようとする慶広の、冷徹な政治的判断と、弟・吉広への深い信頼を示す重要な事例と言える。
「仮養子」という立場にあった吉広は、兄・慶広の外交活動においても重要な役割を果たした。彼は、松前家が中央政権から公的な認知を得るための重要な場面に、後継者として同行している。
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)のために肥前国名護屋に陣を構えると、慶広はこれに参陣し、秀吉に拝謁した。この時、吉広も慶広に同行していたことが記録されている 27 。秀吉は、はるか北の「狄の千島の屋形」が馳せ参じたことを大いに喜び、慶広に蝦夷地における交易の独占権を認める朱印状を与えた 24 。この拝謁は、松前氏が名実ともに安東氏の支配下から脱し、豊臣政権に直属する大名として公認された決定的な瞬間であった。この歴史的な場に、後継者たる吉広が同席していたことは、松前家の後継体制が盤石であることを天下に示すための、計算された政治的デモンストレーションであった。
時代の転換点においても、吉広の役割は変わらなかった。慶長3年(1598年)に秀吉が死去し、天下の情勢が徳川家康へと傾くと、慶広はすぐさま家康に接近する。そして、関ヶ原の合戦が終結した直後の慶長5年(1600年)3月15日、慶広は弟の「作左衛門吉広」と共に大坂城の西の丸にて家康に拝謁し、服属の意を表明した 27 。この時、吉広は「作左衛門」という通称で記録されており、これが史料上で確認できる彼の具体的な活動の初見の一つである 34 。
この拝謁もまた、松前氏が徳川の世においてその地位を安堵されるための極めて重要な外交交渉であった。豊臣政権下と同様、徳川政権の始まりという重要な局面においても、慶広は後継者である吉広を伴うことで、松前家の安定性をアピールし、新時代の支配者からの信頼を勝ち取ろうとしたのである。吉広は、兄の影にありながらも、松前藩の未来を左右する外交の最前線に、後継者として立ち続けていた。
中央政権との関係を固めた慶広は、次なる課題として、自らの領国の本拠地整備に着手する。吉広は、この松前藩の物理的な基盤構築においても、中心的な役割を担った。
慶長5年(1600年)に徳川家康への拝謁を済ませた後、慶広はそれまでの居城であった大館に代わる新たな城、福山館(後の松前城)の築城を開始した 30 。この大規模なプロジェクトに、吉広は協力者として深く関与したことが記録されている 30 。福山館は慶長11年(1606年)に完成し、以後、松前藩の政治・経済・軍事の中心地として機能していく 3 。
城の建設と並行して、城下町の整備も進められた。吉広の協力は、この城下町建設にも及んだ 30 。これは、単に建物を建てるという土木事業に留まらない。家臣団の屋敷割、商人の居住区の設定、港の整備など、藩の統治機構と経済活動の根幹を設計する総合的な都市計画であった。
吉広がこれらの事業に深く関与したという事実は、彼が単なる名目上の後継者や外交儀礼の同伴者ではなかったことを雄弁に物語っている。彼は、藩政の実務を担う有能な行政官でもあった。兄・慶広が中央との外交という「外」の政務に奔走する一方で、弟・吉広は城郭建設や都市整備という「内」の政務を堅実に実行し、兄弟が両輪となって松前藩という新たな国家の礎を築き上げていったのである。彼の地道な働きは、松前藩が北の辺境に確固たる拠点を築き、その後二百数十年にわたる支配体制を維持していく上で、不可欠なものであった。
兄・慶広の嫡男である公広(きんひろ)が成長し、松前家の後継者としての地位が確実になると、吉広の「仮養子」としての役割は終わりを迎える。しかし、それは彼の役目の終焉ではなく、新たな立場で藩政を支えることの始まりであった。彼は藩主の弟として分家を創設し、その家系は代々、松前藩の重臣として藩政に深く関与していくことになる。
慶広の子・公広が家督を継ぐ見通しが立つと、吉広は藩主の弟として分家を立てた。これが、松前藩の家臣団の中で特別な地位を占めることになる「吉広系蠣崎家」の始まりである 2 。
松前藩の家臣団制度には、他の藩には見られない特徴があった。藩主の一門、すなわち藩主の兄弟たちが創設した分家は、「寄合(よりあい)」あるいは「準寄合」と呼ばれる最上級の家格を与えられた 37 。この寄合席に列せられた家は、藩の最高職である家老に就任する資格を持つ、いわば藩政の中枢を担うエリート家系であった。松前藩の家臣団において、この寄合席に属していたのは、藩主一族である松前・蠣崎の一門と、元々は蠣崎氏の主家筋であった安東氏の一族・下国氏のみであり、その閉鎖性と特権性が際立っている 37 。
吉広の兄である慶広は、弟たち、すなわち五男・正広、六男・長広、そして九男・吉広、十一男・守広、十二男・員広らにそれぞれ分家を立てさせ、寄合席に組み込んだ 37 。これは、藩の支配体制を血縁者で固める「同族経営」体制を意図的に構築したものであった 38 。この体制は、外部の有力な家臣が台頭して藩主の権力を脅かすことを防ぎ、一門衆が藩主を補佐することで権力基盤を強化するという大きな利点を持っていた。
しかし、この体制は同時に構造的なリスクを内包していた。藩主家と極めて近い血筋の有力な分家が複数存在することは、将来的に家督相続を巡る争いや、藩政の主導権を巡る派閥対立の火種となり得た。藩主の座に最も近い親族である彼らは、単なる家臣ではなく、潜在的な競争相手でもあったからである。事実、後の松前藩の歴史、特に3代藩主・公広から6代藩主・矩広の治世にかけては、家老の変死事件が頻発するなど、一門間の深刻な権力闘争が繰り広げられた 37 。
蠣崎吉広による分家の創設は、この松前藩独自の同族経営体制の確立に貢献する重要な一歩であった。彼は、藩主を支える藩屏として、この光と影を併せ持つ統治システムの中核をなす一翼を担うことになったのである。
吉広が創設した吉広系蠣崎家は、その後も代々、松前藩の重臣として藩政に深く関与し続けた。吉広には、重広(しげひろ)、次広(つぐひろ)、清広(きよひろ)、在広(ありひろ)という四人の息子がいたことが記録されている 2 。彼らとその子孫は、初代・吉広が築いた基盤の上に、松前藩の歴史を支える重要な役割を果たしていった 2 。
松前藩において、家老職は藩主を補佐し、時には幼い藩主に代わって藩政を主導する極めて重要な役職であった。藩内では「藩主は松前家から、家老は蠣崎家から」という慣習が語られるほど、藩祖の血を引く蠣崎一門の役割は絶大であった 40 。吉広の家系もまた、この家老を輩出する名門の一つとして、藩の運営に貢献した。
吉広系蠣崎家の具体的な活動を伝える史料は断片的であるが、その後の松前藩の歴史の中に、彼らの存在をうかがわせる事例を見出すことができる。例えば、江戸時代中期に「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」を描いたことで知られる高名な画家、蠣崎波響(かきざき はきょう、名は広年)は、その出自が興味深い。彼は血縁上は12代藩主・松前資広の五男であるが、家老職を継ぐために蠣崎家の分家に養子に入っている 41 。この養子先は、吉広の次男・次広の系統を引く家であったとされ、これにより波響は吉広の家系上の子孫となった 2 。
この事実は、吉広が創設した分家が、数世代を経た後も藩の重職を担う人材を供給するための重要な「受け皿」として機能し続けていたことを示している。藩主の子であっても、分家の家督を継ぐことで家老となり、藩政に参画するというシステムが維持されていたのである。これは、吉広の遺した「家」が、一代限りの功績に終わらず、松前藩の統治構造の中に永続的な役割を組み込まれていたことの証左に他ならない。
以下の略系図は、吉広から始まる家系の流れと、その中で特筆すべき人物の位置づけを示したものである。
代 |
氏名 |
続柄 |
備考 |
初代 |
蠣崎吉広 |
蠣崎季広の九男 |
吉広系蠣崎家の創始者。兄・慶広の仮養子として藩政を補佐。 |
2代 |
蠣崎重広 |
吉広の長男 |
|
2代 |
蠣崎次広 |
吉広の次男 |
この系統から、後に蠣崎波響が養子として入る。 |
2代 |
蠣崎清広 |
吉広の三男 |
3代藩主・松前氏広の娘を室に迎える 44 。 |
2代 |
蠣崎在広 |
吉広の四男 |
|
(参考) |
蠣崎波響 (広年) |
12代藩主・松前資広の五男 |
次広系の蠣崎家に養子入りし、家老となる。画家として高名 41 。 |
蠣崎吉広の生涯を総括すると、彼は藩主の弟、そして「仮養子」という特異な立場から、兄である初代藩主・松前慶広を献身的に支え、松前藩の創設という激動の時代を乗り切る上で、決定的な役割を果たした人物であった。彼の功績は、豊臣・徳川という中央政権との外交交渉の場に後継者として同席し、藩の権威と安定性を示すという政治的役割から、福山館の築城と城下町建設を主導するという内政における実務まで、多岐にわたる。
彼は自らが藩主の座に就くことはなかった。しかし、それは彼の能力や功績が劣っていたからではなく、むしろ彼が「九男」という生まれながらの立場と、兄を支えるという自らの役割を深く自覚していたからに他ならない。彼は藩主一門の筆頭格として分家「吉広系蠣崎家」を興し、その子孫は代々、藩の最高職である家老を輩出して藩政の中枢を担い続けた。吉広の生涯は、歴史の表舞台に立つ英雄を陰で支え、組織の礎を固めた「藩屏の臣」の典型と言える。彼の存在なくして、黎明期の松前藩が直面した後継者問題という最大の脆弱性を乗り越え、北の辺境における支配を確立することは、より困難であった可能性が高い。その歴史的意義は、これまで以上に高く評価されるべきである。
最終的に、蠣崎吉広の人生は、戦国から江戸へと移行する時代における、大名家の一門衆が果たした役割とその生き様を象えしている。それは、個人の野心よりも一族全体の存続と繁栄を優先し、主家を盤石にすることこそが自らの家を存続させる最善の道であるという、武家社会のリアリズムとダイナミズムを体現したものであった。彼は、兄・慶広という輝かしい星の光を、最も近くで支え続けた、静かながらも不可欠な存在だったのである。