最終更新日 2025-07-19

行松正盛

伯耆の国人・行松正盛は尼子侵攻で尾高城を失い38年流浪。毛利元就に臣従し城を奪還するも翌年病没。毛利氏に家督を乗っ取られ、行松氏の血筋は悲劇的に途絶えた。

伯耆の風雲児 行松正盛 ― 尼子・毛利の狭間で生きた国人の生涯と一族の終焉

序論:伯耆の風雲児、行松正盛

本報告書は、戦国時代の伯耆国(現在の鳥取県中西部)に生きた一人の国人領主、行松正盛(ゆきまつ まさもり)の生涯を、その出自から失領、三十八年に及ぶ流浪、悲願の故郷奪還、そして彼の死が一族にもたらした悲劇的な結末に至るまで、あらゆる角度から徹底的に解明するものである。彼の人生は、出雲の尼子氏と安芸の毛利氏という、当時中国地方の覇権を争った二大勢力の狭間で、翻弄され続けた地方豪族の典型的な姿を映し出している 1

行松正盛は、尼子経久や毛利元就のような、時代の趨勢を決した英雄ではない。彼の名は、戦国史の表舞台で大きく語られることは稀である。しかし、彼のような地方国人の存在と、その一族が辿った運命を深く掘り下げることは、戦国という時代の本質を理解する上で不可欠である。それは、中央の巨大な権力が、いかにして地方に根を張る自立した勢力を飲み込み、天下統一へと向かっていったかの力学を、ミクロな視点から鮮やかに描き出す作業に他ならない。

本報告書では、まず行松氏の出自と、尼子氏の侵攻を受ける以前の伯耆国における彼らの地位を明らかにする。次に、尼子経久の侵攻によって本拠・尾高城を追われた「大永の五月崩れ」の真相に迫る。続く章では、三十八年という長きにわたる流浪の歳月、大内氏、そして毛利氏へと主君を変えながら再起を模索した彼の執念と戦略を追う。そして、毛利元就の出雲侵攻という千載一遇の好機を捉え、悲願の故郷奪還を果たす栄光の瞬間を描写する。しかし、その栄光はあまりにも束の間であった。帰還の翌年に訪れた彼の死が、いかにして一族の運命を暗転させ、毛利氏による事実上の家督乗っ取り、そして一族の完全な没落へと繋がっていったのか。その過程を、複雑な人間関係と政治的背景と共に詳細に分析する。

行松正盛の物語は、一人の武将の成功と挫折の記録であると同時に、戦国という過酷な時代を生きた無数の地方勢力の興亡を象徴する、普遍的な悲劇でもある。彼の生涯を辿ることを通して、我々は戦国史の深層に流れる、より大きな歴史のうねりを体感することになるだろう。

表1:行松正盛と関連人物の年表

年号(西暦)

行松正盛・行松氏の動向

関連勢力(尼子・大内・毛利)の動向

関連人物の動向

明応元年 (1492)

守護・山名尚之の被官として活動が見られる 1

永正年間 (1504-1521)

尼子経久、伯耆守護家の内紛に介入し、西伯耆への進出を開始 4

大永4年 (1524)

大永の五月崩れ 。尼子経久に攻められ、本拠・ 尾高城を失陥 。国外へ流浪する 6

尼子経久、伯耆西部を制圧 8

尼子方の吉田光倫が尾高城主となる 6

天文11年 (1542)

大内義隆に従い、 第一次月山富田城の戦いに参戦 するも大内軍は敗北 4

大内義隆、尼子氏の本拠・月山富田城を攻めるが惨敗 11

弘治元年 (1555)

大内氏を見限り、 毛利元就に通じる 4

厳島の戦い 。毛利元就、陶晴賢を破る。大内氏が事実上滅亡へ 13

弘治3年 (1557)

毛利氏、防長経略を完了し、周防・長門を領国化 13

時期不詳

毛利興元の娘(元就の姪)を後室に迎える 1

永禄5年 (1562)

毛利軍の出雲侵攻に従い、 尾高城を38年ぶりに奪還 1

毛利元就、尼子氏討伐のため出雲へ大侵攻を開始 17

永禄6年 (1563)

尾高城帰還の翌年末、 病没 (死因は中風とされる) 1

備後神辺城主・ 杉原盛重 が正盛の後家と再婚し、尾高城主となる。正盛の遺児(九郎二郎、十郎二郎)を養育 1

永禄9年 (1566)

第二次月山富田城の戦い。尼子義久が降伏し、戦国大名尼子氏が滅亡 17

杉原盛重、毛利氏の西伯耆統治の責任者となる 6

天正9年 (1581)

杉原盛重、八橋城にて病没 6

天正10年 (1582)

正盛の遺児とされる**杉原景盛(十郎二郎)**が、兄・ 元盛(九郎二郎)を謀殺 し家督を強奪 6

景盛、毛利氏に討伐され自刃。行松正盛の血筋が事実上途絶える 21

天正12-13年 (1584-85)

行松次郎四郎を名乗る人物が南条氏の支援で毛利方に抵抗するも失敗 12

慶長5年 (1600)

関ヶ原の戦いで西軍についた南条氏と共に 一族が完全に没落 15

関ヶ原の戦い。


第一章:伯耆国人衆筆頭格・行松氏の出自と勢力

行松正盛の生涯を理解するためには、まず彼が属した行松氏が、伯耆国においてどのような存在であったかを知る必要がある。行松氏は、単なる地方の小豪族ではなかった。彼らは、尼子氏の侵攻を受けるまで、西伯耆に強固な地盤を築き、守護・山名氏の下で絶大な影響力を行使する有力国人であった。

行松氏の起源と拠点・尾高城

行松氏のルーツは、伯耆国会見郡中間庄(現在の鳥取県米子市周辺)を本貫とする在地勢力にあり、その歴史は鎌倉時代まで遡ると伝えられている 12 。室町時代を通じて着実に力を蓄え、戦国時代に入る頃には、西伯耆一帯に勢力を誇る国人領主へと成長を遂げていた。

その勢力の中核にあったのが、本拠地である尾高城(おだかじょう)である 1 。尾高城は、西伯耆の平野部を一望し、山陰道という東西交通の要衝を押さえる戦略的価値の極めて高い山城であった 20 。この城の存在こそが、行松氏の軍事的・経済的基盤であり、彼らの権勢の象徴そのものであった 16

「伯州衆」筆頭格としての地位

室町時代、伯耆国は守護・山名氏によって統治されていた。行松氏は、この山名氏の被官、すなわち家臣として重用され、山名氏が伯耆国内の統治のために編成した有力国人集団「伯州衆(はくしゅうしゅう)」の中でも、中核的な役割を担っていた 12 。その勢力は、東伯耆に拠点を置く南条氏と肩を並べるほど強大であり、行松氏は西伯耆における「伯州衆」の筆頭格と目されていた 15

史料上も、明応元年(1492年)の時点で、行松氏が伯耆守護・山名尚之(やまな なおゆき)の被官として活動していたことが確認できる 1 。これは、彼らが単なる在地領主ではなく、守護家の統治機構に深く組み込まれた公的な地位にあったことを示している。

尼子介入以前の政治的立場

行松氏の政治的立場を決定づけたのは、彼らが一貫して守護・山名尚之を支持する「守護勢力」の重鎮であったという事実である 4 。当時、伯耆の山名氏は、守護職を巡って尚之と山名澄之(やまな すみゆき)が激しく対立する内紛状態にあった。この国内の政争において、行松氏は尚之方の旗頭として、反守護勢力と対峙していたのである。

この「筆頭格」という地位と、「守護勢力の中核」という立場は、平時においては行松氏に大きな名誉と権威をもたらした。しかし、それは同時に、伯耆国内の政治対立の最前線に立たされることを意味していた。やがて隣国出雲から、この内紛を利用して勢力を拡大しようとする尼子経久が現れた時、行松氏のこの強大な地位こそが、彼らを真っ先に攻撃の対象へと押し出すことになった。彼らの悲劇は、この強大さゆえの宿命であったとも言える。尼子氏が伯耆を支配するためには、守護・山名尚之方の最大勢力である行松氏を排除することが絶対条件だったのである。もし彼らが小規模な国人であれば、早々に尼子方へ寝返ることで命脈を保てた可能性すらある。この「強者ゆえの悲劇」という構造こそが、行松正盛の物語の根底に流れる通奏低音となっているのである。


第二章:大永の五月崩れ ― 尼子経久の侵攻と尾高城失陥

行松氏が築き上げた伯耆での栄華は、出雲の戦国大名・尼子経久の侵攻によって、脆くも崩れ去ることになる。世に「大永の五月崩れ」と伝わるこの一連の戦乱は、行松正盛の運命を大きく変え、三十八年にも及ぶ流浪の始まりを告げるものであった。

背景:山名氏の内紛と尼子氏の介入

全ての始まりは、伯耆守護・山名氏の内紛であった。前章で述べた通り、守護職を巡る山名尚之と山名澄之の対立は、伯耆国を二分する深刻な状況に陥っていた 4 。この機を捉えたのが、出雲統一を果たし、山陰地方に覇を唱えんとしていた尼子経久である。経久は、「反守護勢力である山名澄之を支援する」という大義名分を掲げ、永正年間(1504年-1521年)から伯耆への軍事介入を本格化させた 1

経久の狙いは、澄之の支援そのものよりも、伯耆国内の混乱に乗じて自らの勢力圏を拡大することにあった。守護家の権威が失墜し、国人たちが離合集散を繰り返す状況は、経久にとって領国を切り取る絶好の機会だったのである。

「大永の五月崩れ」の実像

軍記物語である『伯耆民談記』などでは、大永四年(1524年)5月、尼子軍が突如として伯耆に侵攻し、米子城、淀江城、尾高城など西伯耆の諸城を電光石火の如く攻め落としたと描かれている 8 。この衝撃的な出来事は「大永の五月崩れ」として知られ、伯耆一国が一日にして尼子領と化したかのように伝えられてきた。

しかし、近年の研究によれば、この「五月崩れ」は、永正年間から十数年にわたって続けられてきた尼子氏による段階的な侵攻作戦が、大永四年にクライマックスを迎えたものと解釈されている 5 。尼子氏はまず、懐柔や調略によって西伯耆南部の国人衆(日野衆)を味方に引き入れ、徐々に支配地域を北上させていった。そして、周到な準備の末に、最後まで抵抗を続ける守護方の拠点への総攻撃を仕掛けたのである。

行松氏の抵抗と敗北

守護・山名尚之方の筆頭格であった行松正盛は、尼子軍に対して最後まで激しく抵抗したと見られる 4 。しかし、内紛で疲弊した伯耆国人衆の力では、統一された指揮系統の下で破竹の勢いを見せる尼子軍を食い止めることはできなかった。

大永四年(1524年)、尼子軍の総攻撃の前に、行松氏の本拠・尾高城はついに陥落 6 。正盛は城を捨て、一族郎党と共に国外へ逃れることを余儀なくされた 16 。尾高城には尼子方の武将・吉田光倫が城代として入城し、西伯耆は完全に尼子氏の支配下に置かれた 6 。この一連の戦乱で、行松氏をはじめとする山名方の国人衆は軒並み所領を失い、没落していった 5

行松正盛の失領は、単なる一城の攻防戦の結果ではなかった。それは、旧来の権威であった「守護・山名氏」に依拠していた勢力が、実力で領国を切り取る新興の「戦国大名・尼子氏」に敗れたことを意味していた。正盛の敗北は、彼の個人的な失敗というよりも、彼が属していた旧来の政治・社会システムそのものの敗北であった。この出来事は、来るべき毛利氏の時代へと続く、中国地方の秩序再編の序章であり、正盛は時代の大きな地殻変動の最初の波に飲み込まれたのである。


第三章:三十八年の流浪 ― 大内、そして毛利への臣従

本拠・尾高城を失った行松正盛の、苦難に満ちた流浪の人生が始まった。失地回復というただ一つの目的のために、彼は中国地方の二大勢力である大内氏、そして毛利氏の間を渡り歩くことになる。この三十八年間は、単なる雌伏の時ではない。それは、刻一刻と変化する勢力図を冷静に見極め、再起の機会を掴むための、したたかな戦略の期間でもあった。

大内氏への臣従と再起の試み

故郷を追われた正盛が最初に頼ったのは、当時、尼子氏と中国地方の覇権を争っていた周防の戦国大名・大内義隆であった 12 。敵の敵は味方という論理に基づき、強大な大内氏の力を借りて故郷を回復しようとするのは、当時の失領国人にとってごく自然な選択であった。

正盛は、大内氏の客将として、その力を示す機会を待った。そして天文十一年(1542年)、その好機が訪れる。大内義隆が総力を挙げて尼子氏の本拠・月山富田城へ侵攻した、いわゆる第一次月山富田城の戦いである。正盛もこの戦いに大内方の一将として参陣した記録が残っている 4 。故郷奪還の夢を懸けたこの戦いであったが、結果は大内軍の内部崩壊による歴史的な惨敗に終わった 11 。正盛の再起への道は、早くも暗礁に乗り上げたのである。

勢力図の激変と戦略的転換

第一次月山富田城の戦いの後、中国地方のパワーバランスは劇的に変化する。大内氏では、当主・義隆が政務への意欲を失い、実権を握った重臣・陶晴賢(すえ はるかた)との対立が先鋭化。一方、安芸の国人領主に過ぎなかった毛利元就は、着実に勢力を拡大していた。

そして弘治元年(1555年)、歴史を揺るがす大事件が起こる。厳島の戦いである。毛利元就は、巧みな謀略で陶晴賢の大軍を厳島におびき寄せ、奇襲によってこれを殲滅した 13 。この一戦で大内氏は致命的な打撃を受け、元就はその勢いのままに周防・長門へ侵攻(防長経略)、弘治三年(1557年)には大内氏を完全に滅亡させた 13 。これにより、中国地方の覇権争いは、尼子・大内の二強対決から、尼子・毛利の新たな二強対決の時代へと移行した。

この目まぐるしい情勢の変化を、行松正盛は冷静に見つめていた。もはや衰退の一途をたどる大内氏に未来はない。彼は、次なる頼みの綱として、日の出の勢いにある毛利元就へと接近する。正盛は、大内氏を見限り、毛利氏へと臣従することを決断したのである 4

毛利氏への臣従と婚姻同盟

正盛の毛利氏への臣従を、単なる主従関係からより強固な同盟関係へと昇華させたのが、毛利家との間に結ばれた婚姻であった。正盛は、毛利元就の亡き兄・毛利興元の娘(すなわち元就の姪)を後室として迎えたのである 1

この婚姻は、流浪の身であった正盛にとって、毛利家という新たな後ろ盾を得るための極めて重要な一手であった。しかし、その真の価値は、毛利元就の側から見ることでより鮮明になる。この婚姻は、元就が将来の伯耆侵攻を見据えて打った、高度な政治的・戦略的布石であった。

毛利氏が尼子領である伯耆に侵攻する際、単なる「侵略」として攻め入れば、現地の国人衆の激しい抵抗を招くことは必至である。しかし、もし「伯耆のかつての正統な領主である行松氏の、失われた故郷を回復するために力を貸す」という大義名分を掲げることができればどうだろうか。その侵攻は「正義の戦い」として正当化され、行松氏に恩義を感じる伯耆の国人たちの協力を得ることも容易になる 6

元就は、そのための最も重要な「駒」として行松正盛に白羽の矢を立てた。そして、一門の女性を嫁がせることで正盛を「身内」として完全に取り込み、彼の持つ「伯耆の旧主」という正統性を最大限に利用する準備を整えたのである。この婚姻は、正盛にとっては再起への最後の希望であり、元就にとっては伯耆経略を円滑に進めるための極めて計算高い投資であった。両者の利害が完全に一致した、まさに戦略的同盟の成立であった。


第四章:悲願の故郷奪還 ― 毛利軍の出雲侵攻と尾高城回復

三十八年という、人の半生にも匹敵する長い流浪の歳月を経て、行松正盛に遂に故郷回復の好機が訪れる。それは、毛利元就が尼子氏を完全に滅ぼすべく、満を持して開始した出雲への大侵攻という、中国地方の歴史を塗り替える巨大な軍事行動の中にあった。

毛利氏の出雲侵攻開始

永禄五年(1562年)、毛利元就は、吉川元春・小早川隆景の両翼を率い、尼子氏の息の根を止めるべく出雲への全面侵攻を開始した 17 。毛利軍は尼子方の諸城を次々と攻略・懐柔しながら進軍し、尼子氏の本拠・月山富田城へと迫っていった。この大事業を成功させるためには、月山富田城を完全に孤立させる必要があり、その一環として、西の隣国である伯耆を確実に制圧することが不可欠であった。

正盛の役割と尾高城の奪還

この毛利氏の壮大な戦略の中で、行松正盛は極めて重要な役割を与えられた。彼は、毛利軍の伯耆方面における「案内役」であり、その侵攻を正当化するための「象徴」であった。毛利軍の支援を受けた正盛は、伯耆奪還部隊の先鋒として、故郷への進攻を命じられたのである 15

永禄五年(1562年)夏頃、正盛率いる軍勢は、尼子方が守る尾高城を攻撃。ついにこれを奪回することに成功した 1 。大永四年(1524年)に城を追われてから、実に三十八年ぶりの本拠地への帰還であった 2 。この長い歳月を耐え忍んだ正盛の胸に去来した感慨は、察するに余りある。

歴史的意義

行松正盛による尾高城奪還は、彼個人の悲願達成という側面に留まらない、大きな歴史的意義を持っていた。これにより、毛利氏は尼子氏の本拠・月山富田城の西側に、確固たる橋頭堡を築くことに成功した。西伯耆一帯が毛利の支配下に入ったことで、月山富田城は西からの補給路や援軍を断たれる危険に晒され、毛利による包囲網は一層狭まったのである 5

しかし、この栄光の瞬間を、冷静に分析する必要がある。正盛の三十八年ぶりの帰還は、彼の武功や執念だけによって成し遂げられたものではなかった。それは、過去に大内氏の下で試みて失敗したことからも明らかである。彼の成功は、毛利元就が描いた巨大な軍事戦略の歯車の一つとして、その計画通りに実行された結果であった。

彼の帰還は、彼自身が主役の物語なのではなく、毛利元就が脚本を書いた壮大な歴史劇の一幕に過ぎなかった。尾高城主には返り咲いたものの、もはや彼は独立した国人領主ではなかった。その身は、毛利氏という巨大な権力機構に完全に組み込まれた一武将となっていたのである。彼の栄光の瞬間は、皮肉にも、彼自身の独立性が完全に失われた瞬間でもあった。そして、この主従関係の質的な変化こそが、彼の死後、一族を襲う悲劇の直接的な伏線となるのである。


第五章:束の間の栄光と死、そして一族の行方

三十八年ぶりに故郷の土を踏み、尾高城主として返り咲いた行松正盛。しかし、彼に与えられた栄光の時間は、あまりにも短かった。帰還の翌年に訪れた彼の突然の死は、行松家の運命を再び暗転させ、毛利氏による巧妙かつ冷徹な家督乗っ取り劇の幕開けとなる。

表2:主要登場人物関係図

コード スニペット

graph TD
subgraph 毛利家
MoriOkitomo[毛利興元] --- MoriMotonari[毛利元就]
MoriOkitomo -- 娘 --> Niece[興元の娘<br>(元就の姪)]
end

subgraph 行松家
YukimatsuMasamori[行松正盛]
YukimatsuMasamori -- 遺児 --> Kuroujirou[九郎二郎<br>(後の杉原元盛?)]
YukimatsuMasamori -- 遺児 --> Juuroujirou[十郎二郎<br>(後の杉原景盛)]
end

subgraph 杉原家
SugiharaShigemori[杉原盛重]
SugiharaShigemori -- 養子 --> Kuroujirou
SugiharaShigemori -- 養子 --> Juuroujirou
Kuroujirou -- 兄弟 (後に敵対) --> Juuroujirou
end

YukimatsuMasamori -- 婚姻 --> Niece
Niece -- 再婚 --> SugiharaShigemori

style MoriMotonari fill:#e6b3b3,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
style YukimatsuMasamori fill:#b3cde0,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
style SugiharaShigemori fill:#c2d6bf,stroke:#333,stroke-width: 4.0px

正盛の急逝と後継者問題

尾高城への帰還を果たした翌年の永禄六年(1563年)末、行松正盛は病によりこの世を去った 1 。『伯耆民談記』などの記述によれば、死因は中風(脳梗塞や脳卒中といった脳血管疾患)であったとされる 4 。悲願を達成した安堵からか、長年の苦労が祟ったのか、その死はあまりにも突然であった。

正盛の死により、行松家は深刻な後継者問題に直面する。彼には九郎二郎、十郎二郎という二人の幼い遺児がいたが 1 、尼子氏との戦いが依然として続く伯耆の軍事的最前線において、幼君を戴いて国人衆を束ね、城を守ることは到底不可能であった。

毛利氏の介入と杉原盛重の入城

この事態に、毛利元就は迅速かつ断固たる措置を取る。彼は、行松氏の家督を正盛の遺児に継がせることなく、毛利譜代の重臣であり、当時、備後神辺城主として山陽方面で実績を積んでいた杉原盛重(すぎはら もりしげ)を、新たな尾高城主として派遣することを決定した 6

この人事は、表面的には極めて円滑に行われた。その鍵となったのが、正盛の後家、すなわち元就の姪の存在である。杉原盛重は、この正盛の未亡人と再婚し、さらに正盛の遺児である九郎二郎と十郎二郎を自らの養子として引き取った 1 。これにより、杉原盛重は行松家の家督を「正当に継承」したという形式が整えられた。

しかし、その実態は、毛利氏による行松家の完全な乗っ取りに他ならなかった。独立した国人領主としての行松氏は、正盛の死と共に事実上、その歴史に幕を閉じたのである 15

この毛利氏の決定は、非情な乗っ取りであると同時に、戦国時代の論理からすれば極めて合理的かつ必然的な戦略であった。毛利氏にとって、「旧主の回復」というプロパガンダのために利用した行松正盛は、その死によって「象徴」としての役割を終えた。重要なのは、戦略的要衝である尾高城を、最も信頼できる譜代の将で固め、伯耆支配を盤石にすることであった。

そして、正盛の未亡人が元就の姪であったことが、この権力移行を決定的に円滑にした。毛利一門の女性を杉原盛重に再嫁させることで、この家督継承には「毛利家の意志」という強力な正当性が与えられ、他の伯耆国人衆の不満を抑え込むことができたのである 1 。これは、婚姻政策を最大限に利用した、冷徹かつ巧みな権力移行の典型例であった。

これ以降、尾高城は杉原盛重の拠点となり、彼は毛利氏の西伯耆方面軍の司令官として、東伯耆の南条氏や、後に再興を目指す尼子再興軍との戦いの最前線を担うこととなる 6 。行松氏の故郷は、完全に行松氏の手を離れ、毛利氏の巨大な支配体制の一拠点へと姿を変えたのである。


第六章:行松氏の残照と終焉 ― 杉原家の内紛と関ヶ原

行松正盛の死と杉原盛重による家督継承は、独立勢力としての行松氏の終焉を意味した。しかし、行松氏の物語はそこで終わらなかった。正盛が遺した血脈は、養子先の杉原家で悲劇的な内紛の主役となり、また「行松」の名は、毛利氏への抵抗のシンボルとして、伯耆の地に最後の残照を放つことになる。

遺児たちの悲劇:杉原家の内紛

杉原盛重の養子として育てられた正盛の遺児たち、九郎二郎と十郎二郎は、それぞれ杉原元盛、杉原景盛(幼名は松千代)と名乗ったとする説が有力である 4 。彼らは杉原家の一員として成長し、兄の元盛は盛重の嫡男、弟の景盛は次男として扱われた。

天正九年(1581年)、養父である杉原盛重が八橋城で病死すると、杉原家の内部に潜んでいた対立が表面化する 21 。家督は嫡男の元盛が継ぐことになったが、これに弟の景盛が強い不満を抱いた。この対立の背景には、単なる兄弟間の不和だけではなく、杉原家を構成する二つの派閥、すなわち盛重が備後から率いてきた譜代の家臣団(元盛を支持)と、伯耆で新たに配下に加わった旧行松家臣団(行松の血を引く景盛を支持)の深刻な主導権争いがあった可能性が指摘されている 31

そして天正十年(1582年)、悲劇が起こる。弟の景盛は、兄・元盛を尾高城の二の丸で謀殺し、実力で家督を強奪したのである 6 。しかし、毛利本家(当主・毛利輝元)は、この弟による兄殺しという凶行と、それによる家督相続を決して認めなかった。輝元は景盛に叛意ありとして討伐軍を派遣。景盛は居城の佐陀城(現在の米子市淀江町)で追い詰められ、捕らえられた末に自刃した 21

この一連の事件は、毛利氏による「乗っ取りと吸収」という同化政策が内包していた矛盾の爆発であった。異なる出自を持つ家臣団を一つの家に統合しようとした結果、深刻な内部対立を引き起こし、自壊に至ったのである。行松正盛が遺した息子たちは、この失敗した政策の最大の犠牲者となり、彼らの死によって、正盛の血筋は歴史の舞台から悲劇的な形で姿を消した。

行松氏再興の最後の試み

杉原家の内紛とは別に、行松氏の正統な後継者を名乗り、一族再興の最後の望みを懸けて立ち上がった人物がいた。「行松次郎四郎」である 12 。彼は、毛利氏と敵対する東伯耆の南条氏の支援を受け、毛利支配下の西伯耆で抵抗運動を繰り広げた。

天正十二年(1584年)には細木原城に立てこもって戦い(細木原城の戦い)、翌天正十三年(1585年)には手勢を率いて尾高城奪還を目指し、その途上の河原山城を攻撃した(河原山城の戦い) 12 。しかし、これらの試みは、いずれも毛利方の反撃に遭い、失敗に終わった。

この行松次郎四郎という人物が、果たして本当に正盛の一族であったのか、その実在性には議論がある。『陰徳太平記』と『伯耆民談記』という二つの史料で記述が異なり、南条氏が毛利方への攻撃を正当化するために担ぎ出した、名目だけの架空の人物であった可能性も指摘されている 12

しかし、たとえ彼が架空の人物であったとしても、その存在が示す事実は重要である。それは、正盛の死後もなお、「行松」という名が伯耆の在地社会において「失われた正統な主君」として人々の記憶に残り、反毛利・反杉原勢力にとって抵抗を正当化するための強力なシンボルとして利用されるだけの価値を持っていたということである。行松正盛の物語は、彼の死では終わらなかったのである。

完全な没落

慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この戦いにおいて、行松氏の残党は、彼らを一貫して支援してきた南条氏と共に西軍に与した。しかし、結果は西軍の惨敗に終わる。戦後、南条氏は所領を没収され改易。その庇護を失った行松氏もまた、歴史の表舞台から完全に姿を消すこととなった 15 。ここに、鎌倉時代から続いた伯耆の名族・行松氏の歴史は、完全な終焉を迎えたのである。


結論:行松正盛という武将の歴史的評価

行松正盛の生涯は、まさに波瀾万丈という言葉が相応しい。本拠を追われながらも三十八年という驚異的な歳月を耐え抜き、ついに故郷奪還を成し遂げた彼の執念は、戦国武将の一つの生き様として記憶されるべきものである。しかし、その物語の結末は、巨大権力の掌の上で翻弄され、悲願達成と引き換えに一族の独立性を失い、自らの死が結果的に一族の終焉を招くという、戦国時代の地方国人領主が抱えた悲哀を凝縮したものであった。

歴史的に評価するならば、正盛は、尼子・大内・毛利という巨大勢力が渦巻く激動の時代において、巧みに主君を変え、生き残りを図った現実的な戦略家であったと言える。特に、毛利氏との婚姻同盟を成立させ、その力を利用して故郷を回復した手腕は評価されて然るべきである。しかし、彼の成功は常に他者の、より大きな戦略の中に位置づけられていた。彼は毛利元就の壮大な戦略における重要な「駒」ではあったが、ついに自らが盤面を動かす「指し手」となることはなかった。彼の人生は、戦国時代における「国人」という存在の脆弱性と、生き残りのための過酷な現実を、後世の我々に雄弁に物語っている。

行松正盛と彼の一族の興亡史は、単なる一地方豪族の滅亡譚ではない。それは、戦国大名による地方統一が、単なる軍事的な征服ではなく、在地社会に深く根差した記憶やアイデンティティをいかにして変容させ、あるいは消し去っていったかという、より大きな歴史のプロセスを物語る貴重な事例である。杉原家の内紛という悲劇や、行松次郎四郎の抵抗という最後の残照は、正盛の死後もなお「行松」という名が伯耆の地に残した複雑な余韻を示している。

最終的に、行松正盛の物語は、華々しい英雄譚の陰に埋もれた、無数の地方勢力の運命を代弁している。彼の生涯を深く知ることは、戦国という時代を、勝者だけでなく、そこに生きた全ての人々の視点から、より立体的かつ多角的に理解するための、重要な鍵となるのである。

引用文献

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