西園寺公広は、公家出身ながら伊予の戦国大名となり、黒瀬城を拠点に南伊予を支配。土佐一条氏や長宗我部氏と攻防を繰り広げたが、豊臣秀吉の四国平定後、戸田勝隆に謀殺され西園寺氏は滅亡。
戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)に、ひときわ異彩を放つ一族がいた。伊予西園寺氏である。彼らは、京都の朝廷に仕える高位の公家を祖としながら、遠く離れた南伊予の地で在地領主化し、戦国大名として乱世を駆け抜けた。その最後の当主こそ、本稿の主題である西園寺公広(さいおんじ きんひろ)である。彼の生涯を理解するためには、まず伊予西園寺氏が、いかにして公家の名門から地方の武家へと変貌を遂げたのか、その特異な歴史を紐解く必要がある。
西園寺氏の出自は、摂関家に次ぐ格式を誇った藤原北家閑院流(かんいんりゅう)に遡る 1 。平安時代の公卿、藤原公季(ふじわらのきんすえ)を祖とし、その子孫である鎌倉時代の太政大臣・西園寺公経(きんつね)が、京都北山に西園寺を造営し「西園寺殿」と称されたことから、これを家名とした 1 。西園寺家は、朝廷内でも屈指の名門として、代々内大臣や太政大臣を輩出する清華家(せいがけ)の地位を確立し、その権勢は武家の世にあっても大きな影響力を保持していた。この京都における輝かしい家格こそが、後に伊予の地で彼らが権威を確立する上での最大の源泉となる。
西園寺家と伊予国の直接的な関わりは、鎌倉時代に始まる。西園寺家は伊予国の知行国主(ちぎょうこくしゅ)となり、国衙(こくが)の支配権を掌握した 2 。そして、自らの経済的基盤を強化するため、伊予国最大の荘園であった宇和荘(うわのしょう)に目をつけた。
宇和荘を含む宇和郡一帯は、古くは伊予橘氏が地頭職を世襲し、支配していた土地であった 1 。伝承によれば、天慶4年(941年)に藤原純友の乱を鎮圧した橘遠保(たちばなのとおやす)が、その功績により朝廷から宇和郡を賜ったことに始まるとされる 4 。しかし、鎌倉時代中期の嘉禎2年(1236年)、西園寺公経は鎌倉幕府に強く働きかけ、この宇和荘の地頭職を橘氏から獲得することに成功する 5 。これは、中央の政治権力が地方の所領関係を直接的に塗り替えた事例であり、西園寺家が朝廷のみならず幕府にも強い影響力を持っていたことを示している。こうして宇和荘は、西園寺家の重要な経済基盤の一つとして組み込まれたのである 3 。
宇和荘を獲得した当初、西園寺家は京都に留まり、代官を現地に派遣して荘園を経営するという、典型的な absentee landlord(不在地主)の形態をとっていた 6 。しかし、全国的な動乱期である南北朝時代に入ると、この体制に大きな転機が訪れる。戦乱によって荘園からの年貢収入が不安定になる中、所領の直接支配を強化する必要に迫られたのである 4 。
この状況を打開するため、西園寺家の庶流であった西園寺公良(きんよし)が、時期は明確ではないものの、一族を率いて宇和荘へ下向し、現地に土着した 4 。この「下向」こそが、伊予西園寺氏が単なる荘園領主から、在地勢力を束ねる武士団の棟梁、すなわち戦国大名へと変質する決定的な一歩であった。彼らは宇和郡の石野郷松葉山(現在の愛媛県西予市宇和町)に拠点を構え、その居所から「松葉殿」と称されるようになった 7 。そして、周辺の土豪層を巧みに傘下に組み入れ、宇和郡の総帥としての地位を固めていったのである 6 。
伊予西園寺氏の成立過程は、その「公家」という出自がもたらした二面性によって特徴づけられる。京都の名門という血筋は、他の叩き上げの国人領主にはない圧倒的な「権威」の源泉であった。在地支配を正当化し、求心力を高める上で、この伝統的権威は軍事力以上に有効な政治的資本として機能した。しかし同時に、この公家としての出自は、武力と謀略が支配する戦国乱世における「脆弱性」も内包していた。雅な文化や伝統を重んじる気風は、実利を追求する他の戦国大名との生存競争において、時に足枷となり得た。西園寺公広の生涯は、まさしくこの権威と脆弱性の狭間で揺れ動く、悲劇の物語であったと言えるだろう。
西園寺公広が生きた戦国時代末期の伊予国は、一人の強力な支配者が君臨する統一国家ではなく、複数の地域権力が複雑にせめぎ合う、まさに群雄割拠の状態にあった。この混沌とした情勢こそが、公広の生涯を規定する舞台となる。
当時の伊予国は、大きく三つの勢力圏に分かれていた。中部(中予)には、鎌倉時代以来の名族で名目上の伊予守護であった河野(こうの)氏が湯築城(ゆづきじょう)を本拠としていた 8 。しかし、その支配力は限定的であり、一族内での内紛や家臣団の離反に絶えず悩まされていた 8 。
河野氏の南に隣接する喜多郡(現在の愛媛県大洲市周辺)には、下野国(現在の栃木県)を本拠とする名門・宇都宮氏の一族が根を張り、戦国大名化していた 7 。宇都宮氏は、時に河野氏と敵対し、時に外部勢力と結びつくなど、伊予の政局を揺るがす独立した勢力であった。
そして、伊予の南部(南予)一帯、宇和郡を支配していたのが西園寺氏である 7 。彼らは、これら国内のライバルと対峙する一方で、東の土佐国や西の豊後国、瀬戸内海を隔てた中国地方といった外部勢力の脅威にも常に晒されていた。特に、東部の宇摩郡・新居郡は細川氏の、瀬戸内海の島々は村上水軍の勢力圏にあり、伊予一国が統一される気配はなかった 8 。この国内の分裂状態が、結果的に土佐の一条氏や長宗我部氏、豊後の大友氏、安芸の毛利氏といった大国の介入を招く温床となったのである。
このような乱世の只中に、西園寺公広は天文6年(1537年)、西園寺公宣(きんのぶ)の子として生を受けた 10 。しかし、彼の家督相続への道は平坦ではなかった。公広はもともと仏門に入り、伊予来住寺の僧籍にあった 10 。ところが、弘治2年(1556年)、当時の当主であった伯父・西園寺実充(さねみつ)の嫡男であり、公広の従兄弟にあたる公高(きんたか)が戦死するという悲劇が起こる 10 。
後継者を失った実充は、甥である公広に白羽の矢を立てた。永禄8年(1565年)、公広は還俗(げんぞく)し、実充の養嗣子として迎えられる 10 。さらに、家督相続の正当性を強化するため、実充の娘である西姫(にしひめ)を正室に娶り、伊予西園寺家第8代当主の座を継承した 10 。僧侶から戦国大名へという異例の転身、そして養子という形での家督相続は、その後の彼の家臣団掌握や統治において、微妙な影響を及ぼした可能性も否定できない。
公広の権力を支えた基盤は、堅固な城郭と、彼に忠誠を誓う在地領主たちの存在であった。
伊予西園寺氏は、当初「松葉殿」の名の由来となった松葉城を本拠としていた 6 。しかし、周辺勢力との緊張が高まる中、より防御力に優れた新たな拠点が必要とされた。そこで、公広の養父・実充の代に築城が開始され、公広の代に完成・移転したのが黒瀬城(くろせじょう)である 12 。
黒瀬城は、標高350メートル、比高200メートルの黒瀬山山頂に築かれた、典型的な連郭式山城であった 12 。本丸、二の丸、三の丸といった主要な郭(くるわ)が尾根筋に沿って直線的に配置され、それらを深い堀切(ほりきり)や高い土塁(どるい)で厳重に防備していた 12 。特に、本丸は東西130メートルに及ぶ長大な規模を誇り 12 、城内には複数の井戸跡が確認されていることから、大規模な兵力が長期間籠城できる設計であったことがうかがえる 12 。また、敵の侵入を阻むための枡形虎口(ますがたこぐち)のような技巧的な構造も見られ 15 、当時の最新の築城技術が導入されていたことがわかる。この堅城の存在は、公広の軍事力の根幹をなしていた。
興味深いことに、この城が築かれた一帯は、地質学的に「黒瀬川構造帯」と呼ばれる、周囲とは異なる古い岩石で構成された地域である 17 。この特異な地質がもたらす急峻な地形もまた、黒瀬城を天然の要害としていた一因であろう。
公広の支配は、彼個人の力だけでなく、彼を支える有力な家臣団によって成り立っていた。彼らは「西園寺十五将」と総称される、宇和郡内の在地領主たちである 10 。
その中には、黒瀬城主である公広自身をはじめ、丸串城主・西園寺宣久、常盤城主・観修寺基栓、法華津本城主・法華津前延(ほけづ さきのぶ)、そして後に『清良記』でその活躍が知られることになる大森城主・土居清良(どい きよよし)など、南予各地に拠点を置く錚々たる顔ぶれが名を連ねていた 18 。この十五将の存在は、伊予西園寺氏の支配体制が、公広を頂点とするピラミッド型の主従関係であると同時に、有力国人たちの連合体という側面も持っていたことを示唆している。彼らの協力なくして、公広の統治は成り立たなかったのである。
伊予国、とりわけ南予という地は、地政学的に見れば、西の毛利、九州の大友、そして東から急速に台頭する長宗我部という三大勢力の緩衝地帯に位置していた。この地理的条件は、西園寺氏に常に戦略的なジレンマを強いた。国内のライバルである河野氏や宇都宮氏との対立(内憂)に対処しながら、同時に周辺大国の圧力(外患)にも対応しなければならなかったのである。公広の統治は、この内憂外患の狭間で、常に綱渡りのようなバランス感覚を要求される、極めて困難なものであった。彼の外交政策は、この地政学的な宿命から逃れることはできず、その決断の一つ一つが、一族の存亡に直結していた。
表1:西園寺公広の生涯と関連年表
西暦 |
和暦 |
西園寺公広の動向 |
伊予国内の情勢(河野氏・宇都宮氏など) |
周辺大名の動向(一条氏・長宗我部氏・毛利氏・大友氏・中央政権) |
1537年 |
天文6年 |
西園寺公宣の子として誕生 10 。 |
- |
- |
1556年 |
弘治2年 |
従兄弟の公高が戦死 10 。 |
- |
- |
1565年 |
永禄8年 |
還俗し、実充の養子となり家督を継承 10 。土佐の一条兼定を攻撃 10 。 |
河野氏、宇都宮氏と対立 8 。 |
一条兼定、西園寺氏を撃退し伊予へ侵攻 19 。 |
1567年 |
永禄10年 |
- |
毛利氏が河野氏支援のため伊予に出兵(~翌年) 9 。 |
毛利氏と一条・宇都宮連合が対立 21 。 |
1572年 |
元亀3年 |
土居清良の仲介で一条兼定と和睦 10 。 |
- |
- |
1575年頃 |
天正3年頃 |
- |
- |
長宗我部元親、土佐を統一し伊予への侵攻を本格化 23 。 |
1581年 |
天正9年 |
長宗我部氏の攻撃により黒瀬城の城下町が焼失 4 。 |
- |
- |
1584年 |
天正12年 |
長宗我部元親の猛攻を受け降伏 4 。 |
河野通直も長宗我部氏に降伏 24 。 |
長宗我部元親、四国のほぼ全土を統一 24 。 |
1585年 |
天正13年 |
豊臣秀吉の四国平定軍(小早川隆景)に降伏 10 。黒瀬城を安堵される 10 。 |
河野氏、秀吉に降伏し改易 9 。 |
秀吉の四国攻め。長宗我部元親は降伏し、土佐一国を安堵される 8 。 |
1587年 |
天正15年 |
新領主・戸田勝隆に大洲で謀殺される(享年51) 10 。伊予西園寺氏滅亡 11 。 |
新領主として戸田勝隆が入部 26 。河野通直も没し、大名としての河野氏も滅亡 9 。 |
豊臣秀吉、九州平定を完了。 |
家督を継承した西園寺公広が直面したのは、南伊予の覇権を巡る絶え間ない戦いであった。国内のライバルのみならず、隣接する土佐、海を隔てた豊後や安芸の勢力が、伊予の複雑な政治状況に深く関与し、西園寺氏の存亡を揺るがした。この時期の公広の外交戦略は、生き残りをかけた現実的な選択の連続であった。
西園寺氏にとって、最も直接的かつ長年にわたるライバルが、土佐国西部に勢力を張る土佐一条氏であった 7 。一条氏もまた、応仁の乱を避けて土佐に下向した関白・一条教房を祖とする公家であり、西園寺氏とは同じ公家出自という共通点を持つ 28 。この出自は、両家がそれぞれの領国で権威を確立する上で有利に働いたが、領土が隣接するがゆえに、両者の関係は必然的に緊張をはらむものとなった。
公広の父・公宣の代には、一条房家(ふさいえ)の娘を正室に迎えるなど、婚姻を通じた同盟関係が結ばれた時期もあった 29 。しかし、その関係は永続せず、公広の代になると両者は激しく対立する。家督を継いだ永禄8年(1565年)、公広は早速土佐へ兵を進め一条兼定を攻めているが 10 、逆に兼定の反撃に遭い、伊予への侵攻を許すなど、一進一退の攻防が繰り広げられた 19 。
この泥沼化した争いに一つの区切りをつけたのが、元亀3年(1572年)に成立した和睦である 10 。この和睦は、西園寺十五将の一人である土居清良の巧みな仲介によって実現したと伝えられている 10 。しかし、その背景には、両者が長年の戦いで疲弊していたことに加え、東方から急速に勢力を拡大しつつあった長宗我部元親という新たな脅威の存在があった。共通の危機を前に、両者は一時的に手打ちをせざるを得なかったのである。この和睦は、信義や友好に基づいたものではなく、あくまでも戦略的な判断の結果であった。
西園寺氏を取り巻く環境をさらに複雑にしたのが、九州と中国地方の大勢力の存在であった。豊後国(現在の大分県)を本拠とする大友宗麟は、しばしば土佐一条氏と連携し、西園寺領への侵攻を支援した 7 。これにより、西園寺氏は南と西から同時に圧力を受けることになった。
一方、中国地方の覇者であった安芸国(現在の広島県)の毛利元就は、伊予守護・河野氏との同盟関係を重視していた。永禄10年(1567年)、河野氏と敵対する宇都宮豊綱を土佐一条氏が支援する動きを見せると、毛利氏は河野氏からの救援要請に応じ、小早川隆景を大将とする軍勢を伊予へ派遣した 20 。この「毛利氏の伊予出兵」は、表面上は河野氏と宇都宮氏の争いであったが、その実態は「毛利・河野」連合と「一条・宇都宮」連合の代理戦争の様相を呈していた。
この大国間の角逐の中で、西園寺公広は自家の存続のために明確な立場を取ることを迫られた。彼は、旧来からの関係性を鑑み、河野・毛利方に与して宇都宮氏を圧迫し、宿敵である一条氏と対峙する道を選んだ 28 。これは、目前の脅威である一条・大友連合に対抗するため、その敵である毛利・河野連合に接近するという、典型的なパワーバランス外交であった。
この時期の西園寺氏の外交は、特定の勢力との恒久的な同盟関係を築くのではなく、刻々と変化する情勢に応じて敵と味方を入れ替える、極めて流動的なものであった。公広の行動原理は、特定のイデオロギーや信義ではなく、「自家の存続」というただ一点に集約されていた。彼の決断は、常に周囲の勢力図を冷静に分析した上での、冷徹かつ現実的な選択の連続であり、それこそが戦国乱世を生き抜くための唯一の道であった。
土佐一条氏との和睦によって得られた束の間の平穏は、長くは続かなかった。土佐国から現れた「出来人(できじん)」長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)の登場が、四国全体の勢力図を根底から覆し、伊予西園寺氏を滅亡の淵へと追い込んでいく。
父・国親の跡を継いだ長宗我部元親は、驚異的な速さで土佐国内の統一を成し遂げると、その矛先を四国全土に向けた 30 。天正3年(1575年)には、かつて西園寺氏の宿敵であった土佐一条氏を中村から追放し、その旧領を完全に掌握 31 。これを足掛かりとして、本格的な伊予侵攻を開始した 23 。
元親が率いる長宗我部軍は、これまで西園寺氏が対峙してきた一条氏や宇都宮氏とは次元の違う、強大な軍事力と統一された指揮系統を持つ、近代的な軍団であった。西園寺氏にとって、長宗我部氏の台頭は、局地的な領土紛争ではなく、自家の存亡そのものを脅かす未曾有の危機であった。
圧倒的な勢いで迫る長宗我部軍に対し、西園寺公広は当初、断固として抵抗の道を選んだ。堅城・黒瀬城を拠点とし、西園寺十五将をはじめとする家臣団を率いて防戦に努めた 4 。しかし、元親の猛攻は苛烈を極めた。
長宗我部軍の侵攻は執拗に繰り返され、西園寺領は次第に蚕食されていった。天正9年(1581年)には、本拠である黒瀬城の城下町が長宗我部軍によって焼き払われるという大きな打撃を受ける 4 。これにより西園寺氏の経済基盤は揺らぎ、兵の士気も低下した。外部からの有効な援軍も期待できない中、公広は徐々に、しかし確実に追い詰められていった。
数年間にわたる必死の抵抗も、ついに限界に達した。天正12年(1584年)、長年にわたる攻防の末、西園寺公広は長宗我部元親に降伏することを決断した 4 。同じ頃、伊予守護であった河野通直も元親の軍門に降っており 24 、これにより元親は、阿波の一部を除く四国全土をほぼ手中に収めることになった。
この降伏は、伊予西園寺氏の歴史における決定的な転換点であった。それは、単なる一時的な敗北ではなく、鎌倉時代以来、南伊予に君臨してきた独立した戦国大名としての地位を完全に喪失し、長宗我部氏という新たな統一権力の支配下に組み込まれたことを意味していた。
西園寺公広と長宗我部元親の戦いは、単なる領主間の争いという側面だけでは捉えきれない。それは、旧来の地域社会に深く根を張った「国衆」的な在地領主と、より広域を支配する領域国家の形成を目指す新しい時代の「戦国大名」との衝突であった。西園寺氏が公家としての権威と在地領主の連合体という形で築き上げてきた南予における支配体制も、四国統一という、より大きな歴史の潮流の前には抗しきれなかったのである。公広の敗北は、彼の個人的な力量不足というよりも、戦国時代が後期に進むにつれて、地方の小規模な権力が、より大きな政治・軍事単位に吸収・統合されていくという、全国的な歴史的プロセスの必然的な帰結であったと言えるだろう。
長宗我部氏への降伏により、独立大名としての地位を失った西園寺公広。しかし、彼の運命は、さらに大きな時代のうねりによって翻弄されることになる。四国を統一した元親の前に、今度は天下統一を目前にした羽柴(豊臣)秀吉という、比較にならぬほどの巨大な権力が立ちはだかった。この新たな支配者の登場が、公広を悲劇的な最期へと導くことになる。
天正13年(1585年)、天下統一の総仕上げに取り掛かった秀吉は、自らに服属しない長宗我部元親を討伐するため、四国への大軍派遣を決定した。世に言う「四国攻め(天正の陣)」である 9 。秀吉は、毛利輝元、宇喜多秀家ら西国の諸大名を動員し、総勢10万を超える大軍を編成。その一翼を担う小早川隆景の軍勢が伊予へと上陸した 8 。
長宗我部氏の支配下にあった公広は、この圧倒的な軍事力の差を冷静に見極めた。抵抗は無意味と判断し、今度は侵攻してきた小早川隆景の軍門に速やかに降った 10 。この迅速な判断は、秀吉方にも好意的に受け止められた。長宗我部元親が降伏し、土佐一国のみを安堵されるという厳しい処分を受けたのに対し、公広はひとまず旧領である宇和郡の支配を続け、本拠・黒瀬城に在城することを許されたのである 6 。一時は、新たな豊臣政権下で生き残る道が開かれたかに見えた。
しかし、その安堵も束の間であった。四国平定後、秀吉は伊予の国割りを断行する。伊予一国は当初、戦功のあった小早川隆景に与えられたが、隆景は間もなく九州へ転封となる。その後、伊予は分割され、宇和郡を含む南予7万石の領主として、新たに大洲城に入部してきたのが、秀吉子飼いの武将・戸田勝隆(とだ かつたか)であった 14 。
勝隆は、秀吉の馬廻りである黄母衣衆(きぼろしゅう)を務めた歴戦の武将であったが、その統治は極めて強権的かつ過酷であったと伝えられる 26 。彼は、秀吉の権威を背景に、在地勢力の抵抗を一切許さなかった。宇和郡内では、いわゆる「太閤検地」を強行し、旧来の所領関係を無視して土地を測量し直した。これに反発する在地の土豪や農民に対しては、容赦ない弾圧を加えた(戸田騒動) 26 。勝隆にとって、宇和郡に深く根を張り、依然として人望を集める旧領主・西園寺公広の存在は、自らの支配を確立する上で、極めて目障りなものであった。
そして、運命の日が訪れる。天正15年(1587年)12月11日、戸田勝隆は公広を大洲の居城に呼び出した 11 。その口実として用いられたのが、「豊臣秀吉公が、貴殿の本領を安堵する旨を記した朱印状を下された」という、全くの偽りであった 10 。
旧領の安堵という吉報を信じ、何の疑いも持たずに大洲へ赴いた公広は、戸田邸に招き入れられた直後、勝隆の兵によって謀殺された 10 。享年51 10 。公広には実子も養子もおらず、この当主の死をもって、鎌倉時代から約350年にわたり南伊予に君臨した大名としての伊予西園寺氏は、完全に歴史からその姿を消したのである 9 。
死を覚悟した公広は、無念の思いを一首の和歌に託したと伝えられている。
「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」
(黒瀬山の峰を吹き荒れる嵐によって、私は儚く散ってしまったと、故郷である宇和の里人よ、どうか他の土地の人々に伝えておくれ)10
この辞世の句には、自らの死を、抗うことのできない「嵐」(=豊臣政権という巨大な権力)によるものと達観しつつも、故郷とそこに生きる人々への深い愛情、そして非業の最期を遂げることへの痛切な無念が込められている。
公広の謀殺は、戸田勝隆個人の残虐性や功名心だけが原因と見るべきではない。その背後には、豊臣政権による、より大きな政治的意図が存在した可能性が高い。事実、同じ時期に伊予の旧守護であった河野通直もまた、豊臣政権下で不審な最期を遂げている 27 。秀吉は天下統一を盤石なものにするため、各地で旧来の権威を持つ在地領主を排除し、自らの息のかかった武将を配置するという政策を徹底していた 34 。
公家という高い家格を持ち、長年にわたり在地の人々の信望を集めてきた公広は、新領主である勝隆の支配にとって、潜在的な「危険因子」以外の何物でもなかった。彼を生かしておくことは、将来の反乱の火種を残すことに繋がりかねない。したがって、勝隆による謀殺は、中央政権の意向を汲んだ、あるいはその暗黙の了解のもとに行われた、地方支配を確立するための冷徹な政治的判断であったと解釈するのが妥当であろう。公広の死は、中世的な在地権力が、近世的な中央集権国家によって強制的に解体されていく過程を象徴する、時代の転換点に起きた悲劇であった。
天正15年(1587年)、戸田勝隆の謀略によって西園寺公広は非業の最期を遂げ、大名としての伊予西園寺氏は滅亡した。しかし、一族の歴史は終わっても、その記憶は故郷である宇和の地に深く刻まれ、時代を超えて語り継がれていくことになる。
主家を失った西園寺氏の旧臣たちの多くは、新たな支配体制に組み込まれるか、あるいは歴史の陰に消えていった。しかし、旧主への忠誠心と新支配者への反発は、人々の心の中に燻り続けていた。その一端が表面化したのが、西園寺氏滅亡から十数年後、関ヶ原の戦いの際に起きた「三瀬騒動(みせそうどう)」である 9 。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際し、伊予宇和郡の領主であった藤堂高虎は主力を率いて東軍に参加し、領国は手薄な状態にあった。この機を捉え、西園寺氏の旧臣であった三瀬六兵衛(みせろくべえ)らが蜂起し、高虎の留守居役が守る城を攻撃したのである 9 。この反乱は最終的に鎮圧されたものの、滅亡から10年以上が経過してもなお、西園寺氏を慕う在地勢力が存在し、新支配体制に抵抗する気概を持っていたことを示す事件として重要である。
公式な歴史から抹殺された後も、西園寺公広の記憶は、彼が治めた地域社会によって大切に守り続けられた。公広の菩提寺は、彼の本拠であった黒瀬城の麓、西予市宇和町卯之町にある光教寺(こうきょうじ)である 2 。この寺には、今なお公広の位牌と、その非業の死を悼んで建てられた供養碑が残されている 14 。謀殺された領主が、その後も長く人々の手によって手厚く弔われ続けてきた事実は、彼が単なる敗者ではなく、その統治と人柄が記憶されるに値する人物であったことを静かに物語っている。
西園寺公広への敬慕が、最も劇的な形で現れたのが、彼の死から280年もの歳月が流れた幕末の慶応3年(1867年)のことである。この年、宇和盆地の有志たちが資金を出し合い、西園寺公広の木造の坐像を制作した 2 。そして、かつての居城であった黒瀬城の跡地に祠(ほこら)を建ててこの像を安置し、「黒瀬神社」として祀ったのである 36 。
この木像は、その後、神社の老朽化に伴い、昭和11年(1936年)に設立された記念会によって大切に保管され、現在は愛媛県歴史文化博物館に寄託されている 2 。伊予西園寺氏に関連する肖像資料がほとんど現存しない中、この像は公広の姿を伝える唯一の貴重な資料となっている 2 。
幕末という、徳川幕府の権威が揺らぎ、新たな時代が到来しようとする動乱の時期に、なぜ人々は数百年も前の領主の像を造り、神として祀ったのであろうか。これは単なる郷土愛や過去へのノスタルジアを超えた、より深い意味を持つ行為と解釈できる。公広は、豊臣政権という外部の巨大権力によって滅ぼされた「最後の地元領主」であった。その後、宇和郡は戸田氏、藤堂氏、そして伊達氏といった、いずれも外部から来た大名によって統治された。幕末の動乱期に高まった、自分たちのアイデンティティや「郷土」への意識の中で、外部権力に非業の死を遂げさせられた公広を顕彰することは、中央の権威に対する「静かなる抵抗」であり、自分たちの土地の歴史の正統性を再確認する行為であった。西園寺公広の記憶は、地域共同体のアイデンティティを象徴する文化的シンボルとして、時代を超えて再生されたのである。
西園寺公広の生涯は、公家から武家へという出自の特異性、大国の狭間で翻弄される地方領主の苦悩、そして中央集権化の波に飲み込まれる悲劇を、一身に体現していた。彼の物語は、戦国乱世の厳しさと、天下統一という大きな歴史の転換点における地方社会の現実を、我々に生々しく伝えてくれる。
しかし、彼の価値は単なる悲劇の主人公に留まらない。謀殺という非業の最期を遂げた後も、その記憶が数百年にわたって地域の人々に敬慕され、幕末に至って顕彰されたという事実は、彼が領民にとって記憶されるべき善政を敷いた領主であったことを示唆している。西園寺公広の生涯を追うことは、戦国時代の多様な領主の姿と、歴史の敗者の側に立った人々の思いを深く理解するための、貴重な窓口となるのである。彼の魂は、辞世の句に詠まれた通り、今も故郷・宇和の黒瀬山の峰から、静かにその地を見守っているのかもしれない。