【添付資料1:西園寺公広 関連年表】
年(西暦) |
西園寺公広・伊予西園寺氏の動向 |
関連する周辺の動向 |
天文6年(1537) |
西園寺公宣の子として誕生 1 。 |
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弘治2年(1556) |
西園寺実充の嫡子・公高が宇都宮豊綱との戦いで戦死 1 。 |
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永禄3年(1560) |
叔父・実充が左近衛少将に叙任される 2 。 |
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永禄8年(1565) |
実充が死去。公広は還俗し、実充の養子として家督を継承 2 。土佐の一条兼定を攻撃 1 。 |
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永禄11年(1568) |
鳥坂峠の戦い 。毛利氏・河野氏と結び、一条兼定・宇都宮豊綱連合軍に勝利 1 。 |
毛利氏が伊予へ出兵。宇都宮豊綱が滅亡 4 。 |
元亀3年(1572) |
土佐一条氏を攻撃するも、援軍として現れた大友宗麟軍に敗北、和睦する 6 。 |
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天正9年(1581) |
長宗我部軍の侵攻により、黒瀬城の城下町が焼かれる 7 。 |
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天正12年(1584) |
長宗我部元親の猛攻を受け、降伏。黒瀬城を明け渡す 7 。 |
長宗我部元親が四国の大部分を平定 5 。 |
天正13年(1585) |
豊臣秀吉の四国征伐 。伊予に上陸した小早川隆景に降伏 1 。 |
秀吉の四国征伐により、長宗我部元親が降伏。土佐一国に減封される 5 。伊予は小早川隆景の所領となる。 |
天正14年(1586) |
隆景の配下として九州平定に従軍 1 。 |
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天正15年(1587) |
12月11日、新領主・戸田勝隆により大洲にて謀殺される。享年51 1 。伊予西園寺氏、大名家として滅亡。 |
小早川隆景が筑前へ転封。戸田勝隆が伊予大洲に入部し、太閤検地を開始 11 。 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い 。西園寺旧臣・三瀬六兵衛らが蜂起するも鎮圧される(三瀬騒動) 5 。 |
藤堂高虎が伊予宇和郡などを領する。 |
本報告書は、戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)にその最後の足跡を刻んだ領主、西園寺公広(さいおんじ きんひろ)の生涯を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。彼の名は、しばしば「悲劇の貴公子」として語られる。名門公家の血を引く生まれでありながら、戦国の荒波に翻弄され、最後は新時代の支配者の手にかかり非業の死を遂げたその生涯は、確かに物語性に富んでいる。
しかし、公広の生涯を単なる悲劇としてのみ捉えることは、彼が生きた時代の複雑さと、彼自身が下した決断の重みを見過ごすことになりかねない。本報告書では、彼が背負った「公家」という名門の出自(貴種)と、在地を束ねる「武士」という二重の性格に着目する。そして、この特異な立場に置かれた人物が、戦国末期から豊臣政権による天下統一という、日本の歴史における一大転換期にいかに向き合い、苦闘し、そして翻弄されたのかを、深く掘り下げていく。
公広の人物像は、江戸時代に成立した軍記物『清良記』などの影響を強く受けている。そこでは、彼を謀殺した戸田勝隆の残虐性が強調される一方で、公広は高貴で非力な存在として描かれがちである。だが、彼の行動の背景には、伊予西園寺氏が伊予国宇和郡に下向して以来、数百年にわたり培ってきた独自の支配構造と、四方を強敵に囲まれた地政学的な宿命が存在した。本報告書では、これらの複合的な要因を、現存する史料を基に丹念に分析し、従来のイメージに留まらない、より立体的で深みのある西園寺公広の実像を提示することを目指すものである。
西園寺公広の生涯を理解するためには、まず彼がその末裔である「伊予西園寺氏」の特異な成り立ちを把握する必要がある。彼らは、京都の最高位の公家から分かれ、地方の武士へと変貌を遂げた稀有な一族であった。
西園寺家の本流は、平安時代に権勢を誇った藤原北家閑院流(かんいんりゅう)を祖とする公家の名門である 13 。鎌倉時代には、4代当主の西園寺公経(きんつね)が太政大臣にまで昇り、将軍家の外戚となることで鎌倉幕府とも強固な関係を築き、朝廷において絶大な権力を握った 13 。その家名は、公経が京都洛北の北山に建立した壮麗な別荘と祈願所「西園寺」に由来する 13 。この寺院の故地が、後に室町幕府3代将軍・足利義満に譲られ、鹿苑寺(金閣寺)が建てられたという逸話は、西園寺本家の格式の高さを雄弁に物語っている 13 。伊予西園寺氏は、このような摂関家に次ぐ「清華家」という極めて高貴な家格を持つ一族の庶流なのである 7 。
伊予国と西園寺家の関わりは、鎌倉時代中期の嘉禎2年(1236年)に始まる。時の権力者であった西園寺公経が、鎌倉幕府への影響力を行使し、伊予国の有力豪族であった橘公業(たちばなのきみなり)から、伊予国最大の荘園であった宇和荘を半ば横領に近い形で獲得したことに端を発する 7 。当初、西園寺家は自ら現地に赴くことはなく、代官を派遣して荘園を経営する「領家」としての関わりに留まっていた 16 。
しかし、室町時代に入り南北朝の動乱が全国に波及すると、遠隔地からの荘園経営は困難を極め、年貢収入は不安定化した。この状況を打開するため、西園寺家はついに一族を現地に派遣し、直接支配に乗り出すことを決断する 15 。『歯長寺縁起』には「永和年中(1375-1379年)、西園寺御方、当国静謐のため、御下向」との記録があり、この時期に西園寺氏の庶流(一説に公重、あるいは公良)が宇和郡に下向し、土着したと考えられている 8 。ここに、京都の公家としての西園寺家から、伊予の在地領主、すなわち「伊予西園寺氏」という武家が誕生したのである。
現地に根を下ろした伊予西園寺氏は、当初、松葉(現在の西予市宇和町)、立間(同市吉田町)、来村(現在の宇和島市)の三家に分かれて勢力を築いたが、やがて宇和郡で唯一まとまった平野であり、米作の中心地であった宇和盆地を掌握した松葉西園寺氏が、一族の盟主としての地位を確立した 15 。
伊予西園寺氏の支配体制は、他の戦国大名とは一線を画す特徴を持っていた。彼らは、軍事力による征服というよりも、本家が持つ「清華家」という絶大な権威を背景に、在地に根を張る土豪層(「殿原衆」と呼ばれた)を傘下に結集させたのである 15 。土豪たちは、西園寺氏の権威に臣従の礼をとることで自領の安堵を保証してもらい、その見返りとして有事の際の軍事協力を約束した 15 。これは、土地の給付を媒介とする織田・豊臣政権下のような強固な主従関係ではなく、あくまで西園寺氏の「権威資本」に依存した、比較的緩やかな連合体であった 6 。この支配構造の特異性は、西園寺氏の栄光を支える源泉であったと同時に、その後の命運を左右する決定的な脆弱性を内包していた。実力主義がまかり通る戦国乱世において、権威という無形の資産は、圧倒的な軍事力の前にあまりにもろく、後の長宗我部氏のような勢力の前に崩れ去る遠因となったのである。
また、伊予西園寺氏は、周辺情勢の変化に応じて本拠地を移している。当初の居城であった松葉城は、北方の河野氏や喜多郡の宇都宮氏に備えるには適した立地であった 18 。しかし、戦国時代も末期になると、脅威は南の土佐一条氏や長宗我部氏、そして海を隔てた西の豊後大友氏へと移り変わる 7 。これに対応するため、西園寺氏は松葉城の防御上の弱点や水利の乏しさを鑑み、より南西方面の監視に適した黒瀬城(現在の西予市宇和町)を新たに築き、本拠を移転した 15 。この戦略的な拠点移動は、天文年間(1532-1555年)頃、西園寺実充の代に行われたと推定されている 15 。
西園寺公広は、伊予西園寺氏が最も困難な時代に突入する、まさにその渦中で歴史の表舞台に登場する。彼の家督相続は、平時であればあり得なかった偶然の積み重ねによってもたらされたものであり、その経緯自体が、彼のその後の苦難に満ちた生涯を暗示している。
西園寺公広は、天文6年(1537年)、伊予西園寺氏の一族である西園寺公宣(きんのぶ)の子として生を受けた 1 。彼の父・公宣は、当時、南予に大きな影響力を持っていた土佐一条家の当主・一条房家の娘を妻に迎えており、西園寺氏と一条氏は姻戚関係にあった 20 。
しかし、公広自身は家督を継ぐべき立場にはなかった。彼は嫡男ではなく、当時の武家の慣習に倣い、幼くして仏門に入り、伊予来住寺(らいじゅうじ)の僧侶となっていた 1 。これは、家督相続の可能性がない子弟が、一族の安寧を祈る役割を担うという、ごく一般的な処遇であった。この時点では、彼が後に一族の命運を背負い、戦国の荒波に立ち向かうことになるとは、誰も予想していなかったであろう。
公広の運命を大きく変えたのは、一人の若き武将の死であった。当時、伊予西園寺氏の当主は、公広の叔父にあたる西園寺実充(さねみつ)であった 2 。実充には公高(きんたか)という将来を嘱望された実子がおり、彼が次期当主と目されていた。ところが弘治2年(1556年)、公高は隣郡の宿敵・宇都宮豊綱との合戦において、若くして命を落としてしまう 1 。
正統な後継者を突然失った実充は、一族の断絶を避けるため、苦渋の決断を下す。それが、僧籍にあった甥の公広を養嗣子として迎え入れることであった。永禄8年(1565年)、実充の死去に伴い、公広はついに還俗。養父・実充の娘である西姫(にしひめ)を正室に迎え、伊予西園寺氏の家督を継承したのである 1 。
この一連の当主交代劇は、まさに乱世が強いたものであった。従兄弟の戦死という突発的な事件が、仏門で静かな生涯を送るはずだった一人の青年を、否応なく存亡の危機にある一族の指導者という立場へと引きずり出した。彼が当主としての帝王学や、武将としての軍事教練を十分に受ける時間があったかは甚だ疑問である。準備期間もなきまま、すでに四方を敵に囲まれた一族の舵取りを任された彼の立場は、当初から極めて困難なものであった。彼の苦闘の生涯は、この予期せぬ家督相続から始まったのである。
家督を継いだ西園寺公広が直面したのは、まさに「四面楚歌」というべき絶望的な地政学的状況であった。伊予国内は守護である河野氏の権威が及ばず、中小の国人領主が群雄割拠する不安定な状態が続いていた 5 。その中で、伊予西園寺氏は北に宇都宮氏、南に土佐一条氏、そして海を隔てた西には九州の覇者・大友宗麟という強大な勢力に囲まれ、常に存亡の危機に晒されていた 9 。
【添付資料2:天正年間における伊予国・南予の主要勢力関係図】
Mermaidによる関係図
(注:この図は天正年間初頭から中期にかけての複雑な関係性を簡略化したものである)
公広の治世は、家督相続の直後から周辺勢力との戦いの連続であった。北の喜多郡を本拠とする宇都宮氏は長年の宿敵であり、南の土佐国幡多郡に拠点を置く一条氏は、国境を接する脅威であった。さらに、西の豊後水道の対岸には、九州の大部分を手中に収め、四国への影響力を強めようとする大友宗麟が虎視眈々と機会を窺っていた。公広は、これらの勢力に同時に対応するという、極めて困難な舵取りを強いられたのである。
このような状況下で、公広は生き残りをかけて巧みな外交戦略を展開する。いわゆる「遠交近攻」である 6 。永禄11年(1568年)、宿敵であった宇都宮豊綱が土佐の一条兼定と結んで西園寺領に侵攻してくると、公広は驚くべき手を打つ。これまで対立することもあった伊予国守護の河野氏と連携し、さらには中国地方の覇者である毛利輝元にまで支援を要請したのである。毛利氏の援軍を得た西園寺・河野連合軍は、宇和郡と喜多郡の境に位置する鳥坂峠で宇都宮・一条連合軍を迎え撃ち、これに勝利を収めた 1 。この戦いは、公広が単なる受動的な存在ではなく、複雑な国際情勢を読んで能動的に立ち回るだけの外交手腕を持っていたことを示している。しかし、この勝利もまた、新たな火種を生むことになる。
元亀3年(1572年)、公広は再び南の土佐一条氏への攻撃を開始する 7 。だが、この時の一条兼定は、九州の大友宗麟の娘を正室に迎えており、大友氏と強固な姻戚関係にあった 7 。娘婿の窮地を知った宗麟は、一条氏支援を名目に、佐伯惟教(さえき これのり)らを大将とする大友水軍の主力を伊予へと派遣した 6 。
予期せぬ大軍の介入を受けた西園寺軍は苦戦を強いられ、本拠である黒瀬城まで攻め込まれる事態となった 6 。最終的に公広は敗北を認め、大友氏に和睦を請うことで、かろうじて滅亡を免れた 6 。この一連の出来事は、公広が置かれていた地政学的な「詰み」の状態を象徴している。一つの敵を叩けば、その背後にいるさらに強大な勢力が動き出す。一つの勢力と和睦すれば、その敵対勢力から狙われる。彼の治世は、常にこのような外交的・軍事的なジレンマとの戦いであった。彼の行動は、優柔不断や弱さの表れではなく、この絶望的な状況下で一族を存続させるための、必死のバランス外交であったと評価すべきであろう。
公広の巧みなバランス外交も、時代の大きなうねりの前には限界を迎える。土佐から現れた新たな覇者・長宗我部元親の台頭と、それに続く豊臣秀吉による天下統一事業は、伊予西園寺氏の運命を決定的に左右することになった。
天正年間(1573年以降)、土佐国を完全に統一した長宗我部元親は、その矛先を四国全土へと向けた 5 。元親はまず、西園寺氏と長年争ってきた土佐一条氏を追放してその旧領を併合し、伊予国境に直接勢力を伸ばしてきた 6 。これにより、西園寺領は長宗我部氏の侵攻ルートの最前線に立たされることになった。
長宗我部軍の侵攻は熾烈を極め、西園寺方の支城は次々と攻略されていった。天正9年(1581年)には、本拠・黒瀬城の城下町が焼き払われるなど、西園寺氏は防戦一方となり、徐々にその勢力圏を削られていく 7 。
圧倒的な軍事力の差の前に、もはや抵抗は不可能と悟った公広は、ついに降伏を決断する。天正12年(1584年)、長宗我部元親の猛攻の前に黒瀬城は陥落し、伊予西園寺氏はその軍門に降った 1 。これにより、鎌倉時代から続いた伊予西園寺氏の独立領主としての歴史は、事実上の終焉を迎えた。
しかし、歴史の歯車はさらに大きく回転する。公広が元親に降伏したわずか1年後の天正13年(1585年)、中央で天下統一を進める羽柴(豊臣)秀吉が、弟の秀長を総大将とする10万を超える大軍を四国へ派遣した(四国征伐) 25 。
毛利輝元配下の小早川隆景が率いる軍勢が伊予に上陸すると、公広は即座に情勢を見極め、昨日までの主君であった長宗我部氏を見限り、戦わずして隆景に降伏した 1 。この迅速な決断は、彼がもはや地方勢力同士の争いの時代が終わり、中央の巨大権力にいかに組み込まれるかが死活問題となる新時代への移行を、敏感に察知していたことを示している。
秀吉による戦後処理「四国国分」の結果、四国をほぼ手中に収めていた長宗我部元親は、本国の土佐一国のみを安堵されるという厳しい処分を受けた 5 。一方、いち早く秀吉方に恭順の意を示した公広は、旧領の大部分は没収されたものの、小早川隆景の配下となることで、本拠・黒瀬城の在城は許されるという、比較的寛大な処置を受けた 1 。彼はその後、新領主となった隆景の武将として、続く九州平定にも従軍している 9 。
長宗我部氏への降伏、そして翌年の豊臣氏への再降伏という一連の動きは、一見すると節操のない日和見主義と映るかもしれない。しかし、これは滅亡の淵に立たされた小大名が、生き残りを賭けて下した極めて現実的な(プラグマティックな)判断であったと解釈できる。彼は、もはや地方の独立領主としての意地を張ることの無意味さを悟り、「誰の傘下に入るか」という新しい時代のゲームのルールに、必死で適応しようとしていたのである。
九州平定への従軍を終え、ひとまずは安堵したかに見えた西園寺公広。しかし、彼を待ち受けていたのは、あまりにも非情で悲劇的な結末であった。豊臣政権による新たな支配体制の確立は、旧来の地域権力にとって、新たな脅威の始まりを意味していた。
天正15年(1587年)、四国平定の功により伊予一国を与えられていた小早川隆景が、九州平定の功績で筑前・筑後(現在の福岡県)へと転封されることになった。その後任として、宇和郡を含む南予の新たな領主として大洲城に入部してきたのが、豊臣秀吉子飼いの武将・戸田勝隆(とだ かつたか)であった 11 。
勝隆は、秀吉がまだ羽柴姓を名乗っていた頃からの古参の家臣であり、精鋭の親衛隊である黄母衣衆(きぼろしゅう)の一員にも選ばれるなど、秀吉の信任が厚い武将であった 11 。彼の役割は、豊臣政権の支配を新たな領地に徹底させることであり、その統治は極めて強権的であったと伝えられている。勝隆は着任するや否や、領内の旧来の在地勢力を弾圧し、豊臣政権の基本政策である太閤検地を、一切の妥協なく強行した 11 。
勝隆の強引な検地は、土地との結びつきが強い在地土豪や農民たちの激しい反発を招き、領内では一揆が頻発した。勝隆は、これらの反乱の背後に、依然として地域に隠然たる影響力を持つ旧領主・西園寺公広が存在し、彼が糸を引いているのではないかと疑った 1 。
江戸時代に成立した軍記物『清良記』や『宇和旧記』など後世の記録によれば、勝隆は公広を抹殺するために巧妙な罠を仕掛けたという。彼は、「秀吉公が公広殿のこれまでの働きを認め、本領を安堵するとの朱印状を下された」という偽りの知らせを送り、公広を油断させた 1 。この偽の朱印状に喜んだ公広は、天正15年12月11日(西暦1588年1月9日)、数人の供だけを連れて、礼を述べるために勝隆の居城である大洲城を訪れた。しかし、それは死への招待状であった。城内の一室に招き入れられた公広は、その場で勝隆の手勢によって謀殺された 1 。享年51。実子も養子もいなかったため、この事件をもって、大名としての伊予西園寺氏は完全に滅亡した 1 。この謀殺事件に関する同時代の一次史料は乏しく、詳細な手口は後世の編纂物に依拠する部分が大きいが、旧領主が新領主によって誅殺されたという事実は、複数の記録から確実視されている 33 。
公広謀殺の動機は、どのように解釈すべきだろうか。一つは、後世の軍記物が描くように、戸田勝隆個人の残虐非道な性格に起因するという見方である 33 。しかし、より深く考察すると、この事件は勝隆個人の資質の問題だけに矮小化することはできない。むしろ、豊臣政権が推し進めた全国統一政策の、必然的な帰結であった可能性が高い。
秀吉政権は、「惣無事(そうぶじ)」、すなわち全国の私闘を禁じ、平和を実現するという大義を掲げる一方で、その支配に抵抗する、あるいは抵抗する可能性のある旧来の地域権力に対しては、極めて過酷な姿勢で臨んだ 30 。旧領主は、本人が意図せずとも、新領主への不満を持つ在地勢力の「神輿」として担ぎ上げられ、反乱の象徴となりうる危険な存在であった 29 。勝隆は、秀吉の忠実な家臣として、将来の反乱の芽を未然に摘み取るという「政治的判断」に基づき、公広の抹殺を実行したと考えられる 33 。公広の死は、中世的な在地領主制から、中央集権的な近世幕藩体制へと移行する過程で、旧勢力がいかに暴力的に解体・再編されていったかを示す、象徴的な事件であった。勝隆の「悪政」とは、豊臣政権の強硬な支配方針を、現場で忠実に実行した結果の表れであり、公広はその方針の「生贄」となったのである。
非業の最期を遂げる直前、公広は一首の辞世の句を残したと伝えられている 1 。
黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人
この歌は、「私が死んだことを、誰かに尋ねられたならば、謀殺されたなどとは言わずに、故郷の黒瀬山の峰を吹き抜ける嵐によって、木の葉が散るように自然の摂理で死んでいったのだと、そう伝えておくれ、宇和の里の人々よ」と解釈できる 7 。自らの死が、非情な謀略によるものであることを悟りながらも、それを表に出さず、領民の動揺を鎮めようとする配慮が見て取れる。そこには、最後まで公家出身としての気高い矜持と、領主として自らの民を慈しむ心が込められており、彼の人物像を偲ばせる。
西園寺公広の死は、大名家としての伊予西園寺氏の滅亡を意味したが、それは南予の地における「西園寺」の記憶の終わりではなかった。旧主を失った家臣や領民たちの抵抗は、その後も続き、新時代の支配者たちを悩ませることになる。
公広を謀殺し、地域の求心力を排除した戸田勝隆であったが、その苛烈な支配は変わることなく続いた。特に、太閤検地の強行とそれに伴う重税は、在地土豪や農民の生活を著しく圧迫し、領内では一揆が頻発した 11 。この一連の抵抗運動は、後に「戸田騒動」と呼ばれる 11 。勝隆はこれらの抵抗を容赦なく弾圧し、一説には西園寺旧臣や在地豪族ら数百人を惨殺したと伝えられている 34 。この弾圧は、豊臣政権の支配を確立するための見せしめという側面が強かったと考えられ、南予の在地社会に深い傷跡を残した 30 。
暴政を敷いた戸田勝隆であったが、文禄3年(1594年)、朝鮮出兵の帰途に病死し、嗣子がいなかったため戸田家は断絶した 11 。その後、伊予宇和郡は築城の名手としても知られる藤堂高虎の所領となる。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、藤堂高虎は徳川家康率いる東軍に与して主力を率い、領国を離れた。この機を捉え、西園寺氏の旧臣であった三瀬六兵衛(みせ ろくべえ)らが、西軍の毛利氏と通じて蜂起した 5 。これが、西園寺旧臣による最後の組織的な抵抗運動となった「三瀬騒動」である 37 。しかし、この反乱は高虎が留守居役として残していた家臣・芦田昌隆らによって事前に察知され、鎮圧された 5 。この事件をもって、伊予西園寺氏再興の夢は完全に潰えることとなった。
これらの抵抗運動は、第一章で考察した西園寺氏の「権威」による支配が、単なる名目上のものではなく、在地社会に深く浸透し、人々の心に刻まれていたことの証左である。旧主への忠誠心と新支配者への反発が、公広の死後も十数年にわたって抵抗の炎を燃やし続けたのである。
江戸時代に入ると、関ヶ原の戦いの功績などにより、伊予宇和郡は仙台藩主・伊達政宗の長男である伊達秀宗を藩祖とする宇和島藩10万石の所領となった 28 。宇和島藩の家臣団は、主に政宗が選抜した「伊達57騎」と呼ばれる家臣たちで構成されており、西園寺氏の旧臣が藩の中枢に大規模に登用されたという記録は乏しい 28 。多くは帰農したか、あるいは他藩に新たな仕官先を求めて離散したものと考えられる。
しかし、西園寺氏の血脈と記憶が完全に途絶えたわけではない。例えば、西園寺氏の庶流であった来村(くのむら)西園寺氏のように、一族の一部は存続した 39 。また、現在の八幡浜市日土(ひづち)町などには、今なお西園寺一族の末裔と見なされる家々が存在し、その伝承が地域に語り継がれている 8 。大名家としての伊予西園寺氏は滅亡したが、その存在は南予の地に深い影を落とし、その後の歴史にも影響を与え続けたのである。
西園寺公広の生涯は、公家という高貴な血脈を持ちながら、戦国武将として生きざるを得なかった一人の人間の、苦悩と矜持の記録である。彼の歴史的評価と、彼が現代に残した遺産について、最後に総括する。
西園寺公広は、戦国時代から織豊時代へという歴史の転換期において、旧来の「権威」と新しい「実力」が激しく交錯する中で、一族の存続のために最後まで苦闘し続けた人物として再評価されるべきである。長宗我部氏への降伏、そして豊臣氏への再降伏といった彼の決断は、単なる弱さや日和見主義の表れではなく、限られた選択肢の中で最善を模索した、極めて現実的な生存戦略であった。
彼の悲劇は、彼個人の資質に起因するものではなく、中世的な地域権力が、より強大で中央集権的な近世国家へと飲み込まれていく、時代の大きな構造変化の過程で生じたものである。公広の生涯と伊予西園寺氏の滅亡は、この歴史的転換点における地方社会の痛みを、凝縮して体現していると言えよう。
公広と伊予西園寺氏の記憶は、今なお南予の地に点在する史跡や文化財を通じて、現代に語り継がれている。
西園寺公広の生涯は、時代の激流に翻弄されながらも、最後まで自らの出自としての矜持と、領主としての責任を失わなかった一人の武将の物語である。彼の死は、一つの武家の終焉であると同時に、日本の歴史が中世から近世へと大きく舵を切る、その転換点における必然の痛みを象徴する出来事であった。その名は、伊予の地に深く刻まれ、その悲劇的な生涯は、現代に生きる我々に対し、歴史の非情さと、その中で懸命に生きた人々の姿を静かに語りかけている。