最終更新日 2025-07-07

西尾忠永

西尾忠永は酒井重忠の三男。西尾吉次の養子となり武蔵原市藩主を継承。関ヶ原・大坂の陣で武功を挙げ、白井藩、土浦藩へと加増移封。37歳で急逝も西尾家の礎を築いた。
西尾忠永

徳川黎明期を生きた譜代大名 ― 西尾忠永の生涯と元和偃武

序章:徳川黎明期を生きた武将、西尾忠永

本報告書は、戦国時代の終焉から江戸幕府による泰平の世が確立される過渡期を生きた武将、西尾忠永(にしお ただなが)の生涯を、詳細かつ多角的に分析・考察するものである。徳川四天王に代表される創業の功臣たちに続く世代の譜代大名として、忠永は戦国の気風が色濃く残る時代に生を受け、幕府による新たな秩序が形成される「元和偃武(げんなえんぶ)」の時代を駆け抜けた。

彼の生涯は、単なる一個人の記録に留まるものではない。それは、徳川幕府がいかにしてその支配体制を盤石なものへと築き上げていったか、その政治的・社会的力学を具体的に映し出す、極めて貴重な歴史の証言である。実家である酒井家は幕閣の中枢を担い、養子先である西尾家は由緒ある譜代大名家であった。この二つの血脈と家格を一身に継いだ忠永の生涯を丹念に追うことを通じて、本報告書は、江戸時代初期における武家の在り方、大名の役割、そして徳川幕府の巧みな統治戦略の一端を明らかにすることを目的とする。

第一章:出自と血脈 ― 酒井家と西尾家、二つの名跡

西尾忠永の人物像と歴史的役割を理解する上で、彼の出自が持つ政治的・社会的意味を解明することは不可欠である。彼は、幕政を主導する酒井家の血を引きながら、別の譜代大名家である西尾家を継ぐという、特異な経歴を歩んだ。この章では、忠永のアイデンティティを形成した二つの家に着目し、その背景を深く掘り下げる。

第一節:名門・酒井家の三男として

西尾忠永は、天正12年(1584年)、徳川譜代の重臣である酒井重忠の三男として、三河国西尾に生を受けた 1 。母は山田重辰の娘である 1 。酒井家は徳川家臣団の中でも屈指の名門であり、忠永の実兄には、後に二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・家光の時代に大老として幕政に絶大な権勢を誇ることになる酒井忠世がいた 1

この出自は、忠永の生涯にわたるキャリアパスを規定する上で決定的な意味を持った。生まれながらにして幕府の中枢と深く結びついていたのである。当時の武家社会において、家督を継ぐ長男以外の子、特に次男や三男は「厄介」と呼ばれ、他家への養子縁組や、分家を創設して新たな家を興すことが一般的な道であった 4 。忠永の場合、兄・忠世の存在が、彼の生涯を通じて強力な政治的後ろ盾として機能したことは想像に難くない。彼のキャリアは、個人の才覚のみならず、酒井家という強力な政治的背景の上に築かれていったのである。

第二節:西尾家への養子縁組 ― 戦略的結合の意義

忠永の人生における最初の転機は、慶長4年(1599年)、西尾吉次(にしお よしつぐ)の娘を娶り、後にその養子となったことである 1 。養父となった西尾吉次は、三河以来の徳川家臣であり、本能寺の変後の家康の「伊賀越え」に際しても功があった人物である 6 。家康の関東入部に従い、武蔵国原市(現・埼玉県上尾市)に5000石を与えられ、関ヶ原の戦いの功により美濃国内に7000石を加増され、計1万2000石を領する大名となっていた 6 。しかし、吉次には成人した実子がおらず、家の断絶が危ぶまれる状況にあった 8

この養子縁組は、単なる家督相続という私的な事柄に留まらず、江戸幕府初期の政治情勢を色濃く反映した、高度な戦略的結合であった。当時の幕府は、大名統制策の一環として「末期養子(まつごようし)の禁」を厳格に運用しており、藩主が跡継ぎのないまま急死した場合、その家は容赦なく改易(領地没収)される運命にあった 9 。したがって、後継者を確保することは、大名家にとって家門の存続を賭けた至上命題であった。

この状況下で、西尾家と酒井家の利害は完全に一致した。西尾家にとっては、酒井家という幕閣の最有力一門から養子を迎えることで、改易のリスクを回避し、幕府中枢との強固なパイプを確保できる。一方、酒井家にとっては、一門の人間を他の譜代大名家の当主とすることで、幕府内における自らの影響力をさらに拡大し、譜代大名ネットワークにおける支持基盤を強化するという狙いがあった。この縁組は、徳川政権が譜代大名間の婚姻や養子縁組を巧みに利用し、その支配体制を網の目のように緻密に張り巡らせていった、初期の典型的な事例と位置づけることができる。

さらに、西尾吉次の家系は、その家伝において三河の名門・吉良氏の血を引くとされており、その由緒ある家柄は武家社会において一定の権威を持っていた 8 。この名門の家系に、幕府の実力者である酒井家の血が加わることは、西尾家にとって名分と実利の両面で計り知れない価値をもたらしたのである。


表1:西尾忠永 家系図

忠永を中心とする家系と婚姻関係を以下に示す。特に、娘が実の伯父である酒井忠世の「養女」として、有力大名である有馬家に嫁いでいる点は、この縁組が単なる家同士のものではなく、幕府中枢が関与した高度な政治的結合であったことを物語っている。

関係

人物名

備考

出典

実父

酒井重忠

徳川家臣、三河西尾城主

1

実母

山田重辰の娘

1

実兄

酒井忠世

江戸幕府 大老

1

本人

西尾忠永

養父

西尾吉次

武蔵原市藩 初代藩主

1

正室

西尾吉次の娘

1

嫡男

西尾忠昭(忠照)

西尾家3代、土浦藩2代藩主

1

次男

西尾忠知

1

長女

福寿院

酒井忠世の養女となり、有馬忠頼に嫁ぐ

1

婿

有馬忠頼

筑後久留米藩 2代藩主

12


第二章:武将としての道程 ― 関ヶ原から大坂の陣へ

徳川家康による天下統一事業の総仕上げと、それに続く幕府の軍事的基盤確立の過程において、西尾忠永は譜代の武将として着実にその役割を果たした。彼の武功は、戦国乱世の終焉と新たな時代の到来を象徴するものであった。

第一節:若き日の武功と幕臣としての台頭

忠永は、はじめ徳川家康に直接仕え、2000石の所領を与えられていた 1 。彼の武将としてのキャリアは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍したことから本格的に始まる 1 。この天下分け目の決戦への参加は、徳川家臣としての忠誠を証明する上で極めて重要な意味を持った。

戦後、世の中が安定に向かう中、忠永は武人としての側面だけでなく、幕府の官僚としての能力も発揮していく。慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府が開かれると、忠永は従五位下丹後守に叙任された 1 。さらに、のちには将軍への取次役や儀礼を司る要職である奏者番を務めている 1 。この人事は、彼が単に戦場での武勇を期待されただけでなく、幕府の儀礼や政務にも通じた、新時代の武士として期待されていたことを示唆している。

第二節:大坂の陣における役割 ― 「秩序の執行者」として

忠永の武将としてのキャリアの集大成は、大坂の陣であった。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、そして元和元年(1615年)の夏の陣に、彼は徳川方としていずれも従軍した 1 。この戦いにおいて彼に与えられた任務は、彼の役割を象徴するものであった。

ユーザー提供情報によれば、忠永は大和国(現在の奈良県)や和泉国(現在の大阪府南部)の警護を命じられ、特に戦乱に乗じて横行する味方兵士による略奪行為を厳しく取り締まったとされる。この任務は、単なる後方警備以上の重要な意味を持っていた。大坂の陣は、豊臣家を滅ぼすという軍事目的と同時に、徳川による「天下泰平」の時代の到来を世に知らしめるための、政治的な総仕上げでもあった 14 。戦国時代以来の悪習であった乱妨・狼藉を厳しく禁じ、規律の取れた軍隊の姿を天下に示すことは、徳川の支配の正当性を内外にアピールする上で不可欠の要素であった。

忠永が警護を命じられた大和・和泉には、興福寺や東大寺、四天王寺といった、朝廷や民衆の信仰を集める重要な寺社が数多く存在する。これらの地域で軍規を維持し、民衆の安全を確保することは、徳川の天下がもたらすものが「平和と秩序」であることを具体的に示す、きわめて象徴的な役割であった。彼の厳格な軍規の執行は、徳川幕府の統治イデオロギーを、戦いの最前線で実践する行為そのものであった。この働きは、武勇のみに頼る戦国武将から、秩序を維持し統治を担う近世大名へと、武士の役割が変容していく様を体現する行動として、高く評価されたと考えられる。

また、福島正則が西尾丹後守(忠永)に宛てた慶長19年(1614年)10月25日付の書状が現存している 16 。この書状は、二代将軍・秀忠の出陣や大御所・家康の道中の様子を伝える内容であり、忠永が徳川軍の中枢に近い場所で、福島正則のような有力大名と直接情報を交換する立場にあったことを示している。これは、彼が単なる一兵卒ではなく、幕府軍の全体戦略の中で重要な位置を占める指揮官であったことを裏付けるものである。

第三章:藩主としての治世 ― 原市、白井、そして土浦へ

西尾忠永の生涯は、江戸時代初期の譜代大名に典型的な、頻繁な移封(国替え)と加増の連続であった。これは、彼の功績が幕府に認められていた証であると同時に、幕府による大名再配置戦略の一環でもあった。この章では、忠永の藩主としての足跡を追い、その領国経営の実態を明らかにする。

第一節:原市藩(1万2000石) ― 西尾家の継承

慶長11年(1606年)8月、養父・西尾吉次が死去すると、同年10月7日、忠永はその遺領を継承した 1 。これにより、武蔵国足立郡原市(5000石)と美濃国内(7000石)を合わせた計1万2000石を領する大名となり、武蔵原市藩の二代藩主となった 1

この原市の地で特筆すべきは、菩提寺である妙厳寺(みょうごんじ)との関係である。養父・吉次は、この妙厳寺を西尾家の菩提寺として手厚く再興していた 18 。大名家にとって菩提寺は、単なる信仰の対象ではなく、一族の権威と永続性を象徴する重要な存在であった。江戸時代を通じて寺請制度が確立していく中で、寺院は領民を把握・管理する幕藩体制の末端機関としての役割も担うようになる 21 。西尾家は、後に他国へ移封された後も、この妙厳寺を菩提寺として維持し続けたことが記録されている 19 。これは、領地を離れた後も発祥の地との繋がりを保ち、家の歴史的正統性を維持しようとする大名家の意識の表れである。初代・二代が眠る(あるいは祀られる)この寺は、その後の当主たちにとって自らのルーツを確認し、家臣団の結束を固めるための精神的な支柱であり続けたのである。

第二節:白井藩(2万石)への加増移封

元和2年(1616年)、忠永は上野国群馬郡内の白井(現・群馬県渋川市)へ2万石で移封となり、白井城を居所とした 1 。これは、徳川家康の死後、二代将軍・秀忠の体制下で行われた全国的な大名再配置の一環であった。石高が1万2000石から2万石へと大幅に加増されており、これは大坂の陣での軍功などが幕府に高く評価された結果と見て間違いないだろう 2 。しかし、白井藩における忠永の治世はわずか2年と短く、具体的な藩政に関する記録は乏しい 22

第三節:土浦藩(2万石)初代藩主としての治績

元和4年(1618年)8月、忠永は常陸国新治郡内の土浦へ2万石で移封され、土浦城主となった 1 。これが常陸土浦藩の始まりであり、忠永が初代藩主である。土浦での治世は2年にも満たない短い期間であったが、彼は近世土浦の都市計画の基礎を築く上で、重要な足跡を残している。

元和5年(1619年)、忠永は土浦城の勝軍木(ぬるで)曲輪の北部にあった滝泉寺を、城の東方(現在の鷹匠町)へ移転させた。さらに、城西の土塁上にあった八幡社をこの滝泉寺に合祀し、天下泰平と武門の繁栄を祈願したという 1

この寺社の移転・統合は、単なる区画整理事業ではない。それは、近世城下町の設計思想を体現する、高度に政治的・軍事的な意図に基づいた行為であった。近世城下町の建設において、寺社の配置は極めて重要な意味を持っていた。多くの城下町では、寺院群を城の外縁部や街道沿いに集中的に配置することで、有事の際には防衛拠点として機能させる軍事的な狙いがあった 24 。同時に、新たな領主がその権威をもって既存の宗教施設の配置を再編することは、領国支配の始動を内外に強く印象づける政治的なデモンストレーションでもあった。これは、幕府が「諸宗寺院法度」などを通じて全国の宗教勢力を統制下に置こうとしていた大きな流れ 25 を、自らの領国レベルで実践する行為でもあった。忠永の滝泉寺移転は、軍事、政治、宗教の各側面を熟慮した、近世大名による合理的かつ戦略的な領国経営の一環として評価することができる。


表2:西尾忠永 藩主歴と石高の変遷

忠永の生涯におけるキャリアパスは、江戸初期の譜代大名に特徴的な加増と移封の歴史そのものであった。以下の表は、彼の藩主としての経歴をまとめたものである。この変遷は、忠永個人の功績が評価された結果(加増)と、幕府による全国的な大名配置戦略(移封)という二つの力が作用した結果であり、徳川支配体制が確立していく時代の流動性を端的に示している。

藩名

期間

石高

備考

出典

武蔵 原市藩

慶長11年~元和2年 (1606-1616)

1万2000石

養父・吉次の遺領を相続。二代藩主。

1

上野 白井藩

元和2年~元和4年 (1616-1618)

2万石

加増移封。白井藩主。

1

常陸 土浦藩

元和4年~元和6年 (1618-1620)

2万石

移封。初代土浦藩主。

1


第四章:夭折と後世への継承

輝かしいキャリアを歩んだ西尾忠永であったが、その生涯はあまりにも短かった。しかし、彼が築いた家と、幕府内に張り巡らせた人脈は、その死後も子孫へと受け継がれ、西尾家存続の礎となった。

第一節:三十七年の生涯の終焉

元和6年(1620年)1月14日、忠永は土浦の地で急逝した。享年37 1 。法号は月海岫雲清光院(げっかいしゅううんせいこういん)と贈られた 1 。死因に関する具体的な記録は見当たらないが 27 、戦国の遺風が残る時代の武士としても、あまりに早い死であった。彼の夭折により、西尾家は再び幼い当主・忠昭を迎えることとなり、藩政は新たな試練に直面することになる。

第二節:墓所の変遷に見る大名家の論理

忠永の遺体は、まず死去した地である土浦の神龍寺に葬られた。しかし、彼の墓はそこに留まることはなかった。跡を継いだ子の忠昭、そしてその後の子孫が幕府の命により駿河国田中、信濃国小諸、そして最終的に遠江国横須賀へと移封されるのに伴い、忠永の墓所もまた、改葬を繰り返したのである 1

現在、静岡県掛川市にある龍眠寺(りゅうみんじ)には、忠永を初代として、その子・忠照(忠昭)、孫・忠成から幕末に至るまでの西尾家歴代藩主の墓塔が整然と並んでいる 29 。移封のたびに莫大な手間と費用をかけて祖先の墓所を移転させたこの行為は、単なる先祖崇拝に留まらない、極めて政治的な意味合いを持つ。大名家にとって、初代や家を中興した当主の墓所は、その家の「根」であり、権威の源泉であった。新たな領地において、祖先の墓所を自らの居城の傍らに置くことは、その土地と西尾家の歴史を強制的に結びつけ、領民や家臣団に対して家の永続性と支配の正当性を視覚的に示すための、強力な装置であった。龍眠寺に並ぶ壮麗な墓石群は、西尾家が幾多の移封を乗り越えて幕末まで存続したことの、何より雄弁な証なのである。

第三節:子孫と婚姻によるネットワークの拡大

忠永の死後、家督は子の忠昭(後に忠照と改名)が継いだ 1 。そして、忠永が生前に築いた関係性は、次世代においてさらに大きな政治的ネットワークへと発展していく。

忠永の娘の一人、福寿院は、実の伯父である大老・酒井忠世の養女となった上で、筑後国久留米藩21万石の藩主・有馬忠頼の正室として嫁いだ 1 。これは、西尾家が酒井家という幕閣中枢を介して、九州の有力な外様大名である有馬家とも強固な姻戚関係を結んだことを意味する。譜代大名である西尾家が、幕府の支配体制において、中央と地方、あるいは大名家同士を結びつける「結節点」としての重要な役割を担っていたことが、この一例からも鮮明に見て取れる。忠永の代に築かれた幕閣との太いパイプが、彼の死後も西尾家の大きな資産となり、次世代のさらなる発展の礎となったのである。

結論:西尾忠永という存在の歴史的評価

西尾忠永の生涯を総括すると、彼は徳川幕府創成期における「理想的な譜代大名」の一つの典型であったと言える。幕閣の中枢に連なる名門の血筋を持ち、関ヶ原・大坂の陣という天下統一の総仕上げにおいて主君への忠誠を戦場で示し、与えられた領地では幕府の統治方針に沿った秩序ある支配を実践した。

彼の人生は、個人の武勇が最も尊ばれた「戦国武将」から、幕府の官僚として統治能力や忠誠が厳しく問われる「近世大名」へと、武士の役割が大きく変容していく過渡期そのものを象徴している。大坂の陣における厳格な軍規の維持や、土浦における戦略的な城下町整備といった彼の行動は、まさにその時代の変化を体現するものであった。

元和6年(1620年)、37歳という若さでその生涯を閉じたため、彼自身が幕政の中枢で大老・酒井忠世のような権勢を振るうことはなかった。しかし、徳川による新たな時代の礎を築く上で、忠実かつ有能な「統治の歯車」として、その役割を十全に果たした人物として評価されるべきである。彼の短い生涯は、個人の野心よりも、幕府という巨大な組織の一員としての機能と忠誠が求められる新しい時代の到来を告げる、一つの道標であった。

巻末付録

表3:西尾忠永 年表

年代 (西暦)

元号

年齢

出来事

出典

1584年

天正12年

1歳

三河国西尾にて、酒井重忠の三男として誕生。

1

1599年

慶長4年

16歳

西尾吉次の娘を娶る。

1

1600年

慶長5年

17歳

関ヶ原の戦いに従軍。

1

1603年

慶長8年

20歳

11月25日、従五位下丹後守に叙任される。

1

(時期不明)

西尾吉次の養子となる。後に奏者番を務める。

1

1606年

慶長11年

23歳

8月、養父・吉次が死去。10月7日、家督を相続し武蔵原市藩主(1万2000石)となる。

1

1614年

慶長19年

31歳

10月、大坂冬の陣に従軍。

1

1615年

元和元年

32歳

大坂夏の陣に従軍。

1

1616年

元和2年

33歳

上野国白井藩へ加増移封(2万石)。

1

1618年

元和4年

35歳

8月、常陸国土浦藩へ移封(2万石)。初代藩主となる。

1

1619年

元和5年

36歳

土浦城下の滝泉寺を城東へ移転させるなど、城下町の整備を行う。

1

1620年

元和6年

37歳

1月14日、土浦にて死去。

1

引用文献

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  2. 西尾忠永(にしお ただなが)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%BF%A0%E6%B0%B8-1098878
  3. 酒井忠世 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E4%B8%96
  4. 武家の戸籍の不思議 - 「剣客商売」道場 http://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/busikoseki.htm
  5. 西尾吉次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%90%89%E6%AC%A1
  6. 西尾吉次(にしお よしつぐ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%90%89%E6%AC%A1-1098890
  7. 家康の伊賀越えに随行の西尾吉次、関が原の合戦で功を挙げ5000石の旗本、最後は大名に・・原市陣屋 https://ameblo.jp/0123gogogo/entry-12765632755.html
  8. 幕藩大名西尾氏二家の系譜 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/nisio1.htm
  9. 幕政の安定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/120968/
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  13. 筑後久留米藩 有馬家とその一族 - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/kurume-arima
  14. 徳川家康の権力強化。武家諸法度の発布で支配体制を確立 | 歴史・文化 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/200817
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  18. No.9 妙厳寺 | 新訂 旅と歴史 http://tabireki70.blog114.fc2.com/blog-entry-13.html
  19. 原市を足掛かりに 躍進した 西 に 尾 吉 よ 次 290 - 上尾市 https://www.city.ageo.lg.jp/uploaded/attachment/27470.pdf
  20. 妙厳寺 (上尾市) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%8E%B3%E5%AF%BA_(%E4%B8%8A%E5%B0%BE%E5%B8%82)
  21. 寺請制度とは?その目的と制度の由来を解説 | 家系図作成の家樹 https://ka-ju.co.jp/column/terauke
  22. 白井藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E4%BA%95%E8%97%A9
  23. 土浦藩 - 茨城県:歴史・観光・見所 https://www.ibatabi.com/jyouka/tutiura.html
  24. 2 歴史まちづくりの特性の見方・読み方 https://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0723pdf/ks072307.pdf
  25. 日本史|江戸幕府による統制 https://chitonitose.com/jh/jh_lessons74.html
  26. 【日本史講師対象】江戸時代をいかに教えるか③~諸勢力との関係構築 https://www.juku.st/info/entry/1342
  27. 近世関宿城主の変遷について基礎的考察 - 千葉の県立博物館 https://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/files/1519011537435/simple/18%E8%BF%91%E4%B8%96%E9%96%A2%E5%AE%BF%E5%9F%8E%E4%B8%BB%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E7%9A%84%E8%80%83%E5%AF%9F%EF%BC%8D%E5%9F%8E%E4%B8%BB%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E9%A0%86%E3%81%AE%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%EF%BC%8D.pdf
  28. 徳川家光|国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1175
  29. 【龍眠寺】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_22442ag2130015167/
  30. 袋井ゆかりの武将の墓マップ - 袋井市歴史文化館 http://fukuroi-rekishi.com/siryo/pamphlet/pdf/20130704070622.pdf