最終更新日 2025-07-28

誓願寺賢誓

誓願寺賢誓は近江の浄土真宗寺院・箕浦誓願寺に属し、湖北十か寺の一員として織田信長に抵抗。その実像は不明だが、本願寺教団の強固な組織力と信仰に基づく抵抗の象徴とされる。

戦国期近江における宗教的抵抗の記憶:誓願寺賢誓の実像に関する調査報告書

序論:近江国箕浦誓願寺と「賢誓」という謎

本報告書は、戦国時代の近江国坂田郡箕浦(現在の滋賀県米原市)に存在した浄土真宗寺院「誓願寺」に属したとされる人物、「誓願寺賢誓(せいがんじけんせい)」を主題とするものである。賢誓は、近江の有力な一向宗寺院で組織された「湖北十か寺」の一翼を担い、浅井氏らと結んで織田信長の勢力に頑強に抵抗した僧侶として、一部でその名が伝わっている 1

しかし、この人物に関する調査を開始すると、我々は直ちに深刻な史料的制約に直面する。賢誓個人の具体的な生涯や活動を直接的に示す一次史料は、現時点では極めて乏しい。例えば、1448年に78歳で死去した「賢誓」という名の高僧の記録が存在するが、これは大和来迎寺の長老であった人物であり、活躍した時代も場所も異なることから、戦国期の賢誓とは明らかに別人である 3

この「記録の不在」という事実こそが、本調査の出発点となる。賢誓という一個人の伝記を追うのではなく、彼が存在したであろう歴史的文脈、すなわち、彼が属した共同体である「箕浦誓願寺」、その寺院が加盟した軍事同盟「湖北十か寺」、そして彼らが身を投じた「湖北一向一揆」という動乱の全体像を再構築すること。その重層的な文脈の中に賢誓を位置づけることで、その実像に迫ることを本報告書の目的とする。記録に残された事実を丹念に繋ぎ合わせ、時には記録の欠落そのものが何を物語るのかを問うことで、歴史の表層から埋もれた人物像を浮かび上がらせることを試みたい。

第一章:湖北一向一揆の拠点、箕浦誓願寺の実像

賢誓の活動基盤であった箕浦誓願寺は、どのような寺院であったのか。本章では、その成立から本願寺教団内での役割、そして戦国期の状況に至るまで、寺院の歴史的性格を詳細に分析する。

第一節:寺院の起源と浄土真宗への改宗

箕浦誓願寺の歴史は、戦国時代に突如として始まるものではない。寺伝によれば、その起源はさらに古く、元は天台宗系の寺院であったとされる 4 。しかし、本願寺が教団として飛躍的な発展を遂げる画期となった第三世宗主・覚如の時代に、大きな転機が訪れる。当時の住持であった行祐が覚如に帰依し、寺院ごと浄土真宗へと改宗したのである 4

この改宗は、単なる一寺院の動向に留まらない。中世後期、本願寺教団が畿内から北陸、東海へと勢力を拡大していく大きな歴史的潮流の中に、この出来事を位置づけることができる。天台宗や真言宗といった既存の有力宗派の支配力が強かった地域において、現地の寺院が新興の浄土真宗へと転向する事例は、民衆レベルでの信仰のダイナミズムと、本願寺教団の巧みな布教戦略を示す重要な証左である。箕浦誓願寺は、その初期から本願寺教団の近江における重要な拠点として、歴史の舞台に登場することになる。

第二節:本願寺教団内における役割と『天文日記』の記録

戦国期、箕浦誓願寺は本山である石山本願寺と密接な関係を維持していた。その具体的な様子は、本願寺第十世宗主・証如の日記である『天文日記』の記述から垣間見ることができる。

天文5年(1536年)3月2日の条には、「今日之斎、箕浦誓願寺頭たる間つとめ候」と記されている 4 。これは、本願寺第八世宗主・実如の命日に行われる法要において、箕浦誓願寺が当番(頭人)という重要な役目を務めたことを示している。さらに天文12年(1543年)10月3日の条には、「就当番之儀、箕浦誓願寺以栗餅樽持参」とあり、番役として本山に栗餅を献上するなど、定期的な奉仕を行っていたことがわかる 4 。これらの記録は、箕浦誓願寺が単なる末寺ではなく、本願寺教団内で一定の格式と責任を担う有力寺院として認識されていたことを明確に物語っている。

しかし、『天文日記』には、当時の湖北地域の不安定な情勢を伝える、より注目すべき記述が存在する。天文21年(1552年)2月28日の条である。

「来二日頭雖為箕浦誓願寺、在所并中郡、依錯乱門徒散在之間、為軽志五百疋来」4

これは、本来であれば箕浦誓願寺が二日後に頭人を務めるはずであったが、「在所(箕浦)および中郡(坂田郡中部と推定される)において錯乱があり、門徒が離散してしまっている」という理由で役目を果たせず、代わりに金銭(五百疋)を納めた、という内容である。

この「錯乱」が意味するものは大きい。この事件は、元亀年間(1570年~)に始まる織田信長との全面的な軍事衝突の約20年も前に発生している。つまり、信長という巨大な共通の敵が出現する以前から、箕浦誓願寺が位置する湖北地域では、門徒たちが離散するほどの深刻な混乱が起きていたことを示唆している。その原因は『天文日記』には明記されていないが、当時の社会情勢を鑑みれば、守護大名であった京極氏や、台頭しつつあった浅井氏といった在地領主との政治的・経済的な緊張関係、あるいは本願寺教団内部の他派閥との対立、さらには飢饉や疫病といった災害による社会共同体の動揺など、複数の要因が考えられる。

この事実は、後に湖北一向一揆として発現する門徒たちの強固な結束と抵抗精神が、信長の侵攻に対する突発的な反応として生まれたものではないことを示している。むしろ、恒常的な危機感と社会不安の中で、信仰を拠り所として生き抜こうとする中で醸成された、強靭な宗教的・社会的結合力がその下地にあったと解釈すべきであろう。

第三節:歴代住持の記録と「賢誓」不在の謎

箕浦誓願寺の歴史をさらに深く探る上で、極めて重要な史料が存在する。西本願寺に所蔵される『西光寺古記』である。この古文書には、箕浦誓願寺の歴代住持の名として、照俊・了祐・祐賢・照従(益田少将)・照空・民部卿といった法名が記録されている 4

特に初代住持とされる照俊は、文明10年(1478年)に本願寺第八世宗主・蓮如から親鸞聖人の絵像を下付されている 4 。この事実は、寺が浄土真宗に改宗して比較的早い段階から、本願寺と極めて深い関係を築いていたことを裏付ける。なお、この貴重な絵像は、後述するように寺が廃絶された後、河内国(現在の大阪府藤井寺市)の誓願寺へと移され、現在に伝えられている。

ここで、本報告書の主題である「賢誓」に立ち返ると、一つの重大な事実に突き当たる。信頼性の高い史料とされる『西光寺古記』が伝える歴代住持の系譜の中に、「賢誓」という名は一切見当たらないのである。

この「記録の不在」は、賢誓という人物の実像を考察する上で、決定的な意味を持つ。一般的に「誓願寺賢誓」という呼称から、彼が寺の代表者である住持であったと想定されがちだが、その可能性は極めて低いと言わざるを得ない。では、彼は一体何者だったのか。この問いは、我々に「住持・賢誓」という固定観念からの脱却を迫る。彼は住持を補佐する有力な僧侶であったのか、寺院の武装力を担った僧兵の指揮官であったのか、あるいは門徒を代表する在家の指導者(惣代)であったのか。賢誓の謎を解く鍵は、この記録の不在そのものに隠されているのかもしれない。

第二章:戦国動乱と湖北十か寺の抵抗

箕浦誓願寺は、単独で信長と対峙したわけではない。彼らは「湖北十か寺」と呼ばれる強力な寺院同盟の一員として、組織的な抵抗運動を展開した。本章では、この同盟の構造と、織田信長との具体的な抗争の軌跡を詳述する。

第一節:寺院同盟「湖北十か寺」の結成と構成

湖北十か寺とは、近江国北部の三郡(坂田郡、浅井郡、伊香郡)に拠点を置く有力な浄土真宗寺院が、反信長を旗印に結成した軍事・宗教同盟である 5 。彼らは北近江の戦国大名・浅井長政や越前の朝倉義景と連携し、信長包囲網の重要な一角を形成した 6

この同盟の結成は、石山本願寺第十一世宗主・顕如が全国の門徒に向けて発した檄文に呼応する形で行われた 7 。彼らは石山本願寺を支える軍事力の中核として位置づけられ、その動員力は一説に五千人に及んだとされ、地域に根差した強大な社会勢力であったことが窺える。箕浦誓願寺は、この連合体の中で「湖北一向一揆の南の拠点」として重要な役割を担っていた 4

湖北十か寺を構成した寺院は、複数の資料から以下のように同定できる 2

寺院名

当時の所在地(郡・郷)

備考

福田寺(長沢御坊)

坂田郡長沢

湖北十か寺の筆頭格。指導者・覚世の拠点 5

誓願寺(箕浦)

坂田郡箕浦

本報告書の中心。一揆の南の拠点とされた 4

福勝寺

坂田郡大戌亥

境内が城塞化(福勝寺城)されていた 5

金光寺

浅井郡十里

2

中道場(授法寺)

浅井郡西上坂

2

真宗寺

浅井郡益田

境内が城塞化(増田城)されていた 2

称名寺

浅井郡尊勝寺

境内が城塞化(尊勝寺城)されていた 5

誓願寺(内保)

浅井郡内保

箕浦誓願寺とは別の同名寺院。境内が城塞化(内保城) 5

浄願寺

浅井郡榎木

2

順慶寺

浅井郡西上坂

2

この一覧は、湖北十か寺が坂田・浅井両郡にまたがる広域的なネットワークであったことを示している。特に複数の寺院が城塞化されていた事実は、彼らの抵抗が単なる宗教一揆ではなく、高度に組織化された軍事行動であったことを物語っている。

第二節:一揆の指導者たち

この大規模な一向一揆を率いたのは誰だったのか。その指導体制は階層的であった。頂点に立つ最高指導者は、言うまでもなく本願寺門主の顕如と、その長男で強硬派として知られた教如であった 10 。彼らが発する指令が、全国の門徒衆を動かす原動力となっていた。

そして、湖北地域における現地の最高指揮官(総統領)として一揆を率いたのは、十か寺の筆頭である福田寺の住職、覚世(史料によっては「覚芸」とも記される)であったことが、複数の資料で一致して確認できる 5 。覚世は「門徒四千五百余人と湖国十ケ寺の総統領として」戦ったとされ 13 、湖北一向一揆の象徴的なリーダーであった。

ここでもまた、「誓願寺賢誓」の名は指導者層の中に現れない。一揆全体の指導者である本願寺門主、そして現地の総指揮官である福田寺覚世という階層構造の中に、賢誓の名が記録されていないという事実は、彼の役割を相対化して考える必要性を示唆している。仮に賢誓が実在したとしても、その役割は一揆全体から見れば、方面部隊の指揮官や一寺院の部隊長といった、より限定的なものであったと推定するのが妥当であろう。後世における知名度の低さは、この階層的な役割に起因すると考えられる。

第三節:浅井氏との共闘と織田信長への抵抗

湖北一向一揆の抵抗が本格化するのは、元亀元年(1570年)である。この年、姉川の戦いで織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍を破ると、信長と浅井氏の対立は決定的となる。同年9月、石山本願寺が信長に対して挙兵すると、湖北の門徒衆もこれに呼応し、浅井長政と共に信長軍との長い戦いに突入した 1

彼らの抵抗は熾烈を極めた。前述の通り寺院は城塞化され、門徒衆は武装して信長軍と対峙した。戦乱によって湖北地域は壊滅的な打撃を受け、多くの寺社が兵火によって焼失したと記録されている 6 。事態を重く見た信長は、元亀3年(1572年)、反信長勢力である浅井・朝倉、そして湖北一向一揆の相互連絡を断つため、姉川の封鎖という軍事行動に打って出ている 15

天正元年(1573年)8月、織田軍の猛攻の前に浅井氏の居城・小谷城は落城し、長政は自刃して浅井氏は滅亡する 16 。しかし、ここで注目すべきは、政治的な同盟者であった浅井氏が滅亡した後も、湖北の一向一揆組織は解体されなかったという事実である。彼らはその後も石山本願寺への支援を継続し、例えば速水地域の門徒衆は「ハヤミノ町(寄講)」の名で、抵抗を続ける教如に資金を送っている記録が残っている 7

この事実は、彼らの戦いが単に浅井氏への軍事的な加勢という側面に留まるものではなく、本願寺門徒としての信仰に基づく、より自律的で根源的な抵抗であったことを強く示している。彼らにとって信長は、領地を脅かす侵略者であると同時に、自らの信仰共同体を破壊する「仏敵」だったのである。

第三章:「誓願寺賢誓」の実像への多角的考察

これまでの分析を踏まえ、史料に公式な名が残らなかった「賢誓」という人物の実像について、複数の仮説を提示し、その妥当性を検証する。記録の不在という壁に直面しながらも、歴史的文脈からその輪郭を浮かび上がらせることを試みる。

第一節:記録の不在から導かれる複数の仮説

賢誓に関する直接的な記録がないという事実から、我々はいくつかの可能性を想定することができる。

仮説1:住持ではない有力な指導者であった可能性

第一章で論じた通り、賢誓が箕浦誓願寺の公式な住持ではなかった可能性は極めて高い。しかし、その名が後世に断片的にでも伝わっているからには、寺院内で何らかの重要な役割を担っていたと考えられる。それは、戦闘において門徒を率いた僧兵の長のような軍事的指導者であったかもしれない。あるいは、巧みな説法で門徒の心を掴み、一揆の精神的支柱となった説教師であったかもしれない。公式な地位(住持)とは別の、カリスマ性を持った人物であった可能性は十分に考えられる。

仮説2:「賢誓」が通称・法名の一部、あるいは誤伝である可能性

歴史の伝承過程では、名前が誤って伝えられたり、複数の人物の事績が混同されたりすることがしばしば起こる。『西光寺古記』に記録された歴代住持の一人に「祐賢」という人物がいる 4。この「祐賢」と「

誓」には、「賢」の字が共通している。後世、住持「祐賢」の抵抗の事績が、いつしか「賢誓」という別の名で語り継がれるようになった、あるいは両者が混同されたという可能性も否定はできない。

仮説3:複数の人物像が統合された象徴としての「賢誓」である可能性

最もラディカルな解釈として、「賢誓」という名は特定の個人を指すのではなく、箕浦誓願寺の抵抗そのものを象徴する存在である、という可能性が挙げられる。信長との戦いで命を落とした無名の僧侶や門徒たちの集合的な記憶が、長い年月を経て「賢誓」という一人の英雄像として結晶化した、という見方である。この場合、賢誓は歴史上の実在の人物というよりも、地域の抵抗の記憶が生んだ伝説上の人物と位置づけられることになる。

第二節:箕浦誓願寺の終焉と記録の散逸

賢誓の記録がなぜこれほどまでに乏しいのか。その答えを解く鍵は、箕浦誓願寺そのものの運命にある。戦国時代の動乱を生き延びた箕浦誓願寺であったが、江戸時代初期、その歴史は突如として終焉を迎える。徳川幕府の譜代大名である井伊家が治める彦根藩によって、寺院は「取潰され」、物理的に破壊されてしまったのである 4

この「取潰し」という厳しい措置は、単なる一寺院の廃絶ではない。徳川政権によるキリシタン弾圧や、豊臣家恩顧の大名の改易といった政策と同様に、かつて天下人(信長、秀吉、家康)に公然と敵対した宗教勢力や政治勢力の力を根絶やしにし、その記憶を抹消するという、近世封建体制の確立過程の一環と見なすことができる 17 。一向一揆は、時の権力者にとって、支配体制を揺るがしかねない危険な存在だったのである。

この事実は、賢誓の謎を解く上で決定的な示唆を与える。我々が「賢誓」の記録にアクセスできない最大の理由は、彼個人の知名度が低かったという問題以上に、彼に関する情報を保持していたであろう共同体(箕浦誓願寺)そのものが、後世の政治権力によって意図的に解体・破壊されたことにある可能性が高い。寺院の破壊は、そこに保管されていたであろう過去帳、寺院日記、書簡、戦功覚書といった、賢誓の活動を記録したかもしれないあらゆる文書の完全な喪失を意味する。賢誓の謎は、湖北一向一揆の敗北と、その後の近世権力による抵抗の記憶の抹消という、より大きな歴史的悲劇の中に位置づけられるべきなのである。

第三節:河内移転の謎

箕浦誓願寺の物語には、もう一つ未解決の謎が残されている。史料には、寺が彦根藩に取潰された後、「のち河内に寺基を移した」と記されている 4 。そして実際に、第一章で触れた蓮如下付の親鸞絵像をはじめとする寺の什宝は、現在、大阪府藤井寺市にある誓願寺に所蔵されている 4

しかし、奇妙なことに、この藤井寺市の誓願寺や、同じく大阪市中央区にあり井原西鶴の墓所として知られる誓願寺は、いずれも浄土宗の寺院である 18 。一方、抵抗の拠点であった近江の箕浦誓願寺は、紛れもなく浄土真宗本願寺派の寺院であった。

浄土真宗の箕浦誓願寺の法灯は、どのようにして河内の地へ移り、なぜ宗派の異なる浄土宗の寺院に、その最も重要な什宝が伝わったのか。弾圧を逃れた門徒たちが移住先の河内で既存の浄土宗寺院に合流し、什宝を託したのか。あるいは、一度は浄土真宗の寺院として再興されたものの後に途絶え、その什宝のみが近隣の有力寺院に引き取られたのか。この歴史の断絶と移行の具体的な過程は、現存する史料からは解明できず、さらなる専門的な調査を要する課題として残されている。

結論:歴史の記録と記憶の狭間で

本調査の結果、戦国時代の人物「誓願寺賢誓」を、特定の個人の伝記として明確に描き出すことは、現存する史料の制約から極めて困難であると結論づける。彼は箕浦誓願寺の公式な住持ではなく、その具体的な役割や地位、さらには実在性についても、確たる証拠を見出すことはできなかった。

しかし、賢誓という名の探求は、彼が生きた時代の重要な歴史的側面を我々に明らかにした。それは、第一に、本願寺教団の強固な組織力と、本山を支えた地方寺院の役割。第二に、織田信長の侵攻以前から存在した近江湖北地域の社会的不安と、それが育んだ宗教的結束力。第三に、政治的同盟者であった浅井氏の滅亡後も、信仰を拠り所として抵抗を続けた一向一揆の自律性と強靭さ。そして最後に、抵抗の記憶そのものを抹消しようとした近世権力の苛烈さである。

これらの文脈の中に置くとき、「誓願寺賢誓」という名は、新たな意味を帯びてくる。彼の名は、特定の個人を指し示す史実的価値以上に、信仰と共同体を守るために巨大権力に立ち向かい、そして歴史の記録から消されていった無数の名もなき僧侶や門徒たちの存在を象徴する、「記憶の器」としての意義を持つのではないだろうか。

彼の物語は、記録に残された者だけが歴史の主役ではないことを我々に教えてくれる。記録から抹消された者たちの抵抗の軌跡を、残された断片から丹念に再構築することによってのみ、我々は戦国という時代の多層的で複雑な実像に迫ることができる。本報告書は、その一端を提示する試みであった。

引用文献

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  3. 誓願寺 - SHINDEN - 神殿大観 https://shinden.boo.jp/wiki/%E8%AA%93%E9%A1%98%E5%AF%BA
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  18. 誓願寺について https://osaka-seiganji.jp/info
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