江戸時代前期の信濃国諏訪藩(高島藩)二代藩主、諏訪忠恒(すわ ただつね、1595-1657)は、徳川の世が盤石となる過程で、武将として、そして領主として重要な役割を果たした人物である。彼の名は、一般的に「大坂夏の陣で武功を挙げた徳川家の忠臣」あるいは「父祖の事業を継ぎ新田開発に努めた藩主」として知られている 1 。しかし、これらの評価は彼の生涯の一側面に光を当てたものに過ぎない。本報告書は、こうした断片的な人物像を統合し、より立体的かつ多角的な視点から諏訪忠恒の実像に迫ることを目的とする。
彼の生涯を深く理解するためには、三つの重要な軸を据える必要がある。第一に、戦国の遺風を色濃く纏い、武勇をもって主君に奉公する「武」の側面。第二に、泰平の世の到来と共に、領国を豊かにし、民の暮らしを安定させるための内政手腕を発揮した「治」の側面。そして第三に、一度は滅亡の淵に沈んだ諏訪家を再興した徳川家への、揺るぎない恩義に根差す「忠」の側面である。本報告書では、これらの三つの軸が、忠恒という一人の人間の生涯において、いかに交錯し、影響を及ぼし合ったのかを史料に基づき詳細に分析し、彼が日本の歴史が大きく転換する時代において果たした、複合的で深遠な役割を明らかにする。
諏訪忠恒の人物像を理解する上で、彼が背負った諏訪氏の特異な歴史を看過することはできない。諏訪氏は、古代に遡る信濃国一宮・諏訪大社の上社大祝(おおほうり)という神官の最高位を世襲してきた、日本でも稀有な出自を持つ一族である 4 。この神官としての神威を背景に、彼らは信濃国に強固な勢力を築き、鎌倉時代以降は幕府の御家人として、また武士団の領主として、神と武の二つの顔を併せ持つ独特の存在感を示した 6 。
しかし、戦国時代の激動は諏訪氏を翻弄する。天文11年(1542年)、甲斐の武田信玄(当時は晴信)の侵攻により、当主であった諏訪頼重は自害に追い込まれ、大名としての諏訪宗家は事実上滅亡するという最大の危機に直面した 6 。この絶望的な状況下で、頼重の従兄弟にあたる諏訪頼忠(忠恒の祖父)が神官として家名を辛うじて繋ぎ、天正10年(1582年)の本能寺の変後の混乱に乗じて旧領の一部を回復する。そして、時勢を鋭敏に読み、織田、豊臣を経て最終的に徳川家康に帰属するという決断を下したことで、諏訪家は再興への道を歩み始める 4 。
忠恒の父・頼水(よりみず)の代、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属して上田城攻めに参戦するなどの功を挙げた 4 。この功績が認められ、翌慶長6年(1601年)、諏訪氏は悲願であった旧領・諏訪への復帰を果たし、頼水は高島藩2万7000石の初代藩主となったのである 5 。
この一連の歴史は、諏訪家の徳川家に対する姿勢を決定づけた。彼らにとって徳川家は、単なる主君ではない。滅亡の淵から家を救い出し、再び大名としての地位を与えてくれた「再興の恩人」に他ならなかった。この強烈な恩義の意識こそが、頼忠、頼水、そして忠恒の三代にわたって一貫して見られる、徳川家への絶対的な忠誠心の根源となっている。忠恒の生涯における数々の行動は、この歴史的背景を抜きにしては理解できない。
初代藩主となった諏訪頼水は、戦国の争乱と、前領主であった日根野氏の時代の混乱により荒廃した領国の復興を喫緊の課題とした。彼は、高い税率のために逃散していた領民を呼び戻すとともに、年貢の減免といった優遇措置を講じることで、藩の生産力の根幹をなす新田開発を強力に奨励した 2 。
その成果は、茅野市に現存する寛永8年(1631年)付の「山田新田開発文書」といった史料に具体的に見て取れる。これは、村が主体となって開墾を行う「村請新田」を藩が公式に認可したものであり、頼水が進めた開発政策が、高島藩の生産力向上と財政安定の礎を築いたことを示している 17 。
さらに、頼水の治世において特筆すべきは、元和2年(1616年)に改易となった徳川家康の六男・松平忠輝の身柄を預かるという大役を幕府から命じられたことである 4 。将軍の実弟であり、謀反の疑いすら持たれた人物を預かるこの任務は、極めて高度な信頼関係がなければ任されることはない。この事実一つをとっても、頼水の代に諏訪家が幕府からいかに深く信頼されていたかが窺える。忠輝を幽閉するために、高島城には新たに郭が増設されるほどであった 8 。
忠恒は、父・頼水から藩主の地位を継承するにあたり、こうした具体的な政策や実績だけでなく、「幕府からの厚い信頼」という目には見えない、しかし極めて重要な政治的資産をも受け継いだのである。忠恒の治世における数々の成功は、彼自身の能力はもとより、父が築き上げたこの強固な信頼関係という土台の上に成り立っていた。大名家の藩政運営は、幕府との良好な関係なくしてはあり得ない。頼水が忠輝の身柄預かりという困難な任務を忠実に遂行したことで、幕府中枢に諏訪家の忠誠と能力を強く印象付けた結果、忠恒は藩主就任の当初から「信頼できる家の後継者」として幕府に認識されていた。このことが、後の彼の政策遂行を円滑にし、将軍との個人的な関係構築を容易にしたことは想像に難くない。
諏訪忠恒は、文禄4年(1595年)4月4日、父・頼水がまだ上野国惣社(こうずけのくにそうじゃ)藩主であった時代にその長男として誕生した 1 。彼の幼名は竹千代麿と伝わる 1 。
その人生における最初の重要な転機は、慶長12年(1607年)、13歳の時に訪れた。江戸城において二代将軍・徳川秀忠に謁見し、元服を許されたのである。この儀式は、単なる成人式以上の重い意味を持っていた。忠恒は、秀忠の諱(いみな)から「忠」の一字を拝領し、初名として「忠頼(ただより)」を名乗った。さらに、将軍から直々に刀などを賜るという栄誉にも浴している 1 。
将軍が大名の後継者に自らの名前の一部(偏諱)を与えるという行為は、両者の間に擬似的な父子関係にも似た、極めて強固な主従関係を構築し、それを天下に公式に示すための重要な政治的儀礼であった。この儀式を通じて、忠恒は単に諏訪家の次期当主として認められただけでなく、「徳川将軍家に直属する忠臣」としての公的なアイデンティティを付与されたのである。江戸幕府が成立して間もないこの時期、幕府は様々な儀礼を通じて大名との主従関係を強化・固定化しようと試みていた。偏諱の下賜は、その中でも特に重要な儀礼であり、与えられた大名家にとっては無上の名誉であった。13歳という若さで忠恒がこの栄誉を受けたことは、幕府が諏訪家を将来にわたって重要なパートナーと見なしていたことの証左に他ならない。この早期に結ばれた将軍との直接的な絆こそが、後の大坂の陣における抜擢や、三代将軍家光からの特別な厚遇へと繋がっていく重要な伏線となったのである。
慶長19年(1614年)に豊臣家との間に戦端が開かれた大坂冬の陣において、当時まだ忠頼と名乗っていた20歳の忠恒は、幕府の直接の命令により、本国である信濃高島城の守備を命じられた 1 。これは、父・頼水が甲府城(山梨県甲府市)の守備を命じられたことと連動した配置であった 13 。諏訪と甲府は、江戸と京を結ぶ中山道と甲州街道という二大幹線道路の要衝に位置する。この戦略的に極めて重要な地域を、諏訪家が父子一体となって固めるという任務は、徳川方における諏訪家の重要性を示すものであった。若き忠恒にとって、これは戦場での華々しい活躍こそなかったものの、幕府の戦略の一翼を担うという重責を果たす、静かながらも重要な初陣であった。
冬の陣が和議によって一旦終結した後、翌慶長20年(1615年)に再び戦端が開かれると、夏の陣が勃発した。父・頼水は、冬の陣で後方守備に留められたことに不満を抱き、今度こそ自らが大坂へ出陣することを強く願ったが、幕府の命令は変わらず甲府城守備であった 13 。その結果、父の名代として、21歳に成長した忠恒が、弟の頼郷と共に諏訪軍を率いて大坂の地へ赴くこととなった 1 。
豊臣家との最後の決戦となった5月7日の天王寺・岡山の戦いにおいて、忠恒率いる諏訪勢は、徳川四天王の一人・榊原康政の子である榊原康勝が指揮する天王寺口の二番手部隊に配属された 1 。この部隊は総勢5,400で、信濃松本藩の小笠原秀政・忠脩父子、仙石忠政、保科正光といった信濃・東国の諸大名で構成されており、徳川軍の主力の一角を担っていた 19 。
戦闘は想像を絶する激戦となった。豊臣方の猛将・毛利勝永隊の凄まじい突撃により、徳川軍の最前線にいた本多忠朝(本多忠勝の子)の部隊が瞬く間に突き崩される。忠恒の部隊は、この崩れた前線を支え、壊滅状態に陥った本多隊を救援するために奮戦した 1 。伝わる記録によれば、忠恒はこの乱戦の中、自ら敵兵と刃を交え、首級を一つ挙げるという具体的な武功を立てている 1 。これは、戦国時代的な個人の武勇を称える価値観における最高の栄誉であった。
しかし、戦況は徳川方にとって極めて厳しく、奮戦も空しく、本多忠朝、そして同じ部隊に属していた小笠原秀政・忠脩父子も相次いで討死を遂げた。さらに、部隊を率いていた榊原康勝も、この戦いで受けた傷、あるいは悪化した持病が原因で、戦後まもなく死去している 1 。味方の大将格が次々と命を落とすほどの最も危険な戦域で、忠恒は最後まで戦い抜き、生還を果たした。この事実は、彼の武人としての勇猛さと、混乱した戦場での指揮能力の高さを雄弁に物語っている。
大坂の陣は、武力によって天下の雌雄を決する戦国時代の終焉を告げる戦いであった。忠恒はこの歴史的な最後の舞台で、「首級を挙げる」という最も分かりやすい形で武士としての本分を果たした。そして、この旧来の価値観における最高の武功が、来るべき泰平の世を治めるための強力な政治的資本、すなわち幕府からの信頼と加増という形で報いられることになる。彼の奮戦は、古い時代の価値観で最高の評価を得ることが、新しい時代の成功へと直結するという、まさに「元和偃武」の時代の転換点を象徴する出来事であった。
大坂夏の陣における忠恒の奮戦は、幕府によって高く評価された。戦後の元和4年(1618年)、諏訪家は筑摩郡(現在の長野県松本市周辺)において5,000石を加増されたのである。これにより、高島藩の表高は2万7,000石から3万2,000石へと増加した 1 。
この加増は、単に忠恒個人の武功に対する報奨に留まるものではなかった。主君の危機に際し、当主(頼水)は後方で重責を果たし、その後継者(忠恒)は最前線で命を懸けて戦うという、一族を挙げての忠誠を尽くした諏訪家全体への評価であった。豊臣方に与した大名が次々と改易・減封される中、徳川に味方し、特に忠恒のように目覚ましい働きをした若手の大名を厚遇することは、徳川幕府の威光と、恩賞を与える際の公正さ(信賞必罰)を天下に示すという、高度な政治的メッセージでもあった。この加増により、諏訪家の財政基盤は強化され、忠恒が後に藩主として内政に力を注ぐための大きな原動力となった。
寛永17年(1640年)9月28日、父・頼水の隠居に伴い、忠恒は46歳で家督を相続し、正式に高島藩二代藩主となった 1 。藩主としての彼が最も力を注いだ政策は、祖父・頼忠、父・頼水から続く新田開発事業の継承と推進であった 1 。
高島藩領内では、諏訪氏が帰封した慶長年間(1600年代初頭)から元禄期(1700年頃)にかけて、新田開発が極めて活発に行われた。この期間に、藩内には60以上の「新田村」と呼ばれる新たな村が成立したと記録されている。忠恒が藩主であった治世(1640年~1657年)は、まさにこの開発ブームの最盛期と重なっていた 14 。
この政策の成果は、歴史人口学の研究からも裏付けられている。諏訪地域の人口は、1600年頃にはおよそ1万6000人から2万人程度であったものが、1670年には3万2000人から3万3000人へと、わずか70年ほどの間にほぼ倍増している 15 。忠恒の時代に行われた精力的な新田開発が、この急激な人口増加を支える食糧増産に決定的な役割を果たしたことは明らかである。
忠恒の新田開発は、単なる前例踏襲ではなかった。大坂の陣の戦功によって得た5,000石の加増は、藩の収入を約18%も増加させる大きなものであった。彼はこの財政的、人的な余裕を、軍備の増強ではなく、藩の生産基盤である農地のさらなる開発へと再投資した。これは、戦で得たものを領国を豊かにするために用いるという、近世の為政者としての合理的な判断であり、極めて計画的かつ積極的な経済拡大政策であったと評価できる。短期的な軍事力よりも長期的な経済力を重視するその姿勢は、泰平の世における藩経営の理想的な在り方を示している。
慶安4年(1651年)、忠恒は藩政におけるもう一つの重要な事業に着手した。それは、幕府の定める五街道の一つ、甲州街道の宿場町の移転・建設であった。それまでの青柳宿は、付近を流れる宮川の氾濫や火災にたびたび見舞われ、宿場としての機能に支障をきたしていた。そこで忠恒は、宿場全体をより安全な現在の茅野市金沢の地へと移転させ、「金沢宿」として再建したのである 1 。
当時の記録によれば、この新しく建設された金沢宿は、長さ8町(約870メートル)、道幅5間(約9メートル)に及び、宿場の両端には敵の侵入を防ぐための防御施設である桝形(ますがた)が設けられていた。さらに、道の真ん中や家並みの裏手には用水路が整備されるなど、非常に計画的に設計された都市であったことがわかる。『甲州道中宿村大概帳』には、総家数161軒、本陣1軒、旅籠17軒を数える規模であったと記されている 25 。
この事業は、単なる領内の災害復旧プロジェクトに留まるものではない。参勤交代や公儀の使者の往来、物資輸送など、幕府の全国支配の根幹をなす甲州街道のインフラを、藩が自らの負担で整備・安定させることは、幕府の政策に積極的に協力し、藩主としての務めを果たすことで忠誠を具体的に示すという、重要な政治的意味合いを持っていた。同時に、宿場町を藩の厳格な管理下に再編することで、領内における物流と人の往来を正確に把握し、支配体制を強化する狙いもあったと考えられる。忠恒はこの事業を通じて、幕府からの評価を高めると同時に、藩内に新たな経済的中心地を創出し、そこからもたらされる利益を確保するという、一石二鳥の巧みな政策を成功させたのである。
忠恒は、勇猛な武将、有能な開発領主であるだけでなく、公正な統治者としての一面も持っていた。明暦2年(1556年)、彼が建設した金沢村と、隣接する千野村との間で、山の資源利用を巡る境界争い(山論)が発生した。これは、当時の農村社会において最も深刻な紛争の一つであった。忠恒はこの争いに対し、自ら裁定を下し、高道下境塚を起点として松倉峠に至る明確な境界線を画定させた。これにより、両村の長年の争いは一旦解決へと導かれた(ただし、この問題は次代に再燃することになる) 1 。
また、諏訪市博物館の資料には、忠恒が藩主として「領内の検地を行いました」との簡潔ながら重要な記述が残されている 24 。検地の実施は、田畑の面積と等級を正確に再調査し、それに基づいて石高を確定させる作業である。これは、年貢徴収の基準を公平かつ明確にすることで、藩財政の安定化を図るとともに、農民の不満を解消する上で不可欠な、近世藩政の根幹をなす事業であった。
これらの逸話は、忠恒が武勇に優れた武人であるだけでなく、領内の民事紛争を法と理に基づいて解決する司法官であり、藩の財政を管理する行政官でもあったことを示している。戦の時代が終わり、大名には領民の生活を安定させ、法と秩序に基づいて紛争を調停する能力が何よりも求められるようになった。忠恒は、その時代の要請に見事に応えたのである。彼の治世が、権力一辺倒ではなく、近世的な行政システムへと着実に移行していく過程にあったことを、これらの事実は物語っている。
年代(西暦/和暦) |
治績内容 |
関連史料/スニペットID |
意義・目的 |
1640年 (寛永17年) |
家督相続、高島藩二代藩主となる |
1 |
藩政の責任者として統治を開始。 |
1640年~1657年 |
新田開発の継続・推進 |
23 |
藩の生産力(石高)と人口を増加させ、財政基盤を強化する。 |
1651年 (慶安4年) |
甲州街道金沢宿の建設(青柳宿からの移転) |
1 |
災害対策と同時に、幕府の重要インフラ整備に貢献し忠誠を示す。 |
時期不明 |
領内検地の実施 |
24 |
年貢徴収制度を近代化し、公平性を確保することで藩財政の安定化を図る。 |
1656年 (明暦2年) |
金沢村・千野村間の山論を裁定 |
1 |
藩主として司法権を行使し、領内の紛争を解決。統治者としての権威を示す。 |
1640年or1649年 |
菩提寺・温泉寺の建立 |
5 |
父の遺命を果たすと共に、諏訪家の権威の中心を城下に移し、近世大名としての体制を固める。 |
諏訪忠恒と徳川将軍家との強固な信頼関係を象徴する逸話として、三代将軍・徳川家光から名刀を拝領した一件が挙げられる。忠恒が家光から賜ったのは、鎌倉時代中期に備前国で活躍した刀工集団・福岡一文字派の名工、貞真(さだざね)の手による太刀であった 4 。この太刀は、現在では重要美術品に指定されるほどの歴史的・美術的価値を持つ逸品である 29 。
この下賜が持つ意味は、単に高価な品物を授かったという次元に留まらない。将軍・家光自身が、柳生新陰流の免許を皆伝されるほどの剣術の達人であり、刀剣に対して深い造詣を持っていたという事実が、その価値を一層高めている 4 。刀剣に詳しい主君が、自らの愛蔵品の中から特に優れた一振を選び、家臣に与えるという行為には、相手の武人としての資質や日頃の忠勤に対する、最大限の敬意と評価が込められている。
この出来事は、父・頼水の代からの忠勤、忠恒自身の大坂の陣での武功、そして藩主としての堅実な治世が総合的に評価された結果であった。秀忠からの偏諱拝領が、幕府と諏訪藩という組織間の「公的」な主従関係の確立を象徴するものだとすれば、家光からの名刀拝領は、将軍個人から忠恒個人への、より「私的」でパーソナルな絆の証であったと言えよう。外様大名である諏訪家の当主が、将軍からこれほどの個人的な名誉を受けることは異例であり、諏訪家が徳川家から寄せられていた信頼の絶大さを物語っている。
忠恒は、父・頼水が生前抱いていた「高島城下に新たな菩提寺を建立したい」という遺志を継いだ 5 。寛永17年(1640年)あるいは慶安2年(1649年)に、高島城の北東に位置する湯の脇の地に、臨済宗妙心寺派の寺院として臨江山温泉寺を創建し、諏訪家の新たな菩提寺と定めた 1 。
この寺院建立は、単なる孝行心の発露や宗教的行為に留まらない、高度に戦略的な意味合いを持っていた。父・頼水は、中世以来の諏訪氏の伝統的な本拠地であった上原(現在の茅野市)に建立した頼岳寺に眠っている。しかし、忠恒自身と、その後の八代藩主・忠恕に至るまでの歴代藩主は、この城下の温泉寺に葬られることとなった 7 。これは、諏訪家の権威と信仰の中心を、中世以来の伝統的な拠点である上原から、近世的な政治・軍事の中心地である高島城下へと、意図的に移すことを意味していた。諏訪家が、古くからの「諏訪大社の神官」という権威に依存する存在から、「徳川幕府に公認された近世大名」という新しい権威を基盤とする存在へと、そのアイデンティティを完全に転換させたことを内外に示す、象徴的な事業だったのである。
国史跡に指定されている温泉寺の忠恒の墓は、方形三段の壮大な石造基壇の上に舟形の墓標を載せるという、他の藩主とは異なる特異な形式をしており、当初は彼のためだけに木造の霊屋(おたまや)が建てられていた 31 。これは、温泉寺を建立した開基としての忠恒を、後代の藩主と区別し、その功績を顕彰するためのものであったと考えられる。また、境内には忠恒の名を冠した「忠恒桜」と呼ばれる樹齢370年を超えるシダレザクラが現存しており、今なお彼の遺徳を偲ばせている 32 。
明暦3年(1657年)9月28日、諏訪忠恒は江戸の藩邸にて63年の生涯を閉じた 1 。家督は長男の忠晴が継承したが、忠恒は死に際して、一族の未来を見据えた重要な遺言を残していた。
その内容は、大坂の陣の恩賞で得た筑摩郡の所領5,000石の中から、次男の頼蔭(よりかげ)と三男の頼久(よりひさ)にそれぞれ1,000石ずつを分与し、彼らを幕府の直臣である旗本として独立させるというものであった。これにより、高島藩の石高は3万2,000石から3万石へと減少したが、諏訪家は宗家である高島藩に加えて、二家の旗本家を幕府内に持つことになった 21 。
この戦略は、極めて長期的視野に立った高度な政治判断であった。これは、自藩の石高という直接的な経済力や軍事力を多少犠牲にしてでも、一族の血脈を幕府の官僚機構に直接送り込み、幕府とのパイプを複線化・強化する狙いがあった。大名家にとって、いつ何時、些細なことで改易(領地没収)されるか分からないというリスクは常に存在した。家の血脈を宗家と分家に分けておくことは、万が一、高島藩の宗家に何かあっても、旗本として分家が存続していれば家名が絶えることはないという、巧みなリスク分散であった。
同時に、旗本となった息子たちが幕府内で昇進すれば、それは一族の名誉を高め、幕府内での情報収集や人脈形成を通じて、宗家である高島藩の藩経営を間接的に支援する効果も期待できた。事実、この戦略は成功し、特に次男の頼蔭は後に火付盗賊改方や長崎奉行といった幕府の要職を歴任し、諏訪家の名を幕政において大いに高めている 1 。忠恒は、戦で得た資産を、一族の未来の安全保障のために投資するという、卓越した先見の明を持っていたのである。
諏訪忠恒の生涯は、日本の歴史が「戦」の時代から「治」の時代へと大きく舵を切る、まさにその転換点を体現したものであった。彼は、戦国の遺風が色濃く残る大坂の陣において、武将として最高の栄誉である武功を立てて幕府の絶対的な信頼を勝ち取った。そして、泰平の世が到来すると、その信頼を政治的資本として、新田開発や交通インフラの整備といった内政に卓越した手腕を発揮し、藩の礎を盤石なものにした。
彼の人生は、時代の転換期に為政者に求められた武勇と統治能力という、二つの異なる資質を見事に兼ね備え、それを実行した理想的な藩主像を提示している。彼はまた、父・頼水が築いた藩政の基盤を忠実に継承し、父が抱いた遺志を実現・発展させた孝心厚い後継者でもあった。
忠恒が築き上げた安定した藩政、幕府との強固な信頼関係、そして分知による一族の安泰という巧みな戦略。これら全てが、その後二百数十年にわたって続く諏訪高島藩の平和と存続を可能にした、まさに「泰平の礎」であった。近世における諏訪家の安定と繁栄は、二代藩主・諏訪忠恒の存在なくしては語ることはできない。彼は、激動の時代を生き抜き、次代への確かな道を切り拓いた、傑出した領主であったと結論付けられる。