最終更新日 2025-07-22

諸角虎定

武田家の宿老・諸角虎定(室住虎光)に関する総合的考察

序論:謎多き老将、諸角虎定

日本の戦国時代、数多の武将が歴史の舞台でその名を馳せた。中でも、甲斐の武田信玄に仕えた家臣団は、戦国最強と謳われたその武威を支えた精強な集団として知られている。その中にあって、諸角虎定(もろずみ とらさだ)という名は、武田家への揺るぎない忠誠と、老いてなお衰えぬ武勇の象徴として、後世に語り継がれてきた。

一般に流布する彼の人物像は、明快かつ劇的である。武田信虎・信玄の二代にわたり、六十数度の合戦に参加して数多の武功を立てた譜代の宿老。そして永禄4年(1561年)、齢81という高齢を押して参陣した第四次川中島の合戦において、主君・信玄の本陣が危機に陥るや、これを死守して壮絶な討死を遂げた忠勇の士 1 。この逸話は、武士道における「忠義」と「自己犠牲」の理想的な姿として、講談や歴史小説、さらには現代の映像作品に至るまで、繰り返し描かれてきた 4

しかし、この英雄的な物語の背後には、より複雑で、学術的な探求を要する歴史の深層が横たわっている。近年の研究、特に同時代の一次史料の分析が進むにつれて、我々が「諸角虎定」として知る人物の実像は、その名前一つをとっても、単純ではないことが明らかになってきた。後世の軍記物語、特に『甲陽軍鑑』が形成した「虚像」と、断片的ながらも確実性の高い史料が示す「実像」との間には、看過できない乖離が存在するのである。

例えば、彼の姓名ですら、複数のバリエーションが見られる。「諸角」という姓は「両角」「室住」「諸住」とも記され、諱(いみな)についても「虎定」のほかに「昌清(まさきよ)」、さらには「虎光(とらみつ)」という名が伝えられている 2 。特に、信頼性の高い同時代史料である『安道寺文書(あんどうじもんじょ)』には、彼の名が「室住虎光(むろずみ とらみつ)」として記録されており、現代の歴史学ではこの名が本来のものであった可能性が高いと見なされている 4

この姓名の不一致は、単なる表記揺れの範疇に収まる問題ではない。それは、歴史的記録がいかにして形成され、変容し、そして伝説へと昇華していくかという、歴史叙述そのもののプロセスを映し出す鏡である。江戸時代に成立した軍記物語が描く英雄「諸角虎定」と、行政文書に名を残す官吏「室住虎光」。この二つの顔の間に存在する人物こそ、本稿が探求しようとする対象である。

本報告書は、一般に知られる諸角虎定の英雄譚を入り口としながらも、そこに留まることなく、史料批判の視座から彼の生涯を再構築することを目的とする。出自に関する諸説の検討から、武田二代にわたる彼の具体的な役割、そしてその壮絶な最期が持つ意味、さらには彼の一族が辿った悲劇的な結末に至るまでを徹底的に掘り下げていく。通俗的な英雄像の解体と、史料に基づいた歴史像の再構築を通じて、一人の戦国武将の生涯を多角的に照らし出し、その実像と虚像の間に横たわる歴史の綾を解き明かしたい。なお、本稿では便宜上、最も広く知られた「諸角虎定」の名を主として用いつつも、史料的確実性から「室住虎光」が本名であった可能性を常に念頭に置いて論を進めることとする。

第一章:出自と一族をめぐる諸説

戦国武将の人物像を理解する上で、その出自と一族の背景は極めて重要な要素である。諸角虎定の場合、その出自をめぐって複数の説が存在し、それぞれが彼の人物像に異なる光を当てている。これらの説を比較検討することは、彼が武田家中でどのような位置にあったのか、そして後世の彼に関する物語がどのように形成されたのかを理解する鍵となる。

第一節:武田一門説の検討

諸角虎定の出自に関する説の中で、最も彼の地位を高く位置づけるのが、彼を武田宗家の一員とする「武田一門説」である。この説によれば、虎定は武田信玄の曽祖父にあたる武田信昌(のぶまさ)の六男であったとされる 2 。これが事実であれば、虎定は信玄の父・信虎の叔父、すなわち信玄から見れば大叔父にあたり、譜代家臣という枠を超えた、極めて高貴な血筋の持ち主ということになる 9

この説は、長野市にある虎定の墓所の解説板など、主に現地の伝承や後世の記録に見られるものである 11 。彼が信虎・信玄の二代にわたって絶大な信頼を得て、侍大将という重職を担い、特に信玄の弟・信繁の守役(もりやく)という極めて重要な役割を任されたことの背景として、この血縁関係は非常に説得力を持つ 7 。主君の親族が、その忠誠心と武勇をもって家を支えるという構図は、武家の物語として理想的であり、彼の壮絶な最期をより一層劇的なものにする効果がある。

しかし、この説には慎重な検討が必要である。第一に、この説を直接的に裏付ける同時代の一次史料が確認されていない点が挙げられる。武田氏の公式な系図や、当時の文書において、信昌の六男として彼の名が明確に記されたものは見当たらない。もし彼が正真正銘の武田一門であれば、その名はより明確な形で記録に残されていても不思議ではない。

したがって、この「武田一門説」は、後世に彼の功績や忠節を顕彰する過程で、その出自をより高貴なものとして脚色、あるいは創作された可能性を否定できない。家臣の功績を称えるために、その血筋を主家と結びつけることは、日本の武家社会においてしばしば見られた現象である。虎定が示した比類なき忠誠と、信繁の後を追うように死んだという劇的な最期は、彼が単なる家臣ではなく、血を分けた一門であったという物語を生み出す格好の土壌となったと考えられる。つまり、この説は歴史的事実というよりも、彼の英雄化の過程で生まれた「物語」としての側面が強いと見るべきであろう。

第二節:信州諏訪からの移住説

武田一門説とは対照的に、彼を甲斐国外からの移住者とする説も存在する。具体的には、彼の父の代に信州(長野県)の諏訪地方から甲斐に移り住んできた、というものである 2

この説は、虎定が武田家の譜代家臣でありながらも、その出自が甲斐の土着豪族とは異なる可能性を示唆している。戦国時代の武田家臣団は、甲斐源氏以来の譜代層だけでなく、信玄の時代に信濃をはじめとする他国から登用された有能な人材を多く含んでおり、実力主義的な側面も持っていた 10 。もし虎定が諏訪出身であれば、彼はその実力と忠誠心によって武田家中で高い地位を築き上げた人物ということになり、武田一門説とは異なる形の「立身出世」の物語が浮かび上がる。

諏訪地方は、武田氏にとって信濃侵攻の要衝であり、古くから深い関係があった。諏訪大社を篤く信仰した武田氏にとって、諏訪出身の家臣を重用することは自然な流れであったかもしれない。この説は、虎定の出自をより現実的な家臣層の出自として捉えるものであり、武田一門説のような劇的な背景はないものの、戦国大名家における人材登用の実態を反映している可能性を持つ説として注目される。

第三節:姓氏の謎―「諸角」「両角」から「室住」へ

彼の出自をさらに複雑にしているのが、姓氏の表記の多様性である。後世の記録や伝承では、「諸角」という表記が最も一般的であるが、その他にも「両角」「諸住」といった表記が見られる 2 。これらの姓はいずれも「もろずみ」と読むことができ、音を借りて異なる漢字を当てたものと考えられる。

しかし、近年の研究で最も重要視されているのが、「室住(むろずみ)」という姓である。これは、弘治3年(1557年)に彼が奉行人として連署した手形を含む、現存する数少ない同時代史料『安道寺文書』に見られる表記である 4 。一次史料に記されているという点から、この「室住」こそが、彼の正式な姓であった可能性が極めて高いとされている。甲斐国内の古地名に「室住」という地名は確認されておらず、特定の所領に由来する姓ではない可能性も考えられる 14

なぜ「室住」が「諸角」に変化したのか。その理由は明確ではないが、いくつかの可能性が考えられる。一つは、口伝で彼の名が伝えられるうちに、音の似たより一般的な漢字である「諸角」や「両角」(諏訪地方に多い姓)が当てられるようになったという可能性である。もう一つは、『甲陽軍鑑』をはじめとする江戸時代の軍記物が、物語的な効果や語呂の良さから「諸角」という表記を採用し、それが広く定着したという可能性である。

この姓氏の変遷は、歴史的記録の伝達過程における情報の変化を如実に示している。行政文書に名を残した官吏「室住」が、時を経て物語の中で勇将「諸角」へと姿を変えていった。この事実は、彼の人物像を考察する上で、どの史料がどの「顔」を描いているのかを常に意識する必要があることを教えてくれる。

第四節:諱の変遷―「虎定」「昌清」そして「虎光」

姓氏と同様に、諱(実名)についても複数の名が伝えられており、それぞれが異なる文脈で登場する。

最も広く知られている名は「虎定」である 1 。これは主君である武田信虎から「虎」の一字を拝領したことを示す名であり、彼の武将としてのアイデンティティを象徴している。『甲陽軍鑑』をはじめとする多くの二次史料でこの名が用いられており、一般的にはこの「虎定」という名で認識されている。

次に、「昌清(まさきよ)」という名がある。この名は、彼が開基(創設の支援者)となった山梨県甲斐市の慈照寺(じしょうじ)の記録にほぼ限定して見られる 12 。彼の法名(死後の仏教上の名)が「慈照寺殿昌良清禅定門(じしょうじでんしょうりょうせいぜんじょうもん)」とされることから 4 、「昌清」はこの法名に由来する名、あるいは仏門における名であった可能性が高い。戦国武将が世俗の名とは別に、寺社との関わりの中で異なる名を用いることは珍しくなく、「昌清」は彼の信仰者としての一面を示す名と解釈できる。

そして、姓氏の謎を解く鍵となった『安道寺文書』には、彼の諱が「虎光(とらみつ)」と記されている 4 。一次史料に見えるという信頼性から、現代の歴史学では、彼の本来の諱は「虎光」であったとする見方が有力である。「虎定」と同様に信虎からの偏諱(へんき、主君の名前の一字をもらうこと)を受けた名であり、武将としての名乗りとして自然である。

これらの諱の変遷を整理すると、「虎光」が彼の本来の世俗名であり、「昌清」が宗教的な文脈で用いられた名、そして「虎定」は後世の物語の中で定着した通称であった、という構図が浮かび上がる。


表1:諸角虎定の姓名に関する史料比較

史料区分

主な史料名

姓(氏)

諱(名)

備考

一次史料

『安道寺文書』

室住

虎光

弘治3年(1557年)の奉行人連署手形など。史料的価値が最も高い。 4

二次史料(軍記物)

『甲陽軍鑑』

諸角

虎定

江戸時代に成立。虎定の英雄的イメージを形成した主要な典拠。 25

寺社伝承

慈照寺(山梨県甲斐市)の記録

諸角

昌清

虎定が開基とされる菩提寺の伝承。法名に関連する名か。 19

後世の記録・伝承

現地解説板(長野市)、人名辞典など

諸角、両角

虎定

『甲陽軍鑑』の影響を強く受けた、一般的に流布している姓名。 2


この表が示すように、諸角虎定という人物は、史料の種類によって異なる姓名で記録されている。この複雑さこそが、彼の人物像を探る上での出発点となる。確実な史料が示す「室住虎光」という一人の官吏・武将が、いかにして「諸角虎定」という忠勇の老将の物語へと昇華していったのか。その軌跡を追うことは、戦国時代の歴史そのものを深く理解することに繋がるのである。

第二章:武田二代に仕えた歴戦の武将

諸角虎定(室住虎光)の生涯は、武田家が甲斐一国の大名から、天下にその名を轟かせる戦国大名へと飛躍していく激動の時代と完全に重なっている。彼は信虎、信玄という気性の異なる二人の主君に仕え、その中で武田家臣団の中核をなす宿老としての地位を確立していった。彼の武将としての経歴をたどることは、武田軍の強さの源泉と、家臣団の構造を理解する上で不可欠である。

第一節:信虎時代の活躍

虎定の武将としてのキャリアは、信玄の父・武田信虎の代に始まる。彼は武田家譜代の家臣であり、早くから侍大将として重用されていた 1 。侍大将とは、自らの同心(直属の兵)を率いる部隊長であり、武田軍の中核をなす指揮官クラスの武士であった 10 。虎定は五十騎持ちの将であったと伝えられており、これは当時の武田家臣団の中でも相当な規模の兵力を動員できる、有力な武将であったことを示している 7

信虎の時代、武田氏は甲斐国内の統一を達成し、隣国の信濃や駿河へとしきりに兵を進めていた。虎定もこれらの数多くの合戦に参加し、武功を重ねたとされる 2 。その武勇は、後に「武田の赤備え」を率いて勇名を馳せる飯富虎昌(おぶ とらまさ)と並び称されるほどであったという 1 。飯富虎昌が「甲山の猛虎」と恐れられた猛将であったことを考えれば 3 、虎定もまた、武田軍の先陣を切って戦う屈強な武人であったことがうかがえる。

信虎は苛烈な性格で知られ、多くの家臣や国人を粛清したが、その中で虎定が重用され続けたという事実は、彼の武勇だけでなく、主君に対する忠誠心が高く評価されていたことを物語っている。この信虎時代に培われた経験と信頼が、続く信玄の時代における彼の地位を不動のものにしたのである。

第二節:信玄(晴信)の信頼と信濃経略

天文10年(1541年)、信虎が嫡男・晴信(後の信玄)によって駿河へ追放されるという政変が起きる。虎定はこの後も晴信に仕え、家中の最古参の重臣として、ますますその存在感を高めていった 2 。信玄が家督を継いでから本格化する信濃侵攻において、虎定は重要な役割を担うことになる。

彼の具体的な任務として史料で確認できるのが、信濃柏鉢城(かしわばちじょう)の守備である 1 。柏鉢城は、北信濃の村上義清や、越後の上杉謙信との最前線に位置する拠点であり、その守備を任されることは、信玄からの深い信頼の証であった。彼は現地の信濃国衆とともにこの城を守り、武田軍の信濃支配の安定化に貢献した。

しかし、信玄の時代における虎定の役割で、最も特筆すべきは、信玄の同母弟である武田信繁(たけだ のぶしげ)の守役(もりやく)を務めたことである 5 。守役とは、若君の教育から身辺の警護まで一切を取り仕切る後見役であり、単なる家臣という以上の、師であり、第二の父ともいえる存在であった。この役目に任命されるのは、家中でも特に人格、識見、武勇に優れた、最も信頼のおける宿老に限られる。

信繁は、文武両道に秀で、兄・信玄を補佐する「武田の副将」として家臣団から絶大な信望を集めていた人物である 29 。信玄自身も弟の才覚を高く評価し、深く信頼していた。その信繁の教育と成長を託されたということは、虎定が武田家の中枢、その心臓部に極めて近い位置にいたことを意味する。虎定の忠誠心は、武田家全体に向けられると同時に、自らが育て上げた信繁という個人に対して、より深く、より強固な形で注がれていたと考えられる。この主君と守役という関係を超えた、父子にも似た強い絆が、後の川中島における彼の悲劇的な最期を理解する上で、決定的な鍵となるのである。

第三節:『甲陽軍鑑』に見る虎定像と史料批判

諸角虎定の具体的な活躍や人柄を伝える逸話の多くは、江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』に依拠している 25 。この書物は、武田家の軍略や家臣たちの言行を詳細に記しており、武田氏研究において重要な史料とされてきた。

『甲陽軍鑑』には、虎定が登場する興味深い逸話が記されている。それは、信玄の軍師として名高い山本勘助が、ある合戦で窮地に陥った際に、虎定の部隊を借り受けて奇策を用いたという話である。勘助は信玄に対し、戦況を打開する唯一の方法として、虎定が率いる五十騎の精鋭を借りることを願い出た。そして、この部隊を囮として本陣に見せかけ、敵の注意を引きつけている間に、武田本軍が体勢を立て直すことに成功したという 32 。この逸話は、虎定の率いた部隊が、重要な局面で切り札として用いられるほどの精鋭であったこと、そして彼自身が、勘助のような新参の家臣の策であっても、主君の命令とあらば受け入れる度量の広さを持っていたことを示唆している。

しかし、『甲陽軍鑑』を史料として扱う際には、慎重な姿勢が求められる。この書物は、成立が江戸時代初期であり、合戦の年紀や人物の官位などに誤りが多く含まれていることが指摘されている 34 。また、物語としての面白さを追求するための脚色や創作も随所に見られるため、書かれている内容のすべてを歴史的事実と見なすことはできない。かつては偽書としてその史料的価値が完全に否定された時期もあった 34

一方で、近年の研究では、『甲陽軍鑑』は単なる創作物ではなく、武田家の旧臣からの聞き取りなどを基にしており、武田家臣団の価値観や気風、内部の人間関係などを知る上で貴重な情報を含んでいると再評価されている 36 。したがって、『甲陽軍鑑』に描かれる虎定の姿は、史実そのものではないかもしれないが、彼が武田家臣団の中でどのように記憶され、語り継がれていたかを示す「伝説」として価値を持つ。山本勘助との逸話も、彼の武将としての評価や、家中での信頼の厚さを反映した物語と捉えることができるだろう。歴史上の「室住虎光」の厳密な記録と、『甲陽軍鑑』が描く英雄「諸角虎定」の物語を比較検討することで、彼の人物像はより立体的に浮かび上がってくるのである。

第三章:第四次川中島の合戦―老将の最期

永禄4年(1561年)9月10日(旧暦)、信濃川中島を舞台に、武田信玄と上杉謙信(当時は政虎)の両雄が雌雄を決するべく激突した。この第四次川中島の合戦は、一連の戦いの中でも最大の激戦となり、両軍合わせて数千人の死者を出す凄惨な戦いとなった 30 。この日、八幡原(はちまんぱら)の朝霧の中で、81歳の老将・諸角虎定は、その長い武将としての生涯に、最も壮絶な形で終止符を打つことになる。

第一節:八幡原の死闘

この合戦に臨むにあたり、武田軍は兵力で上杉軍を上回っていた 38 。信玄は、妻女山(さいじょさん)に陣取る上杉軍を、本隊と別働隊で挟撃する「啄木鳥(きつつき)の戦法」を立案した 30 。これは、高坂昌信(こうさか まさのぶ)らが率いる一万二千の別働隊が夜陰に乗じて妻女山の背後に回り込み、夜明けと共に上杉軍を山から追い立て、平野部の八幡原で待ち構える信玄本隊がこれを殲滅するという作戦であった 27

しかし、この策は上杉謙信に見抜かれていた。謙信は、武田の別働隊が行動を起こすより先に、全軍を率いて密かに妻女山を下り、千曲川を渡って八幡原の武田本陣に迫っていたのである 39 。夜が明け、深い霧が立ち込める中、信玄が率いる八千の兵の眼前に、突如として上杉軍一万三千が出現した。

武田軍の陣形は、鶴が翼を広げたような「鶴翼の陣」であったと伝えられる 2 。その中で諸角虎定は、内藤昌豊(ないとう まさとよ)と共に、本陣を守る右翼の備えを指揮していた 2 。作戦の前提が崩れ、完全に意表を突かれた武田本陣は、上杉軍の猛烈な突撃に晒される。特に、上杉軍が採用した「車懸りの陣(くるまがかりのじん)」は、次々と新しい部隊が波状攻撃を仕掛けてくる戦法であり、武田軍は防戦一方の苦しい戦いを強いられた。戦いは凄惨を極め、武田本陣は壊滅寸前にまで追い込まれたのである 26

第二節:信繁の死と壮絶な討死

乱戦の最中、武田軍にとって致命的な悲報がもたらされる。副将として本陣中央で奮戦していた信玄の弟、武田典厩信繁が討死したのである 30 。信繁は武田家臣団の信望の的であり、その死は兵たちの士気に計り知れない打撃を与えた。

この報を、本陣の右翼で死闘を続けていた諸角虎定が耳にした。信繁は、虎定が幼少の頃より守役として慈しみ、育て上げてきた若君であった 5 。その信繁が討たれたと知った瞬間、老将の胸に去来したのは、悲しみと絶望、そして激しい怒りであった。現地の墓所の解説によれば、虎定は「もはや我が武運尽きる時、我もお供つかまつらん」と叫び、自らの死を覚悟したという 11

81歳の老将は、白髪を振り乱し、残った僅かな手勢を率いて、信繁の後を追うかのように上杉軍の渦中へと突撃した 2 。それは、戦術的な判断に基づいた行動ではなく、育ての親として、守役としての最後の務めを果たそうとする、魂の叫びにも似た突撃であった。奮戦の末、虎定は力尽き、ついに敵兵に首を討ち取られた。

彼の首は一時上杉方に奪われたが、虎定の与力(配下の武士)であった成瀬正一と石黒五郎兵衛が、決死の覚悟で敵陣に斬り込み、主君の首を奪い返したと伝えられている 4 。この逸話は、虎定がいかに部下から慕われていたかを示すと共に、戦国の世の主従関係の強固さを物語っている。彼の遺体は、後にその戦死した場所に葬られたという 2

第三節:死の背景にある武士の価値観

諸角虎定の最期は、単なる一武将の戦死として片付けることはできない。その行動の背後には、当時の武士たちが共有していた特有の価値観、すなわち「武士道」の精神が色濃く反映されている。

彼の最後の突撃は、自らが守り育てるべき対象であった信繁の死に殉ずる行為、すなわち「殉死(じゅんし)」の一形態と解釈することができる。武士にとって、主君のために命を捧げることは最高の栄誉とされたが、虎定の場合、その対象は主君信玄であると同時に、あるいはそれ以上に、守役として生涯をかけて仕えた信繁個人に向けられていた。信繁の死によって、虎定にとっての守役としての役割、そして生きる意味そのものが失われた。その絶望が、彼を死地へと向かわせた最大の動機であったと考えられる。

当時81歳という高齢であった虎定にとって、もはや戦場で華々しい武功を立てることは難しかったであろう。彼の役目は、長年の経験と知識をもって家を支える宿老として、後進を導くことにあった。しかし、川中島の死闘という極限状況の中で、彼は武将としての原点に立ち返った。それは、老いさらばえて畳の上で死ぬのではなく、武士として、主君(ここでは信繁)の死に際して、戦場で華々しく散るという「美しい死に様」の選択であった。

この壮絶な死は、武田家臣団に大きな衝撃を与えたであろうが、同時に彼の名を不滅のものにした。老いをものともせず、忠義を貫き、育ての親として主君の後を追った老将の物語は、武士の鑑として後世まで語り継がれ、彼の「虚像」を形成する上で中核的な要素となったのである。彼の死は、戦術的な敗北の中の一つの悲劇であると同時に、武士の倫理観が最も純粋な形で発露した、一つの完成された物語でもあった。

第四章:後継者と一族の終焉

一人の武将が戦場でいかに輝かしい功績を立て、忠義の鑑としてその名を残したとしても、その家名と血脈が安泰であるとは限らないのが戦国の世の常である。諸角虎定(室住虎光)の死後、彼の一族が辿った運命は、この時代の厳しさと、武田家の統治体制の非情さを浮き彫りにする、皮肉に満ちた悲劇であった。

第一節:跡式の継承

諸角虎定には実子がいなかったとされ、家督は養子が継承した。彼の養子となったのは、室住虎登(むろずみ とらとう)という人物である 4 。虎登は、上田原の戦いで信玄の身代わりとなって討死した武田家の宿老・板垣信方(いたがき のぶかた)の実弟であり、元は板垣直方(なおかた)と名乗っていた 8 。板垣家という武田家中の名門から養子を迎えていることからも、諸角(室住)家が家中で高い家格を維持していたことがうかがえる。

虎定が永禄4年(1561年)に川中島で戦死すると、虎登がその跡式(家督と遺領)を継いだ。しかし、虎登自身もそのわずか3年後の永禄7年(1564年)に死去してしまう 41 。その後、家督は虎登の子、すなわち虎定から見れば養孫にあたる室住昌守(むろずみ まさもり)が継承した 4 。こうして、忠勇の老将が命を賭して守った家名は、次世代へと無事に引き継がれたかに見えた。

第二節:御家改易―室住氏の断絶

しかし、室住氏の命運は、元亀元年(1570年)に突如として断ち切られることになる。当主の室住昌守が、原甚四郎(はら じんしろう)という人物と争いを起こしたのである 4 。この原甚四郎は、「鬼美濃」の異名で知られた武田家の猛将・原虎胤(はら とらたね)の子であった 4

この「争い」が具体的にどのようなものであったか、口論であったのか、あるいは刃傷沙汰に及んだのか、史料には詳述されていない。しかし、この事件の結果は極めて深刻であった。主君・信玄は、この争いを理由に、室住昌守を「改易(かいえき)」に処したのである 4

改易とは、武士の身分を剥奪し、その所領や財産をすべて没収する、死罪に次ぐ重罰である。これにより、室住氏は武田家臣団における地位と存続基盤のすべてを失った。諸角虎定が二代にわたって築き上げ、その命と引き換えに守ろうとした家名は、孫の代に、敵との戦いではなく、味方との内輪の揉め事によって、あっけなく取り潰されてしまったのである。この事件以降、室住(諸角)氏の名は、武田家の歴史の表舞台から完全に姿を消すことになる 4

この結末には、深い皮肉が込められている。室住昌守が処罰された直接的な原因は、武田氏が定めた厳格な家法、特に「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」の原則にあったと考えられる。信玄が制定したとされる分国法『甲州法度之次第』には、家臣間の私闘や口論を厳しく禁じる条項が含まれている。信玄は、家臣団の結束を乱す内部対立を何よりも嫌い、たとえ理由がどうであれ、争いを起こした者は双方、あるいは一方を厳罰に処すという方針を徹底していた 42

ある逸話では、信玄は些細な取っ組み合いの喧嘩をした家臣二人に対し、「武士の喧嘩は刀を抜いて相手を殺す覚悟でするものだ。その覚悟がないならそもそも喧嘩をするな」と断じ、耳と鼻を削いで追放するという苛烈な処罰を下したとされる 42 。この逸話が示すように、武田家においては、家中の秩序維持が個人の功績や家柄よりも優先された。

つまり、室住昌守の改易は、彼の祖父・虎定が武田家に対してどれほどの功績を立てた忠臣であったかということとは無関係に、家法に基づいて機械的かつ非情に執行されたのである。究極の忠義を尽くした英雄の家が、その忠義を捧げた主家の厳格すぎる法によって断絶させられる。この事実は、戦国大名家の統制がいかに強力であったか、そして家臣の存在がいかに precarious (不安定) であったかを物語っている。諸角虎定の英雄譚が輝かしい光を放つ一方で、彼の一族の結末は、戦国の世の冷徹な影の部分を我々に突きつけているのである。

第五章:後世への影響と記憶

一人の歴史上の人物は、死後、様々な形で記憶され、語り継がれていく。諸角虎定もまた、その劇的な生涯と最期によって、後世の人々の心に強い印象を残し、多様な記憶の対象となった。その記憶は、彼を祀る寺社や墓所といった物理的な場所に刻まれ、また武者絵や物語といった文化的な創造物の中で形作られていった。

第一節:菩提寺・慈照寺と各地の墓所

諸角虎定の記憶を今に伝える最も重要な場所の一つが、山梨県甲斐市にある曹洞宗の寺院、有冨山慈照寺(ゆうふさん じしょうじ)である。この寺は、虎定が「諸角昌清」の名で開基(創設支援者)となって再興したと伝えられており、彼の菩提寺となっている 19 。境内には彼の供養塔(墓所)も存在し、虎定の法名「慈照寺殿昌良清禅定門」もこの寺の名に由来する 4 。慈照寺には、武田信玄が発給した文書なども残されており、虎定が武田家の中枢と深い繋がりを持っていたことを物語っている 19 。ここは、彼の武将としての一面だけでなく、信仰者としての一面を伝える、いわば公式な追憶の場である。

これに対し、より個人的で、人々の温かい感情に支えられた記憶の場が、彼が討死した信濃の地にある。長野県長野市稲里町下氷鉋(しもひがの)には、彼の戦死した場所に建てられたとされる墓が現存する 2 。この墓は、地元の人々から「もろずみさん」という親しみを込めた愛称で呼ばれている 2

特筆すべきは、「諸角講(もろずみこう)」という地域組織の存在である 40 。この講は、地域の住民によって構成され、虎定の墓の維持管理を担い、現在でも毎年春と秋の二回、集落を挙げて慰霊の祭典を行っているという 12 。敵将であったはずの武田家の武将が、数百年もの時を経て、その戦死の地で地域の人々によって手厚く祀られているという事実は、非常に興味深い。彼の壮絶な最期が、敵味方の区別を超えて人々の心を打ち、尊敬と哀悼の念を呼び起こしたことの証左であろう。甲斐の菩提寺が「公式」の記憶を伝える場であるとすれば、信濃の墓所は、彼の人間的な魅力や悲劇性を伝える「民衆」の記憶の場といえる。

第二節:武田二十四将図と武者絵にみる姿

江戸時代に入り、世が泰平になると、戦国時代の英雄たちの物語は講談や軍記物を通じて大衆文化として花開いた。その中で、武田信玄と彼に仕えた勇将たちのイメージを視覚的に定着させたのが、「武田二十四将図」である。

「武田二十四将」は、特定の二十四人に固定されたものではなく、描かれる時代や絵師によって顔ぶれが入れ替わる、多分に流動的な概念であった 45 。しかし、諸角虎定は、その忠勇の逸話から、多くの場合この二十四将の一人として数えられている 45 。これらの図像の中で、彼は白髪白髭の老将でありながらも、なお矍鑠(かくしゃく)として武具を身に着けた姿で描かれ、武田家臣団の重厚さと層の厚さを象徴する存在として位置づけられた。

さらに、江戸後期の浮世絵師たちは、彼を「武者絵(むしゃえ)」の格好の題材として取り上げた。特に、歌川国芳(うたがわ くによし)が描いた『甲越勇将伝 武田家廿四将 三討死之内 諸角豊後守昌清』は、虎定のイメージを決定づけた作品として名高い 47 。この絵の中で、虎定は馬上で敵兵を薙ぎ払う、まさに鬼神の如き姿で描かれている。飛び散る血飛沫や敵兵の苦悶の表情など、その描写は極めてダイナミックかつ劇的であり、老将の最後の奮戦を見事に表現している 47

これらの武者絵は、史実の再現というよりも、物語性を重視した「エンターテインメント」であった。絵師たちは、講談などで語られる英雄の姿を、大胆な構図と豊かな色彩で視覚化し、大衆の喝采を浴びた 48 。諸角虎定もまた、これらの作品を通じて、「忠義に生きた壮絶な最期を遂げた老将」という、分かりやすく英雄的なイメージを不動のものとしていったのである。ここに、歴史上の人物「室住虎光」が、大衆文化のヒーロー「諸角虎定」へと完全に変貌を遂げた姿を見ることができる。

第三節:現代における表象

諸角虎定の英雄的なイメージは、現代においても様々なメディアを通じて再生産され続けている。特に、日本の歴史ドラマの最高峰であるNHK大河ドラマにおいて、彼は繰り返し登場している。昭和44年(1969年)の『天と地と』や、平成19年(2007年)の『風林火山』といった作品で、歴戦の宿老として、また信繁を支える忠臣としての彼の姿が描かれた 4 。これらのドラマは、彼の人物像を全国の視聴者に広く知らしめ、その人気を確固たるものにした。

また、ビデオゲームの世界でも、彼は人気のキャラクターとなっている。多くの戦国時代をテーマにしたシミュレーションゲームやアクションゲームにおいて、諸角虎定は武勇に優れた老将として登場する 1 。ゲームの能力値設定では、高齢でありながらも高い武力を持つキャラクターとして描かれることが多く、江戸時代の武者絵以来の「強い老将」というイメージが、現代的な形で受け継がれている。

これらの現代メディアにおける表象は、史実の厳密な再現よりも、物語としての魅力を優先する傾向がある。そのため、そこで描かれるのは、研究によって明らかになった「室住虎光」の実像よりも、むしろ『甲陽軍鑑』や武者絵が作り上げた「諸角虎定」の虚像に近い。しかし、それらは彼の名を現代に語り継ぎ、新たな世代の歴史ファンを生み出す上で、大きな役割を果たしていることもまた事実である。

結論:忠勇の老将、その実像と虚像

本報告書は、戦国武将・諸角虎定について、一般に知られる英雄譚から一歩踏み込み、史料批判を通じてその多面的な人物像を明らかにすることを試みた。その結果、我々の前には、二つの異なる、しかし分かちがたく結びついた姿が浮かび上がってきた。一つは歴史的史料が断片的に示す「実像」であり、もう一つは後世の物語が作り上げた「虚像」である。

まず、彼のアイデンティティそのものが、この二重性を象徴している。確実性の高い同時代史料『安道寺文書』によれば、彼の名は「室住虎光」であった可能性が極めて高い。彼は武田家の奉行人を務めるなど、軍事面だけでなく行政面でも能力を発揮した、譜代の有力家臣であった。これが彼の「実像」の核である。一方で、「諸角虎定」という名は、『甲陽軍鑑』をはじめとする後世の軍記物語の中で定着し、忠勇の老将という英雄的な「虚像」と一体化した。また、「昌清」という名は、菩提寺である慈照寺との関わりの中で用いられた宗教的な名であり、彼の信仰者としての一面を示している。

彼の生涯を追うと、その忠誠心の核心が、主君・信玄の弟であり、自らが守役として育て上げた武田信繁にあったことが明らかになる。この深い個人的な絆こそが、永禄4年(1561年)の第四次川中島の合戦における彼の行動を理解する鍵である。信繁の討死を知った虎定が、81歳の老体で敵陣に突撃し、壮絶な最期を遂げた行為は、戦術的な判断を超えた、守役としての最後の務めであり、信繁への殉死であった。この死は、武士としての理想的な生き様と死に様を体現するものであり、彼を不滅の英雄へと押し上げた最大の要因であった。

しかし、この輝かしい英雄譚には、痛烈な皮肉に満ちた後日談が存在する。虎定が命を賭して守った室住(諸角)家は、孫・昌守の代に、家臣間の些細な争いを理由に、信玄の厳格な家法によって改易され、断絶してしまう。究極の忠義を尽くした家臣の一族が、その忠誠を捧げた主家の非情な法によって取り潰されるという結末は、戦国時代の武家社会の厳しさ、そして個人の功績や家名の重さですら、時に組織の論理の前には無力であったという冷徹な現実を我々に突きつける。

諸角虎定、あるいは室住虎光の物語は、単なる一武将の伝記に留まらない。それは、一人の歴史的人物が、いかにして時代の要請や後世の価値観の中で伝説的な英雄へと姿を変えていくかを示す、歴史叙述の格好のケーススタディである。そして同時に、武士道が謳う忠義の美しさと、その背後にある非情な現実という、戦国時代の光と影の両面を鮮やかに映し出している。信濃の地で「もろずみさん」として今なお慕われる彼の存在は、史実の記録を超えて、人の心を動かし続ける物語の力を証明しているのかもしれない。忠勇の老将の「実像」と「虚像」を共に理解することによって、我々は戦国という時代をより深く、より立体的に把握することができるのである。

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