本報告書は、日本の戦国時代、出羽国(現在の秋田県)においてその名を刻んだ一人の国人領主、豊島重村(としま しげむら)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。通称を玄蕃(げんば)、剃髪後は休心(きゅうしん)と号し、本姓は畠山であったとも伝えられるこの人物は 1 、一般的には主家である安東氏に反旗を翻した謀反人として、歴史の中に簡潔に記されることが多い。
しかし、彼の行動の背景を深く探ると、そこには単なる個人的な野心や反抗心に留まらない、より大きく複雑な歴史の力学が存在したことが明らかになる。すなわち、出羽国北部で分裂していた二つの安東氏(檜山安東氏と湊安東氏)の統合を巡る熾烈な権力闘争、そしてその根底にあった雄物川流域の交易利権という経済的要因である。豊島重村の反乱は、巨大な権力による支配強化に対し、地域の経済的自立性と伝統的権益を守るために立ち上がった国人たちの抵抗の象徴であった。
本報告書では、豊島重村を単なる反逆者としてではなく、戦国末期の地方社会が経験した構造的変革の渦中で、自らの存亡をかけて戦った国人領主の典型として再評価する。その生涯を追うことは、出羽国における安東氏の統一事業の多面性を照らし出し、勝者の記録だけでは見えてこない、敗れ去った者たちの論理と悲劇を浮き彫りにする試みである。
記述にあたっては、江戸時代に成立した軍記物語である『奥羽永慶軍記』などの物語的史料と、『秋田藩家蔵文書』に代表される一次史料、さらには『新秋田市史』などの地方史誌や城郭調査記録といった多様な資料を比較検討する 2 。これにより、伝承と史実を可能な限り峻別し、多角的な視点から豊島重村という人物像を再構築することを目指す。
本報告書で詳述する豊島重村の生涯と、彼が深く関わった「湊騒動」の複雑な時系列を一覧化し、全体の理解を助ける。湊騒動は複数回発生し、史料によって年代が混同される傾向があるため 7 、本年表によって各事件を整理し、その因果関係を明確にする。
西暦 |
和暦 |
豊島氏の動向 |
安東氏の動向 |
関連勢力の動向 |
備考 |
1506年頃 |
永正3年頃 |
豊島玄蕃頭(重村の父か)が常陸国より出羽国河辺郡に入部したと伝わる 8 。 |
檜山・湊の両安東氏が並立。 |
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豊島氏の出羽入部伝承。 |
1570年 |
元亀元年 |
豊島玄蕃重村 、交易制限に反発し、湊安東家臣の下刈右京・川尻中務らと蜂起( 第二次湊騒動 ) 7 。 |
檜山安東愛季が弟・茂季を湊安東氏当主に据え、交易統制を強化 7 。 |
小野寺氏、戸沢氏が豊島方に同調 7 。 |
雄物川流域の経済利権を巡る広域的な反乱。 |
1570-71年 |
元亀元-2年 |
2年に及ぶ抗争の末、敗北。妻の実家である由利郡の 仁賀保氏 を頼り亡命 7 。 |
安東愛季、反乱を鎮圧。自ら湊城に入り、両安東氏の実権を掌握 10 。 |
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愛季による安東氏統一が事実上完成。 |
1579年 |
天正7年 |
仁賀保氏らの仲介により赦免され、本拠・ 豊島館に復帰 9 。 |
安東愛季、由利・仙北方面への勢力拡大を進める。 |
仁賀保氏、赤尾津氏らが赦免を仲介 12 。 |
愛季の戦略的判断による赦免と推測される。 |
1587年 |
天正15年 |
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安東愛季が病死。嫡男・実季が後を継ぐ 11 。 |
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権力の移行期が新たな動乱の火種となる。 |
1589年 |
天正17年 |
豊島重氏 (重村の子か)、湊安東家の遺児・通季に味方して蜂起( 第三次湊騒動/湊合戦 ) 2 。 |
安東実季、湊安東通季の反乱に直面。 |
由利十二頭の多くが実季方に与力 2 。 |
世代が代わり、再び安東氏に反旗を翻す。 |
1589年 |
天正17年 |
湊合戦で敗北。 豊島重氏は羽川義稙に討たれ、豊島氏は滅亡 14 。豊島館は落城し、羽川氏の居城となる 9 。 |
安東実季、由利衆の協力も得て反乱を鎮圧。秋田郡の支配を確立 16 。 |
羽川義稙が豊島重氏を討つ功を挙げる 14 。 |
在地領主としての豊島氏は歴史から姿を消す。 |
豊島重村の行動を理解するためには、まず彼がどのような出自を持ち、いかなる基盤の上に立っていたのかを明らかにする必要がある。彼の家系にまつわる伝承、本拠地とした城館の地理的条件、そして周辺勢力との関係性は、後の彼の決断に大きな影響を与えた。
豊島重村に関する諸記録は、彼が本名を畠山重村といい、鎌倉時代の武士の鑑と謳われた畠山重忠の末裔を称していたと一致して伝えている 1 。戦国時代において、地方の国人領主が自らの家格と領有の正統性を権威づけるため、源平藤橘といった名門や、歴史的に著名な武将の末裔を称することは、広く見られた戦略であった。畠山氏は清和源氏足利氏の一門であり、室町幕府において管領を輩出した名門中の名門である 19 。その名を冠することは、単なる一在地領主から、由緒ある家柄へと自らを格上げし、主家である安東氏や周辺勢力に対する発言力を高める上で、極めて有効な手段であったと考えられる。
興味深いことに、豊島重村の「豊島」という名字の源流とされる武蔵国の豊島氏もまた、秩父平氏の流れを汲み、畠山氏とは同族の関係にある 21 。しかし、この武蔵豊島氏は文明9年(1477年)の江古田・沼袋原の戦いで太田道灌に敗れ、歴史の表舞台から姿を消している 24 。出羽国の豊島氏と武蔵国の豊島氏との直接的な系譜関係を証明する確かな史料は見当たらず、両者の関係は不明である。
これらの状況を鑑みると、出羽豊島氏が畠山重忠の末裔を称したことは、史実としての連続性よりも、戦国乱世を生き抜くための戦略として、権威ある系譜を「創り出した」あるいは「借用した」可能性が高いと考察される。東北地方には畠山重忠本人に直接関わる伝承は多くないものの 22 、その武勇と忠義、そして悲劇的な最期は、武士の理想像として広く共有されており、その末裔を名乗ることの権威的価値は大きかったのである。この自己規定は、後に彼が安東氏という巨大な権力に公然と異を唱える大胆な行動の精神的支柱の一つとなったのかもしれない。
豊島氏が出羽国に根を下ろした経緯については、伝承の域を出ない部分が多い。一説によれば、永正3年(1506年)頃、豊島玄蕃頭(重村の父、あるいは先祖)が常陸国からこの地に移り住んだとされる 8 。彼らが本拠としたのが、現在の秋田県秋田市河辺戸島に位置する豊島館であった 2 。
この豊島館は、永正元年(1504年)に黒川肥後守によって築かれたとされ、豊島氏が入部してその居城としたという 8 。城館は、雄物川の主要な支流である岩見川が南に蛇行する地点の、北岸に突き出した標高約85メートルの丘陵上に築かれている 2 。この立地は、軍事的な防御性に優れるだけでなく、極めて重要な地政学的意味を持っていた。雄物川水系は、上流の仙北平野(県内有数の穀倉地帯)と、下流の日本海に面した交易港・土崎湊とを結ぶ、経済の大動脈であった 30 。豊島館はこの水運ルートを直接的に監視・管理できる結節点にあり、その支配者は物流と交易から生じる利権に大きな影響力を持つことができた。この地理的条件こそが、豊島氏の力の源泉であり、同時に後の安東氏との深刻な対立の根源ともなったのである。
豊島氏はこの地で、戸島、和田、岩見三内などを含む豊島郷一帯を支配する在地領主(国人)として勢力を築き、その地の名を姓として名乗った 1 。
河辺郡に拠点を置いた豊島氏は、当時の出羽国北部の政治力学の中で、巧みな外交関係を築いていた。まず、彼らは雄物川下流域の土崎湊を本拠とし、日本海交易を掌握する湊安東氏の家臣として、その支配体制に組み込まれていた 1 。これは、国人領主がより大きな勢力の庇護下に入ることで存続を図る、戦国時代の典型的な主従関係である。
しかし、豊島氏は安東氏への従属に安住するだけではなかった。彼らは同時に、南方に位置する由利郡の国人領主連合「由利十二頭」の一角を占める有力国人・仁賀保氏と姻戚関係を結んでいた 1 。重村自身が仁賀保氏から妻を迎えたのである。これは極めて重要な戦略的布石であった。主家である安東氏とは別に、南方の独立勢力と直接的な血縁関係を結ぶことは、一種の安全保障策であった。これにより、豊島氏は安東氏の圧力が過度に強まった場合に、それを牽制し、あるいは万が一の際には亡命先を確保するという「保険」を手に入れた。この複層的な外交関係は、豊島氏が単なる従順な家臣ではなく、自らの自立性を維持しようとする強い意志を持った、したたかな国人領主であったことを如実に物語っている。
元亀元年(1570年)、豊島重村の名を歴史に刻むことになる一大事件、「第二次湊騒動」が勃発する。この騒動は、単なる家臣の謀反という枠組みには収まらない。その本質は、安東氏の統一事業という政治的再編と、それに伴う雄物川流域の交易利権という経済構造の変革を巡る、広域的な抗争であった。
当時の出羽国北部は、二つの安東氏によって分割支配されていた。一つは米代川下流域の能代湊(檜山城)を拠点とし、蝦夷地交易にも影響力を持つ檜山安東氏。もう一つは雄物川下流域の土崎湊を拠点とする湊安東氏である 33 。この両家は同族でありながら、それぞれが独立した勢力として並立していた。
この状況に大きな変化をもたらしたのが、檜山安東氏の当主となった安東愛季であった。彼は卓越した軍事・政治能力を持つ野心的な人物で、両安東氏を統合し、出羽北部の覇権を確立することを目指していた 10 。その好機は、湊安東氏の当主・堯季に後継者がいなかったことから訪れた。愛季は、自らの実弟である安東茂季を堯季の養子として送り込み、湊安東氏の家督を継がせることに成功する 7 。これにより、湊安東氏は事実上、愛季の傀儡政権となり、彼の統一事業は大きく前進した。
安東愛季の狙いは、領土の統一だけではなかった。彼の真の目的は、出羽北部の経済的動脈である雄物川水運と、その出口である土崎湊の交易利権を完全に掌握することにあった。
従来、湊安東氏は、雄物川上流の内陸部に勢力を持つ小野寺氏や戸沢氏といった国人たちが、自領の産物(米や材木など)を土崎湊に運び、交易を行うことを許容していた。その見返りとして、比較的低率の津料(通行税や関税に相当)を徴収することで、緩やかな支配関係と経済的利益を両立させていたのである 7 。このシステムは、内陸の国人たちにとって、自領の産物を日本海を通じて他国へ売却するための重要な生命線であった。
しかし、両安東氏の実権を握った愛季は、この伝統的な経済秩序を根本から覆そうとした。彼は、湊安東氏を継いだ弟・茂季を通じて、この交易に厳しい統制を加え、津料を大幅に引き上げるなどして、雄物川流域の経済を自らの管理下に置こうとしたのである 7 。これは、現代で言えば、物流のハブを支配する企業が、取引先に対して一方的に不利益な条件を突きつけるようなものであった。この政策は、愛季にとっては国人衆への支配を強化し、富を独占するための合理的な手段であったが、豊島氏をはじめとする雄物川流域に経済基盤を置く国人たちにとっては、まさに死活問題であった 10 。
元亀元年(1570年)、安東茂季が兄・愛季の意向を具体化し、豊島領内との交易を厳しく制限したことが、ついに反乱の引き金を引いた 7 。
この強硬策に対し、豊島玄蕃重村は真っ向から反発した。彼は、単独で行動を起こしたのではない。驚くべきことに、彼は湊安東家の譜代家臣であるはずの下刈右京や川尻中務といった人物たちと結託して兵を挙げたのである 7 。この事実は、愛季による支配強化が、湊安東家の内部からも強い反発を招いていたことを示唆している。下刈氏や川尻氏らにとって、檜山安東氏から送り込まれた「落下傘」当主である茂季と、その背後で糸を引く愛季の存在は、旧来の主家を乗っ取る侵略者と映ったのかもしれない。彼らは、伝統的な主従関係と自らの既得権益が解体されることを恐れ、外部の国人である豊島氏と手を結ぶことを選んだのである。
さらに、豊島重村の動きは、より広範な連合へと発展した。彼は、同じく愛季の経済政策によって深刻な打撃を受ける内陸の大名、仙北地方の小野寺氏や戸沢氏と連携し、一大反・檜山安東連合を形成した 7 。ここに、第二次湊騒動は、単なる一国人の反乱ではなく、雄物川流域の経済的自立をかけた、広域にわたる組織的な抵抗戦争としての性格を帯びることになった。
第二次湊騒動における複雑な敵味方の関係を整理し、豊島重村がどのような勢力図の中で戦ったのかを明確にする。この騒動の対立構造は、単なる「豊島 vs 安東」ではなく、「(豊島+湊旧来勢力+内陸経済圏) vs (檜山安東新興勢力)」という、より複雑なものであった。
陣営 |
主要人物/勢力 |
立場・動機 |
反乱軍(豊島方) |
豊島玄蕃重村 |
河辺郡の国人。交易制限による経済的打撃に反発し、蜂起の中心となる。 |
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下刈右京、川尻中務 |
湊安東氏の譜代家臣。檜山安東氏による主家の乗っ取りと支配強化に反発し、豊島方に同調 7 。 |
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小野寺氏、戸沢氏 |
仙北地方の有力大名。雄物川水運を利用した交易利権を脅かされ、豊島氏と連携 7 。 |
鎮圧軍(檜山安東方) |
安東愛季 |
檜山安東氏当主。両安東氏の統一と交易利権の独占を目指し、反乱鎮圧の総指揮を執る 11 。 |
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安東茂季 |
湊安東氏当主(愛季の弟)。兄の意を受け交易制限を実行するが、実質的には傀儡であり、反乱の直接的な標的となる 35 。 |
元亀元年に始まった第二次湊騒動は、豊島重村の敗北という形で一応の終結を見る。しかし、彼の物語はここで終わらなかった。敗走と亡命、九年間にわたる雌伏の時を経て、彼は再び歴史の表舞台へと帰還を果たす。この過程は、戦国国人のしたたかな生存戦略と、彼を取り巻く政治情勢の流動性を色濃く反映している。
豊島重村が主導した反乱は、広範な勢力を巻き込み、2年間にわたって続いた 7 。その戦いの具体的な経過については、断片的な記録しか残されていないが、『奥羽永慶軍記』などの軍記物語は、湊城近郊の推古山などで激しい戦闘が繰り広げられたと伝えている 7 。
しかし、連合軍の勢いも、戦国大名として卓越した器量を持つ安東愛季の前に、長くは続かなかった。愛季は自ら軍を率いて鎮圧にあたり、その優れた軍事・政治手腕によって反乱軍を切り崩していった。最終的に、豊島重村らは敗北を喫する。この勝利によって、愛季は名実ともに両安東氏の当主となり、自ら湊城に入ってその支配体制を磐石なものとした 10 。
敗れた豊島重村は、捕らえられて処刑される道を免れ、かねてからの戦略的布石であった南方の由利郡へと落ち延びた。彼は、妻の実家である仁賀保氏を頼り、その庇護下に入ったのである 7 。
豊島重村は、天正七年(1579年)に赦免されるまでの約九年間、仁賀保氏のもとで雌伏の時を過ごすことになった 9 。この亡命生活は、彼にとって単なる潜伏期間ではなかった。それは、戦国時代の国人領主が駆使した生存戦略としての「亡命」と「姻戚関係」の重要性を示す実例であった。
仁賀保氏は、由利郡に割拠した国人領主連合「由利十二頭」の中でも、亀田の赤尾津氏と並ぶ有力な一族であった 36 。彼らは、北の安東氏、南の庄内大宝寺氏、東の小野寺氏といった大勢力に囲まれながらも、巧みな外交手腕で独立を保っていた 37 。仁賀保氏が、安東氏の宿敵である重村を匿った行為は、単に娘婿への情けからだけではなかったと考えられる。そこには、安東愛季の急激な勢力拡大に対する強い警戒心と、それを牽制しようとする高度な政治的・戦略的意図があった。反乱の首謀者である重村という「外交カード」を手元に置くことで、仁賀保氏は安東氏との交渉において有利な立場を確保し、自らの独立性を誇示することができたのである。姻戚という関係は、安東氏からの重村引き渡し要求を拒絶するための、格好の口実となった。
天正七年(1579年)、九年間の亡命生活を送っていた豊島重村に、突如として転機が訪れる。彼は安東愛季から罪を赦され、かつての本拠地である豊島館への帰還を許されたのである 9 。この赦免は、仁賀保氏や、同じく由利衆の有力者である赤尾津氏の仲介によるものであったと伝えられている 12 。
一度は自らの支配体制を根底から揺るがした大反乱の首謀者を、なぜ愛季は許したのか。この不可解とも思える赦免の背景には、愛季側の冷徹なまでの現実主義的な計算があったと推測される。当時の愛季は、出羽北部の統一をほぼ成し遂げたものの、その支配はまだ盤石ではなかった。北では比内郡の浅利氏、内陸では角館の戸沢氏との抗争が続いており、全方位に敵を抱える状況にあった 7 。このような状況下で、南方の由利衆と無用な対立を続けることは得策ではない。
愛季は、重村を赦免することで、いくつかの戦略的利益を得ようとしたと考えられる。第一に、仲介役である仁賀保氏らの顔を立てることで、由利衆との関係を安定させ、南方の安全を確保すること。第二に、敵対したとはいえ、周辺の大名を巻き込む大規模な反乱を組織・主導できるだけの能力と人脈を持つ「猛者」 12 とも評される重村を、殺したり追放したりするのではなく、自らの支配体制に組み込んで活用すること。そして第三に、一度は刃向かった相手に寛大な措置を示すことで、自らが単なる力ずくの征服者ではなく、器量の大きい「君主」であることを内外にアピールすることである。この赦免劇は、安東愛季の硬軟織り交ぜた高度な政治戦略の現れであり、豊島重村は、その大きな戦略の駒として、再び歴史の舞台に引き戻されたのであった。
豊島重村の帰還から約十年後、豊島一族は再び安東氏との戦いの渦に巻き込まれる。天正十七年(1589年)に勃発したこの「第三次湊騒動」、通称「湊合戦」は、豊島氏にとって最後の戦いとなり、一族の歴史に終止符を打つことになった。
天正十五年(1587年)、出羽北部に覇を唱えた安東愛季が病のためこの世を去った 11 。彼の死は、ようやく安定しかけていた出羽の政治情勢に、再び動乱の影を落とす。後を継いだ嫡男・安東実季はまだ若年であり 39 、その支配基盤は父・愛季ほど強固ではなかった。
この権力の移行期という絶好の機会を捉え、かつて愛季によって実権を奪われた湊安東家の正統な後継者である安東(豊島)通季が、積年の恨みを晴らすべく立ち上がった。彼は、安東氏と対立関係にあった南部の南部氏や仙北の小野寺氏といった外部勢力の支援を取り付け、実季に対して公然と反旗を翻したのである 7 。
この天正十七年の湊合戦において、反乱軍である湊方の中核として戦い、そして討死した人物として、史料には「豊島重氏(としま しげうじ)」という名が記録されている 2 。この「重氏」が、元亀の乱を主導した「重村」と同一人物なのか、それとも別人、例えばその子息や後継者なのかは、現存する史料からは明確に断定することができない。
しかし、いくつかの状況証拠から、両者は別人である可能性が高いと推測される。第一に、元亀元年(1570年)の反乱から湊合戦(1589年)までは19年という歳月が流れており、世代が交代していても不自然ではない。第二に、「重村」と「重氏」という名前の字の違いである。戦国武将が改名することは珍しくないが、もし同一人物であれば、その経緯が何らかの形で伝わっていてもよいはずである。
これらの点から最も自然な解釈は、両者は親子、すなわち「重村」の子が「重氏」であったというものである。この仮説に立つならば、豊島一族の物語は、より一層悲劇的な色合いを帯びてくる。父・重村の世代は、巨大な権力に経済的自立をかけて挑み、一度は敗北したものの、巧みな政治力と敵将の度量によって生き延び、再起を果たした。これは、いわば「敗者の戦略」の成功例であった。しかし、その子・重氏の世代は、父の世代の屈辱を晴らすためか、あるいは安東氏の代替わりという好機に乗じて再び蜂起するも、時代の大きな流れには逆らえなかった。父の代とは異なり、かつての味方にも見捨てられ、奮戦空しく討死し、一族もろとも滅亡するという結末を迎える。この世代間の対比は、戦国末期における地方国人の抵抗が、いかに困難で悲劇的な運命を辿らざるを得なかったかという、時代の非情な趨勢を象明瞭に示している。
湊合戦の戦況を決定づけたのは、由利衆の動向であった。かつて第二次湊騒動の後、豊島重村を庇護した仁賀保氏を含む由利十二頭の多くが、この戦いでは安東実季に味方したのである 2 。彼らは、もはや勝ち目の薄い湊方の反乱に加担するよりも、新たな支配者である実季に協力することで、自らの所領安堵を確実にするという、極めて現実的な政治判断を下した。これは、利害によって結びついた国人連合の脆さと、より大きな権力構造へと組み込まれていく地方勢力の宿命を浮き彫りにしている。
中でも、由利十二頭の一角である羽川氏の当主・羽川義稙は、安東実季方として積極的に参戦し、反乱軍の主力であった豊島重氏を討ち取るという大きな戦功を挙げた 14 。この功績により、羽川義稙は豊島氏の旧領と本拠であった豊島館を与えられ、新たな城主となった 9 。
これにより、永正年間にこの地に入部したと伝えられて以来、約80年にわたって河辺郡に勢力を張った国人・豊島氏は、歴史の舞台から完全にその姿を消すことになった。豊島館も落城し、主を失った城には、新たな支配者として羽川氏が入ったのである 2 。
豊島重村、そしてその一族の興亡史は、戦国時代という巨大な変革期において、中央から押し寄せる統一権力の波に抗い、そして飲み込まれていった一在地領主の抵抗と苦悩、そして必死の生存戦略の軌跡であった。彼の生涯を俯瞰するとき、それは単なる個人的な野心による謀反の物語ではなく、雄物川流域の経済的自立性という、地域の死活問題を守るために立ち上がった組織的抵抗の象徴として評価されるべきである。
元亀元年の蜂起は、安東愛季による交易利権の独占という経済的圧迫に対する、必然的な反発であった。彼は湊安東家の旧臣や内陸の諸大名と広範な連合を形成し、2年間にわたって巨大な権力に立ち向かった。一度は敗れ、亡命の身となりながらも、姻戚関係という伝統的なネットワークを駆使して再起を果たしたその生涯は、戦国国人のしたたかさをも示している。
しかし、その抵抗も時代の大きなうねりには抗しきれなかった。父の世代の雪辱を期したであろう子・重氏の代になると、安東氏の支配体制はより強固なものとなり、かつて味方であったはずの由利衆にさえ見捨てられ、一族は滅亡の淵へと追いやられた。豊島氏の二度にわたる(あるいは親子二代にわたる)反乱と、その悲劇的な結末は、安東氏による出羽北部の統一事業が決して平坦な道のりではなかったこと、そして被支配層の激しい抵抗を伴うものであったことを力強く証明している。同時に、豊島氏の滅亡は、戦国末期から織豊政権期にかけて、地方の小規模な国人領主たちが、より大きな政治・経済システムの中に吸収・淘汰されていくという、抗いがたい歴史の必然を物語る一典型であった。
『奥羽永慶軍記』などの後世の軍記物語は、豊島重村を安東氏に果敢に立ち向かった「猛者」として描き、その存在を記憶に留めた 3 。彼の物語は、常に勝者の視点から語られがちな歴史の陰に埋もれた、敗れ去った者たちの論理と意地を我々に教えてくれる。その意味で、豊島重村という一国人の生涯は、戦国という時代の多層的な実像を理解するための、極めて貴重な一事例として、今後も研究されるべき価値を持ち続けるであろう。