最終更新日 2025-07-21

赤井照景

赤井照景は伝説上の人物。史実の館林城主は赤井文六で、上杉謙信に敗れ没落。しかし、赤井氏の血脈は女傑・妙印尼により由良氏へ受け継がれた。

【専門家報告書】上野国館林城主・赤井氏の興亡と「赤井照景」の実像に関する総合的考察

序論:赤井照景という謎 ― 伝承と史実の狭間で

戦国時代の上野国(現在の群馬県)にその名を刻んだ豪族、赤井氏。その当主として、また館林城主として語られる「赤井照景」は、「父・照康の死後に家督を継ぎ、上杉謙信の関東侵攻に際してこれに従わず、永禄5年(1562年)に居城を攻め落とされて武蔵忍城へ逃れた」という略歴で知られています 1 。この人物像は、特に地域の歴史物語として広く浸透しています。

しかしながら、この一見明確な人物像は、歴史学的な検証の俎上に載せると、その輪郭が急速に曖昧となります。その名の根拠とされるのは、主に江戸時代以降に編纂された『館林記』や『両毛外史』といった後世の文献であり、同時代に書かれた信頼性の高い一次史料の中に「赤井照景」という名は見出すことができません 2 。この事実は、我々が知る「赤井照景」が、史実そのものではなく、後世に構築された「物語られた存在」である可能性を強く示唆します。

本報告書は、この「赤井照景」という存在をめぐる歴史的な謎を解明することを目的とします。まず、伝承として語り継がれてきた「照景」の物語を詳細に整理し、その人物像がいかにして形成されたかを探ります。次に、信頼性の高い同時代史料を基に、上野赤井氏という一族の実像と、彼らが歴史の表舞台から姿を消すことになった館林城落城の真相に迫ります。最終的には、なぜ「赤井照景」という人物が語られる必要があったのか、その歴史的背景と意義を考察し、滅亡したかに見えた赤井一族が、その血脈を通じて歴史に与えた真の影響を明らかにします。

第一部:伝承の中に生きる赤井照景

本章では、後世の編纂物によって形成され、今日一般に知られる「赤井照景」の人物像とその物語を詳細に記述します。これは史実を論じる前の前提知識の共有であると同時に、いかにしてこの「虚像」が定着したかを探るための重要な土台となります。

第一章:館林城の築城と赤井氏の勃興伝説

伝承における赤井氏の物語は、照景の父・照康による館林城の築城から始まります。この築城譚は、赤井氏の権威と城の神聖性を結びつける象徴的な出来事として語られています。

伝承によれば、館林城は弘治2年(1556年)、照景の父である赤井但馬守照康(あかい たじまのかみ てるやす)、入道して法蓮(ほうれん)によって築かれたとされます 4 。当時、大袋城主であった照康が年賀の挨拶に向かう道中、子供たちにいじめられていた子狐を助けたことが築城のきっかけになったとされています。その夜、照康の夢枕に狐の化身である老翁が現れ、城を築くべき要害の地として現在の館林城の場所を教え、縄張りの図面まで授けたといいます。狐が自らの尾で縄張りの範囲を大地に描いたというこの逸話は、「尾曳伝説(おびきでんせつ)」として知られ、館林城が「尾曳城」の別名を持つ由来となっています 6

しかし、この壮大な築城を成し遂げた父・照康は、城の完成後ほどなくしてこの世を去り、その跡を子の照景が継いだと物語は続きます 2 。若くして当主となった照景は、姉婿にあたる長尾当長(ながお まさなが)の後見を受けていたとされます 2

一方で、後世の編纂物は照景の人物像について、必ずしも好意的な描写をしていません。特に「我儘な性格で家臣の人望が薄かった」という評価が散見され、これが後の赤井氏の悲劇的な運命を暗示する伏線として機能しています 2 。このように、伝承における赤井照景は、偉大な父の遺産を受け継ぎながらも、個人的な資質に問題を抱えた悲劇の当主として描かれているのです。

第二章:越後の龍との対峙と一族の没落

照景の物語は、越後の「龍」と称された上杉謙信の登場によって、クライマックスを迎えます。彼の決断が、一族の運命を大きく左右することになります。

永禄3年(1560年)、関東管領・上杉憲政を奉じた長尾景虎(後の上杉謙信)が、大軍を率いて関東へ出兵します。これは、関東における後北条氏の勢力を駆逐し、旧来の秩序を回復することを目的とした大規模な軍事行動でした。関東の多くの国人領主たちが次々と謙信に恭順の意を示す中、赤井照景はこれに従いませんでした。伝承では、彼が古河公方・足利義氏や強大な後北条氏の威勢を背景に、謙信への出陣要請を拒んだとされています 2 。この明確な親北条・反上杉の姿勢が、謙信の怒りを買い、館林城が攻撃目標となる直接的な原因となりました 8

そして永禄5年(1562年)、ついに謙信は後北条氏に通じる照景を討つべく、館林城に大軍を差し向けます。上杉軍の猛攻に対し、照景と赤井一族は籠城して抵抗しますが、衆寡敵せず、ついに降伏を決意します。この時、近隣の有力大名であった由良成繁(ゆら なりしげ)らが助命を嘆願したことにより、照景は一命を取り留めたものの、先祖代々の地である館林城から追放されることになりました 7

城を追われた照景は、武蔵国北部の忍城(現在の埼玉県行田市)に身を寄せたと伝えられています 1 。しかし、その後の消息は判然としません。『両毛外史』などによれば、下野国の宇都宮氏を頼ったものの、女性を巡るトラブルを起こしてどこかへ立ち去ったとされ、その最期は謎に包まれています 7 。わずか10年にも満たない栄華の末、赤井氏はその本拠地を失い、当主・照景は歴史の闇へと消えていった、というのが伝承の結末です。

第一部の考察と次章への架け橋

伝承が描く赤井照景の物語は、築城伝説に始まり、当主の性格的欠陥、そして大勢力への反抗と没落という、非常に分かりやすい起承転結を持っています。しかし、この物語の分かりやすさこそが、歴史的事実を単純化している可能性を示唆します。戦国時代の小領主の滅亡は、多くの場合、当主個人の資質以上に、大勢力間の争いに巻き込まれるという地政学的な要因が大きく作用します。赤井氏の滅亡という複雑な歴史事象を、「我儘な当主」の個人的な欠陥に帰責させる物語構造は、人々に因果応報の教訓譚として受け入れられやすく、記憶に残りやすいという側面があります。つまり、伝承における赤井照景像は、歴史の悲劇を個人の物語へと単純化・集約させることで、後世の人々が歴史を理解し、記憶するための文学的装置として機能したと分析できます。

次章からは、この物語のフィルターを取り払い、同時代の史料が語る、より複雑で生々しい歴史の現実に迫ります。

第二部:史料が語る上野赤井氏の実像

本章では、伝承の世界から離れ、同時代の一次史料や信頼性の高い記録を基に、上野赤井氏の実態と、その歴史的転換点となった館林城落城の真相を解明します。そこから浮かび上がるのは、「照景」ではなく、別の名を持つ武将の姿です。

第一章:歴史の転換点 ― 「照景」から「文六」へ

赤井照景の物語を支える『館林記』や『両毛外史』は、江戸時代に成立した編纂物であり、同時代の一次史料と比較すると多くの矛盾点や後世の創作が含まれることから、その史料的価値は限定的であると評価されています 2 。これに対し、館林城の落城を同時代の人物が記録した、決定的な一次史料が存在します。それが、永禄5年(1562年)2月28日付の『須田榮定書状』です 11

この書状は、上杉家臣であった須田榮定(すだ ひでさだ)が記したものであり、館林城攻防戦の顛末を伝える一級史料と見なされています。この書状を詳細に分析すると、伝承とは異なる、驚くべき事実が明らかになります。

第一に、落城時の館林城主の名です。書状には、謙信に攻められた城主が「 赤井文六(あかい ぶんろく) 」であったと明確に記されています 11 。伝承で語られる「照景」という諱(いみな)は、この信頼性の高い史料には一切登場しません。

第二に、籠城戦の期間と激しさです。書状によれば、上杉軍の攻撃は2月9日に開始され、文六が降伏するまで「対陣八十余日」に及んだと別の史料には記されており、これは決して短期間で決着がついた戦いではなく、長期にわたる激しい攻防戦であったことを示しています 11

第三に、降伏の具体的な経緯です。『須田榮定書状』には、「赤井文六方、様々こんはう申され候間(赤井文六側から、様々に懇願があったので)」とあり、文六の側から降伏の申し入れがあったことが分かります。そして、その助命の仲介役として、「大源并よこせ方深侘言仕之候間(大源ならびに横瀬氏が深く詫び言を申し入れたので)」と、 大源 (だげん)という人物と**横瀬氏(後の由良氏)**が深く関与したことが記されています 11

第四に、退去時の様子です。文六は2月17日に城を明け渡して退去しますが、その様子を目撃した須田榮定は「なかなかあわれなる様躰共(まことに哀れな様子であった)」と記しています 11 。これは、一族の栄華が終わりを告げた無惨な情景を、生々しく伝える貴重な記述です。

これらの史実を伝承と比較することで、両者の間の大きな隔たりが明確になります。

項目

赤井照景(伝承)

赤井文六(史実)

氏名

赤井照景(あかい てるかげ)

赤井文六(あかい ぶんろく) ※通称であり諱は不明

赤井照康(あかい てるやす)

不明(高秀の子孫か)

人物像

我儘で人望が薄い 2

不明

落城の経緯

謙信に反抗し、攻撃を受け降伏 7

80日以上に及ぶ可能性のある籠城の末、由良氏らの仲介で降伏 11

その後の消息

忍城へ逃亡後、消息不明 1

忍城へ逃亡後、消息不明 3

主な根拠史料

『館林記』『両毛外史』など後世の編纂物 3

『須田榮定書状』(永禄5年)など同時代の一次史料 11

この比較から、「赤井照景」という人物は後世の創作であり、永禄5年に館林城で上杉謙信と対峙し、滅亡の悲運を辿った歴史上の人物は「赤井文六」であったと結論付けるのが妥当です。

第二章:上野赤井氏の出自と権力基盤

では、この赤井文六が率いた上野赤井氏とは、どのような一族だったのでしょうか。そのルーツは複雑で、複数の説が伝えられています。館林市の善長寺に伝わる系図は清和源氏説を、また『両毛外史』などは藤原北家小黒麻呂流説や藤原秀郷流佐貫氏一族説を唱えますが、いずれも確証に欠け、後世に権威付けのために作られた可能性が指摘されています 3

より信憑性が高いと考えられているのが、文屋氏後裔説です。室町時代後期の連歌師・宗祇が残した歌集『老葉』の中に、赤井綱秀という人物が「文屋康秀の後裔」として登場します 3 。文屋康秀は平安時代の歌人で六歌仙の一人です。このことから、少なくとも赤井氏自身は文屋氏の末裔であると自認していた可能性が高いと見られています。永禄の落城時の当主「文六」や、それ以前に史料に見える「文三」といった通称も、「文屋六郎」「文屋三郎」の略称と解釈され、この説を補強しています 12

赤井氏が歴史の表舞台に登場するのは、15世紀のことです。彼らは元々、上野国佐貫荘(現在の館林市周辺)の領主であった舞木氏の被官(家臣)でした。史料上の初出は永享10年(1438年)の永享の乱で、舞木氏の寄騎(配下の武士)として「赤井若狭守」の名が見えます 3 。しかし、15世紀半ば以降、この地域の文書から主家である舞木氏の名が消え、代わりに赤井氏が支配者として頻繁に登場するようになります 3 。これは、主家を凌駕して実権を奪う、戦国時代に典型的な「下克上」を果たしたことを物語っています。

また、当時の赤井氏には、信濃守を称する「文三系」と、刑部少輔・若狭守などを称する「文六系」という、二つの主要な系統が存在したとみられています 3 。永禄5年に滅亡の憂き目にあった「赤井文六」は、この後者の系統を継ぐ当主であったと考えられます。

第三章:赤井氏滅亡の力学と周辺勢力

赤井氏の滅亡は、伝承が語るような当主の個人的な資質の問題ではなく、当時の関東の地政学的な状況が生んだ必然的な帰結でした。1560年代の関東平野は、越後の上杉謙信と相模の後北条氏という二大勢力が覇権を争う、文字通りの最前線でした。上野国の国人領主たちは、この両大国の間で、どちらに付くかという極めて困難な選択を迫られていました。

赤井氏は、この状況下で「親北条」の道を選択しました 7 。これは、地理的に近い後北条氏との連携を重視した現実的な判断であったかもしれませんが、同時に、関東の旧秩序回復を大義名分に掲げる上杉謙信にとっては、自らの覇業を妨げる排除すべき障害と見なされる、極めて危険な賭けでもありました。結果として、赤井氏の館林城は謙信による関東経営の過程で、見せしめ的な意味合いも含めて攻撃の標的とされたのです。赤井氏の滅亡は、照景個人の「我儘」が招いたのではなく、この冷徹な地政学的力学の産物であったと理解すべきです。

そして、この絶望的な状況の中で、赤井文六が命だけは永らえられた背景には、単なる同情を超えた、極めて政治的な理由が存在しました。『須田榮定書状』が記す助命の仲介者「よこせ方」、すなわち横瀬氏(由良氏)の存在です 11 。当時の由良氏当主・由良成繁の正室は、赤井一族の娘・輝子(後の妙印尼)でした 3 。つまり、由良氏と赤井氏は強力な姻戚関係で結ばれていたのです。由良成繁にとって、妻の実家が根絶やしにされることは、自らの勢力基盤や姻戚ネットワークを揺るがしかねない重大事でした。彼が必死に助命を嘆願したのは、この姻戚関係という生命線を守るための、極めて合理的な政治行動だったのです。この強固な繋がりこそが、赤井文六が完全な殲滅を免れた最大の要因であったと言えるでしょう。

第三部:赤井氏の遺産 ― 女傑・妙印尼の生涯

館林城主としての赤井氏宗家は、赤井文六の代で事実上滅亡しました。しかし、赤井氏の物語はそこで終わりません。その血脈は、嫁いだ一人の女性を通じて、戦国乱世のさらに激しい渦の中へと受け継がれ、歴史に強烈な光を放つことになります。本章では、赤井氏の血を引く戦国時代の女傑・妙印尼輝子の生涯を追うことで、一族が残した真の遺産を探ります。

第一章:赤井重秀の娘・輝子

赤井氏の血を引くこの女性の名は輝子(てるこ)。後に出家して妙印尼(みょういんに)と号しました。彼女の出自は、伝説上の人物である赤井照康・照景とは異なり、史実の系譜に明確に位置づけることができます。妙印尼は、永正11年(1514年)、赤井一族の「赤井重秀(あかい しげひで)」の娘として生まれました 14 。この赤井重秀という人物は、大永8年(1528年)に父・高秀と共に実在が確認されている人物であり、妙印尼が歴史的に確かな血筋の出身であったことを示しています 3

輝子は長ずると、当時、新田金山城(現在の群馬県太田市)を拠点に勢力を拡大していた有力大名・由良成繁に嫁ぎました。そして、嫡男の国繁(くにしげ)や、後に足利長尾氏の家督を継ぐことになる顕長(あきなが)らを産みます 14 。この婚姻によって、赤井氏と由良氏は強固な同盟関係で結ばれました。これが、前章で述べたように、永禄5年の館林城落城の際に、由良成繁が赤井文六の助命に奔走する直接的な背景となったのです。

第二章:由良家を守り抜いた「最後の東国武者」

輝子の真価が発揮されたのは、夫・成繁が没し、自らも出家して妙印尼となった後のことでした。天正6年(1578年)に成繁が亡くなると、関東の情勢は再び緊迫します。後北条氏は、同盟者であったはずの由良氏の領地乗っ取りを画策し、天正12年(1584年)、当主となっていた息子の国繁と顕長の兄弟を謀略によって小田原城に幽閉してしまいます 14

主を失った金山城は、北条の大軍に包囲される絶体絶命の危機に陥りました。この時、城内の将兵をまとめ、指揮官として立ち上がったのが、実に71歳という高齢の妙印尼でした。彼女は自ら甲冑を身にまとい、籠城戦の采配を振るったと伝えられます 14 。数ヶ月にわたる抵抗の末、息子たちの解放を条件に城を明け渡しますが、その毅然とした態度は敵味方から称賛されました。

彼女の生涯における最大の決断は、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に下されます。この時、息子の国繁は依然として北条方として小田原城にありました。このままでは、由良氏は北条氏と共に豊臣軍に滅ぼされる運命にありました。この国家存亡の危機に際し、77歳となっていた妙印尼は、10歳の孫・貞繁(さだしげ)を名目上の当主として擁立すると、自ら兵を率いて豊臣方の前田利家の軍勢に馳せ参じるという、常人には考えも及ばない大胆な行動に出たのです 14

この功績が豊臣秀吉に高く評価され、由良氏は北条方であったにもかかわらず、改易を免れるという奇跡的な結果を手にしました。戦後、妙印尼にはその功を賞して常陸国牛久(現在の茨城県牛久市)に5,435石の所領が与えられます。彼女はこの所領を、小田原から戻った息子・国繁に譲ることで、見事に由良家を近世大名として存続させる道筋をつけたのです 14 。文禄3年(1594年)、妙印尼は移り住んだ牛久の地で、81年の波乱に満ちた生涯を閉じました 14

第三部の考察

赤井氏の歴史を俯瞰すると、そこには鮮やかな対比構造が浮かび上がります。すなわち、男性当主(赤井文六)に率いられた本家が、大勢力間の争いの中で硬直的な外交姿勢を取り、本拠地を失って歴史から姿を消した「家の滅亡」の物語。それに対し、その血を引く女性(妙印尼)が、嫁ぎ先の危機に際して旧来の枠組みに囚われず、新たな覇者(豊臣氏)に与するという極めて柔軟かつ現実的な判断を下し、血脈を未来へと繋いだ「存続の物語」です。

文六の行動原理が、領地や家名といった「武家の論理」に縛られていたとすれば、妙印尼の行動原理は、子や孫、すなわち「血脈」を未来へ繋ぐという、より根源的な「存続の論理」に基づいていたと言えるかもしれません。「赤井照景」の悲劇が赤井氏の「終わり」を象徴するならば、妙印尼の武勇伝は、赤井氏の血脈が新たな形で戦国乱世を生き抜き、次代へと繋がれていく「新たな始まり」の物語なのです。

結論:赤井照景という「記憶」の再評価

本報告書で詳述してきた通り、戦国武将「赤井照景」は、同時代の史料においてその実在を確認することができない、後世の伝承が生み出した人物像です。永禄5年(1562年)に上杉謙信によって館林城を追われ、一族没落の悲運を辿った最後の城主は、「赤井文六」という名の武将でした。彼の敗北は、個人の資質の問題というよりも、上杉・北条という二大勢力の狭間で生き残りを賭けた、小領主の地政学的な苦闘の末の必然的な結末でした。

しかし、史実ではないからといって、「赤井照景」の物語が無意味なわけではありません。それは、上野赤井氏という一族が、戦国乱世の巨大な渦の中で抗い、そして悲劇的な結末を迎えたという歴史の「記憶」を、個人名という分かりやすい器に込めて後世に伝えるための、優れた文学的営為であったと評価できます。「照景」という名は、赤井氏滅亡の哀史を象徴する記号として、地域の人々の心に刻まれてきたのです。

そして、赤井氏が歴史に残した真の遺産は、滅び去った男性当主の物語にではなく、その血を受け継ぎ、絶望的な状況下で自ら甲冑をまとい、知略と胆力で一族を存続へと導いた女傑・妙印尼輝子の不屈の生涯にこそ見出されます。赤井文六の「なかなかあわれなる」退去によって終わったかに見えた赤井氏の物語は、その血を引く一人の女性の類稀なる活躍によって、由良家という新たな形で近世まで続いていきました。このダイナミックな歴史の転換と、そこに示される人間の強靭な生命力こそが、赤井氏を巡る物語の最も興味深く、かつ重要な核心であると結論付けます。

引用文献

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  2. 赤井照景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E4%BA%95%E7%85%A7%E6%99%AF
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  5. akai - 名字の由来 https://www.myouji.org/MFDocuments2/akai.htm
  6. 館林城 https://tanbou25.stars.ne.jp/tatebayasijyo.htm
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  8. 館林城とは http://tatebayasi-sidan.sakura.ne.jp/jiorama/shiro.html
  9. 榊 原 康 政 公 ゆ か り 榊 原 康 政 公 ゆ か り - 館林市 https://www.city.tatebayashi.gunma.jp/s092/kanko/040/070/010/sakakibarayasumasamap.pdf
  10. 上杉謙信|国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1172
  11. 佐貫の庄の歴史 - 箕輪城と上州戦国史 - FC2 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E4%BD%90%E8%B2%AB%E3%81%AE%E5%BA%84%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
  12. 【群馬県】館林城の歴史 徳川四天王・榊原康政ゆかりの城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2025
  13. 1.享徳の乱と舞木・赤井氏 - 箕輪城と上州戦国史 - FC2 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/1.%E4%BA%AB%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%81%A8%E8%88%9E%E6%9C%A8%E3%83%BB%E8%B5%A4%E4%BA%95%E6%B0%8F
  14. 赤井輝子(妙印尼) 戦国武将を支えた女剣士/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/112498/
  15. 妙印尼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%8D%B0%E5%B0%BC
  16. 戦国最強の女武将!女戦士・妙印尼輝子(みょういんにてるこ)に豊臣秀吉も感服!? - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/171200
  17. 妙印尼 みょういんに - 坂東武士図鑑 https://www.bando-bushi.com/post/myou-in-ni
  18. 由良成繁 ゆらなりしげ - 坂東武士図鑑 https://www.bando-bushi.com/post/yura-narishige