戦国時代の九州、筑後国にその名を刻む赤司光正は、肥前を追われた龍造寺家兼を庇護し、その曾孫である隆信の代に仕えた筑後の豪族として、断片的にその名が知られている。しかしながら、彼の名は『北肥戦誌』 1 をはじめとする主要な軍記物語において、物語の中心人物として華々しく描かれることは稀である。彼の生涯は、龍造寺氏の興隆や大友氏との激しい攻防といった、より大きな権力闘争の記録の狭間に、半ば埋もれる形で存在している。
本報告書は、この赤司光正という一人の武将の実像を、可能な限り立体的に再構築することを目的とする。そのために、光正個人の行動に関する断片的な記録を核としながらも、彼が属した「赤司氏」という一族の歴史的淵源、その勢力基盤であった「赤司城」の地理的・戦略的な変遷、そして彼が生きた時代の筑後・肥前両国における複雑な政治力学を多角的に分析する。これにより、一地方豪族であった光正の決断が、戦国乱世における国人領主の生存戦略の一典型として、いかなる歴史的意義を持つものであったかを論証するものである。
赤司光正という個人を理解するためには、まず彼が背負っていた「赤司氏」という一族の出自と、その勢力基盤であった「赤司城」の重要性を把握することが不可欠である。これらは、彼の行動原理と、彼が置かれた状況を理解するための前提となる。
赤司氏は、筑後国山本郡(現在の福岡県久留米市周辺)を拠点とした有力な国人領主・草野氏の一族から分かれた家系であった 3 。軍記物である『筑後将士軍談』によれば、草野守永の次男であった永雄が「赤司」の姓を称したことが、その始まりであると伝えられている 3 。
この一族の活動は古くまで遡ることができ、史料上では南北朝時代の康暦元年(1379年)に、赤司備前入道宗祐が北朝方として九州探題・今川了俊の指揮下で軍事行動を起こしたことが「草野文書」に記録されている 3 。これは、赤司氏が単なる戦国期に勃興した新興勢力ではなく、少なくとも14世紀後半には既に武士として確立し、地域の政治・軍事動向に深く関与していたことを示す重要な証左である。
赤司氏が筑後の名門である草野氏の分家であるという事実は、極めて重要な意味を持つ。それは、彼らが地域社会において、一定の格式と社会的信用を有していたことを示唆するからである。全くの無名な土豪ではなく、地域に根差した伝統的な武家としての背景があったからこそ、後に詳述する龍造寺家兼のような、他国からの高位の亡命者が彼らを頼ることができた。在地領主としてのネットワークと、血縁に裏打ちされた家格こそが、赤司氏の無形の資産であり、乱世を渡る上での基盤となっていたのである。
赤司光正の居城であった赤司城は、現在の福岡県久留米市北野町赤司に位置した平城である 4 。その築城年代は定かではないが、古くから赤司氏によって築かれ、一族の拠点として機能してきたと伝えられる 4 。
この城が位置する場所は、九州最大の大河である筑後川流域の肥沃な平野部にあり、経済的に豊かであると同時に、交通の要衝でもあった 8 。その戦略的重要性の高さ故に、古来より周辺勢力の争奪の的となり、城は度々戦火に見舞われたという。これを防ぐため、城郭は「八重の堀と七重の築地」を巡らせた、極めて堅固な構造を誇っていたと伝わっている 8 。
赤司城の歴史は、戦国時代における筑後国の支配権の変遷を、まさに体現している。
このように、赤司城の城主の変遷は、一豪族の居城の歴史に留まらない。それは、筑後国の支配権が、在地領主(赤司氏)から、地域大国(大友氏・秋月氏)、そして中央政権(豊臣政権下の田中氏)、最終的には近世大名(有馬氏)へと移っていく、権力の移行プロセスを象徴する「生きた史料」である。赤司光正が生きた時代は、まさにこの支配権の移行が最も激しく、流動的であった時期にあたる。彼の選択と決断は、常にこのような外部からの強大な圧力と、目まぐるしく変わる勢力図の中で下されたものであった。
赤司光正の名を歴史に留めることになった最大の契機は、肥前の龍造寺家兼との出会いであった。当時、権勢を失った一介の亡命者に過ぎなかった家兼に対し、なぜ光正は味方したのか。その背景には、単なる同情や義侠心を超えた、地方豪族の冷徹な生存戦略が存在したと考えられる。
龍造寺家兼は、肥前の戦国大名・少弐氏の被官であったが、その智謀と武勇によって頭角を現し、主家を凌ぐほどの勢力を持つに至った 13 。しかし、その台頭は少弐氏の重臣であった馬場頼周らの強い警戒心を招く結果となる。天文14年(1545年)、頼周は謀略を巡らし、家兼の嫡男・家純や次男・家門をはじめ、一族の主だった者たちを次々と誅殺した。これにより龍造寺氏は壊滅的な打撃を受け、本拠地を追われることとなった 14 。
この時、家兼は既に90歳を超える高齢であったが、辛くも追討を逃れ、生き残った僅かな一族郎党を連れて本拠地である肥前佐賀を脱出。隣国である筑後国へと亡命の途についたのである 13 。
家兼一行が筑後で頼ったのは、柳川城主の蒲池鑑盛であった。鑑盛は「義心は鉄のごとし」と評されるほどの義理堅い人物として知られ、敵味方なく助けを求める者を保護する度量の広さを持っていた 16 。彼は、かつて敵対したこともある家兼一行を手厚く迎え入れ、住居を提供するなどして全面的に庇護した 14 。この蒲池氏による大規模な支援がなければ、龍造寺氏の再興はあり得なかったと、後世の史料は一致して指摘している。
そして、この亡命の過程において、赤司光正は家兼と「親交を結んだ」とされている。これは、蒲池氏のような大身の国人領主による公的かつ大規模な支援とは別に、より小規模な、あるいは個人的なレベルでの支援や交流が存在したことを示唆している。
この赤司光正の行動は、極めて示唆に富んでいる。当時の筑後国は、九州探題を擁する大大名・大友氏の強力な影響下にあり、その意に逆らうことは、自家の存亡に関わる危険な行為であった。龍造寺氏は大友氏の直接の敵ではなかったものの、将来的に肥前で再興すれば、大友氏と競合する可能性のある勢力である。そのような存在を支援することは、大友氏の不興を買いかねない、政治的にリスクの高い行為であった。
にもかかわらず光正が家兼を支援した背景には、高度な政治的計算があった可能性が高い。それは、一種の「投資」であったと解釈できる。現状維持、すなわち大友氏の支配下でその他大勢の国人の一人として埋没する道を選ぶのではなく、今は力を失っているが、将来性のある新興勢力の「創業功臣」となることで、一族の地位を飛躍的に向上させようという、ハイリスク・ハイリターンな生存戦略である。もし龍造寺氏が再興に成功すれば、この亡命中の恩義は計り知れない価値を持つことになる。この決断は、戦国時代の国人領主が、いかに先の先を読み、自家の生き残りと発展のためにダイナミックな思考を巡らせていたかを示す好例と言えよう。
龍造寺家兼の死後、赤司光正の「投資」は、その曾孫である龍造寺隆信の代で結実することになる。主君の交代という混乱期において、光正が一貫して隆信を支持したことは、彼の先見の明を証明するものであった。
天文15年(1546年)、龍造寺家兼は蒲池鑑盛らの支援を得て肥前に帰還し、宿敵であった馬場頼周を討ち果たして龍造寺家の再興を成し遂げた。しかし、その直後、安堵したかのように92年の生涯を閉じた 13 。家兼は死に際し、仏門に入っていた曾孫の円月(後の隆信)の非凡な器量を見抜き、彼を還俗させて家督を継がせるよう遺言したと伝えられている 15 。
家兼という絶対的な重鎮を失った龍造寺一門は、たちまち家督を巡る内紛に揺れた。この混乱の中、赤司光正は、家兼の遺志を尊重し、一貫して若き隆信を支持した。この選択は、光正の龍造寺氏への関与が、家兼個人への一時的な同情や恩義に留まるものではなく、龍造寺氏という勢力そのものの将来性を見据えた、一貫した政治方針に基づいていたことを示している。彼は家兼との「親交」を通じて、龍造寺家の未来を担うべきは、粗削りながらも類稀な才気を持つ隆信であると見抜いていたのであろう。これは、単に恩に報いるという受動的な行動ではなく、自らの政治的判断への自信と、自らが選択した主家への忠誠心の発露であった。
赤司光正の期待に応え、龍造寺隆信は破竹の勢いで勢力を拡大していく。「肥前の熊」の異名をとるほどの猛将でありながら、冷徹な謀略家でもあった隆信は 17 、まず肥前を統一し、宿敵であった大友氏を耳川の戦い以降に圧倒。一時は島津氏と並び、九州の覇権を争う「九州三強」の一角にまで上り詰めた 17 。その過程で筑後国へも積極的に侵攻し、かつての恩人であった蒲池氏を謀殺して柳川を奪うなど、非情な手段で勢力圏を拡大した 14 。
この隆信の家臣団の中で、赤司光正個人の具体的な軍功を記した史料は、残念ながら乏しい。しかし、永禄十二年(1569年)の戦いにおいて、赤司一族の者と思われる「赤司資源」が戦死したという記録が残っており 4 、赤司一族が龍造寺軍の一翼を担い、実際の戦闘に参加していたことは確実である。
光正本人の武功に関する記録が少ないという事実は、彼が担っていた役割について別の可能性を示唆する。すなわち、彼は最前線で槍を振るう武将というよりも、筑後国における龍造寺氏の勢力を安定させるための、在地性の高い「後方支援」や「地域調整役」としての役割を担っていたのではないか。彼の最大の価値は、龍造寺氏が最も困窮していた時期の亡命者支援と、その後の家督相続支持という、龍造寺氏の根幹を支える部分で既に発揮されていた。隆信の勢力拡大期には、光正は一族の長老として、筑後の地理や複雑な人間関係に通じた重鎮、あるいはアドバイザー的な立場で、主家である龍造寺氏を支えていたと推測するのが自然であろう。
赤司光正の投資は、龍造寺隆信の代で大きく開花したが、その栄華は長くは続かなかった。隆信の劇的な戦死と、それに伴う主家の急激な衰退は、赤司氏とその居城である赤司城の運命をも大きく揺るがすことになる。
天正12年(1584年)、肥満した体躯で六人担ぎの駕籠に乗っていたと伝えられる龍造寺隆信は、島原半島において島津・有馬連合軍との決戦に臨んだ(沖田畷の戦い) 17 。圧倒的な兵力差を恃んで油断した隆信は、ぬかるんだ湿地帯に誘い込まれて身動きが取れなくなり、島津軍の猛攻の前に不覚をとって討ち死にした 14 。総大将の突然の死により、隆信一代で築き上げられた龍造寺氏の巨大な軍事国家は、急速に瓦解していく。
主君・隆信の死は、赤司氏の運命に直接的な影響を及ぼした。龍造寺氏の弱体化を好機と見た宿敵・大友氏は、猛将・立花道雪を筑後に派遣し、失地回復のための大攻勢を開始した。
そして天正13年(1585年)9月、道雪は筑後遠征の陣を赤司城に移した。しかし、長年の戦陣生活で彼の身体は既に病魔に蝕まれており、この赤司城の陣中にて病状が悪化。ついに帰らぬ人となった 11 。享年73。道雪は死の直前、重臣たちに対し、「私の遺体には鎧を着せ、首は(当時まだ攻略できていなかった敵地である)柳川の方に向けてこの地に埋めよ」と、最後の最後まで敵地攻略の執念を燃やす遺言を残したと伝えられている 11 。
この事実は、歴史の皮肉としか言いようがない。龍造寺氏への忠誠を誓った赤司氏の居城が、その最大の宿敵であった大友氏の猛将・立花道雪の最期の地となったのである。これは、主君・隆信の死からわずか1年ほどの間に、赤司氏(あるいは赤司城)がもはや龍造寺氏の支配下に留まることができず、大友方の手に落ちていたことを明確に物語っている。一国人領主の運命が、いかに主家の盛衰と直結していたか、そして戦国時代の支配関係がいかに流動的であったかを、これほど雄弁に物語る出来事はない。赤司光正の行った龍造寺氏への投資は、主君の死によって、その拠点である城を失うという形で、最終的に裏目に出たのである。
その後の赤司城は、豊臣秀吉の九州平定を経て、田中吉政の所領となった。吉政の弟・清政によって一時的に近世城郭として改修されたものの、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城の運命を辿った 4 。城主としての赤司氏の歴史は、ここで完全に幕を閉じる。
江戸時代以降、赤司一族が武士として存続したかどうかについての明確な記録は見出すのが難しい。しかし、赤司城の最後の城主代行であった田中清政の墓は、赤司の地にある栄恩寺に現存し、その子孫は明治に至るまでこの地に居住したという記録がある 5 。これは、赤司氏の直系ではないものの、城の記憶と共に地域に人々が生き続けたことを示唆している。また、近代に入ると、久留米の地でツツジ栽培の大家として「赤司廣楽園」を興し、国際的な評価を得た赤司喜次郎という人物も現れるが 21 、戦国の武将であった赤司氏との直接的な血縁関係は不明である。
年代 |
赤司氏・赤司城の動向 |
龍造寺氏の動向 |
九州・中央の主要動向 |
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1379年 |
赤司備前入道宗祐が北朝方で活動 3 。 |
- |
南北朝の動乱期。今川了俊が九州探題。 |
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1454年 |
- |
龍造寺家兼、誕生 13 。 |
- |
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1529年 |
- |
龍造寺隆信、誕生 15 。 |
- |
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1545年 |
赤司光正、亡命してきた龍造寺家兼と親交を結ぶ。 |
家兼、馬場頼周に敗れ筑後へ亡命 14 。 |
大友義鑑が九州北部で勢力を拡大。 |
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1546年 |
光正、家兼死後の家督争いで隆信を支持。 |
家兼、肥前で再起するも死去。隆信が家督継承 13 。 |
- |
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1569年 |
赤司資源が龍造寺方として戦死 4 。 |
隆信、大友軍と多々良浜で戦う。 |
織田信長が上洛。 |
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1584年 |
- |
隆信、沖田畷の戦いで島津・有馬軍に敗れ戦死 14 。 |
- |
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1585年 |
赤司城が大友方の手に落ち、立花道雪が陣没 11 。 |
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龍造寺氏、急速に衰退。 |
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1587年 |
- |
- |
豊臣秀吉、九州平定。 |
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1615年 |
赤司城、一国一城令により廃城 4 。 |
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- |
大坂夏の陣。 |
1621年 |
廃城の石材等が久留米城修築に転用される 9 。 |
- |
有馬豊氏が久留米藩主となる。 |
コード スニペット
graph TD
subgraph 龍造寺勢力
Iekane[龍造寺家兼]
Takanobu[龍造寺隆信]
Mitsumasa[赤司光正]
end
subgraph 筑後国人
Akimori[蒲池鑑盛]
end
subgraph 大友勢力
Dosetsu[立花道雪]
end
subgraph 龍造寺家臣団
Yorichika[馬場頼周]
end
Iekane -- 亡命時に庇護 --> Akimori
Iekane -- 亡命時に親交 --> Mitsumasa
Yorichika -- 追討 --> Iekane
Iekane -- 曾孫 --> Takanobu
Mitsumasa -- 家督相続を支持 --> Takanobu
Takanobu -- 主君 --> Mitsumasa
Dosetsu -- 敵対 --> Takanobu
Akimori -- 恩人 --> Takanobu
Takanobu -- 後に謀殺 --> Akimori
Dosetsu -- 赤司城で陣没 --> Mitsumasa[赤司城]
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class Iekane,Takanobu,Yorichika ryuzoji;
class Dosetsu otomo;
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赤司光正の生涯を振り返るとき、その最大の功績は、戦場における華々しい武功ではなく、龍造寺家兼という一人の亡命者の内に秘められた将来性を見抜き、自家と一族の運命を賭けて「投資」した、その類稀な戦略的決断にあると言える。この光正の支援がなければ、また蒲池鑑盛の庇護がなければ、龍造寺氏の再興はより困難なものとなり、その後の龍造寺隆信の爆発的な台頭もなかったかもしれない。その意味で、彼の行動は九州の戦国史の展開に、間接的ながらも決して小さくない影響を与えた。
彼の生き様は、大友、龍造寺、島津といった強大な勢力の狭間で、自家の存続と発展のために、時に危険な賭けに出て活路を見出そうとした、戦国時代の典型的な国人領主の姿を映し出している。彼の選択は、主君・隆信の代で大きく花開き、一族の地位を向上させたが、その主君のあまりにも早い死によって、拠点を失うという形で終焉を迎えた。これは、主家の盛衰に自家の運命を完全に委ねるしかなかった、国人領主の悲哀と限界をも示している。
赤司光正は、歴史の教科書で大きく扱われる主役ではない。しかし、彼の物語は、歴史を動かすのは著名な大名や将軍だけではなく、彼らを時に支え、時にその運命を左右する決断を下した、我々の知らない無数の地方豪族たちの存在であったことを、改めて教えてくれる。赤司光正が龍造寺家兼と結んだ「親交」という一見小さな行動が、結果として九州の歴史という大きな歯車を動かす一助となったのである。彼の生涯は、記録の狭間に埋もれた、しかし確かな意義を持つ、一人の武士の生きた証として記憶されるべきであろう。