赤尾津光政
赤尾津光政は出羽由利十二頭の一角。大宝寺義氏を安東愛季の支援で撃退。豊臣政権下で由利郡最大の所領を安堵されたが、関ヶ原で無断帰国し改易。子孫は仁賀保藩主として存続。

戦国期出羽の驍将、赤尾津光政の実像 ―その生涯と「荒沢の戦い」を中心に―
序章:赤尾津光政とその時代
本報告書の目的と対象
本報告書は、戦国時代に出羽国由利郡(現在の秋田県南部)に勢力を有した武将、赤尾津光政(あこうづ みつまさ)について、現存する史料の断片を繋ぎ合わせ、その実像に迫ることを目的とする。赤尾津光政は、由利十二頭の一人に数えられ、特に由利郡に侵攻した大宝寺義氏の軍勢に対し、安東愛季の救援を得てこれを「荒沢の戦い」で打ち破ったとされる人物である。本報告書では、この「荒沢の戦い」における役割を中心に、彼の生涯と彼が率いた赤尾津氏の興亡を、関連史料に基づいて詳細かつ徹底的に明らかにする。
戦国期出羽国の概況
赤尾津光政が生きた時代は、応仁の乱以降、室町幕府の権威が失墜し、日本各地で守護大名やその家臣、あるいは新興の国人領主たちが実力で領国を支配し、相互に勢力拡大を目指して争った戦国乱世の真っ只中であった。出羽国、とりわけ由利郡は、地理的に北の秋田湊を拠点とする安東氏(後の秋田氏)、南の仙北地方に勢力を持つ小野寺氏、庄内地方の大宝寺(武藤)氏、そして内陸部から勢力を伸ばす最上氏といった、比較的大きな戦国大名や有力国人に囲まれた地域であった 1 。
このような大勢力の狭間に位置した由利郡では、突出した大名権力は成長せず、在地の中小領主たちが「由利十二頭」と総称される国人一揆的な連合体を形成し、時には一致団結して外部勢力に対抗し、また時には内部で離合集散を繰り返しながら、自領の維持と自立を模索していた 1 。由利郡の地政学的な位置づけ、すなわち複数の大勢力に隣接し、その影響を直接的に受ける環境が、由利十二頭という独特の国人連合の形成を促し、赤尾津氏を含む個々の領主の外交戦略や軍事行動に大きな影響を与えたのである。赤尾津光政が大宝寺氏の侵攻に際して安東愛季に救援を求めた行動も、このような地政学的状況と、国人領主としての生き残り戦略の現れと理解することができる。
赤尾津光政研究の意義と課題
赤尾津光政個人に関する直接的な一次史料は極めて限定的であり、その生涯や具体的な事績の多くは、彼の子である仁賀保挙誠(にかほ きよしげ/たかのぶ)に関する記録、赤尾津氏全体の動向を示す史料、あるいは「荒沢の戦い」のような関連する合戦の記述などから、多角的に推論し、再構築していく必要がある。
赤尾津光政のような、いわゆる「有名大名」ではない地方の国人領主の研究は、戦国時代の多様な権力構造や、各地域社会が織りなした歴史の実態を具体的に明らかにする上で非常に重要である。中央集権的な統一政権へと移行していく過渡期における、特に中央から離れた辺境地域のダイナミズムや、そこに生きた人々の姿を理解する上で、貴重な手がかりを与えてくれる。本報告書では、これらの間接的な情報を丹念に検討し、史料の空白を埋めつつ、赤尾津光政の歴史における役割と意義を再評価することを試みる。
第一章:赤尾津氏の出自と本拠
赤尾津氏の起源と系譜
赤尾津氏は、その出自を辿ると清和源氏小笠原氏の流れを汲む大井氏の庶流とされている 2 。元々は信濃国(現在の長野県)の大井荘を本拠としていた一族が、鎌倉時代に何らかの理由で出羽国由利郡へ移住し、在地化したことに始まると伝えられている。
史料で確認できるところでは、室町時代中期には小介川(こすけがわ)氏を称していたことが知られている。1450年(宝徳2年)には、室町幕府から未進年貢の催促を受ける対象として「小介川」の名が記録されており、この時期には既に由利郡内で一定の勢力を持つ領主として認識されていたことがわかる 1 。この小介川氏が、後に本拠地とする赤尾津の地名を冠して赤尾津氏を名乗るようになったと考えられている 2 。
ある記録によれば、大井氏の一派が由利郡南部の岩谷新沢(現在の由利本荘市大内町周辺と推定される)に入り、その地を流れる小介川(または小関川)から小介川氏を名乗ったとされる 3 。その後、一族は北方の赤尾津郷(現在の由利本荘市松ヶ崎・岩城亀田付近)へと勢力を拡大し、それに伴って赤尾津氏と呼ばれるようになったという 3 。この「小介川」から「赤尾津」への名称の変遷と勢力範囲の移動は、一族の発展段階と、本拠地として選択する土地の戦略的価値の変化を示唆している。当初、内陸の谷間に拠点を置いていた小介川氏が、日本海交易の重要性が増すにつれて、より交易に適した港湾部である赤尾津へとその中心を移し、それに伴い氏族名も変化した可能性が考えられる。これは、戦国期において在地領主が経済的・戦略的に重要な拠点を確保しようとする一般的な傾向とも合致する動きである。
本拠地・赤尾津領
赤尾津氏がその名を冠する本拠地は、由利郡赤尾津であった。この地は、現在の秋田県由利本荘市の日本海に面した松ヶ崎や岩城亀田といった地域に比定されている 1 。地理的には、秋田県を代表する河川である雄物川の河口部にも近く、古くから海上交通の要衝であったと考えられる。
事実、当時の赤尾津は日本海側の主要な港の一つとして知られており 1 、物資の集散地として、また他地域との交易を通じて経済的にも重要な拠点であったと推察される。この赤尾津港の存在と、そこからもたらされる経済的利益が、赤尾津氏の勢力基盤を支える重要な要素の一つとなっていた可能性は高い。そして、この港の経済的重要性が、赤尾津氏を由利十二頭の中でも有力な存在(後に豊臣政権下で由利地方最大の約4,300石の所領を安堵される 1 )へと押し上げる一因となったと同時に、大宝寺氏のような周辺の有力な外部勢力からの侵攻や介入を招く要因ともなったと考えられる。
居城・赤尾津城(天鷺城)
赤尾津氏の居城は、赤尾津城、別名を天鷺城(あまさぎじょう)、あるいは高城(たかじょう)とも伝えられている 5 。この城は、現在の由利本荘市岩城下蛇田に位置する高城山(標高約170メートル)の山頂から尾根にかけて築かれた山城であった 5 。
その築城史については諸説ある。一つの伝承によれば、その起源は非常に古く、9世紀頃に坂上田村麻呂によって滅ぼされた天鷺速男(あまさぎはやお)という豪族の居城であったとされる 5 。その後、時代は下り、由利氏の支配を経て、南北朝時代の暦応2年(1339年)に、信濃国から由利氏の子孫である由利維貴に従って由利郡に入部した小笠原甲斐守朝保、小笠原大井五郎光重、そして小笠原伯耆守光貞らのうち、小笠原伯耆守光貞がこの天鷺城に入り、赤尾津氏を名乗ったとされている 5 。この頃から、城も赤尾津城と呼ばれるようになったものと考えられる。
一方で、天正16年(1588年)に赤尾津氏が亀田地区(現在の由利本荘市岩城亀田)に赤尾津城を築城したとする記述も存在する 7 。これは南北朝時代の築城説とは年代が大きく異なるため、同一の城を指しているのか、あるいは時代による改修や、複数の城館が存在した可能性も考慮に入れる必要がある。例えば、高城山の山城とは別に、麓の亀田地区に平時の居館や政庁としての機能を持つ城、あるいは出城のようなものが築かれた可能性も否定できない。
第二章:赤尾津光政の実像
呼称と実名
本報告書で主題とする「赤尾津光政」という名は、ユーザーより提供された参照列伝において見られるものである。この名が、当時の彼を指す一般的な呼称であったか、あるいは後世の編纂物における表記であるかは、現時点では断定が難しい。
史料においては、彼の息子とされる仁賀保挙誠(戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、後に仁賀保藩初代藩主となる人物)の父として、「赤尾津光政または赤尾津道俊(みちとし)」の名が併記される形で登場する 2 。これは、挙誠の実父について複数の伝承があったか、あるいは「光政」と「道俊」が同一人物の異なる名乗りであった可能性を示唆している。
興味深いことに、仁賀保挙誠自身の幼名は赤尾津勝俊(かつとし)であり、後に仁賀保氏の養子となってからの実名は仁賀保光誠(みつしげ)であったとされている 2 。この「光誠」という名は、江戸幕府二代将軍徳川家光の諱「家光」の「光」の字を憚って、後に「挙誠」へと改めたものと考えられている 2 。この事実から、「光」の字が赤尾津氏およびそこから分かれた仁賀保氏にとって、諱に用いられる通字(とおりじ、家系代々で受け継がれる特定の漢字)であった可能性が濃厚に示唆される。そうであるならば、赤尾津光政の「光」の字も、この一族の伝統に連なるものであると推測できよう。
活動時期の推定
赤尾津光政の正確な生年および没年は、現在のところ史料からは明らかになっていない。一部の資料 2 に「死没 寛永元年2月14日(1624年4月1日)」との記載が見られるが、これは文脈や他の史料 2 と照らし合わせると、息子の仁賀保挙誠の没年であり、光政のものではない。
しかし、光政の活動時期については、いくつかの情報からある程度絞り込むことが可能である。まず、息子である仁賀保挙誠の生年が、永禄3年(1560年) 2 または永禄5年(1562年) 8 とされている。父親である光政は、当然ながらこれ以前から活動していた人物であり、少なくとも16世紀半ば(1550年代頃)には武将として、あるいは一族の当主として活動を開始していたと推定できる。
さらに、本報告書の主題の一つである「荒沢の戦い」は、参照列伝にその名が見えるだけでなく、複数の郷土史料 3 によれば、天正10年(1582年)から天正11年(1583年)頃に発生した合戦であるとされている。この時期に赤尾津光政が当主として軍を率い、大宝寺氏と戦ったとされることから、この頃が彼の活動の最盛期の一つであったことを強く示唆している。
一族と関連人物
赤尾津光政の人物像を理解する上で、彼の一族や同時代に活動した関連人物との関係性を把握することは不可欠である。以下に主要な人物を挙げる。
- 仁賀保挙誠(にかほ きよしげ/たかのぶ) : 光政の子とされる。幼名は赤尾津勝俊。後に同族である仁賀保氏の家督争いや当主の相次ぐ死によって混乱した同氏の養子となり、その家名を継いだ 1 。関ヶ原の戦いでは東軍に与して戦功を挙げ、大坂の陣でも活躍し、最終的には出羽仁賀保藩(1万石)の初代藩主となった 1 。実父である光政が率いた赤尾津氏が関ヶ原後に改易されたのとは対照的な運命を辿ったことは注目に値する。仁賀保挙誠が赤尾津氏から仁賀保氏へ養子に入った背景には、単に仁賀保氏の家督継承問題だけでなく、両氏族、さらにはこれら由利郡の国人を支援していた安東愛季の政治的な意図が介在した可能性が指摘されている 2 。これは、由利郡内における親安東勢力の連携を強化し、勢力バランスを維持・再編するための戦略的な縁組であった可能性も考えられる。
- 小介川図書助(こすけがわ ずしょのすけ) : 史料において、「荒沢の戦い」で赤尾津の赤尾津二郎と共に、安東愛季の援助を受けて大宝寺軍と戦った武将として名が見える 3 。「小介川」は前述の通り赤尾津氏の前身とされる姓であることから、この図書助は赤尾津光政の近親者(例えば兄弟や叔父甥、あるいは光政自身の若い頃の名乗りや官途名)であった可能性が高い。また、天正13年(1585年)には、安東愛季が「岩屋合戦」における小介川図書助の軍功を賞して感状を与えたという記録もあり 9 、彼が由利郡内の複数の戦闘で安東方として活躍した武将であったことが窺える。
- 赤尾津二郎(あこうづ じろう) : 天正7年(1579年)に、羽川氏、打越氏、岩谷氏、石沢氏、潟保氏といった他の由利十二頭の諸氏と共に、仙北地方の大曲城(前田氏の拠点)を攻撃し、落城させた記録がある 5 。さらに、天正10年(1582年)には、前述の小介川図書助と共に「荒沢の戦い」で大宝寺軍と戦ったとされる 3 。「二郎」は通称(仮名)であり、赤尾津光政との具体的な血縁関係(兄弟、子、あるいは光政自身の通称か)は現時点では不明だが、光政とほぼ同時代に活動した赤尾津一族の有力な武将であったことは間違いない。
- 赤尾津九郎(あこうづ くろう) : 天正16年(1588年)頃、同じく由利十二頭の一人であった羽川新館の羽川小太郎義稙を謀略によって滅ぼし、その居城である羽川新館を奪い取り、羽川主膳正九郎を名乗ったとされる人物 1 。光政の子、あるいは近親者(弟や甥など)と推測されるが、詳細は不明である。この行動は、由利十二頭内部での勢力争いの激しさを示す一例と言える。
- 赤尾津左衛門(あこうづ さえもん) : 元亀3年(1572年)に、仙北の前田氏とこれに与同した戸沢氏の連合軍によって討ち取られたと記録されている 5 。光政よりも前の世代の赤尾津氏当主であったか、あるいは一族の有力な武将であったと考えられる。この出来事は、赤尾津氏が周辺勢力との間で常に緊張関係にあったことを示している。
- 赤尾津孫次郎(あこうづ まごじろう) : 仁賀保挙誠が関ヶ原の戦いに東軍として参加した際、同じく東軍の最上義光の指揮下に入った赤尾津氏の当主として名が見える 2 。光政の子、あるいは赤尾津九郎など他の近親者の後継者であった可能性が考えられる。しかし、この孫次郎の代に赤尾津氏は改易の悲運に見舞われることになる。
これらの「光政」という諱(実名)と、「小介川図書助」「赤尾津二郎」といった複数の呼称を持つ(あるいは複数の)人物の存在は、当時の武家の習俗を反映している可能性がある。武士は実名の他に、太郎、二郎といった通称や、左衛門、図書助といった官途名を併せ持つことが一般的であった。赤尾津光政が当主として「光政」を名乗りつつ、特定の戦闘指揮などの場面では「赤尾津二郎」のような通称で呼ばれたり、あるいは「小介川図書助」が光政の兄弟や重臣で、特定の地域(例えば旧小介川領である新沢方面)の防衛や指揮を任されていたりした可能性などが考えられる。史料 3 で「荒沢の小助川図書、赤尾津の赤尾津二郎」と並記されているのは、それぞれの拠点と指揮官を区別して示しているのかもしれない。
表1:赤尾津光政関連主要人物一覧
氏名 |
推定される光政との関係 |
主な活動・役割 |
典拠史料例 |
仁賀保挙誠 |
子 |
赤尾津氏より仁賀保氏へ養子。関ヶ原の戦い、大坂の陣で戦功。仁賀保藩初代藩主。 |
2 |
小介川図書助 |
近親者(兄弟、同一人物の可能性も)、あるいは重臣 |
荒沢の戦いで大宝寺軍と交戦。岩屋合戦で軍忠により安東愛季から感状。新沢城主か。 |
3 |
赤尾津二郎 |
近親者(兄弟、同一人物の可能性も)、あるいは一族の有力者 |
天正7年大曲城攻撃に参加。荒沢の戦いで大宝寺軍と交戦。赤尾津本領の守将か。 |
3 |
赤尾津九郎 |
子、あるいは近親者 |
天正16年頃、羽川小太郎義稙を謀略で滅ぼし羽川新館を奪取。 |
1 |
赤尾津左衛門 |
前代の当主、あるいは一族の有力者 |
元亀3年、前田氏・戸沢氏連合軍に討たれる。 |
5 |
赤尾津孫次郎 |
子、あるいは後継者 |
関ヶ原の戦いに東軍として参加。彼の代に赤尾津氏改易。 |
2 |
この一覧は、赤尾津氏関連の人物名を整理し、光政を中心とした人的ネットワークや一族の活動の全体像を把握する一助となる。特に「光政」「二郎」「図書助」といった呼称が錯綜する中で、これらの人物がどのように連携し、あるいは役割を分担していたのかを考察する上で有効である。
第三章:由利十二頭と赤尾津光政
由利十二頭の実像
由利十二頭とは、戦国時代の出羽国由利郡において、その地域に割拠していた在地領主たちの総称である。これは特定の固定された単一の組織体を指すのではなく、むしろ外部からの脅威や共通の利害が生じた際に、状況に応じて連携し、あるいは対立するといった、国人一揆的な性格を帯びた緩やかな連合体であったと理解されている 1 。
「十二頭」という呼称は、少なくとも天正年間(1573年~1592年)には既に用いられていたことが史料から確認できる 1 。この「十二」という数字の由来については、由利郡の北方に聳える鳥海山(ちょうかいさん)の本地仏(ほんじぶつ)である薬師如来を守護する十二神将(じゅうにしんしょう)に擬えたものではないか、という説が有力である 1 。しかし、実際に十二頭を構成した氏族の具体的な顔ぶれや数は、参照する史料によって異同が見られ、必ずしも常に十二家で固定されていたわけではない。主な氏族としては、矢島氏、仁賀保氏、赤尾津氏、潟保(かたほ)氏、打越(うてつ)氏、子吉(こよし)氏、下村(しもむら)氏、玉米(とうまい)氏、鮎川(あゆかわ)氏、石沢(いしざわ)氏、滝沢(たきざわ)氏、岩屋(いわや)氏などが挙げられる 1 。
由利十二頭は、外部の有力大名、すなわち安東氏、小野寺氏、大宝寺氏、最上氏といった勢力の狭間で、時にはこれらの大勢力と結びつき、時には互いに連携して対抗しながら、自らの所領と独立性を維持しようと努めた。しかし、その一方で、十二頭内部でも所領や地域の主導権を巡る対立や抗争が絶えず、必ずしも一枚岩の団結を誇っていたわけではなかった。この「外部の脅威に対しては共同で対処する一方、内部では各々が勢力拡大を目指して競争・対立する」という二面性が、戦国期に見られる国人領主連合の典型的な特徴であり、由利十二頭もその多分に漏れなかったと言える。
由利十二頭における赤尾津氏の立場
赤尾津氏は、この由利十二頭と称される国人領主群の中でも、特に有力な一角を占めていたと考えられる。その勢力の大きさを裏付けるいくつかの根拠がある。まず、第一章で詳述したように、赤尾津氏の本拠地である赤尾津が、当時日本海側の主要な港の一つとして機能し、交易を通じて経済的に繁栄していたことである 1 。この経済的基盤が、赤尾津氏の軍事力や政治的影響力を支える重要な要素であったことは想像に難くない。
さらに、豊臣秀吉による天下統一事業が進み、奥州仕置が行われた後、赤尾津氏は由利地方において最大級となる約4,300石の所領を安堵されたと推定されている 1 。これは、由利郡内の他の諸領主と比較しても大きな石高であり、赤尾津氏が豊臣政権から由利郡における主要な勢力の一つとして公認されたことを意味する。また、この時期、仁賀保氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏といった他の有力な由利十二頭の氏族と共に「由利五人衆」と称されたことも、赤尾津氏が由利郡の国人領主層の中で指導的な立場にあったことを示している 1 。赤尾津氏が「由利五人衆」に数えられ、最大の所領を得た背景には、単なる武力だけでなく、赤尾津港の支配からもたらされる経済力、そして安東氏との巧みな連携や豊臣中央政権への的確な対応といった外交交渉能力も大きく寄与していたと推察される。
他の十二頭諸氏との関係
前述の通り、由利十二頭は常に協調関係にあったわけではなく、内部での対立や抗争も頻繁に発生していた。特に、仁賀保氏と矢島氏は、由利郡の覇権を巡って長年にわたり合戦を繰り返した宿敵同士であったと伝えられている 1 。
赤尾津氏は、地理的に本拠が近く、また同じく大井氏の庶流とされる仁賀保氏とは、同族関係にあった。そのため、両氏は連携することも多かったと考えられる。赤尾津光政の子である仁賀保挙誠が、後に仁賀保氏の養子となってその家督を継いだという事実は、両氏族間に単なる同族意識を超えた、政治的・軍事的な密接な関係が存在したことを強く示唆している 2 。
しかしその一方で、赤尾津氏が他の十二頭諸氏と常に対等かつ友好的な関係にあったわけではない。例えば、天正16年(1588年)頃には、赤尾津光政の子または近親者とされる赤尾津九郎が、同じく由利十二頭の一人であった羽川小太郎義稙を謀略によって滅ぼし、その所領を奪ったという記録も存在する 1 。この出来事は、由利十二頭という枠組みの中にあっても、各領主が自らの勢力拡大のためには手段を選ばない、戦国時代特有の厳しい現実を物語っている。赤尾津氏もまた、そのような競争原理の中で生き残りを図り、時には他の国人を排除することも辞さない勢力であったことが窺える。
第四章:戦国乱世の攻防 ― 大宝寺氏との対立と安東氏との連携
周辺勢力との関係
戦国時代の由利郡は、その地理的条件から、常に周辺の有力な戦国大名や国人領主たちの動向に大きく影響される運命にあった。北には出羽湊(現在の秋田市土崎港)を拠点として日本海交易を掌握し、秋田郡を中心に勢力を拡大していた安東氏(後の秋田氏)。南には庄内地方(現在の山形県庄内地方)を支配し、しばしば由利郡への南下を試みた大宝寺(武藤)氏。東には仙北地方(現在の秋田県内陸南部)に強固な地盤を築いていた小野寺氏。そして、さらに東の内陸部からは、山形盆地を中心に勢力を伸ばし、出羽国の統一を目指していた最上氏。これらの勢力が、由利郡を挟んで複雑な勢力争いを繰り広げており、由利郡の諸領主(由利十二頭)は、これらの大勢力の狭間で、時には従属し、時には連携し、また時には抵抗しながら、自らの存続を図っていた 1 。
このような状況下で、赤尾津氏は、特に南の脅威であった大宝寺氏が由利郡の大部分をその勢力下に置こうとした際にも、これに容易には従わず、北の安東氏と誼を通じて連携を深めていたとされている 1 。これは、赤尾津氏の基本的な外交スタンスを示す重要な情報であり、彼らが自立性を保つために、特定の外部勢力との間で戦略的な同盟関係を構築していたことを示唆している。赤尾津氏と安東氏の間に強固な同盟関係、あるいはそれに近い相互依存関係が存在したことは、後の「荒沢の戦い」における安東愛季の救援行動からも明らかである。安東氏にとって、赤尾津氏は対大宝寺氏、対小野寺氏の最前線に位置し、自領への直接的な圧力を緩和する緩衝地帯としての戦略的価値が高かったと考えられる。
大宝寺義氏の由利郡侵攻
庄内地方に本拠を置く大宝寺義氏は、戦国中期から後期にかけて、その勢力範囲の拡大に積極的であり、特に北隣の由利郡への侵攻を活発化させた 15 。大宝寺氏は、由利郡の豊かな港湾や肥沃な土地を狙い、また、北進して安東氏の勢力を削ぐことを目的としていたと考えられる。
史料によれば、天正8年(1580年)の段階で、大宝寺義氏が由利郡へ侵攻中であったことが記録されている 15 。また、この侵攻にあたっては、東の仙北地方を支配する小野寺氏と連携を図りながら、由利郡への介入を深めていったとされる 16 。
そして、天正10年(1582年)3月には、大宝寺義氏は大規模な軍勢を率いて由利郡への本格的な侵攻を開始した。この侵攻は由利郡の諸領主に大きな衝撃を与え、由利十二頭の大部分が大宝寺義氏の軍門に降ったとされている。しかし、そのような状況下にあっても、小介川氏(赤尾津氏の前身、あるいは赤尾津氏そのものを指すと考えられる)のみが、大宝寺氏への抵抗を続けたと伝えられている 16 。
安東愛季との連携と救援要請
この大宝寺義氏による由利郡侵攻という危機に際して、赤尾津光政(あるいは小介川氏の当主)は、北方の雄、安東愛季に救援を要請した(参照列伝)。安東愛季は、当時、長く分裂していた檜山安東氏と湊安東氏を統一し、秋田郡を中心に勢力を急速に拡大していた智勇兼備の戦国大名であった 17 。
前述の通り、赤尾津氏は以前から安東氏と友好関係を築いていたとされ、この救援要請は、その同盟関係に基づいたものであったと考えられる。安東愛季は、この赤尾津(小介川)氏からの救援要請に応じ、大宝寺氏の南下を阻止し、また由利郡における自らの影響力を維持・強化するために、軍を率いて南下した 16 。
荒沢の戦い(新沢の戦い)
安東愛季の援軍を得た赤尾津(小介川)氏は、大宝寺義氏の軍勢と由利郡内で激突することになる。この戦いが、後世「荒沢の戦い」または「新沢の戦い」として知られる合戦である。
- 時期と場所 : この戦いが発生した時期は、天正10年(1582年)から天正11年(1583年)頃とされている 3 。戦場の具体的な地名としては、「荒沢(あらさわ)」 3 または「新沢(しんさわ)」 3 が挙げられる。これらの地名は、現在の秋田県由利本荘市大内町周辺に比定され、特に小介川氏の拠点であったとされる新沢権現堂古戦場(別名、荒沢之城、新沢館、小助川館とも呼ばれる 18 )が、合戦の中心地であったと推定される。
- 両軍の構成と指揮官 :
- 赤尾津・安東連合軍 : 赤尾津光政が総指揮を執り、その指揮下には、新沢城主であった可能性が高い小介川図書助 3 や、赤尾津の本領を守る立場にあった赤尾津二郎 3 らがいたと考えられる。これに、安東愛季が派遣した援軍が加わった。
- 大宝寺軍 : 大宝寺義氏自らが軍を率いていたとされる 16 。
-
合戦の経過と結果: 大宝寺義氏の軍勢は、由利郡の大部分を制圧した後、最後まで抵抗を続ける小介川(赤尾津)氏の拠点である新沢城(荒沢城)に迫った 16。追い詰められた赤尾津光政は安東愛季に救援を要請し、これに応じた安東軍が戦場に到着した(参照列伝, 16)。
郷土史料 3 によれば、天正10年(1582年)、庄内(大宝寺氏の本拠)の軍勢が由利郡を席巻したが、荒沢の小介川図書と赤尾津の赤尾津二郎は、安東愛季の援助を受けてこれを防衛した。翌天正11年(1583年)にも、庄内大宝寺勢が小介川図書の守る荒沢城を攻撃したが、赤尾津・安東連合軍は万全な守備体制を敷いており、これを退けた、とある。
参照列伝には「安東家の援軍を得た光政は荒沢の戦いで大宝寺軍を壊滅させた」と記されており、赤尾津・安東連合軍の決定的な勝利を伝えている。前述の郷土史料 3 の記述も、大宝寺軍を「退けた」とあり、これを支持するように読める。一方で、大宝寺氏側の視点に近い可能性のある史料 16 では、安東軍の来援によって大宝寺軍は「あと一歩のところで利を得ることなく撤退を余儀なくされた」と記されており、「壊滅」というよりは戦略的な作戦失敗と撤退に近いニュアンスで伝えられている。
戦いの結果に関する表現には幅があるものの、いずれの史料も、大宝寺義氏の由利郡北部への進出がこの戦いによって頓挫したという点では一致している。 - 関連する伝承 : この「荒沢の戦い」の激しさを物語る伝承として、戦場の近くを流れる芋川(いもかわ)が、あまりにも多くの戦死者の血と体で埋め尽くされ、川の水が逆流したように見えたことから、その場所が後に「返り瀬(かえりぜ)」と呼ばれるようになった、という話が残されている 3 。この伝承は、大宝寺軍が甚大な損害を被った可能性を示唆しており、単なる戦略的撤退以上の、大きな敗北であったことを窺わせる。
「荒沢の戦い」における勝敗のニュアンス(「壊滅」させたのか、単に「撃退」したのか)は、参照する史料の立場や種類(例えば、戦功を強調する傾向のある軍記物か、比較的客観的な記録を目指した史料か)によって異なる可能性がある。しかし、いずれにせよ、この戦いが大宝寺義氏による由利郡北部への進出を阻止し、赤尾津(小介川)氏の勢力圏を防衛する上で極めて重要な戦いであったことは間違いない。この戦いの結果は、大宝寺氏の北進政策の一時的な頓挫を意味し、同時に、安東氏の由利郡に対する影響力を維持・強化することに繋がったと考えられる。
その他の戦い
「荒沢の戦い」の後も、赤尾津(小介川)氏は安東氏と連携して由利郡内で軍事活動を継続していたことが史料から窺える。例えば、天正13年(1585年)には、安東愛季が「岩屋合戦」と呼ばれる別の戦闘において、小介川図書助が示した軍功を賞して感状(かんじょう、戦功を称える公式な書状)を与えたという記録が存在する 9 。この「岩屋合戦」の詳細は不明であるが、荒沢の戦いから数年後も、赤尾津(小介川)氏が安東氏の重要な同盟者として、由利郡内の紛争や周辺勢力との戦いにおいて活発に活動していたことを示している。
第五章:豊臣政権下から関ヶ原へ ― 赤尾津氏の終焉
豊臣政権による所領安堵
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、天下統一をほぼ完成させると、続いて奥羽地方の諸大名・国人領主に対しても服属を求め、いわゆる「奥州仕置」を断行した。これにより、由利郡に割拠していた諸領主たちも、否応なく豊臣政権の全国的な支配体制の中に組み込まれていくことになった。
赤尾津氏は、「由利衆」の一員として、天正18年12月24日(西暦1591年1月19日)付で、豊臣秀吉からその所領の知行を正式に認められた(安堵された) 1 。この時、赤尾津氏に安堵された所領の石高は、由利地方において最大となる約4,300石であったと推定されている 1 。これは、前章で述べた「荒沢の戦い」などにおける軍事的な功績や、長年にわたる安東氏との連携関係、そして何よりも本拠地である赤尾津港が持つ経済的な重要性などが、豊臣政権によって高く評価された結果であると考えられる。
また、この時期、赤尾津氏は、同じく由利郡の有力国人であった仁賀保氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏と共に「由利五人衆」と称され、豊臣政権下で由利郡を代表する領主の一角として、一定の地位と役割を認められていた 1 。
関ヶ原の戦いにおける動向
豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)に天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが勃発すると、全国の諸大名・国人領主は、徳川家康率いる東軍につくか、石田三成らを中心とする西軍につくかの選択を迫られた。
このとき、由利郡の諸領主(由利衆)の多くは、東軍に与した出羽国の大名・最上義光の指揮下に入り、最上領の防衛や西軍方の上杉景勝勢力との戦いのために、山形方面まで出陣したとされている 5 。
赤尾津氏もまた、この流れに乗り、当時の当主であった赤尾津孫次郎(光政の子か、あるいはその後継者)が、光政の実子であり仁賀保氏の家督を継いでいた仁賀保挙誠と共に、東軍の一員として参陣したと伝えられている 2 。
改易と赤尾津氏のその後
しかし、関ヶ原の戦いが東軍の圧倒的な勝利に終わった後、赤尾津氏を待っていたのは、所領安堵や加増ではなく、改易という厳しい処分であった 1 。豊臣政権下で由利郡最大の領主と認められていた赤尾津氏が、なぜ戦勝組である東軍に与しながら改易されなければならなかったのか。
その理由として、一部の史料 5 には、「(赤尾津氏は)徳川家康に味方した最上義光に従い山形まで出陣したが、西軍の威勢を聞き、最上義光の指揮下を無断で離脱して領国へ帰国したために所領没収となった」と記されている。これが事実であるとすれば、赤尾津氏は戦功を挙げる機会を逸したばかりか、戦時における重大な軍律違反を犯したと見なされ、それが改易の直接的な原因となったことになる。関ヶ原の戦いの初期段階では、西軍が優勢であるとの情報も各地に流布したため、赤尾津氏がそのような情報に惑わされ、自領の防衛や状況の日和見のために帰国するという判断を下した可能性も考えられる。しかし、結果的に東軍が勝利したため、この行動は徳川方に対する背信行為、あるいは少なくとも許されざる軍令違反と判断され、改易という厳しい処分に繋がったのであろう。この一つの行動が、一族の運命を大きく左右したと言える。
改易処分を受けた後、赤尾津一族の者たちは離散し、それぞれ新たな道を歩むことになった。一部は旧姓である大井氏や、あるいは池田氏を名乗り、まずは最上氏に仕えた。しかし、その最上氏も後に改易されると、さらに常陸国(現在の茨城県)の佐竹氏に仕えた者もいたと伝えられている 1 。また、興味深いことに、矢島藩(赤尾津光政の子である仁賀保挙誠の分家が後に立藩)に仕えた一族は、赤尾津氏の古い姓である小介川を名乗ったという記録も残されている 1 。
一方で、赤尾津光政の実子であり、仁賀保氏の養子となっていた仁賀保挙誠は、赤尾津本家とは対照的な運命を辿った。挙誠は関ヶ原の戦いや、その後の大坂の陣における戦功が徳川幕府に認められ、度重なる加増を受け、最終的には1万石の出羽仁賀保藩を立藩し、近世大名としてその家名を後世に残した 1 。父・赤尾津光政が心血を注いで築き上げた赤尾津氏の所領と家名は、孫次郎の代で失われることになったが、その血筋は仁賀保氏を通じて近世大名として存続したことになる。この赤尾津氏本家の改易と、分流である仁賀保氏の立藩という対照的な結果は、戦国末期から近世初期にかけての武家の盛衰の激しさと、個人の才覚や時流を読む能力、そして時には運不運が、家の存続に如何に大きく影響したかを象徴している。また、これは徳川幕府による全国支配体制確立の過程における、国人領主層の再編・淘汰の一例と見ることもできよう。幕府にとって不都合な行動を取った者は容赦なく改易される一方、忠誠と功績を示した者は取り立てられるという、近世大名体制への移行期の厳しさを示している。
終章:赤尾津光政の歴史的評価
赤尾津光政の生涯と事績の総括
赤尾津光政は、日本の歴史が中世から近世へと大きく転換する激動の戦国時代において、出羽国由利郡という地方の舞台で活動した在地領主・赤尾津氏の当主であった。その出自は、信濃源氏大井氏の庶流である小介川氏に遡り、日本海交易の要港として栄えた赤尾津の地を本拠として、一族の勢力を築き上げた。
彼の生涯における最大の事績として特筆されるべきは、由利郡に侵攻してきた庄内の有力大名・大宝寺義氏の軍勢に対し、北隣の安東愛季との同盟関係を背景にその支援を得て、「荒沢の戦い」においてこれを撃退したことである。この勝利は、単に自領を防衛したというだけでなく、由利郡における大宝寺氏の南下政策を一時的に頓挫させ、地域の勢力図に少なからぬ影響を与えた点で大きな意義を持つ。
赤尾津光政の子である仁賀保挙誠は、後に仁賀保藩の初代藩主として大名に列し、その家名を近世まで伝えることに成功した。しかし、光政自身が率いた赤尾津氏の本家は、関ヶ原の戦いの後に改易という厳しい処分を受け、歴史の表舞台からその姿を消すこととなった。
由利地方史における位置づけと影響
赤尾津光政は、由利十二頭と総称される国人領主群の一角として、外部からの有力な勢力の侵攻に抵抗し、自領の保全と地域の自立性を維持しようと奮闘した、戦国期の典型的な地方領主の一人と言えるだろう。
特に、安東氏との連携を通じて、大宝寺氏という共通の脅威に対抗し、由利郡北部の安定に貢献した点は評価されるべきである。彼の指導のもと、赤尾津氏が一時的にせよ由利郡で最大級の勢力にまで成長したことは、光政自身の指導力や戦略眼、そして赤尾津港という経済的基盤の重要性を示すものである。しかしながら、その後の関ヶ原の戦いにおける対応(無断帰国と伝えられる)が、結果として一族の改易という悲運を招いたことは、戦国末期から近世初頭にかけての地方領主が置かれた経営の困難さと、中央政権の動向に翻弄される厳しさを如実に物語っている。
赤尾津光政の生涯は、激動の戦国時代において、地方の小領主が、周囲の大勢力の狭間でいかにして生き残りをかけて奮闘したか、その具体的な姿を体現している。彼の成功(大宝寺氏の撃退、豊臣政権下での所領拡大)と失敗(結果としての改易)は、個人の力量や判断だけでなく、時代の大きなうねりという、抗いがたい力に翻弄された結果とも言えるだろう。
今後の研究課題
赤尾津光政に関する研究は、史料の制約から未だ多くの課題を残している。今後の研究の進展のためには、以下の点が重要となるであろう。
- 赤尾津光政本人に関する一次史料のさらなる探索 : 特に「光政」という諱(実名)が確実に記された同時代の史料の発見や、彼の正確な生没年を特定することが望まれる。
- 「荒沢の戦い」に関するより詳細な記録の発見 : 合戦の具体的な経過、両軍の兵力や損害、そして共に戦ったとされる小介川図書助や赤尾津二郎といった武将たちと光政との具体的な関係性(親子、兄弟、主従など)を解明する必要がある。
- 『由利十二頭記』などの軍記物における記述の分析 : 江戸時代以降に成立したと考えられる『由利十二頭記』 14 などに、赤尾津氏や光政に関する記述がどの程度含まれているのか、そしてそれらの記述が他の一次史料や考古学的知見とどのように整合し、あるいは矛盾するのかを比較検討することが求められる。
- 赤尾津氏改易の背景に関する詳細な考察 : 改易の直接的な原因とされた「無断帰国」について、その具体的な経緯や背景、当時の情報伝達の状況、他の由利衆の動向との比較などを通じて、より深く掘り下げる必要がある。
赤尾津光政の生涯は、歴史における「もしも」を考えさせる。もし関ヶ原の戦いにおいて異なる判断を下していたならば、あるいは異なる情報がもたらされていたならば、赤尾津氏もまた、仁賀保氏のように近世大名として存続し得たかもしれない。これは、歴史の必然性と偶然性、そして個人の選択が持つ重みを考察する上で、非常に興味深い事例を提供している。
表2:赤尾津氏関連年表
和暦 |
西暦 |
赤尾津氏(小介川氏含む)および赤尾津光政に関連する主要な出来事 |
関連人物 |
意義・備考 |
典拠史料例 |
宝徳2年 |
1450年 |
小介川氏、幕府より未進年貢催促を受ける。 |
小介川氏 |
由利郡における小介川氏の存在確認。 |
1 |
永禄3年頃 |
1560年頃 |
仁賀保挙誠(赤尾津勝俊)、赤尾津光政の子として誕生(推定)。 |
赤尾津光政、仁賀保挙誠 |
光政の活動時期の下限を示唆。 |
2 |
元亀3年 |
1572年 |
赤尾津左衛門、前田氏・戸沢氏連合軍に討たれる。 |
赤尾津左衛門 |
赤尾津氏と周辺勢力との武力衝突。 |
5 |
天正7年 |
1579年 |
赤尾津二郎、羽川氏らと共に大曲城を攻撃し落城させる。 |
赤尾津二郎 |
由利十二頭の共同軍事行動。 |
5 |
天正10年~11年 |
1582年~1583年 |
荒沢の戦い(新沢の戦い) 。大宝寺義氏の侵攻に対し、赤尾津光政(小介川図書助、赤尾津二郎ら)が安東愛季の援軍を得て撃退。 |
赤尾津光政、小介川図書助、赤尾津二郎、大宝寺義氏、安東愛季 |
赤尾津光政の最大の軍功。大宝寺氏の由利郡北部進出を阻止。 |
3 |
天正13年 |
1585年 |
岩屋合戦。小介川図書助の軍忠に対し安東愛季が感状を与える。 |
小介川図書助、安東愛季 |
赤尾津(小介川)氏と安東氏の継続的な連携。 |
9 |
天正16年頃 |
1588年頃 |
赤尾津九郎、羽川小太郎義稙を謀略で滅ぼし羽川新館を奪取。 |
赤尾津九郎 |
由利十二頭内部での勢力争い。 |
1 |
天正18年12月 |
1591年1月 |
豊臣政権、赤尾津氏の所領(約4,300石)を安堵。由利五人衆の一。 |
赤尾津氏当主 |
由利郡内最大級の領主として公認。 |
1 |
慶長5年 |
1600年 |
関ヶ原の戦い。赤尾津孫次郎、仁賀保挙誠と共に東軍(最上義光麾下)として出陣。しかし、無断帰国したとされ、戦後改易。 |
赤尾津孫次郎、仁賀保挙誠 |
赤尾津氏本家の終焉。 |
1 |
元和9年 |
1623年 |
仁賀保挙誠、出羽仁賀保藩1万石の藩主となる。 |
仁賀保挙誠 |
赤尾津光政の血筋は仁賀保氏を通じて大名として存続。 |
1 |
寛永元年 |
1624年 |
仁賀保挙誠、死去。 |
仁賀保挙誠 |
|
2 |
この年表は、赤尾津氏の興亡と赤尾津光政の活動を時系列で整理し、歴史的背景や出来事の連関性をより明確に理解するための一助となる。特に、光政の活躍期が赤尾津氏にとってどのような位置づけにあったのか、そしてその後の子の仁賀保挙誠の動向との対比を通じて、一族が辿った異なる運命を浮き彫りにする。
引用文献
- 由利十二頭 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E5%88%A9%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%A0%AD
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- 亀田の歴史 https://vas-2.sakura.ne.jp/R02-kameda_rekisi.htm
- 赤尾津(あこうづ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E5%B0%BE%E6%B4%A5-1261571
- 赤尾津城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/akita/akoudu/akoudu.html
- 羽後赤尾津城 http://oshiro-tabi-nikki.com/akaodu.htm
- 下浜 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%B5%9C
- 歴史の目的をめぐって 仁賀保挙誠 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-22-nikaho-takanobu.html
- 平成22年8/27 9/26 平成22年11/2 11/30 平成22年8/27 9/26 平成22年11/2 11/30 平成22年8/27 9/26 平成22年11/2 11/30 - 秋田県 https://www.pref.akita.lg.jp/uploads/public/archive_0000005160_00/H22_kikaku.pdf
- 安東氏関連年表~北奥羽の鎌倉時代から江戸時代 https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/page3
- 亀田の領主 https://vas-2.sakura.ne.jp/R05-ryousyu.htm
- 第二章 鳥海山北麓の歴史と文化 - 由利本荘市 https://www.city.yurihonjo.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/566/1003566_003.pdf
- 出羽国|日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1736
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- 新沢権現堂古戦場(あらさわごんげんどうこせんじよう)とは? 意味や ... https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E6%B2%A2%E6%A8%A9%E7%8F%BE%E5%A0%82%E5%8F%A4%E6%88%A6%E5%A0%B4-3026062
- 赤尾津城の見所と写真・全国の城好き達による評価(秋田県由利本荘市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1343/
- 由利十二頭の豪傑 大井五郎満安 https://www.city.yurihonjo.lg.jp/yashima/kinenkan/ooigorou01.htm