最終更新日 2025-06-04

赤尾清綱

赤尾清綱は近江浅井氏の宿老「浅井三将」筆頭。浅井久政隠居と長政家督相続に関与。野良田の戦い等で武功を挙げ、小谷城落城時に長政に殉じた忠臣。
赤尾清綱

赤尾清綱公に関する詳細調査報告

I. 序論

A. 本報告書の目的と構成

本報告書は、戦国時代の近江国にその名を刻んだ武将、赤尾清綱の生涯、事績、人物像、そして歴史的意義を、現存する諸史料に基づき多角的に解明することを目的とする。赤尾氏の出自から浅井氏への臣従、宿老としての活躍、そしてその最期と子孫に至るまでを網羅的に記述し、読者の理解を深めることを目指すものである。

B. 赤尾清綱が生きた時代背景

赤尾清綱が生きた戦国時代は、室町幕府の権威が著しく低下し、各地で守護大名や国人領主が実力をもって覇を競った激動の時代であった。特に近江国は、京都に隣接する戦略的要衝として、六角氏や京極氏といった旧来の勢力に加え、浅井氏のような新興勢力が台頭し、複雑な政治・軍事状況を呈していた。このような背景の中、浅井氏は北近江に勢力を伸張し、赤尾清綱はその過程で重要な役割を果たすこととなる。

II. 赤尾清綱の出自と家系

A. 赤尾氏の起源と近江国における赤尾氏

赤尾氏は近江国の国人であり、その本貫地は近江国伊香郡赤尾(現在の滋賀県長浜市木之本町赤尾)とされ、この地を治めた土豪・国人領主であった 1 。元来、赤尾氏は近江守護京極氏の傘下にあったが、後に浅井氏に仕えるようになった 2 。伊香氏族の赤尾氏は、中臣氏と同祖とされる伊香氏から派生した氏族であり、『伊香氏系図』によれば、伊香津臣命の16世の子孫である柏屋助延の孫・助清が初めて赤尾を名乗ったと記されている 1 。このことは、赤尾氏が古くからの家柄であったことを示唆している。戦国期において、京極氏の勢力が衰退し、浅井氏が台頭する中で、赤尾氏のような国人領主がどちらの勢力に与するかは、その後の家運を大きく左右する重要な選択であった。赤尾氏が浅井氏に帰属した背景には、地政学的な要因や、浅井氏との間に何らかの血縁関係が存在した可能性も指摘されている 1 。この血縁関係の具体的な内容は不明ながら、後の浅井家中における赤尾清綱の高い地位を理解する上で考慮すべき点である。

B. 清綱の生誕と家族

赤尾清綱は、永正11年(1514年)に赤尾教政の子として誕生した 2 。通称は孫三郎といい、後に美作守の受領名を称した 1 。父である教政の具体的な事績については、現存する資料からは詳らかではない。美作守という官位は、清綱がある程度の社会的地位を認められていたことを示している。

表1: 赤尾清綱 略年譜

年代 (西暦)

出来事

典拠例

永正11年 (1514年)

赤尾教政の子として近江国伊香郡赤尾にて生誕

2

天文年間 (推定)

京極氏に仕える

2

天文年間後期 (推定)

浅井亮政に仕える

2

不明

美作守を受領

2

永禄3年 (1560年)頃

浅井久政の隠居、長政の家督相続に関与

2

永禄3年 (1560年)

野良田の戦いに参加 (遊軍または後陣)

4

永禄6年 (1563年)

美濃出兵の際、殿軍を務め功を立てる

4

時期不明

小谷城内に赤尾曲輪を拝領

2

元亀元年 (1570年)

姉川の戦いに参加 (役割については諸説あり)

4

天正元年 (1573年)

小谷城の戦い。浅井長政、赤尾屋敷にて自刃。清綱も同日、あるいは捕縛後に死没 (諸説あり)

2

享年60

2

III. 浅井氏への仕官と初期の活動

A. 京極氏から浅井氏へ:主家の変遷

赤尾氏は元々、北近江の守護大名であった京極氏の被官であったが、戦国時代の動乱の中で京極氏の勢力が衰退すると、新たに台頭してきた浅井氏に仕えることとなった 1 。清綱は、浅井氏初代当主である浅井亮政の代から浅井家に仕えたとされ、古参の臣として重用されたと考えられる 2 。この主家の変更は、単に京極氏の弱体化と浅井氏の興隆というパワーバランスの変化を反映しただけでなく、赤尾氏の家格がある程度維持された形での移行であった可能性も示唆されている 1 。この決断が、赤尾清綱とその一族のその後の運命を大きく方向づけることになった。

B. 浅井亮政・久政時代における清綱の動向

浅井亮政の時代、亮政は南近江の六角氏との攻防の末、一時越前の朝倉氏を頼り、その支援を受けて再起を図ったという経緯があった。この経験は浅井家にとって朝倉氏との同盟関係の重要性を深く認識させるものであり、赤尾清綱も家中において親朝倉的な立場を取り続けたとされる 2

浅井久政の代になると、浅井氏は六角氏に対して劣勢となり、久政の指導力にも陰りが見え始めた。ある六角氏との戦いに敗れた後、久政が家臣たちの奮起を促す言葉を述べた際、清綱は「とかく武者と鷹は使い手に依るものにて軍兵のわざにては更になし。大将によるものにて候」と、久政の将としての器量を厳しく批判する直言を行った 4 。この発言は「荒言」と評されるほど手厳しいものであったが、当時の浅井家の危機的状況に対する清綱の強い問題意識と、主君に対しても臆せず意見する彼の剛直な性格、そして家中における影響力を示すものと言える。実際に、家臣の中には久政の言動に不満を持つ者も少なくなく、清綱の言葉はそうした家臣団の空気を代弁するものであった可能性が高い 4

永禄3年(1560年)頃、久政が宿敵であった六角氏に対して臣従に近い形を取るようになると、清綱はこれに愛想を尽かし、初代亮政の再来と将来を嘱望された久政の子・長政(当時は賢政)に家督を譲らせるべく行動を起こす。清綱は遠藤直経ら他の重臣たちと共に、久政が鷹狩りで城を不在にした隙を突いて小谷城の本丸を占拠し、長政への家督移譲を強行したと伝えられている 2 。この一連の動きは、清綱が浅井家の将来を深く憂慮し、その存続と発展のためには強硬な手段も辞さない決断力と行動力を有していたことを示している。

IV. 浅井長政の宿老としての赤尾清綱

A. 「浅井三将」としての地位と役割

浅井長政の時代、赤尾清綱は海北綱親、雨森清貞(あるいは雨森弥兵衛 6 )と共に「浅井三将」と称され、浅井家の宿老として重きをなした 2 。この呼称は、彼らが浅井家における軍事・政治の中核を担う重臣であったことを示すものであり、特に清綱は宿老の中でも筆頭格と目される存在であった 3 。ある資料では、現代の企業組織に擬えて清綱を「取締役 専務」、他の二将を「取締役 常務」と表現しており 7 、彼らが浅井家の運営における中枢メンバーであったことを示唆している。「浅井三将」の存在は、浅井家の統治構造において、当主を補佐し、時にはその方針決定に大きな影響力を持つ重臣グループが機能していたことを物語っている。これは、浅井氏が元々北近江の国人領主たちの連合盟主的な性格を有していたことの名残である可能性も考えられる。

B. 小谷城内「赤尾曲輪」の存在と主君からの信頼

赤尾清綱は、主君である浅井氏からの信頼がとりわけ厚く、その証として浅井氏の居城である小谷城内の防衛上の要衝に「赤尾曲輪」と呼ばれる自身の居館を持つことを許され、そこに在番していた 1 。通常、家臣は城下に屋敷を構えるのが一般的であり、城内に家臣の居館が設けられるのは異例のことであった 2 。この赤尾屋敷は、本丸に最も近い場所 1 、あるいは本丸の真下や東隣に位置していたとされ 1 、この立地からも清綱が軍事面においても極めて重要な役割を担っていたことが窺える。実際に、一部の考察では、家臣団の屋敷の多くが山麓の清水谷にあったのに対し、赤尾氏の屋敷のみが山上の中心部に存在したことから、長政の時代に清綱が筆頭宿老であったと考えられている 8 。この「赤尾曲輪」は、平時には清綱の執務や生活の場であると同時に、戦時には小谷城本丸を防衛する上で欠かせない拠点として機能したと推察される。そして、浅井長政が織田信長との最終決戦に敗れ、自刃する際にその場所として赤尾屋敷を選んだとされることは 8 、清綱への深い信頼関係を象徴する出来事と言えよう。

C. 浅井久政隠居と長政家督相続への関与

前述の通り、赤尾清綱は浅井久政の隠居と長政の家督相続に深く関与した 2 。これは単に久政の指導力不足に対する不満だけでなく、清綱ら宿老たちが浅井家の独立と将来の発展を強く望んでいたことの表れであった。彼らは若き長政の器量に期待を寄せ、浅井家の新たな時代を切り開こうとしたのである。この家督交代劇は一種のクーデターであり、清綱が浅井家の運命を左右するほどの政治力と行動力を有していたことを明確に示している。ただし、武田信玄による父・信虎の追放劇とは異なり、久政は後に家臣団と和解し、小谷城に戻っている点は注目される 2 。これは、この政変が完全な追放を目的としたものではなく、家中融和の余地を残したものであった可能性を示唆し、清綱らの政治的配慮があったのかもしれない。

D. 家中における影響力と政治的立場(親朝倉派)

赤尾清綱は、浅井亮政が越前の朝倉氏の支援を受けて六角氏との抗争から再起を果たしたという経緯から、家中においては一貫して親朝倉派の立場を取り続けたとされる 2 。この政治的スタンスは、浅井家の外交政策、特に織田信長との同盟締結とその後の同盟破棄という重大な局面に大きな影響を与えたと考えられる。浅井長政が当主となった頃には、清綱は老齢に達していたため、主に軍目付的な存在として陣中に赴いていたという記録もあるが 2 、依然として浅井家の重鎮としての発言力は保持していたであろう。信長が越前の朝倉義景を攻めた際、浅井家が信長との同盟を破棄して朝倉氏を救援するという決断を下した背景には、清綱をはじめとする親朝倉派の重臣たちの強い働きかけがあったと推測される。一部資料によれば、この時、隠居していた久政までもが親朝倉派の家臣たちに担ぎ出され、長政に信長との同盟破棄を迫ったとされており 7 、これは清綱ら親朝倉派の影響力の大きさを物語っている。この決断が結果的に浅井氏の滅亡に繋がったことを考えると、清綱の政治的立場とその影響は、浅井氏の歴史における極めて重要な要素であったと言える。

E. 史料「嶋記録」に見る外交・取次役としての活動

赤尾清綱は軍事面だけでなく、外交や服属国人との連絡調整といった政務においても重要な役割を担っていたことが、史料「嶋記録」によって明らかになっている。この記録によれば、浅井氏が今井氏を従属させた当初、清綱は浅井氏側の取次(連絡役)を務めていた 13 。具体的には、今井氏から大名浅井氏への書状は赤尾清綱を通じて提出され、また、今井氏の家臣である嶋秀安が隠居を申し出た際には、浅井氏からの指示(従来通り今井家中に出頭するようにとの意見)を清綱が取り次いでいる 13 。取次役は、大名と国衆との間の意思疎通を円滑にし、両者の関係を維持する上で不可欠な存在であった。清綱がこの任にあったことは、彼が浅井家中において高度な政治的判断力と交渉能力を有していたことを示唆している。なお、後にこの今井氏への取次役は、磯野員昌に代わったようである 13 。この変更の背景には、浅井氏内部の権力バランスの変化や、対今井氏政策の転換など、何らかの政治的理由があった可能性も考えられる。

V. 主要な合戦における武功と逸話

A. 野良田の戦い(永禄3年、1560年)における役割

浅井長政が家督を相続した後、赤尾清綱は浅井家の顧問格、あるいは武者奉行として長政を支え、永禄3年(1560年)の野良田の戦いに参加したと記録されている 4 。この戦いは、若き長政が六角義賢の大軍を破り、浅井氏の独立を確固たるものにした重要な合戦であった。詳細な布陣を記した資料によれば、浅井賢政(後の長政)が率いる後陣の中に「赤尾美作守」の名が見え、これが清綱を指すと考えられる 5 。清綱が遊軍として参加したという記述もあり 4 、これは戦況に応じて柔軟に兵を動かし、重要な局面で投入される役割を意味する。いずれにしても、新当主長政の初陣を勝利に導いた重臣の一人として、その経験と戦術眼が信頼されていたことの証左である。この戦いでの勝利は、長政政権の基盤を固めるとともに、清綱ら宿老たちの影響力をさらに強固なものにした可能性がある。

B. 永禄6年(1563年)の美濃出兵と殿軍における活躍

永禄6年(1563年)、浅井長政は美濃へ出兵し斎藤龍興の軍勢を破ったが、その隙を突いて六角義治が浅井氏の背後にある佐和山城を急襲したため、全軍撤退を余儀なくされた。この困難な撤退戦において、殿(しんがり)の指揮官を誰に任せるかで長政が苦慮していた際、赤尾清綱が進み出て、「今度殿儀御心やすく思し召せ。一刻も早く人数引取給うべし。我等五百の勢を以ってこの役果たし申さん」と述べ、わずか五百の兵力で殿軍を引き受けたとされる 4 。清綱は、追撃する美濃勢に対し、駈けては引き、引いては駈けるという絶妙な用兵を駆使し、撤退しながらも敵勢を打ち破り、見事に全軍の安全な撤退を成功させた 4 。殿軍は全軍の存亡を左右する極めて困難かつ危険な任務であり、これを少数の兵で成し遂げたことは、清綱の卓越した武勇と指揮能力、そして冷静な判断力を示すものである。この功績により、長政からの信頼は一層深まったことであろう。

一部の資料、特にゲーム関連の情報サイトでは、この殿軍の際に清綱が自らの屋敷に火を放ち、背水の陣の覚悟を示したという逸話が付加されていることがある 4 。これは清綱の忠勇を際立たせる劇的なエピソードであるが、一次史料における明確な記述は確認されておらず、その史実性については慎重な検討が必要である。後世の創作や脚色である可能性も否定できないが、彼が困難な状況下で巧みな指揮により殿軍の任務を全うしたという中核的な事実は、複数の記録で共通しており、清綱の武将としての高い評価を裏付けている。

C. 姉川の戦い(元亀元年、1570年)における動向

元亀元年(1570年)に勃発した姉川の戦いは、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突した大規模な合戦であり、浅井氏の運命に大きな影響を与えた。この戦いにおいて、赤尾清綱が浅井軍の先鋒を務め、織田軍と激戦を繰り広げたとされる記述がある 4 。もしこれが事実であれば、当時既に老境に差し掛かっていた清綱の勇猛さと、家中における序列の高さを示すものとなる。

しかしながら、他の資料との整合性には注意が必要である。永禄6年(1563年)の美濃出兵以降、清綱の名が主たる戦の記録にあまり見られなくなることから、老齢のため小谷城の守備に専念していたのではないかという推測もなされている 4 。姉川の戦い当時、清綱は56歳であり、当時の武将としては確かに高齢であった。そのため、「先鋒を務めた」という記述が名目的なものであった可能性や、あるいは後方での総覧や助言に徹していた可能性も考えられる。姉川の戦いに関する一次史料(例えば『信長公記』など)において、清綱の具体的な役割や行動がどのように記録されているかを確認することが、この点の解明には不可欠である。

D. その他の合戦への参加と軍事的貢献

赤尾清綱は「各地を転戦活躍した」と総括的に評価されているものの 3 、具体的な合戦名やその中での詳細な活躍については、現存する史料からは断片的な情報しか得られないのが現状である。浅井氏が関わった数々の戦いの中で、清綱がどのような役割を果たし、いかなる軍事的貢献をしたのか、その全貌を明らかにするには更なる史料の発見と分析が待たれる。

VI. 赤尾清綱の人物像と評価

A. 史料に基づく性格分析

赤尾清綱の性格を最もよく示す逸話として、浅井久政に対する直言が挙げられる。六角氏との戦いに敗れた後、久政が家臣の奮起を促した際に、清綱は「とかく武者と鷹は使い手に依るものにて軍兵のわざにては更になし。大将によるものにて候」と、敗戦の原因は兵卒ではなく大将の器量にあると痛烈に批判した 4 。この発言は「荒言」と評されるほど手厳しいものであり、主君の面前であるにも関わらず臆することなく諫言できる清綱の剛直さ、率直さ、そして物事の本質を見抜く洞察力を示している。この発言が許された背景には、清綱の長年の功績と浅井家における重臣としての地位、そして家臣団の多くが同様の意見を持っていたという状況があったと考えられる 4 。このエピソードは、清綱が単なる武勇一辺倒の武将ではなく、家の将来を真剣に考え、時には主君と対峙することも厭わない気骨のある人物であったことを物語っている。

B. 主君(特に長政)への忠誠心を示す逸話

赤尾清綱の浅井長政への忠誠心は、特に浅井氏滅亡の際に際立って示されている。小谷城落城時、浅井長政が赤尾屋敷にて自刃するにあたり、清綱は主君の最期を邪魔させまいと自ら織田軍の兵と戦い、捕縛されたと伝えられている 4 。また、羽柴秀吉による調略を撥ね付け、最後まで長政の傍を離れず、その最期を看取ったともされる 3 。浅井家滅亡という絶望的な状況において、多くの家臣が離反する中で 8 、清綱は最後まで長政に付き従った。長政が自刃の場所に赤尾屋敷を選んだこと自体が、両者の間に深い信頼関係があったことを物語っており 8 、清綱の最期の行動は、この主君からの信頼に応えるものであったと言える。これらの逸話は、清綱が浅井家、特に自らが擁立にも関わった長政に対して、深い恩義と揺るぎない忠誠を感じていたことを強く示唆している。

C. 同時代及び後世における評価

赤尾清綱の武名は敵方にも知れ渡っていたようで、小谷城落城後に捕らえられた際、織田信長から「汝は昔より鬼の如く聞こえる者なるが」と評されたという逸話が残っている 4 。この評価が事実であれば、彼の武勇や威厳が広く認識されていたことの証左となる(ただし、この逸話自体の一次史料における確認は必要である)。また、「浅井三将」の一人としての名声は、同時代および後世における彼の高い評価を裏付けるものである 2

後世の創作物においても赤尾清綱は取り上げられており、例えば漫画『センゴク』では、浅井家三代に仕えた重臣筆頭として、長政を幼少時から知る人物として描かれている 3 。一方で、歴史シミュレーションゲームなどでは、能力値設定の都合上、「凡将」といった厳しい評価が下されることもあるが 14 、これはあくまでフィクションの範囲内のものであり、史料に基づいた学術的評価とは区別して考える必要がある。しかし、このような形で取り上げられること自体が、赤尾清綱という武将がある程度の知名度を持ち、様々な形で語り継がれていることを示している。

総合的に見れば、史料や伝承からは、忠義に厚く、武勇に優れ、時には主君に直言もする剛直な宿老という人物像が浮かび上がる。

VII. 小谷城の攻防と赤尾清綱の最期

A. 織田信長との対立と小谷城籠城戦

元亀元年(1570年)の姉川の戦いを経て、浅井長政と織田信長の対立は決定的となった。浅井氏は朝倉氏と共に信長包囲網の一翼を担い、約3年間にわたり織田軍の猛攻に耐え続けた 15 。しかし、天正元年(1573年)に至り、織田軍の総攻撃を受け、浅井氏の本拠地である小谷城はついに落城の時を迎える 2 。赤尾清綱もこの籠城戦に参加し、最後まで浅井氏の重臣として抵抗を続けたと考えられる。長期間にわたる籠城戦は、浅井方の士気の高さと小谷城の堅固さを示すものであり、清綱のような宿老の存在が、籠城戦を支える精神的支柱の一つとなっていた可能性は高い。

B. 浅井長政の自刃と赤尾屋敷の役割

天正元年9月1日(西暦1573年9月26日)、織田軍の猛攻により本丸が陥落寸前となる中、浅井長政は小谷城内の赤尾屋敷(袖曲輪)において自刃したと伝えられている 2 。この場所については、地元の伝承や後世の史料に基づくものであり、同時代の確かな一次史料に明記されているわけではないものの、有力な説として受け入れられている 8 。長政が本丸ではなく、最も信頼する宿老である赤尾清綱の屋敷を最期の場として選んだ背景には、本丸が既に危険な状態であったという戦況に加え、最も信頼する家臣の傍で最期を迎えたいという長政の心情が複雑に絡み合っていたと考えられる。また、浅井側の史料には、父・久政の自害後、長政は一度和議により降伏する約束であったが、赤尾氏ら家臣が生け捕られたのを見て翻意し、自害したという記述もあり 8 、もしこれが事実であれば、清綱ら家臣の運命が長政の最終的な決断に影響を与えたことになる。

C. 清綱の最期に関する諸説の比較検討

赤尾清綱の最期については、史料によって記述が異なり、いくつかの説が存在する。

  1. 織田信長の面前で切腹説: 小谷城の戦いで織田軍に敗北して捕虜となり、信長の目前で切腹した。享年60歳 2 。これは武士としての名誉ある死に様を強調するもので、後世の顕彰や物語の中で好まれた可能性がある。
  2. 捕虜となり斬首説: 浅井長政自害の後、捕虜となり斬首された 3 。これはより現実的な処遇とも考えられる。
  3. 捕縛後、信長との対峙を経て処刑(または切腹)説: 長政が赤尾屋敷にて自刃する際、主君の最期を邪魔させまいと自ら防戦に当たり信長軍に生け捕られた後、信長に呼び寄せられ、その武勇を称えられた上で処刑、あるいは切腹した 4 。これはよりドラマチックな展開である。
  4. 長政と共に自害説: 赤尾屋敷で浅井長政とその弟・政元と共に自害した 2 。これが事実であれば、殉死という形で主君への忠誠を全うしたことになる。

これらの説の違いは、情報源の性質(一次史料、二次史料、軍記物、編纂物など)や、それぞれの記述が持つ意図に起因する可能性がある。『信長公記』は浅井長政の自刃については記述しているが 18 、赤尾清綱の最期に関する詳細な記述の有無は本報告書作成に用いた資料群からは明確ではない( 27 では該当記述なしとされている)。『浅井三代記』は軍記物としての性格が強く、その記述の史実性については慎重な吟味が必要である 19 。現時点では、これらの複数の説を併記し、それぞれの出典の性格を考慮した上で、確定的な結論を出すのは困難であると述べるのが妥当であろう。

VIII. 赤尾氏のその後

A. 赤尾清綱の子女の動向

浅井氏滅亡後も、赤尾清綱の子女たちは各々異なる道を歩み、赤尾家の血脈を繋いだ。主な子女とその後の動向は以下の通りである。

表2: 赤尾清綱の子女とその後の動向

氏名

通称など

主な仕官先・動向

典拠例

清冬 (きよふゆ)

新兵衛尉

浅井氏滅亡後、信長に助命されたとの説あり 21 。後に富山に移住。子・清正は京極高次に仕え、その娘・勝野は富山藩主前田利次の傅役となる 1

1

四郎兵衛

加兵衛尉

浅井氏滅亡後、関ヶ原の戦いで福原右馬介に属し戦死

1

伊豆守

新介

浅井氏滅亡後、京極高次に仕官。大津城の戦いで活躍。子・主殿助は京極高次、後に加賀藩主前田利常に仕える 1

1

孫介 (まごすけ)

小谷落城後、羽柴秀吉に仕えるも、尾州長峰にて討ち死に

1

菊姫 (きくひめ)

2 に名が見えるが、具体的な動向は不明。他の資料では言及が少ない。

2

織田信長が清冬を助命したという説 21 が事実であれば、父清綱の武名や忠節が敵方にも認められていたことの一つの証左となるかもしれない。子女たちが京極氏や前田氏といった有力大名に仕えることができたのは、父清綱の遺した人脈や評価、あるいは彼ら自身の能力によるものであろう。また、赤尾家では代々男子の名に「清」の字を用いる伝統があったという興味深い伝承も残されている 21 。浅井氏滅亡という危機的状況下で、清綱の子たちが全て歴史の闇に消えたわけではなく、それぞれが武家の処世術を駆使し、家名を後世に伝えたことは注目に値する。

B. 富山藩・加賀藩等に仕えた赤尾氏の系譜

赤尾清綱の子孫のうち、特に清冬の系統と伊豆守の系統は、近世を通じて存続し、それぞれ富山藩や加賀藩などに仕えた。

清綱の長男・清冬の子である赤尾三右衛門清正は、関ヶ原の戦いの後、元の主家である京極高次に1000石で仕えた 1 。清正の次女である勝野は、才女として知られ、徳川秀忠の次女・珠姫が加賀藩主前田利常に輿入れした際に召し出されて仕え、やがて利常の次男・利次(後の富山藩初代藩主)が生まれるとその傅役を任された 1 。寛永16年(1639年)に利次に富山藩10万石が分藩されると、勝野も富山城に移り、富山藩の奥(大奥)を創設し、御広敷を整備して奥女中を束ねるなど、藩政の初期において重要な役割を果たした 1 。勝野の父・清正や兄たちも富山藩に仕え、赤尾三家として富山藩主の側近くに仕え、廃藩置県を迎えたと伝えられている 1

一方、清綱の三男・伊豆守の子である主殿助は、初め京極高次に3500石で仕え、後に加賀藩三代藩主前田利常に1000石で召し抱えられた 1 。このように、赤尾氏の血筋は、武勇だけでなく、藩政運営や文化的な側面でも貢献しながら近世を通じて存続した。

C. その他、各地の赤尾氏の伝承

近江の赤尾清綱の系統とは別に、「赤尾」の姓を持つ氏族は日本各地に存在したことが記録されている。例えば、甲斐国には武田氏家臣小山田氏流の赤尾氏、丹後国には一色氏家臣の赤尾氏、出雲国松江藩には京極氏重臣の赤尾氏、豊前国には中世から続く赤尾氏などがいたとされる 1 。これらの赤尾氏が、清綱の系統と何らかの血縁関係(例えば分家や遠縁など)を持つ可能性も皆無ではないが、同姓であっても別系統であることも多く、その関連性を明らかにするには個別の詳細な史料批判が必要となる。ただし、出雲の赤尾氏については、清綱の孫・清正が京極忠高に従って出雲松江藩に移ったこととの関連が強く示唆されており 1 、『京極殿給帳』に見える赤尾伊織(3,500石)、赤尾主殿之助(2,500石)といった高禄の家臣は、清綱の子孫たちが松江藩で重用されたことを示している。

IX. 関連史跡と文化財

A. 小谷城跡における赤尾屋敷跡と石碑

赤尾清綱と浅井長政の最期を伝える重要な史跡として、滋賀県長浜市の国指定史跡である小谷城跡内に「赤尾美作守屋敷址」が存在する。この屋敷跡は、本丸に近接する重要な位置にあり、浅井長政が自刃した場所と伝えられていることから、「浅井長政公自刃之地」の石碑も建てられている 8 。これらの史跡は、戦国時代の悲劇的な出来事を現代に伝え、多くの歴史愛好家が訪れる場所となっている。屋敷跡の具体的な規模や構造については、今後の発掘調査などによる更なる解明が期待される。

B. 関連する供養塔、古文書(赤尾清綱書状など)

小谷城跡の桜馬場跡には、「浅井氏及家臣供養塔」が建立されており 10 、赤尾清綱もその供養の対象に含まれていると考えられる。

また、赤尾清綱自身が発給した書状の存在も確認されている。永禄4年(1561年)付の「赤尾清綱書状(折紙)」が史料中に言及されており 25 、これが現存し、内容が判読可能であれば、清綱の筆跡、文体、そして当時の具体的な活動内容などを直接的に知ることができる極めて貴重な一次史料となる。永禄4年は浅井長政が家督を継いだ直後の時期にあたり、この書状がどのような文脈で作成され、誰に宛てて何について書かれたものであるかを明らかにすることは、赤尾清綱研究、ひいては浅井氏研究の進展に大きく寄与するであろう。この書状の所蔵状況や詳細な研究については、今後の調査が待たれる。

X. 結論

A. 赤尾清綱の生涯とその歴史的意義の総括

赤尾清綱は、戦国時代の近江国において、浅井氏三代にわたり宿老として仕え、主家の興隆から滅亡に至るまでその運命を共にした武将である。特に浅井長政の時代には「浅井三将」の一人として、また筆頭家老として、軍事・政治の両面で浅井家を支えた。主君からの信頼は絶大であり、小谷城内に自身の名を冠した「赤尾曲輪」を持つことを許され、浅井久政の隠居と長政の家督相続という浅井家の重大な転機にも深く関与するなど、その歴史に大きな影響を与えた。智勇兼備の将として知られ、時には主君に対しても臆することなく直言する剛直さを持ち合わせていた。その最期については諸説あるものの、いずれも主君長政に殉じた忠臣としての姿が色濃く伝えられている。赤尾清綱の生涯は、戦国乱世を生きた一人の武将の生き様を示すと同時に、浅井氏という一戦国大名の盛衰を映し出す鏡と言えよう。

B. 今後の研究課題

赤尾清綱に関する研究は、今後以下の点を明らかにすることで、より深化することが期待される。

  1. 永禄4年(1561年)付「赤尾清綱書状」 25 の現物の確認、所蔵状況の特定、およびその内容の読解と詳細な分析。
  2. 『浅井三代記』やその他の軍記物、編纂史料に描かれる赤尾清綱像と、一次史料に基づく実像との比較検討、およびその差異が生じた背景の考察。
  3. 野良田の戦いや美濃出兵時の殿軍など、清綱が関与したとされる主要な合戦における、より具体的な指揮内容や武功に関する一次史料のさらなる探索と分析。
  4. 赤尾氏と浅井氏の間に存在したとされる血縁関係 1 の具体的な内容の解明と、それが清綱の浅井家中での地位に与えた影響の考察。
  5. 清綱の最期に関する諸説について、より信頼性の高い史料に基づく検証。

これらの課題に取り組むことにより、赤尾清綱という人物、そして彼が生きた時代への理解が一層深まることが期待される。

XI. 主要参考文献一覧

本報告書の作成にあたり、主に以下の資料群に含まれる情報を参照した。

  • 赤尾清綱 - Wikipedia 2
  • 赤尾氏 - Wikipedia 1
  • 赤尾清綱 - Weblio辞書 3
  • 赤尾清綱 - 信長の野望オンライン寄合所(本陣) 4
  • 小谷城(下) - 近江の城めぐり - 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 12
  • 小谷城 - 江~姫たちの戦国~ゆかりの地(1) 24
  • 浅井長政の家臣団/ホームメイト - 刀剣ワールド 26
  • 長谷川裕子「戦国期畿内周辺における領主権力の動向とその性格―近江国衆今井氏の事例を中心に―」『史苑』第61巻第1号(立教大学文学部、2000年) 13 (※本稿では上記論文そのものではなく、提供されたスニペットからの引用となる)
  • 『近江大原観音寺文書』の綜合的研究 (明治大学人文科学研究所紀要) 25 (※同上)
  • その他、本報告書中に個別引用した各ウェブサイト資料。

引用文献

  1. 赤尾氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B0%BE%E6%B0%8F
  2. 赤尾清綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B0%BE%E6%B8%85%E7%B6%B1
  3. 赤尾清綱とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%B5%A4%E5%B0%BE%E6%B8%85%E7%B6%B1
  4. 赤尾清綱 - 信長の野望オンライン寄合所(本陣) https://wiki.ohmynobu.net/nol/index.php?%C0%D6%C8%F8%C0%B6%B9%CB
  5. 野良田表の合戦 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Noradaomote.html
  6. 戦国小町苦労譚 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n8406bm/127/
  7. 【浅井長政】信長との同盟を破棄した浅井家の御家事情 - 戦国SWOT https://sengoku-swot.jp/swot-azainagamasa/
  8. お城へいざ参ろう! 幸せな記憶と共に消えた悲しみの城 小谷城④ ... https://bmwchofu-blog.tomeiyokohama-bmw.co.jp/12992/
  9. 姉川の古戦場(6/8):小谷城址(2):赤尾屋敷、黒金門、浅井家及家臣慰霊塔 (長浜) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11292828
  10. 小谷城 - 戦国の城を訪ねて https://oshiromeguri.net/odanijo.html
  11. 小谷城 - 赤尾屋敷跡[hiro.Eさん] https://kojodan.jp/castle/71/photo/196575.html
  12. 小谷城(下) - 近江の城めぐり - 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 https://shiroexpo-shiga.jp/column/no22/
  13. rikkyo.repo.nii.ac.jp https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/record/1495/files/AN0009972X_61-01_03.pdf
  14. 信長の野望 蒼天録 with PK PS2版 1570年秋 信長包囲網 浅井家攻略|こんなかんじ - note https://note.com/ps_ss_n64/n/nca8318a06bec
  15. 近江小谷城主浅井長政家臣団2 http://numada777.g2.xrea.com/oumi2.html
  16. 浅井長政とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%B5%85%E4%BA%95%E9%95%B7%E6%94%BF
  17. 小谷城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  18. 浅井長政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E9%95%B7%E6%94%BF
  19. 長政記~戦国に転移し、家族のために歴史に抗う - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n5003gr/31/
  20. 長政記~戦国に転移し、家族のために歴史に抗う - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n5003gr/3/
  21. 私の500年前のご先祖様が戦国時代の武将な件 | まいど MAIDO屋まいちゃんBLOG https://ameblo.jp/sevmy/entry-12277838512.html
  22. 越中郷土史講演記録 - ettyushi ページ! - 明神博幸 https://ettyushi.jimdofree.com/%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E9%83%B7%E5%9C%9F%E5%8F%B2%E8%AC%9B%E6%BC%94%E8%A8%98%E9%8C%B2/
  23. 第三章 家臣団の成立 - 近世加賀藩と富山藩について http://kinseikagatoyama.seesaa.net/article/364358356.html
  24. 小谷城 - 江~姫たちの戦国~ゆかりの地(1) https://washimo-web.jp/Trip/Otanijyoushi/otanijyoushi.htm
  25. meiji.repo.nii.ac.jp https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/12874/files/jinbunkagakukiyo_b9_2-36.pdf
  26. 浅井長政の家臣団/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/91240/
  27. 信長公記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98