最終更新日 2025-06-04

赤川元保

赤川元保は毛利氏の譜代重臣で五奉行筆頭。隆元の側近として仕え、厳島の戦い等に参加。隆元の急死を巡る嫌疑で元就の命により自害。後に冤罪と判明し家は再興された。
赤川元保

赤川元保に関する調査報告

序章

赤川元保(あかがわもとやす)は、日本の戦国時代、特に中国地方において毛利氏がその勢力を飛躍的に伸張させた時期に活動した武将である。毛利元就・隆元父子の下で重臣として仕え、毛利氏の五奉行筆頭という要職にありながら、主君隆元の急死を巡る嫌疑から悲劇的な最期を遂げた人物として知られる 1 。彼の生きた時代は、厳島の戦いを経て毛利氏が防長経略を推し進め、中国地方の覇者へと名乗りを上げる激動の時代であった 1 。毛利氏の急速な勢力拡大は、一方で家臣団内部の緊張や権力構造の変化をもたらし、元保のような人物の運命にも大きな影響を与えたと考えられる。

本報告書は、赤川元保の出自から、毛利氏における役割、そしてその悲劇的な末路と家の再興に至るまでを、現存する史料に基づき多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。彼の生涯を通して、戦国武将の栄光と悲哀、忠誠と猜疑、そして権力闘争の非情さといった、時代を超えたテーマが浮かび上がってくるであろう。

第一章 赤川氏の出自と毛利氏への臣従

赤川氏は、桓武平氏の一家系である土肥氏の一門、小早川氏の庶流と伝えられている 1 。その起源については複数の説が存在する。一つは、相模国の御家人であった小早川氏の当主、小早川茂平の子である忠茂が、父から信濃国水内郡赤川村(現在の長野県内)の所領を贈与され、その子の政忠の代に在名を取って「赤川」と称したとする説である 2 。また、室町時代初期の応永15年(1408年)に、室町幕府将軍足利義満の命によって下野国那須郡佐々山城(現在の栃木県内)から備後国(現在の広島県東部)に転封され、青嶽山に青影城を築いたという説もあり、これは庄原市教育委員会が採用している 2

いずれの説を採るにしても、赤川氏はその後、毛利氏の譜代家臣として仕えるようになった。赤川忠政の代に毛利時親の家臣となり、時親の安芸国(現在の広島県西部)下向に追従したとされる 2 。戦国時代に入ると、赤川元保の兄にあたる赤川就秀は、大永3年(1523年)に毛利元就が毛利宗家の家督を相続するにあたり、これを要請した宿老の一人として名を連ねている 2 。この事実は、赤川氏が元就体制の成立以前から毛利家と深く関わり、重要な局面で役割を果たしてきた譜代の家柄であったことを示している。就秀はまた、毛利氏が一時的に尼子氏に従属した際には、光永秀時や井上元貞らと共に人質として出雲国月山富田城へ赴き、後に毛利氏と尼子氏が絶縁した際には、秘密裏に脱出して安芸国へ帰還するという経験もしている 2

赤川氏が元就の家督相続を支持した宿老の一員であったという事実は、元保の代における毛利家内での一定の地位や発言力の基盤となった可能性が考えられる。譜代の家臣であり、かつ主家の重要な転換期に関与した家柄であることは、元就政権下での信頼の基礎となり得る。元保が後に毛利隆元の側近筆頭という重役に抜擢された背景には、こうした家格や、兄就秀を含む赤川家代々の毛利家への貢献があったと推察される。

第二章 赤川元保の生涯と毛利氏における役割

赤川元保の生年は不詳であるが、毛利元就が毛利宗家の家督を相続して以降、兄の赤川就秀と共に元就に仕えたとされる 4 。中国語版の資料には、元就の家督継承時の起請文に署名した15名の宿老の一人であったとの記述もあるが 4 、他の日本語資料ではこの点に関する明確な一次史料の言及は確認されておらず、慎重な扱いを要する。ただし、天文19年(1550年)に毛利氏家臣団が連署した起請文には、元保の名(「赤川元保」または初名の「赤川元助」)が見られる 1

元保のキャリアにおける頂点は、天文19年(1550年)に毛利氏で五奉行制度が発足した際に、毛利元就の嫡男である毛利隆元の直属奉行人筆頭に任命されたことである 1 。この五奉行制度は、毛利氏の領国経営における重要な行政機構であり、その構成と役割分担は注目に値する。

表1:毛利氏五奉行制度(天文19年頃)

奉行名

所属・役割

派閥(通説)

出典例

赤川元保

毛利隆元 直属奉行人筆頭

親隆元派

1

国司元相

毛利隆元 直属奉行人

親隆元派

6

粟屋元親

毛利隆元 直属奉行人

親隆元派

6

児玉就忠

毛利元就 直属奉行人(元就・隆元間連絡役兼務)

親元就派

1

桂元忠

毛利元就 直属奉行人(元就・隆元間連絡役兼務)

親元就派

1

この表からもわかるように、五奉行は隆元直属の者と元就直属の者で構成されており、両者の意思疎通や政策調整が期待された一方で、潜在的な対立構造も内包していた。元保は隆元の側近筆頭として、その信任も厚く、家中でも大きな影響力を持っていたと考えられる。しかし、史料によれば、元保は親隆元派として「驕慢な振る舞いが多かった」とされ 1 、これが他の重臣、特に親元就派であった児玉就忠や桂元忠らとの間にしばしば対立を生んだ 1 。桂元忠の伝記には、彼が親元就派であり、赤川元保ら親隆元派と対立したと明記されており 5 、児玉就忠についても、隆元の家臣であった赤川元保や国司元相とは不仲であったとされている 10

この対立は、単なる個人的な感情のもつれに留まらず、毛利家内の権力構造や政策方針における意見の相違に根差していた可能性も否定できない。元保の「驕慢」と評された態度が、こうした対立をさらに深刻化させ、組織運営上の障害となっていたとすれば、それは元就の元保に対する心証を徐々に悪化させる一因となったかもしれない。

軍事面では、弘治元年(1555年)の厳島の戦いに際して、隆元側近筆頭という立場から、隆元と共に本陣を率いて厳島に渡海した可能性が高い(隆元の参陣は 3 に記載)。弘治3年(1557年)には、防長経略の一環として行われた大内義長の籠る長門国且山城攻撃において、桂元親、粟屋元親、児玉就忠らと共に元就から攻撃を命じられている 1 。さらに、且山城への総攻撃の際には、渡辺長や市川経好と共に下関の守備にあたり、大内氏と大友氏の間の連絡を遮断するという重要な任務を担った 1

しかし、この下関駐屯時の働きについて、元就は元保に対して低い評価を下したとされる。「一向に誠意ある働きをせず、警備中に僅かに脛を負傷したのみであった」と見なされたことは 1 、隆元の急死以前から元就が元保に対して何らかの不満や疑念を抱く萌芽となっていた可能性を示唆しており、これが後の悲劇へと繋がる伏線となったとも考えられる。

表2:赤川元保 略年表

年代

出来事

出典例

生年不詳

天文19年(1550年)

毛利氏五奉行制度発足、毛利隆元直属奉行人筆頭に就任

1

弘治元年(1555年)

厳島の戦い(隆元と共に参陣か)

3

弘治3年(1557年)

防長経略、且山城攻撃に参加、下関守備

1

永禄6年(1563年)8月

毛利隆元、備後国にて急死

1

永禄10年(1567年)3月7日

毛利元就の命により自害

1

永禄10年(1567年)11月29日

兄・赤川就秀の次男・元之が家督を継ぎ、赤川元保家再興

1

この年表は、元保の生涯における主要な出来事を時系列で示しており、特に隆元の死から自身の死に至るまでの期間の短さ、そして死後速やかに家名が再興されたという特異な流れを浮き彫りにしている。

第三章 毛利隆元の急死と赤川一族の粛清

永禄6年(1563年)8月、毛利氏の将来を揺るがす事件が発生する。毛利元就の嫡男であり、家督を継承していた毛利隆元が、毛利氏傘下の備後国人である和智誠春の居城、仁後城(またはその近傍の宿所)で饗応を受けた後、宿に戻ってから急病を発し、翌日に41歳の若さで急死したのである 1 。この時、隆元の妻と和智誠春の子の妻が姉妹であったという姻戚関係は 11 、事件の背景に複雑な人間関係があったことをうかがわせる。

この隆元の突然の死に際し、父である毛利元就は、隆元側近筆頭であった赤川元保の対応に強い不信感を抱いたとされる 2 。史料によれば、元保は自身にかけられた嫌疑に対して進んで身の潔白を証明しようと努めるどころか、元就に対して遺恨の態度を示したと見なされた 1 。この元保の行動が、元就の不信をさらに増幅させたことは想像に難くない。元就は、饗応の主であった和智誠春と共に、赤川元保にも疑いの目を向けたのである 11

最愛の嫡男を失った元就の悲嘆は計り知れず、老境にあった彼から冷静な判断力を奪った可能性は高い。この深い悲しみと猜疑心が、過去の元保に対する不満(例えば下関駐屯時の働きぶりなど)と結びつき、元保に対する過剰な不信へと発展したと考えられる。

そして永禄10年(1567年)3月7日、毛利元就の厳命により、赤川元保は自害に追い込まれた 1 。この粛清は元保一人に留まらなかった。彼の兄弟である赤川元久らも同様に自害させられ 2 、さらに吉田の山手に住んでいた元保の養子・赤川又三郎(又五郎とも記される 1 )も、桂元澄らに居館を襲撃された。又三郎は鉄砲を用いて頑強に抵抗したが、奮戦空しく討ち取られた 1 。この襲撃の際、討手の一人であった中村元宗は、茶釜の蓋を胸に当てて突入し、又三郎を討ち取ったものの、自身もその際に負った傷がもとで後に死亡するという壮絶な逸話も伝えられている 1

この一族粛清の背景には、隆元の死による元就の個人的な悲嘆と猜疑心に加え、家中の動揺を鎮め、元就自身の、そして次期当主となる幼い孫・輝元への権力基盤を再強化しようとする政治的な意図があった可能性も指摘できる。元保の「進んで身の潔白を証明することがなかったばかりか、元就に遺恨の態度を示した」 1 とされる行動は、元就の疑念を確信に近いものに変え、自らの破滅を早めたとも言える。主君の絶対的な権力の前では、沈黙や反抗的な態度は最悪の結果を招きかねない戦国時代の厳しさを示している。

隆元の死の真相が不明な中で、元就がどのような情報に基づいて元保を断罪したのかは、歴史の闇に包まれている部分も多い。しかし、元保と対立していた親元就派の重臣たち 1 が、この機に乗じて元保に不利な情報を元就に吹き込んだ可能性も完全に否定することはできない。讒言が人臣の運命を左右することは、戦国時代においては決して珍しいことではなかった。

また、元保一族の徹底的な粛清は、単なる個人的な怒りの発露というだけでなく、隆元死後の家中の動揺を抑え、元就への権力集中を内外に示す「見せしめ」としての意味合いも持っていた可能性が考えられる。特に、幼い輝元への家督継承を円滑に進めるためには、少しでも不穏とみなされる要素は徹底的に排除するという、元就の非情ともいえる決断があったのかもしれない。広島県世羅郡世羅町の潮音寺には、「毛利隆元の死は赤川元保の謀略と疑われ、一族の多くが元就に殺された」という伝承と共に、赤川家のものとされる墓が残されていることは 12 、この事件の悲劇性を今に伝えている。

第四章 赤川家の再興と後世への影響

赤川元保とその一族が粛清された後、事態は意外な展開を見せる。後に、元保が毛利隆元に対して、問題となった和智誠春からの饗応に応じることについて、再三にわたり反対していたという事実が判明したのである 2 。この事実は、元保が実際には主君隆元の身を案じており、粛清が冤罪であった可能性を強く示唆するものであった。

この新たな情報に触れた毛利元就は、元保らを自害に追い込んだことを深く悔いたと伝えられている。そして、永禄10年(1567年)11月29日、すなわち元保の死からわずか8ヶ月余り後という異例の速さで、元保の兄である赤川就秀の次男、赤川元之(元保にとっては甥にあたる)に家督を継がせ、赤川元保の家を再興させた 1 。この迅速な家の再興は、元就が自らの判断の誤りを認め、譜代の家臣であった赤川氏の名誉を回復しようとした意志の表れと解釈できる。それはまた、他の家臣団に対する一種のケアであり、元就の統治者としての一面を示すものであったかもしれない。

赤川家再興後、元保の別の甥にあたる赤川元秀(就秀の子)は、武功の士として知られ、吉田郡山城の戦いや月山富田城の戦いなど、毛利氏の主要な合戦で活躍し、後には年寄衆の一人にまでなった 2 。赤川氏はその後も毛利氏の家臣として存続し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長二国に減封された際もそれに従い、江戸時代には長州藩の寄組として家名を保った 2

赤川元保にまつわる記憶は、史書だけでなく、地域の伝承や史跡にも残されている。前述の広島県世羅郡世羅町に所在する潮音寺には、赤川一族の墓とされる25基の墓石群が現存し、地元住民によって今も大切に守られている 1 。これらの墓は、赤川元保が隆元暗殺の謀略に関わったと疑われ、その結果として一族の多くが元就によって殺害されたという悲しい伝承と共に語り継がれており 12 、中央の公式記録とは異なる、地域社会における歴史的事件の記憶のあり方を示している。そこには、権力によって翻弄された人々への同情や鎮魂の念が込められているのかもしれない。

また、現代においては、1997年に放送されたNHK大河ドラマ「毛利元就」で、俳優の永島敏行氏が赤川元保役を演じたことも 1 、彼の人物像が後世にどのように伝えられているかの一端を示している。

元保が隆元に饗応を断るよう進言していたという「真実」が、彼の死後に明らかになったという経緯は、情報伝達の遅れや歪みがいかに悲劇的な結果を生むかを示唆している。そして、たとえ真実が明らかになったとしても、一度失われた命は決して戻らないという厳然たる事実を、我々に突きつける。元保の粛清とそれに続く異例の速さでの家名再興は、他の毛利家臣たちにとって、主君の権力の恐ろしさと、同時に恩情もあり得るという、複雑なメッセージとして受け止められたであろう。これは、家臣団の統制において、恐怖と信頼のバランスをどのように取るかという、指導者にとって永遠の課題を提起している。

結論

赤川元保は、毛利隆元の側近筆頭、そして五奉行の一員として、毛利氏が中国地方有数の戦国大名へと飛躍する重要な時期に、行政・軍事の両面で大きな役割を果たした有能な武将であった。その能力は高く評価され、主君隆元からの信頼も厚かったと推察される。

しかしながら、その剛直とも、あるいは史料によっては驕慢とも評される性格が、家中の人間関係、特に親元就派の重臣たちとの間に軋轢を生んだことは否定できない。そして、最大の不運は、主君である毛利隆元の突然の、そして不可解な死であった。この事件をきっかけとして、元保は父元就の深い悲嘆と猜疑心の対象となり、十分な弁明の機会も与えられぬまま、一族もろとも粛清されるという悲劇的な結末を迎えた。

彼の死後、元保が実際には隆元の身を案じ、危険な饗応を諫めていたという事実が明らかになり、毛利元就がこれを悔いて甥に家を再興させたという経緯は、元保の無実を強く示唆すると同時に、彼の評価を一面的に断じることの難しさを示している。

赤川元保の悲劇は、戦国時代における主従関係の絶対性と厳しさ、一度失われた信頼を回復することの絶望的な困難さ、そして権力闘争の非情さを象徴する事例として位置づけられる。また、家中における派閥対立の存在や、指導者の心理状態が、いかに家臣の運命を大きく左右するかという、組織における普遍的な問題を浮き彫りにした事件であったと言えよう。

有能でありながらも、些細な誤解や不運、人間関係のもつれ、そして何よりも主君の猜疑心という、個人の力だけではどうにもならない要因によって破滅へと追いやられた赤川元保の生涯は、戦国社会の厳しさと、そこに生きる人々の脆さを後世に伝える。彼の物語は、歴史の非情さと、その中から汲み取るべき教訓を我々に示唆しているのである。

参考文献

引用文献

  1. 赤川元保 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B7%9D%E5%85%83%E4%BF%9D
  2. 赤川氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B7%9D%E6%B0%8F
  3. 毛利隆元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%9A%86%E5%85%83
  4. 赤川元保- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E8%B5%A4%E5%B7%9D%E5%85%83%E4%BF%9D
  5. 桂元忠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%85%83%E5%BF%A0
  6. 毛利元就 - 安芸高田市 https://www.akitakata.jp/akitakata-media/filer_public/71/ce/71ce4b82-31e3-4945-9add-b2ed4e68dd74/rei-wa-3nen-11gatsu-20nichi-shinpojiumu-mouri-motonari-rejume.pdf
  7. 五奉行 (毛利氏) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A5%89%E8%A1%8C_(%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F)
  8. 古文書を読み解く楽しみ(毛利氏の杉原盛重抜擢の謎) - 備陽史探訪の会 https://bingo-history.net/archives/12411
  9. 毛利氏五人奉行、最も有能なのは!? - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/162
  10. KD01 児玉惟行 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/entry220.html
  11. 2014年9 月 - 紀行歴史遊学 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2014/09/page/3/
  12. www.mcat.ne.jp http://www.mcat.ne.jp/~oguni-jc/img/file106.pdf
  13. 赤川元保の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 戦国ガイド https://sengoku-g.net/men/view/55