赤星親武は肥後赤星統家の子。加藤清正に仕え、後に豊臣秀頼に仕え大坂夏の陣で討死とされる。しかし、キリシタン武将「ジョルジ赤星太郎兵衛」として殉教した記録もあり、同一人物か混同の可能性がある。
本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活動した武将、「赤星親武(あかぼし ちかたけ)」について、現存する史料に基づき、その生涯と事績を多角的に検証するものである。赤星親武に関しては、一般的に「加藤清正家臣。統家の子。娘は加藤清正の側室。加藤十六将の一。のち清正を介して豊臣秀頼に仕え、大坂の陣で奮戦。天王寺口の戦いで討死を遂げた」という概要が知られている 1 。この人物像は、特に江戸時代以降の軍記物や講談を通じて形成されてきた側面が大きい。
しかしながら、詳細な調査を進めると、この「大坂の陣で戦死した赤星親武」とは異なる経歴を持つ「赤星太郎兵衛」という名のキリシタン武将の記録が、同時代のイエズス会史料などに存在することが明らかになる 1 。このキリシタン武将は、同じく加藤清正に仕えたものの、慶長19年(1614年)に殉教したとされており、没年や死因において前述の赤星親武像と明確な矛盾点が見られる。
本報告では、まず通説として知られる赤星親武の出自、加藤清正への臣従、家族、そして豊臣秀頼への奉公と大坂の陣での最期について、関連史料を基に詳述する。その上で、もう一方の「ジョルジ赤星太郎兵衛」に関する記録を詳細に検討し、両者の関係性、史料の信憑性、そして「赤星親武」という人物像がどのように形成され、あるいは混同されてきたのかについて考察を深める。史料の性質(軍記物、系図、一次史料としての宣教師記録など)を批判的に吟味し、可能な限り赤星親武の実像に迫ることを目的とする。
赤星親武の人物像を理解するためには、まず彼が属した赤星一族の歴史的背景と、父である赤星統家の動向を把握する必要がある。
赤星氏は、中世の肥後国菊池郡を本拠とした国人領主の一族である 5 。その出自は菊池氏に連なり、菊池武房の弟である赤星有隆を祖とするとされる 5 。赤星氏は、隈部氏、城氏と共に菊池氏の三家老家の一つに数えられるなど、肥後国内で有力な家格を誇った 5 。家紋は、主家である菊池氏と同じく「並び鷹羽」を用いたと伝えられている 5 。
主家の菊池氏が戦国時代に入り衰微するのに伴い、赤星氏は他の家老家と共にその勢力を伸張させた 5 。一例として、菊池義武が甥の大友宗麟と肥後の覇権を争った際には、赤星氏は大友氏の傘下に入り、その功績によって菊池氏の本拠であった菊池城を任されるなど、戦略的な動きを見せた 5 。しかし、同じく菊池氏の重臣であった隈部氏は龍造寺氏と結びつき、菊池氏の後継者問題などを巡って赤星氏と対立を深めることとなる 5 。永禄2年(1559年)の合勢川の戦いでは、赤星親家(統家の父)が隈部親永に大敗を喫し、後に菊池城を隈部氏に奪われるなど、一族の勢力は常に変動の中にあった 5 。
赤星親武の父とされる赤星統家は、享禄3年(1530年)に赤星親家の子として生まれ、元和5年(1619年)に没したと記録されている 8 。統家は、父・親家の死後に隈府城主となった 8 。
戦国時代の九州は、豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏といった大名が覇を競う激動の時代であった 9 。このような状況下で、赤星統家もまた、翻弄される運命を辿る。天正7年(1579年)、龍造寺隆信の圧力を受け、統家は嫡男の新六郎を人質として差し出し、龍造寺氏に従属した 5 。しかし、天正11年(1583年)、龍造寺氏による蒲池鎮漣(統家の娘婿)の謀殺事件などを背景に、統家が龍造寺氏に対して恨みを抱いているとの風聞が立つと、龍造寺隆信は統家への不信感を募らせた 8 。度重なる参陣要請に応じなかった統家に対し、隆信は人質としていた統家の嫡男・新六郎(当時14歳)とその妹である娘(当時8歳)を筑後と肥後の国境である竹ノ原で処刑するという凶行に及んだ 8 。
この悲劇は統家を深く恨ませ、龍造寺氏への明確な敵対姿勢を取らせるに至った。統家は薩摩の島津義久と結び、翌天正12年(1584年)に起こった沖田畷の戦いでは、島津軍の先鋒として、かつての主筋であった龍造寺隆信軍と干戈を交えた 5 。この戦いで龍造寺隆信は討死し、九州の勢力図は大きく塗り替えられることとなる。
しかし、島津氏と行動を共にしたことが、結果として赤星氏の将来に影響を及ぼす。豊臣秀吉による九州平定後、統家は旧領を回復することができず、所領を没収された 5 。その後、統家は阿波国(現在の徳島県)でその生涯を終えたと伝えられている 8 。
赤星統家の子としては、龍造寺氏に殺害された新六郎と娘の他に、本報告の主題である赤星親武(?-1615年)、そして筑後柳川城主蒲池鎮漣の正室となった娘などがいたとされる 1 。
赤星一族の没落という厳しい現実は、その子である親武の人生航路にも大きな影響を与えたと考えられる。かつて肥後の名門国人であった赤星氏が、父・統家の代で所領を失ったという背景は、親武が新たな主君を求めて加藤清正に仕官する動機の一つとなったであろう。武士として生きる道、あるいは一族の再興への望みを託しての決断であった可能性が推察される。
赤星氏が没落した後、赤星統家の子である親武は、肥後の新たな領主となった加藤清正に仕えることとなる。
豊臣秀吉による九州平定(天正15年・1587年)の結果、肥後国は佐々成政に与えられたが、国衆一揆の責任を問われて成政は改易・切腹となる。その後、肥後北半国は加藤清正に、南半国は小西行長に与えられた 11 。赤星家は、統家の代に所領を失っており、親武が加藤清正に仕えたのは、この清正の肥後入国(天正16年・1588年以降)の時期と考えられる 12 。
具体的な臣従の時期や詳細な経緯を記した一次史料は、今回の調査範囲では確認できなかった。しかし、清正が肥後に入国するにあたり、在地勢力である国衆を自身の家臣団に組み込むことは、領国経営の安定化のために不可欠な方策であった。赤星親武も、そのような流れの中で登用された一人と推測される。没落したとはいえ、赤星氏はかつて菊池三家老家の一角を占めた名族であり、在地における影響力や武門としての経験が評価された可能性もあろう。
赤星親武は、加藤清正の家臣団の中でも特に武勇に優れた者たちを指す「加藤十六将」の一人に数えられたと、多くの二次史料や伝承で語られている 1 。
「加藤十六将」の具体的な構成員については、史料によって若干の異同が見られる場合があるが、一般的には以下のような武将が挙げられる。
表1:加藤十六将一覧(主な構成員)
武将名 |
備考 |
出典例 |
飯田直景 |
加藤三傑、日本槍柱七本 |
11 |
森本一久 |
加藤三傑 |
11 |
庄林一心 |
加藤三傑、元仙石秀久家臣、禄高8,000石 |
11 |
加藤直正 |
元名・桑原平八郎、肥後藟嶽城代、禄高8,500石 |
11 |
加藤重次 |
佐敷城代、大和守、元六角家臣 |
11 |
加藤可重 |
通称・右馬允、肥後内牧城代 |
11 |
斑鳩平次 |
元上杉家臣、実名・信好、禄高3,000石 |
11 |
龍造寺又八 |
|
11 |
貴田孫兵衛 |
諱・統治とも、豊前出身、別名・毛谷村六助、禄高900石 |
11 |
吉村氏吉 |
吉(橘)左衛門、尾張国松木出身 |
11 |
山内甚三郎 |
天草衆一揆鎮圧や朝鮮の役に参加 |
11 |
九鬼広隆 |
四郎兵衛、九鬼嘉隆の甥 |
11 |
天野助左衛門 |
|
11 |
木村又蔵 |
罷免後も忠義を尽くした人物 |
11 |
斎藤利宗 |
斎藤利三の子 |
11 |
赤星親武 |
赤星統家の子とされる |
2 |
この一覧からもわかるように、「加藤十六将」には譜代の家臣だけでなく、赤星親武のような肥後国衆出身者や、他家からの移籍者も含まれており、清正の家臣団が多様な出自の者たちによって構成されていたことがうかがえる。
しかしながら、赤星親武自身の具体的な武功や逸話に関しては、加藤十六将の一人として名は挙げられているものの、今回の調査資料の中では詳細な記述が乏しい 16 。九州大学が所蔵する資料には、赤星姓の武将が慶長の役において蔚山城の清正への合流途中に明軍と交戦し戦死したとの記述があるが 16 、これは大坂の陣で戦死したとされる親武とは明らかに異なるエピソードであり、同姓の別人か、あるいは情報が混同している可能性が高い。
一方で、親武の娘である浄光院の父が「加藤十六将の一人とまで名を挙げた」という記述は 13 、親武が清正家臣として一定の評価と地位を得ていたことを示唆している。娘が主君の側室となることは、家臣としての信頼の証左とも考えられ、単なる一兵卒ではなかったことが推測される。知行高に関する明確な記録は見当たらないものの 1 、この縁戚関係は、没落した赤星家にとって、加藤家内での立場をある程度安定させる効果があったかもしれない。
「加藤十六将」という呼称自体が、後世の顕彰や物語化の過程で定着した可能性も考慮に入れる必要がある。必ずしも同時代に固定的な武将グループとして認識されていたとは限らず、親武がその一人として名を連ねている事実は、彼が清正の主要な家臣の一人と見なされていたことを示すものと解釈できる。
赤星親武の家族として、史料には娘の浄光院と息子の道重の名が確認できる。彼らの生涯は、親武の人生と深く関わっている。
浄光院は、赤星親武(通称:太郎兵衛)の娘として生まれ、後に加藤清正の側室となった女性である 13 。清正の奥向きでは「竹之丸殿」と称された 13 。彼女は清正との間に長女・あま姫(後の本淨院)を儲けた 13 。あま姫の誕生には、慶長の役(朝鮮出兵)の最中、清正が朝鮮の居城にいた際に浄光院が懐妊し、日本への撤収途上の玄界灘に浮かぶ島(現在の長崎県壱岐市にあるとされる阿ま島)で出産したため、「あま」と名付けられたという逸話が残っている 17 。
あま姫は成長後、徳川家康の養女となり、上野国館林城主であった榊原康勝に嫁いだ 13 。しかし、康勝が若くして亡くなったため、あま姫は一旦加藤家の江戸屋敷に戻り、その後、下総国佐倉藩主(後に近江国膳所藩主)の阿部政澄に再嫁した 13 。
浄光院自身は、晩年には生母として娘のあま姫と共に江戸で過ごしたと推測されている 13 。そのため、彼女の墓所は東京都大田区の池上本門寺にある阿部家の墓地内にあるとされる 13 。浄光院は寛永2年6月24日(1625年7月28日)に亡くなった 13 。
浄光院の父である赤星親武は、前述の通り「加藤十六将の一人とまで名を挙げた」とされており 13 、娘が主君・清正の側室となり、さらに清正の血を引く子を産んだことは、没落した赤星家にとってその地位の安定や名誉の回復に繋がった可能性がある。
赤星道重は、赤星親武の子として記録されている 1 。浄光院の兄であったとも、弟であったともされるが、複数の資料で浄光院と道重が兄妹(姉弟)関係にあったことが示唆されている 13 。
道重の生涯で特筆すべきは、父・親武が大坂夏の陣で戦死する直前に戦場から逃がされたという伝承である 1 。この逸話は、主に江戸時代中期に成立したとされる実録物の『天草騒動』などに記されている 19 。同書によれば、大坂落城後、道重は天草に逃れ、「宗帆」と名を改めたとされる 19 。
その後、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱において、道重は「赤星内膳」あるいは「赤星主膳」といった通称で一揆勢に加わり、評定衆や徒士大将の一人として原城の本丸付近を守備したと伝えられている 19 。そして、原城における幕府軍との攻防の中で、寺沢堅高の家臣であった三宅重元(あるいは三宅重利の子・重元)と一騎討ちを演じた末、寛永15年1月24日(1638年3月9日)に戦死したとされる 19 。
ただし、道重の島原の乱での活躍や最期に関する記述は、主に『天草騒動』などの後世の実録物に依拠しており、その史実性については慎重な検討を要する 19 。これらの物語は、歴史的事実に基づきつつも、劇的な要素や教訓的な側面が強調される傾向があるためである。もし道重の父が、後述するキリシタン武将ジョルジ赤星太郎兵衛であった場合、道重の出自や島原の乱への参加動機も異なる解釈が必要となる可能性があるが、現時点では父を大坂の陣で戦死した親武とする伝承が一般的である。
加藤清正に仕えた赤星親武は、その後、豊臣秀頼に仕え、豊臣家最期の日々を共にすることになる。
赤星親武は、主君であった加藤清正の紹介(介)によって、豊臣秀吉の子である豊臣秀頼の直参になったと伝えられている 1 。この異動の具体的な時期や背景に関する詳細な一次史料は確認されていない。しかし、加藤清正が豊臣家に対して深い恩顧を感じ、秀吉亡き後も秀頼の後見役の一人としてその将来を案じていたことは広く知られている 11 。清正が信頼する家臣である親武を秀頼の側に置いたのは、豊臣家の将来を託せる人材を送り込み、秀頼を武勇の面で支えさせようとした意図があったのかもしれない。
慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣、そして翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、赤星親武は豊臣方として参戦した 1 。豊臣秀頼の直参となっていた親武にとって、これは主君への忠義を尽くす戦いであった。
特に慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣の雌雄を決した天王寺・岡山の戦いにおいて、親武は天王寺口で奮戦し、壮絶な討死を遂げたとされている 1 。天王寺口の戦いは、豊臣方の真田信繁(幸村)や毛利勝永らが徳川家康本陣に肉薄するなど、大坂の陣の中でも屈指の激戦地であった 21 。赤星親武がこの戦いで具体的にどの部隊に所属し、どのような戦闘行動を取ったのか、その詳細な活躍ぶりを伝える一次史料は、今回の調査では見出すことができなかった 16 。しかし、激戦地であった天王寺口で命を落としたという事実は、彼が豊臣方として最後まで戦い抜いたことを物語っている。
彼の最期に関しては、死の間際に息子の赤星道重を戦場から逃がしたという逸話が、前述の通り伝えられている 1 。この逸話は、武士としての意地と、子を思う親心を示していると言えよう。赤星親武の没日は慶長20年5月7日(1615年6月3日)とされている 1 。
大坂の陣における豊臣軍は、豊臣家譜代の家臣に加え、関ヶ原の戦い以降に浪々の身となっていた多くの武士たち(いわゆる浪人衆)によって構成されていた 21 。赤星親武も、元は加藤清正の家臣であり、清正の死後(慶長16年・1611年没 14 )は豊臣秀頼の直参となっていたが、大坂の陣においては、こうした浪人衆の一翼を担う形で戦ったと考えられる。旧主・清正の豊臣家への忠誠心を受け継ぎ、豊臣家と運命を共にする道を選んだ彼の姿は、戦国乱世の終焉期における武士の一つの生き様を示していると言えるだろう。
これまで詳述してきた「大坂の陣で戦死した赤星親武」の人物像は、主に江戸時代以降の軍記物や講談によって形成されたものである。しかし、同時代に近いイエズス会の史料には、これとは異なる経歴を持つ「赤星太郎兵衛」という名のキリシタン武将の記録が存在する。本章では、この二つの人物像を比較検討し、史料批判を通じてその関係性に迫る。
既に述べた通り、赤星統家の子で、加藤清正に仕え加藤十六将の一人に数えられ、後に豊臣秀頼の直参となり、大坂夏の陣の天王寺口で慶長20年(1615年)に戦死したとされる赤星親武(通称:太郎兵衛、内膳)である 1 。この人物像は、江戸時代以降に成立した『難波戦記』などの軍記物や、明治時代に流行した立川文庫などの講談を通じて広く知られるようになった 1 。これらの作品群は、歴史上の人物や出来事を題材としつつも、物語としての興趣を高めるために史実とは異なる脚色や創作が加えられることが一般的であり、史料としての取り扱いには注意が必要である。
一方、より同時代性の高い史料として、イエズス会宣教師ペドロ・モレホンが著した『日本殉教録』や、関連するイエズス会の年報・書簡類には、「ジョルジ赤星太郎兵衛」という名のキリシタン武将に関する詳細な記録が残されている 1 。
これらの史料によれば、ジョルジ赤星太郎兵衛は肥後国隈府(現在の熊本県菊池市周辺)の出身で、高い身分の武士であった 1 。彼は加藤清正に仕えていたが、熱心なキリシタンであった。清正はその能力を惜しみ、彼の信仰を黙認していたとされる 1 。
しかし、慶長16年(1611年)に加藤清正が亡くなると状況は一変する。清正の子・忠広の代になると、藩の重臣たちはジョルジ赤星太郎兵衛に棄教を迫った。彼はこれを断固として拒否し、禄を捨てて肥後藩を去った 1 。その後、キリシタンに対して比較的寛容であったとされる肥前唐津藩主・寺沢広高に一時仕えた 1 。
ところが、慶長19年(1614年)1月、江戸幕府は全国に「伴天連追放之文(キリシタン追放令)」を発布し、キリスト教に対する弾圧を強化する。これを受け、寺沢広高もジョルジ赤星太郎兵衛に信仰を隠すよう説得したが、彼は再びこれを拒絶し、寺沢家をも去って長崎に移り住んだ 1 。
同年11月22日、有馬(長崎県南島原市)と口之津(同市口之津町)で多くのキリシタンが捕縛され、拷問の末に殉教するという事件が起こる。この報を聞いたジョルジ赤星太郎兵衛は、自らも殉教の覚悟を固め、口之津へ向かった。そして翌11月23日(日本側の記録では24日とも)、長崎奉行であった山口直友の側近の手によって斬首され、64年の生涯を閉じたと記録されている 1 。
このジョルジ赤星太郎兵衛の殉教については、『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』にも慶長19年(1614年)11月23日の出来事として、肥後隈府出身の64歳の士分の人物として記載されており、その経歴もほぼ一致している 4 。また、レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』や片岡弥吉著『日本キリシタン殉教史』といった後年の研究書も、これらのイエズス会史料に基づいてジョルジ赤星太郎兵衛の殉教に言及している 4 。
軍記物に登場する赤星親武と、イエズス会史料に見るジョルジ赤星太郎兵衛の経歴を比較すると、いくつかの共通点と明確な矛盾点が見出される。
表2:赤星親武(大坂の陣で戦死)とジョルジ赤星太郎兵衛(殉教)の経歴比較
項目 |
赤星親武(軍記物・講談等) |
ジョルジ赤星太郎兵衛(イエズス会史料等) |
通称・別名 |
太郎兵衛、内膳 1 |
ジョルジ、太郎兵衛 4 |
生年 |
不明 1 |
慶長19年(1614年)に64歳とされるため、元亀元年(1570年)以前の天文・永禄年間(1550年代後半頃)の生まれか 4 |
父 |
赤星統家 1 |
不明(赤星氏の一族、統家との関係は不明) 1 |
主君 |
加藤清正 → 豊臣秀頼 1 |
加藤清正 → 寺沢広高 1 |
主な事績 |
加藤十六将、大坂の陣で奮戦 1 |
キリシタン武将、棄教を拒否し殉教 1 |
子女 |
道重、浄光院(清正側室) 1 |
不明(史料からは確認できず) |
死没年月日 |
慶長20年5月7日(1615年6月3日) 1 |
慶長19年11月23日(1614年12月23日または24日頃) 1 |
死因 |
大坂夏の陣 天王寺口で戦死 1 |
殉教(斬首) 1 |
主な史料根拠 |
軍記物、講談(例:『難波戦記』、立川文庫など) 1 |
『日本殉教録』(ペドロ・モレホン著)、イエズス会年報など 1 |
明確な相違点 は以下の通りである。
共通点と考察
これらの比較から、二人の「赤星太郎兵衛」は別人である可能性が極めて高いと考えられる。その主な理由は以下の通りである。
「赤星太郎兵衛」という通称は、当時それほど珍しいものではなかった可能性も考慮すべきである。同姓同名(通称)の別人が存在し、加藤清正に仕えたという共通項から、後世に両者の事績が混同されたり、一方の逸話が他方の人物像に投影されたりした可能性も否定できない。特に、軍記物などが英雄譚を好む性質から、豊臣家への忠義を貫き大坂の陣で散った武将の物語が好まれ、そこにキリシタン殉教者の悲劇性とは異なる形のドラマ性が求められたのかもしれない。
本報告では、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての武将「赤星親武」について、現存する史料に基づき多角的な調査を行った。その結果、一般的に知られる「加藤清正家臣で大坂の陣で戦死した赤星親武」という人物像と、イエズス会史料に記録される「キリシタン武将ジョルジ赤星太郎兵衛」という、異なる経歴を持つ二つの「赤星太郎兵衛」像が浮かび上がってきた。
史料を比較検討した結果、これら二つの人物像は、別人である可能性が極めて高いと結論付けられる。その主な根拠は、没年(慶長20年 vs 慶長19年)と死因(戦死 vs 殉教)の明確な相違、そしてそれぞれの情報を伝える史料の性質の違い(後世の軍記物・講談 vs 同時代の宣教師記録)である。
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一方、ジョルジ赤星太郎兵衛は、加藤清正に仕えた肥後出身のキリシタン武将であり、清正没後に棄教を拒んで藩を去り、最終的に慶長19年(1614年)に長崎で殉教した人物として、同時代のイエズス会史料にその名が刻まれている 1 。彼は高い身分の武士であったとされ、赤星一族の中でも重要な位置を占めていた可能性が示唆されるが、赤星統家との具体的な血縁関係は不明である。
赤星親武の事例は、歴史上の人物がどのように記憶され、語り継がれていくか、そしてその過程で史実と伝承、あるいは異なる人物の事績がどのように交錯しうるかを示す興味深い事例と言える。大坂の陣で豊臣方に殉じた悲劇の武将としての「赤星親武」像は、後世の人々の共感を呼び、物語として定着した一方で、禁教下の日本では公に語られにくかったキリシタン殉教者「ジョルジ赤星太郎兵衛」の記憶は、別の形で伝えられてきたのであろう。
今後の研究課題としては、まず、大坂の陣で戦死したとされる赤星親武の具体的な事績、特に加藤十六将としての活動内容について、軍記物以外の一次史料に近い記録の探索が望まれる。また、赤星統家とジョルジ赤星太郎兵衛の具体的な血縁関係、そして赤星一族内におけるキリスト教の受容の実態についても、さらなる詳細な研究が期待される。熊本県立図書館所蔵の「赤星家文書」は近世末期以降のものが中心とされるが 6 、戦国期から江戸初期にかけての赤星氏に関する断片的な情報が含まれていないか、再度の精査も有益であろう。
本報告が、赤星親武という人物、そして彼が生きた時代への理解を深める一助となれば幸いである。