最終更新日 2025-06-04

赤星道重

赤星道重は肥後赤星親武の子。大坂夏の陣で父が戦死する直前に脱出。島原の乱では一揆勢指導者として原城で奮戦、一騎討ちの末戦死したとされる。
赤星道重

赤星道重 – 島原の乱に散った肥後の武士、その生涯と実像

序論

赤星道重は、江戸時代初期に勃発した大規模な武力蜂起である島原の乱において、一揆勢の指導者の一人としてその名を刻む人物である。天草十七人衆にも数えられ、原城籠城戦では本丸付近の防衛という重責を担ったとされる。彼の生涯は、父・赤星親武の豊臣家への忠誠と大坂の陣での戦死、そして道重自身の大坂城からの脱出、天草への潜伏を経て、島原の乱での壮絶な最期へと繋がる、まさに激動の時代を映し出す鏡と言えよう。

本報告書は、現存する諸史料を丹念に読み解き、赤星道重という人物の出自、大坂の陣での経験、島原の乱における具体的な活動と最期を、関連人物や背景となる史料の信憑性を吟味しつつ多角的に明らかにすることで、その実像に迫ることを目的とする。特に、伝承として語り継がれてきた逸話と、史料によって裏付けられる事実とを区別し、客観的な視点から赤星道重の生涯を再構築することを目指す。

以下に、赤星道重に関連する年表を示す。

表1:赤星道重 関連年表

年代(西暦)

出来事

備考

慶長7年(1602年)?

赤星道重、誕生か

生年に関する確たる史料はなし 1

慶長年間

父・赤星親武、加藤清正に仕官、後豊臣秀頼に仕官か

2

慶長19年(1614年)

(参考)ジョルジ赤星太郎兵衛、口之津で殉教か

赤星親武の別伝とされるが、年代等に矛盾あり 2

慶長20年(1615年)

大坂夏の陣。赤星親武、天王寺口の戦いで豊臣方として戦死。赤星道重、大坂城より脱出。

2

寛永14年(1637年)

島原の乱、勃発。

寛永15年(1638年)

原城籠城戦。赤星道重、一揆勢の指導者の一人として戦う。2月28日(旧暦)、原城落城。赤星道重、寺沢家臣三宅重元との一騎討ちの末、戦死したとされる。

戦死の日付については諸説あり、一騎討ちの逸話も後世の記録物による 3

第一部:赤星道重の出自と背景

第一章:赤星氏の系譜と父・赤星親武

赤星道重の生涯を理解する上で、その出自である赤星氏の歴史と、父・赤星親武の動向を把握することは不可欠である。

1. 肥後赤星氏の概要

赤星氏は、中世の肥後国において勢力を持った武家の一族である。その出自は、肥後国菊池郡を本拠とした名族・菊池氏に遡るとされ、菊池武房の弟である赤星有隆を祖とすると伝えられている 5 。隈部氏、城氏と共に菊池氏の三家老家の一つに数えられ、主家の菊池氏が衰退する過程で、他の家老家と共にその勢力を伸張させたとされる 5 。家紋は、主家である菊池氏と同じく「並び鷹羽」を用いたとされている 5

赤星親武の父については、赤星統家(むねいえ)とする系図も存在する 5 。しかし、これらの系図の多くは後世に編纂されたものであり、親武や道重が赤星氏の嫡流の中で具体的にどのような位置づけにあったのかを、信頼性の高い一次史料によって明確にすることは難しい。特に戦国末期から江戸初期にかけての赤星氏の動向は不明瞭な点が多く、親武や道重に関する記述も、その信憑性については慎重な検討を要する。

2. 父・赤星親武の生涯

赤星道重の父、赤星親武は、戦国末期から江戸初期にかけての武将である。その生涯は、加藤清正への仕官、豊臣秀頼への奉公、そして大坂の陣での最期という、激動の時代を象徴するような軌跡を辿ったと伝えられている。

加藤清正への仕官

赤星親武は肥後国菊池氏の出身とされ、加藤清正に仕えたと記録されている 2 。一部の史料では、清正の勇猛な家臣団を指す「加藤十六将」の一人に数えられたともされるが 2 、「加藤十六将」という呼称自体が後世の創作である可能性も指摘されており、親武が実際に清正の主要な家臣としてどのような役割を果たしたのか、具体的な一次史料による裏付けは十分ではない。

豊臣秀頼への仕官

後に、親武は加藤清正の紹介によって豊臣秀頼の直参になったと伝えられている 2 。加藤家から豊臣家直参への移行は、当時の武士のキャリアパスとしてあり得ることではあるが、その具体的な経緯や、豊臣家においてどのような役職にあったのかを示す史料は乏しい。この時期の親武の動向は、後の大坂の陣への参加に繋がる重要な伏線となるが、詳細は不明な点が多い。

大坂の陣と最期

慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけて起こった大坂の陣において、赤星親武は豊臣方として参戦したとされる 2 。そして、慶長20年5月7日の大坂夏の陣、天王寺口の戦いで奮戦の末、戦死したと伝えられている 2 。この戦死の直前、親武は息子である道重を城中から脱出させたとされ、この逸話は道重のその後の人生に大きな影響を与えたと考えられる 2 。しかし、この親武の戦死と道重の脱出に関する記述も、島原の乱に関する実録物である『天草騒動』など、後世に成立した記録に見られるものであり 3 、一次史料による確証が得られているわけではない点には留意が必要である。

3. 赤星親武に関する異説:「ジョルジ赤星太郎兵衛」

赤星親武には、通説とは異なるもう一つの顔が伝えられている。それは、彼が熱心なキリシタン武将「ジョルジ赤星太郎兵衛」であったとする説である。

この別伝によれば、ジョルジ赤星太郎兵衛は肥後菊池氏の三家老家の一つである赤星氏の一員で、武士の中でも高い身分にあったとされる 2 。加藤清正に仕えていたが、慶長16年(1611年)に清正が亡くなると、藩の重臣たちから棄教を迫られた。しかし、彼はこれを拒否して肥後を去り、キリシタンに寛容であった肥前唐津藩主・寺沢広高に仕えたという 2 。その後、慶長19年(1614年)1月に江戸幕府が「伴天連追放之文」を正式に公布すると、広高は赤星に信仰を隠すよう説得したが、彼はこれを断り禄を捨てて長崎に居住した 2 。同年11月、有馬と口之津で多くのキリシタンが殉教したことを聞き、自らも口之津へ向かい、翌11月23日に山口直友の側近の手によって斬首され、64年の生涯を閉じたとされている 2

この説の典拠としては、江戸時代以降の軍記物や立川文庫などの講談のほか、一部のキリシタン殉教録が挙げられる 2 。ペドロ・モレホン神父の報告に基づくとされる『日本殉教録』 2 や、九州大学で編纂された「熊本キリシタン年表」にも、ジョルジ赤星太郎兵衛に関する記述が見られる 8

しかし、この「ジョルジ赤星太郎兵衛」説にはいくつかの疑問点が存在する。最大のものは年代的な矛盾である。ジョルジ赤星太郎兵衛の殉教は慶長19年(1614年)とされるのに対し、赤星親武が大坂夏の陣で戦死したのは翌年の慶長20年(1615年)であり、両者を同一人物と見なすには無理がある。

また、「熊本キリシタン年表」には、慶長19年(1614年)に19歳で殉教した「ミカエル・アカフォシ(赤星)」という人物の記録も存在する 8 。これは明らかに64歳で殉教したとされるジョルジ赤星太郎兵衛とは別人である。さらに、「浜松のジョアンの家です」というウェブサイトには、同じく慶長19年に殉教したとされる「赤星ミゲル」(44歳、肥前出身イエズス会士)、「赤星ペトロ」(52歳、口之津の教会役者)、「赤星ミカエル」(42歳、口之津の在番)といった複数の赤星姓の殉教者の名が挙げられているが 7 、これらの人物とジョルジ赤星太郎兵衛、あるいは通説の赤星親武との具体的な関係性は不明である。

これらの点を踏まえると、「ジョルジ赤星太郎兵衛」の伝承は、赤星一族の中に複数のキリシタンが存在した可能性や、異なる人物の逸話が後世に混同されたり、あるいはキリシタン弾圧という歴史的背景と肥後の名族である赤星氏を結びつけることで、より劇的な物語として創作・受容された可能性が考えられる。軍記物や講談は史実よりも物語性を重視する傾向があり、キリシタン殉教録も信仰的側面が強調されるため、これらの史料を歴史史料として取り扱う際には慎重な吟味が必要である。

したがって、現時点では、赤星親武が「ジョルジ赤星太郎兵衛」と同一人物であったとする説を積極的に支持するだけの確固たる史料的根拠は乏しいと言わざるを得ない。

表2:赤星親武に関する伝承比較(通説と「ジョルジ赤星太郎兵衛」説)

比較項目

通説(赤星親武)

異説(ジョルジ赤星太郎兵衛)

出自

肥後国菊池氏

肥後国菊池氏(三家老家の一つ)

主な仕官先

加藤清正、豊臣秀頼

加藤清正、寺沢広高

主な活動・特徴

加藤十六将の一人(とされる)、大坂の陣に豊臣方として参戦

キリシタン武将

最期(時期)

慶長20年(1615年)5月7日

慶長19年(1614年)11月23日

最期(場所)

大坂夏の陣 天王寺口

肥前国口之津

最期(状況)

戦死

殉教(斬首)

享年

不明

64歳

主な典拠史料

『赤星親武』Wikipedia 2 、諸軍記物

『赤星親武』Wikipedia別伝 2 、キリシタン殉教録 2 、講談など

信憑性に関する考察

大坂の陣での戦死は複数の記録に見られるが、詳細な一次史料は乏しい。加藤十六将などの記述は後世の可能性。

殉教年と大坂の陣での戦死年に矛盾。史料の多くが後世の編纂物や信仰的記録であり、史実性の検証が困難。

第二章:姉・浄光院と赤星道重の幼少期

赤星道重の家族構成については、父・親武の他に、姉とされる浄光院の存在が確認できる。彼女の生涯と、道重の幼少期における大坂の陣での経験は、その後の道重の人生を考察する上で重要な要素となる。

1. 姉・浄光院(加藤清正側室)

赤星道重の姉とされる浄光院は、父・赤星親武の娘であり、肥後熊本藩主・加藤清正の側室であったと記録されている 3 。清正との間には長女のあま姫(本淨院)を儲けた 9 。あま姫は後に榊原康勝に嫁ぎ、康勝の死後は阿部政澄に再嫁している。浄光院自身は晩年、娘のあま姫と共に江戸で過ごしたと推測され、墓所は池上本門寺の阿部家墓地にある 9

浄光院が加藤清正の側室であったという事実は、赤星家と加藤家の間に一定の繋がりがあったことを示唆している。この関係が、道重の生涯、特に加藤家改易後の彼の動向や、島原の乱への参加に具体的にどのような影響を与えたかを示す直接的な史料は見当たらない。しかし、いくつかの可能性を考察することはできる。

一つは、加藤家旧臣との繋がりの維持である。姉が清正の側室であったことは、道重が加藤家の旧臣ネットワークの中に身を置く上で、何らかの便宜や心理的な支えとなった可能性が考えられる。島原の乱の指導者層には、赤星道重(加藤氏家臣の子)の他にも、千々石五郎左衛門(加藤氏家臣の子)など、加藤家旧臣の子弟が含まれていたことが史料から確認できる 10 。道重が彼らと接点を持ち、共に行動するに至った背景には、こうした旧主家を通じた繋がりが存在したのかもしれない。

また、父・親武が清正の紹介で豊臣秀頼の直参になったという伝承 2 の背景に、娘である浄光院が清正の側室であったことが何らかの影響を与えた可能性も考えられるが、これも現時点では憶測の域を出ない。

2. 赤星道重の幼少期と大坂の陣からの脱出

赤星道重の生年については、慶長7年(1602年)とする説も存在するが 1 、これを裏付ける確たる史料は見当たらない。

道重の幼少期における最も重要な出来事は、父・親武と共に経験した大坂の陣と、そこからの脱出である。前述の通り、父・親武は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣、天王寺口の戦いで豊臣方として戦死したとされるが、その直前に道重を城中から脱出させたと伝えられている 1

この逸話は、主に島原の乱に関する実録物である『天草騒動』などに見られるものであり 3 、その史実性については不明な点が多い 1 。大坂城からの具体的な脱出経路や、その後の潜伏先に関する詳細な記録は乏しい。

しかし、もしこの大坂城からの脱出が事実であったとすれば、幼い道重にとって父の死と落城という体験は、筆舌に尽くしがたい衝撃であったろう。このような壮絶な経験は、その後の彼の人格形成や行動原理に深い影響を与えた可能性が高い。豊臣家への強い忠誠心や、武士としての矜持、あるいは徳川幕府に対する潜在的な反感が、この時期に培われたとしても不思議ではない。この経験が、後に彼を島原の乱へと駆り立てる一因となった可能性も否定できないだろう。

第二部:島原の乱と赤星道重

大坂の陣を生き延びた赤星道重は、その後天草に潜伏し、やがて島原の乱という歴史的な大事件に身を投じることになる。本章では、島原の乱における赤星道重の動向と役割を詳述する。

第三章:天草への潜伏と決起への道

1. 天草への逃避と「宗帆」

大坂城を脱出した後の赤星道重の足取りは、しばらく途絶えるが、後に天草に逃れたと伝えられている 1 。この潜伏期間中、道重は「宗帆(そうはん)」と名乗ったとされる 3 。この「宗帆」という号の具体的な意味や由来については、現在のところ明らかではない。

なお、一部史料には「道重 号館津(たちつ)」という記述も見られるが 15 、これは摂津守系の平氏の系図中に見られるものであり、赤星道重との直接的な関連性を示すものではないと考えられる。

当時の天草は、キリシタンが多く潜伏し、また中央の支配が及びにくい地域であった。豊臣恩顧の武士の子であり、落人となった道重が、身を隠し再起を図るためにこの地を選んだ可能性は十分に考えられる。

2. 島原の乱への参加経緯

寛永14年(1637年)、島原半島と天草地方で大規模な一揆、すなわち島原の乱が勃発すると、赤星道重はその指導者の一人として歴史の表舞台に再び姿を現す。彼が具体的にどのような経緯で、またどのような動機でこの乱に参加したのかを直接的に示す史料は乏しい。しかし、いくつかの背景要因を推測することは可能である。

まず、父・赤星親武が豊臣方として大坂の陣で戦死したという事実は、道重の心中に徳川幕府に対する複雑な感情を抱かせていた可能性がある。また、道重自身が加藤清正の旧臣の子であったという出自も無視できない。加藤家は改易されており、多くの旧臣が浪人となっていた。島原の乱の指導者層には、道重の他にも加藤家旧臣の子弟が含まれていたことが確認されている 10 。これらの浪人たちにとって、島原の乱は、失われた武士としての地位や名誉を回復し、新たな秩序形成への期待を抱かせる機会と映ったのかもしれない。圧政に苦しむ農民や迫害されるキリシタンの蜂起に、再起を期す浪人たちが合流するという構図は、当時の社会状況を反映していると言えるだろう。

道重が天草潜伏中にキリシタン信仰に触れた、あるいは共鳴した可能性も皆無ではないが、これを裏付ける直接的な史料は現在のところ見当たらない。彼の決起の動機は、武士としての矜持、父の無念、あるいは現状への不満など、複合的な要因が絡み合っていたと考えるのが自然であろう。

第四章:天草十七人衆と原城での戦い

島原の乱において、赤星道重は一揆軍の中核をなす指導者の一人として活動した。特に「天草十七人衆」の一員としての名や、原城における具体的な役割は、彼の乱における重要性を示している。

1. 天草十七人衆

「天草十七人衆」とは、島原の乱において一揆勢を率いた主要な浪人らを指す呼称であり、赤星道重はその一人として数えられている 3

この呼称の主な出典は、江戸時代に成立した記録物である『天草騒動』などである 3 。しかしながら、『天草騒動』は軍記物、あるいは歴史小説としての性格が強く、その史料的価値については低いとする説が一般的である 11 。例えば、森宗意軒、赤星主膳(道重)、千々石五郎左衛門といった首謀者たちの活躍を活写する筆致から、フィクション性が高いと見なされることもある 17

したがって、「天草十七人衆」という呼称やその構成員が史実そのものであるかについては慎重な検討が必要である。しかし、赤星道重が島原の乱において指導的な立場にあったことは、他の史料からも示唆されている。例えば、一揆軍の意思決定機関であった「評定衆」の一人として、赤星内膳(道重)の名が記録されている 4

『天草騒動』によれば、天草十七人衆には赤星道重の他に、蘆塚忠右衛門(小西行長家臣の子・有馬氏旧臣)、千々石五郎左衛門(加藤氏家臣の子)、大矢野松右衛門(小西行長旧臣)、益田好次(小西行長旧臣)、森宗意軒(小西行長旧臣)、駒木根友房(島津氏・小西行長旧臣)、山田右衛門作(有馬氏旧臣・松倉氏御用達南蛮絵師)、天草玄察(益田好次の伯父)、千束善右衛門(小西行長旧臣)、栖本左京進、鹿子木右馬助、田崎刑部(森宗意軒の弟子)、蘆塚左内(蘆塚忠右衛門の子)、蘆塚忠太夫(蘆塚忠右衛門の弟)、戸塚宗右衛門、有馬休意(有馬氏旧臣)などが名を連ねている 10

表3:天草十七人衆 一覧(『天草騒動』に基づく)

No.

氏名

出自・旧主家など(『天草騒動』による)

備考(他の史料での言及など)

1

蘆塚忠右衛門

小西行長家臣の子・有馬氏旧臣

評定衆 4

2

千々石五郎左衛門

加藤氏家臣の子

百姓頭 12

3

大矢野松右衛門

小西行長旧臣(元 本多忠朝剣術指南役とも)

浮武者頭 4

4

赤星道重

加藤氏家臣の子

評定衆・徒士大将 3

5

益田好次

小西行長旧臣(祐筆)

評定衆、天草四郎の父 4

6

森宗意軒

小西行長旧臣

惣奉行・兵糧奉行 4

7

駒木根友房

島津氏・小西行長旧臣

評定衆 4

8

山田右衛門作

有馬氏旧臣・松倉氏御用達南蛮絵師

原城本丸番頭、乱後唯一の生存者 4

9

天草玄察

益田好次の伯父

武者奉行・二ノ丸北丸番頭 12

10

千束善右衛門

小西行長旧臣(供頭)

原城二ノ丸番頭 12

11

栖本左京進

夜廻奉行 12

12

鹿子木右馬助

鉄砲奉行 12

13

田崎刑部

森宗意軒の弟子

14

蘆塚左内

蘆塚忠右衛門の子

物頭 12

15

蘆塚忠太夫

蘆塚忠右衛門の弟

物頭 12

16

戸塚宗右衛門

17

有馬休意

有馬氏旧臣

注:上記は主に『天草騒動』の記述に基づくものであり、その史実性については留保が必要である。

『天草騒動』の記述は物語性が強いものの、当時の人々が島原の乱の指導者たちをどのように認識し、記憶しようとしたかを示す一つの「記憶の史料」として捉えることができるかもしれない。

2. 原城における役割と戦闘

島原の乱において、赤星道重は一揆軍の指導者として重要な役割を担った。史料によれば、彼は一揆軍の「評定衆」の一人であり 4 、また「徒士大将」として実戦部隊を指揮したとされる 3 。これらの役職は、彼が一揆軍の意思決定と戦闘指揮の両面で中心的な存在であったことを示唆している。

熊本藩が記録した島原の乱に関する史料にも、原城に籠城した浪人の一人として「赤星主膳」の名が見えることから 19 、彼が実際に原城で戦ったことは確かであろう。また、鹿児島県歴史資料センター黎明館が所蔵する『寛永軍徴』という史料には「渡邊惇兵衛遥赤星主膳道重」という記述が見られるが 20 、この記述の具体的な文脈や、ここから赤星道重の役割を詳細に読み解くことは現時点では困難である。

赤星道重は、原城本丸付近の守備を担当したと伝えられている 3 。原城本丸は、一揆軍の総大将とされる天草四郎が本陣を置いた最重要拠点であり、その防衛を任されたことは、道重が一揆軍首脳部から厚い信頼を得ていたことの証左と言えるだろう。

一騎討ちと最期

赤星道重の最期については、原城における幕府軍との激しい攻防の中で、寺沢堅高の家臣である三宅重元と一騎討ちを行い、壮絶な死を遂げたと伝えられている 1

しかし、この一騎討ちの逸話もまた、主に『天草騒動』などの実録物に見られるものであり 3 、その史実性については不明であると指摘されている 1 。一騎討ちの具体的な状況や詳細に関する一次史料は確認されていない。

戦国時代から江戸初期にかけて、一騎討ちは武士の名誉や武勇を象徴する行為として、軍記物語などの創作物の中で好んで描かれる題材であった。赤星道重の最期が一騎討ちとして伝承されている背景には、彼の勇猛さやその死の悲劇性を際立たせようとする、後世の記録者や語り手の意図が介在していた可能性が考えられる。島原の乱は、百姓一揆でありながらも、多くの浪人が指導者として参加し、武士としての矜持を持って戦ったという側面を持つ。一騎討ちは、個人の武勇を最大限に発揮する場であり、物語としても極めて劇的であるため、『天草騒動』のような実録物が、道重の最期をより印象的に描くためにこの逸話を採用、あるいは創作した可能性は否定できない。

一騎討ちの真偽はともかくとして、赤星道重が原城の攻防戦において幕府軍と激しく戦い、その中で命を落としたことは、彼が乱の指導者の一人として複数の史料に名を連ねていることから、確実性が高いと考えられる 4

第五章:赤星道重を取り巻く人物

赤星道重の生涯を語る上で、彼と関わったとされる人物たちにも目を向ける必要がある。特に、彼を討ち取ったとされる三宅重元や、同じく一揆軍の指導者であった山田右衛門作は、道重の物語において重要な役割を果たす。

1. 三宅重元(寺沢堅高家臣)

三宅重元は、島原の乱において赤星道重を一騎討ちで討ち取ったとされる、唐津藩主寺沢堅高の家臣である 3 。彼の父は三宅藤兵衛重利といい、天草の富岡城代として一揆勢と戦ったが、本渡での戦いに敗れて敗走し、後に自刃した人物である 1

島原の乱後、三宅重元の長男である三宅重次は熊本藩の重役に、次男の伊兵衛重之も熊本藩士になったと伝えられている。さらに、重之の娘婿である体庵は、乱によって住民のいなくなった島原に移住し、医業に就いたという記録も残っている 22

三宅重元自身に関する情報は断片的であり、赤星道重との一騎討ち以外の具体的な事績については不明な点が多い。しかし、親子二代にわたって島原の乱という大きな戦乱に関わった武家であったことは確かである。

2. 山田右衛門作

山田右衛門作は、赤星道重と同じく天草十七人衆の一人に数えられる人物である 10 。彼は有馬氏の旧臣であり、後に松倉氏御用達の南蛮絵師であったとされる 10

島原の乱においては、一揆軍の副将格、あるいは参謀としての役割を果たし、幕府側との矢文のやり取りなどを担当したとされている 18 。しかし、乱の末期には幕府側に内通し、その結果、乱後唯一生き残った指導者層の人物となった 18

鶴田倉造氏の著作とされる小説『島原』 23 においては、山田右衛門作が赤星道重と盟友であり、女子供を助けるために天草四郎引き渡しの策謀を巡らせたという筋書きで描かれているが、これはあくまで創作であり、史実とは区別して考える必要がある。

史実としての山田右衛門作と赤星道重の関係性については不明な点が多い。しかし、同じ一揆軍の指導者層として原城に籠城し、行動を共にしたことは確かであろう。山田右衛門作は、一揆軍の内部事情を知る数少ない生き残りとして、乱後の幕府による取り調べにおいて重要な情報を提供したと考えられ、その証言は島原の乱に関する記録の形成に影響を与えた可能性がある。

第三部:史料批判と歴史的評価

赤星道重の実像に迫るためには、彼に関する情報の典拠となる主要な史料を批判的に検討することが不可欠である。特に、後世に成立した記録物と、同時代の一次史料との区別、そしてそれぞれの史料が持つ性格やバイアスを理解することが重要となる。

第六章:主要史料の検討

1. 『天草騒動』

『天草騒動』は、江戸時代に成立した記録物であり、赤星道重を含む天草十七人衆などの記述の主要な典拠の一つとされている 3

しかし、その史料的価値については、軍記物や歴史小説としての性格が強く、史実を忠実に伝えたものとは言い難いとする評価が一般的である 11 。例えば、森宗意軒、赤星主膳(道重)、千々石五郎左衛門といった首謀者たちの活躍を生き生きと描く筆致は、物語性を高めるための創作的要素が強いと見なされることがある 17

このような史料的限界にもかかわらず、『天草騒動』が後世に与えた影響は無視できない。史実性は低いとしても、島原の乱や天草四郎、そして赤星道重を含む指導者たちのイメージ形成に大きな役割を果たし、その後の文学作品や大衆文化における彼らの描かれ方の源流の一つとなった可能性は否定できない。赤星道重の一騎討ちのような劇的な逸話も、こうしたプロセスを通じて広まり、定着していったと考えられる。

歴史研究においては、『天草騒動』の記述をそのまま史実として受け入れることはできない。しかし、当時の人々が島原の乱という未曾有の大事件をどのように捉え、どのように記憶し、語り継ごうとしたかを示す一つの「記憶の史料」としては、分析の対象となり得るだろう。なぜそのような物語が生まれ、受け入れられたのか、そこには当時の社会状況や人々の心情がどのように反映されているのか、といった問いを探求する上で、示唆に富む史料と言えるかもしれない。

なお、陳其松氏の論文「島原実録物から見る「天草四郎」美少年像の成立」 17 は、『島原実録』(『天草騒動』と同系統の史料群に含まれる可能性が指摘される)などを分析し、天草四郎の「美少年像」が形成されていく過程を論じている。この論文は、『天草騒動』に代表される実録物系統の史料群が持つ性質や、それらが歴史的イメージの形成に与える影響を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれる。

2. 赤星親武の「別伝」(ジョルジ赤星太郎兵衛説)に関する史料

第一部第一章3で詳述した赤星親武の別伝、すなわち彼がキリシタン武将「ジョルジ赤星太郎兵衛」であったとする説の根拠となる史料群も、慎重な取り扱いが必要である。

主な典拠としては、レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』 7 や片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』 7 、あるいは『日本殉教録』 2 といったキリシタン殉教に関する記録が挙げられる。また、九州大学で編纂された「熊本キリシタン年表」にも、ジョルジ赤星太郎兵衛(64歳で殉教)や、それとは別にミカエル・アカフォシ(赤星)(19歳で殉教)といった人物の記述が見られる 8

しかし、前述の通り、ジョルジ赤星太郎兵衛の殉教年(1614年)と、通説における赤星親武の大坂夏の陣での戦死年(1615年)との間には明確な年代的矛盾が存在する。また、これらの史料は殉教という信仰的側面を強調する性格を持つため、歴史的事実の客観的な記録としては限界がある。

これらの史料は、赤星一族あるいは肥後出身の武士の中にキリシタンが存在した可能性を示唆する断片的な情報を提供するものとして捉え、赤星親武個人の経歴として短絡的に結びつけることなく、慎重に評価する必要がある。

3. 一次史料の乏しさ

赤星道重という人物の実像を正確に把握することを最も困難にしている要因は、彼自身が残した書状や、同時代に彼について直接言及した信頼性の高い一次史料が極めて乏しいという点である。我々が現在参照できる情報の多くは、後世に編纂された軍記物や記録、あるいは特定の意図や視点に基づいて書かれた二次的史料に依存している。

この一次史料の不在は、彼の具体的な行動や思想、人物像について、憶測や後世の創作が入り込む余地を大きくしている。したがって、赤星道重に関する記述に接する際には、常にその情報の出所と史料的性格を吟味し、批判的な視座を失わないことが肝要である。

第七章:結論

本報告書では、島原の乱における指導者の一人、赤星道重について、現存する諸史料を基にその生涯と実像の解明を試みた。以下に調査結果を総括し、歴史的評価を試みる。

1. 赤星道重に関する調査結果の総括

赤星道重は、肥後国の名族・菊池氏の流れを汲むとされる赤星氏の出身であり、父・赤星親武は加藤清正に仕えた後、豊臣秀頼の直参となり、大坂夏の陣で豊臣方として戦死したと伝えられる。道重自身もこの大坂の陣に際して城中から脱出し、その後、天草へと逃れたとされる。

寛永14年(1637年)に島原の乱が勃発すると、道重は一揆勢に加わり、その指導者の一人として重要な役割を担った。史料によっては「天草十七人衆」の一人として、また「評定衆」や「徒士大将」としてその名が記されており、原城本丸付近の守備を担当したとされる。

その最期は、寛永15年(1638年)の原城総攻撃の際、幕府軍の寺沢堅高家臣・三宅重元との一騎討ちの末に戦死したと伝えられている。しかし、この一騎討ちの逸話は主に後世の軍記物語『天草騒動』に見られるものであり、その史実性については疑問が残る。

2. 歴史的評価の試み

赤星道重は、江戸時代初期における最大規模の武力蜂起である島原の乱において、武士としての矜持を胸に戦った数多くの浪人の一人として、歴史に記憶されるべき人物である。彼の行動は、豊臣家恩顧の武士の子としての立場や、加藤家改易といった時代の大きな変化の中で翻弄されながらも、自らの存在意義を求めた結果であったと解釈できる。

しかしながら、その生涯や具体的な事績については、信頼性の高い一次史料が極めて乏しく、我々が知り得る情報の多くは『天草騒動』に代表される後世の軍記物語や実録物の記述に大きく依存している。これらの史料は、史実を伝えるというよりも、物語としての面白さや教訓性を重視する傾向があり、赤星道重の人物像もまた、そうしたフィルターを通して形成されてきた側面が強い。したがって、彼の評価においては、史実と伝承を慎重に見極める作業が不可欠である。

特に、父・赤星親武に関するキリシタン殉教説(ジョルジ赤星太郎兵衛)については、殉教年と大坂の陣での戦死年との間に明確な年代的矛盾が存在することなどから、親武とジョルジ赤星太郎兵衛を同一人物と見なすことは困難である。このため、道重の島原の乱への参加動機を、父の信仰に直接結びつけることには慎重であるべきだろう。

今後の課題

赤星道重の実像をより明確にするためには、今後の研究において、未発見の一次史料の探索が期待される。また、現存する関連史料についても、それぞれの史料が成立した背景や編纂者の意図などを踏まえた、より深い史料批判を通じて、断片的な情報の中から可能な限り客観的な事実を再構築していく努力が求められる。島原の乱という事件の多面的な理解を深める上でも、赤星道重のような個々の参加者の生涯を丹念に追うことは、依然として重要な研究課題であり続けるであろう。

引用文献

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