赤松政則は嘉吉の乱で滅亡した赤松氏を再興し、応仁の乱で旧領を回復。文化人としても活躍したが、42歳で急逝し、浦上氏台頭のきっかけとなった。
室町時代中期、播磨、備前、美作の三国を領する有力守護大名であった赤松氏は、その歴史において未曾有の断絶の危機に瀕する。嘉吉元年(1441年)、第6代将軍・足利義教による苛烈な諸大名への弾圧と、赤松氏の所領を没収し庶流に与えようとする動きに身の危険を感じた当主・赤松満祐は、ついに将軍暗殺という凶行に及んだ 1 。世に言う「嘉吉の乱」である。
将軍を自邸で謀殺した満祐は、幕府の大軍に追討されることとなる。山名宗全(持豊)を主力とする追討軍の前に、満祐は本国の播磨に籠城するも支えきれず、城山城にて一族郎党と共に自刃 1 。ここに、赤松宗家は事実上滅亡し、その広大な旧領は、追討に功のあった山名氏らに分配された 1 。この結果、山名氏の勢力は幕府を脅かすほどに強大化し、後の世に続く新たな対立の火種が蒔かれることとなった。
この時、満祐の弟であった赤松義雅は、一族の赤松満政に降伏し、自らの子である千代丸(後の時勝、政則の父)の助命を嘆願して自刃した 1 。この義雅の血脈こそが、一度は灰燼に帰した赤松家が、再び歴史の表舞台に登場するための、唯一の細い糸筋となるのである。
赤松政則は、享徳4年(1455年)2月19日、京都の建仁寺で生を受けた 7 。彼は、嘉吉の乱で自刃した義雅の孫、すなわち時勝の子であった。しかし、その誕生は祝福されるべきものではなかった。赤松家は滅亡し、父・時勝は政則が生まれてわずか7ヶ月後にこの世を去り、母もまた早世したと伝えられる 7 。政則は、滅びた家の血を引く孤児として、極めて不遇な幼少期を送ることとなったのである 7 。
赤松家再興の道は、決して平坦ではなかった。政則が生まれる前年の享徳3年(1454年)、同族の赤松則尚が再興の兵を挙げるも、山名宗全によって無残に鎮圧されていた 7 。この事実は、単なる軍事力による旧領回復がいかに困難であるかを物語っていた。
政則の出自は、この絶望的な状況において、二重の意味を持っていた。彼は将軍殺しの首謀者・満祐の直系ではなく、むしろ悲劇的な死を遂げた義雅の血を引く。これは、幕府に対して「反逆者の血統ではない」という一種の清廉性を主張しうる「正統性」の根拠となり得た。しかし同時に、惣領家から見れば傍流であり、両親もいない孤児であるという事実は、彼自身の政治的・軍事的基盤が皆無であることを意味する「脆弱性」でもあった。この「正統性」と「脆弱性」の奇妙な同居こそが、彼を旧臣たちにとって「担ぎやすい御輿」とし、また中央の権力者にとって「操りやすい駒」として、その存在価値を高めていくことになる。
天涯孤独となった幼い政則の養育を担ったのが、赤松家の譜代の家臣であった浦上則宗であった 7 。『浦上美作守則宗寿賛』には、二人が主従として苦楽を共にしたと記されており、この雌伏の時代に培われた強固な絆が、後の赤松家再興を成し遂げる「政則・則宗体制」の原点となった 7 。
しかし、則宗の行動は、単なる忠誠心の発露としてのみ解釈することはできない。則尚の挙兵失敗を目の当たりにし、赤松家再興が至難の業であることを誰よりも理解していたであろう則宗にとって、政則は再興のための唯一無二の「正統な血筋」であった。彼が政則を保護し、養育したことは、赤松家再興という壮大な事業が成功した暁には、自らが家中の実権を掌握することを見越した、極めて戦略的な「未来への投資」であった可能性も否定できない。この主従関係に内包された複雑な力学は、政則の生涯、そしてその後の赤松家の運命を大きく左右していくことになる。
赤松家再興の転機は、播磨の戦場ではなく、大和の深山からもたらされた。嘉吉3年(1443年)、後南朝を奉じる勢力が宮中に乱入し、三種の神器の一つである神璽(八尺瓊勾玉)を奪い去る「禁闕の変」が発生していた 12 。神璽は吉野の山中に持ち去られ、幕府の権威を揺るがす深刻な懸案事項として、十数年の歳月が経過していた 13 。
主家再興の機会を窺っていた赤松家の旧臣たちは、この神璽の奪還に一縷の望みを託した。上月満吉、石見太郎、丹生屋帯刀といった者たちは、再興のためには幕府や朝廷が無視できない「天下の功」を立てる必要があると判断したのである 7 。
彼らは後南朝方に偽って仕官するという大胆な策を取り、一年近くにわたって潜入と情報収集を続けた 7 。そして長禄元年(1457年)12月、ついに決行の時が訪れる。赤松旧臣団は二手に分かれ、吉野の奥深くにある後南朝の行宮を襲撃し、後醍醐天皇の血を引くとされる一の宮(自天王)・二の宮(忠義王)を殺害した 7 。
しかし、作戦は完全な成功には至らなかった。一度は神璽の奪取に成功したものの、現地の郷民たちの抵抗にあい、神璽を奪い返されてしまうという失態を演じる 7 。だが、彼らは諦めなかった。翌長禄2年(1458年)3月、再度奪回作戦を実行し、ついに神璽を確保。同年8月、神璽は京都の朝廷に無事返還された 7 。この一連の事件は「長禄の変」と呼ばれ、赤松家再興の劇的な序幕となった。
赤松旧臣による神璽奪還は、単なる忠義の物語では終わらなかった。この功績に、極めて政治的な価値を見出した人物がいた。当時の管領・細川勝元である。嘉吉の乱以降、旧赤松領を吸収して強大化した山名宗全の勢力は、勝元にとって看過できない脅威となっていた 7 。勝元は、赤松家を再興させ、山名氏への強力な牽制勢力として利用することを画策していたのである。
そこへもたらされた神璽奪還の報は、勝元にとってまさに天佑であった。彼はこの「天下第一の忠賞」に値する功績を大義名分とし、幕府内での反対論を抑え込み、赤松家の再興を強力に後押しした 7 。こうして、赤松家の再興は、旧臣たちの主家への「忠義」というボトムアップの力と、管領・細川勝元の対山名氏への「政略」というトップダウンの力が奇跡的に結実したものであった。
長禄2年(1458年)、幕府は正式に赤松家の再興を承認。当時わずか4歳の赤松政則が家督を継承し、勲功として加賀北半国の守護職、備前新田荘、伊勢高宮保が与えられた 7 。旧領の播磨ではなく、山名氏の直接的な勢力圏から離れた加賀が与えられたことには、勝元の戦略的な意図が透けて見える。いきなり山名氏と全面衝突させるリスクを避け、まずは加賀で赤松氏に力を蓄えさせ、来るべき決戦に備えさせるための布石であった。こうして、滅亡から17年の歳月を経て、赤松家は政則のもとで復活の第一歩を印したのである。
赤松家再興の背後にあった細川・山名の対立は、ついに日本全土を巻き込む大乱へと発展する。応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発すると、赤松政則は再興の恩義ある細川勝元率いる東軍に与した 16 。宿敵・山名宗全が西軍の総帥であったことから、これは必然の選択であった。政則にとってこの大乱は、単なる主君への奉公ではなく、嘉吉の乱で失われた旧領三国(播磨・備前・美作)を奪還するための、またとない好機であった 16 。
乱が始まると、政則は迅速に行動を開始した。家臣の宇野政秀らを播磨へと派遣し、山名方の主力部隊が京都での戦闘に釘付けにされている隙を突いて、電光石火の進撃を開始する 9 。赤松軍は、旧領の国人たちの協力を得ながら、わずかな期間で播磨全域を制圧した 29 。
この成功は播磨に留まらなかった。備前、美作においても、現地の旧赤松方勢力が蜂起し、山名氏が任命した守護代らを駆逐 30 。こうして赤松氏は、乱の混乱に乗じて、旧領三国の実効支配を瞬く間に確立したのである。
この「実力による奪還」という既成事実は、東軍を主導する幕府によって追認された。政則は正式に播磨・備前・美作の三カ国守護に任命され、かつて赤松氏が有した侍所頭人(所司)の地位にも復帰し、四職家として完全復活を遂げた 27 。応仁の乱は、赤松氏にとって、実力行使を幕府の権威によって「正当化」するための、不可欠な政治的プロセスとして機能したのである。
旧領回復作戦が進行する一方で、赤松家は京都においても東軍の主力として重要な役割を果たした。政則の後見役である浦上則宗は、京都で赤松軍を率いて西軍と激戦を繰り広げ、その軍功により侍所所司代に任じられた 32 。これにより、赤松家は幕政の中枢に確固たる足場を築くことに成功した。
この体制は、政則(およびその代官)が「在地」での領国経営と軍事行動に専念し、浦上則宗が「中央」で幕政に関与し軍事指揮を執るという、極めて効率的な役割分担を実現させた。この「二元統治体制」こそが、赤松家が在地での領土回復と中央政界での地位確立を同時に達成できた大きな要因であった。
しかし、この体制は、則宗が幕府という中央の権威を背景に、在地にいる主君・政則とは半ば独立した強大な権力基盤を築くことを可能にした。この時点では効率的に機能した主従の役割分担が、皮肉にも後の主従関係の緊張と、下剋上へと繋がる遠因を内包していたのである。
応仁の乱が終結しても、播磨を巡る赤松・山名の因縁の対決は終わらなかった。山名宗全の跡を継いだ山名政豊は、失われた旧領の回復を宿願とし、播磨への執拗な侵攻を繰り返した 27 。この播磨を舞台とした両者の死闘は、文明15年(1483年)から長享2年(1488年)に至るまで、実に十数年にもわたって続くことになる 30 。
文明15年(1483年)、山名政豊が大軍を率いて播磨に侵攻すると、血気にはやる赤松政則は自ら軍を率いて迎撃に向かった。しかし、真弓峠での合戦において赤松軍はまさかの大敗を喫し、総大将である政則自身が戦場から逃亡し、一時行方不明となるという醜態を晒してしまう 29 。
この敗戦は、赤松家中に深刻な亀裂を生んだ。主君の無様な敗北に失望した家宰・浦上則宗をはじめとする家臣団は、政則を見限り、庶流の有馬氏から新たな当主を擁立して家督を継がせようと画策する 9 。政則は事実上、家臣によって家督を剥奪され、和泉国の堺へ出奔する事態に追い込まれた。これは、もはや家臣が主君を交代させうるという下剋上の論理が、赤松家において現実のものとなった瞬間であり、浦上則宗が名実ともに家中の実権を掌握したことを示す象徴的な事件であった。
だが、この廃嫡の動きは、別所則治ら一部の家臣の反対と、前将軍・足利義政の仲介によって阻止される 33 。政則は則宗と和解し、辛うじて当主の座に復帰することができた。一度は崩壊しかけた赤松家は、内紛を乗り越え、再び宿敵・山名氏との決戦に臨むこととなった。この一連の出来事により、政則の軍事的権威は失墜し、以降の彼は「浦上氏ら有力家臣団に支えられる君主」という立場を甘受せざるを得なくなった。主従の力関係は、もはや不可逆的に変化していたのである。
播磨を巡る長い戦いの最中、政則は新たな本拠地の整備に着手していた。応仁の乱で播磨を奪還した直後の文明元年(1469年)、播磨支配の拠点として、また再興した赤松氏の権威の象徴として、置塩城の築城を開始した 36 。
そして、長享2年(1488年)、ついに山名政豊を播磨から完全に駆逐し、十数年にわたる抗争に終止符を打つと、政則は本格的な領国経営体制の構築に取り掛かった 30 。その統治体制は、政則を君主として頂点に戴きつつも、実際の領国運営は浦上氏、別所氏、龍野赤松氏といった有力な奉行人が分担・連携して行う、一種の集団指導体制であった 7 。これは、守護の権力が絶対的なものではなく、有力な国人領主(被官)とのパワーバランスの上に成り立つ、まさに戦国大名への過渡期的な統治形態であった。政則の治世は、旧来の守護の権威と、実力主義という新たな時代の現実が混在する、まさに「守護大名」と「戦国大名」の狭間に位置していたのである。
表:播磨攻防戦 年表(文明15年~長享2年)
年月 |
主要な出来事(合戦・政治動向) |
結果・影響 |
関連史料ID |
文明15年(1483) |
山名政豊、播磨へ侵攻。真弓峠の戦いで赤松政則軍が敗北。 |
政則は逃亡。浦上則宗らによる政則廃嫡の動き。主従関係の亀裂が表面化。 |
29 |
文明16年(1484) |
足利義政の仲介で政則と則宗が和解。政則が当主復帰。 |
赤松家中の内紛は一時収束。対山名氏の戦線を立て直す。 |
33 |
文明17年(1485) |
赤松方、東播磨を制圧。浦上則宗の子らが戦死するなどの激戦。 |
戦局は赤松優位に転換するも、多大な犠牲を払う。 |
33 |
長享2年(1488) |
浦上宗助が福岡城に入城。山名政豊、播磨から但馬へ完全撤退。 |
十数年にわたる播磨攻防戦が終結。赤松氏による三国支配が確定。 |
30 |
赤松政則は、戦乱に明け暮れる武将であったと同時に、当代一流の文化人としての顔を併せ持っていた。彼は和歌や連歌に秀でており、その高い教養は、文化を愛好した将軍・足利義政から寵愛を受ける一因ともなった 9 。
特に注目すべきは、彼が刀工としても非凡な才能を発揮した点である。大名自らが槌を振るうことは極めて異例であるが、政則は備前長船派の名工・宗光に師事したと伝えられ、自ら鍛えた刀を家臣への恩賞として与えていた記録が複数残っている 25 。この行為は、単なる恩賞を超えた、主君が魂を込めて作り上げたものを下賜するという、主従の精神的な絆を強化するための高度な政治的パフォーマンスであったと解釈できる。彼の文化活動は、単なる個人的な趣味に留まらず、中央の権力者との関係を深め、在地の家臣団を結束させるための、洗練された「政治的ツール」として機能していたのである。
また、仏教への信仰も篤く、法雲寺の僧侶が驚くほどの量の経典を購入していたことも記録されており、その内面の豊かさを物語っている 9 。
政則は、足利義政、義尚、義材(後の義稙)の三代の将軍に仕え、幕府内での地位を巧みに利用して自らの権威を高めた 9 。
その政治手腕が最も発揮されたのが、明応2年(1493年)の「明応の政変」に際しての動きである。この年、管領・細川政元は将軍・足利義材を追放するクーデターを計画。その成功の鍵を握る赤松家の軍事力を自陣営に引き込むため、政元の異母姉(または妹)である洞松院を政則の後妻として嫁がせた 43 。この政略結婚は、輿入れのわずか2日後に政変が勃発するという、露骨なものであった 44 。これにより、赤松家は管領・細川家と強固な姻戚関係を構築し、中央政界におけるその地位を盤石なものとした。
政則の栄華は、明応5年(1496年)に頂点を迎える。この年、彼は武家としては破格の従三位に叙せられた 42 。これは足利一門以外では初の快挙であり、彼の政治的権勢がいかに強大であったかを物語っている 46 。当時の公家の日記には「威勢無双、富貴比肩の輩なし」と記され、その栄光が讃えられている 9 。
しかし、この中央政界における輝かしい成功の裏で、彼の在地支配は常に浦上氏ら有力家臣団の動向に左右されるという脆弱性を抱えていた。従三位という最高の栄誉は、在地における絶対的な軍事力よりも、むしろ中央(幕府・朝廷)の権威に依存することで成り立っていた彼の権力構造を象徴している。政則の栄華は、盤石な基盤の上に築かれたものではなく、巧みな政治バランスの上に成り立つ、危うさを秘めたものであった。
従三位への昇進という栄光の頂点に達してから、わずか2ヶ月後の明応5年(1496年)4月25日、赤松政則の人生はあまりにも突然に幕を閉じた。播磨国加西郡の長円寺(久斗寺)にて、鷹狩りの最中に持病が急激に悪化し、急死したと伝えられる 9 。享年42歳 8 。その死は、栄華の絶頂期であっただけに多くの憶測を呼び、奇しくも彼の命日は、彼が加担した明応の政変によって自害に追い込まれた畠山政長の命日と同じ日であったという因縁が、当時の人々の間で語られている 42 。
政則には実子の男子がおらず、後継者として庶流の七条家から赤松義村を婿養子に迎えていた 10 。政則の死により、まだ若年の義村が家督を継承するが、強大なカリスマを失った赤松家には大きな権力の空白が生じた。この空白を埋めたのは、新たな当主ではなく、後見人となった家宰・浦上則宗と、政則の未亡人であり細川管領家の血を引く洞松院であった 32 。赤松家の実権は、完全に当主の手から離れ、有力家臣と外戚によって掌握されることとなった。
政則の死は、赤松家中の微妙なパワーバランスを決定的に崩壊させた。浦上則宗、そしてその後を継いだ浦上村宗は、主家を凌ぐ権勢を振るい、やがて自立を目指す当主・義村と激しく対立。大永元年(1521年)、村宗はついに義村を謀殺し、赤松家を完全に傀儡化するに至った 48 。ここに、戦国時代の代名詞ともいえる下剋上が完成したのである。
赤松政則は、一度は滅亡した赤松家を再興し、一代で旧領回復と栄華を成し遂げた紛れもない「中興の英主」であった 9 。これが彼の最大の「遺産」である。しかし、その権力基盤は、彼個人の卓越した政治力と、浦上則宗との特殊な人間関係という、極めて属人的な要素に支えられていた。彼は、次世代に継承可能な、制度的に家臣団を統制する強固なシステムを構築する前に、あまりにも早く世を去った。これが彼の「限界」であった。
政則の死は、一個人の才覚に依存した旧来の統治体制の終焉を意味していた。彼の生涯は、室町幕府の古い権威を利用しつつ、絶え間ない実力闘争を続け、そして家臣団との権力争いに苦悩するという、戦国時代初期の守護大名の成功と苦悩、そして最終的な限界を凝縮した典型例と言える。彼の物語は、一個人の伝記を超え、室町から戦国へと移行する時代の肖像そのものを描き出しているのである。