最終更新日 2025-06-04

赤松政秀

赤松政秀は播磨の国人領主。赤松宗家の内紛に介入し、浦上政宗父子を襲撃。黒田孝高に敗れ、足利義昭や織田信長と連携するも、浦上宗景に降伏し毒殺された。
赤松政秀

戦国期播磨の動乱と赤松政秀 ―その生涯と龍野赤松氏の興亡―

1. 序論

赤松政秀(あかまつ まさひで、永正7年(1510年)? - 元亀元年11月12日(1570年12月19日))は、日本の戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、播磨国を舞台に活動した武将である 1 。彼が生きた16世紀中頃の播磨国は、守護大名であった赤松氏の宗家の権威が著しく低下し、その庶流や被官、国人領主たちが互いに勢力を競い合い、また外部からの有力勢力の影響も受けるなど、まさに群雄割拠の様相を呈していた 2 。このような「権力の真空状態」とも言える状況は、在地勢力にとって自立化や勢力拡大の好機をもたらす一方で、絶え間ない抗争と不安定な情勢を生み出していた。赤松政秀も、龍野赤松氏の当主として、この播磨の激動の中で、赤松宗家の内紛や守護代であった浦上氏の台頭、さらには織田信長や毛利氏といった中央・周辺の有力大名の動向に翻弄されつつも、巧みに立ち回り、自家の存続と勢力拡大を図った人物であった。

本報告は、赤松政秀の出自、その生涯における主要な動向、彼を取り巻く複雑な人間関係、拠点とした城、そして人物像や歴史的評価について、現存する史料や近年の研究成果に基づいて詳細に分析し、明らかにすることを目的とする。彼の生涯を追うことを通じて、戦国時代の播磨における権力構造の変動や、地域勢力と中央政権との関係性の一端を浮き彫りにしたい。

2. 赤松政秀の出自と龍野赤松氏

2.1. 赤松氏の略史と龍野赤松氏の成立

赤松氏は、鎌倉時代末期より播磨国を中心に勢力を築き、室町時代には播磨・備前・美作三国の守護職を歴任し、四職の一家に数えられるほどの有力守護大名であった 3 。しかし、嘉吉元年(1441年)に6代将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱により宗家は一時滅亡する 4 。その後、遺臣らの尽力により再興を果たし、応仁の乱(1467年-1477年)では東軍の細川勝元方に属して活躍し、播磨・備前・美作の三国守護に返り咲いた 3

龍野赤松氏は、この再興赤松氏の庶流にあたる。赤松氏中興の祖とされる赤松政則の庶子・赤松村秀が、播磨国龍野の鶏籠山に龍野城を築き、その拠点としたことから始まるとされる 6 6 には、政則が重臣で一族の宇野政秀に、庶子である村秀の後見を託したと記されており、龍野赤松氏の成立における宇野氏の関与が示唆される。この龍野赤松氏は、西播磨に勢力基盤を築き、赤松政秀の代には播磨の政治情勢に大きな影響力を持つ存在へと成長する。

2.2. 父・赤松村秀と政秀の生い立ち

赤松政秀の父は、龍野城主であった赤松村秀である 1 。村秀も宇野下野守と称したとされる 1 。政秀の生年は永正7年(1510年)頃と推定されるが、確証はない 1

天文10年(1541年)、父・村秀が死去すると、政秀は家督を相続し、龍野城主となった 1 。彼もまた、祖父( 1 の記述では「与祖父同样,被称为宇野下野守」とあり、村秀の父か、あるいは村秀自身が宇野下野守を称した宇野政秀のことであれば、その宇野政秀)と同様に「宇野下野守」あるいは単に「宇野政秀」とも称した 1 。この「宇野」の称は、龍野赤松氏が母方の姓を名乗った可能性や、赤松一門内での特定の家格や立場を示すものであった可能性が考えられる。 6 の記述に見られるように、初代村秀の後見人が宇野政秀であったことから、龍野赤松氏と宇野氏との間には密接な関係があったことがうかがえる。

2.3. 政秀の家族

赤松政秀の家族構成は以下の通りである。

  • 兄弟 : 弟に平井祐利、川島頼村がいたとされる 1
  • 正室 : 赤松宗家の当主であった赤松晴政の娘を娶っている 1 。これは、政秀と赤松宗家との関係、そして彼の政治的立場を考える上で極めて重要な点である。庶流である龍野赤松氏が宗家の娘を正室に迎えることは、宗家との連携を強化し、自身の家格を高め、播磨国内における影響力を増すための政略結婚であった可能性が高い。
  • 子女 :
  • 男子には、広貞(弥三郎とも)、斎村政広(さいむらまさひろ、赤松広英とも。後に但馬竹田城主となり、関ヶ原の戦いに関連して悲劇的な最期を遂げる)、そして祐高(すけたか)らがいた 1
  • 女子には、後に室町幕府15代将軍となる足利義昭の侍女となり、さらに織田信長の養女「さこの方」として義昭の側室になったとされる娘がいた 1 。この娘の存在は、政秀の中央政権への接近戦略と深く関わっており、彼の外交手腕の一端を示すものと言える。

これらの家族関係、特に赤松晴政との姻戚関係や、娘を通じた足利義昭との繋がりは、政秀が播磨国内の複雑な権力闘争を生き抜き、さらには中央の政治動向にも影響を及ぼそうとした彼の戦略的な思考を反映していると考えられる。

3. 赤松政秀の生涯と主要な動向

3.1. 家督相続と初期の活動

天文10年(1541年)、父・赤松村秀の死に伴い、赤松政秀は龍野赤松氏の家督を相続した 1 。史料には「智勇優秀」 1 、あるいは「智勇に優れた人物」 9 と評されており、若くしてその才覚は周囲に認められていたようである。この評価が具体的にどのような行動や能力を指すのかは、彼の生涯を通じての事績から検証していく必要がある。

3.2. 赤松宗家との関係:赤松晴政の庇護と赤松義祐との対立

政秀の生涯において、赤松宗家との関係は常に重要な要素であった。永禄元年(1558年)、赤松宗家の当主であった赤松晴政が、守護代の浦上政宗らに擁立された嫡男・赤松義祐によって、宗家の本城である置塩城から追放されるという事件が起こる 1 。この際、政秀は自身の岳父でもある晴政を龍野城に迎え入れ、保護した 1 。この行動は、単に姻戚関係に基づく情誼だけでなく、弱体化した宗家の権威を利用し、播磨国内における自身の発言力を高めようとする政略的な意図があったと考えられる。晴政を擁することで、義祐を支持する浦上政宗らと対抗する大義名分を得ることができたからである。

この結果、義祐が当主となった赤松宗家と、晴政を擁する龍野赤松氏(政秀)は対立関係に入った 13 。晴政は龍野城にあって再起を目指したが、永禄8年(1565年)に死去する 13 。晴政の死後、政秀は一時的に義祐と和睦するものの、その関係は長続きしなかった 9 。政秀は和睦後も利神城を独断で攻撃するなど、宗家の意向を無視した行動をとり続け、再び義祐との対立を深めていく 13

特に、政秀が自身の娘を京にいた足利義昭(後の15代将軍)の侍女として送り込もうとしたことは、義祐との関係を決定的に悪化させた 3 。義祐は、政秀が将軍家と直接結びつくことで、赤松宗家の家督や播磨守護職を奪おうとしているのではないかと強く警戒したのである 13 。このため義祐は、家臣の小寺政職に命じて政秀の娘の上洛を妨害させるとともに、備前の有力者であった浦上宗景に政秀討伐を要請するに至った 13 。この一連の動きは、政秀が単に宗家からの自立を目指すだけでなく、播磨における最高権力者の地位を狙っていた可能性、すなわち「宗家義祐に取って代わらんとする野望」 16 を抱いていたことを示唆している。

3.3. 浦上氏との関係

3.3.1. 浦上政宗との対立と室山城の変

赤松義祐を擁立し、晴政追放の主導的役割を果たした浦上政宗は、政秀にとって直接的な敵対勢力であった 1 。両者の対立は、永禄7年(1564年)または永禄9年(1566年)[資料により年表記に揺れあり]に起こったとされる「室山城の変」で頂点に達する。この事件で、政秀は浦上政宗とその子・清宗の婚礼が執り行われていた室山城を奇襲し、父子を討ち取ったと伝えられている 2

この襲撃事件については、史料によって襲撃者が赤松晴政であったとする説(『備前軍記』 18 )と、赤松政秀であったとする説(『播磨鑑』など 20 )が存在するが、多くの資料は政秀を実行犯としており、赤松氏の再興、あるいは浦上氏の勢力削減を狙った政秀の大胆な行動であったと考えられる 1

また、この室山城の変は、黒田官兵衛(孝高)との因縁を生む事件としても知られる。清宗の許嫁は黒田職隆の娘(官兵衛の妹または養女とされる)であり、婚礼の日に花嫁まで命を落とした(あるいは難を逃れたともされる)ことから、黒田氏は政秀に対して深い遺恨を抱いたとされる 2 。この事件は、政秀の「勇」を示す一方で、結果的に新たな敵を作り出し、自身の立場を危うくする要因ともなった。

3.3.2. 浦上宗景との抗争と降伏

浦上政宗の死後、その弟(または一族)である浦上宗景が備前を中心に急速に勢力を拡大し、政秀の新たな強敵として立ちはだかった 1 。政秀は当初、宗景に主君として仕えていた時期もあったようだが 1 、やがて両者は播磨の覇権を巡って激しく争うことになる。

前述の通り、赤松義祐の要請を受けた浦上宗景は、備前・美作の兵を率いて政秀の領地である西播磨へ侵攻した 13 。政秀はこれに抗戦するが、永禄12年(1569年)の青山・土器山の戦いにおいて、小寺政職の家臣であった黒田孝高(官兵衛)の巧みな戦術の前に、兵力で優勢であったにも関わらず大敗を喫し、多くの有力家臣を失った 1 。この手痛い敗戦により軍事力を大きく削がれた政秀は、同年11月、ついに浦上宗景に降伏を余儀なくされ、西播磨における覇権を失うこととなった 1

3.4. 中央政権との連携:足利義昭、織田信長との関係

播磨国内での勢力争いが激化する中で、政秀は中央政権との連携を模索する。永禄10年(1567年)頃、当時まだ流浪の身であった足利義昭(一乗院覚慶)からの協力要請に応じ、誼を通じ始めた 9 。これは、「上月文書」などの史料によって確認されている 16

永禄11年(1568年)、織田信長の強力な軍事力を背景に足利義昭が上洛し、室町幕府第15代将軍に就任すると、政秀はこの新たな中央権力との結びつきを強化しようと画策する。具体的には、自身の娘を義昭付きの侍女として京へ送り込もうとしたのである 3 。この行動は、将軍との個人的な繋がりを通じて、播磨国内での自身の立場を有利にし、ひいては宿敵である赤松義祐や浦上宗景を牽制する狙いがあった。

しかし、この政秀の動きは、赤松義祐の強い反発を招き、浦上宗景による政秀攻撃を誘発する結果となった。追い詰められた政秀は足利義昭に救援を求め、これを受けた義昭は織田信長に播磨出兵を促した 3 。信長は池田勝正ら摂津の諸将を中心とした軍勢を播磨に派遣し、これに東播磨の別所安治らも加わった連合軍が赤松義祐の領地を攻撃した。この織田軍の介入は一時的に政秀を窮地から救ったが、同時に播磨の情勢に織田信長という強大な外部勢力が直接的に関与するきっかけとなり、結果として播磨全体が信長の強い影響下に置かれることになった 3 。政秀の中央政権を利用しようとする戦略は、短期的には成功を収めたものの、長期的には播磨の独立性を損ない、より大きな権力の渦に巻き込まれる結果を招いたと言える。

3.5. 播磨国内における抗争

3.5.1. 小寺氏・黒田氏との対立(青山・土器山の戦いなど)

赤松政秀は、赤松義祐に従う御着城主・小寺政職や、その家臣であった姫路城代の黒田職隆・孝高(官兵衛)親子と激しく対立した 1 。特に永禄12年(1569年)5月から6月にかけて行われた青山・土器山の戦いは、両者の対立を象徴する戦いであった。

この戦いで、政秀は3,000の兵を率いて姫路城攻略を目指したが、黒田孝高はわずか300程度の兵でこれに立ち向かった 13 。孝高は、まず姫路城の西方、青山に兵を伏せ、進軍してきた赤松軍を奇襲して撤退させることに成功する(青山の戦い) 13 。その後、体勢を立て直した政秀軍は小丸山に布陣し、黒田軍は夢前川東岸の土器山(瓦山とも)に陣を構えた。戦闘は赤松軍の夜襲から始まり、黒田軍は叔父の井手友氏や母里小兵衛といった有力な武将を失うなど苦戦を強いられた。しかし、夜が明けると英賀城主三木通秋の援軍が到着し、さらに姫路から黒田職隆が出撃して赤松軍の背後を突いたことで、黒田軍は危機を脱した。昼までの戦闘では赤松軍が優勢を保ったものの、孝高は長期戦は不利と判断し、同夜に小丸山の赤松軍本陣を強襲した。この夜襲は赤松軍の意表を突き、混乱した赤松軍は敗走。衛藤忠家・島津蔵人ら多くの将兵が討ち死にし、政秀は大敗を喫したのである(土器山の戦い) 13

この青山・土器山の戦いでの敗北は、政秀の軍事力を著しく低下させ、その後の浦上宗景への降伏に繋がる大きな要因となった。また、この戦いは黒田官兵衛の智将としての名を高めるきっかけともなった。

3.5.2. 別所氏との同盟関係

一方で、政秀は東播磨に勢力を持つ三木城主・別所安治とは同盟関係を結び、共通の敵である小寺氏や浦上氏に対抗しようとした 1 。織田信長が政秀救援のために播磨に軍を派遣した際には、別所安治・重宗父子も織田・赤松政秀方に加わり、赤松義祐の領地を攻撃している 13 。この同盟は、播磨国内の複雑な勢力図の中で、政秀が生き残りをかけて築いた重要な外交関係の一つであった。

3.6. その他の周辺勢力(三好氏、毛利氏など)との関わり

政秀が活動した時期、畿内では三好長慶とその一族が強大な勢力を誇っており、また西国からは毛利元就が勢力を伸張しつつあった。これらの広域勢力と政秀が直接的に大規模な戦闘や強固な同盟関係を結んだ記録は乏しい。

三好氏に関しては、浦上宗景が三好三人衆の家老であった篠原長房と協力して毛利氏と戦った記録があり 24 、政秀が浦上氏と敵対していた時期には、浦上氏と三好氏の連携が政秀にとって脅威となる可能性は常に存在した。

毛利氏については、政秀の岳父であった赤松晴政が晩年に毛利元就に接近して体制の再建を図ろうとしたが実現しなかった経緯がある 3 。また、政秀の宿敵であった浦上宗景は、一時期毛利元就と同盟を結んでいた 25 。政秀自身が毛利氏と積極的に連携したという記録は少ないが、永禄12年(1569年)に毛利元就が織田信長に援軍を要請した際、政秀が足利義昭に助けを求めて織田の摂津衆が援軍に向かったという状況があり 26 、毛利氏と織田氏の対立構造の中で、政秀が間接的にその影響を受けていたことがうかがえる。

政秀の外交戦略は、主に播磨国内のライバル勢力と、中央の足利将軍家・織田信長に向けられており、三好氏や毛利氏といった広域勢力との直接的かつ積極的な連携は史料上明確ではない。これは、彼の活動範囲と影響力が主に播磨国内に限定されていたこと、あるいはこれらの大勢力との直接交渉よりも、中央政権を介した間接的な影響力行使を重視していた可能性を示唆している。

表1:赤松政秀 関連年表

年代(和暦/西暦)

主要な出来事

関連人物

典拠(S_*)

永正7年(1510年)?

赤松政秀、誕生(未確証)

赤松村秀

1

天文10年(1541年)

父・赤松村秀死去、政秀が家督相続

赤松村秀

1

永禄元年(1558年)

赤松晴政が義祐に追放され、政秀が晴政を保護

赤松晴政、赤松義祐、浦上政宗

1

永禄7年(1564年)/永禄9年(1566年)

室山城の変。政秀、浦上政宗・清宗父子を襲撃

浦上政宗、浦上清宗、黒田官兵衛の妹(とされる)

9

永禄8年(1565年)

赤松晴政死去。政秀、義祐と一時和睦

赤松晴政、赤松義祐

9

永禄10年(1567年)

足利義昭と誼を通じ始める

足利義昭

13

永禄11年(1568年)

足利義昭が将軍就任。政秀、娘を義昭の侍女に。義祐、浦上宗景に政秀攻撃を要請

足利義昭、赤松義祐、浦上宗景

3

永禄12年(1569年)

青山・土器山の戦い。黒田孝高に敗北。浦上宗景に降伏

黒田孝高、浦上宗景、小寺政職、別所安治

13

元亀元年(1570年)11月12日

浦上宗景の命により毒殺されたとされる

浦上宗景

120

表2:赤松政秀 主要関連人物とその関係

主要関連人物

赤松政秀との関係

主要な関わり・出来事

典拠(S_*)

赤松晴政

岳父、庇護対象

義祐による追放後、政秀が保護。政秀の政治的立場に影響。

1

赤松義祐

宗家当主、対立

晴政追放後、政秀と対立。政秀の将軍家への接近を警戒し、浦上宗景に政秀攻撃を要請。

9

浦上政宗

敵対勢力

義祐を擁立し晴政を追放。政秀により室山城で襲撃され死亡。

1

浦上宗景

当初主君、後に敵対、最終的に政秀を降伏させ、暗殺したとされる

政秀の宿敵。青山・土器山の戦い後、政秀を降伏させる。政秀毒殺の黒幕説あり。

1

足利義昭

連携相手(室町幕府15代将軍)

政秀は娘を侍女として送り込み関係強化。政秀は義昭に救援を要請。

9

織田信長

連携相手(中央の覇者)

義昭の要請で政秀に援軍派遣。結果的に播磨への影響力を強める。

3

小寺政職

敵対勢力(赤松義祐配下)

御着城主。黒田氏の主君として政秀と対立。

2

黒田孝高(官兵衛)

敵対勢力(小寺政職家臣)

青山・土器山の戦いで政秀軍を破る。室山城の変で妹(とされる)が犠牲になった遺恨。

2

別所安治

同盟相手(東播磨の有力者)

三木城主。政秀と結び小寺氏や浦上氏に対抗。織田軍の播磨介入時には政秀と共に義祐領を攻撃。

9

4. 赤松政秀の拠点

4.1. 龍野城主としての政秀

赤松政秀は、その生涯を通じて播磨国龍野の鶏籠山(けいろうさん)に築かれた龍野城を本拠地とした 1 。龍野城は、明応8年(1499年)に政秀の父である赤松村秀によって築かれたとされ、以後、政秀、そしてその子である広貞、広秀(斎村政広)へと受け継がれた 7 。龍野城は、西播磨における龍野赤松氏の権力基盤であり、政秀が播磨の複雑な政治状況の中で独立した勢力として活動するための重要な拠点であった。その地理的条件や城の構造が、彼の戦略にどのように影響したかは興味深い点である。

天正5年(1577年)、羽柴秀吉による播磨平定の過程で、龍野城は開城し、赤松氏の手を離れることとなる 7 。その後、蜂須賀正勝や福島正則といった豊臣系の大名が城主となり、江戸時代には脇坂氏が入部し、山麓部分に陣屋形式の城郭として再建された 6

4.2. 置塩城との関わり

置塩城は、播磨守護赤松氏の宗家の本城であり、文明元年(1469年)に赤松政則によって築城されたと伝わる 5 。赤松政秀自身が置塩城主となったわけではないが、宗家の内紛を通じて深く関与した。特に、赤松宗家の当主であった赤松晴政が、その嫡男・義祐によって置塩城から追放された際、政秀は晴政を自身の居城である龍野城に保護した 1 。このことは、政秀が宗家の権威を背景に、あるいは宗家の混乱に乗じて、播磨国内での影響力を高めようとした戦略の一環と見ることができる。晴政は龍野城で政秀の庇護を受けつつ、置塩城への復帰を目指したと考えられるが、その願いは叶わなかった。置塩城は、政秀にとって直接の支配拠点ではなかったものの、赤松一門の動向、ひいては播磨全体の政治情勢を左右する上で、常に意識せざるを得ない重要な城であった。

5. 赤松政秀の人物像と評価

5.1. 史料に見る「智勇」の評価と具体的な行動

赤松政秀は、複数の史料において「智勇優秀」 1 、あるいは「智勇に優れた人物」 9 と評されている。この評価は、彼の生涯におけるいくつかの重要な行動から裏付けられる。

「勇」の側面としては、永禄年間における浦上政宗・清宗父子の室山城襲撃が挙げられる 2 。敵対勢力の中核を、その婚礼の隙を突いて急襲し排除しようとしたこの行動は、極めて大胆かつ危険を伴うものであり、彼の勇猛さを示している。また、青山・土器山の戦いにおいても、自ら軍を率いて黒田軍と対峙しており 13 、武将としての気概を持っていたことがうかがえる。

「智」の側面としては、まず赤松宗家の内紛に乗じた戦略的な立ち回りが挙げられる。岳父である赤松晴政を保護し 1 、その権威を利用しつつ自身の勢力拡大を図った。また、中央政権との連携を重視し、足利義昭や織田信長といった時の実力者と積極的に外交交渉を行った点は、彼の知略の一端と言えるだろう 3 。播磨国内においても、別所氏と同盟を結ぶなど 9 、状況に応じた外交戦略を展開していた。

しかし、これらの「智勇」が常に成功に結びついたわけではない。室山城の襲撃は浦上宗景という新たな強敵を生み、黒田氏の恨みを買う結果となった。また、青山・土器山の戦いでは、兵力で優勢であったにも関わらず黒田孝高の奇策の前に敗北を喫しており 13 、戦略・戦術面での限界も露呈した。中央政権との連携も、結果として織田信長の播磨介入を招き、自身の独立性を脅かすことにも繋がった。したがって、政秀の「智勇」は、戦国乱世を生き抜くための積極性と大胆さを示すものであったが、同時にそれが彼の破滅を早めた両刃の剣であった可能性も否定できない。

5.2. 戦国武将としての統治能力と限界

赤松政秀は、龍野赤松氏を率い、一時は西播磨において大きな影響力を持つまでに勢力を拡大した。これは、彼に一定の統率力や軍事組織力があったことを示している。多くの合戦を経験し、外交交渉を重ねたことから、彼が当時の播磨において無視できない存在であったことは確かである。

しかし、彼の統治の限界も明らかである。浦上宗景との抗争に最終的に敗れ、西播磨の覇権を失ったことは、彼の勢力基盤の脆弱さや、長期的な戦略の欠如を示しているのかもしれない。領国経営や家臣団統制に関する具体的な史料は乏しく、その手腕を詳細に評価することは難しい 27 。播磨国内の複雑な人間関係や勢力バランスを完全に掌握するには至らず、最終的にはより大きな勢力に飲み込まれていった。

5.3. 近年の研究における政秀像

近年の戦国史研究、特に渡邊大門氏による赤松氏に関する研究は、赤松政秀像にも新たな光を当てている。渡邊氏の著作『戦国期赤松氏の研究』では、第一部の第一章で「西播守護代赤松政秀の権力形成過程」と題し、龍野赤松氏の系譜、守護代としての権力の確立過程、そしてその権力構造について詳細な分析がなされている 30

これらの研究は、従来の「赤松氏衰退論」、すなわち赤松宗家が一方的に衰退し、浦上氏のような家臣に下剋上されるという単純な図式から脱却し、守護・守護代・国人といった各階層が、それぞれ地域権力として自立化していく過程として戦国期の播磨を捉え直そうとする視点を提供している 30 。この文脈において赤松政秀は、衰退する守護赤松氏の権威を利用しつつも、それに完全に依存するのではなく、西播磨における守護代として独自の権力基盤を築き上げ、自立した地域権力者として行動した人物として位置づけられる。彼の行動は、守護権力が形骸化していく中で、守護代という立場から如何に実効支配を確立し、維持しようとしたかという、戦国期の地方権力のダイナミズムを体現する事例として評価され得る。

6. 赤松政秀の最期と龍野赤松氏のその後

6.1. 毒殺説とその背景

永禄12年(1569年)11月に浦上宗景に降伏し、西播磨の覇権を失った赤松政秀は、その翌年、元亀元年11月12日(西暦1570年12月19日)に死去した 1 。その死因については、毒殺されたとする説が有力である 1

史料的根拠としては、「書写山十地坊過去帳」に「依毒死去」(毒に依り死去す)と明確に記されていることが挙げられる 20 。また、 16 では「法華経寺文書」にも毒殺を示唆する記述がある可能性に言及している。

毒殺の黒幕については、浦上宗景であったと考えられている 1 。政秀は降伏したとはいえ、その「智勇」は宗景にとって依然として脅威であり、将来の禍根を断つために暗殺という手段を選んだ可能性が高い。戦国時代においては、一度敗れた有力な武将が再起することを恐れ、完全に排除しようとするのは珍しいことではなかった。公然と処刑するよりも、毒殺という手段は反発を招きにくく、密かに事を運べるという利点もあったであろう。政秀の非業の死は、戦国時代の権力闘争の非情さを物語っている。

6.2. 子・斎村政広(赤松広秀)、赤松祐高らの動向と龍野赤松氏の終焉

赤松政秀の死後、龍野赤松氏の家督は嫡男とされる広貞が継いだとされるが、その後の詳細は不明瞭である 7

政秀の子で、より詳細な事績が伝わっているのは斎村政広(さいむら まさひろ、赤松広秀とも)である。彼は後に但馬竹田城主となったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、当初西軍に属しながらも東軍に寝返った。しかし、戦後、鳥取城攻めの際に城下町を焼き払ったことなどを理由に、徳川家康から自害を命じられた 3 。この処分については、亀井茲矩による讒言であったとする冤罪説も根強く存在する 3 。西軍から東軍に寝返った大名の中で死罪となったのは斎村政広の事例だけであり、その背景には複雑な政治的事情があったと考えられる。

また、政広の弟である赤松祐高(あかまつ すけたか)は、兄の死後、各地を流浪した末、慶長19年(1614年)からの大坂の陣において豊臣方として参陣し、奮戦したが、豊臣氏の敗北と共に戦死、あるいは自刃したと伝えられる 3

これらの出来事により、戦国大名としての龍野赤松氏は実質的に滅亡した 3 。政秀個人の敗北と死に留まらず、その子孫たちもまた、関ヶ原の戦いや大坂の陣といった戦国時代の終焉を告げる大きな戦乱の中で、悲劇的な運命を辿ったのである。これは、中央集権化の波の中で多くの地方勢力が淘汰されていく過程の一例と言えるだろう。

7. 結論

赤松政秀は、播磨国という限定された地域を舞台に、守護赤松氏宗家の衰退と守護代浦上氏の台頭、そして織田信長に代表される中央勢力の伸長という、まさに戦国時代の縮図のような激動の中で、龍野赤松氏の当主として自家の存続と勢力拡大に智勇を尽くした武将であった。

彼の生涯は、時には旧主を庇護し、時には宗家と対立し、またある時は浦上氏に仕え、そして敵対し、さらには足利将軍家や織田信長といった中央の権力と結びつくなど、目まぐるしく変化する状況に対応しようとした戦国武将の典型的な姿を映し出している。室山城の変における浦上政宗父子の暗殺や、黒田官兵衛との青山・土器山の戦いといった劇的な出来事は、播磨の戦国史における重要な転換点であり、彼の行動がその後の勢力図に少なからぬ影響を与えたことは疑いない。

「智勇に優れた」と評される一方で、その野心や攻撃性は多くの敵を作り、最終的には宿敵浦上宗景によって毒殺されるという非業の最期を遂げた。彼の敗北と、その後の龍野赤松氏の滅亡は、戦国乱世の非情さと、より大きな権力構造へと移行していく時代の中で、一地方勢力が持ちえた力の限界を示すものであった。

しかし、近年の渡邊大門氏らの研究によって、赤松政秀は単なる「裏切り者」や「野心家」、あるいは「没落する赤松氏の一員」という一面的な評価から解き放たれつつある。彼は、守護権力が形骸化していく中で、守護代という立場から西播磨に独自の地域権力を確立しようと主体的に活動した人物として再評価されるべきである。その行動は、伝統的な「忠義」や「裏切り」といった価値観のみで測るのではなく、戦国時代特有の「実力主義」や「勢力均衡」の中で、いかに自家の存続と発展を図ろうとしたかという観点から理解する必要がある。赤松政秀のような地域領主の動向を丹念に追うことは、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の統一事業が、地方レベルでどのような影響を与え、どのような抵抗や協力を生んだのかを具体的に理解する上で、極めて重要であると言えよう。

8. 主要参考文献

本報告書の作成にあたっては、以下の資料群を参照した。

  • 一次史料・編纂史料(言及されているもの)
  • 『播磨鑑』
  • 「書写山十地坊過去帳」
  • 「上月文書」
  • 『備前軍記』
  • 『赤松家播備作城記』
  • 『石山日記』
  • 『備前池田家文書』
  • 『細川両家記』
  • 『黒田如水伝』
  • 『小寺政職家中記』
  • 『足利季世記』
  • 『陰徳太平記』
  • 『信長公記』
  • 『兼見卿記』
  • 「法華経寺文書」
  • 二次史料(研究書・論文など)
  • 渡邊大門『戦国期赤松氏の研究』(岩田書院、2010年)
  • 渡邊大門『中世後期の赤松氏―政治・史料・文化の視点から―』(日本史史料研究会、2011年)
  • その他、各ウェブサイト資料( 1 28 1 22 )に記載されている参考文献。
  • 参照ウェブサイト資料
  • 1 28
  • 1 22
  • (具体的なURLは省略)

引用文献

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  2. 黒田官兵衛と播磨 - 山陽電車 https://www.sanyo-railway.co.jp/kanbee/?post_type=column
  3. 赤松氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F
  4. e-Bizen Museum <戦国武将浦上氏ゆかりの城> - 備前市 https://www.city.bizen.okayama.jp/soshiki/33/558.html
  5. 赤松氏城跡 置塩城跡 | 姫路市 - 姫路市役所 https://www.city.himeji.lg.jp/kanko/0000001839.html
  6. 村秀没して子の政秀が龍野城主を継いだ。この当時の守護赤松晴政の権威は地に落ち、守護代浦上氏や重臣小寺氏(御着城)の台頭が著しく http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kinki/tatsuno.j/tatsuno.j.html
  7. 龍野城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%87%8E%E5%9F%8E
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  9. 赤松政秀とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%94%BF%E7%A7%80
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  11. 赤松晴政- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%99%B4%E6%94%BF
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  13. 青山・土器山の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E3%83%BB%E5%9C%9F%E5%99%A8%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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  20. 鶏籠山城 旧龍野市 | 山城攻略日記 https://ameblo.jp/inaba-houki-castle/entry-12811064666.html
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  23. 播磨における 黒田官兵衛(如水)の足跡 - NOBUSAN BLOG - FC2 http://19481941.blog.fc2.com/blog-entry-139.html
  24. 浦上宗景とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%AE%97%E6%99%AF
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  26. 1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1568/
  27. 赤松氏の家臣団構成 - 落穂ひろい http://ochibo.my.coocan.jp/rekishi/akamatu/aka_kashinkosei.htm
  28. 赤松家の再興、戦国時代へ - 武楽衆 甲冑制作・レンタル https://murakushu.net/blog/2020/12/24/akamatsu3/
  29. 武将の墓 https://kajipon.com/haka/h-bujin3.htm_
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  34. 播磨雑記帳その3 - GUREsummit https://guresummit.sakura.ne.jp/syashinkan3.html
  35. 赤松氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F