最終更新日 2025-06-04

赤松晴政

赤松晴政は播磨の守護大名。浦上村宗を討ち実権を回復するも、尼子氏侵攻や家臣の離反に苦慮。晩年は嫡男義祐に追放された。
「赤松晴政」の画像

赤松晴政:播磨の戦国武将、その苦闘と権勢の変遷

1. はじめに

赤松晴政(あかまつ はるまさ)は、日本の戦国時代において、播磨国を中心に備前・美作の守護を務めた赤松氏の第11代当主である 1 。彼の生きた時代は、室町幕府の権威が大きく揺らぎ、各地で守護大名がその家臣や周辺の国人領主によってその地位を脅かされる、いわゆる下剋上が頻発した激動の時代であった。晴政の治世もまた、有力家臣である浦上氏の台頭、尼子氏や三好氏といった強大な隣接勢力の侵攻、そして一族内部の深刻な対立といった、戦国期特有の幾多の困難に見舞われた。

本報告は、赤松晴政の生涯と彼が残した事績を、現存する史料や近年の研究成果に基づいて多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。特に、彼の権力基盤の形成と変遷、主要な合戦における動向、周辺勢力との外交関係、そして最終的な権勢の失墜に至る過程を詳細に追うことで、戦国時代における守護大名の一つの典型としての赤松晴政像を明らかにしたい。

本報告を作成するにあたり、基礎史料として『赤松記』などの軍記物や各種古文書を参照する。また、近年の赤松氏研究、特に渡邊大門氏や畑和良氏らによる戦国期赤松氏に関する詳細な研究成果は、晴政の人物像や彼を取り巻く政治状況を理解する上で不可欠な視座を提供するものである 1 。これらの史料と研究を丹念に読み解くことで、晴政の苦闘と権勢の変遷を浮き彫りにする。

まず、赤松晴政の生涯における主要な出来事を概観するために、以下に略年表を提示する。

表1: 赤松晴政 略年表

年代(和暦)

年代(西暦)

主要な出来事

典拠例

明応4年または永正10年

1495年または1513年

生誕(幼名:才松丸、道祖松丸、初名:政村)

1

永正17年

1520年

父・赤松義村が浦上村宗に隠居させられ、家督を相続(8歳説あり)

1

大永元年

1521年

父・義村が浦上村宗に殺害される

1

享禄4年

1531年

大物崩れの戦い。細川晴元と結び、浦上村宗を討ち、父の仇を討つ

1

天文6年~8年

1537年~1539年

尼子詮久(晴久)の播磨侵攻。一時、淡路、堺へ逃亡

1

天文10年頃

1541年頃

将軍・足利義晴より偏諱を受け、「政村」から「晴政」に改名

1

天文21年

1552年

幕府が尼子晴久を備前・美作守護職に任命。晴政は両国の守護権限を喪失

1

永禄元年

1558年

嫡男・義祐(小寺政職らが後援)のクーデターにより置塩城を追放される

1

永禄8年1月16日

1565年2月16日

死去。龍野城にて没したとされる。墓所は姫路市松安寺跡

1

この略年表からも、赤松晴政の生涯が、幼少期から晩年に至るまで、絶え間ない権力闘争と内外からの脅威にさらされ続けた、まさに波乱に満ちたものであったことが窺える。以降の章では、これらの出来事をより詳細に検討していく。

2. 赤松晴政の出自と家督相続

生誕と家系

赤松晴政は、室町時代から戦国時代にかけて播磨・備前・美作の三国を守護として支配した名門、赤松氏の血筋を引く人物である。幼名は才松丸(さいまつまる)、あるいは道祖松丸(どうそまつまる)と伝えられ、通称は次郎、初めは政村(まさむら)と名乗った 1 。父は赤松氏第10代当主の赤松義村(あかまつ よしむら)である 1

晴政の生年については、史料によって記述が異なり、主に二つの説が存在する。一つは明応4年(1495年)説、もう一つは永正10年(1513年)説である 1 。家督相続が永正17年(1520年)であることから逆算すると、永正10年説を採用した場合、晴政はわずか8歳で家督を継いだことになる 1 。この生年の違いは、晴政の初期の経歴、特に家督相続時の彼の立場や周囲からの認識を考察する上で重要な意味を持つ。仮に1495年生まれであれば、家督相続時には25歳となり、ある程度の主体性を持って事態に対応できた可能性も考えられる。しかし、1513年生まれであれば、文字通り幼君であり、周囲の有力者、特に守護代であった浦上氏の完全な傀儡として擁立されたという側面がより強く浮かび上がってくる。どちらの説が正しいか断定することは難しいが、多くの史料が家督相続時の若年性を指摘している点は留意すべきである。

家督相続の経緯

晴政が赤松氏の家督を相続したのは、永正17年(1520年)のことである 1 。この家督相続は平穏なものではなく、父・義村が、当時赤松家中で大きな勢力を有していた守護代の浦上村宗(うらがみ むらむね)との権力闘争に敗れ、強制的に隠居させられた結果であった 1 。この時、晴政は前述の通り、わずか8歳であったとも伝えられている 1

さらに悲劇的なことに、隠居を余儀なくされた父・義村は、翌大永元年(1521年)9月、浦上村宗に対して再度の反攻を試みるも失敗し、村宗によって殺害されてしまう 1 。これにより、晴政は幼くして父を失い、かつその仇敵である浦上村宗の強い影響下に置かれるという、極めて困難な状況でその治世を開始することになった。

この父・義村の失脚と死は、単に赤松家の当主が交代したという以上の意味を持っていた。それは、赤松家内部における守護権力の著しい低下と、家臣であるはずの守護代勢力による主家への挑戦、すなわち下剋上の動きが顕在化したことを象徴する出来事であった。晴政のその後の生涯は、この失われた権威と実権を取り戻し、不安定な領国を統治するための苦闘の連続であったと言える。彼の治世の初期におけるこの過酷な経験は、後の彼の行動原理や、彼が直面した数々の困難の根源を理解する上で、看過できない重要な背景となっている。

3. 浦上氏との確執と勢力回復への道

浦上村宗の専横と晴政の苦境

父・義村の死後、幼くして家督を継いだ赤松晴政であったが、播磨・備前・美作の守護という名目上の地位とは裏腹に、実権は完全に守護代の浦上村宗によって掌握されていた 8 。一部の記録によれば、村宗は晴政を置塩城(おきしおじょう、現在の兵庫県姫路市)に軟禁状態に置き、自らの意のままに操ろうとしたとされる 9 。この時期の晴政は、村宗の傀儡として、その政策を追認するだけの無力な存在であった可能性が高い。守護としての権威は名ばかりとなり、赤松家の領国運営は浦上氏の手によって行われていたのである。

大物崩れの戦いと浦上村宗の討伐

しかし、晴政は父を殺害した浦上村宗への遺恨を忘れていなかった。雌伏の時を経て、彼は反撃の機会を窺っていた。その好機が訪れたのは享禄4年(1531年)のことである。当時、畿内では管領の地位を巡り、細川高国(ほそかわ たかくに)と細川晴元(ほそかわ はるもと)が激しく対立していた。浦上村宗は細川高国方に与し、摂津国へ出陣した 1

晴政はこの状況を巧みに利用する。彼は密かに細川晴元と連絡を取り、連携を約束した 1 。そして、同年6月4日、摂津国天王寺周辺で行われた「大物崩れ(だいもつ くずれ)」と呼ばれる合戦の最中、晴政は突如として高国・村宗軍を裏切り、その背後から攻撃を仕掛けたのである 1 。この予期せぬ挟撃により高国・村宗軍は大混乱に陥り、壊滅的な打撃を受けた。浦上村宗はこの戦いで討死し、細川高国もまた逃亡の末に自害へと追い込まれた 1

この大物崩れにおける晴政の劇的な勝利は、彼にとって大きな意味を持った。長年の宿敵であり、父の仇であった浦上村宗を討ち果たしたことで、積年の恨みを晴らすとともに、播磨における赤松氏の実権をある程度回復することに成功したのである 1 。この行動は、単なる個人的な復讐に留まらず、畿内の政治勢力図をも大きく塗り替える結果をもたらした。晴政が、複雑な政治状況を読み解き、大胆な戦略的判断を下せる人物であったことを示す出来事と言えるだろう。しかしながら、この勝利は細川晴元との連携があって初めて成し遂げられたものであり、晴政の権力基盤が依然として他勢力との協力関係に依存していたこともまた事実であった。

浦上政宗・宗景兄弟との継続的な抗争

浦上村宗の死によって、赤松氏と浦上氏の間の対立が終息したわけではなかった。村宗には政宗(まさむね)と宗景(むねかげ)という二人の息子がおり、彼らは父の遺志を継いで赤松氏への抵抗を続けた 1 。晴政は守護としての権威を回復し、播磨における支配を確固たるものにしようと試みたが、浦上兄弟の勢力は依然として侮りがたく、両者の間にはその後も断続的な戦闘が発生した。

天文3年(1534年)には、姫路近郊の朝日山で晴政軍と浦上軍が衝突するなど、播磨国内での争いは絶えなかった 1 。浦上氏は、単に一人の指導者の死によって瓦解するような脆弱な組織ではなく、播磨国内に深く根を張った在地勢力としての力を持っていたのである。晴政は、守護という立場にありながら、旧守護代の一族を完全に排除することができなかった。この事実は、戦国時代における守護大名の権力が、かつてのような絶対的なものではなくなり、国内の有力な国人領主との力関係の中でかろうじて維持されていたことを示している。

永禄7年(1564年)には、晴政が刺客を放って浦上政宗を殺害したという記録も残っているが 9 、これによって赤松氏が決定的な優位を確立できたわけではなく、浦上氏との対立構造そのものが解消されたわけではなかった。むしろ、このような強硬手段に訴えなければならなかったこと自体が、晴政が正規の軍事力だけでは浦上氏を完全に制圧できなかった苦境を物語っているとも解釈できる。赤松氏の勢力回復は、依然として限定的なものに留まっていたのである。

4. 周辺勢力との攻防と外交

尼子氏による播磨侵攻と晴政の対応

浦上氏との内紛に明け暮れる赤松領に対し、新たな脅威が西から迫った。天文6年(1537年)12月、中国地方の雄、出雲国の尼子詮久(あまご あきひさ、後の尼子晴久)が、播磨国へと大軍を率いて侵攻を開始したのである 1 。この尼子氏の侵攻は、ただでさえ不安定だった赤松氏の領国支配を根底から揺るがすものであった。

播磨国内では、尼子氏の強大な軍事力を背景に、宍粟郡の宇野村頼(うの むらより)をはじめとする国人領主たちが次々と晴政を見限り、尼子方に寝返った 1 。主君に対する忠誠よりも、自領の安堵と勢力の維持を優先する国人たちの現実的な判断が、晴政を一層苦境へと追い込んだ。家臣団の離反が相次いだことは、晴政の求心力に限界があったこと、そしてより強大な外部勢力になびく国人たちの動向を制御できなかったことを示している。

晴政は、この危機的状況に対し、まず高砂城(たかさごじょう、現在の兵庫県高砂市)の梶原氏を頼った。しかし、ここでも重臣であった小寺則職(こでら のりもと)らの裏切りに遭い、播磨国内に留まることができず、淡路国へと逃亡を余儀なくされた 1 。さらに天文8年(1539年)には、阿波細川氏の援助を得て播磨への再上陸を試み、明石郡の枝吉城(えだよしじょう)を攻略するなど一時的な反撃を見せた。しかし、最後まで尼子勢に抵抗していた三木城(みきじょう、現在の兵庫県三木市)の別所氏までもが尼子方に内通したとの噂が流れると、晴政は再び播磨を追われ、和泉国堺へと退避せざるを得なくなった 1

播磨国内に安全な拠点を確保できなかった晴政の苦境は明らかであった。しかし、事態は思わぬ形で好転する。天文9年(1540年)から翌10年(1541年)にかけて、尼子氏が安芸国(現在の広島県西部)の毛利元就(もうり もとなり)の居城である吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)を攻めたものの、毛利氏と大内氏の連合軍の前に大敗を喫したのである(吉田郡山城の戦い) 1 。この敗戦により尼子氏の勢力は大きく後退し、播磨からも撤退した。これにより、赤松領の危機はひとまず去ったが、それは晴政自身の力によるものではなく、外部要因によるものであった点は、赤松氏の自力回復の限界を示唆している。

足利将軍家との関係と「晴政」への改名

尼子氏の脅威が去った天文10年(1541年)頃、晴政は室町幕府第12代将軍・足利義晴(あしかが よしはる)から偏諱(へんき、「晴」の字)を賜り、それまでの「政村」という名から「晴政」へと改名した 1 。これは、将軍の権威を借りて自らの立場を強化し、失墜した赤松氏の権威を回復しようとする狙いがあったと考えられる。戦国時代においても、将軍からの偏諱は武家にとって名誉なことであり、一定の政治的影響力を持っていた。

しかし、この改名や幕府との関係強化が、晴政の実質的な勢力回復に直結したわけではなかった。その証左として、天文21年(1552年)には、足利幕府が尼子晴久を備前・美作の守護職に任じるという事態が発生する 1 。これにより、晴政は赤松氏が伝統的に保持してきたこの二国の守護としての公的な権限を喪失することになった。この出来事は、将軍家が必ずしも晴政を一貫して支持していたわけではなく、むしろ中国地方の有力大名である尼子氏の懐柔を優先するなど、より大きな政治的枠組みの中で判断を下していた可能性を示唆している。将軍からの偏諱は名目的な権威付けにはなったものの、戦国時代の厳しい現実の中では、実質的な軍事力や経済的支援を伴わない限り、その効果は限定的であったと言わざるを得ない。

細川氏、三好氏との関係性の変遷

赤松晴政の治世は、畿内の政治動向と密接に連動していた。前述の通り、享禄4年(1531年)の大物崩れにおいては、細川晴元と結ぶことで宿敵・浦上村宗を討伐するという大きな成果を上げた 1 。これは、畿内の有力者との連携が、播磨国内の勢力争いにも大きな影響を与え得ることを示すものであった。

しかし、その後の畿内情勢は、細川晴元政権内部で三好長慶(みよし ながよし)が急速に台頭することで、より一層複雑な様相を呈していく 11 。三好長慶は主君である細川晴元を凌駕する勢力を築き上げ、畿内の覇権を掌握するに至る。このような畿内中央の政局変動は、隣接する播磨国にも当然ながら大きな影響を及ぼした。

天文23年(1554年)には、晴政の嫡男である赤松義祐(あかまつ よしすけ)が、三好長慶と通じ、その勢力を背景に播磨国内の明石氏や別所氏を攻撃するという動きが見られる 13 。この時期、晴政自身と三好氏との直接的な関係を示す史料は乏しいものの、息子の義祐が三好氏と連携していたという事実は、赤松家内部においても、畿内のどの勢力と結びつくべきかについて、意見の対立や路線の変更があった可能性を示唆している。畿内の覇権を握った三好氏の動向は、播磨の国人領主たちにとっても無視できないものであり、彼らが誰に味方するかという判断は、赤松氏の家臣団統制を一層困難なものにしたと考えられる。赤松氏は、畿内の有力者との関係を巧みに利用しようとしたが、逆にその複雑な権力闘争に巻き込まれ、領国経営の安定を欠く要因ともなったのである。

小寺氏など、その他の播磨国内外の在地勢力との連携と対立

赤松晴政の治世において、播磨国内の有力な国人領主との関係は、常に流動的であった。中でも、姫路を拠点とした小寺(こでら)氏は、赤松氏の分家筋にあたり、代々赤松氏の重臣として仕えてきた家柄であった 24 。晴政の家臣である小寺政職(こでら まさもと)は、晴政から偏諱(「政」の字)を受けており、形式的には主従関係が確認されていた 24

しかし、このような名目的な主従関係は、戦国時代の厳しい現実の前では必ずしも絶対的なものではなかった。例えば、前述の尼子氏による播磨侵攻の際には、小寺則職(政職の父)が晴政を裏切り、尼子方に与するという事態が発生している 1 。これは、国人領主たちが、主家への忠誠よりも自らの勢力維持や拡大という現実的な利益を優先した行動原理を示している。

さらに後年、この小寺政職は、晴政の嫡男である義祐を擁立し、晴政を置塩城から追放するクーデターにおいて中心的な役割を果たすことになる 1 。主君から偏諱を受けた人物が、その主君を追放する側に回るという事実は、戦国時代における主従関係の複雑さと非情さを如実に物語っている。

一方で、晴政は失脚後も完全に政治の舞台から姿を消したわけではなかった。晩年には、安芸の毛利氏や、播磨北部および美作の在地領主であった嵯峨山(さがやま)氏、広戸(ひろと)氏、豊福(とよふく)氏などと連携し、何らかの形で領国経営に関与しようとしていたことが史料から窺える 1 。これは、晴政が追放された後も、一定の影響力を保持し、再起の機会を模索していた可能性を示唆している。しかし、これらの連携も限定的なものであり、かつての三国守護としての権勢を取り戻すには至らなかった。晴政の治世は、家臣や分家筋の国人領主との間で、連携と対立、忠誠と裏切りが繰り返される、まさに戦国時代そのものを象徴するような様相を呈していたのである。

5. 領国経営の試みとその限界

播磨・備前・美作三国守護としての領国支配の実態

赤松晴政は、父・義村から播磨・備前・美作の三国守護職を継承した 1 。しかし、その広大な領域を実効支配することは、彼の治世を通じて極めて困難な課題であり続けた。守護職という伝統的な権威は、戦国時代の激しい権力闘争と下剋上の嵐の中で、次第にその実質を失いつつあった。

晴政の領国は、常に内外からの脅威にさらされていた。国内では、守護代であった浦上氏が強大な勢力を持ち、しばしば晴政の支配に公然と挑戦した。また、小寺氏や別所氏といった他の有力国人も、必ずしも晴政に一様に服従していたわけではなく、自立的な動きを見せることがあった 1 。国外からは、西の尼子氏、畿内の三好氏といった強大な戦国大名が播磨に侵攻、あるいは影響力を行使し、赤松氏の領国支配を脅かした。

このような状況下で、晴政が三国守護としての実権を十分に振るうことは難しかった。特に備前・美作においては、その支配力は播磨に比べてさらに限定的であったと考えられる。そして、天文21年(1552年)には、室町幕府が尼子晴久を備前・美作の守護職に正式に任命するという決定的な出来事が起こる 1 。これにより、晴政はこれら二国に対する公的な守護権限を失い、赤松氏の伝統的な支配領域は名実ともに縮小した。これは、守護職というものが、もはや実効支配を保証するものではなくなり、幕府の承認や周辺の有力大名との力関係によって容易に変動しうる、相対的なものへと変質していたことを示している。

一部の史料では、晴政が幕府の権威を背景として何とか守護としての求心力を保とうとし、側近の奉行人を中心とした親政(当主直轄の政治体制)を布くことに成功した側面も指摘されている 8 。これは、強大化する家臣団や国人層の力を抑制し、自身の直接的な支配力を強化しようとする試みであったと解釈できる。しかし、その効果は限定的であり、領国全体の安定化や支配権の確立には至らなかったと言わざるを得ない。

家臣団の統制と離反の動き

戦国時代の守護大名にとって、家臣団の統制は領国経営における最重要課題の一つであった。しかし、赤松晴政の治世においては、この家臣団の掌握に終始苦慮した。父・義村の代からの有力家臣であった浦上氏の台頭は、晴政にとって最大の懸案事項であり続けた。浦上氏は守護代という立場を超えて実力を蓄え、時には主家である赤松氏を脅かす存在となっていた。

浦上氏以外にも、小寺氏や別所氏といった播磨国内の有力な国人領主たちは、晴政の支配に対して必ずしも一枚岩ではなかった 1 。彼らは自らの所領の維持・拡大を第一とし、状況に応じて晴政に協力することもあれば、離反して敵対勢力と結ぶこともあった。例えば、東播磨の守護代であった別所氏が離反した際には、晴政は畿内の有力者であった三好長慶の協力を得てこれを鎮圧しようと試みた記録も残っている 8

晴政は、これらの家臣や国人の離反・自立化の動きに対し、時には武力をもって鎮圧しようとし、時には妥協や連携を模索するなど、様々な対応を試みた。しかし、家臣団全体に対する絶対的な統制力を確立することは、ついに叶わなかった。晴政自身の求心力に限界があったことに加え、尼子氏や三好氏といった外部勢力が播磨国内の対立に介入することで、家臣団の分裂と自立化の動きはさらに加速した。この家臣団統制の失敗が、結果として赤松氏の勢力衰退を招く大きな要因となったのである。

6. 権勢の失墜と晩年

嫡男・義祐(小寺政職らの後援)による追放と赤松惣領家の分裂

赤松晴政の治世は、最終的に最も身近な存在であるはずの嫡男によって終焉を迎えることとなる。永禄元年(1558年)8月、晴政の嫡男であった赤松義祐が、有力家臣の小寺政職らの後援を受けてクーデターを起こし、晴政は本拠地としていた播磨置塩城から追放されたのである 1

この事件は、単なる親子間の個人的な対立に留まるものではなかった。それは、赤松家内部の権力構造の大きな変化と、小寺氏に代表される有力国人領主たちの影響力増大を象徴する出来事であった。義祐を新たな当主として擁立することで、国人たちはより自分たちの意向を反映させやすい政治体制を築き、自らの発言権を強化しようとした動きと解釈できる。晴政が長年にわたり、浦上氏や尼子氏といった外部の敵対勢力との戦いに明け暮れ、国内の統制にも苦慮してきた結果、家中の求心力が著しく低下していたことが、このクーデターを成功させた背景にあったと考えられる。

この追放劇により、赤松惣領家は晴政方と義祐方に分裂し、播磨守護としての赤松家の権威は決定的に失墜した。かつて三国守護として広大な領域を支配した赤松氏は、これにより一地方権力へと凋落していくことになる 1 。皮肉なことに、かつて父の仇である浦上村宗を討ち、一時的に実権を回復した晴政自身が、今度は実の息子によってその地位を追われるという結末を迎えたのである 17 。これは、戦国時代の非情さと、権力闘争の厳しさを如実に物語っている。

娘婿・赤松政秀の庇護下での活動と最期

置塩城を追われた晴政であったが、完全に政治の舞台から姿を消したわけではなかった。彼は、娘婿であり、西播磨の龍野城(たつのじょう、現在の兵庫県たつの市)を拠点とする有力な一族、赤松政秀(あかまつ まさひで)を頼り、その庇護下に入った 1

赤松政秀は、追放された晴政を擁立し、義祐とその背後にいる小寺政職らに対抗する姿勢を見せた。晴政は政秀の支援のもと、播磨北部や隣国の美作に新たな勢力基盤を築こうと試み、中国地方の雄である毛利氏や、現地の在地領主であった嵯峨山氏、広戸氏、豊福氏などと連携して、なおも領国経営に関与しようと活動した記録が残っている 1 。これは、晴政が失脚後も完全に無力化したわけではなく、一定の影響力を保持し、再起の機会を最後まで模索していたことを示している。

しかし、これらの活動も限定的なものであり、かつての三国守護としての栄光を取り戻すには至らなかった。また、政秀が晴政を庇護した背景には、元当主である晴政の権威を利用して自らの勢力を拡大し、播磨国内での影響力を高めようとする政秀自身の思惑も含まれていた可能性が高い。両者の関係は、晴政の復権への願いと、政秀の野心とが絡み合った、相互依存的なものであったと推察される。

結局、晴政は復権を果たせないまま、永禄8年(1565年)1月16日、失意のうちに龍野城でその生涯を閉じたと伝えられている 1

墓所

赤松晴政の墓所は、兵庫県姫路市夢前町宮置(みやおき)にある松安寺(しょうあんじ)跡に現存している 1 。墓石は五輪塔であり、その地輪には、戒名「常照院殿前左京兆天柱性煕大禅定門(じょうしょういんでんぜんさけいちょうてんちゅうしょうきだいぜんじょうもん)」と、没年である「永禄八乙丑年正月十六日」の文字が刻まれている 1

追放された身でありながら、その墓所が明確に残り、戒名や没年が具体的に伝えられているという事実は、晴政が歴史から完全に抹殺されたわけではなく、その死後も一族や旧臣によって一定の敬意をもって弔われたことを示唆している。松安寺は赤松氏ゆかりの寺院であった可能性が高く、彼の生涯を記憶し、後世に伝えるための物理的な証拠として、その墓石は今日まで残されているのである。

7. 赤松晴政の評価

同時代及び後世における評価

赤松晴政に対する評価は、彼の置かれた困難な状況と、その結果としての治世の帰趨を反映し、一様ではない。一部の史料や研究では、「晴政に対する後世の評価は厳しい」と指摘されている 8 。これは、彼が最終的に領国を縮小させ、家中の統制にも苦慮し、嫡男によって追放されるという結末を迎えたことに起因するものであろう。

しかしながら、一方で異なる側面からの評価も存在する。同じく 8 は、「幕府権力を背景として何とか守護としての求心力を保ち、長年にわたって側近奉行人による親政を布くことに成功している」点を挙げており、完全に無力であったわけではないことを示唆している。また、 17 は晴政を「生涯にわたって赤松家のために奮闘し続けた苦労人」と評しており、彼が直面した数々の困難な状況下での粘り強さや、家運再興への努力を評価する見方も存在する。

戦国大名としての力量と限界

赤松晴政の戦国武将としての力量を測る上で、いくつかの重要な局面を挙げることができる。父の仇であり、赤松家の実権を簒奪していた浦上村宗を、細川晴元との連携という外交戦略と、大物崩れにおける大胆な軍事行動によって討ち果たした手腕は、彼の戦略的な判断力と行動力を示すものとして特筆に値する。

しかし、その後の治世においては、浦上氏の残存勢力や、尼子氏、三好氏といった強大な外部勢力に対して、しばしば劣勢に立たされ、領国の維持に終始苦心した。特に尼子氏の播磨侵攻時には、家臣の離反が相次ぎ、自身も播磨を追われて淡路や堺へ逃亡するという屈辱を味わっている。

また、最も重要な課題であったはずの家臣団の掌握においても、浦上氏のみならず、小寺氏や別所氏といった有力国人の離反や自立化の動きを抑えることができず、最終的には嫡男・義祐にその地位を奪われるという結果を招いた。これらの事実は、晴政の求心力や統率力には限界があったことを示唆していると言わざるを得ない。

赤松晴政の生涯は、戦国時代における守護大名が、下剋上という時代の大きな潮流の中で、いかにして生き残りを図ろうとし、そしてその多くがその波に呑まれていったか、その典型的な事例の一つとして位置づけることができる。彼の評価は、単に「成功した大名」か「失敗した大名」かという二元論で断じるべきではない。むしろ、守護という伝統的権威が急速に失墜していく過渡期において、旧来の権威と実力主義が支配する新たな時代の狭間で苦闘した人物として捉えるべきであろう。彼の生涯は、戦国時代における「守護大名」という存在そのものの変質と、その多くが辿った終焉の過程を象徴していると言えるかもしれない。

8. おわりに

赤松晴政の生涯の総括

赤松晴政の生涯は、まさに波乱に満ちたものであった。幼少にして父を権臣に殺害され、傀儡として家督を継承するという苦難の出発。長じて宿敵・浦上村宗を討ち果たし、一時的にせよ赤松氏の権勢回復を成し遂げたものの、その後は尼子氏の侵攻、家臣団の離反、そして畿内の政争の余波といった、絶え間ない内外の脅威にさらされ続けた。そして晩年には、実子にその地位を追われるという悲劇的な結末を迎えた。しかし、追放後も完全に政治の舞台から退場したわけではなく、再起を期して活動を続けた形跡も見られる。彼の生涯は、戦国という時代の非情さと、その中で必死に生き抜こうとした一人の武将の苦闘の軌跡そのものであった。

歴史的意義の考察

赤松晴政の生涯は、戦国時代史研究において重要な示唆を与えてくれる。第一に、彼の治世は、室町時代から続く守護大名という存在が、戦国時代という新たな時代の中でどのように変質し、あるいは解体していったのかを具体的に示す好例である。伝統的な権威だけでは領国を維持できず、実力本位の国人領主や外部勢力との複雑な力関係の中で、かろうじてその地位を保とうとした守護大名の姿がそこにはある。

第二に、浦上氏や小寺氏といった家臣団との関係は、戦国時代における下剋上の実態を如実に示している。主家への忠誠よりも自家の存続と発展を優先する家臣たちの動向は、当時の武士の現実的な行動原理を反映しており、主従関係の流動性と複雑さを物語っている。

第三に、尼子氏や三好氏、毛利氏といった周辺の強大な戦国大名との外交・軍事関係は、一地方勢力であった赤松氏が、より大きな政治的・軍事的枠組みの中でいかに翻弄され、あるいはそれを利用しようとしたかを示している。

赤松晴政の奮闘と挫折の物語は、単なる一個人の歴史に留まらず、戦国という時代の構造的特徴と、その中で生きる武将たちが抱えた普遍的な課題を浮き彫りにする。

今後の研究への展望

赤松晴政に関しては、その生涯の多くの側面が史料によって明らかにされてきているものの、未だ解明されていない点も残されている。例えば、彼の正確な生年については依然として諸説があり、確定には至っていない。また、一部の外交関係や領国経営の具体的な実態についても、さらなる史料の発見や分析が待たれる。今後の研究の進展によって、赤松晴政の人物像や彼が生きた時代が、より詳細かつ立体的に解明されていくことが期待される。

表2: 赤松晴政 関係主要人物一覧

分類

人物名

関係性の概要

典拠例

親族

赤松義村(あかまつ よしむら)

父。浦上村宗に殺害される。

1

赤松義祐(あかまつ よしすけ)

嫡男。後に父・晴政を追放し家督を相続。

1

赤松政秀(あかまつ まさひで)

娘婿。龍野城主。晴政追放後、彼を庇護した。

1

主要家臣/被官

浦上村宗(うらがみ むらむね)

赤松氏の守護代。晴政の父・義村を殺害し、晴政を傀儡として実権を握る。後に晴政に討たれる。

1

浦上政宗(うらがみ まさむね)

村宗の子。晴政と対立。後に晴政の刺客により殺害されたとされる。

1

浦上宗景(うらがみ むねかげ)

村宗の子、政宗の弟。兄と共に晴政と対立。

1

小寺則職(こでら のりもと)

赤松氏家臣。尼子氏侵攻時に晴政を裏切る。

1

小寺政職(こでら まさもと)

則職の子。晴政から偏諱を受ける。後に晴政の嫡男・義祐を擁立し、晴政追放のクーデターを主導。

1

得平定阿(とくひら さだあみ/じょうあ)

『赤松記』の著者とされる人物。赤松氏の家臣であった可能性。

2

敵対/同盟関係

細川高国(ほそかわ たかくに)

管領。浦上村宗が与した。大物崩れで晴政・細川晴元軍に敗れ自害。

1

細川晴元(ほそかわ はるもと)

管領。大物崩れで晴政と連携し、高国・村宗を破る。

1

尼子詮久/晴久(あまご あきひさ/はるひさ)

出雲の戦国大名。播磨に侵攻し、晴政を脅かす。

1

三好長慶(みよし ながよし/ちょうけい)

畿内の戦国大名。晴政の嫡男・義祐が連携。

13

毛利元就(もうり もとなり)

安芸の戦国大名。晴政が晩年に連携したとされる。

1

その他

足利義晴(あしかが よしはる)

室町幕府第12代将軍。晴政に「晴」の字(偏諱)を与える。

1

引用文献

  1. 赤松晴政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%99%B4%E6%94%BF
  2. 群書類従|世界大百科事典|ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=218
  3. www.iwata-shoin.co.jp http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho1099.htm
  4. 戦国・織豊期 赤松氏の権力構造 - 岩田書院 http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-880-6.htm
  5. 天文・弘治内乱と赤松晴政 : 「小南文書」と戦国期赤松氏の動向 - CiNii Research https://cir.nii.ac.jp/crid/1520572359000414080
  6. 戦国・織豊期 赤松氏の権力構造 岩田選書 : 渡邊大門 | HMV&BOOKS online https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%B8%A1%E9%82%8A%E5%A4%A7%E9%96%80_200000000717718/item_%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%83%BB%E7%B9%94%E8%B1%8A%E6%9C%9F-%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%8A%9B%E6%A7%8B%E9%80%A0-%E5%B2%A9%E7%94%B0%E9%81%B8%E6%9B%B8_6065562
  7. 小寺政職とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E5%B0%8F%E5%AF%BA%E6%94%BF%E8%81%B7
  8. 赤松晴政 - 落穂ひろい http://ochibo.my.coocan.jp/rekishi/akamatu/harumasa.htm
  9. 赤松晴政 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/AkamatsuHarumasa.html
  10. e-Bizen Museum <戦国武将浦上氏ゆかりの城> - 備前市 https://www.city.bizen.okayama.jp/soshiki/33/551.html
  11. 細川晴元 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/hosokawa-harumoto/
  12. 大物崩れ/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11089/
  13. 赤松義祐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E7%BE%A9%E7%A5%90
  14. 龍野城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.tatsuno.htm
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  16. 赤松晴政(あかまつ はるまさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%99%B4%E6%94%BF-1048967
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  18. 尼子晴久~毛利元就のライバル - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4603
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  20. 三好長慶 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
  21. 歴史の目的をめぐって 三好長慶 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-32-miyosi-nagayosi.html
  22. 戦国の世と丹波Ⅲ https://www.tanba-mori.or.jp/wp/wp-content/uploads/3c21c92384cd047be5568af8719b1d3c.pdf
  23. 10分で読める歴史と観光の繋がり 戦国乱世の礎となった英雄・三好長慶、今川義元、斉藤道三、織田信秀/ゆかりの世界遺産石見銀山と鉄砲伝来、霊山富士登山、尾張津島天王祭 他 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2022/04/01/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%81%AE%E7%B9%8B%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%80%80%E4%B9%B1%E4%B8%96%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A%E7%AC%AC/
  24. 小寺政職 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%BA%E6%94%BF%E8%81%B7
  25. 小寺が赤松を名乗らず、黒田が小寺を名乗る意味を分かっているのか(大河ドラマ考169,官兵衛① https://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-11747418673.html
  26. 青山・土器山の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E3%83%BB%E5%9C%9F%E5%99%A8%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  27. 赤松政秀 - 落穂ひろい http://ochibo.my.coocan.jp/rekishi/akamatu/itizoku/masahide.htm
  28. 第146回 洞松院のころの置塩 | 学芸員コラム - 兵庫県立歴史博物館 https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/curator/12404/
  29. 堀尾氏邸宅跡(No.1) - 松江市 https://www.city.matsue.lg.jp/material/files/group/2/joukaku.pdf
  30. 参考資料(軍記) http://ochibo.my.coocan.jp/rekishi/shiryo/shiryo3.htm