最終更新日 2025-06-04

赤松村秀

赤松村秀は播磨の戦国武将。赤松政則の庶子(または則貞の孫)で、宇野政秀の養子となり龍野城主。播磨の有力者として活動したが、天文9年に死去した。
「赤松村秀」の画像

赤松村秀に関する調査報告

序章:赤松村秀という人物

本報告書の目的と概要

本報告書は、戦国時代の播磨国にその名が見える武将、赤松村秀について、現存する史料や研究成果に基づき、その出自、事績、人物像を多角的に明らかにし、歴史的文脈の中に位置づけることを目的とする。特に、その生涯における不明瞭な点や諸説ある部分について、慎重な検討を加える。

赤松村秀に関する基本情報

赤松村秀は、赤松家臣であり、一説には播磨守護・赤松政則の庶子とされる人物である。政則の娘婿である赤松義村が赤松本家を継いだため、塩屋城主・宇野政秀の養子となり、後に龍野城主となったと伝えられている 1 。この概要は、村秀を巡る基本的な伝承を指し示しているが、その背景には複雑な人間関係や当時の政治状況が絡み合っている。村秀の養子縁組は、単に庶子の処遇という個人的な事情に留まらず、赤松家内部の権力バランス、特に義村政権の安定化や、宇野氏のような有力家臣との連携強化といった、より大きな政治的意図が潜んでいた可能性が考えられる。戦国時代において、庶子の存在は時として家督相続を巡る紛争の火種となり得るため、有力家臣の養子とすることは、村秀自身の立場を安定させると同時に、義村政権にとっても潜在的な不安定要因を管理し、宇野氏の支持を取り付ける効果があったと推察される。

第一部:赤松村秀の出自と家系

第一章:赤松政則との関係 — 庶子説とその他の説

史料に見る政則庶子説の検討

赤松村秀の出自に関しては、赤松政則の庶子として生まれ、幼くして塩屋城主・宇野政秀に託されたとする説が、複数の文献で確認できる 1 。この説は、政則の死後、家督を継いだ娘婿の赤松義村との関係性を考察する上で重要な視点を提供する。例えば、ある史料には、村秀は政則の庶子であったが、政則死去の際はわずか4歳であり、生まれてすぐに宇野政秀に託されたため、跡継ぎとは見なされていなかったようである、との記述が見られる 4

赤松氏の系図に関連する情報として、赤松義村の兄弟分として「龍野家」の項目に村秀の名が見える場合があるが 6 、これが直ちに村秀を政則の子と断定する直接的な証拠となるわけではない。政則が庶子である村秀を跡継ぎとしなかった背景には、いくつかの可能性が考えられる。一つには、娘婿である義村を後継者とすることで、義村の出身家である七条家との連携を優先したという政治的な判断があったかもしれない。また、村秀が極めて幼少であったため、戦国乱世において家督を継承し、家中を統率するには有力な後見人が不可欠であり、その現実的な解決策として宇野政秀への養子入りが選択された可能性も否定できない 4 。このような状況は、当時の赤松本家が抱えていた後継者問題の複雑性と、庶子という立場の不安定さを物語っている。

その他の出自に関する説(則貞実孫説など)の紹介と比較

一方で、赤松村秀の出自については、政則の庶子とする説とは大きく異なる説も存在する。特に注目されるのが、村秀は政則の子ではなく、龍野赤松氏の赤松則貞(宇野政秀の子)の実孫であるとする説である 2 。この説の典拠とされるのが『鵤荘引付』であり、そこには大永5年(1525年)に村秀が祖父である則貞を龍野城内で自ら殺害し、龍野赤松氏の家督を継承したという衝撃的な内容が記されているという。

この二つの出自説、すなわち政則庶子説と則貞実孫説(特に祖父殺害説を含む)は、村秀の赤松本家との血縁的な距離、そして龍野赤松氏継承の正当性という点において、根本的な違いを生じさせる。もし則貞殺害説が事実であるとすれば、村秀の人物像はより複雑で、権力志向の強い側面が浮かび上がってくる 2 。政則庶子説では、村秀は本家の血を引くものの正統な後継者争いからは外れた存在として、宇野氏の養子となることで勢力基盤を得るという経緯を辿る。対して則貞実孫説では、龍野赤松氏という分家の直系であり、本家との血縁はやや遠のく。祖父殺害という行為は、家督継承への強い意志と、当時の下剋上という時代風潮を色濃く反映している可能性がある。『鵤荘引付』という史料の信頼性や記述の解釈が、この問題を考察する上での鍵となる。ある研究では、廉直な人柄とされる村秀が祖父殺害に至った背景には、赤松家内部の長年の混乱があり、その対策を巡って則貞と対立した結果ではないかとの見方も示されている 7 。どちらの説に重きを置くかによって、村秀の生涯や行動の解釈は大きく左右されることになる。

第二章:宇野政秀(高枕軒性喜)の養子として

養子縁組の経緯と時期に関する考察

赤松村秀の養父とされる宇野政秀は、高枕軒性喜とも号し、赤松氏の一族で赤松則祐の6世の孫にあたる塩屋城主であった 8 。彼が村秀を養子とした具体的な時期については明確な史料に乏しいが、赤松政則の死去(明応5年/1496年)前後、村秀がまだ幼少であった頃と推測されることが多い 4

宇野政秀は、嘉吉の乱で一度没落した赤松家の再興に尽力した人物であり、播磨国において山名氏の勢力に対抗する中心的な役割を担った。応仁の乱においても東軍に属して戦功を挙げ、明応8年(1499年)に赤松家中で発生した東西取合合戦の際には、赤松義村を擁する浦上則宗を自らの居城である塩屋城に匿い、幕府に働きかけて和睦を成立させるなど、家中での影響力は非常に大きかったと記録されている 8 。宇野政秀は文亀2年(1502年)に没したとされている 8

宇野氏と赤松村秀

宇野氏は、村上源氏の末裔を称し、赤松氏とは同系統の氏族であると伝えられる 10 。赤松円心の三男・則祐の子である赤松義則の時代には、西播磨の守護代に任じられ、一時は8つの郡を支配するほどの勢力を有していた 10 。赤松村秀がこの宇野政秀の養子となったことは、後に龍野赤松氏が成立する上で、また西播磨における宇野氏の勢力継承という観点からも、重要な意味を持っていたと考えられる。

宇野政秀にとって、赤松政則の庶子(あるいは赤松則貞の孫)である村秀を養子に迎えるという行為は、単に後継者を得るというだけでなく、自らの家格を高め、赤松家内での発言力を一層強化するという戦略的な意図があった可能性が否定できない。また、村秀を後継者の一人と位置づけることで、宇野氏の勢力基盤を龍野方面へと拡大するための足がかりとしたとも考えられる 1 。特に、龍野城の築城(明応8年/1499年頃)と、そこに村秀が城主として入ったという伝承 1 は、宇野氏の勢力圏拡大、あるいは龍野赤松氏という新たな地域権力の確立を象徴する出来事と解釈できる。宇野政秀の没年(1502年)を考慮すると、彼は自らの晩年に、村秀を核とした西播磨における新たな支配体制の構築を構想していたのかもしれない。

第三章:赤松義村との関係

義兄弟としての関係性(政則庶子説の場合)

赤松村秀が赤松政則の庶子であるという説に立てば、政則の娘婿として赤松本家の家督を継いだ赤松義村は、村秀にとって義兄にあたる存在となる 4 。義村は幼少で家督を継承したため、当初は守護代の浦上則宗や義母である洞松院(政則未亡人)の影響下に置かれたが、成長するにつれて親政を目指し、家中における権力強化を図った。しかし、この動きは有力家臣であった浦上村宗との深刻な対立を引き起こし、最終的に義村は村宗によって暗殺されるという悲劇的な結末を迎えることになる 5

偏諱「村」の字について

赤松村秀の名の「村」の字は、赤松義村から与えられた偏諱であるとの記述が見られる 2 。偏諱の授与は、主君が家臣に対して名の一字を与える行為であり、両者の間に一定の主従関係、あるいはそれに準ずる緊密な関係があったことを示すものと考えられる。これは、義村政権下において、村秀が一定の臣従関係にあったか、あるいは義村が村秀を自らの勢力圏内に取り込もうとした証左と解釈することも可能である。

さらに、史料『鵤荘引付』には、永正13年(1516年)に行われた斑鳩寺の修理に際して、赤松義村、赤松村秀、そして浦上村宗がそれぞれ10貫文ずつを寄進したという記録が残されている 23 。この共同での寄進という事実は、当時の播磨国内において、これら三者が並び立つ有力者として認識され、一定の協力関係、あるいは勢力を有していたことを示唆している。

九条家領田原荘代官としての活動

赤松村秀の活動を示す具体的な史料として、『九条家文書』の存在が挙げられる。この文書群の中には、大永元年(1521年)から大永2年(1522年)にかけて、赤松村秀が九条家の所領であった播磨国田原荘の代官職に補任され、荘園の管理運営に関する書状のやり取りを行っていた記録が含まれている 24

注目すべきは、この時期が義村の娘婿であり赤松本家を継いだ赤松義村が浦上村宗によって暗殺された直後(大永元年9月)にあたるという点である。本家当主が不在もしくは幼少(義村の子・晴政)という混乱期に、村秀が播磨国内で一定の支配権を行使し、遠く離れた中央の有力公家である九条家の荘園管理を任されるほどの立場にあったことは、彼が単なる一地方武将ではなく、地域の実力者として中央からも認識されていた可能性を示している。

偏諱の授与や共同での寺社への寄進は、義村と村秀の間に一定の主従関係、あるいは協力関係が存在したことをうかがわせる。そして、田原荘代官職への補任は、義村暗殺後の混乱期において、村秀が龍野の地を拠点として独自の勢力を形成しつつあり、その実力が中央の権門からも認められていたことを示唆していると言えよう 2

表1:赤松村秀 関連年表

年号(西暦)

赤松村秀の動向

赤松本家の動向

播磨国・周辺情勢

典拠史料例

明応2年(1493年)

生誕(政則庶子説の場合) 2

赤松政則、播磨・備前・美作守護

明応5年(1496年)

4月、赤松政則急死。婿養子の義村が家督相続 5

明応6年(1497年)

(平井城築城、村秀移住説 11

『斑鳩引付』 11

明応8年(1499年)

龍野城(鶏籠山城)築城(宇野政秀が村秀のため) 1

義村、浦上則宗と共に宇野政秀の塩屋城へ逃れる(東西取合合戦) 8

播磨国東西取合合戦

文亀2年(1502年)

10月、宇野政秀(高枕軒性喜)死去 8

永正3年(1506年)

塩屋城主として塩屋城へ移住 11

『斑鳩引付』 11

永正13年(1516年)

赤松義村、浦上村宗と共に斑鳩寺に寄進 23

赤松義村、浦上村宗と対立深まる

『鵤荘引付』 23

永正15年(1518年)

赤松義村と浦上村宗の内紛本格化 5

永正16年(1519年)

(赤松則貞と合戦寸前の対立 7

赤松義村、浦上村宗に敗北重ねる

(『鵤荘引付』 7

大永元年(1521年)

12月、九条家領播磨国田原荘代官に補任 24

9月、赤松義村、浦上村宗に暗殺される。晴政(才松丸)が擁立される 5

『九条家文書』 24

大永5年(1525年)

祖父・赤松則貞を龍野城内で殺害し龍野赤松氏を継承(則貞実孫説の場合) 2

『鵤荘引付』 2

享禄4年(1531年)

(浦上政宗らと赤松晴政に抵抗か 27

赤松晴政(政祐)、大物崩れで浦上村宗を裏切り討ち取る 28

大物崩れ、浦上村宗戦死

天文9年(1540年)

9月2日、死去。享年48 2

『播磨鑑』 11

表2:赤松村秀の出自に関する諸説一覧

説の名称

概要

主な根拠史料・文献

提唱者・支持者(もしあれば)

各説の蓋然性・課題

赤松政則 庶子説

播磨守護・赤松政則の庶子として生まれ、義村の家督相続後に宇野政秀の養子となった。

4 1 5 2 など。義村からの偏諱の事実 2

複数の編纂物や二次史料で言及。

政則の死の時点で村秀が幼少(4歳)であったこと 4 、義村との年齢差、宇野政秀への養子縁組の具体的な経緯など、詳細な一次史料による裏付けが待たれる。

赤松則貞 実孫説(則貞殺害説含む)

龍野赤松氏の赤松則貞(宇野政秀の子)の実孫であり、大永5年(1525年)に祖父・則貞を龍野城内で殺害して龍野赤松氏を継承した。

『鵤荘引付』 2

Wikipedia等で紹介されている。

『鵤荘引付』の当該記述の信頼性、および「廉直な人柄」 7 とされる村秀像との整合性が課題。則貞との対立の背景 7 が殺害の動機を説明しうるか。

表3:赤松村秀と主要関連人物一覧

人物名

村秀との関係

関連する主要な出来事・史料

影響・意義

赤松政則

父(庶子説の場合)

村秀の生誕 2

村秀の出自と初期の立場を規定。

宇野政秀(高枕軒性喜)

養父

村秀の養育、龍野城築城 1 、塩屋城主としての村秀 11

村秀の勢力基盤形成に不可欠な存在。西播磨における宇野氏の影響力を背景に村秀が台頭。

赤松義村

義兄(庶子説の場合)、主君(偏諱授与から)

偏諱「村」の授与 2 、斑鳩寺への共同寄進 23

村秀の赤松本家との関係性を示す。義村政権下での一定の地位。

赤松則貞

祖父(実孫説の場合)、被殺害者(殺害説の場合)

則貞殺害説(大永5年) 2 、永正16年の対立 7

村秀による龍野赤松氏継承の経緯と人物像に大きな影響を与える。

浦上村宗

対立・協力関係の変遷

斑鳩寺への共同寄進(永正13年) 23 。大物崩れで戦死(享禄4年) 28

播磨の最有力者の一人。村秀の勢力拡大における主要な競合相手、あるいは一時的な協力相手。

浦上政宗

協力関係(対赤松晴政)

赤松晴政への共同抵抗(天文年間初期) 27

村秀が本家から自立した行動を取る際の連携相手。

赤松晴政

主君(本家当主)、対立関係(一時的)

浦上政宗・村秀らによる抵抗を受ける 27

赤松本家の当主として、村秀の忠誠と自立の間で複雑な関係にあった。

唐橋在満

九条家家司

田原荘代官職補任状の奉者(大永元年) 24

村秀の中央権門との繋がりを示す。

第二部:城主としての赤松村秀

第一章:塩屋城主としての活動

赤松村秀が宇野政秀の養子となった後、その拠点であった塩屋城を継承したと伝えられているが、塩屋城主としての具体的な活動を詳細に示す一次史料は、現在のところ限定的である。しかし、『斑鳩引付』には、永正3年(1506年)に赤松村秀が塩屋城主として塩屋城に移り住んだと記されており、この時期に彼が同城の主であったことを裏付けている 11

塩屋城は、養父・宇野政秀が播磨国で勢力を保持するための重要な拠点であった 8 。村秀がこの城を一定期間支配したことは、彼が宇野氏の後継者としての地位を固め、西播磨における統治の経験を積む上で、極めて重要な時期であったと考えられる。この塩屋城主としての経験が、後の龍野への進出と龍野赤松氏としての活動の布石となった可能性は十分に考えられる。宇野氏の勢力基盤を引き継ぎ、城主としての実務を通じて軍事指揮や領国経営のノウハウを学んだことが、村秀のその後の飛躍に繋がったと推察される。

第二章:龍野城の築城と龍野城主時代

鶏籠山城(龍野城)築城の経緯と諸説

赤松村秀の名を語る上で欠かせないのが、龍野城(鶏籠山城)との関わりである。多くの史料や伝承において、この龍野城は明応8年(1499年)頃に、当時塩屋城主であった(宇野)赤松政秀(宇野政秀と同一人物とされることが多い)が、まだ幼かった養子の村秀のために築いたとされている 1 。この説は、龍野城の起源を村秀の幼少期に結びつけるもので、広く受け入れられている。

しかしながら、異説も存在する。歴史研究家である高坂氏が提唱した説によれば、宇野政秀は村秀のためにまず平井城(現在のたつの市揖西町付近か)を築き、その後、永正17年(1520年)頃から台山(鶏籠山)に築かれた城が龍野城と呼ばれるようになったというものである 11 。ただし、この説には年代的な矛盾点が指摘されており、例えば 11 の分析では、もし平井城が龍野城と呼ばれた時期があったとすれば、それは鶏籠山の龍野城が築かれる(明応8年/1499年)までのごく短期間、具体的には村秀が生まれたとされる明応4年(1495年)の2年後である明応6年(1497年)に平井城が築城されてから、明応8年に鶏籠山城が築かれるまでの2年間ではないか、と推測されている。そして、政秀が村秀を連れて平井城から鶏籠山の龍野城に移ったことにより、龍野城という呼称は鶏籠山城に譲られたと考えられている。

龍野城主としての具体的な事績

赤松村秀は、この龍野城を拠点として西播磨に勢力を築き、龍野赤松氏の初代当主となった。龍野赤松氏は、村秀の後、その子である政秀、さらに広貞(政秀の子)、広英(広秀とも。広貞の子)と4代にわたって続いたとされている 13

しかし、村秀自身の龍野城主としての具体的な戦闘や詳細な統治に関する記録は、残念ながら断片的であり、その全貌を明らかにするには史料が不足しているのが現状である。彼がどのような領国経営を行い、周辺勢力とどのような関係を築いたのか、詳細な一次史料の発見と分析が待たれるところである。

龍野城の立地する鶏籠山は、播磨平野の西部を見渡し、また西国街道にも近い戦略的な要衝であった。この地に新たに城を築き、村秀がその城主となったことは、単なる居城の移動以上の意味を持っていた。それは、この地域に対する恒久的な支配権を主張し、軍事的なプレゼンスを確立する行為であり、村秀(および彼を支援した宇野氏)の西播磨における勢力確立への強い意志の表れと解釈できる 13 。養父である宇野政秀が築城に深く関わったという説 1 を採用するならば、これは宇野氏の勢力拡大の一環、あるいは村秀を旗頭とした新たな地域権力の拠点作りであったと見ることができる。これにより、赤松本家や他の国衆とは一定の距離を置いた、龍野赤松氏という独自の勢力圏が形成される基盤が築かれたと言えるだろう。

第三章:坂越浦城との関わり

赤松村秀の勢力範囲を考える上で、坂越浦城(現在の赤穂市坂越)との関連も無視できない。『播磨鑑』という江戸時代の地誌には、赤穂郡に位置する坂越浦城について「赤松下野守村秀通城也」という記述が見られる 11 。この「通城」という表現の解釈には幅があるものの、村秀が坂越浦城を何らかの形で支配下、あるいは影響下に置いていた可能性を強く示唆している。

坂越は、古くから瀬戸内海に面した良港として知られ、水運の拠点であった。戦国時代において、港湾を支配することは、物資の輸送、兵員の移動、さらには交易を通じた経済力の確保という点で、武将にとって極めて重要な戦略的意味を持っていた。村秀がこの坂越浦城を実質的に支配していたとすれば、彼の勢力は内陸の龍野に留まらず、播磨灘に面した沿岸部にも及んでいたことになる。

このことは、龍野赤松氏が単に陸上交通の要衝を抑えるだけでなく、海上交通路へのアクセスポイントをも確保していたことを意味する。これにより、水軍の運用や海上交易への関与も視野に入り、その経済的・軍事的な活動範囲は大きく広がったと推測される 11 。坂越浦の支配は、龍野赤松氏の勢力基盤をより強固なものとし、西播磨におけるその存在感を一層高める効果があったと考えられる。

第三部:戦国時代の動乱と赤松村秀の動向

第一章:当時の播磨国と赤松本家の情勢

赤松村秀が活動した15世紀末から16世紀前半にかけての播磨国、そして赤松本家は、まさに激動の時代であった。赤松家中興の祖と称される赤松政則が明応5年(1496年)に急死すると、その強大な指導力を失った赤松本家は、急速にその支配力に陰りが見え始める 5 。政則の娘婿として幼くして家督を継いだ赤松義村の時代には、守護代であった浦上氏や別所氏といった有力家臣が台頭し、さらには一族内での内紛も頻発し、守護家の権威は大きく揺らいだ。

決定的な打撃となったのは、大永元年(1521年)に赤松義村が浦上村宗によって暗殺された事件である 5 。これにより、赤松本家の求心力は著しく低下し、義村の子である晴政(当初は政村)は幼少であったため、浦上村宗の傀儡として擁立されるなど、まさに下剋上の波が赤松家中を覆い尽くした。その後も、出雲の尼子氏や畿内の三好氏といった外部勢力が播磨国へ侵攻を繰り返し、国内の混乱は一層深まっていった 6

このような赤松本家の弱体化と播磨国の混乱は、赤松村秀のような庶流や有力な被官にとっては、逆に自立的な勢力を築く好機ともなった。本家の統制力が弱まる中で、地方の国人領主や分家の当主が独自の動きを見せ始めるのは、戦国時代の典型的な現象である。村秀が龍野に拠点を定め、鶏籠山城を築き 13 、さらには九条家のような中央権門の荘園代官を務める 24 など、独自の活動を展開し始めたのは、まさにこのような時代背景の中でのことであった。本家の衰退は、村秀が龍野赤松氏として西播磨に一定の勢力圏を確立し、自立した領主としての道を歩む上で、間接的ながらも大きな影響を与えたと言えるだろう 6

第二章:浦上氏との関係

浦上村宗・政宗らとの対立と協力関係の変遷

赤松村秀と、当時播磨で強大な勢力を誇った浦上氏との関係は、非常に複雑であり、時期や状況によって対立と協力の間を揺れ動いたと考えられる。一般的には、村秀は赤松本家の補佐に努め、同じく赤松家臣団である小寺氏や一族の宇野氏と協力して、専横を極める浦上氏との抗争に貢献したとされている 2 。これは、特に赤松義村の時代や、その子・晴政の初期において、本家の権威回復を目指す立場からの行動と解釈できる。

しかしながら、史料を仔細に見ると、必ずしも一貫して本家と歩調を合わせていたわけではない側面も浮かび上がってくる。例えば、浦上政宗(村宗の子)に関する記述の中には、天文年間初期(1532年~)に浦上政宗が赤松本家の当主である赤松晴政と敵対した際、「赤松村秀・宇野村頼ら西播磨の国衆と結束し晴政に激しく抵抗した」という一節が見られる 27 。この記述が事実であれば、この時期の村秀は浦上政宗と連携し、赤松本家の晴政と対立していたことになり、彼の行動が一筋縄ではいかないものであったことを示唆している。

また、享禄4年(1531年)に摂津で起こった大物崩れの合戦では、赤松晴政(当時は政祐)が浦上村宗を裏切り、結果として村宗は戦死するという劇的な事件が発生している 28 。この播磨の勢力図を大きく塗り替えた可能性のある事件に、赤松村秀がどのように関与したのか、あるいはしなかったのかについては、現在のところ明確な史料は見当たらない。

史料に見る具体的な抗争や連携

赤松村秀と浦上氏との具体的な抗争や連携を示す一次史料は、残念ながら限定的である。しかし、間接的に彼らの関係性を示唆する史料は存在する。前述の『鵤荘引付』には、永正13年(1516年)に斑鳩寺の修理が行われた際、赤松義村、赤松村秀、そして浦上村宗がそれぞれ10貫文を寄進したという記録がある 23 。この時点では、三者が播磨国内において一定の協調関係を保っていたか、あるいは互いの勢力を認め合う形で並立していた可能性を示している。寄進額が同額である点も、彼らの力関係を考察する上で興味深い。

赤松村秀と浦上氏との関係は、単純な敵対関係としてのみ捉えることはできず、時期や利害関係によって流動的に変化したと考えるべきであろう。赤松本家、浦上氏、そして村秀自身の龍野赤松氏という三者のパワーバランス、さらには浦上氏内部の動向(例えば村宗の死後、その子である政宗が台頭する過程など)が複雑に絡み合い、時には協力し、時には激しく対立するというのが、戦国時代の武将たちの現実的な姿であった。村秀もまた、龍野赤松氏の存続と勢力拡大のため、播磨国内の複雑な政治状況の中で、柔軟かつ戦略的な外交を展開していた可能性が高い 2

第三章:小寺氏・宇野氏との連携

赤松村秀は、その活動において、播磨国の有力国衆である小寺氏や、同じく赤松一門の有力庶流である宇野氏と協力関係にあったと伝えられている 2 。これらの勢力との連携は、特に守護赤松本家の権威が揺らぎ、守護代であった浦上氏が急速に台頭してくる中で、その勢力に対抗するために不可欠なものであったと考えられる。

小寺氏は、古くから播磨国に根を張る有力な国人領主であり、赤松氏の重臣として代々仕えてきた家柄である 34 。一方、宇野氏は赤松円心の三男・則祐の流れを汲む赤松氏の一族であり、特に宇野政秀(高枕軒性喜)の代には西播磨で大きな影響力を持っていた 8 。赤松村秀自身が宇野政秀の養子であったという説を採るならば、宇野氏との連携は極めて自然なものであったと言える。

浦上氏の勢力拡大は、赤松本家のみならず、播磨国内の他の国衆にとっても大きな脅威であった。特に西播磨地域においては、龍野を拠点とする赤松村秀、御着を拠点とする小寺氏、そして塩屋などを拠点とした宇野氏といった勢力が地理的にも近接しており、共通の利害を有していたと推測される。彼らが連携し、一種の地域連合を形成して浦上氏に対抗しようとしたことは、当時の播磨国内の勢力図を理解する上で重要な視点となる 2 。この連携が、どの程度組織的で継続的なものであったか、また具体的な軍事行動や政治的な取り決めがどのようなものであったかについては、さらなる史料の分析が求められるが、浦上氏の勢力均衡の一翼を担っていたことは間違いないであろう。

第四章:九条家領田原荘代官としての活動

赤松村秀の活動の中で特筆すべき点の一つに、中央の有力公家である九条家の荘園代官を務めていた事実がある。宮内庁書陵部に所蔵される『九条家文書』には、大永元年(1521年)12月13日付で、九条家の家司であった唐橋在満が奉者となり、赤松村秀を播磨国揖保郡に存在した九条家領田原荘の代官職に補任する内容の案文(命令書の下書き)が残されている 24 。さらに、これに関連すると思われる赤松村秀宛の書状案や、村秀が代官職を引き受けるにあたって提出した請文(承諾書)の案文なども同文書群に含まれている。

これらの文書は、赤松村秀が九条家の荘園管理を具体的に請け負い、年貢の徴収や現地の支配に深く関与していたことを明確に示している。九条家は五摂家の一つであり、室町時代から戦国時代にかけても中央政界で大きな影響力を保持していた名門公家である。その九条家の所領である田原荘の管理を、一地方武将である赤松村秀が委ねられたという事実は、いくつかの重要な点を示唆している。

まず、村秀が単に龍野周辺を支配するだけの武将ではなく、中央の権門とも繋がりを持ち、広域的な支配能力や行政手腕をある程度認められていた可能性が考えられる。大永元年という時期は、赤松本家の当主であった赤松義村が浦上村宗によって暗殺され、播磨国内が混乱していた時期にあたる。そのような状況下で、九条家が村秀に荘園の管理を委託したのは、村秀の龍野における支配が比較的安定しており、荘園からの収益を確実に徴収し、九条家に納入する能力があると評価された結果かもしれない。また、村秀にとっても、中央の有力公家との結びつきは、自らの権威を高め、地域支配を円滑に進める上で有利に働いたであろう。

この事例は、戦国時代における荘園支配の変質と、在地武士が荘園管理に深く関与していく実態を示す好例と言える。また、 35 の史料によれば、大永2年(1522年)に「円山河内守」という人物が法隆寺と龍野城主赤松村秀との間を取り次いでいたとあり、村秀が公家領だけでなく、有力寺社領との交渉や管理にも関わっていた可能性を示唆しており、彼の活動範囲の広がりをうかがわせる 24

第四部:赤松村秀の人物像と評価

第一章:史料における評価の錯綜

『鵤荘引付』に見る赤松則貞殺害説とその信憑性

赤松村秀の人物像を考察する上で、避けて通れないのが、彼の出自に関する説の一つとして語られる、祖父・赤松則貞殺害説である。この説は、播磨国鵤荘(斑鳩寺領)の政所によって応永5年(1398年)から天文14年(1545年)まで書き継がれた記録である『鵤荘引付』に記されているとされ、村秀が大永5年(1525年)に龍野城内で則貞を自ら手にかけたという内容である 2 。『鵤荘引付』は、当時の村落生活の実態や地域の出来事を伝える一次史料として、その史料的価値は高いと評価されている 36

この則貞殺害の背景として、赤松家内部に長年にわたって存在した混乱があり、その対策を巡って則貞と村秀が対立した可能性が指摘されている 7 。事実、『鵤荘引付』には、永正16年(1519年)に、則貞と村秀が不心得者の中間(ちゅうげん、武家奉公人)の処置を巡って意見が対立し、合戦寸前にまで至ったという記録も残されている 7 。これは、両者の間に深刻な確執が存在したことを示唆している。

「廉直な人柄」という評価との整合性

一方で、赤松則貞に関する記述の中では、孫である村秀が「廉直な人柄」であったと評されている箇所がある 7 。この「廉直」という評価の具体的な史料的根拠は、提示された資料群からは明確ではないものの、もしこの評価が当時の村秀に対する一般的な認識であったとすれば、祖父殺害という非情な行為とは一見して矛盾するように感じられる。

この矛盾をどのように解釈するかが、赤松村秀の複雑な人物像を理解する上での鍵となる。戦国時代という、現代とは異なる倫理観や価値基準が支配した時代において、「廉直」という言葉が持つ意味合いを慎重に検討する必要がある。例えば、単に私利私欲がない清廉潔白な人物を指すだけでなく、家や一族の維持・発展のためには、たとえ非情な手段であっても断固として実行する人物、というニュアンスが含まれていた可能性も考えられる。もし、村秀が則貞の存在を龍野赤松氏、あるいはより広範な地域の秩序にとって有害であると判断し、その排除が不可避であると考えた場合、その行為は苦渋の決断であり、ある種の「正義」や「秩序回復」のための行動と見なされたのかもしれない。ただし、この「廉直」評価の具体的な史料的根拠が不明である以上、この解釈はあくまで可能性の一つとして留保する必要がある 7

第二章:赤松本家補佐と龍野赤松氏としての立場

赤松村秀の活動を概観すると、彼は「赤松本家の補佐に努め」たとされる一方で 2 、龍野城主として独自の勢力を保持し、時には本家とは異なる独自の判断で行動していた形跡も見られる。この二面性は、戦国時代の地方領主が置かれた複雑な立場を反映していると言えるだろう。

「赤松本家の補佐」という側面は、特に浦上氏の専横が強まり、本家の権威が著しく低下した時期において、一門衆として本家の権威回復や勢力維持に協力したことを指すと考えられる。赤松一族としての連帯感や、本家の権威を利用して自らの立場を強化するという戦略的な意図も含まれていたかもしれない。

しかし、同時に村秀は龍野を拠点とする龍野赤松氏の当主として、西播磨に確固たる勢力基盤を築いていた。その証左として、前述の通り、天文年間初期には浦上政宗と連携して赤松本家の当主である晴政に抵抗したという記録がある 27 。これは、村秀が必ずしも本家の意向に盲従するのではなく、自らの勢力維持と拡大のためには、本家と対立することも辞さないという、自立した戦国領主としての側面を明確に示している。

このような行動様式は、戦国時代の多くの国衆や分家当主に見られる特徴である。彼らは、本家との関係を維持しつつも、自家の存続と発展を最優先課題とし、状況に応じて柔軟な外交戦略を展開した。赤松村秀もまた、赤松一門としての立場と、龍野赤松氏という独立した領主としての立場を巧みに使い分け、あるいはその間で揺れ動きながら、激動の時代を生き抜こうとした人物であったと推察される。彼が示した自立性と協調性の両立は、中央集権体制が崩壊し、地方勢力が群雄割拠した戦国時代の縮図とも言えるだろう。

終章:総括

赤松村秀の生涯と歴史的意義の再検討

赤松村秀は、播磨守護赤松本家の権威が大きく揺らぎ、播磨国内が混乱を極めた戦国時代初期から中期にかけて、龍野の地を拠点として活動した武将である。その出自については、赤松政則の庶子説と、龍野赤松氏の赤松則貞の実孫(則貞を殺害して家督を継承したとする説を含む)という二つの主要な説が存在し、未だ確定を見ていない。この出自の問題は、村秀の生涯や行動原理を理解する上で根幹に関わる部分であり、今後の研究による解明が待たれる。

宇野政秀の養子(あるいは庇護下)に入り、塩屋城主を経て龍野城主となった村秀は、龍野赤松氏の始祖として西播磨に一定の勢力を築いた。彼は、衰退しつつあった赤松本家、播磨国内で強大な力を誇った浦上氏、そして小寺氏や宇野氏といった周辺の有力国衆との間で、時には協調し、時には対立するという複雑な関係を取り結びながら、自らの勢力の維持と拡大を図った。九条家領田原荘の代官を務めた事実は、彼が単なる地方の武力勢力に留まらず、中央の権門とも結びつき、一定の行政能力も有していたことを示唆している。

一方で、祖父とされる赤松則貞を殺害したという説や、それとは対照的に「廉直な人柄」であったという評価が混在している点は、史料解釈の難しさと、戦国武将が持つ多面的な性格を浮き彫りにしている。これらの評価の錯綜は、一次史料の記述を慎重に検討し、当時の倫理観や価値基準の中で再評価する必要性を示している。

赤松村秀の生涯は、戦国時代における地方領主の自立と連携、主家との関係、そして下剋上といった時代的特徴を具体的に示す好個の事例と言える。彼の活動は、播磨地域史の研究はもちろんのこと、戦国時代全体の政治史や社会史を考察する上でも、示唆に富むものと言えよう。

今後の研究への課題

赤松村秀に関する研究は、未だ多くの課題を残している。今後の研究の進展が期待される点を以下に挙げる。

  1. 『鵤荘引付』の赤松氏関連記述の再検討: 特に赤松則貞殺害記事の発見と、その記述の文脈、他の関連史料との比較検討を通じて、説の信憑性をより深く検証する必要がある。
  2. 「廉直な人柄」という評価の史料的根拠の探索: この評価がどのような史料に基づいているのかを特定し、その史料の性格や記述の背景を分析することで、村秀の人物像をより客観的に捉えることが求められる。
  3. 龍野赤松氏の家臣団構成と領国経営に関する史料の発掘と分析: 村秀が龍野を拠点としてどのように領国を経営し、どのような家臣団を抱えていたのかを具体的に示す史料は乏しい。古文書や考古学的調査などを通じて、龍野赤松氏の実態解明を進める必要がある。
  4. 周辺勢力との関係を示す一次史料の探索: 浦上氏、小寺氏、宇野氏など、村秀と関係のあった諸勢力との間で交わされた書状や記録などを発見・分析することで、彼の外交戦略や播磨国内における政治的立場をより詳細に明らかにすることができる。

これらの課題に取り組むことで、赤松村秀という一人の武将の生涯を通じて、戦国時代の播磨国の実像、ひいては戦国時代そのものの理解を一層深めることができると期待される。

引用文献

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