赤松義祐
赤松義祐は播磨の戦国大名。父晴政を追放し家督を継ぐも、浦上宗景や別所氏と対立。織田信長に臣従後、天正4年に死去した。

戦国武将 赤松義祐の実像 ―播磨における権力闘争と赤松宗家の動向―
1. 序論:赤松義祐とは
1.1. 本報告書で対象とする赤松義祐の特定
日本の歴史上、「赤松義祐」という名を冠する人物は複数名確認されている。例えば、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将で、赤松則祐(のりすけ)の子である赤松義祐(出羽守(でわのかみ)に任官し、有馬氏の祖とも目される人物)がその一人として挙げられる 1。しかし、本報告書において主たる対象とするのは、この人物とは時代も事績も異なる、戦国時代にその名が見える赤松晴政(はるまさ)の子、義祐である。この戦国期の赤松義祐は、播磨国(現在の兵庫県南西部)の置塩城(おきしおじょう)を拠点とし、同時代の有力な武将である浦上宗景(うらがみむねかげ)や織田信長らと深く関わりを持った人物として知られる。彼の生年は文亀元年(1501年)または天文6年(1537年)と諸説あり、没年は天正4年(1576年)とされる 1。歴史研究において、同名の人物が複数存在することはしばしば混乱を招く要因となる。特に本稿で扱う二人の「赤松義祐」は、官位や活動した時代背景が大きく異なるため、その区別は極めて重要である。読者の誤解を避け、本報告書の焦点を明確にするため、以下に両者の情報を整理して提示する。
表1:赤松義祐 同名異人一覧
氏名 |
時代 |
主な活動・役職 |
主要官位 |
備考 |
赤松義祐(1) |
南北朝~室町時代 |
赤松則祐の子、摂津国有馬郡守護、有馬氏の祖と目される |
出羽守 |
応永28年(1421年)に家僕に刺殺されたとの記録がある(『看聞日記』) 1 。 |
赤松義祐(2) |
戦国~織豊時代 |
赤松晴政の子、播磨置塩城主、美作新庄山城主 |
上総介、左京大夫など |
本報告書の主対象。文亀元年(1501年)または天文6年(1537年)生、天正4年(1576年)没 1 。元服に際し足利義輝より偏諱を受けたとされる 2 。 |
1.2. 調査の目的と範囲
本報告書は、現存する各種史料及び近年の研究成果に基づき、戦国時代に活動した赤松義祐(晴政の子)の生涯、その政治的・軍事的活動、そして彼を取り巻く関連人物との関わり合いを詳細に追うものである。さらに、彼が生きた時代の播磨国を中心とする歴史的背景を多角的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。特に、赤松家における家督相続の複雑な経緯、宿敵とも言える浦上宗景との関係性の変遷、そして中央の覇者である織田信長との折衝といった、義祐の事績における重要な局面については、より踏み込んだ検討を加える。これにより、戦国期における一地方領主の動向を具体的に描き出し、ひいては当時の社会構造や権力関係の一端を明らかにすることを目指す。
2. 赤松義祐の出自と家系
2.1. 生誕と死没
赤松義祐の生年に関しては、複数の説が存在する。一つは文亀元年(1501年)とする説であり 1、もう一つは天文6年(1537年)とする説である 4。没年は天正4年2月15日(西暦1576年3月15日)とされており、これは比較的多くの史料で一致を見ている 1。享年を76歳とする記述 1 から逆算すると、1501年生誕説が導き出される。しかしながら、義祐は室町幕府第13代将軍・足利義輝(在職:天文15年(1546年) - 永禄8年(1565年))より偏諱(「義」の一字)を受けたとされる 2。仮に1501年生まれであれば、義輝の将軍就任時には既に40代半ばであり、元服し偏諱を受けるには遅すぎる感がある。一方、1537年生まれであれば、義輝の将軍就任時には10歳前後となり、元服の年齢としてはやや早熟ではあるものの、戦国時代の慣習に照らせば全くあり得ないわけではない。この生年の違いは、義祐が歴史上の主要な出来事に関与した際の年齢、ひいては彼の政治的成熟度や周囲からの評価を考察する上で重要な論点となる。例えば、後述する父・晴政追放という重大事件の際、1501年生まれであれば50代後半の円熟した武将、1537年生まれであれば20代前半の血気盛んな青年となり、その行動の背景や動機の解釈に大きな幅が生じる。足利義輝からの偏諱という事実は、赤松家と室町幕府との公的な関係を示す重要な指標であり、この偏諱授与の具体的な時期の特定が、義祐の元服年齢、さらには生年の推定に繋がる鍵となるが、現時点では確定的な史料に乏しい。
2.2. 赤松氏における義祐の位置づけ
義祐は、播磨守護であった赤松晴政の嫡男として生を受けた 2。父・晴政の初名は政祐(まさすけ)、あるいは政村(まさむら)と伝えられている 2。赤松氏は鎌倉時代以来の名門守護大名であり、播磨国を中心に大きな勢力を誇ったが、嘉吉の乱(1441年)で室町幕府第6代将軍・足利義教を暗殺したことにより一時没落。その後、応仁の乱などを経て再興を果たしたものの、戦国時代に入ると、守護代であった浦上氏の台頭や周辺勢力の侵攻により、その勢力は次第に陰りを見せていた。
そのような状況下で、義祐は幼少期に尼子晴久(あまごはるひさ)による播磨侵攻という大きな戦乱を経験する。この際、父・晴政は本拠地を追われて淡路国(現在の兵庫県淡路島)へ脱出したが、義祐は父と離れ離れになるなど、苦難の日々を送ったと伝えられている 5。このような幼少期の不安定な経験は、彼の後の人格形成や政治的な判断、特に権力基盤の確立や維持に対する意識に、少なからぬ影響を与えた可能性が考えられる。嫡男という立場でありながら経験した苦難は、彼の中に強い克己心や猜疑心を育んだかもしれず、後の父・晴政との関係や、家臣団、周辺勢力との複雑な駆け引きにおいて、その影響が垣間見えるようである。
2.3. 家族構成
赤松義祐の子としては、後に家督を継ぐことになる赤松則房(のりふさ)の存在が確認されている 2。義祐は晩年、この則房に家督を譲って隠居するが、父子関係は必ずしも良好ではなかったようで、則房とも対立し、一時は本拠の置塩城を離れて三木城(みきじょう)の別所安治(べっしょやすはる)のもとに身を寄せたとも伝えられている 5。この息子・則房との対立は、義祐自身が父・晴政を追放して家督を奪った経緯を想起させ、赤松家における家督相続を巡る権力闘争の根深さと、その不安定さが世代を超えて繰り返されている可能性を示唆している。
一方、義祐の妻(正室あるいは側室)については、江戸時代に成立した軍記物である『赤松盛衰記』などに、細川晴元の娘、阿波守護であった細川持隆(もちたか)の妹、あるいは赤松家の宿老であった小寺則職(こでらのりもと)の娘といった記述が見られる 9。しかし、これらの記述はいずれも同時代の確実な史料による裏付けがなく、その信憑性については慎重な検討を要する。特に細川持隆の妹に関しては、江戸初期成立の『昔阿波物語』において、義祐の父・晴政(法名・性煕(しょうき))の妻であった可能性が示唆されており、年齢的な整合性や当時の協力関係から見ても、晴政の妻であったとする方が自然であるとの見解もある 9。戦国時代の武家にとって婚姻は重要な外交戦略の一つであったが、義祐の妻の出自が不明確であることは、彼の時代の赤松氏を取り巻く同盟関係や人間関係の複雑さ、あるいは情報伝達のあり方を反映しているとも言えるだろう。
3. 赤松義祐の活動拠点と官位
3.1. 主要拠点
赤松義祐の主要な活動拠点は、播磨国の置塩城であった 2。この城は、現在の兵庫県姫路市夢前町に位置し、嘉吉の乱で一時没落した赤松氏を再興した赤松政則(まさのり)が文明元年(1469年)に築城したと伝えられ、以降、義村(よしむら)、晴政、そして義祐、則房と続く後期赤松氏の本城として機能した 7。置塩城は夢前川を見下ろす山上に築かれた山城であり、その遺構からは格式の高い礎石建物や庭園跡、さらには天守に似た櫓状の建物跡も確認されており 7、単なる軍事拠点としてだけでなく、守護大名としての赤松氏の権威と経済力を示す政治・文化の中心地としての役割も担っていたと考えられる。
また、義祐は美作国(現在の岡山県北部)の新庄山城(しんじょうやまじょう)も拠点の一つとしていた記録がある 1。播磨と美作という複数の国に拠点を有していたことは、当時の赤松氏の勢力範囲を示すと同時に、両国にまたがる領国経営の複雑さをも物語っている。これらの拠点は、軍事的な防衛ラインを形成するとともに、それぞれの地域における支配の足掛かりとしての意味も持っていたであろう。
3.2. 官位
戦国期の赤松義祐(晴政の子)は、その生涯において複数の官位に叙任された記録が残っている。具体的には、出羽守(でわのかみ)、上総介(かずさのすけ)、左京大夫(さきょうのだいぶ)、兵部少輔(ひょうぶのしょうゆう)といった官名が伝えられている 1。江戸時代に編纂された『戦国武将官位総覧』には、「赤松義祐 上総介・左京大夫 美作新庄山城主」との記載が見られる 3。
ここで注意すべきは、前述の通り、南北朝時代から室町時代にかけて活動した同名の赤松則祐の子・義祐も出羽守を称し、摂津国有馬郡守護に任じられている点である 1。この人物は有馬氏の祖ともされており、本稿の対象である戦国期の義祐とは明確に区別されなければならない。
戦国期義祐がこれらの官位にいつ、どのような背景で任官したのか、その具体的な経緯を示す詳細な史料は、現時点では限定的であると言わざるを得ない 1。戦国時代において、官位は律令制の時代ほど実効支配力と直結するものではなかったものの、依然として武将の格式や権威を示す重要な指標であり、室町幕府や朝廷との関係性を表すものであった。義祐が複数の官位を得ているという事実は、彼が一定の格式を維持し、中央の権威との繋がりを模索し、それを自身の政治的基盤強化に利用しようとしていたことを示唆している。それぞれの官位への任官時期が特定できれば、その時々の義祐の政治的立場や、幕府・朝廷との関係性の変化をより深く読み解くための一助となるであろうが、今後の史料発見と研究の進展が待たれる。
4. 赤松義祐の生涯と主要な出来事
赤松義祐の生涯は、播磨国を舞台とした激しい権力闘争と、中央政局の変動に翻弄され続けたものであった。以下に、その主要な出来事を時系列に沿って詳述する。
表2:赤松義祐(戦国期)略年表
和暦(西暦) |
年齢(推定)※ |
主要な出来事 |
関連人物 |
主要史料・根拠 |
文亀元年(1501)または天文6年(1537) |
0歳 |
赤松義祐、誕生(赤松晴政の嫡男として) |
赤松晴政 |
1 |
天文年間(詳細不明) |
幼少期 |
尼子晴久の播磨侵攻により、父・晴政と離れ離れになるなどの苦難を経験 |
赤松晴政、尼子晴久 |
5 |
天文23年(1554) |
18歳/54歳 |
三好長慶と通じ、安宅冬康と共に播磨明石城の明石氏、三木城の別所村治を攻める |
三好長慶、安宅冬康、明石氏、別所村治 |
2 |
永禄元年(1558)8月 |
22歳/58歳 |
小寺政職らの後見を得て父・晴政を置塩城から追放し家督を相続。晴政は娘婿の龍野城主・赤松政秀を頼る |
赤松晴政、小寺政職、赤松政秀 |
2 |
永禄5年(1562)頃 |
26歳/62歳 |
正式な家督としての執政が見られるようになる |
|
5 |
永禄10年(1567)以降 |
31歳/67歳 |
同族の赤松政秀(足利義昭に接近)や強大化した別所安治と反目し、浦上宗景・小寺政職と結んで対抗 |
赤松政秀、別所安治、浦上宗景、小寺政職 |
2 |
永禄12年(1569) |
33歳/69歳 |
浦上宗景・宇喜多直家の攻撃、または足利義昭の命による池田勝正・別所安治の攻撃を受け、置塩城に籠城。後に織田家に接近し関係修復を図る |
浦上宗景、宇喜多直家、池田勝正、別所安治、織田信長 |
1 |
元亀元年(1570) |
34歳/70歳 |
子・則房に家督を譲り隠居。その後、則房と対立し一時三木の別所氏のもとへ。和解後、置塩城に復帰 |
赤松則房、別所安治(または重宗) |
2 |
天正3年(1575)10月20日 |
39歳/75歳 |
小寺政職、別所長治らと共に上洛し、織田信長に拝謁 |
織田信長、小寺政職、別所長治 |
4 |
天正4年(1576)2月15日 |
40歳/76歳 |
死去。墓所は姫路市夢前町の松安寺跡地 |
|
1 |
※年齢は1537年生誕説/1501年生誕説に基づく推定
4.1. 家督相続と父・晴政の追放
成人した義祐は、当初、父である赤松晴政と連署という形で政務に携わっていた 5。しかし、永禄元年(1558年)8月、義祐は赤松家の重臣であった御着城主(ごちゃくじょうしゅ)・小寺政職(こでらまさもと)などの後見を得て、家中騒動を引き起こす 2。この結果、父・晴政を本拠地の置塩城から追放し、自らが赤松家の家督を相続することとなった。この事実は『上月文書裏書(こうづきもんじょうらがき)』にも記録されているとされる 2。
追放された晴政は、自身の娘婿にあたる龍野城主(たつのじょうしゅ)・赤松政秀(まさひで)のもとに身を寄せ、義祐に対抗する姿勢を見せた 2。これにより、赤松惣領家は事実上分裂状態に陥り、ただでさえ低下しつつあった赤松氏の権力は、さらに弱体化することになった。
晴政追放の具体的な動機や背景については、史料によって詳細な記述が乏しく、様々な要因が推測される。義祐自身の権力への意志に加え、晴政の長期にわたる治世の中で、尼子氏や三好氏といった外部勢力の侵攻や、浦上氏をはじめとする国内の国衆の台頭により、「実質的な勢力を大きく後退させてしまった」6と評されるような状況に対する家臣団の不満が蓄積していた可能性が考えられる。特に、後見役となった小寺政職ら有力家臣が、晴政の統治能力に見切りをつけ、より若い義祐を擁立することで赤松家の再建、あるいは自らの影響力拡大を図ったという側面も否定できない。この父子追放劇は、戦国時代における下剋上の一形態と見ることもできるが、同時に、守護代や有力国人の力が強大化し、惣領家の権威が相対的に低下していた当時の赤松家内部の構造的脆弱性を示す出来事であったと言えよう。
4.2. 浦上宗景との関係:連携から敵対へ
赤松義祐の治世において、備前国(現在の岡山県南東部)を拠点とする浦上宗景との関係は、時期によって大きく変動した。当初、義祐は同族でありながら龍野城を拠点に独立的な動きを見せる赤松政秀との対立において、浦上宗景に共同での挙兵を促し、政秀を挟撃しようと試みている 2。この段階では、浦上宗景は義祐にとって重要な戦略的パートナーであった。
しかし、この連携関係は長続きしなかった。永禄10年(1567年)以降になると、義祐は浦上宗景や、かつて父・晴政追放の際に後見役を務めた小寺政職と結び、今度は中央の足利義昭に接近する赤松政秀や、東播磨で勢力を強めていた別所安治らと対抗するという構図に変化する 5。
そして永禄12年(1569年)には、浦上宗景と、その配下で後に下剋上を果たす宇喜多直家(うきたなおいえ)の連合軍による攻撃を受け、義祐は本拠地である置塩城を追われた、あるいは籠城戦を余儀なくされたと複数の記録が伝えている 1。この戦いでは、池田勝政(いけだかつまさ)や伊丹親興(いたみちかおき)といった摂津の武将たちが浦上宗景を支援したため、義祐は苦境に立たされたとされる 1。一方で、別の史料 2 によれば、この永禄12年の戦いは、赤松政秀の救援要請を受けた将軍・足利義昭の命により、池田勝正(上記の勝政と同一人物か)や別所安治らが義祐の領地に侵攻したものであり、義祐は置塩城に籠城してこれに対抗したとされている。この時、義祐と連携していたはずの浦上宗景は、宇喜多直家の謀反(主君への反逆)という内憂により、備前本国へ兵を返さざるを得ない状況にあったという。
これらの情報の錯綜は、当時の播磨における権力関係の複雑さと流動性を如実に示している。共通の敵がいなくなればかつての味方が敵となり、また新たな脅威に対応するために昨日までの敵と手を結ぶといった合従連衡が繰り返される中で、義祐は常に不安定な外交関係の舵取りを迫られていた。特に永禄12年前後の播磨の戦乱は、義祐、浦上宗景、赤松政秀、小寺政職、別所安治といった播磨国内の諸勢力に加え、中央の織田・足利勢力までもが複雑に絡み合う、多極的な権力闘争の様相を呈していたのである。
4.3. 織田信長との関係:接近と臣従
赤松義祐の治世後半は、畿内から急速に勢力を拡大してきた織田信長との関係が極めて重要な意味を持つようになった。当初、義祐は信長との同盟を模索し、その強大な軍事力の傘下に入ることで赤松家の安泰を図ろうとしたが、信長からは必ずしも十分な信用を得られていなかったと見られる 5。これは、義祐の父子追放の経緯や、浦上氏・別所氏といった播磨国内の諸勢力との複雑な関係性が、信長にとって義祐を日和見的な、あるいは統率力に欠ける勢力と映った可能性を示唆している。
永禄12年(1569年)、前述の通り、足利義昭の命を受けた池田勝正・別所安治らの攻撃により置塩城で窮地に陥った後、義祐は織田家への接近を本格化させ、関係修復を図った。その臣従の証として、嫡男である則房を赤松政秀の領地である龍野城を攻撃する浦上軍と対峙させるという軍事行動に派遣している 2。これは、織田方の意向に沿う形で行動することで、信長の歓心を得ようとしたものと考えられる。
その後、天正3年(1575年)10月20日には、義祐は小寺政職や別所長治(ながはる)といった播磨の主要な国衆と共に上洛し、織田信長に拝謁したという記録が『信長公記』巻8に残されている 4。この拝謁は、播磨の諸勢力が信長の権威を公的に認め、その勢力下に組み込まれていく過程を示す象徴的な出来事であった。信長にとっては、後の中国攻めの前段階として播磨を安定させるという戦略的な狙いがあり、義祐らにとっても、信長の公認を得ることで国内における自らの立場を強化するという現実的な利害があったと推測される。
一方で、史料によっては、永禄12年(1569年)に織田信長による播磨侵攻を受け、義祐はこれに抵抗するも敗れて降伏し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の指揮下に入ったとする記述も見られる 5。この降伏の具体的な条件や、その後の処遇については不明な点が多く、永禄12年の「関係修復」や天正3年の「拝謁」といった出来事との時間的な連続性や、それぞれの出来事の正確な意味合いについては、さらなる史料の比較検討が必要である。いずれにしても、義祐の対信長外交は、弱体化した地方領主が強大な中央権力に取り込まれていく過程の一典型を示しており、播磨国が織田政権の支配体制に組み込まれていく上で、義祐の動向が重要な転換点となったことは間違いない。
4.4. その他の主要な関係者との関わり
赤松義祐の生涯は、播磨国内外の多くの有力者との複雑な関係によって彩られている。その中でも特に重要な人物との関わりを以下に概観する。
- 赤松政秀: 義祐の父・晴政の娘婿であり、晴政追放後は晴政を擁して義祐と対立した 2 。晴政の死後は一時的に義祐と和解するものの、やがて将軍・足利義昭と結びつき、再び義祐と敵対関係となる 2 。政秀は龍野赤松氏として独自の勢力を築こうとしたが、最終的には浦上宗景との戦いに敗れ、元亀元年(1570年)に暗殺されたとされる 2 。義祐にとって、赤松政秀は惣領家の権威を脅かす最大のライバルの一人であり、その存在は播磨国内の情勢を常に不安定にする要因であった。
- 別所氏(安治、長治、重宗): 東播磨の有力国衆である別所氏は、義祐との関係において流動的な立場を取り続けた。当初、永禄12年(1569年)の池田勝正らによる義祐領侵攻の際には、別所安治がこれに加わっており、義祐とは敵対関係にあった 2 。しかし、後に義祐が嫡男・則房と対立し置塩城を追われた際には、別所安治(あるいはその子・重宗)が義祐を三木城に保護したという記録もある 5 。さらに天正3年(1575年)には、別所長治(安治の子)が義祐や小寺政職と共に織田信長に拝謁しており 4 、この時点では協調関係にあったことがうかがえる。このように、別所氏は赤松惣領家との関係において、常に自家の利益を最優先に行動していたと考えられる。
- 小寺政職: 御着城主の小寺政職は、義祐の生涯において最も重要な盟友の一人であったと言える。義祐が父・晴政を追放して家督を相続した際には、その後見役として中心的な役割を果たした 2 。その後も、赤松政秀や池田・別所連合軍との戦いにおいて義祐と連携して軍事行動を起こすなど 2 、両者の関係は比較的緊密であった。江戸時代の軍記物『赤松盛衰記』には、義祐が小寺則職(政職の父、あるいは政職自身を指すか)の娘を娶ったとの記述も見られるが、これについては確証がない 9 。小寺氏の支援は、義祐の不安定な権力基盤を支える上で不可欠なものであった。
- 毛利氏: 中国地方で強大な勢力を誇った毛利氏との関係については、義祐の父・晴政が毛利元就に接近して赤松家の体制再建を図ったものの、実現には至らなかったという記録がある 14 。義祐自身と毛利氏との直接的な外交関係や軍事衝突を示す具体的な史料は乏しい。しかし、織田信長による中国攻めが本格化する時期には、播磨の諸勢力は織田方につくか毛利方につくかの選択を迫られることになり、義祐もその影響を免れることはできなかったと考えられる。
これらの有力国衆との関係性は、当時の播磨国内における赤松惣領家の求心力の低下と、国衆の自立化・強大化という戦国時代特有の状況を如実に示している。義祐は、彼らとの間で時に連携し、時に敵対しながら、不安定なバランスの上に辛うじて惣領としての地位を維持しようと腐心したが、播磨国内を完全に掌握するには至らず、それが外部勢力の介入を招く一因ともなったのである。
4.5. 晩年と死没
元亀元年(1570年)、赤松義祐は嫡男である則房に家督を譲り、隠居の身となった 2。しかし、その晩年は必ずしも平穏なものではなかったようである。家督を譲った則房との関係が悪化し、一時は置塩城を離れ、三木城主であった別所重宗(史料によっては別所安治とも 5)のもとに身を寄せなければならないほどの緊張状態に至ったと伝えられている 2。この父子の確執の原因については詳らかではないが、義祐自身が父・晴政を追放して家督を奪った経緯を考えると、赤松家における権力継承の困難さと不安定さが改めて浮き彫りになる。その後、程なくして則房と和解し、再び置塩城に復帰したとされるが 2、その時点での義祐の影響力がどの程度のものであったかは定かではない。
隠居から6年後の天正4年2月15日(西暦1576年3月15日)、赤松義祐はその波乱に満ちた生涯を閉じた 1。墓所は、かつての赤松氏の菩提寺の一つであったと考えられている、現在の兵庫県姫路市夢前町にある松安寺(しょうあんじ)跡地に存在すると伝えられている 2。彼の死は、戦国時代の播磨において旧守護勢力であった赤松氏のさらなる衰退を象徴する出来事であり、播磨国が織田信長による統一事業へと本格的に組み込まれていく直前のことであった。
5. 赤松義祐をめぐる諸問題と評価
5.1. 史料における記述の比較検討
赤松義祐の実像を明らかにする上で、彼に関する記述が残る各種史料の比較検討は不可欠である。それぞれの史料は成立時期、編纂意図、筆者の立場などが異なり、それらを理解した上で情報を読み解く必要がある。
- 『播磨鑑(はりまかがみ)』: 江戸時代中期に成立した播磨国の地誌であり、平野庸脩(ひらのようしゅう)によって編纂された 34 。浦上政宗・清宗親子暗殺事件など、義祐の時代に関する記述も含まれるが、他の史料(例えば、同事件を赤松晴政の襲撃とする説)との異同が見られる点には注意が必要である 2 。同時代史料ではないため、伝聞や後世の解釈が含まれる可能性を常に念頭に置く必要がある 5 。
- 『信長公記(しんちょうこうき)』: 織田信長の家臣であった太田牛一(おおたぎゅういち)によって記された、信長の伝記的史料であり、戦国時代研究における最も重要な一次史料の一つである。天正3年(1575年)の赤松義祐ら播磨国衆の信長への拝謁など、義祐と織田政権との関わりを知る上で欠かせない 4 。ただし、信長側の視点から記述されている点には留意が必要である。
- 『上月文書裏書(こうづきもんじょうらがき)』『田村文書(たむらもんじょ)』『大阪城天守閣所蔵文書』『黒田家譜(くろだかふ)』: これらの古文書群も、赤松義祐の事績を断片的ながら伝えており、特に家督相続の経緯や周辺勢力との関係を考察する上で参照される 2 。個々の文書の具体的な内容や成立背景を精査し、他の史料と照合することで、より客観的な歴史像の構築に近づける。
- 『赤松家風条々録(あかまつけかふうじょうじょうろく)』: 赤松氏の庶流である赤松上野家(あかまつこうづけけ)に伝来した古記録であり、赤松一門の家法や家中の序列、知行に関する規定などが記されているとされる 5 。赤松氏の内部事情を知る上で貴重な史料であるが、現存するものは写本であり、赤松義祐自身に関する直接的な記述は限定的である可能性も指摘されている。
- 『赤松記(あかまつき)』『赤松盛衰記(あかまつせいすいき)』: これらは軍記物語であり、史実を元にしつつも文学的な脚色や創作が含まれている可能性が高い。特に『赤松盛衰記』は、先行する軍記や伝承を雑纂的に集めたものであり、異説が多く、引用の仕方も杜撰な箇所が見られるとの批判がある 9 。『赤松記』は、主に嘉吉の乱(赤松満祐による将軍足利義教暗殺事件)を中心とした記述が多く、戦国期の義祐に関する情報は限定的かもしれない 5 。これらの軍記物を史料として利用する際には、一次史料との厳密な比較検討が不可欠である。
赤松義祐に関する情報は、このように多種多様な史料の中に散見される。それぞれの史料が持つ特性を深く理解し、相互に比較検討し、批判的な視座から分析することによって、初めてその歴史的実像に迫ることができるのである。
5.2. 人物像に関する考察
赤松義祐の具体的な内政手腕や領地経営、家臣団統制に関する詳細な政策やその状況を示す一次史料は、残念ながら乏しいのが現状である 2。数少ない記録として、永禄11年(1568年)に、後に方広寺(ほうこうじ)の鐘を鋳造することになる芥田五郎右衛門(あくたごろうえもん)に対し、播磨国内における鋳物師(いもじ)の統括を許可したという文書が残されている 2。これは、義祐が領国内の産業、特に金属加工業に対して一定の関与をしていたことを示唆するものであり、経済政策の一端を垣間見ることができる。
しかしながら、彼の治世全体を概観すると、家臣団の統制や領国経営は困難を極めたと推察される。父・晴政を追放して家督を相続した経緯 2、後に嫡男・則房とも対立した事実 2、そして浦上氏や別所氏といった有力国衆の離反や台頭 2 は、赤松惣領家の求心力が著しく低下し、義祐が家臣団を強力に掌握するには至らなかったことを物語っている。ある史料では、義祐が「旧守護家のプライドをかけ、播磨を国家とする公権樹立に腐心した」5と評されているが、その理想の実現は、内外の厳しい情勢の中で極めて困難であった。
外交姿勢においては、浦上氏、織田氏、毛利氏、別所氏、小寺氏といった周辺の諸勢力との間で、合従連衡を繰り返した。これは、弱体化した赤松家が戦国の世を生き抜くための現実的な外交判断であったと言えるが、その一方で、複雑な同盟関係はかえって自身の立場を不安定にし、敵味方が目まぐるしく入れ替わる状況を生み出す要因ともなった。
総じて、赤松義祐は「肉親との対立、国衆の強大化の連続で、不安定な生涯を送った」5人物と評価できる。さらに、「執政後半期において織田信長・足利義昭の圧力を受けており、これまで中央政権に依存してきた赤松氏の当主としては心労が絶えなかっただろう」5との指摘は、彼の苦悩を的確に表している。伝統的な守護大名としての権威を維持しようと苦心しつつも、下剋上の風潮と中央集権化という時代の大きな変化の波に翻弄された人物像が浮かび上がる。彼の生涯は、伝統的権威と実力主義が激しく交錯する戦国時代特有の困難な状況下で、旧勢力の当主が直面したジレンマを体現していると言えよう。家臣団の統制に苦慮し、外部勢力との間で翻弄されながらも、一定期間は赤松惣領家を維持した点は評価されるべきかもしれないが、最終的には時代の大きな流れに抗しきれなかったと言わざるを得ない。
6. 結論
6.1. 赤松義祐の生涯の総括
赤松義祐の生涯は、戦国時代の播磨国という限定された地域において、かつての名門守護大名であった赤松惣領家の当主として、家名の維持と失われた勢力の回復に心血を注いだものであった。しかし、その道程は決して平坦ではなかった。父・晴政を追放して家督を相続するという波乱の幕開けに始まり、その後も家中は必ずしも安定せず、嫡男・則房との対立も経験した。外部に目を向ければ、守護代から台頭した浦上氏や、同じく播磨の有力国衆である別所氏、小寺氏といった勢力との間で、連携と敵対を繰り返す複雑な関係が続いた。そして何よりも、織田信長に代表される中央の統一権力の急速な台頭という、抗いがたい時代の大きなうねりに直面し続けたのである。
義祐は、旧守護家としてのプライドを胸に、播磨における赤松氏の公権を再確立しようと腐心したと伝えられるが 5、内外の困難な状況がそれを許さなかった。彼の生涯は、伝統的な権威が実力主義の前に揺らぎ、地方勢力が中央の巨大な力に飲み込まれていく戦国乱世の縮図であり、旧守護大名がその中でいかにして生き残りを図ろうとし、そして時代の変化に適応しきれずに翻弄されていったかを示す、一つの典型的な事例として捉えることができる。
6.2. 戦国時代の播磨における歴史的意義
赤松義祐が活動した時代は、播磨国が中世的な守護領国制から、織田・豊臣政権による中央集権的な統一支配体制へと移行していく、まさに過渡期にあたる。義祐の動向、特に彼と播磨国内の諸勢力(浦上氏、別所氏、小寺氏、赤松政秀ら)との間の権力闘争や、織田信長ら中央政権との折衝は、この過渡期における播磨の政治状況、諸勢力の力関係の変化、そして中央政権の地方への影響力拡大の具体的な過程を如実に示している。
彼の苦闘と赤松惣領家の最終的な衰退は、播磨における新たな支配体制、すなわち羽柴秀吉による平定と、それに続く近世大名支配体制の出現を準備するものであったと言える。赤松義祐という一個人の生涯を追うことは、単に一武将の伝記に留まらず、戦国時代から安土桃山時代へと至る播磨国の地域史、さらには日本全体の統一過程を理解する上で、重要な示唆を与えてくれるのである。彼の時代の経験と赤松氏の動向は、その後の播磨の歴史を考える上で、決して無視することのできない前提となっている。
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