赤池長任
赤池長任は肥後相良氏の武将。対島津氏の最前線である大口城の城番を務め、永禄11年の大口城防衛戦で島津義弘を撃退する武功を挙げた。

赤池長任:肥後相良氏の勇将、その生涯と事績
1. 序論:赤池長任という武将
赤池長任(あかいけ ながとう)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて、肥後国(現在の熊本県)を本拠とした相良氏に仕えた武将である 1 。本報告書は、現存する史料に基づき、赤池長任の出自、相良家臣としての活動、特に宿敵であった薩摩国(現在の鹿児島県西部)の島津氏との軍事衝突における役割、そして史料上の最後の記録に至るまでを追跡し、その歴史的意義を考察するものである。また、不明な点についても言及し、今後の研究への展望も示唆したい。本報告書の記述は、主に『南藤蔓綿録』や『中世九州相良氏関係文書集』、『求麻外史』といった史料、および関連する研究成果を参照して構成される。
2. 赤池長任の出自と赤池氏
赤池長任の生年は享禄二年(1529年)とされている 3 。彼は「赤池氏」の姓を持つ武将であり、肥後国の戦国大名・相良氏にその身を捧げた 3 。
「赤池氏」は日本の氏族の一つとして認識されているものの 4 、長任が属した肥後国における赤池氏の具体的な系譜や、球磨郡を起源とするのか、あるいは他の地域の赤池姓と関連があるのかといった詳細については、現存する資料からは判然としない 5 。例えば、愛知県日進市に存在する赤池城は丹羽氏によって築かれたものであり 6 、また甲斐国(現在の山梨県)にも赤池姓の記録が見られるが 7 、これらと肥後の赤池長任との直接的な繋がりを示す史料は確認されていない。球磨郡内に「上赤池」という地名が存在することは注目に値するが 8 、これが長任の一族と直接的な関係を持つかどうかは、さらなる郷土史料の精査を俟つ必要がある。
一部の資料においては、長任を「赤池城主」と記述するものも見受けられる 9 。しかし、これは長任が特定の「赤池城」という名の城郭を領有していたことを明確に示すものではなく、彼が何らかの所領や屋敷を有していたことの反映か、あるいは後に詳述する大口城の城番という重要な役割を担っていたことから派生した呼称である可能性も考慮すべきである。肥後国内における具体的な「赤池城」の所在は、現在のところ特定されていない。
赤池長任の出自に関する情報が乏しい点は、彼が必ずしも肥後国で代々続く名族の出身ではなかった可能性、あるいは比較的新興の武士であった可能性を示唆している。戦国時代は、出自よりも実力が重視される流動的な社会であり、相良氏のような国人領主は、常に有能な武将を求めていた。特に、南方に強大な島津氏を控え、国境紛争が絶えなかった相良氏にとって、長任のような武勇に優れた人物を登用する必要性は高かったと考えられる。彼の活躍は、戦国時代における実力主義の一端を映し出すものと言えるかもしれない。
3. 肥後相良氏の家臣として
赤池長任が主に活躍した永禄年間(1558年~1570年)は、相良氏第18代当主・相良義陽の治世であった。この時期、相良氏は南の島津氏、北の阿蘇氏や大友氏といった強大な勢力に挟まれ、常に外交的・軍事的な緊張下に置かれていた 11 。とりわけ、薩摩国との国境地帯である大口(現在の鹿児島県伊佐市)は戦略上の要衝であり、島津氏との間で激しい争奪戦が繰り返されていた。
相良家臣団における長任の地位は、「伊豆守」という官途名(受領名)を称していたことから、一定の格式を有していたことが窺える 1 。そして何よりも、国境防衛の最前線である大口城の城番を任されていたという事実が、彼の重要性を示している 11 。この大口城の城番は、東長兄や丸目頼美といった他の重臣たちと共に、交替で務めていた記録もある 3 。
主君である相良義陽は、父・晴広の死後、若くして家督を継承し、内外の多くの困難に立ち向かった当主である 11 。長任は、この義陽の時代において、対島津戦線の主力を担った武将の一人と評価できる。義陽が長任の行動、例えば永禄七年の筈ヶ尾への独断的な攻撃をどのように評価したかについての直接的な史料は乏しいものの、その後も大口城番の任を解かれていない点から、一定の信頼を得ていたと推測される。
赤池長任は、相良氏にとって対島津戦線の専門家として位置づけられていた可能性が高い。彼が長期間にわたり大口城の守備を担い、防衛に留まらず積極的な攻撃行動も辞さなかったことは、単なる城の守備隊長ではなく、ある程度の裁量権を持った国境司令官としての側面を有していたことを示唆している。絶え間ない島津氏からの軍事的圧力に対し、能動的に対応し防衛線を維持しようとした彼の立場は、常に結果を求められる厳しいものであったと想像される。
4. 赤池長任の武功
赤池長任の武将としての事績は、主に対島津氏との攻防において顕著である。
大口城の城番としての役割
薩摩国大口は、相良氏にとって南の島津氏に対する国防の最重要拠点の一つであった 11 。長任は、人吉衆の兵1,000名(一説には一組300名、また大口に百人番所があったとの記述もあり、兵数には諸説ある 3 )と共に大口城に在番し、その守備を統括した。
永禄七年(1564年)二月:筈ヶ尾への出陣
相良氏が日向国の伊東氏と結んだことにより、島津氏との関係が悪化したことが背景にある 11 。主君・相良義陽からは大口城の堅守を命じられていたにも関わらず、長任は永禄七年二月二十一日に島津領の筈ヶ尾(はずがお、筈尾城とも記される)へ出陣した。この時、桑幡新六、岩崎六郎兵衛を先手とし、騎馬武者65騎、雑兵合わせて300余の兵を率いていた 3 。筈ヶ尾で放火を行い挑発し、出撃してきた島津軍と交戦したが、結果として敗れ、大口城へ退却を余儀なくされた。この戦闘で、殿(しんがり)を務めた長任自身と岡本頼氏は手傷を負い、先手の桑幡新六、岩崎六郎兵衛をはじめ多数の兵が討死するという大きな損害を出した 3 。
『求麻外史』には、長任が攻撃した筈尾城は、真幸(現在の宮崎県えびの市周辺)にあった赤花城を指すのではないかとの考察が記されているが、確証には至っていない 16 。筈ヶ尾は、地理的に大口城の支城、あるいは島津領との境界に位置した城郭であったと考えられる 14 。
表1:永禄七年(1564年)筈ヶ尾出陣
勢力 |
主要指揮官(判明分) |
主な行動・結果 |
損害(判明分) |
典拠 |
相良軍 |
赤池長任、岡本頼氏 |
筈ヶ尾へ出陣、放火・挑発後、島津軍と交戦し敗退。長任・岡本頼氏負傷。 |
桑幡新六、岩崎六郎兵衛ら多数討死。 |
3 |
島津軍 |
不明 |
相良軍の挑発に応じ出撃、これを撃退。 |
不明 |
3 |
この筈ヶ尾への出陣は、赤池長任の積極的な軍事行動を示す重要な事例である。主君の堅守命令に反して出撃した点、そして自身も負傷しながら殿を務めた点は、長任の武将としての性格を考察する上で注目される。
永禄十年(1567年)四月九日:新納忠元襲撃事件
市山城(いちやまじょう)に在番していた島津氏の重臣・新納忠元が、主君島津義久からの使者を見送るために城外へ出た隙を狙い、長任は大口城から上村弥九郎、的場五藤左衛門らを派遣し、初栗(はつくり)の地で忠元を襲撃した 3 。忠元が市山城へ逃げ込んだ後も追撃の手を緩めず、本丸の城戸口で島津方と槍を交えるほどの激しい戦闘となった 3 。
永禄十一年(1568年)一月二十日:大口城防衛戦(大口初栗の戦い)
島津義久・義弘・義虎らが率いる島津軍が大口城へ侵攻してきた 1 。これに対し、長任は菱刈氏(前年に島津氏に征伐され大口城へ逃れていた 11 )の勢力と共にこれを迎撃。巧みな指揮により島津軍を撃退し、特に総大将の一人であった島津義弘を窮地に追い込むという目覚ましい戦功を挙げた 1 。この戦いでは、長任配下の岡本頼氏が島津方の勇将・川上久朗(かわかみ ひさつら)に手傷を負わせ、結果的に死に至らしめるという大功を立てている 1 。川上久朗は永禄十一年二月三日に死去したと記録されている 18 。
『戦国武将覚書』によれば、この戦いを堂ヶ崎の戦いとし、相良方の兵力約5000に対し島津方は約300と圧倒的な兵力差があったため、相良方の勝利は当然であり、島津義弘は家臣を身代わりにして辛うじて逃げ延びたと記されている 3 。ただし、この兵力差については他の史料との比較検討が必要であり、慎重な解釈が求められる。
表2:永禄十一年(1568年)大口城防衛戦
勢力 |
主要指揮官(判明分) |
兵力(推定含む) |
結果 |
典拠 |
相良・菱刈連合軍 |
赤池長任、岡本頼氏、菱刈氏武将 |
約5000 3 |
島津軍を撃退。島津義弘を窮地に追い込む。川上久朗を討ち取る(岡本頼氏)。 |
1 |
島津軍 |
島津義久、島津義弘、島津義虎、川上久朗 |
約300 3 |
敗退。川上久朗戦死。 |
1 |
この大口城防衛戦は赤池長任の最大の戦功として記録されており、相良氏が島津氏の侵攻を一時的に食い止めた重要な戦闘であった。
永禄十二年(1569年):大口城開城とその後
永禄十二年五月、大口城の城番であった深水頼金の諌めを聞き入れず出撃した丸目長恵・内田伝右衛門らが、島津家久の周到な伏兵によって大敗を喫した 11 。また、同盟関係にあった伊東氏も当主伊東義益の急死により真幸院から退去するという状況の変化もあった 11 。これらの要因が重なり、同年九月、相良勢は大口城を開城し、薩摩における領土を失うこととなった。これにより、大口城に籠っていた菱刈氏も島津氏に降伏した 11 。この一連の出来事における赤池長任の直接的な関与は史料からは明らかではないが、大口城の最終的な失陥は、彼のこれまでの奮戦にもかかわらず、相良氏にとって大きな戦略的後退を意味した。
赤池長任の戦術は、単なる防御に留まらず、機を見て攻勢に出る積極性が特徴と言える。筈ヶ尾攻撃では、堅守命令にもかかわらず少数で敵領深くに侵攻し、放火・挑発という積極策をとっている。これは高いリスクを伴う行動であった。また、新納忠元襲撃も、敵将が城外に出た隙を狙うという機動的かつ大胆な作戦であった。これらの行動は、常に数的劣勢や資源不足に直面していたであろう相良氏のような中小勢力が、大勢力に対抗するための一つの戦略であった可能性を示唆している。しかし、その積極性は時として大きな損害(筈ヶ尾での敗退)を招く危険性も孕んでいた。彼の行動は、国境地帯の指揮官としての強い主体性と、戦況を打開しようとする意志の表れと見ることができる。
5. 史料に見る赤池長任
赤池長任の事績を伝える主要な史料としては、『南藤蔓綿録』、『求麻外史』などが挙げられる。
『南藤蔓綿録』は、赤池長任の活動、特に大口城における兵力や筈ヶ尾への出陣に関する記述の典拠として頻繁に引用されており、相良氏研究における基本史料の一つである 2 。この史料には、長任に関する具体的な記述が含まれている 20 。
『求麻外史』には、相良義陽の時代に、大口城主であった赤池長任が真幸の筈尾城を討ったとの記述が見られる 16 。これもまた、相良氏関連の重要な記録である。
『中世九州相良氏関係文書集』にも、赤池長任に関する文書が収録されている可能性が高いが、提供された資料からは具体的な内容までは判明しない。しかし、後述する天正二年の連署状などがこれに含まれると考えられている 2 。
永禄十一年(1568年)の大口城防衛戦以降、相良氏の史書から長任の名が見られなくなるとされる 1 。しかし、特筆すべきは、天正二年(1574年)に、相良氏の重臣である東長兄、深水頼金と共に名を連ねた文書が存在することである 1 。この文書の具体的な内容は不明であるが( 22 はクイズ形式での言及、 42 は別の文書に関する記述)、長任がこの時点においても相良氏内部で一定の公的な活動を継続していたことを示す重要な証拠と言える。
永禄十一年(1568年)から天正二年(1574年)までの約6年間、および天正二年以降の長任の動向は、史料上不明な点が多い。大口城が永禄十二年(1569年)に開城しているため 11 、国境防衛の最前線における武将としての活動記録が途絶えた可能性が考えられる。
この天正二年の文書の存在は極めて重要である。長任は1568年まで軍事的に非常に活発であったが、1569年に大口城が失陥し、相良氏は薩摩の領土を失った。これにより、長任の主たる活躍の場が失われたことは想像に難くない。軍記物や戦闘記録において彼の名が見られなくなるのは、この状況変化と符合する。しかし、1574年の時点でなお、東長兄や深水頼金といった相良氏の重臣クラスの人物と連署しているという事実は、彼が完全に隠棲したり、浪人したりしたわけではなく、何らかの形で相良氏の運営に関与し続けていたことを強く示唆している。東長兄は奉行職にあり 23 、深水頼金(及びその子・長智)も相良氏の外交や内政において重要な役割を担った人物であった 25 。このことから、長任の役割が軍事的なものから、あるいは他の分野、例えば国内の統治や他の方面での備えなどに移った可能性も考えられる。この文書の存在は、赤池長任の評価を一面的に「勇猛な前線指揮官」としてだけでなく、より多角的に捉える必要性を示している。
6. 赤池長任をめぐる人物
赤池長任の生涯を理解する上で、彼を取り巻く人物たちとの関係性を把握することは不可欠である。
主君
- 相良義陽(さがら よしひ) :長任が仕えた相良氏第18代当主 11 。若年で家督を継承し、島津氏や大友氏など強大な勢力との間で苦慮しつつ勢力維持を図った。長任の軍事活動は、義陽の治世における対島津政策の重要な一翼を担っていた。
同僚
- 東長兄(ひがし ちょうけい) :相良氏の奉行を務めた人物 23 。同じく奉行であった丸目頼美との内紛(獺野原の戦い)に関与したことが知られている 23 。弘治二年(1556年)には、赤池長任、丸目頼美と共に大口城の交替制の城番を務めていた記録がある 11 。さらに、天正二年(1574年)には長任、深水頼金との連署状に名を連ねている 1 。東長兄と長任は、大口城の城番を共に務めた同僚であり、後年には重要な文書に連署する間柄であったことから、一定の協力関係にあったと考えられる。
- 深水頼金(ふかみ よりかね) :相良氏の家臣。その子・長智は相良氏の家老として名高い 1 。永禄十二年(1569年)の大口城開城前、島津家久との交戦に際して諌言したとされる 11 。天正二年(1574年)に長任、東長兄との連署状に名が見える 1 。深水頼金もまた、長任と共に相良氏の重要な局面に関わった人物であり、後年まで協力関係にあった可能性が考えられる。
- 丸目頼美(まるめ よりよし)/長恵(ながよし) :相良氏の奉行であり、後に剣豪としても名を馳せた人物 28 。東長兄と対立し、獺野原の戦いで敗れて日向へ逃れた 23 。弘治二年(1556年)には赤池長任、東長兄と共に大口城の交替城番を務めていた 11 。永禄十二年(1569年)の大口城開城前の戦いで敗北を喫している 11 。長任とは大口城の城番を共にした時期があるが、丸目頼美が東長兄と対立した際に長任がどちらの立場を取ったかは史料からは不明である。
- 岡本頼氏(おかもと よりうじ) :赤池長任と共に数々の戦場で奮闘した武将。永禄七年(1564年)の筈ヶ尾出陣の際には負傷し 3 、永禄十一年(1568年)の大口城防衛戦では敵将・川上久朗を討ち取るという大手柄を立てた 1 。長任の指揮下、あるいは同僚として信頼の厚い部将であったと考えられる。
敵対関係
- 島津義弘(しまづ よしひろ) :島津四兄弟の一人として名高い勇将。永禄十一年(1568年)の大口城攻めでは、赤池長任らの活躍により窮地に追い込まれた 1 。
- 新納忠元(にいろ ただもと) :島津氏の重臣で、「鬼武蔵」の異名を取った猛将 30 。永禄十年(1567年)に赤池長任の部隊による襲撃を受けている 3 。後に大口の地頭を務めた 31 。
- 川上久朗(かわかみ ひさつら) :島津氏家臣。永禄十一年(1568年)の大口城防衛戦において、岡本頼氏によって討たれた 1 。
赤池長任が、東長兄や深水頼金といった相良氏の重臣クラスの人物と天正二年に連署している事実は、彼が相良家中の複雑な人間関係や派閥争いの中で、巧みに立ち回ったか、あるいは特定の派閥に属さず実務能力で評価されていた可能性を示唆している。東長兄と丸目頼美の間で起こった深刻な内紛である獺野原の戦いの以前には、長任、東長兄、丸目頼美の三者が大口城の城番を共に務める同僚であったという事実は興味深い。この内紛に長任がどのように関わったか、あるいは中立を保ったのかは不明であるが、結果的に東長兄側が勝利し、丸目頼美は出奔している。その後も長任が東長兄と公的な文書を共にする関係を維持していることは、長任が少なくとも東長兄と敵対する立場ではなかったことを示している。獺野原の戦いのような大きな内紛後も、主要人物と協調関係を保てたことは、彼の政治的バランス感覚、あるいは専門家としての不可欠性を示しているのかもしれない。
7. 赤池長任に関する不明点と今後の研究課題
赤池長任に関する調査を進める中で、多くの不明点が残されていることが明らかになった。
天正二年(1574年)の文書を最後に、史料から赤池長任の消息は途絶え、その後の晩年、没年、墓所の所在については全く不明である 1 。子孫に関する記録も、提供された資料からは見当たらなかった 1 。球磨郡内に赤池長任の墓所を示す具体的な記録は見つかっていない 29 。
また、長任が属した肥後国における赤池氏そのものに関する情報も極めて限定的である。一族の出自、規模、他の相良家臣との姻戚関係など、詳細な情報は乏しい 5 。家紋についても特定には至っていない 34 。
さらに、長任個人の性格や人間性を示す具体的な逸話はほとんど伝わっておらず、その人物像は主に戦闘記録から推測するほかないのが現状である 1 。
これらの不明点を解消するためには、今後のさらなる研究が不可欠である。具体的には、以下の点が課題として挙げられる。
- 『南藤蔓綿録』、『求麻外史』、『中世九州相良氏関係文書集』などの原史料を直接調査し、赤池長任に関する未発見の記述や、天正二年文書の具体的な内容を明らかにすること。
- 人吉球磨地方の郷土史料、寺社縁起、古文書などを丹念に調査し、赤池氏の痕跡や長任の晩年に関する伝承等を発掘すること 37 。
- 相良氏家臣団の構成や他の家臣との関係性をより詳細に分析することで、長任の立場や役割を相対的に明らかにすること 40 。
赤池長任は、一時期、国境防衛の最前線で目覚ましい活躍を見せた武将であった。しかし、大口城失陥という大きな軍事的転換点の後は軍事記録から名が薄れ、天正二年の文書を最後に完全に記録が途絶える。出自や一族、晩年、墓所、子孫に関する情報もほぼ皆無である。これは、戦国時代において、一時期重要な役割を果たしたとしても、その後の状況変化(主戦場の喪失、主家の勢力変化など)や、元々の家格が高くなかった場合、歴史の表舞台から急速に忘れ去られる武将が多数存在したことを示唆している。赤池長任の記録の乏しさは、彼個人の問題というよりは、戦国時代の地方武士に関する史料保存の限界や、歴史記述がしばしば大名や中枢の重臣に偏る傾向を反映していると言える。彼の存在は、記録に残りにくい「現場の指揮官」の重要性と、その功績が必ずしも後世に詳細に伝わらないという歴史の非情さを示している。天正二年の文書がなければ、彼の活動期間はさらに短く認識されていた可能性すらある。
8. 結論:戦国武将赤池長任の生涯と評価
赤池長任は、享禄二年(1529年)に生まれ、戦国時代の肥後国相良氏に仕えた武将である。彼の生涯は、特に永禄年間(1558年~1570年)において、対島津氏の最前線である大口城の城番として目覚ましい武功を挙げたことで特徴づけられる。具体的には、永禄七年(1564年)の島津領・筈ヶ尾への果敢な出陣、永禄十年(1567年)の島津氏家臣・新納忠元襲撃事件、そして永禄十一年(1568年)の大口城防衛戦における島津義弘率いる軍勢の撃退などが記録に残る。
相良氏における赤池長任の役割と歴史的意義は、南方の強大な隣国である島津氏からの絶え間ない軍事的圧力が強まる中で、国境防衛の重責を担い、一時的ではあれその侵攻を食い止めた点にある。彼の活動は、戦国期九州南部における相良氏と島津氏の熾烈な攻防の一断面を具体的に示すものであり、地方史研究において貴重な事例を提供する。
しかしながら、赤池長任に関する史料は限定的であり、その出自や晩年、子孫については不明な点が多い。史料上の記録は、天正二年(1574年)に東長兄、深水頼金といった相良氏の重臣と共に名を連ねた文書が最後となる。この文書の存在は、長任が単なる前線の勇将としてだけでなく、相良氏の運営にもある程度関与していた可能性を示唆しており、その人物像の多面性をうかがわせる。
赤池長任の生涯は、戦国時代の地方武士の実像を垣間見せるものであり、その武功は評価されるべきである。同時に、史料の制約から全体像の解明には至っていない現状は、今後の研究への課題を残している。赤池長任に関するさらなる史料の発見と分析が、戦国期における地方武士の役割や、地域社会における彼らの位置づけの解明に寄与することが期待される。
9. 参考文献
- 主要史料
- 『南藤蔓綿録』(青潮社、1977年) 2
- 池田公一編著『中世九州相良氏関係文書集』(文献出版、1987年) 2
- (言及のある史料として)『求麻外史』
- 副次史料・参照URL
- 赤池長任 - Wikipedia ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%B1%A0%E9%95%B7%E4%BB%BB ) 1
- 相良義陽 - Wikipedia ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E7%BE%A9%E9%99%BD ) 11
- その他、本報告書作成にあたり参照した各資料。
引用文献
- 相良氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F
- 赤池長任 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%B1%A0%E9%95%B7%E4%BB%BB
- 赤池長任はどんな人? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%B5%A4%E6%B1%A0%E9%95%B7%E4%BB%BB
- 赤池(アカイケ)とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%B5%A4%E6%B1%A0
- 赤池 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%B1%A0
- 赤池(あかいけ)城 - aitisiroowari ページ! - 東尾張地区の城 https://aitisiroowari.jimdofree.com/%E6%9D%B1%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E3%81%AE%E5%9F%8E/%E6%97%A5%E9%80%B2%E5%B8%82/%E8%B5%A4%E6%B1%A0%E5%9F%8E/
- 第十三編 史跡・名勝・天然・自然記念物 (11837KB) - 身延町 https://www.town.minobu.lg.jp/chosei/minobucho/files/choshi_17.pdf
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- 『鬼滅の刃』とリンクしている!? 人吉球磨地方に伝わる大蛇伝説と製鉄の歴史 | おるとくまもと https://akumamoto.jp/archives/214129
- 松本町長二期目就任 - 多良木町 https://www.town.taragi.lg.jp/material/files/group/3/heisei21nen03gatsugo.pdf
- 人吉球磨の寺社建築と三十三観音 https://kumamoto.guide/pamphlet/document/10_01.pdf
- 私は「富士山登山鉄道構想」に反対です - 屋根のない博物館のホームページ http://yanenonaihakubutukan.net/bakanakon.html
- 『相浦忠雄遺稿集』を読む―武蔵卒業生戦死者の記録 https://100nenshi.musashi.jp/Kiden/Index/2cfc3277-17a7-4583-b4ca-d1913b19c09f
- 幕末期薩摩藩郷村社会の一断面(1) : 「二階堂本覚 院覚書」によりて - 九州大学 https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4403499/38_p033.pdf