室町幕府の第15代、そして最後の征夷大将軍である足利義昭は、約230年の長きにわたり続いた幕府の終焉を象徴する人物である 1 。彼の生涯は、旧体制の権威と新興勢力の台頭が激しく衝突した戦国時代の動乱を色濃く反映している。織田信長によって将軍の座に就けられながらも、やがて彼と対立し、京都を追われるに至った義昭の軌跡は、戦国期における権力構造の劇的な変容を如実に物語っている 1 。京都追放後も、毛利輝元らの支援を受けて「鞆幕府」として抵抗を続け、豊臣秀吉の時代にはその庇護下で余生を送るなど、彼の人生は単に「最後の将軍」という言葉だけでは捉えきれない複雑な様相を呈している 1 。
足利義昭の生涯と行動を理解する上で重要なのは、失墜しつつあったとはいえ、なお政治的影響力を保持していた室町将軍の「権威」という要素である。義昭自身は強大な軍事力や経済的基盤を持たなかったものの、「征夷大将軍」という肩書きは、織田信長が上洛と畿内制覇の正当性を得るため、あるいは毛利輝元が反信長勢力の結集軸として、それぞれに利用価値を見出すほどの重みを持っていた 2 。この将軍権威の残照と、それを巡る戦国武将たちの思惑の交錯こそが、義昭の数奇な運命を織りなした主要な背景と言えるだろう。
また、義昭はしばしば信長の野望の前に翻弄された悲劇の人物として描かれがちであるが、彼の行動、特に信長への抵抗や反信長包囲網の形成は、結果として信長が幕府という伝統的枠組みを解体し、より直接的な権力掌握へと舵を切ることを促した側面も否定できない。その意味で、義昭は意図せずとも時代の変革を加速させる触媒として機能したとも評価できる 5 。
本報告書では、足利義昭の出自から仏門での生活、将軍就任に至る経緯、織田信長との蜜月と対立、京都追放後の抵抗、そして豊臣政権下での晩年と最期までを、関連史料に基づいて詳細に追う。各時期における彼の政治的判断や行動、主要人物との関係性を深く掘り下げ、近年の研究で進められている多角的な歴史的評価にも光を当てることを目的とする。
足利義昭の生涯は、仏門での静かな生活から一転、戦国の動乱の渦中へと投じられる劇的なものであった。兄・義輝の非業の死をきっかけに、彼は将軍家の再興という重責を担い、波乱に満ちた道を歩み始めることになる。
表1:足利義昭 略年表
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
出典 |
1537年(天文6年) |
1歳 |
足利義晴の次男として誕生。 |
1 |
1542年(天文11年) |
6歳 |
奈良の興福寺一乗院に入室、「覚慶」と名乗る。 |
1 |
1565年(永禄8年) |
29歳 |
永禄の変。兄・足利義輝が殺害され、興福寺に幽閉されるが脱出。 |
1 |
1566年(永禄9年) |
30歳 |
還俗し「義秋」と名乗る。後に「義昭」と改名。 |
1 |
1568年(永禄11年) |
32歳 |
織田信長の支援を得て上洛。室町幕府第15代征夷大将軍に就任。 |
1 |
1572年(元亀3年) |
36歳 |
信長より「異見十七ヶ条」を突きつけられ、関係が悪化。 |
1 |
1573年(天正元年) |
37歳 |
槇島城の戦いで信長に敗北し、京都を追放される(室町幕府の事実上の滅亡)。 |
1 |
1576年(天正4年) |
40歳 |
毛利輝元を頼り、備後国鞆に移る(鞆幕府)。 |
1 |
1588年(天正16年) |
52歳 |
将軍職を朝廷に返上。 |
1 |
1597年(慶長2年) |
61歳 |
大坂にて病没。 |
1 |
足利義昭は、天文6年(1537年)、室町幕府第12代将軍・足利義晴の次男として生を受けた 1 。母は関白近衛尚通の娘である慶寿院 2 。兄には、後に「剣豪将軍」として名を馳せる第13代将軍・足利義輝がいた 1 。
当時の将軍家では、家督相続者以外の男子は、政争や家督争いを避けるために仏門に入るのが慣例であった 4 。この慣習に従い、義昭も幼名を千歳丸といい 7 、6歳の時に奈良の興福寺一乗院に入室し、覚慶(かくけい)と名乗って僧侶としての道を歩み始めた 1 。その後、興福寺一乗院の門跡(住職)にまで昇進するなど、仏門において一定の地位を築いていた 1 。この時点では、彼が将来、将軍として歴史の表舞台に立つことになるとは、誰も予想していなかったであろう。
覚慶の平穏な僧侶としての生活は、永禄8年(1565年)に突如として終わりを告げる。この年、兄である第13代将軍・足利義輝が、家臣であった松永久秀や三好三人衆らによって京都の二条御所で襲撃され、暗殺されるという衝撃的な事件が発生した(永禄の変) 1 。この政変で母・慶寿院も命を落とした 1 。この事件は、覚慶自身の運命を根底から揺るがすものであった。兄の横死により、彼は将軍家の血を引く者として、否応なく政治の渦中へと引きずり込まれることになったのである。
永禄の変の後、覚慶は身柄を興福寺一乗院に押さえられ、事実上の幽閉状態に置かれた 1 。しかし、細川藤孝(幽斎)や和田惟政といった旧幕臣たちの手引きにより、辛くも奈良を脱出することに成功する 2 。この脱出行は、彼のその後の人生を決定づける大きな転換点であった。仏門を離れる決意をした覚慶は還俗し、当初は「義秋(よしあき)」と名乗った 2 。
将軍家再興という重い使命を帯びた義秋は、各地の有力大名に庇護と支援を求める流浪の日々を送ることになる。近江の六角氏や若狭武田氏などを頼った後、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せた 4 。この越前滞在中の永禄11年(1568年)頃、元服し名を「義昭」と改めた 4 。義昭は、朝倉義景をはじめ、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄といった有力大名に対し、上洛して将軍職に就くための協力を求める書状を送り、活発な外交活動を展開した 4 。朝倉義景は義昭を厚遇し、庇護はしたものの、自身が軍勢を率いて上洛することには消極的であったとされる 4 。しかし、義昭は単に庇護を求めるだけでなく、朝倉氏と長年対立していた加賀一向一揆との和睦を斡旋するなど、自身の政治的価値を高めるための努力も怠らなかった 11 。この時期の彼の行動は、受動的に運命に流されるのではなく、自ら積極的に状況を打開しようとする強い意志を示している。
各地の有力大名への働きかけが必ずしも順調に進まない中、義昭にとって大きな転機が訪れる。当時、尾張・美濃を平定し、破竹の勢いで勢力を拡大していた織田信長が、義昭の上洛支援に名乗りを上げたのである 4 。信長にとって、没落しつつあったとはいえ室町将軍家の権威は、自身が天下に号令するための「大義名分」として極めて魅力的であった 5 。一方、義昭にとっては、信長の強力な軍事力が、将軍就任という悲願を達成するための唯一の現実的な手段であった。
永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁された足利義昭は、ついに上洛を果たす 1 。この時、三好三人衆らが擁立していた第14代将軍・足利義栄(義昭の従兄弟)が摂津国で病死したため、将軍位は空席となっていた 1 。信長は朝廷への工作も行い、同年10月、義昭は朝廷から第15代征夷大将軍に任命された 1 。兄・義輝の横死から3年余り、流浪の末に掴んだ将軍の座であった。義昭は、この将軍就任を実現させた信長に対し、当初は「御父(ごふ)」と呼ぶなど、深い感謝の念を示していたという 14 。この時点では、両者の利害は一致しており、その関係は良好に見えた。しかし、義昭が目指す伝統的な幕府権力の再興と、信長が構想する新たな天下統一の形は、その根底において両立し得ない矛盾を孕んでおり、後の破局を予感させるものであった。
足利義昭が織田信長の強力な支援を得て第15代征夷大将軍に就任した当初、両者の関係は良好であり、室町幕府再興への期待も高まった。しかし、幕府の主導権や運営方針を巡る両者の思惑の違いは次第に表面化し、かつての協力関係は深刻な対立へと変質していく。
将軍就任当初、義昭と信長の関係は蜜月と呼べるものであった 15 。信長は義昭のために京都に新たな二条城(旧二条城とは別の、武家風御所)を造営するなど、幕府再興に尽力する姿勢を内外に示した 1 。義昭も将軍として、幕府の権威を回復すべく、諸大名への命令発布や所領安堵といった政務を執り行おうとした。例えば、近江の朽木元綱に対して所領を安堵する御教書(みぎょうしょ)を発給した記録が現存しており、彼が将軍としての権能を行使しようとしていたことが窺える 10 。
義昭は信長の多大な功績に報いるため、幕府の要職である管領や副将軍の地位を提供したが、信長はこれを固辞したとされる 15 。信長は、足利将軍家の桐紋の使用と、守護代斯波氏に準じる待遇のみを受け入れ、幕府の序列の中に自身を明確に位置づけることを避けた。これは、信長が伝統的な幕府の枠組みの中に収まることを望まず、将軍権力と並び立つか、あるいはそれを超越する独自の立場を志向していたことの現れと解釈できる。信長は、幕府を支えるというよりも、幕府を自身の天下布武のための道具として利用する意図を当初から持っていた可能性が高い。
義昭と信長の協力関係は、しかし長くは続かなかった。信長は、義昭を将軍として擁立しつつも、その行動や幕府の運営に対して次第に強い制約を加えるようになっていく。この力関係の変化と両者の認識の齟齬を象徴するのが、信長から義昭に対して出された一連の法令や意見書である。
表2:「殿中御掟」及び「五ヶ条の条書」「異見十七ヶ条」の主要内容と意義
文書名 |
年代 |
主要内容 |
意義・影響 |
出典 |
殿中御掟(九ヶ条及び追加七ヶ条) |
永禄12年(1569年)1月 |
・幕臣の出仕に関する規定 ・訴訟手続きの厳格化 ・将軍への直訴の制限 ・寺社勢力等の殿中への無許可立入禁止 |
幕府運営の基本ルールを再確認し、秩序回復を目指すもの。当初は信長による義昭の権力制限と見なされたが、近年では両者の合意に基づく幕府再興策の一環との評価もある。 |
16 |
五ヶ条の条書 |
元亀元年(1570年)1月 |
・諸大名への命令は信長を通すこと ・軍事行動は全て信長に任せること ・将軍は朝廷儀式等を油断なく務めること ・幕府への忠功者への恩賞地が不足する場合、信長の領地から分与すること ・天下の政治は信長に任せた以上、義昭が口出ししないこと |
義昭の権限を大幅に制限し、信長の優位を明確化。義昭の不満を増大させ、両者の亀裂を深める要因となった。 |
16 |
異見十七ヶ条 |
元亀3年(1572年)9月 |
・義昭の政治姿勢や行動に対する具体的な批判・詰問(内容は多岐にわたるが、将軍としての品格、財政感覚、側近登用、信長への不信感などを含むとされる)。 |
信長が義昭の「五ヶ条の条書」違反などを理由に、公然と将軍を批判したもの。両者の関係修復を不可能にし、義昭の挙兵へと繋がる決定的な出来事となった。 |
1 |
永禄12年(1569年)1月、信長は「殿中御掟」と呼ばれる9ヶ条の規定(後に7ヶ条を追加)を義昭に示し、これを承認させた 16 。これらは幕府内部の規律や訴訟手続きに関するもので、一見すると幕政の正常化を目指すものにも見えるが、実質的には将軍の独断的な行動を抑制し、信長の意向を反映させやすくする狙いがあったと考えられる。
さらに元亀元年(1570年)1月には、より直接的に義昭の権限を制約する「五ヶ条の条書(五ヶ条の御掟とも)」が両者の間で取り交わされた 16 。この条書には、「諸大名への命令を発する際には必ず信長を通すこと」「幕府の軍事行動は全て信長に一任すること」「将軍は朝廷の儀式などを疎かにせず務めること」といった内容が含まれており、義昭が将軍でありながら、その行動の多くを信長の承認と管理下に置かれることを意味した 17 。義昭がこれらの制約に強い不満を抱いたことは想像に難くない 17 。
そして元亀3年(1572年)9月、信長は義昭のこれまでの行動や政治姿勢を厳しく批判する「異見十七ヶ条(あるいは十七箇条の意見書)」を義昭に突きつけた 1 。この意見書は、義昭が「五ヶ条の条書」などの約束事を遵守せず、信長に隠れて独自の外交活動を行ったり、幕府財政を浪費したりしているといった具体的な問題点を列挙し、義昭を厳しく断罪するものであった 17 。これは、名目上の主君である将軍に対し、家臣であるはずの信長が公然と非難するという前代未聞の事態であり、両者の関係が修復不可能な段階に至ったことを示す決定的な出来事であった。義昭はこの屈辱的な意見書に激怒したと伝えられており 17 、信長との武力対決を決意する直接的な引き金になったと考えられる。この「異見十七ヶ条」は、単なる政策提言ではなく、信長による義昭への最後通牒であり、両者の権力闘争が隠された局面から公然の対立へと移行したことを象徴している。
織田信長との対立が避けられないものとなる中、足利義昭は将軍としての名目的な権威を最大限に利用し、反信長勢力の結集を画策する。彼自身は強大な軍事力を持たなかったため、各地の有力大名に呼びかけて信長に対抗する広域な連合戦線を構築することが、唯一の対抗手段であった。これが後に「信長包囲網」と呼ばれるものである。
義昭は、甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、摂津の石山本願寺(顕如)、そしてかつての宿敵であった三好三人衆や、西国の雄である毛利輝元といった、信長の急速な勢力拡大に警戒感を抱く諸大名や寺社勢力に対し、密かに連携を呼びかける御内書(ごないしょ)を頻繁に送った 2 。これらの勢力は、それぞれに信長と利害が対立する事情を抱えており、義昭の呼びかけは彼らにとって信長と戦うための格好の「大義名分」となった。
元亀年間(1570年~1573年)を中心に形成されたこの反信長連合は、第一次から第三次にわたるとも言われ、一時は信長を東西南北から挟撃し、窮地に追い込むほどの力を持った 2 。特に、武田信玄の西上作戦は信長にとって最大の脅威であり、義昭はこの動きと呼応して挙兵するタイミングを計っていた。義昭の外交戦略と、彼が依然として保持していた「将軍」という肩書きの政治的影響力が、この広範な包囲網形成の原動力となったことは明らかである。彼は、自らの手で軍勢を率いて戦うのではなく、外交と情報戦を駆使して信長を追い詰めようとした、いわば「謀略将軍」としての一面を見せていた。
織田信長との対立が頂点に達した足利義昭は、ついに武力による抵抗を選択する。しかし、その試みは信長の圧倒的な軍事力の前に破れ、京都からの追放という結果を招いた。これにより室町幕府は事実上終焉を迎えるが、義昭の抵抗の意志は潰えることなく、亡命先での執拗な反信長活動へと続いていく。
元亀4年(1573年、7月に天正と改元)、足利義昭は、北近江の浅井長政ら反信長勢力と呼応し、信長に対して公然と挙兵した 1 。しかし、この時すでに信長包囲網の最大の柱と期待されていた甲斐の武田信玄が、西上作戦の途上で同年4月に病死しており、包囲網は大きく弱体化していた 6 。
義昭は、京都南郊の宇治にある槇島城(真木島城)に立てこもり、信長軍を迎え撃つ姿勢を示した 1 。槇島城は宇治川と巨椋池に囲まれた要害であり、義昭はここに数千の兵と共に籠城した 20 。しかし、信長はこれを大軍で包囲し、猛攻を加えた。織田軍は城の外郭を突破し、城下に火を放つなどして義昭を追い詰めた 10 。難攻不落を期待した槇島城も、信長の圧倒的な兵力の前に長くは持ちこたえられなかった。
追い詰められた義昭は、信長からの降伏勧告を受け入れざるを得なくなり、同年7月、嫡男の義尋(当時2歳)を人質として差し出すことで降伏した 10 。信長は義昭の生命は助けたものの、京都からの退去を命じた。義昭はまず河内国へ、その後各地を転々とすることになる 1 。この義昭の京都追放をもって、約230年間続いた室町幕府は実質的に滅亡したと見なされている 2 。信長は、義昭追放後の7月28日、朝廷に働きかけて元号を元亀から天正へと改元させた 20 。これは、旧時代の終焉と新時代の到来を天下に宣言し、義昭の将軍としての権威を完全に否定する象徴的な行為であった。
京都を追われたという事実は、室町幕府が首都における統治機能を喪失したことを意味する。しかし、義昭自身が将軍の地位を剥奪されたわけではなく、彼の「将軍」としての正統性や、その肩書きが持つ象徴的な力は、特に反信長勢力にとっては依然として利用価値のあるものであった。この点が、後の「鞆幕府」の存在意義に繋がっていく。
京都を追われた足利義昭は、三好義継に一時保護された後 10 、紀伊国の興国寺などを経て 7 、天正4年(1576年)、西国最大の雄であった毛利輝元を頼り、その勢力下にあった備後国の港町・鞆(現在の広島県福山市鞆町)に下向した 1 。
鞆において、義昭はなおも征夷大将軍としての活動を継続し、反信長勢力の結集と幕府再興を諦めなかった。この亡命政権は、その所在地名から「鞆幕府」とも称される 6 。毛利輝元は、義昭を丁重に迎え入れて庇護し、義昭から将軍に次ぐ地位とされる「副将軍」に任じられたとも伝えられている 23 。輝元にとって、追放されたとはいえ「現職の将軍」である義昭を擁することは、自身の中国地方における支配の正当性を高め、反信長勢力の中核としての地位を内外に示す上で大きな戦略的価値があった 24 。義昭の存在は、毛利氏の軍事行動に「公儀」の権威を与えることになったのである。
義昭は鞆を拠点として、再び反信長包囲網の再構築に奔走した。上杉謙信(後に景勝)、武田勝頼、石山本願寺の顕如、九州の島津氏など、各地の反信長勢力に対して盛んに御内書を送り、信長打倒のための協調行動を促した 7 。また、毛利氏と武田氏の同盟(甲芸同盟)を仲介するなど、外交活動も活発に行った 10 。この「鞆幕府」は、京都の幕府のような実質的な統治機構を持たなかったものの、義昭の将軍としての権威と毛利氏の軍事力を背景に、一定の政治的影響力を保持し続けた。信長が本能寺の変で倒れるまで、義昭の反信長活動は執拗に続けられたのである。
信長が、義昭追放直後に元号を「元亀」から「天正」へ改元させた行為は 20 、単に新しい時代の始まりを告げるだけでなく、義昭の権威を公的に否定し、彼を中心とする反抗勢力の士気を削ぐという明確な政治的意図を持っていた。これは、信長が義昭の将軍としての肩書きが持つ残存影響力を警戒していたことの裏返しとも言える。
本能寺の変による織田信長の突然の死は、足利義昭にとって一縷の望みを抱かせるものであったが、歴史の潮流は彼の期待とは異なる方向へと進んだ。信長亡き後の天下統一を成し遂げたのは豊臣秀吉であり、義昭は新たな覇者の下で、かつての将軍としての矜持を保ちつつも、現実的な選択を迫られることになる。
天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれるという報は、備後鞆にいた足利義昭のもとにも届いた。長年の宿敵であった信長の死は、義昭にとって幕府再興の千載一遇の好機と映ったであろう 7 。彼は直ちに毛利輝元に対し、これを機に上洛して幕府を再興するための支援を要請するなど、再び政治活動を活発化させようと試みた 7 。
しかし、信長後の政治的空白を埋め、天下統一への道を急速に歩んだのは、信長の家臣であった羽柴(後の豊臣)秀吉であった。秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破り、その後、柴田勝家ら信長の他の有力家臣を次々と排除して実権を掌握していった。
この過程で、秀吉と義昭の間には興味深いやり取りがあったとされる。秀吉は、自身の権威を高めるためか、あるいは伝統的な権威構造を利用するためか、義昭に対して自身を養子にするよう要求したという 13 。これは、秀吉が「足利秀吉」となり、将軍職に就くことを視野に入れた動きであった可能性が指摘されている。しかし、義昭はこの申し出をきっぱりと拒否した 13 。この逸話は、没落したとはいえ足利将軍家の嫡流としての義昭の強い自負心と、他者に容易にその権威を利用させまいとする矜持を示すものと言える。
秀吉は、義昭の協力を得ることなく、天正13年(1585年)には関白に、翌年には太政大臣に任命され、朝廷を頂点とする新たな支配体制を確立した 1 。これにより、義昭の将軍としての政治的影響力は相対的に大きく低下した。一時は「関白秀吉・将軍義昭」という、二つの最高権威が並立するような状況が約2年間続いたが 1 、実権は完全に秀吉が掌握していた。
この時期、義昭は秀吉の圧倒的な力を認識し、次第に協調的な姿勢を見せるようになる。例えば、九州の島津氏が秀吉に抵抗した際には、両者の和睦を勧める書状を送るなど、秀吉政権にとって好意的な動きも見せている 10 。これは、自身の政治的野心の終焉を悟り、新たな時代における自身の立場を現実的に模索し始めたことの現れかもしれない。
豊臣秀吉による天下統一事業が進展する中、足利義昭の立場も大きく変化する。天正15年(1587年)、秀吉の計らいにより、義昭は長年離れていた京都への帰還を許された 1 。これは、秀吉が自身の政権の安定と権威を示すために、前将軍である義昭を厚遇する姿勢を見せたものと考えられる。
そして翌天正16年(1588年)正月、義昭はついに征夷大将軍の職を朝廷に返上した 1 。これにより、名実ともに室町幕府はその歴史に幕を下ろした。将軍職辞任後、義昭は出家して昌山道休(しょうざんどうきゅう)と号した 3 。朝廷からは、皇族や摂関に準じる待遇である准三后(じゅさんごう)の称号が与えられた 25 。
秀吉は、前将軍である義昭に対して敬意を払い、山城国槇島などに1万石の所領を与えてその生活を保障した 2 。これは、かつて義昭が信長に敗れた因縁の地である槇島を含むものであり、秀吉の複雑な配慮が窺える。晩年の義昭は、秀吉の側近的な話し相手である御伽衆(おとぎしゅう)の一人に加えられ、秀吉から良き相談相手として遇されたと伝えられている 2 。また、文禄元年(1592年)からの文禄の役(朝鮮出兵)の際には、秀吉の要請に応じ、老齢ながらも手勢を率いて肥前名護屋城(佐賀県唐津市)まで出陣している 3 。これは、秀吉政権下における義昭の立場と、両者の一定の信頼関係を示すものと言えよう。
慶長2年(1597年)8月28日、足利義昭は大坂の自邸にて病のため死去した 1 。享年61。その死は、秀吉が関心を寄せていた慶長の役の最中であったこともあり、比較的質素な葬儀が家臣たちによって執り行われたと伝えられている 25 。波乱に満ちた生涯であったが、最後は畳の上で大往生を遂げた。
足利義昭の墓所については、いくつかの伝承地が存在する。確実なものとしては特定が難しいが、主なものとして以下の場所が挙げられる。
その他、義昭にゆかりの深い寺院や場所としては、以下のようなものがある。
これらの寺社や史跡は、足利義昭の激動の生涯を物語る貴重な手がかりとなっている。
足利義昭の歴史的評価は、時代や研究者の視点によって大きく揺れ動いてきた。織田信長に翻弄された無力な将軍という旧来のイメージに対し、近年では彼の主体性や政治的手腕を再評価する動きが見られる。
表3:足利義昭を取り巻く主要人物とその関係性
人物名 |
関係性・概要 |
主な関連出来事・出典 |
足利義輝 |
同母兄、室町幕府第13代将軍。 |
永禄の変で殺害される。義昭の運命を大きく変えた。 1 |
織田信長 |
当初の擁立者、後に最大の敵対者。 |
義昭を将軍に擁立、後に「異見十七ヶ条」を突きつけ対立、槇島城の戦いで義昭を京都から追放。 1 |
豊臣秀吉 |
信長亡き後の天下人。 |
義昭の将軍職辞任後、彼を庇護し、御伽衆として遇した。 2 |
毛利輝元 |
西国の雄、安芸国の戦国大名。 |
京都追放後の義昭を庇護し、「鞆幕府」を支援。義昭から副将軍に任じられたとされる。 1 |
朝倉義景 |
越前の戦国大名。 |
義昭が将軍になる前、一時的に彼を庇護したが、上洛には消極的だった。 4 |
武田信玄 |
甲斐の戦国大名。 |
信長包囲網の主要メンバーとして義昭と連携。その死は包囲網に大きな打撃を与えた。 2 |
松永久秀 |
大和の戦国大名。 |
永禄の変に関与。立場を頻繁に変え、信長方、時に義昭方として行動。 2 |
三好三人衆 |
阿波・讃岐など四国東部や畿内に勢力を持った三好氏の重臣。 |
永禄の変に関与。信長・義昭の上洛に抵抗し、後に対立。 2 |
細川藤孝(幽斎) |
義昭の側近、幕臣。 |
永禄の変後、興福寺に幽閉された義昭の脱出を助けた主要人物の一人。 2 |
従来、足利義昭に対する歴史的評価は、織田信長の圧倒的な力の前に翻弄され、将軍としての実権をほとんど行使できなかった無力な存在として描かれることが多かった。信長に利用されるだけの「傀儡将軍」というイメージや 2 、京都を追われて各地を流浪したことから「貧乏公方」などと揶揄されることもあった 2 。
このような評価の背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、結果として室町幕府が義昭の代で滅亡し、彼が京都から追放されたという歴史的事実が、彼の能力や政治手腕に対する否定的な評価に繋がりやすかった点である。第二に、織田信長を戦国時代の革新者、天下統一の英雄として捉える歴史観が主流であった時代には、信長に対抗した義昭は旧体制に固執する時代遅れの人物、あるいは信長の偉業を妨害した存在として描かれがちであった 28 。第三に、義昭自身が直接指揮できる強大な軍事力や経済的基盤を持たなかったため、彼の政治的行動が他の戦国大名と比較して見劣りすると判断された側面もある 30 。
これらの要因が複合的に作用し、義昭は長らく、戦国時代の激動の中で主体的な役割を果たすことなく歴史の舞台から退場した、やや影の薄い人物として認識されてきたと言える。
しかし、近年の戦国史研究の深化に伴い、足利義昭に対する評価は大きく見直されつつある。従来の「無力な傀儡」という一面的な見方に対し、彼を室町将軍家の再興という明確な政治目標を持ち、激動の時代の中で主体的に行動しようとした一人の政治家として捉え直そうとする動きが活発化している 28 。
再評価のポイントとして、まず信長との関係性が挙げられる。将軍就任当初の義昭と信長の関係は、単なる支配・被支配ではなく、互いの目的達成のために協力し合う相互依存的な側面も持っていたと指摘される 28 。義昭は、信長の力を借りて将軍に就任した後も、将軍としての権威を行使し、幕府の再興を目指して積極的に政務に取り組もうとしていた。例えば、信長からの制約が強まる中でも、幕府の儀礼を執り行ったり、独自の判断で恩賞を与えようとしたりする姿勢は、単なる傀儡では説明できない 17 。
次に、信長包囲網の形成における義昭の役割である。彼は、将軍という「権威」を巧みに利用し、各地の反信長勢力を結びつける上で中心的な役割を果たした 2 。これは、彼の外交手腕や情報収集能力、そして当時の政治状況に対する深い洞察力を示すものとして高く評価される。強大な「武力」を持つ信長に対し、義昭は「権威」と「外交」を武器に果敢に挑んだと言える。
さらに、京都追放後の「鞆幕府」における執拗な抵抗活動も、彼の不屈の精神と将軍としての強い自負心を示すものとして再評価されている 6 。彼は、物理的な拠点を失いながらも、将軍としての正統性を主張し続け、反信長勢力の精神的支柱として機能し続けた。この粘り強さは、彼が単に運命に流されただけの人物ではなかったことを物語っている。
もちろん、義昭の戦略には限界があったことも事実である。彼が依拠した将軍の権威は、戦国乱世においては絶対的なものではなく、実力を持つ大名の協力なしには具体的な力となり得なかった。また、彼自身が直接動かせる兵力や経済的基盤が脆弱であったことは、彼の政治行動の大きな制約となった 30 。
近年の研究では、義昭政権下で発給された文書の分析や、当時の幕府機構の機能に関する実証的な研究が進められており、それらを通じて、より具体的で多面的な義昭像が構築されつつある 28 。彼は、旧体制の代表者として新しい時代の波に抗おうとした人物であり、その試みは結果として失敗に終わったものの、その過程で見せた主体性や戦略性は、戦国時代の一人の政治家として再検討されるべき価値を持っている。このような歴史の再解釈は、単に過去の人物評価を見直すだけでなく、権威と権力の関係や、変革期における伝統の役割といった、より普遍的なテーマについて考える上で重要な示唆を与えてくれる。
足利義昭の生涯は、仏門における穏やかな日々から一転し、兄の横死によって将軍家の後継者として歴史の表舞台に押し出され、織田信長との提携と対立、京都からの追放、そして毛利氏庇護下での抵抗、最後は豊臣秀吉の下での静かな晩年という、まさに戦国時代の激動を体現するものであった。彼の行動は、一貫して失墜した室町幕府の権威回復と将軍親政の実現という目標に貫かれていたように見えるが、時代の大きなうねりの中でその夢が果たされることはなかった。
義昭の存在と行動は、戦国時代の政治情勢、特に織田信長の天下統一事業の展開に無視できない影響を与えた。信長は義昭を擁立することで上洛の大義名分を得たが、義昭が信長の意のままになることを拒否し、独自の政治的意思を示したことが、両者の対立を招き、結果として信長による幕府の解体へと繋がった。義昭が画策した信長包囲網は、一時は信長を最大の危機に陥れるなど、戦国後期の権力闘争の様相を大きく左右した。彼の抵抗がなければ、信長の天下統一の道筋は異なるものになっていた可能性も否定できない。その意味で、義昭は旧体制の最後の抵抗者として、新しい時代の到来を結果的に早めた触媒の役割を果たしたとも言える。
彼の生涯はまた、伝統的権威が実力主義の前にいかにして変容し、あるいは終焉を迎えるかという、歴史における普遍的なテーマを我々に投げかける。義昭が頼みとした将軍の「権威」は、戦国乱世においては、それを支える「実力」が伴わなければ、いかに脆弱なものであるかを露呈した。しかし同時に、その「権威」が依然として一定の政治的影響力を持ち得たことも、彼が形成した反信長連合の広がりが示している。
「最後の将軍」足利義昭に対する評価は、単に信長に敗れた無力な人物というレッテルを貼るだけでは不十分である。彼は、時代の転換点において、自らの立場と信念に基づき、持てる限りの手段を尽くして激動の時代を生き抜こうとした複雑な人物として、多角的に理解されるべきである。彼の執念とも言える幕府再興への試みは、旧時代の終焉を象徴するとともに、新たな秩序が生まれる前の産みの苦しみを映し出している。その意味で、足利義昭の足跡は、戦国時代史を理解する上で欠くことのできない重要な一頁を構成していると言えよう。