室町幕府第14代将軍、足利義栄。その名は、13代将軍・足利義輝の壮絶な最期や、15代将軍・足利義昭と織田信長が織りなす時代の大きなうねりの影に隠れ、歴史の表舞台で語られることは稀である。一般的に彼に与えられる評価は、「三好三人衆に擁立された傀儡」「在位わずか7ヶ月で京を追われた悲劇の将軍」といった、断片的で一面的なものに留まることが多い 1 。しかし、この固定化されたイメージは、彼が生きた時代の複雑な権力構造と、室町幕府という体制が終焉に至る過程の本質を見えにくくしている。本報告書は、この「忘れられた将軍」というレッテルに挑み、現存する史料を丹念に読み解くことで、足利義栄という一人の人物の生涯と、彼を時代の渦へと巻き込んだ力学を多角的に再構築することを目的とする。
義栄の生涯は、単なる一個人の悲劇に終わるものではない。それは、応仁の乱以降、徐々に変質し続けてきた足利将軍家の権威が、戦国末期にいかにしてその実体を失い、有力な戦国大名の勢力争いの道具へと転化していったかを象徴する、極めて重要な事例である。彼の存在を深く理解することは、室町幕府の黄昏と織田信長の台頭という、日本史の大きな転換点を理解する上で不可欠な鍵となる。
通説では、義栄は主体性のない「操り人形」として描かれ、その対抗馬であった義昭が、織田信長という強力な後援者を得て正統な将軍の座を勝ち取った、という単純な勝敗の物語として語られがちである。しかし、この見方は事態をあまりに単純化しすぎている。義栄が三好三人衆や篠原長房の軍事力を必要としたように、義昭もまた、朝倉義景、そして織田信長の庇護がなければ将軍の座に就くことは不可能であった 3 。つまり、この時点で将軍の正統性は、もはや血筋のみによって保証されるものではなく、それを現実に支える「力」を持つ者の意向に完全に左右されるものへと変質していたのである。義栄と義昭の対立は、単なる従兄弟同士の個人的な確執ではなく、畿内の覇権を巡る三好勢と織田・松永連合という二大勢力の代理戦争であった。義栄の「敗北」は、彼個人の資質の問題というよりも、彼を支えた政治・軍事連合が、時代の新たな勝者となった織田信長の連合に敗れた結果に他ならない。したがって、義栄の物語は「受動的な失敗者」の記録ではなく、将軍権威の本質が根本から問い直された時代の、極めて重要なケーススタディとして捉え直されるべきなのである。
本報告書では、まず義栄の出自である「阿波公方家」の成り立ちと、彼が育った阿波国での政治的環境を明らかにする。次に、彼を歴史の表舞台に押し上げた「永禄の変」と、その後の畿内における権力闘争の実態を詳述する。そして、京都に入ることなく摂津富田で将軍となった彼の短い治世の実態と限界を分析し、織田信長の上洛による政権の崩壊と、謎に包まれた最期へと至る道筋を追う。最後に、これらの分析を通じて、足利義栄とは何者であったのか、そして彼の存在が戦国史に投げかける意味について、新たな歴史的評価を提示したい。
年月 |
足利義栄 |
足利義昭(覚慶・義秋) |
三好三人衆 |
松永久秀 |
織田信長 |
天文7 (1538) |
阿波平島にて誕生(天文9年説あり) 1 。 |
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永禄8 (1565) |
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兄・義輝が永禄の変で殺害される。 |
三好義継、松永久通らと共に将軍・足利義輝を殺害(永禄の変) 6 。 |
息子の久通が永禄の変に参加。久秀自身は在国 7 。 |
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永禄8.7 |
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細川藤孝らの手引きで奈良を脱出 8 。 |
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義昭を幽閉・監視していたが脱出される 2 。 |
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永禄8.11 |
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三好義継を擁し、松永久秀を追放 6 。 |
三好三人衆との対立が表面化し、追放される 6 。 |
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永禄9 (1566) |
9月、篠原長房に擁され摂津越水城に入る 9 。12月、摂津富田の普門寺に移る。同月、従五位下・左馬頭に叙任 5 。 |
4月、従五位下・左馬頭に叙任 6 。9月、越前の朝倉義景を頼る 6 。 |
松永久秀との抗争を続ける。義栄を将軍候補として擁立 10 。 |
三好三人衆と畿内各地で交戦。義昭方に接近 2 。 |
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永禄10 (1567) |
1月、名を義親から義栄に改名 11 。11月、将軍宣下を要請するも却下される 12 。 |
越前に滞在。 |
東大寺大仏殿の戦いで松永久秀と戦う 6 。 |
東大寺大仏殿の戦いで三好三人衆と戦う 6 。 |
8月、美濃斎藤氏を滅ぼし、稲葉山城を攻略 6 。 |
永禄11 (1568) |
2月、普門寺にて征夷大将軍に就任 9 。9月、信長の上洛軍に敗れ、阿波へ撤退。9-10月頃、病死 5 。 |
7月、信長を頼り美濃へ移る 6 。9月、信長と共に上洛。10月、第15代将軍に就任 14 。 |
信長の上洛軍に敗れ、畿内から敗走 15 。 |
信長に協力し、上洛を支援。 |
9月、義昭を奉じて上洛を開始。畿内を平定 4 。 |
足利義栄の生涯を理解するためには、まず彼が生まれ育った「阿波公方家」という特殊な家の成り立ちと、その政治的背景を深く掘り下げる必要がある。彼の存在は、父・足利義維の代から続く、足利将軍家の根深い分裂と、畿内復帰への執念の中から生まれたものであった。
義栄の父、足利義維(よしつな、初名は義賢、後に義冬とも)は、室町幕府11代将軍・足利義澄の子として生まれた 16 。血筋から言えば、次期将軍の有力な継承者の一人であった。しかし、当時の幕政は管領・細川家の内紛と連動しており、激しい権力闘争の末、将軍職は義維の弟(一説には兄)である足利義晴が継承することとなった。
これにより、足利将軍家は、京都に幕府を構える義晴の系統(後の義輝、義昭へと続く)と、それに不満を持つ義維の系統という、二つの流れに事実上分裂する。この分裂は、単なる兄弟間の不和ではなく、明応の政変(1493年)に端を発する10代将軍・足利義稙(義澄の従兄弟)と義澄の対立構造を引き継ぐものであり、義維は義稙の養子となることで、反・義晴派の旗頭としての正統性を得た 6 。
義維は、細川晴元や阿波の実力者であった三好元長らに擁立され、大永7年(1527年)には和泉国堺に独自の政権を樹立する。これは「堺公方府」と呼ばれ、義維自身も「堺公方」と称されるほどの勢力を誇った 5 。一時は京都の義晴政権を圧倒し、畿内の実権を握るかに見えた。しかし、享禄5年(1532年)、最大の支援者であった三好元長が、主君であるはずの細川晴元の策謀によって一向一揆に攻められ自刃に追い込まれると、義維は畿内における全ての足場を失う。彼は淡路島を経由して、母方の縁故地であり、三好氏の拠点でもある阿波国平島(現在の徳島県阿南市)へと逼塞を余儀なくされた 5 。ここで彼は「平島公方(阿波公方)」と呼ばれるようになり、再起の機会を窺いながら、雌伏の時を過ごすこととなるのである。
足利義栄は、天文7年(1538年)または天文9年(1540年)に、父・義維が逼塞するこの阿波平島で生を受けた 1 。彼の少年時代に関する具体的な記録はほとんど残されていないが、父が抱き続けた「将軍家への復帰」という悲願と、失われた権威への渇望に満ちた雰囲気の中で育ったことは想像に難くない 5 。
阿波公方家には、潜在的ながら強力な後ろ盾が存在した。義栄の母は、中国地方一帯に覇を唱えた周防の大大名・大内義興の娘であった 5 。大内氏は、かつて義栄の祖父の代の将軍を支援し、その軍事力で幕政を左右したほどの存在である 20 。義維・義栄父子が、この母方の縁を頼りにしていたことは間違いない。一時期、父子で周防に下向していたという説も存在するが、これは後世の創作である可能性が高く、実際には阿波に留まっていたと考えられている 5 。
この大内氏という巨大な後ろ盾が、天文20年(1551年)に家臣・陶晴賢の謀反によって滅亡(大寧寺の変)したことは、阿波公方家にとって計り知れない打撃であった 22 。義栄がまだ少年であったこの時期に、全国規模で頼れる唯一の縁戚を失ったことは、彼らの政治的選択肢を著しく狭める結果となった。これにより、阿波公方家が生き残りをかけて頼るべき相手は、必然的に足元の地域権力、すなわち阿波の守護である細川氏、そしてその実権を掌握しつつあった三好氏へと絞られていく。
特に、阿波三好氏の当主であった三好実休(三好長慶の弟)は、主家である阿波守護・細川持隆を殺害して下剋上を果たした人物であり、自らの権力を正当化し、阿波国内における権威を高めるために、将軍家の血を引く阿波公方の存在を必要としていた 5 。実休は積極的に平島公方に接近し、両者は緊密な友好関係を構築する。この戦略的な提携こそが、後に義栄が三好三人衆によって将軍候補として擁立される、直接的な伏線となるのである。大内氏の滅亡という不運が、結果的に三好氏との結びつきを強め、義栄を歴史の表舞台へと押し出す遠因となったことは、歴史の皮肉と言えよう。
「公方」とは、本来、将軍家とその一門を指す最高の敬称である 24 。阿波の平島に逼塞していたとはいえ、義維・義栄父子はその血筋の故に、地域社会においては特別な存在として扱われた。彼らの住まう館は「御所」や「公方館」と呼ばれ、父子自身も「御所さま」「公方さま」と尊称され、領民からは深く敬われていた 19 。その権威は、後の江戸時代、蜂須賀氏の治世下になってもなお残り、阿波公方家が発行した札が「マムシ除け」の霊験あらたかな護符として、人々が列をなして求めたという逸話が伝わるほどであった 25 。
しかし、その象徴的な権威とは裏腹に、彼らの実態は極めて脆弱なものであった。政治的にも経済的にも、阿波三好氏の庇護がなければ存続し得ない立場であり、独自の軍事力や経済基盤は皆無に等しかった。彼らが持ち得た唯一の資産は、「足利将軍家の血統」という名目上の権威のみであった。父・義維の代から続く「将軍家への復帰」という宿願は、単なる野心ではなく、失われた実権を取り戻し、名実ともに「公方」となるための、一族の存亡をかけた悲願であった 25 。この、名ばかりの権威と無力な現実との間の巨大な乖離こそが、足利義栄の行動原理と、彼の生涯を覆う悲劇性を理解する上で、最も重要な鍵となるのである。
阿波で静かに再起の時を待っていた足利義栄の運命は、永禄8年(1565年)、京都で起きた前代未聞の事件によって、劇的な転回を迎える。現職将軍の弑逆という大事件は、畿内の政治地図を塗り替え、彼を将軍候補という渦中の座へと引きずり出した。
永禄8年5月19日(西暦1565年6月17日)、室町幕府13代将軍・足利義輝が、三好長慶の後継者である三好義継、そして三好家の重臣である三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)、さらには戦国梟雄として名高い松永久秀の嫡男・松永久通らの軍勢によって、京都の二条御所を襲撃され、殺害された 5 。この事件は「永禄の変」と呼ばれる。
事件の背景には、畿内における権力バランスの大きな変動があった。かつて畿内に絶対的な権勢を誇った三好長慶が永禄7年(1564年)に病死すると、三好家の統制力には陰りが見え始める。一方で、長年三好氏の傀儡となることを拒み続けてきた将軍・義輝は、この機を捉えて将軍親政の実現と幕府権威の回復を目指し、積極的に政治活動を展開していた 2 。彼は諸国の大名間の紛争調停に乗り出し、さらには居住する二条御所に高い石垣や堀を巡らせて城塞化するなど、三好氏との軍事対決も辞さない断固たる姿勢を示していた 6 。この将軍権威の復興の動きは、長慶亡き後の三好家にとって看過できない脅威と映ったのである。
この変が、当初から義輝殺害を目的とした周到な計画に基づくものであったのか、あるいは三好側が将軍に対して何らかの要求を突きつける「御所巻」と呼ばれる示威行動が、予期せず武力衝突へとエスカレートした偶発的な事件であったのかについては、研究者の間でも見解が分かれている 6 。しかし、その動機が何であれ、将軍が自らの家臣に殺害されるという事態は、まさに「前代未聞の儀」であり、朝廷、諸大名、そして民衆に至るまで、社会全体に大きな衝撃と憤りを与えた 6 。この事件は、室町幕府の権威が、もはや回復不可能なまでに失墜したことを天下に示す象徴的な出来事となった。
永禄の変の首謀者として、しばしば松永久秀の名が筆頭に挙げられる。しかし、事件当日、久秀自身は大和国に在国しており、襲撃に直接参加したわけではない。実際に軍を率いて御所に押し寄せたのは、息子の久通と三好三人衆、そして三好本宗家の当主・義継であった 6 。
事件直後、将軍弑逆という共通の目的を果たした三好三人衆と松永久秀は、急速に関係を悪化させ、激しい内部抗争へと突入する。その根本的な原因は、長慶亡き後の三好家における主導権争いにあった。三好三人衆は、長慶の養子である三好義継を名目上の当主として擁しつつ、自らが合議制で実権を掌握しようと図った 10 。これに対し、長慶のもとで絶大な権力を築き上げてきた松永久秀は、三人衆の台頭を快く思わず、三好家を自らの支配下に置こうとする野心を隠さなかった 10 。
この三好家内部の権力闘争は、空位となった将軍の座を巡る争いと直接的に連動した。三好三人衆は、自らが主導権を握るための「大義名分」として、阿波にいる足利義栄を新たな将軍候補として擁立する動きを見せる。一方、松永久秀は、これに対抗するための政治的カードとして、永禄の変の際に捕らえ、幽閉していた義輝の弟・一乗院覚慶(後の足利義昭)を確保した 2 。こうして、畿内の覇権を巡る争いは、義栄と義昭という二人の足利一門をそれぞれ旗頭に掲げた、二つの陣営による代理戦争の様相を呈していくのである。
コード スニペット
graph TD
subgraph 義栄陣営
Yoshihide(足利義栄)
Triumvirate(三好三人衆)
Nagafusa(篠原長房 / 阿波三好氏)
Triumvirate -- 擁立 --> Yoshihide
Nagafusa -- 擁立・軍事支援 --> Yoshihide
end
subgraph 義昭陣営
Yoshiaki(足利義昭)
Hisahide(松永久秀)
Yoshitsugu(三好義継)
Nobunaga(織田信長)
Fujitaka(細川藤孝)
Fujitaka -- 救出・補佐 --> Yoshiaki
Hisahide -- 一時確保・後に同盟 --> Yoshiaki
Yoshitsugu -- 同盟 --> Hisahide
Nobunaga -- 擁立・軍事支援 --> Yoshiaki
end
Triumvirate -- 敵対 --> Hisahide
Triumvirate -- 敵対 --> Yoshitsugu
Yoshihide -- 将軍位を争う --> Yoshiaki
style Yoshihide fill:#bbf,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
style Yoshiaki fill:#bbf,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
上図が示すように、「三好氏が義栄を支援した」という単純な構図ではないことがわかる。三好本宗家の当主である三好義継は、実権を奪おうとする三人衆に反発し、宿敵であったはずの松永久秀と結び、最終的には義昭・信長方に合流した 29 。この三好一族内部の深刻な分裂こそが、義栄の将軍就任を困難にし、彼の政権基盤を終始不安定なものにした最大の要因であった。
三好三人衆が、数ある足利一門の中から特に義栄に白羽の矢を立てた理由は、複合的なものであった。第一に、前述の通り、松永久秀との権力闘争を有利に進めるための政治的な「大義名分」を確保する必要があった 10 。第二に、長年分裂してきた足利将軍家を、かつて父・義維が属した義稙の血統に一本化することで、より自分たちの意のままに操りやすい将軍を立てようという狙いがあったとする説も有力である 6 。
事実、事件直後から、京都の公家である山科言継や、畿内に滞在していたイエズス会宣教師ルイス・フロイスといった同時代の観察者たちは、この政変の目的が「阿波にいる義栄を将軍にするため」であったと、自身の日記や報告書に記している 5 。これは、義栄擁立の動きが、ある程度公然の計画として認識されていたことを示唆している。
しかしながら、義栄が実際に阿波から海を渡り、畿内に進出するのは、永禄の変から1年以上が経過した永禄9年(1566年)9月のことであった 9 。もし当初から周到に計画されていたのであれば、この時間差は不自然である。このことから、三人衆の当初の計画は、より流動的なものであった可能性も指摘されている 6 。
より説得力のある見方は、三人衆の行動が、対抗勢力の動きに対応した結果であった、というものである。永禄8年7月、松永久秀の監視下にあった義輝の弟・覚慶(義昭)が、細川藤孝ら義輝の旧臣たちの手引きによって奈良を脱出する 3 。この脱出劇の成功は、三人衆にとって致命的な誤算であった。正統な後継者候補である義昭が自由の身となり、各地の大名に支援を呼びかけ始めると、三人衆の立場は急速に悪化する。この劣勢を挽回し、自らの正統性を主張するために、彼らは対抗馬として義栄を本格的に擁立せざるを得なくなった。つまり、義栄の擁立は、当初からの積極的な計画というよりは、義昭という強力なライバルの出現によって、いわば「後出し」の形で決断された戦略であった可能性が高いのである。義栄は、自らの意思とは別に、畿内の激しい権力闘争の渦の中心へと、否応なく引き寄せられていったのであった。
永禄の変によって将軍候補に祭り上げられた足利義栄であったが、その前途は決して平坦ではなかった。畿内では三好三人衆と松永久秀の抗争が激化し、もう一人の将軍候補である従兄弟の足利義昭が各地で支援を求める中、義栄の将軍就任は、軍事力と政治工作が複雑に絡み合う、困難な道のりとなった。
永禄9年(1566年)、膠着した戦況を打開するため、足利義栄はついに長年過ごした阿波の地を離れ、畿内へと渡海する。この一大軍事行動を実質的に計画し、主導したのは、三好三人衆ではなく、阿波三好氏の宿老であり、当代随一の将帥と評された篠原長房であった 5 。
長房は2万5千ともいわれる大軍を率いて摂津に上陸すると、たちまち松永久秀方の諸城を攻略し、その軍事力を畿内に見せつけた 23 。義栄はまず摂津越水城(現在の兵庫県西宮市)に入り、その後、摂津富田(現在の大阪府高槻市)にある普門寺を自らの本拠地、すなわち事実上の「幕府」とした 9 。この時期の篠原長房の権勢は絶大であり、宣教師ルイス・フロイスは、その日本史の中で「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿であった」と記している 32 。三好三人衆にとって義栄は、松永久秀に対抗するための政治的な駒に過ぎなかったかもしれないが、長年阿波公方家に仕えてきた篠原長房にとって、義栄を将軍の座に就けることは、主家の悲願を達成するという強い意志に裏打ちされたものであった 5 。義栄の「幕府」は、実質的にはこの篠原長房と彼が率いる阿波三好軍の強力な軍事力によって支えられていたのである。
義栄が摂津に拠点を構える一方、宿敵である足利義昭(当初は義秋と名乗る)は、近江、若狭、そして越前へと流浪を続け、朝倉義景らの庇護を受けながら、各地の有力大名に上洛支援を求める書状を送り続けていた 3 。こうして、畿内を舞台に、義栄と義昭という二人の将軍候補が、互いの正統性をかけて熾烈な争いを繰り広げることになった。
その主戦場の一つが、京都の朝廷であった。将軍の任命権は、形式上は天皇が有しており、朝廷から認められることは、正統性を確保する上で極めて重要であった。この政治工作において、当初先んじたのは義昭であった。永禄9年4月、義昭は義栄に先んじて、朝廷から従五位下・左馬頭に叙任される 6 。左馬頭は、次期将軍が任じられるのが慣例となっていた官職であり、これは朝廷が義昭をより正統な後継者と見なしていた可能性を示唆するものであった。
この劣勢に対し、義栄陣営も猛然と巻き返しを図る。篠原長房らが中心となり、朝廷に対して盛んに働きかけを行い、太刀や馬を献上するなど、根回しを重ねた 11 。その結果、同年12月、義栄もついに義昭と同じ従五位下・左馬頭に叙任されることが許された 5 。官位において宿敵・義昭と肩を並べたこの報は、義栄陣営に大きな歓喜をもたらし、『足利季世記』には、篠原長房をはじめとする阿波の諸将が喜び勇んだ様子が記されている 5 。この出来事は、義栄が名実ともに将軍候補として公的に認められたことを意味し、彼の陣営にとって大きな精神的支柱となった。
朝廷工作で一定の成果を上げたものの、畿内の戦乱は一向に収まらず、義栄は幕府の本拠地である京都へ入ることができないままであった。三好三人衆と松永久秀・三好義継連合軍との戦いは泥沼化し、義栄は摂津富田の普門寺に留まり続けざるを得なかった。
永禄10年(1567年)11月、義栄は満を持して将軍宣下を朝廷に願い出るが、この時は却下されている 12 。朝廷が宣下を渋った理由は定かではないが、畿内の情勢が未だ安定しないことや、義昭の存在を考慮したため、あるいは献金が不十分であったためとも考えられる。
年が明けた永禄11年(1568年)2月、義栄は再度、将軍宣下のための費用を朝廷に献上する。この時、献上金の中に質の悪い銭(悪銭)が多く混じっていたため、朝廷側で受け取りを巡って騒動になったという逸話が残っており、義栄陣営の苦しい財政事情を物語っている 5 。紆余曲折の末、ついに同年2月8日、義栄は本拠地である摂津富田の普門寺において、征夷大将軍の宣下を受ける 9 。
これは、室町幕府の歴史上、京都以外の場所で将軍宣下の儀式が行われた、極めて異例の事態であった。高槻市の公式記録によれば、将軍任命を伝える朝廷からの勅使をこの普門寺で迎えた際、祝賀行事として公家たちが蹴鞠に興じ、義栄は御簾の中からそれを鑑賞したと伝えられている 35 。これは、将軍としての権威を内外に示そうとする必死の試みであったが、その晴れの舞台が本来あるべき京都の御所ではなく、戦乱の最前線である摂津の一寺院であったという事実に、義栄政権が抱える根本的な限界が象徴されていた。父・義維の代からの悲願は達成されたものの、その船出は、あまりにも不安定な荒波の中でのものであった。
摂津富田で将軍となった足利義栄であったが、彼の治世は当初から多くの困難に直面していた。強固な後ろ盾に支えられているとは言え、その権力基盤は極めて限定的であり、将軍としての権威を十全に発揮することは叶わなかった。さらに、彼自身の体を蝕む病が、その短い治世に暗い影を落としていた。
足利義栄は、初代・足利尊氏から続く室町幕府の歴代将軍の中で、唯一、一度も幕府の本拠地である京都の地を踏むことができなかった将軍として、歴史にその名を留めている 1 。彼の政権、すなわち「富田幕府」は、三好三人衆と篠原長房が率いる軍事力によって辛うじて維持されており、その支配が及んだのは、彼らの軍事占領下にあった摂津、和泉、山城南部など、畿内の一部地域に過ぎなかった。
さらに深刻だったのは、幕府としての統治機構が事実上、機能不全に陥っていたことである。室町幕府の行政実務は、代々その任に当たってきた奉行衆と呼ばれる専門官僚たちによって支えられていた。しかし、彼らの多くは、主君であった足利義輝を弑逆した三好三人衆らが擁立した義栄に対し、強い反発と不信感を抱いていた。彼らは義栄政権への協力を拒み、中には義昭の生存を知って越前へと下り、彼に合流する者も少なくなかった 6 。これにより、義栄は将軍の称号こそ手にしたものの、国家を統治するための行政組織、すなわち「幕府」そのものを手に入れることができなかったのである。彼の政権は、将軍という名の旗を掲げた軍事政権ではあったが、国家統治の体をなすものではなかった。
将軍の権威と権力は、その名において発給される御内書や奉行人奉書といった公式文書を通じて行使されるのが、室町幕府の常であった 36 。しかし、義栄が将軍として主体的に発したとされる奉行人奉書は、現在までにわずか2通しか確認されていない 5 。在位期間が短かったことを考慮しても、この少なさは異常であり、彼が将軍としての権威をほとんど行使できなかった、あるいは行使するだけの統治機構を持たなかったことの動かぬ証拠となっている。
この事実は、義栄政権の実態を理解する上で極めて重要である。それは、彼が単なる「傀儡」であったという以上に、彼の「幕府」が、実質的な統治能力を欠いた、いわば名ばかりの存在であったことを示している。将軍は存在するが、幕府は機能していない。このねじれこそが、義栄政権の最大の特徴であり、限界であった。
一方で、限定的ながらも統治活動が行われていた形跡も残されている。例えば、篠原長房が義栄の名のもとに、天龍寺の寺領の安堵(所有権の承認)を行っている文書が存在する 37 。これは、治安維持や利権の調整といった統治活動が、義栄政権下でも試みられていたことを示している。しかし、その担い手は義栄自身や彼の幕府官僚ではなく、あくまで軍事的な後援者である篠原長房であった。これは、義栄政権下で行われた数少ない統治活動でさえ、義栄自身の将軍権威に由来するものではなく、篠原長房という一個人の実力に依存していたことを物語っている。
義栄の前途に暗い影を落としていたのは、政治的・軍事的な困難だけではなかった。彼は将軍に就任した頃から、重い病に苦しんでいたと記録されている。複数の史料が、彼が「腫物」を患っていたと伝えている 2 。
「腫物」という言葉が具体的に何を指すのかは定かではないが、抗生物質も近代的な外科学も存在しない戦国時代において、悪性腫瘍(癌)や、それが原因で起こる化膿性の疾患は、多くの場合、死に直結する不治の病であった 40 。この深刻な病が、義栄の政治活動や軍事指揮に大きな制約を与えたことは間違いない。松永久秀が毒を盛って彼を暗殺しようとしたという伝説も残されているが、これは政敵による中傷の類であり、信憑性は低いと考えられている 5 。
父祖代々の悲願であった将軍職に就きながら、ついに京都の地を踏むことはできず、権力基盤は日に日に揺らいでいく。そして、自らの肉体は不治の病に蝕まれていく。摂津富田の陣中にあった義栄を包んでいたのは、将軍就任の栄光ではなく、深い失意と、忍び寄る死の影であった。
永禄11年(1568年)秋、足利義栄の短い治世に、決定的な終焉をもたらす嵐が東から吹き寄せた。尾張の織田信長が、宿敵・足利義昭を奉じて、天下に号令すべく京を目指したのである。
永禄11年9月7日、織田信長は美濃・尾張・伊勢の兵力を結集した大軍を率い、岐阜から京に向けて怒涛の進撃を開始した 4 。信長軍はまず、進路を阻もうとした南近江の守護・六角義賢を、わずか数日で打ち破り、その居城である観音寺城を陥落させる。六角氏のあまりにも早い敗北は、畿内の諸勢力に大きな衝撃を与えた。
信長の電撃的な進撃の前に、義栄を支えていた三好三人衆の防衛線は、なすすべもなく瓦解した。彼らは組織的な抵抗を行うことすらできず、摂津芥川山城をはじめとする主要な拠点を次々と放棄し、四散敗走した 6 。
この国家の存亡をかけた決戦の最中、義栄政権の最高指導者であるはずの将軍・足利義栄は、重い病の床に伏していた。総大将の不在と病状の悪化は、三好方の士気を著しく低下させた 5 。この絶望的な状況を前に、義栄政権の軍事的中核であった篠原長房は、信長軍との決戦が無益であると判断する。彼は、無駄な消耗を避けて兵力を温存し、再起を図るため、病床の義栄を伴って本拠地である阿波へと撤退することを決断した 5 。義栄の「幕府」は、信長軍と一度も刃を交えることなく、崩壊したのである。この戦略的判断の裏には、義栄の病という個人的な悲劇が、政権全体の運命を決定づけるほど重大な影響を及ぼしていたという事実があった。もし義栄が健康で、将軍として采配を振るうことができたなら、当代屈指の将帥であった篠原長房が、これほどあっさりと撤退を選んだかは疑問が残る。義栄の病が、反信長抵抗勢力の首を、戦う前に刎ねてしまったのである。
信長の上洛と、それに伴う自軍の敗走からほどなくして、足利義栄は失意のうちにその短い生涯を閉じた。将軍在位期間は、わずか7ヶ月から8ヶ月であった 1 。享年31(または29)。
しかし、彼の最期は多くの謎に包まれている。まず、その正確な死没の日付が確定していない。史料によって記述が異なり、9月13日、9月30日、10月1日、10月8日、10月20日、10月22日など、複数の説が存在する 5 。
さらに、彼が息を引き取った場所についても、諸説紛々としている。将軍宣下を受けた摂津富田の普門寺で亡くなったとする説、撤退先の阿波国撫養で亡くなったとする説、あるいはその途上の淡路島で亡くなったとする説などがあり、いずれも決定的な証拠を欠いている 2 。
義栄の死の前後、永禄11年10月18日には、織田信長に擁立された足利義昭が朝廷から将軍宣下を受け、第15代将軍に就任している 6 。この時、義栄の将軍職が正式に解任された上で義昭が就任したのか、それとも義栄の死によって将軍職が空位となったために義昭が就任したのかという点についても、明確な記録がなく、見解が分かれている 12 。一国の最高権力者であるはずの将軍の死が、その日時も場所も、さらにはその前後の法的な手続きさえも定かでないという事実は、当時の畿内がいかに混乱を極めていたかを、何よりも雄弁に物語っている 36 。
ただ、その遺体は故郷である阿波へと送られ、平島公方家の菩提寺である西光寺に葬られたと伝えられている 2 。京都の土を踏むことなく将軍となり、失意のうちに病死し、その最期さえも歴史の闇に包まれた義栄は、再び故郷の土へと還ったのである。
足利義栄の生涯を振り返る時、我々は彼を単なる「悲劇の将軍」や「傀儡」として片付けるのではなく、戦国時代末期の複雑な力学の中に位置づけ、その歴史的意義を改めて問い直す必要がある。彼の存在は、室町幕府の終焉と新たな時代の到来を告げる、一つの重要な指標なのである。
足利義栄の生涯は、まさに戦国時代の幸運と不運が凝縮されたものであったと言える。もし、三好長慶が病死せず、永禄の変が起きず、そして三好三人衆と松永久秀が対立しなかったならば、阿波の一地方領主であった彼が、歴史の表舞台に将軍候補として躍り出ることは決してなかったであろう 5 。彼は、自らのあずかり知らぬところで起きた一連の偶然の連鎖によって、幸運にも将軍の座へと押し上げられた。
しかし、彼は単に運命に流されただけの無気力な傀儡ではなかった。父祖代々の悲願をその身に負い、自らを鼓舞して将軍として振る舞おうとした形跡が見られる。宿敵・義昭に先んじて将軍宣下を勝ち取ったことは、彼と彼を支えた人々が、理想の幕府構築を目指して戦略的に行動した結果であった 5 。
だが、彼を待ち受けていたのは、あまりにも厳しい現実であった。彼の権力基盤は終始脆弱であり、幕府としての実体を伴わなかった。そして何よりも、彼の体を蝕んだ病という抗いようのない不運が、その全ての野心と可能性を打ち砕いた。彼は、時代の転換点に翻弄されながら、幸運と不運の狭間で懸命に生きた一人の人間であった。
義栄の死後、彼を旗頭として信長に抵抗を続けていた三好三人衆や篠原長房は、戦うための大義名分を完全に失い、やがて歴史の表舞台から姿を消していく 2 。彼らの没落は、義栄という存在がいかに重要であったかを逆説的に証明している。
義栄が再興を夢見た阿波公方家そのものは、彼の弟である足利義助の系統によって江戸時代を通じて存続した。しかし、阿波を支配した蜂須賀家のもとでその所領は大幅に削減され、かつての「公方」としての権威は完全に失われた 23 。京都の等持院に安置されている室町幕府歴代将軍の木像の中に、14代将軍であるはずの義栄の像は加えられていない 25 。彼は、後世においても「忘れられた将軍」であり続けた。
しかし、彼の短い治世と悲劇的な最期は、足利将軍家の権威が名実ともに失墜し、血筋や伝統ではなく、ただ「力」のみが全てを決定する新たな時代が到来したことを告げる、一つの象徴的な出来事であった。研究者の中には、もし義栄が病に倒れず、その軍事的才能を高く評価された篠原長房と共に信長・義昭の上洛軍に抵抗していたならば、日本の歴史は違う展開を見せた可能性があったと考察する者もいる 5 。
足利義栄は、歴史の大きな転換点に翻弄されながら、確かに存在した室町幕府最後の将軍の一人であった。彼の存在を正しく理解することなくして、戦国末期の畿内政治史、そして室町幕府の終焉を真に語ることはできない。彼の物語は、勝者の歴史の影に埋もれた、もう一つの戦国時代の真実を我々に伝えているのである。