足利義澄は細川政元に擁立された11代将軍。明応の政変で就任後、義稙に追放され、復権叶わず病死。戦国時代の幕開けを告げた将軍。
室町幕府第11代将軍、足利義澄。その名は、管領・細川政元によって擁立された傀儡であり、やがて前将軍・足利義稙に追放された悲運の人物として、歴史の中に刻まれている 1 。しかし、彼の存在を単なる権力闘争の駒として片付けることは、その生涯が持つ歴史的な重要性を見過ごすことになる。彼の生涯は、応仁の乱によって大きく揺らいだ幕府の権威が、「明応の政変」という決定的な事件を経て崩壊へと向かう過程そのものと重なっている。この政変こそ、多くの研究者によって戦国時代の実質的な始期と見なされる画期的な出来事であった 3 。
義澄の人生の特異性は、彼自身の意思を超えて、時代の大きな転換点に立たされたことにある。彼の死後、その息子たち、義晴と義維は、それぞれが京都の伝統的幕府と、新興都市堺に拠点を置く「堺公方」という二つの権力中枢の象徴となり、将軍家の分裂を固定化させた 6 。これは、義澄個人の悲劇的な生涯が、結果としてその後の日本の政治構造に長期的かつ深刻な影響を及ぼしたことを示している。
本報告書は、足利義澄の出自からその最期、そして彼が歴史に残した遺産に至るまでを時系列に沿って詳述する。各章では、関連する史実を深く掘り下げ、その背景にある政治的力学や人間関係を分析することで、時代の奔流に翻弄されながらも、図らずも新時代の到来を告げる役割を担った足利義澄という人物の多面的な実像に迫ることを目的とする。
西暦(和暦) |
足利義澄の動向 |
主要関連人物の動向 |
主要な政治・軍事上の出来事 |
1480年(文明12) |
堀越公方・足利政知の次男として伊豆で誕生 1 。 |
- |
- |
1487年(長享元) |
6歳で上洛し、天龍寺香厳院にて出家。「清晃」と名乗る 1 。 |
9代将軍・足利義尚が六角高頼討伐のため近江へ出陣(鈎の陣) 10 。 |
- |
1489年(長享3/延徳元) |
義尚が陣没。将軍後継者候補の一人となる 1 。 |
足利義材(後の義稙)が後継候補となる。 |
- |
1490年(延徳2) |
- |
足利義材が第10代将軍に就任 11 。 |
- |
1493年(明応2) |
細川政元らに擁立され、還俗して「義遐(よしとお)」と改名 1 。 |
細川政元がクーデターを起こし、将軍・義材を追放。義材は越中へ亡命(越中公方) 3 。 |
明応の政変 |
1494年(明応3) |
12月、第11代将軍に就任。後に「義高」と改名 1 。 |
- |
- |
1502年(文亀2) |
政元との対立から京を出奔。名を「義澄」に改める 1 。 |
- |
石清水八幡宮に義稙調伏の願文を奉納 9 。 |
1507年(永正4) |
- |
管領・細川政元が家臣に暗殺される 7 。 |
永正の錯乱 |
1508年(永正5) |
大内義興に擁された足利義稙の上洛により、近江へ逃亡。将軍職を廃される 2 。 |
大内義興が義稙を奉じて上洛。義稙が将軍に復帰。細川高国が京兆家家督を継ぐ 14 。 |
- |
1509年(永正6) |
細川澄元と共に京都奪還を目指し挙兵するも敗北(如意ヶ嶽の戦い) 15 。 |
- |
- |
1511年(永正8) |
8月14日、近江・水茎岡山城にて病死(享年32)。長男・義晴が誕生 16 。 |
8月23日、義澄派が船岡山合戦で大敗。六角高頼が義稙方に寝返る 2 。 |
船岡山合戦 |
足利義澄の出自は、室町幕府が抱える構造的な分裂と深く結びついていた。彼の父、足利政知は、第6代将軍・足利義教の四男であり、時の第8代将軍・足利義政の異母兄という高貴な血筋にあった 20 。しかし、その立場は決して安泰なものではなかった。政知は、関東で幕府に反旗を翻した鎌倉公方・足利成氏に対抗するため、幕府によって伊豆に派遣された「堀越公方」であった 20 。これは、足利一門が中央と関東で骨肉の争いを繰り広げていた享徳の乱の最中のことであり、義澄が生まれた堀越公方家そのものが、足利氏内部の深刻な対立の産物であったことを意味する。政知自身も、関東における幕府の代理人という立場でありながら、その権力基盤は脆弱で、幕府の意向に翻弄される存在であった 21 。
義澄は文明12年(1480年)、政知の次男として伊豆国堀越で生を受けた 1 。母は公家の武者小路家出身の円満院であった 9 。当時、堀越公方家の後継者は、異母兄である茶々丸と定められており、次男であった義澄は、生来的に政治の表舞台から隔てられた存在であった 1 。武家の次男三男が家督相続から外れ、仏門に入ることは当時の慣習であったが、義澄の場合、その道は早くから定められていた。
叔父である将軍・足利義政の意向により、義澄はわずか6歳にして京都の臨済宗大本山、天龍寺の塔頭である香厳院の後継者となることが決定する 1 。香厳院は、父・政知が出家していた際に院主を務めた寺院であり、足利氏とゆかりの深い場所であった 1 。文明19年(1487年)、彼は故郷の伊豆を離れて上洛し、仏門に入り「清晃(せいこう)」という法名を授かる 1 。この時点では、彼が武家としてではなく、高僧としてその生涯を終えることが既定路線であった。
清晃として静かな修行の日々を送っていた彼の運命は、中央の政情不安によって再び大きく揺れ動く。長享3年(1489年)、第9代将軍・足利義尚が近江の陣中で嗣子なく急死し、幕府の将軍職が空位となったのである 1 。これにより、足利一門の血を引く清晃は、思いがけず将軍後継者候補の一人として、その名が歴史の表舞台に浮上することになった 1 。
この時は、同じく将軍家の血を引く足利義視の子、義材(後の義稙)が、義政の未亡人である日野富子の強力な推挙によって第10代将軍に就任したため、清晃の将軍就任は実現しなかった 1 。しかし、この一件は、後の政争の火種を蒔くこととなる。日野富子は、甥にあたる義材を推す一方で、清晃のことも気にかけており、義尚が住んでいた小川殿を彼に譲渡しようとした 1 。これに対し、義材の父・義視は、富子が清晃を寵愛し、将来的に義材の対抗馬として擁立する布石ではないかと深く疑い、激怒のあまり小川殿を破壊してしまうという事件を起こした 1 。
この一連の出来事は、義澄の生涯が、彼自身の意思とは無関係に、権力者たちの都合や猜疑心によって運命を左右される「客体」として始まったことを象徴している。彼は堀越公方の次男という生まれによって後継者の座から外され、僧侶になることを運命づけられた 1 。しかし、中央の将軍家の後継者問題という、彼にはあずかり知らぬ事情によって、再び俗世の権力闘争の渦中へと引き戻されたのである 1 。さらに、彼の故郷である伊豆では、後に異母兄の茶々丸が継母である円満院(義澄の生母)と弟の潤童子を殺害するという凄惨な内紛が発生しており 12 、彼の天涯孤独な境遇と、有力な後ろ盾を持たない無力さを一層際立たせている。この、他者の意図によって人生の航路を定められるという境遇は、彼の生涯を貫く通奏低音となった。
11年にわたる応仁の乱(1467-1477)は、京都を焦土に変え、室町幕府の権威を根底から揺るがした 3 。幕府の求心力が失われる中、各地の守護大名は領国経営に専念するようになり、幕府の統制力は著しく弱体化していく 25 。このような権力の空白期に、幕府の管領職を世襲する細川京兆家の当主、細川政元が強大な権力を掌握し始めた 26 。彼は幕政の実権を完全に掌握し、その権勢は「半将軍」と称されるほどであった 27 。
細川政元の専横に対し、第10代将軍に就任した足利義材(後の義稙)は、失われた将軍権威の回復に強い意欲を見せた。父・足利義視の死後、彼は自ら軍を率いて近江の六角高頼を討伐し(六角征伐)、続いて河内の畠山基家を攻める(河内征伐)など、将軍親政を強力に推し進めた 10 。
将軍が管領の意向を無視して独自の軍事・政治行動をとることは、政元の権力に対する直接的な挑戦であった。特に、政元の政敵であった畠山政長からの要請で開始された河内征伐は、政元にとって看過できない事態であった 12 。もしこの征伐が成功すれば、長年分裂していた畠山氏が政長のもとで再統一され、細川氏を脅かす強大な勢力として復活する可能性があったからである 12 。政元は強く反対したが、義材はこれを完全に無視して出兵を強行した。
明応2年(1493年)4月、義材が主力の幕府軍を率いて河内国に出陣し、京都が手薄になった隙を突いて、細川政元はクーデターを決行した 3 。世に言う「明応の政変」である。
この政変は、政元が単独で引き起こしたものではなかった。彼の背後には、前将軍・義政の未亡人であり、幕府内で絶大な影響力を保持していた日野富子と、幕府の財政・行政を司る政所のトップである政所執事・伊勢貞宗という、幕府中枢の重鎮たちがいた 1 。彼らもまた、義材の独断専行と相次ぐ軍事行動が幕府の財政を疲弊させ、その存立自体を危うくするものとして、強い危機感を抱いていたのである 12 。
政元、富子、貞宗らによる連合政権は、新たな将軍として、天龍寺の僧であった清晃に白羽の矢を立てた。彼は京都に召し出され、還俗して「義遐(よしとお)」と名乗り、後に「義高(よしたか)」、そして最終的に「義澄」と改名し、第11代将軍の座に就けられた 1 。
しかし、その地位は名目上のものであり、政治の実権は完全に政元、富子、貞宗ら後見人に握られていた 1 。義澄は、将軍としての権威も実力も持たない、完全な傀儡であった。この政変の最も重大な帰結は、臣下であるはずの管領が、武力をもって主君である将軍を追放し、意のままになる別人を将軍に据えることが可能であると天下に示した点にある。これにより、将軍の権威は血統の正統性ではなく、それを支える有力者の軍事力に依存することが明白となり、室町幕府の権威は修復不可能なまでに失墜した。
明応の政変は、しばしば戦国時代の始期とされるが、それはこの事件が幕府システムの構造的破壊であったからに他ならない。応仁の乱が、幕府というシステム 内部 での有力守護大名間の派閥抗争であり、将軍権威の「衰退」の始まりであったとすれば 10 、明応の政変は、主従関係の根幹を破壊し、幕府中央政権を機能不全に陥らせた、権威の「崩壊」を象徴する事件であった 3 。これにより、もはや幕府の権威に頼ることなく、実力で領国を支配する戦国大名が各地で自立し、下剋上が常態化する「戦国時代」が本格的に開幕したのである 5 。
義澄擁立派(反義材派) |
義材派 |
将軍候補 |
現職将軍 |
・足利義澄(清晃) |
・足利義材(後の義稙) |
主導者 |
主要支持者 |
・細川政元(管領) |
・畠山政長(前管領) |
・日野富子(前将軍義政未亡人) |
|
・伊勢貞宗(政所執事) |
|
同調した大名・幕臣 |
(政変後、義材を支持) |
・赤松政則(播磨守護) |
・神保長誠(越中守護代) |
・大内義興(周防守護) |
・畠山尚順(政長の子) |
・上原元秀(細川氏家臣) |
・朝倉貞景(越前守護) |
将軍に就任した当時、義澄はわずか14歳の少年に過ぎず、政治の実権は完全に後見人たちによって掌握されていた。特に管領・細川政元は「京兆専制」と呼ばれる強力な支配体制を確立し、幕政を事実上、意のままに動かした 9 。義澄は名目上の最高権力者でありながら、その意思が政治に反映されることはほとんどなかった。
政元が義澄をいかに軽んじていたかを示す逸話も残されている。義澄の元服の儀式において、加冠役(烏帽子親)を務めるはずの政元が、儀礼的な烏帽子を被ることを嫌がったために式が延期されるという前代未聞の事態が起きた 13 。これは、政元が義澄を独立した人格を持つ将軍としてではなく、自らの権力を正当化するための道具としてしか見ていなかったことの現れであった。
しかし、義澄は無気力な傀儡ではなかった。年齢を重ね、成長するにつれて将軍としての自覚に目覚め、自らの手で政務を執ろうとする意欲を見せ始める 2 。彼は将軍の権限である所領の安堵や官位の授与などを通じて、独自の支持基盤を築き、政治的な影響力を行使しようと試みた 17 。
当然ながら、こうした動きは、義澄が傀儡であり続けることを望む政元との間に深刻な対立を生んだ。義澄は政権維持のために政元の軍事力を必要とし、政元は自らの権力基盤として義澄の将軍という権威を必要とする。この奇妙な相互依存関係が、両者の間に「和解と対立をくり返す」という、絶え間ない緊張状態を生み出した 2 。
両者の対立が頂点に達したのが、文亀2年(1502年)の出奔事件である。政元との関係が悪化した義澄は、将軍御所を出て洛北の岩倉にある妙善院に引きこもるという、実力行使に打って出た 13 。これは、将軍が政務を放棄するという異常事態であり、政元に対する強烈な抗議の意思表示であった。
この際、義澄は説得に訪れた政元と伊勢貞宗に対し、面会を拒否した上で、それぞれ5か条と7か条からなる政治的要求を突きつけたと記録されている 2 。要求の具体的な内容は、後柏原天皇の即位式の費用負担や内裏の警護強化など、将軍として果たすべき公的な責務に関するものであった。この行動は、彼が単なる無力な存在ではなく、自らの「将軍」という立場を最大限に利用して、強大な権力者である政元に抵抗するだけの意思と策略を持ち合わせていたことを示している。
義澄政権にとって、内なる敵が政元であるとすれば、外なる最大の脅威は、明応の政変で追放された前将軍・足利義稙(義材より改名)であった。義稙は京を追われた後、越中守護代・神保長誠を頼って亡命政権を樹立し、「越中公方」と称された 12 。彼は北陸の諸大名の支持を取り付け、常に京都への復帰を虎視眈々と狙っており、義澄政権にとってその存在は目の上のこぶであった。
義澄の義稙に対する憎悪は常軌を逸するほど激しいものがあった。1502年、彼は京都の石清水八幡宮に願文を奉納し、神仏の力によって義稙を呪殺しようと試みている 9 。その願文には、義稙を「足利義稙」ではなく、父・義視の邸宅があった地名に由来する「今出川義材」と記されていた。これは、義稙を足利一門の正統な一員として認めず、その存在を完全に否定しようとする、義澄の強い意志の表れであった 9 。
義澄と政元の対立は、傀儡政権が必然的に内包する構造的欠陥の現れであった。政元は義澄を将軍に据えることで権力を手にしたが、その権力の正統性は、義澄が「正当な将軍」であるという一点に依存していた 26 。そのため、政元は義澄を完全に無視することはできなかった。一方で、義澄は将軍という立場を利用して親政を目指したが、その地位を支える軍事力は政元に依存しており、決定的な決裂は自らの破滅を意味した 9 。この相互依存と対立のジレンマが、出奔と和解の繰り返しという不安定な政治状況を生み、義澄政権の基盤を内側から蝕んでいった。この内輪揉めは、外部の脅威である義稙派に対して、政権が一致団結して効果的に対処することを著しく困難にしたのである。
永正4年(1507年)、義澄政権を根底から揺るがす大事件が勃発する。政権の絶対的な支柱であった管領・細川政元が、入浴中に家臣によって暗殺されたのである 7 。修験道に深く傾倒し、生涯妻帯しなかった政元には実子がおらず、摂関家や一門から迎えた3人の養子(澄之、澄元、高国)の間で熾烈な後継者争いが繰り広げられていた 26 。政元の暗殺は、養子の一人である澄之を擁立しようとした家臣らによる凶行であった。この事件を「永正の錯乱」と呼ぶ 7 。
政元という「半将軍」の死は、畿内に巨大な権力の空白を生んだ。彼の死後、細川京兆家は澄元派と高国派に分裂し、家督を巡る壮絶な内紛、すなわち「両細川の乱」へと突入していく 7 。
中央政権のこの大混乱を、千載一遇の好機と捉えた人物がいた。明応の政変以来、越中、越前と流浪を続け、当時は西国一の大大名・大内義興の庇護のもと周防国に身を寄せていた前将軍・足利義稙である 14 。彼は「流れ公方」と揶揄されながらも、将軍復帰の執念を燃やし続けていた。
永正5年(1508年)、大内義興は、ついに義稙を奉じて上洛の軍を起こす 14 。その軍勢は中国・九州の諸大名を加えた大軍であり、畿内にこれを単独で阻止できる勢力は存在しなかった。
義澄と、政元の後継者として細川家の家督を継いだ細川澄元は、この上洛軍を迎え撃とうと試みる。しかし、政元という絶対的な権力者を失った義澄政権に、かつてのように諸大名を動員する力はもはや残されていなかった 9 。
事態を決定的にしたのは、細川京兆家内部の分裂であった。澄元と家督を争っていたもう一人の養子、細川高国が、自派の勢力を率いて義稙・大内義興側に寝返ったのである 14 。これにより、義澄・澄元派は軍事的にも政治的にも完全に孤立した。
抗する術を失った義澄と澄元は、同年4月、15年近く維持してきた首都・京都を放棄し、近江国へと落ち延びた 1 。ここに、細川政元のクーデターによって始まった義澄政権は、その政元の死をきっかけとして、あっけなく崩壊したのである。
義澄の失脚は、彼個人の資質や能力の問題というよりも、彼を支えていた権力構造そのものが崩壊したことによる、いわば必然的な結果であった。彼の将軍としての地位は、徹頭徹尾、細川政元という一個人の強大な力によってのみ保証されていた 12 。その政元が「永正の錯乱」によって暗殺された瞬間、その保証は完全に消滅した 7 。さらに、後継者であるべき細川家が内部分裂し、義澄を支えるべき勢力自体が敵対関係に陥ったことで 14 、彼の立場は完全に宙に浮いてしまった。自前の軍事力も、諸大名を動かす真の権威も持たなかった義澄にとって、彼を支える構造が崩れた瞬間に、将軍の座を維持することは不可能であった。彼の追放劇は、政元という一本の巨大な柱によってかろうじて支えられていた脆弱な建築物が、その柱を失って轟音と共に崩れ落ちる様を彷彿とさせるものであった。
首都・京都を追われた義澄が頼ったのは、近江守護・六角高頼であった 7 。彼は義澄を自領に迎え入れ、その身を保護した。ここに歴史の皮肉がある。この六角高頼こそ、かつて義澄の前任者である第9代将軍・義尚や第10代将軍・義材が、失墜した幕府権威の回復をかけて親征を行った、まさにその討伐対象であった人物なのである 10 。かつての幕府の敵が、今や都を追われた将軍の最後の頼みの綱となる。この事実は、幕府中央の権威が完全に失墜し、地方の有力大名の力が相対的に増大した戦国乱世の到来を、何よりも雄弁に物語っていた。
亡命先にあっても、義澄の闘志は衰えなかった。彼は細川澄元と共に、近江や澄元の本拠地である阿波を拠点として、将軍職と管領の地位を奪還すべく、京都の義稙・高国・大内義興の連合政権に対して数年間にわたる執拗な抵抗を続けた 9 。その戦いは決して一方的なものではなく、一時は京都近郊まで迫り、敵軍を破って京を奪還するなど、優勢に転じた局面もあった 15 。さらに義澄は、宿敵・義稙を暗殺するために刺客を送り込むなど、あらゆる手段を用いて執念深く復権を目指し続けた 2 。
永正8年(1511年)8月、義澄・澄元軍は、京都北方の船岡山に陣を構える高国・大内連合軍との一大決戦に臨むこととなった(船岡山合戦)。義澄は近江から、澄元は丹波から、それぞれ京都を挟撃する作戦であった。
しかし、まさにその決戦を目前にした8月14日、義澄は亡命先の近江・水茎岡山城にて、突如病に倒れ、帰らぬ人となった 2 。享年32(満30歳)、あまりにも若く、そしてあまりにも時機を逸した死であった。
復権運動の「大義名分」そのものであり、軍の総大将であった義澄の死は、味方陣営に計り知れない衝撃を与えた。士気は著しく低下し、作戦は根底から覆された 16 。義澄軍による挟撃を期待できなくなった澄元軍は、兵力で圧倒的に優勢な高国・大内連合軍の総攻撃の前に大敗を喫し、多くの将兵を失って壊滅した 16 。
さらに、義澄の死は、彼の最後の庇護者であった六角高頼の離反を招いた。高頼は、義澄の死を見届けるや否や、即座に義稙方へと寝返り、義澄派は近江の拠点をも完全に失ったのである 7 。
義澄の最期は、彼の全生涯を象徴するかのごとき、皮肉に満ちた結末であった。彼は「将軍」という名目があったからこそ、細川澄元や六角高頼にとって利用価値のある存在であった。しかし、彼の死によって、その「大義名分」という最大の価値が失われた瞬間、彼を支えていたはずの勢力もまた、彼の大義を見捨てた。生前は権力者の都合で将軍の座に就けられ、その死は味方の決定的な敗北と庇護者の裏切りを招く。彼の人生は、徹頭徹尾、戦国期の非情な権力力学に翻弄され続けた一生であったと言えよう。
義澄・澄元派 |
義稙・高国派 |
将軍候補 |
将軍 |
・足利義澄(前将軍) |
・足利義稙(復帰) |
細川京兆家 |
細川京兆家 |
・細川澄元 |
・細川高国 |
主要支持勢力 |
主要支持勢力 |
・三好之長(阿波衆) |
・大内義興(周防守護) |
・赤松義村(播磨守護) |
・畠山尚順(河内守護) |
・六角高頼(近江守護) ※義澄死後、高国派へ寝返り |
・伊丹元扶(摂津国人) |
|
・内藤貞正(丹波守護代) |
足利義澄は失意のうちにその生涯を終えたが、彼の死は室町幕府の分裂を決定的なものとした。彼の存在によって生じた「義稙系(義材/義稙)」と「義澄系(義澄-義晴-義輝-義昭)」という二つの将軍家の血統は、その後もそれぞれの支持勢力に担がれ、戦国時代を通じて畿内の政治抗争の基本的な対立軸として存続することになる 12 。
船岡山合戦の後、義澄の遺児であり、彼の死の年に生まれたばかりの長男・亀王丸(後の義晴)は、父を支持していた播磨守護・赤松義村のもとへ送られ、その庇護下で養育された 2 。
やがて、将軍に復帰した義稙と、彼を支えた細川高国の間にも対立が生じる。権力を掌握した高国は、今度は自らが擁立したはずの義稙を追放し、新たな傀儡将軍として、かつての敵であった義澄の子・義晴を擁立するという挙に出た 7 。歴史の巡り合わせは皮肉なものである。義澄を都から追いやった中心人物の一人である高国が、その息子を将軍に据えることで、結果的に義澄の血統が将軍職の正流として継承されていくことになった。これ以降、織田信長によって京都を追われる最後の将軍・足利義昭に至るまで、室町将軍はすべて義澄の子孫によって占められることとなったのである 20 。
一方で、義澄が残したもう一つの血脈が、戦国史に新たな潮流を生み出す。義澄の次男(一説に長男)である足利義維は、兄・義晴とは別に、父の盟友であった細川澄元の本拠地、阿波の細川氏に引き取られ、庇護されていた 2 。
やがて、細川高国と対立した澄元の嫡男・細川晴元と、その重臣である三好元長は、この義維を将軍候補として奉じ、京都の義晴・高国政権に対して反旗を翻した。彼らは高国軍を破り、義晴を近江へ追いやることで、畿内の実権を掌握した 7 。
しかし、義維は伝統的な首都である京都には入らなかった。彼が政権の拠点として選んだのは、当時、日明貿易や南蛮貿易の拠点として繁栄を極め、「会合衆」と呼ばれる有力商人たちによって自治が行われていた国際自由都市・堺であった 42 。このため、義維とその政権は、京都の将軍(義晴)と対比して「堺公方」あるいは「堺幕府」と称されることになる 8 。
「堺公方」の成立は、室町幕府の歴史において画期的な意味を持つ。京都に正統な将軍(義晴)とその幕府が存在する一方で、畿内の実権を握るもう一つの幕府が堺に並立するという、前代未聞の「二元支配」状況が出現したのである 41 。
さらに重要なのは、その権力基盤の違いである。「堺公方」を支えていたのは、伝統的な幕府の官僚機構や守護大名の権威ではなかった。その力の源泉は、堺の商人たちが生み出す莫大な経済力と、阿波を本拠地とする三好氏の強力な軍事力にあった 42 。これは、旧来の荘園公領制に依存した封建的な権力から、商業・流通と、守護大名とは異なる新たな武士団の実力に基盤を置く、より戦国時代的な権力構造への移行を象徴していた。
足利義澄の二人の息子を通じて、将軍家の分裂は単なる家督争いから、より本質的な対立へと昇華した。それは、京都を中心とする伝統的・形式的な権威を象徴する義晴政権と、堺という新興都市の経済力と実力主義的な軍事力を背景とする義維政権との、異なる権力基盤を持つ二つの政治体制の対立であった。義晴の権力は、形式上は伝統的な幕府の延長線上にあったが、義維の権力は、もはやその枠組みの外に成立していた。義澄の血統は、期せずして、室町時代的な価値観と戦国時代的な価値観が衝突する最前線となり、その後の三好長慶による畿内制覇や、織田信長による天下統一へと至る戦国史の展開を規定する、重要な役割を担うことになったのである。
足利義澄の生涯は、一貫して権力者たちの都合に翻弄され続けた悲劇であった。堀越公方の次男として生まれ、本来であれば僧侶として静かな一生を終えるはずであった彼は、細川政元の政治的野心によって還俗させられ、傀儡の将軍として歴史の表舞台に立たされた 1 。在職中は政元の影に苦しみ、ささやかな抵抗を試みるも、その政元の死と共に権力基盤を失い、宿敵・義稙と西国の大大名・大内義興によって追放される 9 。そして、再起をかけた決戦の直前に病に倒れ、その死が味方の敗北を決定づけるという、最後まで自らの運命を切り開くことのできなかった人生であった 16 。
しかし、彼個人の無力さとは裏腹に、その存在は日本の歴史に不可逆的な変化をもたらした。歴史学において、戦国時代の始期をどこに置くかについては、「応仁の乱(1467年)説」と「明応の政変(1493年)説」が有力な二つの見解として存在する 4 。応仁の乱が幕府権威の「衰退」の始まりであったとすれば、義澄を将軍に据えた明応の政変は、将軍の廃立が臣下の意のままに行われることを天下に示し、幕府権威の「崩壊」を決定づけた事件であった。この政変を境に、幕府の権威に頼らない戦国大名が各地で本格的に自立し、実力主義と下剋上が支配する時代が到来したのである 3 。
足利義澄の擁立は、足利将軍家を二つの系統へと完全に分裂させ、その後の半世紀以上にわたる畿内の政治抗争の基本的な構図を創り出した。さらに、彼の子である義維が創出した「堺公方」は、幕府がもはや唯一の中央政権ではないことを象徴し、伝統的な権威に代わる新たな権力(経済力と軍事力)の台頭を示した。これは、やがて三好長慶による実質的な天下掌握、そして織田信長による統一事業へと繋がる道筋であった。
結論として、足利義澄は、彼自身の意思や能力とは無関係に、その存在自体が時代の大きな転換点となった人物である。彼の悲劇的な生涯は、室町幕府という旧秩序が名実ともに終焉を迎え、力こそが全てを決定する戦国乱世が本格的に幕を開けたことを、歴史に対して何よりも雄弁に物語っているのである。