最終更新日 2025-07-24

進藤庄兵衛

進藤庄兵衛は弘前藩家老で青森開拓の祖。秋田の商人という伝承は、秋田湊の繁栄と地理的近接性、普遍的な名前、そして義経伝説のような伝承形成の力学が混同を生んだ。

進藤庄兵衛の実像と伝承:弘前の「鬼家老」と秋田湊の記憶

序章:進藤庄兵衛をめぐる二つの像

本報告は、「秋田の商人、進藤庄兵衛」という一人の人物像の探求から始まる。利用者様の当初の認識にあるように、秋田湊(現在の秋田県秋田市土崎)は、中世の日本における最も重要な港湾の一つとして、その名を歴史に刻んでいる。日本最古の海事法規集ともいわれる「廻船式目」には、特に繁栄した10の港として「三津七湊」が挙げられており、「出羽秋田」はその一つに数えられていた 1 。戦国時代には安東氏がこの地を支配し、日本海交易の要衝として、その繁栄は頂点に達した 3 。この豊かな歴史的文脈の中に、一人の傑出した商人の姿として「進藤庄兵衛」が想定されていた。

しかしながら、現存する史料を徹底的に調査した結果、歴史の舞台で確かな足跡を残した「進藤庄兵衛」という人物は、**江戸時代前期の弘前藩(津軽藩)に仕えた家老、進藤庄兵衛正次(しんどう しょうべい まさつぐ)**であることが明らかとなった 4 。彼は商人ではなく、藩政の中枢を担った武士であり、特に港町・青森の都市開発に絶大な功績を残した人物として知られている。その偉業は後世にまで語り継がれ、今日においても青森市の廣田神社に神として祀られ、地域の人々から篤い崇敬を集めているのである 5

この「秋田の商人」という伝承上の姿と、「弘前の家老」という史実の間に横たわる大きな乖離こそが、本報告書が解き明かすべき核心的な問いである。本報告の目的は、単に事実を訂正することに留まらない。なぜ、このような人物像の混同や伝承が生まれ得たのか、その背景にある歴史的、地理的、そして文化的な土壌を深く掘り下げることにある。これにより、一人の人物の名を軸として、史実を確定する歴史学的な探求と、記憶と物語が形成される民俗学的な分析という二つの側面から、奥深い歴史のダイナミズムを解き明かしていく。

議論の出発点として、二つの人物像の差異を以下の表にまとめる。

表1:進藤庄兵衛に関する二つの像の比較

項目

利用者様の当初認識(伝承上の像)

史料上の実像(進藤庄兵衛正次)

時代

戦国時代

江戸時代前期

場所

出羽国・秋田湊(現・秋田県秋田市土崎)

陸奥国・弘前藩、青森(現・青森県)

身分

商人(廻船問屋など)

武士(弘前藩家老)

主な功績

日本海交易による町の繁栄への貢献(推定)

青森の都市基盤整備、藩政改革への貢献

この明確な対比は、単なる事実誤認という言葉では片付けられない、より深い問いを我々に投げかける。それは、歴史的な記憶が、いかにして地域間を移動し、その土地の文脈に合わせて変容し、新たな物語として根付いていくのかという、普遍的なテーマへの入り口である。本報告書は、この問いへの答えを探ることで、一人の人物伝を超えた、歴史と伝承の相互作用に関する一つのケーススタディを提示するものである。


第一部:歴史的実像 ― 弘前藩家老・進藤庄兵衛正次

第一章:出自と立身 ― 最上家旧臣から津軽の名家老へ

進藤庄兵衛正次の生涯は、戦国の気風が薄れ、新たな武士の在り方が模索された江戸時代初期という時代の転換点を象徴している。彼の剛直な性格と主君への忠義は、数々の逸話として語り継がれ、その人物像を鮮やかに描き出している。

一族の来歴と津軽への道

進藤庄兵衛正次は、慶長19年(1614年)、進藤正吉の子として生を受けた 4 。彼の父・正吉は、出羽国(現在の山形県・秋田県)に広大な領地を誇った大名・最上氏に仕える武士であった。しかし、元和8年(1622年)、最上家は家中の内紛、いわゆる「最上騒動」を理由に幕府から改易を命じられる 4 。この突然の主家の崩壊により、正吉をはじめとする多くの最上家臣は、一日にして仕えるべき主を失い、浪人となることを余儀なくされた。これは、徳川幕府による支配体制が確立していく過程で、全国各地で見られた社会変動の典型的な一例であった。

路頭に迷った一族であったが、彼らには新たな道を切り拓くための縁があった。正吉は婿養子であり、その養父、すなわち正次から見れば養祖父にあたる佐竹正勝ら一族7人は、北隣の津軽氏を頼ることを決意する。彼らは陸奥国東津軽郡羽白村(現在の青森県青森市羽白)に移り住み、寛永5年(1628年)、弘前藩の2代藩主・津軽信枚に仕官することが叶った。その後、一族は姓を「進藤」に改め、津軽の地で新たな武士としての歩みを始めることとなる 4

家督相続と「鬼の庄兵衛」の誕生

正次は、寛永17年(1640年)に祖父・正勝の跡を継いで家督を相続し、100石を加増されて合計200石の知行を得た 4 。若くして一家を率いることになった彼は、その実直な働きぶりで藩主の信頼を得て、順調に昇進を重ねていく。そして寛文12年(1672年)、ついに藩政の最高責任者の一人である家老職に就任するに至った 4

彼の名を後世にまで知らしめたのは、その妥協を許さない剛直な性格であった。職務においては極めて厳格で、同僚や部下の怠慢や不正を決して見過ごさなかった。その厳しさから、藩士たちの間では「しんどう(しんどい)、しょっぺー(つらい)」と、彼の名をかけて畏れられるほどであったという 4 。しかし、彼の厳しさは単なる気難しさではなく、藩と主君の将来を思う強い忠義心に裏打ちされたものであった。それを物語る二つの有名な逸話が残されている。

一つは、3代藩主・津軽信義にまつわる逸話である。ある時、信義が江戸屋敷での酒宴で泥酔し、乱行に及んで客が次々と退席し始めるという事態が起きた。さらに信義は、酔った勢いのまま屋敷の外へ出ようとした。このままでは幕府に騒動が知れ渡り、藩の存亡に関わる不祥事になりかねない。この危機に際し、正次は独断で屋敷の正門を固く閉ざさせ、門の前に座り込んで主君の外出を物理的に阻止した。激高した信義は抜き身の刀を振りかざし、門を開けるよう迫ったが、正次は体に傷を負いながらも頑として拒み続けた。ついに信義が諦めて屋敷内に引き返すと、正次はそのまま朝まで門番を続けたという。翌朝、酔いが醒めた信義は、身を挺して主君の過ちを諫めた正次の忠諫に深く感謝し、後日、加増をもってその功に報いたと伝えられる 4

もう一つの逸話は、4代藩主・津軽信政との間に起きた「算盤事件」である。ある日、正次が信政に謁見すると、藩主自らが算盤を弾いて計算をしている姿が目に入った。これを見た正次は顔色を変え、「算盤は下賤の者が用いる道具。御前に出すべきものではございませぬ。早くしまわせよ」と近習たちに命じた。近習たちが藩主を前にして躊躇していると、正次は信政の手から算盤を奪い取り、庭に投げ捨てた。そして、「人君たるもの、かくの如き下賤の務めを自らなさるべきではありませぬ。臣下を良く使いこなしてこそ名君なのでございます」と、厳しく叱責したという 4

これらの逸話は、彼が単に厳格な人物であったのではなく、主君や藩のためとあらば、己の身の危険や不興を買うことを一切顧みない、津軽武士の気質「じょっぱり(意地っ張り、頑固者)」を体現した人物であったことを示している。彼の行動の根底には、戦国時代の武将とは異なる、新たな時代の「忠臣」としての倫理観があった。それは、主君の命令に盲従することではなく、主君が為政者として正しい道を歩むよう、時には厳しい諫言も辞さないという、より高度な形の忠義であった。平和な時代において武士の役割が戦闘員から行政官へと移行する中で、彼は藩の安定経営という大局を見据え、主君の個人的な振る舞いが藩全体の威信に関わるという新しい価値観を誰よりも強く自覚していたのである。

三家老としての評価

4代藩主・信政の治世下、弘前藩は全盛期を迎えるが、その治世を支えたのが進藤正次、北村宗好、渡辺政敏の三人の家老であった。彼らは「三家老」と称され、それぞれの個性を表す言葉が残されている。「仏の弥右衛門(北村宗好)、鬼の庄兵衛(進藤正次)、どっちつかずの治大夫(渡辺政敏)」 4 。慈悲深く温厚な北村、厳格で剛直な進藤、そして両者の間で調整役を担ったであろう渡辺。この言葉は、進藤正次の「鬼」とまで評されたキャラクターが、藩内で広く認知され、藩政運営において重要な役割を果たしていたことを明確に物語っている。

表2:進藤庄兵衛正次 略年表

西暦(和暦)

年齢

出来事

関連事項

1614年(慶長19年)

0歳

誕生。

1622年(元和8年)

8歳

父・正吉が仕えた最上氏が改易される。

一族が浪人となる。

1628年(寛永5年)

14歳

一族が津軽信枚に仕官。

弘前藩士となる。

1640年(寛永17年)

26歳

家督を相続(200石)。

1672年(寛文12年)

58歳

家老に就任。

藩政の中枢を担う。

(在任期間)

-

2代目青森城代として青森の町づくりに着手。

「進藤堰」「盲堀」などを建設。

1686年(貞享3年)

73歳

死去。

第二章:青森開拓の祖 ― 都市計画家としての功績

進藤庄兵衛正次の評価は、剛直な家老という側面に留まらない。彼は、弘前藩の日本海側の玄関口として重要性を増していた港町・青森の二代目城代(当時の呼称は青森御仮屋の支配)に任命されると、その卓越した行政手腕を発揮し、青森の町の基礎を築いた「開拓の祖」として、今なお語り継がれている 4 。彼の町づくりは、経済、社会基盤、福祉、防災、そして文化という、現代の都市計画にも通じる極めて総合的な視点で行われており、単なる官僚ではない、優れた都市プロデューサーとしての一面を浮き彫りにする。

経済基盤の構築

町の発展には、経済的な活力が不可欠である。正次は、青森の町の中心部である新町周辺に市場を開設し、商人たちが自由に商取引を行える環境を整えた 6 。これは、港を介して出入りする物資の流通を円滑にし、商業の活性化を通じて町の富を増大させるための基本的な都市政策であり、彼の先見の明を示している。

社会基盤の整備(インフラ整備)

正次の功績の中でも特に高く評価されているのが、大規模な社会基盤整備である。

第一に、彼は治水と利水に力を注いだ。農業生産の安定と住民の生活用水を確保するため、町中に堰を計画的に張り巡らせた。この用水路網は、青森の発展に計り知れない恩恵をもたらし、人々は彼の功績を称えてこれを「進藤堰」と呼んだ 4。

第二に、彼の思想と手腕を最も象徴するのが「盲堀(めくらぼり)」と呼ばれる堀の建設である。青森御仮屋(藩の出先機関)の防衛と治水を目的としたこの堀の工事において、正次は当時、労働力とは見なされていなかった盲人を積極的に雇用するという、前代未聞の試みを行った。周囲がその効果を疑問視する中、彼は「それは盲人になにもさせないからである。盲人ともいえども立派な人間であり、目が見えないだけで手も足もある。教える立場の人間が上手に指導すればなんら他の人々に負けることはない」と断言し、健常者と同等の賃金を支払って工事を指揮した 4 。その結果、土木技術的にも見事な堀が完成した。人々はこの堀を、工事を成し遂げた盲人たちと、彼らに機会を与えた正次の功績を称えて「盲堀」と呼んだ。これは単なる土木事業ではない。インフラ整備という藩の課題を、社会的弱者の雇用創出と自立支援という福祉政策によって解決した、まさに一石二鳥の画期的なプロジェクトであった。

防災と精神文化への配慮

さらに正次は、都市に暮らす人々の安全と心の安定にも目を配っていた。彼は、火事が頻発する木造家屋の町において、火災発生時の役割分担を詳細に定めた「火事割」を制定した。これにより、藩の重要施設の警備や現場での指揮系統が明確化され、町の防災体制は大きく強化された 8

物理的な基盤整備だけでなく、人々の精神的な支柱の再建にも尽力した。彼は荒廃していた青森観音堂を再建し、領民が拠り所とする信仰の場を復興させた 6 。これは、彼が町づくりを、単なるインフラ整備ではなく、そこに住む人々の暮らしと心を豊かにする総合的な営みとして捉えていたことを示している。経済、インフラ、福祉、防災、文化。これらの要素を有機的に結びつけ、限られた資源の中で最大の効果を生み出そうとした彼の政策は、時代を超えた普遍的な価値を持っており、彼が後世に神として祀られるほどの偉人と見なされた理由を雄弁に物語っている。

第三章:後世への影響と顕彰

進藤庄兵衛正次の影響は、彼が生きている間だけでなく、その死後、今日に至るまで青森の地に深く刻まれている。彼の神格化は、為政者による一方的な顕彰ではなく、民衆の心からの思慕と尊敬によって成し遂げられた、特筆すべき事例である。

領民からの思慕と神格化への道

「鬼の庄兵衛」と畏れられた正次であったが、その厳格さはあくまで職務上のものであり、ひとたび公務を離れれば、身分の低い者や社会的な弱者に対しては情に厚い人物であったと伝えられている。その人柄を慕う領民は非常に多く、彼が書いた手紙を家宝として大切に保管する者までいたという逸話は、彼と領民との間に温かい心の交流があったことを示している 4

彼の死後、その偉大な功績と徳を称える声は自然発生的に高まり、ついに青森市に鎮座する廣田神社に合祀されるに至った 6 。この廣田神社は、もともと天明の大飢饉に伴う疫病が流行した際に、幕府から下賜された神札を奉じて祈願したところ、たちまち病魔が退散したという由緒を持つ、「病厄除け」の守護神として広く崇敬を集めていた神社であった 9 。飢饉や疫病という災厄から民を救う神社の神威と、用水路や市場の整備によって民の生活を豊かにし、苦しみから救った正次の功績。この両者は、「民を救う」という共通点で強く結びついていた。このため、彼の死後、民衆の間でその記憶が神社の信仰と自然に融合し、ボトムアップの形で神格化が進んだと推測される。

現代に続く顕彰

彼の遺徳は、現代においても忘れられてはいない。廣田神社では、毎年7月18日に「進藤庄兵衛正次翁頌徳祭」が厳かに執り行われ、青森の礎を築いた恩人として、その功績が称えられている 5

特筆すべきは、彼が単独ではなく、夫婦で共に祀られているという点である。これは、彼が生前、公の場でも夫婦仲睦まじい姿で知られていたためと伝えられている 5 。「鬼」とまで呼ばれた厳格な家老の、人間味あふれる私的な側面が、このような形で後世に伝えられていることは非常に興味深い。公的な功績だけでなく、弱者への情けや家族への愛情といった私的な人徳。この両輪があったからこそ、彼は単なる畏敬の対象ではなく、民衆から深く親しまれ、愛される神となり得たのである。


第二部:伝承の源流 ― なぜ「秋田の商人」として語られたか

第一部では、史料に基づき、弘前藩家老・進藤庄兵衛正次の実像を明らかにした。しかし、我々の探求はここで終わらない。利用者様の当初の問いかけであった「秋田の商人・進藤庄兵衛」という伝承は、なぜ生まれたのか。この謎を解く鍵は、秋田湊そのものの歴史と、歴史的記憶が形成されるメカニズムの中にある。

第四章:秋田湊の繁栄と商人たちの世界

「進藤庄兵衛」の物語が「商人」として根付くためには、その舞台となる秋田湊が、商人の活躍を語るにふさわしい豊かな歴史を持っている必要があった。そして事実、秋田湊の歴史は、その条件を十分に満たしていた。

「三津七湊」としての歴史的地位

秋田湊、現在の土崎港の歴史は古い。室町時代に成立したとされる「廻船式目」には、越前国の三国湊、加賀国の本吉湊、能登国の輪島湊という「三津」と並び、全国7つの主要港「七湊」の一つとして「出羽秋田」が挙げられている 1 。これは、秋田湊が当時から日本海航路における全国区の重要拠点として認識されていたことを示す、動かぬ証拠である。中世においては、この地を拠点とした安東(安藤)氏が、蝦夷地(現在の北海道)との北方交易や、大陸との交易によって強大な経済力を蓄えた。湊近くの後城遺跡からは、中国産の磁器や宋銭・明銭などが多数出土しており、その国際的な交易の広がりを物語っている 3

戦国・江戸時代の活況

戦国時代に入ると、秋田湊の戦略的価値はさらに高まる。1565年のイエズス会宣教師ルイス・フロイスの報告には、アイヌの人々が交易のために「大なる町アキタ」を頻繁に訪れていたと記されており、北方交易の拠点として大いに賑わっていた様子がヨーロッパにまで伝えられていた 3 。豊臣秀吉の時代には、文禄・慶長の役で用いる軍船や、伏見城築城のための膨大な量の秋田杉が、この港から「太閤御用板」として上方へ積み出された 3

関ヶ原の戦いの後、常陸国から佐竹氏が新たな領主として入封すると、城下町が内陸の久保田(現在の秋田市中心部)に建設され、土崎の町は一時的に衰退した 3 。しかし、その地理的重要性が失われたわけではなかった。秋田藩の年貢米を大坂の蔵屋敷へ輸送するための積出港として、また、江戸時代中期以降に日本海海運の主役となる北前船の重要な寄港地として、秋田湊はすぐに活気を取り戻した 2

港には、廻船と荷主の取引を仲介する「問屋」や、商談の場を提供した「小宿」が軒を連ね、藩の役人、船乗り、荷役を担う沖仲仕、そして多種多様な商人たちが集まり、活気に満ち溢れていた 3 。18世紀末にこの地を訪れた地理学者の古川古松軒は、その著書『東遊雑記』の中で、「久保田の本町よりも湊町の方すぐれたり」と記し、城下町を凌ぐほどの土崎の賑わいを絶賛している 3 。交易品も、米や材木に加え、蝦夷地からは昆布や干鰯(魚肥の原料)、魚油、獣皮などが、上方からは塩、砂糖、木綿製品、古着といった生活必需品が大量にもたらされた 3 。特に北前船が運んだ昆布は、土崎に「おぼろ昆布」という独自の食文化を生み出すなど、単なる物資の中継地ではない、文化の交流点としての役割も果たしていた 3

このように、秋田湊の歴史は、特定の英雄的人物が主導したというよりも、多様な商人たちがそれぞれの役割を果たすことで織りなされた、「集合的」な力によって繁栄が築かれたことを示している。酒田湊における「三十六人衆」のような商人による自治組織の記録は秋田湊では明確ではないが、同様の強固な商人コミュニティが存在したことは想像に難くない 14 。この事実は、一つの重要な可能性を示唆する。秋田湊の歴史において、特定の「進藤庄兵衛」という名の傑出した商人が記録に残りにくかった土壌があったのではないか。英雄は一人ではなく、商人たち全体だったからである。しかし、後世の人々がその輝かしい繁栄の歴史を語り継ぐ時、「無名の商人たちの集合的な力」という抽象的な概念よりも、「一人の偉大な商人」という具体的で魅力的な物語の方が、記憶しやすく、伝承として語りやすい。この物語への心理的な需要こそが、後に「弘前の進藤庄兵衛」という外部の物語を受け入れる素地となった可能性がある。

第五章:歴史的混同と伝承の形成に関する考察

秋田湊には、偉大な商人の物語が生まれる豊かな土壌があった。では、なぜその物語の主人公が、隣国・津軽の家老「進藤庄兵衛」でなければならなかったのか。その答えは、地理的・時間的な近接性、名称の普遍性、そして何よりも、人々が物語を求め、変容させていく伝承の力学にある。

地理的・時間的近接性と名称の普遍性

第一に、弘前藩と秋田藩は隣接しており、両藩を結ぶ羽州街道を通じて、人や物資、そして情報の往来が絶えず存在した。進藤庄兵衛正次が青森で活躍した17世紀は、奇しくも秋田湊が北前船の寄港地として再び活況を呈し始めた時期と重なる。青森の開拓者としての彼の偉業が、商人や旅人によって秋田に伝えられる機会は十分にあったと考えられる。

第二に、名称の普遍性が混同を助長した可能性がある。「庄兵衛」という名前、特に「〇〇兵衛」という形式名は、江戸時代の商人や職人、あるいは中級以下の武士の通称として極めて一般的であった 15 。また、「進藤」という姓も、秋田県内に現存する姓である 16 。これらの事実から、一つの仮説が浮かび上がる。もしかすると、秋田湊に実在したかもしれない、さほど有名ではない「商人の庄兵衛さん」や「進藤家の誰か」に関する断片的な逸話が、隣国から伝わってきた著名な「進藤庄兵衛正次」の偉大な物語と、長い年月の間に融合し、一つの人物像として混同されていったのではないか。ありふれた名前が、二つの異なる記憶を結びつける触媒の役割を果たした可能性は否定できない。

伝承の生成プロセス ―「義経北行伝説」との比較

歴史上の人物の伝承が、事実の枠を超えて拡大・変容していく例として、日本で最も有名なのが「源義経=チンギス・カン説」に代表される「義経北行伝説」である 18 。この伝説では、奥州平泉の衣川で自害したはずの義経が、実は生きて平泉を脱出し、東北各地や北海道(蝦夷地)に立ち寄り、やがて大陸へ渡ったとされている。その道筋とされる土地には、義経一行が立ち寄ったという伝承地が無数に存在し、義経が使ったとされる井戸や、馬をつないだ松などが今も残されている 20

この壮大な伝説が生まれた背景には、悲劇の英雄・義経に対する民衆の強い判官贔屓の情と、各地の共同体が「自分たちの土地も、日本の壮大な歴史の一部である」と願う郷土愛がある。義経のような国民的英雄の物語に自らの土地を接続することで、地域に誇りとアイデンティティを与えようとしたのである。

この伝承形成のメカニズムは、「進藤庄兵衛」をめぐる謎を解く上で、極めて示唆に富む。すなわち、 青森で神と崇められるほどの偉大な功績をあげた「進藤庄兵衛」の物語が、隣接する秋田湊に伝播した際、秋田湊の歴史的文脈(商人の町の繁栄)に合わせて、人物像が「翻訳」された のではないか。秋田の人々にとって、町の繁栄をもたらす英雄とは、武士や家老ではなく、優れた商人であった。そのため、伝わってきた物語の主人公の「職業」を、自分たちの文脈に最もふさわしい「偉大な商人」へと書き換え、地域の物語として受容した。これは、物語が持つ力と、それを受け入れる側の文化的土壌とが相互に作用した結果生じる、伝承の「ローカライゼーション(現地化)」の典型例と見なすことができる。

結論的仮説

以上の考察から、「秋田の商人・進藤庄兵衛」という伝承は、史実ではないものの、単なる間違いとして切り捨てられるべきではない、複合的な要因によって生まれた「歴史的記憶の産物」であると結論付けられる。

  1. 核となる事実: 弘前藩に、後世に神と崇められるほど偉大な家老「進藤庄兵衛正次」が実在したこと。
  2. 伝播の経路: 隣国である津軽と秋田の間の、地理的・人的な交流。
  3. 受容の土壌: 秋田湊が、多様な商人の活躍によって繁栄した豊かな歴史を持ち、地域を象徴する英雄譚を受け入れやすい文化的土壌があったこと。
  4. 混同の触媒: 「庄兵衛」というありふれた名前が、実在したかもしれない無名の地元商人の記憶と、著名な家老の物語とを結びつける役割を果たした可能性。
  5. 伝承の力学: 偉大な人物の物語を自らの地域の歴史に取り込み、誇りとしたいという、義経伝説にも見られる普遍的な民衆心理。

終章:史実と記憶の狭間で

本報告書は、進藤庄兵衛という一人の人物の名をめぐり、二つの異なる「真実」を明らかにした。一つは、史料によってその生涯と功績が裏付けられる**「弘前藩の偉大な家老・進藤庄兵衛正次」という歴史的事実 である。もう一つは、利用者様の問いの中に示された 「秋田湊の繁栄を象徴する商人」という、人々の心の中に生きる伝承、あるいは歴史的記憶**である。

弘前藩士・進藤庄兵衛正次の生涯は、戦乱の世が終わり、藩の安定経営が至上命題となった近世初期において、武士がいかにして優れた行政官へと自己変革を遂げていったかを示す、鮮やかな実例である。彼の都市計画家としての総合的な手腕や、福祉の先駆けともいえる思想は、現代の我々から見ても驚くべき先進性を持っている。

一方で、「秋田の商人」という伝承は、史実ではない。しかし、それは決して無意味な誤りではない。日本海交易の拠点として、名もなき多くの商人たちのエネルギーによって栄華を極めた秋田湊の豊かな歴史文化がなければ、決して生まれ得なかった、その土地ならではの意味深い物語なのである。

史実を厳密に追究する歴史学の営みは、過去を正確に理解するために不可欠である。しかし同時に、地域に根付く伝承や記憶が、なぜ、どのようにして生まれたのかを考察することは、その地域の歴史や人々の心性を、より深く、そして共感をもって理解する上で極めて重要である。進藤庄兵衛をめぐるこの探求の旅は、私たちに、歴史とは単に過去の事実の静的な記録ではなく、現在に至るまで人々の間で語り継がれ、再創造され続ける、生きた物語であることを改めて教えてくれるのである。

引用文献

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  5. 進藤庄兵衛正次|廣田神社〜病厄除守護神〜|青森県青森市 https://hirotajinja.or.jp/about/shindou/
  6. 神様がまちを歩く日~庄兵衛祭、再び始まる~――1生《人生儀礼と歩む》Vol.05 - note https://note.com/hirotajinja/n/n80df20473ee4
  7. 進藤庄兵衛正次翁 頌徳祭並び神幸祭のご案内 - 青森市 - 廣田神社 https://hirotajinja.or.jp/event/shindou_syoubei-syoutokusai/
  8. 第2編 前近代における北部日本海域の大火 https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1976_sakata_taika/pdf/1976--sakataTAIKA_06_vol2.pdf
  9. 雪害で倒壊の危機!安心安全なお清めができるよう手水舎の再建を! - クラウドファンディング READYFOR https://readyfor.jp/projects/hirotajinja
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