西暦(和暦) |
逸見祥仙および逸見氏の動向 |
小弓公方(足利義明)の動向 |
関東情勢の主要動向 |
12世紀 |
源清光が甲斐国逸見郷に入り、長男の光長が逸見氏の祖となる 1 。 |
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1416年(応永23) |
上杉禅秀の乱で武田信満が敗死。逸見氏は足利持氏に与し甲斐での影響力を強める 2 。 |
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1438-39年(永享10-11) |
永享の乱。鎌倉公方・足利持氏に与した逸見一族の多くが持氏と運命を共にし、一族は大きく衰退する 2 。 |
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1518年(永正15) |
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父・政氏、兄・高基との対立の末、真里谷武田氏らに擁立され下総小弓城に入り、小弓公方を称す 4 。 |
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1537年(天文6) |
6月、真里谷氏の内紛に関連し、逸見祥仙が重臣として活動していることが文書で確認される 6 。 |
真里谷氏の内紛に介入。里見義堯と同盟を結ぶ 7 。 |
7月、後北条氏が扇谷上杉氏の河越城を攻略。12月、千葉昌胤が小弓公方から離反し、後北条氏に与する 7 。 |
1538年(天文7) |
10月、第一次国府台合戦に小弓軍の先鋒として出陣 8 。 |
10月、里見義堯らと共に国府台へ出陣 7 。 |
10月、後北条氏綱が江戸城に出陣。古河公方足利晴氏も後北条氏を支持 7 。 |
1538年10月7日(天文7年10月7日) |
第一次国府台合戦にて、主君・足利義明と共に戦死 3 。 |
第一次国府台合戦で後北条軍に敗れ、戦死。小弓公方は事実上滅亡する 4 。 |
後北条氏が勝利し、南関東における覇権を確固たるものにする。里見氏は房総半島での勢力拡大を開始する 7 。 |
戦国時代の関東は、古河公方足利氏の内部抗争と、相模から勢力を伸ばす後北条氏の台頭によって、旧来の秩序が崩壊し、新たな覇権を巡る争乱が絶えない時代であった。この激動の渦中にあって、一代の野心と共に勃興し、そして流星のごとく消えていった勢力が「小弓公方」足利義明である。その義明に最後まで忠誠を尽くし、運命を共にした一人の武将がいた。その名を逸見祥仙(へんみ しょうせん)という。
逸見祥仙に関する直接的な史料は極めて乏しい。彼の生涯は、断片的な系図の記述 10 、軍記物におけるわずかな言及、そして彼が仕えた主君・足利義明を巡る政治的文脈から再構築するほかない。しかし、その限られた情報の中から浮かび上がるのは、単なる一地方武将の姿ではない。祥仙は、かつて甲斐源氏の本宗として武田氏さえも凌ぐ名門であった逸見氏の末裔であり、その出自は彼の行動原理を理解する上で決定的な意味を持つ。
本報告では、逸見祥仙という人物の生涯を、彼の出自である逸見一族の栄光と悲運、主君・小弓公方足利義明の興亡、そして関東戦国史の大きな転換点となった第一次国府台合戦という三つの軸から徹底的に掘り下げる。祥仙の生涯は、鎌倉公方体制という古い権威への忠誠によって没落した旧来の名門武士層が、戦国の世でいかにして新たな活路を見出し、そして時代の大波に呑まれていったかを示す、象徴的な事例として位置づけられるだろう。
逸見祥仙の人物像を理解するためには、まず彼が背負っていた「逸見」という姓の歴史的重みを解き明かす必要がある。彼の忠誠心と行動の背景には、源平の争乱期にまで遡る一族の栄光と、その後の永い凋落の歴史が存在した。
逸見氏は、清和源氏の中でも武門の名家として知られる河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の一族である 11 。甲斐源氏の実質的な祖とされる源義清・清光親子は、常陸国から甲斐国へ移り、清光は八ヶ岳南麓の逸見郷(現在の山梨県北杜市周辺)に本拠を構え、「逸見冠者」と称された 1 。
逸見氏の直接の祖は、この清光の長男であった逸見光長である 2 。そして、戦国時代に甲斐の国主として名を馳せる武田氏の祖・武田信義は、光長の双子の弟であった 15 。系図上、逸見氏は武田氏よりも本宗(本家)に近い、極めて格式の高い家柄だったのである。源平の争乱期には、光長も源頼朝の挙兵に馳せ参じ、鎌倉幕府の御家人として名を連ねた 2 。しかし、その後の歴史の中で、弟筋である武田氏が甲斐国内で着実に勢力を拡大していく一方、逸見氏は次第にその影響力を削がれ、両者は甲斐の主導権を巡って長きにわたり競合・対立する関係となっていった 2 。
逸見氏の運命を決定的に変えたのが、室町時代中期に発生した永享の乱(1438-39年)である。この乱は、関東を統治する鎌倉公方・足利持氏と、室町幕府将軍・足利義教との対立が頂点に達して勃発した。この時、逸見氏は一貫して鎌倉公方・持氏を支持し、その主力として戦った 2 。
しかし、幕府軍の前に持氏は敗北し、自害に追い込まれる。この敗戦により、持氏に最後まで忠誠を誓った逸見一族の者たちの多くもまた、主君と運命を共にするか、あるいは討ち死にした 2 。この出来事は、甲斐における逸見氏の勢力基盤に壊滅的な打撃を与えた。かつての名門は、この乱を境に歴史の表舞台から大きく後退し、一族は離散・弱体化を余儀なくされたのである。
逸見祥仙が生きたのは、この悲劇的な敗北から約一世紀後のことである。彼にとって、一族のかつての栄光と、鎌倉公方への忠義の果てに迎えた没落の記憶は、自らの生き方を規定する重い宿命であったに違いない。祥仙が後に、同じく足利一門でありながら旧来の権力構造に挑む小弓公方・足利義明に仕えたことは、単なる武将の仕官という以上に、失われた一族の名誉と地位を、新たな主君の下で回復しようとする悲壮な決意の表れであったと見ることができる。
没落した名門・逸見氏の末裔である祥仙が、いかにして歴史の舞台に再び姿を現したのか。その鍵を握るのが、関東に新たな戦乱の火種を撒いた小弓公方・足利義明の存在であった。祥仙は、この野心的な貴種の下で、単なる一兵卒ではなく、重臣として重要な役割を担うことになる。
永正年間、関東では古河公方・足利政氏とその子・高基が家督を巡って争う内乱(永正の乱)が勃発していた 5 。この混乱の中、政氏の次男で僧籍にあった空然は還俗して足利義明と名乗り、房総半島の有力国人である真里谷武田氏や里見氏の支援を得て下総国小弓城(現在の千葉市)を拠点に独立。「小弓公方」を自称し、兄・高基が継いだ古河公方と公然と対立する姿勢を示した 4 。
逸見祥仙が、この新興勢力である小弓公方に仕官した経緯は定かではない。しかし、彼が家臣団の中で極めて高い地位にあったことは、残された記録から明らかである。
表:逸見祥仙の人物情報
項目 |
内容 |
典拠 |
姓名 |
逸見 祥仙(へんみ しょうせん) |
10 |
実名 |
忠次(ただつぐ) |
『清和源氏逸見系図』 10 |
官途名・受領名 |
左京亮(さきょうのすけ)、山城守(やましろのかみ) |
10 |
出自 |
甲斐武田氏庶流、または真里谷氏一族と伝わるが、甲斐源氏逸見氏の末裔と見られる。 |
10 |
役職 |
重臣、馬廻(うままわり) |
3 |
祥仙は「左京亮」という官途名を名乗り、さらに主君・義明から「山城守」という受領名を与えられている 10 。受領名とは、主君が功績ある家臣に与える名誉的な称号であり、これを義明自身から授けられたという事実は、両者の間に極めて緊密な主従関係があったことを物語っている。
また、彼の役職である「馬廻」は、単なる大将の護衛役ではない 3 。戦国大名における馬廻衆とは、大名自らが選抜した武芸に秀でた者たちで構成される親衛隊であり、合戦においては主君の命令で動く決戦兵力(斬り込み部隊)として機能した 19 。平時においても主君の側近くに仕え、吏僚的な役割を担うこともあったため、馬廻であることは主君の信頼が厚い腹心であることを意味した 21 。祥仙が小弓公方家において、軍事・政務の両面で中核を担う「重臣」であったことは間違いない。
祥仙の具体的な活動として記録に残るものの一つに、外交官としての側面がある。彼は、主君・義明と甲斐国の武田信虎(武田信玄の父)との間を取り持つ使者としての役割を果たした 10 。この外交交渉において、祥仙が起用された背景には、彼の出自が大きく関係している。前述の通り、逸見氏は武田氏と同じく甲斐源氏を祖とし、しかも本宗家という立場にあった。全くの無名の使者では相手にされないであろう甲斐の国主・信虎に対して、祥仙は「同族の、しかも本家筋の末裔」という立場で交渉に臨むことができた。彼の「逸見」という名は、小弓公方にとって、他の家臣にはない独自の価値を持つ「外交資産」だったのである。これにより、祥仙は単なる武辺者ではなく、自らの血統という象徴的な価値を武器に主君に貢献する、稀有な「武人兼外交官」としての側面を持っていたことがわかる。
さらに、彼の重臣としての地位を裏付ける一次史料が存在する。天文6年(1537年)6月、真里谷氏の内紛に関連して、同氏の有力者から祥仙(逸見山城入道祥仙)宛てに送られた書状である 6 。この書状は、軍事物資の輸送に関する連絡に加え、現地の情勢報告を求める内容となっており、祥仙が他の有力武将からの報告を受ける窓口として機能していたことを示している。これは、彼が単なる現場の指揮官に留まらず、小弓公方政権の中枢で情報管理や兵站といった統治機能の一翼を担っていた動かぬ証拠と言える。
天文7年(1538年)、小弓公方足利義明の野心と、関東に覇を唱えんとする後北条氏の拡大戦略が、ついに正面から激突する。この第一次国府台合戦は、逸見祥仙にとって、主君への忠誠を懸けた最後の戦場となった。
合戦に至るまでの関東の情勢は、極めて複雑かつ流動的であった。小弓公方足利義明は、甥である古河公方足利晴氏と関東公方の正統性を巡って対立。一方、相模の北条氏綱は武蔵国へと勢力を拡大し、扇谷上杉氏の拠点であった江戸城や河越城を奪取するなど、その脅威は房総半島にも及びつつあった 7 。
当初、氏綱は両公方の争いに対しては中立的な態度を取ることもあったが、義明が真里谷武田氏の内紛に介入し、江戸湾岸一帯にまで影響力を強めると、両者の対立は避けられないものとなる 7 。事態を決定的にしたのは、以下の連鎖的な動きであった。
こうして天文7年(1538年)10月、足利義明は里見義堯らの軍勢を率いて下総国府台(現在の千葉県市川市・松戸市一帯)へと進軍。対する北条氏綱も、嫡男・氏康らと共に大軍を率いて江戸城に入り、両軍は江戸川を挟んで対峙することとなった 7 。
小弓軍の布陣において、逸見祥仙は極めて重要な役割を担った。近年の研究によれば、彼は「逸見山城入道祥仙」として、小弓軍の先鋒部隊を率いて国府台に着陣したことが確認されている 8 。これは、彼が名実ともに義明軍の中核をなす指揮官であったことを示している。
しかし、開戦前の軍議において、小弓軍の運命を左右する致命的な意見対立が生じる。里見義堯は、兵法上の定石通り、後北条軍が江戸川を渡っている最中を狙って攻撃を仕掛けるべきだと進言した。だが、足利将軍家の血を引くという自らの家柄に絶対の自信を持つ義明は、「我に本気で弓を引ける者などおるものか」と豪語し、この的確な進言を退けた。そして、敵を堂々と平地に迎え撃つことを主張したのである 7 。この義明の傲慢ともいえる判断に、歴戦の将である義堯は勝利を危ぶみ、主戦場になると予測された松戸方面を避け、市川方面に陣を移すことで、事実上、義明を見殺しにする体勢を整えた 7 。
天文7年10月7日、渡河を終えた後北条軍は、国府台の北に位置する相模台(現在の松戸市)で小弓軍と激突した 24 。祥仙率いる先鋒隊を含む小弓軍は奮戦し、緒戦は優勢に戦いを進めたものの、兵数で倍する後北条軍の前に次第に押し返されていく 7 。
戦況が悪化する中、義明の弟・基頼と嫡男・義純が討ち死にしたとの報が本陣に届く。これに激高した義明は、自ら太刀を振るって敵陣に突撃するという無謀な行動に出るが、衆寡敵せず、ついに敵兵の放った矢に射抜かれて壮絶な最期を遂げた 7 。主君の馬廻であり、先鋒の大将として最前線で戦っていた逸見祥仙もまた、この乱戦の中で主君・義明と運命を共にし、その生涯を閉じたのである 3 。この戦いの凄惨さは、現地の寺院である本土寺の過去帳に「千人余の打死」と記されていることからも窺い知れる 26 。
ここには、歴史の皮肉な反復が見て取れる。一世紀前、逸見一族は鎌倉公方への過剰なまでの忠誠によって滅びへの道を歩んだ。そして今、その末裔である祥仙は、自らの主君の致命的な判断ミスに最後まで従い、忠義を貫いた結果として命を落とした。彼の死は、古い武士の理想が、戦国の冷徹な現実の前にもはや通用しないことを象徴する、悲劇的な結末であった。
逸見祥仙は、関東の勢力図を塗り替えるほどの偉業を成し遂げた英雄ではない。しかし、彼の生涯と死は、戦国時代初期という転換期を生きた武士の姿を鮮やかに映し出しており、歴史的に重要な傍証者として評価することができる。
第一に、祥仙は「没落した名門武士」の典型であった。永享の乱によって勢力を失った甲斐源氏の本宗家という出自は、彼に再興への強い渇望を抱かせた。その思いが、旧来の秩序に挑戦する新興勢力・小弓公方への参画へと彼を駆り立てた原動力であった。彼の人生は、伝統的な権威が揺らぐ中で、新たな主君に自らの家名の復活を託した武士たちの苦悩と希望を体現している。
第二に、彼はその出自を巧みに利用した「武人兼外交官」であった。小弓公方家における彼の価値は、武勇や政務能力だけに留まらなかった。武田氏との交渉に見られるように、彼の「逸見」という姓が持つ歴史的・血縁的な「象徴資本」は、一代限りの勢力であった小弓公方にとって、得がたい外交的資産となった。これは、戦国時代において個人の能力だけでなく、家柄や血統がいかに重要な役割を果たし続けたかを示す好例である。
最後に、彼の死がもたらした歴史的影響は、彼自身の意図とは裏腹に極めて大きかった。祥仙が殉じた第一次国府台合戦の敗北は、小弓公方という勢力を歴史から抹消した。この結果生じた南関東の権力空白は、二つの勢力に決定的な好機を与える。一つは、勝利者である後北条氏であり、この戦いを経て南関東における覇権を盤石のものとした 7 。もう一つは、小弓軍の敗北を冷静に見届け、自軍の損害を最小限に抑えた里見氏である。里見義堯はこの機を逃さず、旧小弓公方勢力圏であった上総南部へと進出し、房総半島における一大戦国大名へと飛躍を遂げた 7 。
結論として、逸見祥仙は、主君への忠誠という古い武士の理想に殉じた人物であった。しかし、その忠義の死は、皮肉にも後北条氏と里見氏という、より現実的で新しい時代の覇者が台頭する道を開くことになった。彼は過去に生きた武将であったが、その死は、関東戦国史の新たな未来を産み落とすための、一つの礎となったのである。