遊佐順盛は河内畠山氏の守護代。主君尚順の在京中に河内国を実質的に支配し、幕府からも直接命令を受けるほど権力を確立。その没年には諸説あるが、子の長教が主家を凌駕する礎を築いた。
戦国時代の武将、遊佐順盛(ゆさ のぶもり)は、一般的に「河内畠山氏の家臣で守護代を務め、永正8年(1511年)の船岡山合戦において主君・畠山尚順に従い戦死した人物」として認識されている 1 。この簡潔な人物像は、彼の生涯の一端を捉えてはいるものの、その活動の全容や戦国初期の畿内政治史における複雑な役割を十分に描き出してはいない。彼の生涯は、出自の系譜、守護代としての権力の実態、そしてその最期を巡る学術的な論争など、数多くの謎と検討すべき論点に満ちている。
本報告書は、これらの謎を解き明かすべく、現存する史料や近年の研究成果を網羅的に調査・分析するものである。特に、順盛の系譜に関する混乱、主君不在の河内国で確立された支配権の実態、そして彼の没年を巡る「永正八年戦死説」と「大永年間活動説」という重大な対立軸を徹底的に掘り下げ、戦国時代黎明期の動乱の中を生きた一人の権力者の実像を、より立体的かつ多角的に再構築することを目的とする。
遊佐順盛が生きた15世紀末から16世紀初頭にかけての畿内は、応仁・文明の乱(1467-1477年)が終結した後も、旧来の室町幕府の権力構造が大きく揺らぎ続ける混沌の時代であった。幕府の中枢を担う三管領家、特に細川氏と畠山氏の内部抗争は、将軍の権威をも巻き込み、畿内全域を舞台とした絶え間ない戦乱の源泉となっていた。
順盛が仕えた主家・畠山氏は、畠山持国の後継者争いを端緒として、管領・畠山政長を祖とする系統(尾州家)と、持国の庶子・畠山義就を祖とする系統(総州家)とに分裂していた 3 。両家は河内国(現在の大阪府東部)の守護職と支配権を巡って泥沼の抗争を繰り広げ、高屋城などの拠点を奪い合う状況が常態化していた 6 。この主家の分裂は、その重臣層にも深刻な影響を及ぼした。畠山氏の譜代被官であり、代々守護代を務めてきた遊佐氏もまた、主家の分裂に呼応して二派に分かれ、一族同士が敵味方となって相争うという過酷な運命を強いられたのである 3 。遊佐順盛は、このうち畠山政長流(尾州家)に仕える遊佐氏を代表する人物として、歴史の表舞台に登場する。
本報告書は、遊佐順盛という人物を深く理解するために、以下の三つの核心的な問いを軸に分析を進める。第一に、彼の正確な系譜はどのようなものであったか。第二に、守護代としてどのようにして権力基盤を形成し、その権力はどの程度のものだったのか。そして第三に、彼の最期を巡る「永正八年戦死説」と、それを覆す「大永年間活動説」という二つの学術的論争の真相はどこにあるのか。これらの問いへの探求を通じて、順盛個人の生涯に留まらず、戦国時代初期における権力構造の変質という、より大きな歴史的潮流を解明していく。
遊佐氏の起源は、出羽国飽海郡遊佐郷(現在の山形県飽海郡遊佐町)に遡るとされる 8 。その家系は藤原北家秀郷流を称する武家であり、古くから東北地方に根を張っていた 3 。彼らが歴史の表舞台、特に中央政界と深く関わるようになるのは、南北朝時代に足利一門の有力大名である畠山氏に被官として仕えるようになってからである。畠山氏が奥州探題に任じられた際に臣従したのがその始まりと見られている 8 。
永徳2年(1382年)、畠山基国が河内守護に補任されると、遊佐長護(国長)が守護代に任じられ、河内国の統治を担った 3 。これを契機として、遊佐氏は畠山氏の勢力拡大と歩調を合わせるように、その分国である河内、能登、越中などで守護代職を世襲する最有力家臣としての地位を確立していく 3 。これにより、遊佐一族は単一の在地領主から、畿内、北陸、そして発祥の地である奥羽にまで広がる広範なネットワークを持つ有力武家へと発展したのである 3 。
室町幕府の管領家として権勢を誇った畠山氏であったが、15世紀半ば、当主・畠山持国の後継者問題から深刻な内紛に見舞われる。持国が実子・義就を後継としたことに反発した家臣団が、持国の甥である政長を擁立したことで、家督を巡る争いが勃発した。この対立は、細川勝元や山名宗全といった幕府の有力者を巻き込み、応仁・文明の乱を引き起こす主要な原因の一つとなった 6 。
乱が終結した後も両者の対立は解消されず、畠山氏は事実上二つの家に分裂した。管領に就任し、幕政の中枢にあった政長の系統は、尾張守の官途を名乗る者が多かったことから「尾州家」と呼ばれた 5 。一方、河内を実力で支配し続けた義就の系統は「総州家」と称され、それぞれが正当な家督と河内守護職を主張し続けた 4 。この結果、河内国は両畠山氏の草刈り場となり、高屋城や嶽山城といった拠点を巡って、数十年にわたり血で血を洗う抗争が繰り広げられたのである。
この主家の分裂は、譜代の家臣団をも二分した。遊佐氏も例外ではなく、尾州家(政長流)には遊佐長直が守護代として仕え、総州家(義就流)には遊佐国助やその後継者である遊佐就家が守護代として仕えるなど、一族が敵味方に分かれて戦うという構図が生まれた 3 。この根深い対立構造が、遊佐順盛の生涯を理解する上での重要な背景となる。
遊佐順盛の出自、特にその父親が誰であったかについては、史料によって記述が異なり、長らく混乱が見られた。複数の人名辞典や概説書では、順盛の父を「遊佐国助」としている 1 。しかし、この遊佐国助は、総州家の祖である畠山義就に仕え、その守護代として活動した人物である 3 。一方で、順盛自身は一貫して尾州家の畠山尚順(政長の子)に仕えている。敵対する陣営の重臣の子が、何の説明もなく敵方の当主の重臣となっている構図は、政治的に極めて不自然であり、この説には大きな疑問が残る。
これに対し、『武家家伝』などの系図史料は、「遊佐長直 - 順盛 - 長教」という系譜を伝えている 3 。この遊佐長直は、尾州家の祖である畠山政長の守護代として活動した人物であり、政治的な整合性が取れている 3 。また、順盛の子が、後に主家を凌駕するほどの権力者となる遊佐長教であることは、多くの史料で一致しており、確実視されている 3 。したがって、尾州家に代々仕えた譜代の家系として「長直 - 順盛 - 長教」のラインを捉える方が、はるかに合理的であると言える。
このような系譜上の混乱が生じた背景には、戦国期の混沌とした時代状況そのものが影響していると考えられる。畠山氏と遊佐氏の分裂が長期化・複雑化する中で、同時代に活躍した同姓の人物が後世の編纂物において混同されたり、断片的な情報が誤って連結されたりした可能性が高い。この混乱自体が、当時の主家と家臣団の関係がいかに流動的で錯綜していたかを示す一つの証左と見なすことができる。以上の考証から、本報告書では、遊佐順盛を「尾州家初代・畠山政長の守護代であった遊佐長直の子」と位置づけ、尾州家の中核を担う家系の出身者として、その生涯を追跡していく。
遊佐順盛が守護代として活動した時期は、主君である畠山尚順の動向と、畿内中央政局の激動とが密接に連関している。尚順は、父・政長が明応の政変(1493年)で自害した後、紀伊国(現在の和歌山県)を拠点として勢力を立て直し、宿敵である総州家の畠山義豊(基家)、次いで義英と河内の支配権を巡って熾烈な戦いを続けていた 6 。
この状況が大きく動く契機となったのが、永正4年(1507年)の管領・細川政元の暗殺事件(永正の錯乱)である 16 。政元の死後、その後継を巡って養子の細川澄元と細川高国が対立し、幕府全体を巻き込む内乱、いわゆる「両細川の乱」が勃発した。この争いの中で、畠山尚順は一貫して前将軍・足利義稙(義尹)と細川高国の陣営を支持した 13 。将軍を奉じ、幕政への影響力を確保するため、尚順は本拠地である河内や紀伊を離れて京都に在住(在京)する期間が長くなっていった 18 。この主君の「中央志向」が、結果として守護代・遊佐順盛の権力拡大を促す最大の要因となる。
主君・尚順が在京して中央政局に関与する間、本国である河内国の統治は、守護代である遊佐順盛に全面的に委ねられることになった 18 。当初は主君の代理人という立場であった順盛だが、彼はこの機会を捉え、単なる代官の地位に留まらなかった。在地に根を張り、現地の国人や土豪といった小領主層を直接的に把握し、自らの指揮下に置く被官として組織化していくことで、領国内に強力な独自の権力基盤を築き上げていったのである 18 。
これは、守護の権威を借りて領国支配の正当性を確保しつつも、その実質的な支配権(軍事指揮権や行政権)を守護代が掌握していくという、戦国期に各地で見られた権力構造の変質プロセスそのものであった 20 。順盛の河内支配は、主君・尚順の中央での政治活動を支える一方で、守護権力そのものを内側から徐々に空洞化させていくという二面性を持っていた。
遊佐順盛の権力が単なる代理統治の域を超え、実質的な国主のそれに近づいていたことを示す象徴的な出来事が、永正8年(1511年)に起きる。この年、敵対する総州家の畠山義英が細川澄元と結んで蜂起し、河内国に侵攻した。この危機に際し、将軍・足利義稙は、守護である畠山尚順ではなく、守護代の遊佐順盛に対して直接御内書(将軍の命令書)を発給し、「国之儀」(河内国の防衛という国家的大事)を委ね、敵を打ち払うよう命じたのである 18 。
この一事は、極めて重要な意味を持つ。本来、守護の職務である領国の軍事指揮権を、幕府が公式に守護代個人に委任したことを示しているからである。これは、幕府自身が河内国における実質的な軍事・統治の責任者を、名目上の守護である尚順ではなく、在地にいる順盛であると認識し、公認したに等しい。守護を飛び越えて守護代に直接命令が下されるというこの異例の事態は、守護権力の形骸化と、それに代わる守護代権力の実質化を決定的に象徴するものであった。
この権力移譲ともいえる現象は、尚順の「中央志向」と順盛の「在地密着」という役割分担が生んだ、ある種の必然的な帰結であった。尚順は、在京して幕政に関与するために、順盛の在地支配力に依存せざるを得なかった。一方で順盛は、尚順が持つ守護としての、そして幕府との繋がりがもたらす公的な権威を、自らの支配の正当性を担保するものとして最大限に活用した。この両者の共存関係が、結果として権力の実体を徐々に順盛の手へと移していく力学を生み出したのである。この時点で、順盛はもはや単なる家臣ではなく、幕府からも直接国家統治の一端を委ねられる、独立した政治主体としての地位を確立していた。そして、この強固な権力基盤こそが、後にその子・遊佐長教が主家を完全に凌駕し、畿内を動かす梟雄へと飛躍するための礎となったのである。
永正8年(1511年)、細川氏の家督と幕府の主導権を巡る「両細川の乱」は、最終決戦へと向かっていた。阿波国(現在の徳島県)に退いていた細川澄元は、宿敵・細川高国が擁立する足利義稙政権を打倒すべく、総州家の畠山義英らと連携して京都奪還を目指し、大軍を率いて摂津国に上陸した 16 。
これを迎え撃つのは、将軍・足利義稙、周防国(現在の山口県)から大軍を率いて上洛していた大内義興、そして管領・細川高国と、彼らに与する畠山尚順(尾州家)の連合軍であった 16 。両軍は京都を挟んで睨み合い、決戦の機運が高まっていた。
決戦に先立つ同年7月、前哨戦が河内で勃発する。畠山義英の軍勢が畠山尚順の軍勢を攻撃し、これに勝利したのである 23 。この敗戦により、尚順の軍事力は打撃を受け、連合軍内での立場も弱まったと考えられる。この敗北が、後の船岡山での遊佐順盛の運命に影を落とした可能性は否定できない。そして同年8月、ついに両軍は京都北方の船岡山に陣を敷き、畿内の覇権を賭けた一大決戦の火蓋が切られた 16 。
遊佐順盛の最期について、最も広く知られているのが、この船岡山合戦で戦死したとする説である 1 。通説によれば、順盛は主君・尚順に従ってこの決戦に臨んだものの、8月24日の激しい戦闘の最中に敗れ、討ち死にした、あるいは捕縛された後に自害を命じられたとされる。
しかし、この通説には不可解な点が存在する。船岡山合戦そのものは、大内義興らの奮戦により、遊佐順盛が属していた高国・義稙連合軍の圧勝に終わっているのである 16 。敵将であった細川政賢らは討ち死にし、総大将の澄元は阿波へと敗走した 24 。味方が勝利を収めた合戦において、なぜ中核を担うべき守護代の順盛が命を落とさねばならなかったのか。この点について、明確な答えを示す一次史料は乏しい。可能性としては、7月の河内での敗戦を引きずっていた尚順・順盛の部隊が戦闘の序盤で局地的に敗れた、あるいは戦闘全体の混乱の中で孤立し、討ち取られたといった状況が推測されるが、いずれも確証はない。この状況的な矛盾が、後に登場する新説の根拠の一つとなる。
遊佐順盛の没年を巡っては、従来の「永正八年(1511年)戦死説」に対し、近年の専門研究、特に戦国期畿内史を専門とする小谷利明氏らの研究によって、「大永7年(1527年)頃まで活動を続けていた」とする新説が提唱され、学術的な論争となっている 4 。
この新説の根拠は複数ある。第一に、船岡山合戦後の永正15年(1518年)や永正17年(1520年)に、室町幕府が河内の国人衆の鎮圧などを命じる奉書を、守護の畠山氏ではなく、河内守護代の「遊佐氏」に宛てて発給している史料が存在することである 18 。もし順盛が1511年に死亡していたとすれば、この時期に守護代として幕府から直接命令を受けるほどの権力を持っていた「遊佐氏」が誰なのかという問題が生じる。第二に、順盛の子である遊佐長教が歴史の表舞台で本格的に活動を始めるのが天文年間(1532年以降)であることから逆算すると、父である順盛が1511年に早世したと仮定するよりも、1520年代後半まで活動し、権力を円滑に継承したと考える方が、年代的に自然な流れとなる 4 。
「永正八年戦死説」に従う場合、1511年から1520年代後半までの十数年間、河内守護代という畠山氏の領国経営における最重要ポストが誰によって担われていたのかが不明となり、一種の「権力の空白」が生じてしまう。これに対し、「大永年間活動説」は、この空白期間を順盛自身の活動期間と見なすことで、権力の連続性を合理的に説明することができる。
この歴史像を根本から覆しかねない論争は、歴史研究が一つの定説に安住するのではなく、新たな史料の発見や解釈によって常に再検討されるダイナミックな営みであることを示す好例と言える。以下に両説の要点を整理する。
項目 |
永正八年(1511年)戦死説 |
大永七年(1527年)頃没説 |
概要 |
船岡山合戦で戦死または自害したとする通説。 |
船岡山合戦後も生存し、大永年間まで活動を続けたとする新説。 |
主な根拠 |
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』など複数の人名辞典 1 。古くからの伝承。 |
小谷利明氏らの研究 4 。永正15年・17年の遊佐氏宛幕府奉書 18 。息子・長教の活動開始時期との整合性。 |
提唱者/支持者 |
伝統的な歴史記述、一般向け事典。 |
小谷利明氏、弓倉弘年氏など、戦国期畿内史の専門研究者 4 。 |
この説で説明できる点 |
「船岡山で戦死」という具体的な伝承。 |
1511年以降の河内守護代の活動。遊佐長教の登場までの権力の連続性。 |
この説の課題/矛盾点 |
味方が勝利した合戦での死という不自然な状況。1511年以降の河内における「権力の空白」を説明できない。 |
「船岡山で戦死」という通説・伝承を覆す必要がある。順盛の活動を示す大永年間の確実な一次史料(署名花押のある文書など)の提示が待たれる。 |
現状では、通説には根強い伝承があるものの、史料の整合性や政治状況の連続性を考慮すると、新説の方がより説得力のある説明を提供していると言えよう。
遊佐順盛が築き上げた河内国における強固な支配基盤と、守護を凌駕しかねないその権力は、嫡子である遊佐長教へと継承された 3 。長教は、父が残した政治的・軍事的遺産を元手として、その権力をさらに拡大させていく。
長教の時代になると、守護代が主君を傀儡とする動きはより露骨になる。彼は、主君である畠山稙長(尚順の子)やその弟・長経らを、自らの政治的都合に合わせて擁立し、対立すれば容赦なく追放するということを繰り返した 4 。これにより、河内畠山尾州家の実権は名実ともに守護代・遊佐長教の手に帰した。彼は単なる家臣の域を完全に超え、畠山氏の家督継承をも左右する存在となったのである。最終的に長教は、台頭してきた三好長慶と婚姻関係を結んで同盟し、細川晴元政権を打倒するなど、畿内政治を動かす中心人物の一人として、その名を戦国史に刻むことになる 4 。この長教の目覚ましい活躍は、父・順盛が築き上げた権力基盤なくしては決して成し得なかったものであった。
戦国時代の代名詞ともいえる「下剋上」は、しばしば遊佐長教や三好長慶といった人物による、主君の打倒や傀儡化といった劇的な事件として語られる。しかし、その華々しい下剋上の舞台が整うまでには、彼らの父の世代による地道な権力基盤の構築、いわば下剋上への「助走」とも言うべき期間が存在したことを見過ごしてはならない。
遊佐順盛は、まさにこの「助走」を体現した人物であった。彼は、長教のように公然と主君を追放したり、殺害したりすることはなかった。しかし、主君・尚順の不在を好機として、その権威を利用しながら着実に在地支配を固め、守護の権力を内部から侵食していった。彼の行動は、守護の権威と守護代の実力が逆転していく過渡期の権力者の姿を典型的に示している。それは、旧来の室町幕府-守護体制が崩壊し、実力主義に基づく新たな戦国大名領国制へと移行していく時代の流れそのものであった。順盛は革命家ではなかったかもしれないが、次世代の革命家たちが活躍するための土壌を丹念に耕した「整地者」としての役割を果たしたのである。
この観点から遊佐順盛を再評価するならば、彼は単なる一地方武将ではなく、「守護体制の解体」と「戦国大名化」という大きな歴史的転換点において、極めて重要な役割を担った過渡期の権力者として位置づけられるべきである。彼の生涯は、戦国黎明期の畿内における権力構造の変質を解明するための、貴重なケーススタディと言えよう。
本報告書で検証してきたように、遊佐順盛は、不明瞭な系譜、謎に包まれた最期、そして主君の権威を凌駕するほどの権力という、多くの矛盾と謎をはらんだ人物である。彼は、主君に忠実に仕える守護代という顔を持つと同時に、その主君の力を利用して着実に自らの支配権を確立していく、したたかな野心家でもあった。この一見矛盾する二面性こそが、旧来の価値観と新たな実力主義が交錯した戦国時代初期の武将の実像を、ありのままに映し出しているのかもしれない。
遊佐順盛の生涯は、応仁の乱以降、急速に権威を失墜させていく室町幕府と、それに伴い崩壊していく守護大名体制の姿を如実に示している。彼が河内国に築き上げた強固な権力基盤は、息子・遊佐長教に引き継がれ、その長教が三好長慶の台頭を後押しする。そして、その三好長慶が、やがては織田信長によって打倒されるという、戦国中期の畿内における目まぐるしい権力闘争の連鎖へと繋がっていく。
その意味で、遊佐順盛は戦国史の主役として脚光を浴びることは少ないかもしれない。しかし、彼は間違いなく、次代の主役たちを歴史の舞台に押し上げるための重要な役割を担った人物であった。彼の存在を正しく理解することは、戦国という時代の本質、すなわち旧秩序の崩壊と新秩序の形成というダイナミックな歴史の転換点を理解する上で、不可欠な視点を提供するものである。