日本の戦国時代から江戸時代初期への転換期は、数多の武将たちの栄枯盛衰が織りなす壮大な歴史絵巻である。その中で、天下統一の主役たちの影に隠れ、地方の歴史にその名を刻んだ人物は少なくない。美濃国苗木藩の初代藩主、遠山友政もまた、そのような武将の一人である。彼の生涯は、一度は故郷を追われ全てを失いながらも、不屈の精神で雌伏の時を耐え、ついに旧領を回復して小藩ながらも幕末まで続く大名家の礎を築いた、劇的な軌跡を描いている。
従来、遠山友政は「金山城主・森長可との争いに敗れ、徳川家康に庇護された地方豪族」という側面で語られることが多かった。しかし、その生涯を多角的に検証すると、単なる幸運な武将という評価では捉えきれない、激動の時代を生き抜くための卓越した戦略的判断力と、逆境に屈しない強靭な精神力を備えた統治者としての姿が浮かび上がってくる。本報告書は、この新たな視座に立ち、遠山友政という一人の武将の生涯を徹底的に解明することを目的とする。
その分析にあたっては、岐阜県中津川市に現存する苗木遠山史料館が所蔵する貴重な資料群、特に友政自身の記録である『遠山友政公記』の記述や、彼に宛てられた書状、墓碑銘といった一次史料を基盤とし、彼の出自から家督相続の複雑な背景、流浪の日々、関ヶ原合戦における戦略的価値、そして初代藩主としての統治に至るまで、その全貌を立体的に再構築するものである 1 。
遠山友政の生涯を理解するためには、まず彼が生まれ育った美濃国東部(東濃)の地政学的な特性と、遠山一族が置かれた複雑な立場を把握する必要がある。
美濃源氏土岐氏の流れを汲むとされる遠山氏は、岩村、苗木、明知などを拠点とする七つの有力な分家が割拠し、「遠山七頭(しちとう)」と総称されていた 4 。彼らは東濃地域に深く根を張る独立した領主であったが、その領地は尾張の織田氏と甲斐の武田氏という二大勢力の国境に位置していた。このため、遠山一族は常に両大国の勢力争いの最前線に立たされ、時には一族内で分裂し、時には外部勢力に恭順するという、極めて不安定な状況下で存続を図らねばならなかった 4 。
遠山友政は、弘治2年(1556年)、この遠山七頭の一角である飯羽間(いいばま)遠山氏の城(現在の岐阜県恵那市)で生を受けた 7 。彼は苗木遠山氏の直系ではなく、父は遠山友忠、祖父は遠山友勝という飯羽間遠山氏の血筋であった 7 。彼の運命が苗木城と結びつくのは、苗木遠山氏の当主であった遠山直廉が男子のないまま死去したことに端を発する。この時、尾張を統一し美濃攻略を進めていた織田信長が介入し、その命令によって友政の祖父・友勝が苗木城主として入嗣。友政も父・友忠と共に苗木城へ移り、苗木遠山氏の嫡流としての地位を得ることになったのである 7 。
さらに注目すべきは、友政の母が織田信長の姪であったという事実である 7 。この織田家との血縁関係は、彼の生涯を通じてその政治的立場を規定する極めて重要な要素となった。信長の視点から見れば、対武田氏の最前線である苗木城に、自らの血縁者を送り込むことは、この戦略的要衝をより確実に支配下に置くための深謀遠慮であった。友政の家督相続は、単なる一族内の事情に留まらず、信長の東濃支配戦略という、より大きな枠組みの中で決定づけられたものであった。彼の人生は、生まれながらにして大国の戦略に深く組み込まれていたのである。
友政が青年期を迎えた頃、東濃の情勢は緊迫の度を増していた。天正2年(1574年)、甲斐の武田勝頼が大規模な軍勢を率いて東濃へ侵攻する。この未曾有の国難に際し、遠山一族は悲劇的な分裂に見舞われた。友政の長兄で、父祖の地である飯羽間城を守っていた遠山友信は、武田方の圧力に屈して内応。一方で、次兄の遠山友重は明照城(阿寺城)で武田軍と戦い、城の落城と共に討死した 7 。
兄二人が、一人は裏切り、一人は戦死という形で相次いで歴史の舞台から姿を消したことにより、三男であった友政が、否応なく苗木遠山氏の家督を継承することとなった 7 。大勢力の間で翻弄される中小領主の過酷な現実を象徴するこの出来事は、若き友政に計り知れない重圧を与えたことであろう。彼は、一族の存亡をその双肩に担い、戦国乱世の荒波へと漕ぎ出していくことになったのである。
織田信長の庇護下で辛うじて保たれていた東濃の平穏は、突如として終焉を迎える。友政の人生は、ここから最も過酷な試練の時代へと突入する。
天正10年(1582年)6月、京都で起こった本能寺の変は、友政の運命を根底から揺るがした 7 。絶対的な後ろ盾であった織田信長が横死したことで、東濃地域には巨大な権力の空白が生じた。この機に乗じて天下統一への道を駆け上がったのが、羽柴秀吉である。秀吉は、信長の旧領地を掌握するため、麾下の猛将として知られた森長可を美濃金山城に配置し、東濃の平定を命じた 4 。
秀吉は友政に対し、森長可の指揮下に入るよう、すなわち随身(従属)することを厳命した 7 。しかし、友政は父・友忠と共に、この命令を断固として拒絶する 7 。この決断の背景には、織田家旧臣としての矜持、森氏という新興勢力への反発、そして何よりも、信長の同盟者であり、尾張・三河に強固な地盤を築いていた徳川家康への期待があったと推察される。この一つの決断が、彼を故郷から追放し、長い流浪の旅へと向かわせる直接の原因となった。
秀吉の命令を拒絶した代償は大きかった。天正11年(1583年)5月、森長可は軍勢を率いて苗木城へ侵攻する。友政父子は天険の要害に籠もり奮戦するも、周辺の諸将が次々と秀吉方になびく中で孤立し、衆寡敵せず、ついに退城を決意した 11 。同年5月20日の夜、友政は父や少数の家臣と共に夜陰に乗じて城を脱出し、木曽路の妻籠(現在の長野県木曽郡)方面へと落ち延びていった 14 。時に友政、27歳であった。
故郷を失った友政父子が頼ったのは、徳川家康であった。彼らは遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)に赴き、家康の庇護下に入った 14 。家康は彼らを受け入れ、家臣である菅沼氏や榊原康政の配下として遇した 7 。しかし、流浪の生活は過酷であり、父・友忠は旧領回復の夢を果たすことなく、この地で病没した 11 。
父の遺志を継いだ友政は、その後も家康のもとを離れることはなかった。天正18年(1590年)、家康が秀吉の命により関東へ移封されると、友政もこれに随行し、上野国館林(現在の群馬県館林市)に移り住んだ 7 。故郷の苗木城を失ってから実に18年。この長きにわたる雌伏の期間、彼は決して旧領回復の望みを捨てなかった。その不屈の精神は、後に苗木城址に建てられた石碑に刻まれた「枕戈嘗膽 百敗不屈(ほこにまくらしきもをなめ ひゃっぱいくっせず)」、すなわち「武器を枕にし、苦い肝を嘗めるような苦労を重ね、百度敗れても屈しない」という言葉に、見事に象徴されている 11 。
この18年間の流浪生活は、友政にとって単なる苦難の歳月ではなかった。それは、彼のアイデンティティを再構築する重要な期間であった。当初、「織田信長に連なる美濃の国人領主」であった彼は、父の死を乗り越え、家康の家臣団の中で過ごすことにより、その運命を家康と完全に一体化させていった。関東移封への随行という行動は、彼がもはや客将ではなく、家康による天下泰平の実現を信じ、その覇業に貢献する一人の忠実な家臣へと変貌を遂げたことを示している。この強固な主従関係と精神的変化こそが、来るべき天下分け目の決戦において、彼が迷いのない行動を取るための原動力となったのである。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下分け目の関ヶ原合戦へと発展する。この国家的な動乱は、18年間雌伏を続けてきた遠山友政にとって、宿願を達成するための千載一遇の好機となった。
関ヶ原の決戦に際し、家康は二方面作戦を展開した。自身は主力軍を率いて東海道を西進し、嫡男・徳川秀忠の軍勢には中山道を進ませた 16 。この秀忠軍の進路にあたる東濃地域は、西軍方の諸将が支配する城が点在しており、その安全確保は東軍にとって死活問題であった 1 。岩村城には田丸氏、そして友政の故城である苗木城には河尻氏が西軍として拠点を構えていた。
ここで家康は、極めて巧みな戦略を発動する。武力による正面からの制圧ではなく、友政のようにかつて豊臣方に領地を追われた旧領主たちに対し、「戦功を挙げれば旧領を安堵する」という約束を取り付け、彼らの復讐心と郷土愛を味方につけたのである 1 。友政は、この家康の東濃戦略における「キーストーン(要石)」として、まさに白羽の矢を立てられた存在であった。家康は彼の帰還を全面的に支援するため、鉄砲30丁と弾薬、そして黄金10枚といった軍資金を授けている 17 。
家康の命を受けた友政は、慶長5年(1600年)8月、行動を開始する。木曽の有力者である山村良勝や千村良重らと共に木曽路から故郷へ進軍すると、道中で旧恩顧の家臣や在地の人々、さらには苗木周辺の農民数百人を説得して味方に引き入れ、瞬く間に勢力を拡大した 17 。
友政の帰還とその勢いは、苗木城を守る西軍方を震撼させた。城代であった関盛祥らは、友政軍の勢いに戦意を喪失し、大きな戦闘を経ることなく城を明け渡して退去した 17 。これにより友政は、追放から18年の歳月を経て、ついに故郷の城をその手に取り戻したのである。この電光石火の奪還劇は、東濃における東軍の優位を決定づけ、秀忠軍の中山道進軍を側面から支援する上で、計り知れない価値を持つものであった。
この東濃における友政の戦い方は、正規軍同士の会戦とは一線を画すものであった。彼は家康から大軍を預かったわけではない。その代わり、地域の地理と人的ネットワークを熟知しているという最大の強みを活かし、旧家臣や農民を組織化して敵の拠点を孤立させ、心理的に揺さぶりをかけて降伏に追い込むという、いわば「郷土ゲリラ戦」の司令官として卓越した能力を発揮した。これは、家康が彼の「在地性」を高く評価し、その能力を最大限に引き出す戦略を描いていたことの証左に他ならない。最小限の損害で戦略目標を達成したこの勝利は、単なる武功ではなく、地域の特性を知り尽くした者のみが成し得る、高度な戦略的勝利であった。
苗木城を奪還した友政の次なる目標は、東濃における西軍最大の拠点、岩村城の攻略であった。彼は諸将を率いて岩村城を包囲し、圧力を加えた 17 。9月15日の関ヶ原の本戦で東軍が勝利したという報が伝わると、城内の士気は大きく低下した。
この好機を逃さず、友政は家臣の纐纈藤左衛門(こうけつ とうざえもん)を交渉役として城内へ派遣した 17 。藤左衛門は、城主・田丸主水(たまる もんど)と対面すると、堂々とした態度で開城を促した。田丸主水は降伏を受け入れ、夜陰に紛れて城を退去。友政は、敗将の面目を保とうとする田丸主水に黄金を贈り、その退去を助けたという 17 。岩村城の無血開城により、東濃地方は完全に東軍の支配下に入り、友政は与えられた任務を見事に完遂した。
東濃を平定した後、友政は中山道を進軍してくる徳川秀忠の軍を歓迎した。その際、彼は勝利を祈願する縁起物として、栗を干して殻と渋皮を剥いだ「勝栗(かちぐり)」を秀忠に献上した 18 。「勝ち」に通じるこの贈り物は、友政の忠誠心と戦勝への貢献を象徴するものであった。
秀忠はこの心のこもった贈り物を大いに喜び、友政に対して丁重な礼状を送った。この「徳川秀忠黒印状」と呼ばれる書状は、現在も苗木遠山史料館に大切に所蔵されており、友政と徳川家との間に結ばれた強固な主従の絆を物語る、第一級の歴史資料となっている 18 。
関ヶ原合戦における多大な功績により、遠山友政は18年越しの宿願を達成し、新たな時代の統治者としての一歩を踏み出す。
戦後、徳川家康は友政の功績を高く評価し、美濃国恵那郡および加茂郡内において、1万521石5斗2升の所領を安堵した 21 。これにより、友政は城を持つことを許された「城持ち大名」として大名に復帰し、ここに美濃苗木藩が正式に立藩した 23 。流浪の身から一国一城の主へ。それは、彼の不屈の人生が報われた瞬間であった。
友政が築いた苗木藩の領地は、恵那郡と加茂郡の山間部に広がる村々から構成されていた。その経済的・地理的基盤を具体的に理解するため、以下に成立当初の主要な所領を示す。
郡名 |
主要な村名(一部) |
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恵那郡 |
日比野村、上地村、瀬戸村、坂下村、上野村、下野村、田瀬村、福岡村、高山村、蛭川村、中野方村、毛呂窪村、姫栗村 |
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加茂郡 |
飯地村、河合村、峯下立村、福地村、切井村、赤河村、犬地村、上田村、黒川村、神土村、越原村、久田島村など、30以上の村々 |
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(出典: 24 ) |
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大名となった友政は、武人としてだけでなく、優れた行政官としての手腕も発揮し、藩政の基盤固めに尽力した。
まず、慶長7年(1602年)、彼は「代官と庄屋勤務定書」を公布し、領内統治における役人の職務規定や年貢徴収のルールを明確にした 7 。これは、戦乱で疲弊した領内に秩序をもたらし、安定した統治を行うための第一歩であった。
次に、藩の経済基盤を強化するため、新田開発を強力に推進した。慶長10年(1605年)には「永不作田畑開発定書」を出し、開墾を奨励した結果、実に2,129石もの新たな石高を生み出すことに成功した 7 。表高1万石程度の小藩にとって、この増収は極めて大きな意味を持ち、その後の藩財政を支える重要な柱となった 28 。
また、友政は徳川家への奉公も怠らなかった。慶長15年(1610年)、家康が隠居城である駿府城を再建した際には、普請奉行の一人としてその任にあたり、領内の山から3千本以上の良質な材木を伐り出して献上した 7 。この大事業においては、家臣の棚橋八兵衛が目覚ましい働きを見せ、その功績により家老に抜擢されている 7 。これらの活動は、友政が徳川政権下で確固たる地位を築こうとしていたことを示している。
藩主として領国経営に邁進する一方、友政は武将としての最後の奉公も果たした。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、冬の陣で桑名城の城番を務め、翌年の夏の陣では松平忠明の軍に属して参陣し、徳川の天下を盤石にするための戦いに加わった 10 。
しかし、その栄光の裏で、友政にとって大きな失意となる出来事が起こる。関ヶ原の戦功により、家康の直轄領であった裏木曽三ヶ村(加子母・付知・川上)の代官職を兼務していたが、大坂の陣が終結した直後の元和元年(1615年)、この三ヶ村が尾張藩へと移管されることになり、友政は代官職を解任されてしまったのである 21 。この地域は良質な木材を産出する重要な収入源であり、その喪失は苗木藩の財政にとって大きな打撃であった。大坂の陣での功に対する報償を期待していたであろう友政にとって、これは予期せぬ仕打ちであり、その心境は察するに余りある 29 。
この出来事は、友政が築いた苗木藩の栄光と、その裏に潜む構造的な課題を浮き彫りにする。彼は新田開発などで藩の実質的な価値を高めるという創業者として見事な手腕を発揮した。しかし、幕府の普請役や軍役といった重い負担に加え、裏木曽の喪失に見られるように、小藩である苗木藩の運命は、常に幕府や尾張徳川家といった大権力者の都合に左右されるという脆弱性を抱えていた。友政の治世は、苗木藩の栄光の始まりであると同時に、その後の藩主たちが250年間にわたり苦しむことになる慢性的な財政難の歴史の序章でもあったのである 23 。
戦国の武将としての勇猛さや、藩主としての統治能力だけでなく、一人の人間としての遠山友政の姿は、彼の家族や信仰を通じて垣間見ることができる。
友政の私生活を支えたのは、正室の松夫人であった。彼女は美濃高山城主・平井頼母の次女で、天正8年(1580年)に友政に嫁いだ 7 。友政が苗木城を追われた苦難の時代も共にし、夫の死後も17年間生きながらえ、寛永13年(1636年)に80歳近い高齢でその生涯を閉じた 31 。彼女の晩年の姿を描いたとされる肖像画も現存しており、穏やかながらも芯の強さを感じさせる。
特筆すべきは、友政と松夫人の間に生まれた娘たちが、いずれも驚くべき長寿を全うしたことである 31 。
娘たちの嫁ぎ先は、幕府の旗本、近隣の有力豪族、そして文化人と、多岐にわたっている。これは、友政が武力による勢力拡大だけでなく、婚姻政策を通じて政治的・社会的なネットワークを巧みに構築しようとした、戦略家としての一面をうかがわせる。
以下に、友政を中心とした人間関係を理解するため、略式の家系図を示す。
関係 |
人物名 |
備考 |
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祖父 |
遠山友勝 |
飯羽間遠山氏より苗木遠山氏を継承 |
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父 |
遠山友忠 |
飯羽間城主、後に苗木城主 |
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母 |
(不明) |
織田信長の姪 |
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長兄 |
遠山友信 |
飯羽間城主、武田氏に内応 |
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次兄 |
遠山友重 |
明照城主、武田氏との戦いで討死 |
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本人 |
遠山友政 |
苗木藩初代藩主 |
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正室 |
松夫人 |
美濃高山城主・平井頼母の娘 |
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嫡男 |
遠山秀友 |
苗木藩第2代藩主 |
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長女 |
(不明) |
旗本・生駒利豊室 |
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次女 |
(不明) |
山村良安室、後に五十川了庵室 |
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三女 |
(不明) |
尾張熱田・加藤順正(図書助)室 |
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(出典: 7 ) |
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戦国時代から江戸初期という、平均寿命が短く、特に女性の記録が残りにくい時代において、友政の妻や娘たちが80歳、90歳という長寿を全うしたという事実は、極めて示唆に富んでいる。戦乱の世では、女性は人質となったり、一族の没落と共に過酷な運命を辿ったりすることが常であった。彼女たちが天寿を全うできたのは、友政が旧領を回復し、徳川の世で藩を安定させたことにより、その家族が「平和と安定」を享受できた何よりの証拠と言える。友政の生涯をかけた戦いと統治の成果は、石高や法制度といった目に見える形だけでなく、愛する家族の安寧と長寿という、人間的な形でも結実していたのである。
戦乱の世が終わり、徳川による泰平の時代が訪れると、友政は領内の安寧と一族の繁栄を願い、その信仰心を形にする。元和元年(1615年)、彼は苗木の地に菩提寺として雲林寺を開基した 7 。これは、戦国の武将から近世大名へと変貌を遂げた彼の、新たな時代の統治者としての精神的な支柱を求める心の現れであったのかもしれない。
その4年後、元和5年12月19日(西暦1620年1月23日)、遠山友政は居城である苗木城にて、64年の波乱に満ちた生涯を閉じた 7 。戒名は、自らが開基した寺の名を冠した「雲林寺殿心月宗伝居士」 7 。その遺骸は雲林寺の御霊屋(おたまや)に手厚く葬られた。
その後、百回忌にあたる享保3年(1718年)、5代藩主・友由の時代に御霊屋は石碑に建て替えられた 33 。この墓碑は、幾多の困難を乗り越え、苗木藩の礎を築いた初代藩主の功績と、その後の遠山家の歴史を、静かに今に伝えている。
遠山友政の生涯は、織田、武田、豊臣、徳川という大国の思惑に翻弄されながらも、強靭な意志と時流を読む戦略眼をもって宿願を達成し、一藩の祖となった「国境の武将」の典型であった。彼の行動は、旧領回復という個人的な執念と、天下統一という時代の趨勢が交差する点に、常に位置していた。信長の血縁者としてキャリアを始め、秀吉に追われ、そして家康のもとで復活を遂げるという経歴は、まさに戦国末期から江戸初期への時代の転換そのものを体現している。
彼が後世に遺した最大のものは、美濃苗木藩そのものである。友政が築いた統治の基盤と、徳川家への忠誠という基本路線は、その後継者たちに受け継がれた。苗木藩は、その後の250年間、慢性的な財政難に苦しみながらも、一度の転封(領地替え)もなく、遠山家による統治が明治維新まで続いた 2 。これは、小藩としては稀有な例であり、初代藩主である友政がいかに強固な礎を築いたかを物語っている。
そしてもう一つ、彼が遺したものは、その生き様が示す「不屈の精神」である。故郷を追われ、18年もの長きにわたり雌伏の日々を送りながらも、決して諦めることなく再起の機会を待ち続けた。その精神を凝縮した「枕戈嘗膽 百敗不屈」という言葉は、時代を超えて我々の胸を打つ 11 。遠山友政の生涯は、逆境に屈せず、信念を貫き通して目標を達成しようとする人間の力の普遍的な象徴として、現代に生きる我々にも多くの示唆を与えてくれる。彼の人生は、中央の視点からだけでは見えにくい、地方の視点から戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けを理解するための、極めて貴重なケーススタディと言えるだろう。