本報告書は、美濃国苗木藩(現在の岐阜県中津川市)の二代藩主、遠山秀友(とおやま ひでとも、1609年~1642年)の生涯と治世について、現存する史料を基に包括的かつ多角的に分析・考察するものである。秀友は、関ヶ原の戦功により大名へと返り咲いた父・遠山友政の跡を継ぎ、徳川幕府の支配体制が磐石となる「元和・寛永期」に藩主を務めた 1 。彼の治世は、戦国の遺風が次第に薄れ、武士が軍人から行政官へとその役割を大きく変えていく時代の転換点と正確に重なる。本報告書では、秀友を単に「徳川家臣」という一面的な枠組みで捉えるのではなく、泰平の世における小藩経営の困難と可能性に直面した一人の統治者として捉え直し、その実像に迫ることを目的とする。
本報告書は、三部構成を採る。第一部では、秀友個人の生涯を、誕生から家督相続、藩主としての統治、そして早世に至るまでを時系列に沿って詳述する。第二部では、彼が生きた寛永という時代の特質と、彼が統治した苗木藩の構造的特徴を分析し、その行動の歴史的背景を明らかにする。第三部では、現存する史料や彼を描いた肖像画を手がかりに、秀友の歴史的評価と人物像を再構築する。この多角的なアプローチにより、断片的に残された記録の背後にある、より深く、ニュアンスに富んだ秀友の実像を浮かび上がらせることを目指す。
秀友の生涯における主要な出来事を時系列で以下に整理する。これにより、彼の比較的短い治世の中に、幕府への奉公や領内での重要な出来事が凝縮されていたことが理解されるであろう。
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
典拠 |
1609年(慶長14年) |
1歳 |
11月6日、苗木藩初代藩主・遠山友政の長男として苗木城で誕生。 |
1 |
1614年(慶長19年) |
6歳 |
将軍・徳川秀忠に御目見えする。 |
1 |
1620年(元和6年) |
12歳 |
父・友政の死去に伴い、5月に家督を相続。苗木藩二代藩主となる。 |
1 |
1627年(寛永4年) |
19歳 |
領内の田瀬村と付知村の間で山論が発生し、これを裁定する。 |
4 |
1636年(寛永13年) |
28歳 |
幕府より大坂加番を命じられる。 |
1 |
1637年(寛永14年) |
29歳 |
江戸城本丸奥の間御普請御手伝を命じられる。 |
1 |
1639年(寛永16年) |
31歳 |
美濃郡代・岡田善政が、領内の福岡村から江戸城本丸用材を伐採。 |
1 |
1640年(寛永17年) |
32歳 |
再び大坂加番を命じられる。 |
1 |
1641年(寛永18年) |
33歳 |
4月2日、嫡男・友貞が誕生。 |
5 |
1642年(寛永19年) |
34歳 |
1月7日、苗木城にて死去。 |
1 |
遠山秀友は、慶長14年(1609年)11月6日、美濃苗木藩の藩祖である遠山友政の長男として、居城の苗木城で生を受けた 1 。父・友政は、戦国時代に森長可との争いに敗れて一度は苗木城を失ったものの、徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて東軍に与して戦功を挙げた人物である。特に、西軍方の河尻秀長が守る旧領・苗木城を攻略・奪還した功績により、家康から美濃国恵那郡および加茂郡内に一万五百石余の所領を安堵され、大名としての遠山家を再興した 2 。秀友は、まさに戦国の動乱を生き抜き、自らの武力で藩を創設した武将の嫡男として、新しい時代の幕開けと共に誕生した。
母は、戦国期に高山城主であった平井頼母(たのも)の娘、松夫人である 1 。記録によれば、松夫人の姉妹や彼女が生んだ娘たちは長寿に恵まれたとされ、秀友が34歳という若さで世を去った事実との対比が際立つ 7 。この婚姻関係は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての東美濃地域における、在地領主間の緊密なネットワークを反映している。
慶長19年(1614年)、秀友はわずか6歳で二代将軍・徳川秀忠に御目見えを果たしている 1 。これは、遠山家が徳川幕府の譜代大名として正式に認められ、その世嗣が次期当主として幕府から公に認知されるための、極めて重要な政治的儀礼であった。父・友政が大坂の陣で武功を挙げる直前のこの時期に行われた早期の御目見は、遠山家の徳川家に対する揺るぎない忠誠を再確認し、次世代にわたる主従関係を確固たるものにする意味合いを持っていた。
元和5年(1619年)12月、父・友政が64歳でその生涯を閉じると、翌元和6年(1620年)5月、秀友は12歳という若さで家督を相続し、苗木藩の二代藩主となった 1 。幼名を刑部(ぎょうぶ)と称し、元服後は従五位下・刑部少輔(ぎょうぶのしょう)に叙任されている 1 。
12歳での藩主就任は、必然的に藩の運営を家老などの重臣たちによる後見体制に委ねることを意味した。この時期の藩政の実権は、秀友個人よりも、父・友政が信頼を置いた宿老たちが合議によって掌握していたと考えるのが自然である。具体的な後見人の氏名は史料に明記されていないものの、これは小藩の記録が散逸しやすいことに起因するものであり、後見体制の存在自体は論理的に推察できる。この体制は、藩祖・友政が一代で築き上げた家臣団の結束力と行政能力が初めて試される機会となった。秀友の治世初期が大きな混乱なく推移したことは、藩の統治機構が、カリスマ的な藩祖個人のリーダーシップに依存する段階から、組織的な運営へと移行する過渡期を乗り越えつつあったことを示唆している。
遠山秀友の治世は、父・友政の時代と合わせて「土地開発に力を尽くし、家臣団の編成も進め、苗木領の基礎が確立した」時期として評価されている 3 。藩祖・友政は慶長10年(1605年)に「永不作田畑開発定書」を出し、開墾を奨励する政策を打ち出していた 10 。秀友はこの方針を継承し、藩の財政基盤である石高の増大に努めたと考えられる。秀友の治世における具体的な新田開発の石高を示す記録は見当たらないが、彼の跡を継いだ三代藩主・友貞の時代に4,286石にも及ぶ大規模な新田開発が成功していることから 2 、秀友の治世がそのための調査や準備を進める重要な期間となった可能性は高い。
寛永4年(1627年)、秀友が19歳の時、領内の田瀬村と付知村の間で山林の利用権を巡る争い、いわゆる「山論(やまろん)」が発生し、秀友がこれを裁定したという記録が残っている 4 。これは、彼の藩主としての具体的な統治行動を示す数少ない貴重な記録の一つである。
この山論の裁定は、単なる村同士の諍いの仲裁にとどまるものではない。近世初期の社会において、人口の増加と農業生産の拡大に伴い、田畑の肥料となる草(刈敷)や燃料となる薪炭を供給する山林原野(入会地)は、農民の生活と生産に不可欠な存在であった 11 。そのため、その境界や利用権(入会権)を巡る紛争は、村の存続に関わる重大問題として各地で頻発した 13 。領主である秀友がこの紛争に介入し、裁定を下したという事実は、彼が領民の生活基盤に深く関与し、領内の秩序を維持するための司法権を有効に行使していたことを示している。これは、戦国時代的な武力による支配から、法と行政に基づく近世的な領地支配へと、苗木藩の統治体制が着実に移行していた実態を具体的に物語る事例と言える。
寛永16年(1639年)、幕府の美濃郡代であった岡田善政(おかだよしまさ、通称は将監)が、苗木藩領の福岡村から江戸城本丸を造営するための用材として、一万本もの木材を伐採するという出来事があった 1 。これは幕府による直接的な資源収奪であり、藩の領地に対する支配権(領有権)が、幕府の権力の前では絶対的なものではなかったことを示す象徴的な事件である。一万石余の小藩の藩主として、秀友はこの幕府の要求を拒否する術を持たず、受け入れる以外の選択肢はなかった。この出来事は、確立期にあった幕藩体制における中央(幕府)と地方(藩)との間の非対称な力関係を如実に物語っている。
秀友は、寛永13年(1636年)と寛永17年(1640年)の二度にわたり、大坂加番を命じられている 1 。大坂加番は、大坂城代の指揮下に入り、西日本の要である大坂城の警備を一年交代で担当する重要な役職であった。この役務には、通常1万石から2万石クラスの譜代大名が任命されるのが通例であり 15 、苗木藩がこれを務めたことは、徳川家に対する忠誠の証と見なされた。
しかし、この奉公は藩にとって極めて大きな経済的負担を伴うものであった。わずか4年という短い期間に二度も大坂加番を命じられたことは、苗木藩のような小藩の財政を著しく圧迫したと推察される。江戸への参勤交代の費用に加え、大坂へ藩士を派遣するための旅費や武具の準備、一年間にわたる滞在費などは、もともと脆弱であった藩財政に深刻な打撃を与えたはずである 16 。苗木藩がその歴史を通じて慢性的な財政窮乏に苦しんだことはよく知られているが 2 、その構造的な問題の端緒は、秀友の治世における、こうした度重なる公役負担に求めることができるかもしれない。
大坂加番の任務の合間を縫うように、寛永14年(1637年)、秀友は「江戸城本丸奥の間御普請御手傳」を命じられている 1 。これは、幕府が全国の諸大名に課した大規模な土木工事、いわゆる「天下普請」あるいは「御手伝普請」の一環である 20 。
大名は、保有する領地の石高に応じて普請の費用や動員する人足を負担する義務があり、これは戦乱のない泰平の世における軍役に代わる重要な奉公と位置づけられていた 23 。特に三代将軍・家光の時代に行われた寛永期の江戸城普請は大規模なものであり 25 、一万石の小藩である苗木藩にとって、この負担は前後の大坂加番と合わせて財政を極度に逼迫させる要因となったことは想像に難くない 20 。
秀友は生涯に二人の妻を迎えている。正室は下野国皆川藩主であった皆川隆庸(みながわたかつね)の娘であった。そして継室として、公家の滋野井季吉(しげのい すえよし)の娘を迎えている 1 。
継室として公家の娘を迎えたことは、秀友の生涯において特筆すべき点である。滋野井家は、藤原北家閑院流三条家の支流にあたり、代々朝廷に仕えた羽林家(うりんけ)の家格を持つ名門公家であった 28 。秀友の治世下である寛永12年(1635年)に発布された武家諸法度(寛永令)では、大名同士が私的に婚姻を結ぶことは幕府の許可制とされ、厳しく統制されていた 29 。公家との婚姻も同様に幕府の厳格な管理下にあり、この縁組は幕府の公認を得た上での公式なものであったと考えられる。
戦国時代が終わり、武力による勢力拡大がもはや望めない泰平の世において、一万石余の小藩である苗木遠山家が京都の名門公家と縁組を結んだことには、複数の戦略的意図が読み取れる。第一に、藩の権威と格式を高めるという文化的効果である。武力による序列が固定化された武家社会において、古くからの伝統を持つ公家との血縁は、藩の文化的な威信を向上させ、他の同規模の大名との差別化を図る上で有効な手段であった。第二に、幕府との直接的な関係以外の、情報や人脈のパイプを京都の朝廷に持つという政治的な意味合いである。この関係は一過性のものではなく、秀友の娘が後に継室の甥にあたる滋野井教広(のりひろ)に嫁いでいることからも 1 、遠山家が滋野井家との関係をさらに強化し、長期的な関係構築を目指していたことがうかがえる。これは、武力から権威へと価値の基準が移行しつつあった江戸初期の社会状況を巧みに利用した、小藩の生存戦略の一環と解釈することができる。
この公家出身の継室との間には、寛永18年(1641年)4月2日に嫡男の友貞(ともさだ)が誕生した 5 。これにより藩の将来は安泰かと思われた。しかし、そのわずか9ヶ月後の寛永19年(1642年)1月7日、秀友は苗木城にて34歳という若さでこの世を去ってしまう 1 。この突然の死により、嫡男・友貞はわずか2歳で家督を継ぐこととなり、苗木藩は父・友政の死後に続き、再び幼君を戴くという困難な状況に直面することになった 5 。
遠山秀友の治世は、三代将軍・徳川家光のもとで幕藩体制がその支配構造を完成させていく「寛永期」とほぼ完全に重なる。この時代、幕府は大名に対する統制を一段と強化した。寛永12年(1635年)には武家諸法度が改訂・発布され(寛永令)、大名の江戸参勤と在国を一年交代とする参勤交代の制度化(毎年4月参勤)、城郭の無断での新築・修築の禁止、大名間の無許可での婚姻の禁止などが改めて明文化された 29 。秀友が経験した二度の大坂加番や江戸城の普請手伝は、まさにこの強化された大名統制の具体的な現れであり、諸大名は幕府への奉公を通じてその支配体制に組み込まれていった。
秀友が亡くなる直前の寛永17年(1640年)から寛永20年(1643年)にかけ、日本列島は「寛永の大飢饉」と呼ばれる深刻な食糧危機に見舞われた 32 。これは全国的な異常気象(長雨、洪水、旱魃、冷害)が原因で発生した凶作によるもので、江戸時代初期においては最大の飢饉であった。
苗木藩が位置する東海地方もその影響を免れることはできず、隣国の三河(現在の愛知県東部)では米価高騰を背景とした騒動が発生するなど、社会不安が広がっていた 33 。苗木藩領内の具体的な被害状況を示す直接的な史料は見当たらないものの、領地の多くが山間地である小藩にとって、全国的な凶作による食糧不足とそれに伴う領民の困窮は、極めて深刻な問題であった可能性が高い。
遠山秀友は寛永19年(1642年)1月7日、34歳の若さで没した 1 。その死因は記録されていないが、当時の時代状況と彼の経歴から、その背景をある程度推察することが可能である。
彼の早すぎる死は、単一の原因によるものではなく、複数の要因が複合的に作用した結果である可能性が高い。第一に、時期的に寛永の大飢饉の最中であったという点である。大規模な飢饉は、単なる食糧不足だけでなく、人々の栄養状態の悪化を通じて、疫病の大流行を引き起こすのが常であった 34 。当時、「流行り病」として恐れられた天然痘(疱瘡)などが猛威を振るっており、秀友がこれに罹患した可能性は十分に考えられる 36 。
第二に、彼の治世後半がいかに多忙であったかという点である。寛永13年(1636年)の大坂加番、翌14年の江戸城普請手伝、そして17年の二度目の大坂加番と、心身ともに大きな負担を強いる公務が立て続けに命じられていた 1 。これらの重圧による過労が彼の免疫力を著しく低下させ、当時流行していた疫病に対する抵抗力を奪ったというシナリオは、極めて蓋然性が高い。したがって、彼の死は「時代の災厄(飢饉と疫病)」と「体制からの要求(過重な公務)」という、一個人の力では抗いようのない二つの大きな力が交差した点に位置づけられる。これは、泰平の世を生きる大名が、戦場での死とは異なる形で常に命の危険に晒されていたことを示す、悲劇的な事例と言えるだろう。
苗木藩は、表高が一万石余という、城を持つ大名としては最小クラスの小藩であった 2 。その領地は美濃国の山間部に位置しており、木曽川と飛騨川流域に点在していた 38 。これは、米の収穫量を基準とする近世の経済体制において、藩の財政基盤が本質的に脆弱であったことを意味する。
この脆弱な財政基盤の上に、幕府から課される参勤交代、大坂加番、そして御手伝普請といった公役の経済的負担が重くのしかかった 2 。この「小さな収入」と「大きな支出」という構造的な財政難は、苗木藩の歴史を通じて一貫した課題であり、後の藩主たちは厳しい倹約令の発布や、実質的な借金である藩札の乱発に頼らざるを得ない状況に追い込まれていく 2 。秀友の時代は、まさにこの負の連鎖が始まる時期にあたっていたのである。
苗木藩の居城であった苗木城は、木曽川の断崖にそびえる高森山の地形と、そこに点在する自然の巨岩を巧みに石垣の一部として取り込んで築かれた、全国的にも極めて珍しい構造を持つ山城であった 42 。
父・友政が関ヶ原の戦いの後に奪還し、居城として定めたこの城は、秀友の治世下である17世紀中頃(寛永年間)には、石垣などが改修・整備され、近世城郭としての姿が完成したと考えられている 45 。秀友の時代、城はもはや戦闘のための拠点ではなく、藩の権威と統治の中心を象徴する建造物へとその役割を変えていた。しかし、その威容を維持するための費用もまた、小藩の財政には決して軽くない重荷であったと推察される。
苗木遠山家の菩提寺は、臨済宗妙心寺派の天龍山雲林寺(うんりんじ)であった 47 。この寺は、藩祖である父・友政が開基となり、元和元年(1615年)に夬雲玄孚(かいうんげんぷ)和尚を開山として創建された 47 。
秀友の治世は、雲林寺の三世住職であった一秀玄廣(いっしゅうげんこう)の活動期と重なっている。一秀は、苗木藩領内に存在した他宗派の寺院を臨済宗妙心寺派に改宗させて雲林寺の末寺とするなど、教団の組織化に辣腕を振るった人物として知られる 47 。藩主であった秀友は、この一秀の活動を後援し、雲林寺を藩の宗教的な中心として確立させることで、領民の思想的な統一を図った可能性がある。秀友の戒名は「大寶寺殿智嶽宗勝居士(だいほうじでんちがくそうしょうこじ)」であり、その亡骸は歴代藩主とともにこの雲林寺に葬られた 1 。
現在、中津川市苗木遠山史料館には、遠山秀友の肖像画が所蔵・展示されている 1 。この肖像画において、秀友は「裃(かみしも)」を着用した姿で描かれている。歴代藩主の肖像画が揃って現存する例は全国的にも稀であり 49 、それぞれの服装を比較検討することは、各藩主の自己認識や時代の特性を理解する上で極めて重要である。
父である初代・友政が戦国の武将らしく晩年の姿として僧形で描かれ、三代・友貞以降の多くの藩主が武家の公的な正装である衣冠束帯(いかんそくたい)で描かれているのに対し、秀友が武士の日常的な礼装である裃姿で描かれている点には、明確な意図が込められていると考えられる 49 。裃は、江戸時代を通じて武士の公服、いわば「制服」として定着し、登城時などの実務的な場面で着用された服装であった 50 。この姿は、戦国の世を武力で切り開いた英雄でもなく、朝廷の伝統的な権威をまとった公家風の貴人でもない、「徳川幕府に仕える実務的な武家官僚」としてのアイデンティティを象徴している。これは、戦国から泰平へと社会が大きく移行する過渡期に生きた秀友の歴史的な立ち位置を、視覚的に最も的確に表現した姿と言えよう。この服装の選択は、秀友自身、あるいは彼の死後にその功績を追悼した家臣たちが、彼の時代における藩主の役割をどのように認識していたかを示す、重要な歴史的証言なのである。
以上の考察から、遠山秀友は、武功によって藩を創設した父・友政と、完全に泰平の世を生き、藩政が直面する様々な内政課題に取り組むことになる三代・友貞以降の世代とを繋ぐ、きわめて重要な「過渡期の藩主」として位置づけることができる。彼の治世は、藩の運営原理が戦国時代の武力闘争の論理から、泰平の世の行政と奉公の論理へと転換していく過程そのものであった。彼は、武力ではなく、領内の統治能力と幕府への忠実な奉公によって藩の存続を図るという、新しい時代の大名の姿を体現した、苗木藩における最初の藩主であった。
本報告書の作成にあたっては、『恵那郡史』や『福岡町史』といった、後に編纂された二次史料 1 、および中津川市苗木遠山史料館が調査・公開している資料に大きく依存している 54 。苗木藩の藩政を記録した一次史料群である『遠山家文書』は、岐阜県歴史資料館などに所蔵されていることが確認されているが 56 、その全容解明と翻刻作業は現在も続けられている段階にある 58 。
特に、秀友が藩主であった寛永年間の史料は、江戸時代初期の他の多くの史料と同様、火災や散逸によって失われている可能性が高い 59 。そのため、彼の藩政における具体的な政策の立案過程や、個人的な日記など、その人物としての内面に深く迫るための史料は極めて乏しく、研究には大きな制約が伴うのが現状である。
遠山秀友のような、いわゆる「小藩」の藩主に関する研究は、歴史の表舞台に立つことの多かった西南雄藩中心の歴史観では見過ごされがちな、幕藩体制の広大な基層を支えた大多数の大名の実態を明らかにする上で、非常に重要な意義を持つ 62 。彼らが直面した慢性的な財政難、幕府からの過重な公役負担、そして中央権力との間に常に存在する緊張関係といった課題は、幕藩体制という巨大なシステムが内包していた構造的な矛盾や実態を、より鮮明に映し出す鏡となる。
断片的に残された記録を丹念に拾い上げ、時代の大きな文脈の中に位置づけ、論理的にその行動を再構築する試みは、秀友のような歴史の陰に埋もれがちな人物の生涯に光を当てるだけでなく、近世日本の社会経済史や政治史に、より立体的で深みのある理解をもたらす可能性を秘めている。
遠山秀友の34年という短い生涯は、決して華々しい武功や劇的な事件に彩られたものではなかった。しかし彼は、戦乱の時代を生き抜いた父の遺産を堅実に受け継ぎ、徳川幕府による支配体制が確立していく激動の転換期において、小藩の藩主としての重責を全うした。度重なる幕府への奉公は、疑いなく藩財政を圧迫する大きな要因となったが、それは同時に徳川家への忠誠を示し、苗木遠山家が幕末まで存続するための礎を築く、いわば未来への投資でもあった。領内の紛争を法によって裁定し、藩政の基礎を固め、公家との縁組によって藩の権威を高め、そして次代へと血脈を繋いだ彼の治世は、まさに泰平の世の「礎を刻む」地道な営みであったと言える。
彼の短い生涯は、近世初期の小藩藩主が置かれた困難な状況と、その中で藩の存続と領民の安寧のために払われた静かな、しかし弛まぬ努力を、現代の我々に雄弁に物語っているのである。